雪が降っていた…
いつの間に降り出したのだろう?
僕は顔を上げて、ゆらゆらと舞うように降ってくる雪を見上げた。
吐き出す息が白い。
視線を戻すと、そこには彼女が立っていた。
視界を覆うように粒の大きな雪が降る。
こんな風に雪が降るなんて…
彼はじっと目の前に立っている彼女を見つめる。
ほんの数歩先に立っている彼女。
でも、なぜかその距離は無限に遠い気がした。
「本当…なの?」
口をついて出る言葉。
信じられなかった。
彼女が…
彼女はやわらかな笑顔を浮かべて頷いた。
全て、納得して、受け入れたその笑み。
「ごめんね…」
僕の胸は痛くなった。
どうして?
どうして、そんなあっさりと受け入れられるの?
諦められるの?
降りしきる雪の中、二人は見つめあった。
彼女は視線をはずして、はにかむ。
「そんなにじっと見つめないで。照れちゃうよ。」
そして、小さく手を振る。
「だから、もう、私のことは…」
「忘れられないよ!」
僕はそう叫んでいた。
「忘れられるわけないよ…どうして、君のことを忘れられる?」
「いなくなる人に捕らわれてちゃ駄目だよ…」
彼女の方に一歩踏み出す。
しかし、彼女との距離は遠いままだった。
「そんなことない!君はまだここにいる!」
「でも、明日もいるとは限らないよ…」
彼女は諭すようにやさしい口調で告げる。
「でも…それでも…」
あなたは何を願うの?
「僕は…」
あなたは何を願うの?
「僕は…」
あなたは何を願うの?
これも僕が作り出した想像の世界なのか…
それとも…
Time Capsule
TIME/2000
第37話
「待ってるから」
レイは彼が眠っているベッドの脇に椅子を置いて座っていた。
その視線は先ほどから彼に固定されたまま動かない。
ベッドに横たわっている彼、碇シンジは数日前からずっと意識を失ったままだった。
倒れたまま、意識を取り戻さないシンジにレイは救急車を呼んで対処した。
医師による診断の結果はどこにも体の以上は認められないとのことだったが、
何故か彼は原因不明の昏睡状態に陥っていた。
彼女はゲンドウ、ユイに連絡を取り、さらに海外にいるアスカ、マナに連絡を取った。
シンジが倒れてからすでに3日が経過したが、さほど状況に変化は見られなかった。
シンジは昏睡から目覚めず、脳の活動レベルはごくわずかずつであるが低下してきていた。
何も知らない他人が見れば、シンジは安らかに眠っているように見える。
しかし、付きっきりで看護しているレイはシンジが時折うめき声をもらすのを聞いていた。
まるで悪夢を見ていよう…
レイはシンジの寝顔を見つめながらそう思った。
そして、それが何を意味するのかも彼女は知っていた。
「やっぱり、思い出したのよね…アヤちゃんのこと…」
原因不明の昏睡。
医師はそう判断したが、レイ達には原因が予想できていた。
シンジがずっと記憶の奥底に封印していたある女の子の記憶。
その記憶が何らかの要因でよみがえったのではないか。
そして、それを知ったため彼の自我が崩壊したのではないか。
もしかして、シンちゃんはこのまま眠ったまま…
信じたくはないのだが、ついそんな考えがレイの脳裏に浮かぶ。
その当時は記憶を全て封印することでシンジは自分の心が壊れるのを防いだが、
再び同じようなことは起きないだろうというのが、その当時の担当医師の言だった。
脳の自己防衛にも限度があるというのだ。
もし、シンジが過去を思い出してしまったとして、その結果として予想される状態は両極端だった。
あまりにリスクが大きいとして、当時、大人達はシンジの記憶を封じ込めたままにすることにしたのだが、
しかし、今になってみると、その判断は結局無意味だったことになる。
レイは小さくため息をついた。
なぜなら、シンちゃんは思い出してしまって、こうして意識不明になってしまったから。
別に大人達を責めるつもりはない。
いまさら済んでしまったことを責めるつもりはない。
必要なのは、今、昏睡状態になっているシンジをどうやって目覚めさせるかだ。
「シンちゃんは戻ってくる。」
自分に言い聞かせるようにレイはそう小さく呟いた。
実際、シンジを目覚めさせるために、レイは一つだけ有効と思われる手段を実行していた。
マナはベッドに座って、うつむいていた。
その背後にはベランダに通じる窓があり、その向こうには真っ青な空と、海が広がっているのが見える。
その窓は開け放たれていて、そこから部屋に入り込む風が、ゆらゆらと薄いカーテンを揺らす。
彼女を取り囲んでいる状況は彼女を憂鬱させるものではないはずだった。
しかし、彼女は周りのものが目に入らないかのように、物憂げにため息をついて立ちあがる。
ゆっくりと、部屋を歩いて、ベランダに出る。
ベランダに出たとたん、さまざまな音が彼女の耳に入った。
波が打ち寄せる音、風で木々がざわめく音、人ごみの喧騒、自動車が通りすぎる音、遠くで汽笛を鳴らす貨物船。
マナは大きく息を吸って、手すりにもたれかかる。
彼女の心は先ほど知らされたことで埋め尽くされていた。
シンジが意識不明の昏睡状態に陥っている。
レイちゃんは、たぶん記憶が戻ったのだろうと言った。
私が待ち望んでいた、でも一方で恐れていたことが起こった。
私はシンジに姉さんのことを思い出して欲しかった。
だって、そうじゃないと姉さんが可哀想だから。
でも、そのことでシンジを失いたくはなかった。
もしかすると心が壊れるかもしれない。
その心配はあった。
しかし、シンジだったら、それを乗り越えてくれる。
そう信じていた。
…
…
…
でも、実際、その状況になってみると、本当に私の行動が正しかったのか自信がなくなってしまう。
このようにシンジと遠く離れてしまった今となっては、より強くそう感じてしまう。
私と再会しなければ、シンジはこんな辛い思いをしなくても良かったのだから。
もちろん、何かの加減で記憶が戻ってしまうことだってある。
でも、それでも、私に会うと会わないのとでは違ったのではないか?
結局は、想像の範囲でしか考えるしかないのだが、それでもやはりマナの心は沈んだ。
…
…
マナはため息をついて首を振る。
彼女の栗色の髪がゆらゆらと揺れた。
でも…
それでも、私はシンジに思い出して欲しかった。
姉さんのことを。
シンジのために命を投げ出した、姉さんのことを。
そうじゃないと、姉さんの存在意義は何だったのかわからなくなる。
私はそう思ったから。
シンジの心の中にいる姉さんが可哀想だから。
時折でも思い出して欲しい。
それが、姉さんが生きていた証になるのだから。
…
…
…
でも、結局は…
その思いも私の自分勝手な思いなのかもしれない。
姉さんのことはただの自己満足かもしれない。
もう、姉さんはいない。
シンジに思い出してもらったところで、何が変わるわけでもない。
私自身が納得するだけ。
そして、シンジは自分の心が壊れてしまうようなショックを受けてしまう。
それなら、忘れてしまったのなら、忘れたままにした方が良かったのかもしれない。
私が、我慢すれば、良かったのかもしれない。
シンジのことを忘れてしまえば良かったのかもしれない。
…
…
…
…
…
あの約束も忘れて。
すべて、なかったことにして。
そうすれば…
こんなに心が痛まずに、済んだのに。
マナの瞳が涙で潤む。
…
マナはゆっくりときびすを返すと、部屋の中に入った。
小さな声でこう囁いて。
「ごめんね…」
でも…
それでも…
私は…
…
…
…
望んでしまった…
…
…
彼女の頬を伝った涙が風で空に舞いあがった。
涼しい風が頬をなでていく。
その風で影を与えてくれていた木の枝がざわざわと揺れる。
木漏れ日がまぶた明るく照らす。
小鳥達がさえずる声。
風でざわめく木々。
僕はその全てを感じながらそこにいた。
急に目の前が暗くなり、僕は薄目を開ける。
そこには僕の顔を覗きこんでいる彼女の顔が見えた。
寝てるの?
彼女はくすくす笑いながら、僕の顔を覗きこむ。
僕はにっこりと微笑んで彼女の髪に手を伸ばす。
何故か僕は彼女の髪をこうやってなでるのが好きだった。
彼女は瞳を閉じ、しばらくじっとしていた。
しかし、暖かい陽気のせいか、それとも彼女がそばにいることに安心したのか、また睡魔が襲ってきた。
僕は睡魔に負けて、いつのまにか彼女の髪をなでるのをやめてしまった。
寝ちゃった?
どこか遠くから彼女の声が聞こえてくる。
僕は答えようとしたが、もう身体は言うことを聞かなかった。
出口を探さないで良いの?
出口…
何のだろう…
…
…
もう、いいよ…
このまま…
…
…
寝かせて…
…
…
もう…じゃあ、ヒントね…全てはシンジちゃん次第だからね…
全ては…
…
…
僕…
…
…
…
次第…
…
…
か…
…
…
…
…
…
…
…
何故だろう…
…
まるで誰かに守られているような…
…
感じ…
…
…
ここなら、誰も僕の眠りを邪魔しない…
…
…
ゆっくりと…
…
…
…
…
「まさかこんなに早く帰ってくることになるなんてね。」
アスカは空港のロビーで立ち止まり、ため息をつく。
彼女にとって数ヶ月振りの日本だった。
シンジが倒れたと知ってアスカはすぐ帰国の手続きを取った。
ある程度の状況はレイから聞いた。
まさか、シンジとマナがそんな関係だったなんて。
アスカは驚いたが、なぜか心の片隅では納得をしていた。
なぜなら、あの夏アスカはシンジとマナの間に自分とシンジ以上の絆を見たような気がしていたからだ。
もちろん、その時感じたものではなくて、ドイツに帰ってから、彼女が自分なりに考えた中でふと沸いた思いではあったが。
アスカは前回の帰国でシンジに自分の思いを告げた。
それは以前から自分の胸の中にあった思い。
それを告げなければ、自分はどこにも行けないのではないか?
シンジに束縛されているのではないか?
彼女はそう考えた。
しかし、その思いを告げることで、なぜかシンジとの関係が以前のものとは変わってしまったことにアスカは気がついた。
シンジが変わったのか、自分が変わってしまったのか、それはわからない。
ただ、自分はひどく大切なものを失ってしまったように感じて、しかし、マナにはそれが残っていると感じられた。
ただの思い過ごしかもしれない。
いろいろ悩んだ挙句、アスカは一旦、ドイツに戻ることを選んだ。
自分が自分であるために、シンジがシンジであるために。
もう一度、自分を見つめなおすために。
あのまま残っていたら、自分が自分でなくなり、
シンジも彼自身が望んでいない方向に行ってしまうのではないかと感じたから。
もう一度冷静になって自分を見つめなおす必要があるのではないかと感じたから。
しかし、それは確実にアスカの思いの中にあった。
だから、彼女は自分を見つめなおすべきだと感じたのだったが…
きょろきょろとあたりを見まわして迎えに来ているはずの母親を探す。
たしか、ママが迎えに来てくれるはずなんだけど…
う〜ん。
いないな…
彼女の時計に視線を向ける。
もちろん、その時計はシンジから送られたものだった。
と、彼女の背後から彼女に声が降りかかった。
「アスカ!」
振り向いたアスカはそこに立っていた彼女を見て少し驚いたように微笑む。
「レイじゃない…」
駆け寄ってくるレイを見て、アスカは首をかしげる。
レイはそんなアスカの表情を見て、事情を話しだす。
「おば様がこちらに来れなくて、その代わりに私がアスカを迎えに来たの。」
「ママは?」
「どうしてもはずせない用事があるらしくて…」
アスカは不満そうに口を尖らせる。
「自分の娘の出迎え以上に大切なことってないでしょうに。」
くすりと笑みをもらして、レイは答えた。
「おば様が『あなたの出迎え以上に大切な用事なの。』と伝えておいてって。」
アスカは大きくため息をつく。
しかし、口元にはちらりと笑みが浮かんでいるようにも見える。
さすがに母親だけ会って、娘のことは何でもお見通しのようだった。
「分かったわ。今はそれどころじゃないしね…で、シンジの様子は?」
アスカ顔を嬉しそうに見ていたレイは表情を改めると首を左右に振って答える。
「全然、駄目。意識は戻ってないわ。」
「そう…」
「お医者様の話ではどこも悪いところはないの…でも、意識だけが戻らないから…」
レイはため息をついてうなだれる。
「私、傍にいたのに、何もできなくて…」
アスカはレイをぎゅっと抱きしめて、その耳元に囁く。
「大丈夫、シンジは大丈夫だよ。
こんなことでどうにかなるアイツじゃないから。」
そうアスカは囁いた。
その言葉にレイはこくこく頷く。
「じゃあ、シンジのところに行きましょ。
ねぼすけなアイツをとっとと起こさないと。」
にやりと口元に笑みを浮かべるアスカを見て、レイはちいさな笑みを浮かべ、頷いた。
病院に向かうタクシーの中でレイはアスカに一部始終を話し始めていた。
幸い、駅から病院まで30分程かかるため、レイは全てを話すことができた。
アスカにこのことを話すかどうかはレイ自身かなり迷ったが、
しかし、それを話さないことには、何故シンジがこのような状態に陥ったのか話すことができない。
そのため、レイは全てをアスカに話すことに決心した。
全ての始まりである、あの夏の出来事全て。
シンジとマナの約束。
そして、レイとマナの約束。
一年後のアヤとシンジの再会。
アヤの事故死とそれに続く出来事。
アスカは黙って、レイの話を聞いていた。
「これで、私の話は終わり…」
レイは小さくため息をついてそう呟く。
アスカは視線を窓の外に向ける。
病院まではあと少し時間があるようだった。
アスカは正直驚いていた。
自分が良く知っているはずのシンジにそんな秘密があった事に。
何か言わなければと思うのだが、何故か言葉が出てこない。
レイもそんなアスカの様子を汲み取ったのか黙ったまま、視線を流れていく景色に向けている。
二人にはそんな繋がりがあったんだ。
最初に二人を見たときに感じたものはそれだったのかな?
アスカは最初に二人を見たときのことを回想した。
シンジとマナのお互いへの接し方に何か普段とは違うものを感じた。
そう、二人の間に私が割り込めないような何かがあるのを感じた。
それが何なのかはわからなかったけど、今の話でなんとなく分かった気がする。
シンジ…
あなたはあの時、何を考えていたの?
アタシの告白を聞いて、どう思ったの?
あの時、どちらも選べないから。と言ったけど。
そんな絆があるあの子と同じようにアタシも思っていてくれてるの?
…
アタシとシンジの間にもあの子との間にあるような絆があるのかな?
一通り、医師から話を聞き、アスカはシンジの病室にやってきた。
彼女が思っていたよりも、状態は悪かった。
意識がない状態は変わらないが、脳波の活動レベルが少しずつに落ちてきていた。
レイにお願いして、今アスカは病室にシンジと二人きりだった。
ゆっくりとベッドに歩み寄るアスカ。
そして、シンジの顔を覗きこむ。
まるで、眠っているかのように安らかな呼吸を繰り返すシンジ。
最後に見たときよりも少しやつれているようにアスカには見えた。
しかし、その表情は何かに耐えているようにも見て取れる。
レイの話では時折うめき声も漏らすようだ。
アスカは小さくため息をついて、シンジの頬に触れる。
暖かい。
アスカの知っているシンジのぬくもり。
小さなため息を漏らし、シンジの顔をじっと見つめる。
私に会った時にはもうすでにシンジにはそんな秘密ができてたんだ。
中学の3年間アスカはそんなことをまったく知らずにシンジの傍にいた。
じっとシンジの顔を見ていたアスカだったが、意を決したように頷くと、シンジの体を揺さぶり始める。
今は、シンジの意識を取り戻すのが最優先だと彼女は思っていた。
「シンジ、起きなさい!」
それは二人が一緒に中学に通っていたときの毎朝の儀式。
アスカはいつもシンジのことを起こしていた。
もう、今のアタシにはこれぐらいしかできない。
あの子のこと、アタシのこと全てをはっきりさせるにも、シンジがこの世界にいないと駄目だから。
その思いを胸にアスカはシンジを揺さぶりつづけた。
「あなたの罪はあなたが償うのよ。」
僕は、もう駄目なのか。
どうしようもないのか。
このまま、ずっとここで、罰を受けて、償いを続けないといけないのか?
「そうよ。あなたにはもう行くべき場所がない。
それにこの世界を望んだのはあなたなのよ。
あなたの心が望んだものを否定することなどできない。」
そうか…
僕は、もうこの世界にとどまるしかないんだね。
じゃあ、僕は…
このまま…
ずっと…
突然どこからか遠い所から声が降ってきた。
方向感覚はないはずなのに、なぜか降ってくると彼は感じた。
「こら!シンジ!!起きなさ〜い!」
シンジは自分の耳を疑った。
今の声…
もしかして?
と、今度は彼の近くで声がする。
まるで、彼の耳元で囁いているような声。
どうしてあなたはここにいるの?
その声に体を震わすシンジ。
今までシンジを責めつづけたアヤの声のはずだが、でも、何かが違う。
何故か違う声だと感じた。
なんだろう?
声に秘められている意思?
そういったものが先ほどまでとは違う。
何故だ?
さらにその声は尋ねてきた。
どうしてあなたはここにいるの?
シンジは小さくため息をついて答える。
抜け出せないんだ…
どうしてそう思うの?
やはり、そうだ。
先ほどまでとは同じ声だが、違う。
先ほどまでの声ならば、こんなことは聞かない。
どこにも出口はない。
それに、彼女がずっと僕を見ているから。
シンジは意識して今まで、シンジを責めつづけたアヤを彼女と呼んだ。
だから、戻れないの?
それに、僕は、ここでずっと罰を受けつづけないといけないから…
なぜ?
僕のせいで、大切な人が死んだんだ。
だから、ここにいなければならないの?
そうさ…
どうして戻れる?
彼女は僕のせいで死んだんだ。
その罪を…
僕が犯してしまったその過ちを…
誰がいったい許せるの?
許せやしないよ。
誰も。
誰も僕を許すことなんてできない。
だから、僕はここでずっと自分が犯した罪に対する罰を受けなければならない。
しばしの沈黙。
シンジは小さく息をつくと、頭を抱え込む。
僕は戻るつもりはないよ。
ここで、僕の存在がなくなるまで、罰を受けつづけるんだ。
そう…
あなたは逃げてきたのね。
逃げてなんかいない!
シンジは言葉を荒げた。
しかし、その声は冷静に答える。
どうして?
あなたは逃げているのよ。
そうじゃない!これは僕に与えられるべき罰なんだ!
いいえ、これは罰じゃない。
あなたは逃げているだけ、あの世界に戻って、彼女のことで苦しめられる罰から逃げているだけ。
…
あなたは一番楽な方法を選んだだけ。
こうしていれば、自分の想像の範囲内で自分に償いをさせることができる。
自分のことを苦しめているつもりでも、あなたはすでにそのことを知っているから、心は本当に傷つかずに済む。
あの世界に戻って、彼女に会えば、あなたの想像もつかないような罰が与えられるかもしれない。
でも、この中にとどまっていれば、あなたはそんな心を砕いてしまうような罰を受けなくて済む。
だから、あなたはここにいる事を選んだ。
…
そうでしょ?
あなたは逃げてるだけ。
あの時と同じ。
一人では何もできずに震えているだけ。
自分を呪うことしかできない小さな子供。
自分の世界に閉じこもって、そのなかで自分を痛めつけて満足しているだけ。
それは、ただの自己満足よ。
シンジの鼓動が早くなる。
そんなことない!僕は、僕は…
…
…
…
何も聞こえなくなった。
…
…
…
シンジは小さく息をついた。
瞳を閉じる。
開けていてもあまり変わらないのだが、なぜかそうしたくなった。
逃げているだけ…
僕は…
そんなつもりは…
…
…
…ふと、先ほどまで遠くで響いていた声が間近に聞こえてきた。
その声は彼が良く知っている声。
なぜ、ここに?という疑問はなぜか彼の心の中には浮かばなかった。
「シンジ、逃げちゃ駄目だよ。ちゃんと、自分と向き合って。
逃げていてはいつまでたっても解決しないよ。」
逃げてる…か。
…
あれから時間がたっているのに…
僕はやはり、変わっていないのか?
あの時のように、逃げていただけなのか?
僕は…
自分に言い訳していただけなのか?
何も行動しないで、逃げていただけなのか?
しかし、シンジはそのことを素直に認めている部分が心の中にあることを悟った。
そうか…
やっぱり、そうなのか…
僕は…
「シンジ、あなたは一人じゃないのよ。あなたを待ってる人のために、逃げちゃ駄目。」
待ってる人。
そんな人がいるのだろうか?
こんな僕に。
待っていてくれる人など…
その瞬間、一人の女の子の顔が浮かぶ。
「待ってるから。」
にっこりと微笑んだその笑顔。
シンジはうめくようにつぶやく。
でも、君は…
「ずっと、待ってるから。」
だって、僕は…
「だから、約束だよ。」
…
…
…
シンジは小さく息をついた…
あぁ…
そうか…
結局はそういうことなのか…
僕がここにとどまっている理由…
それは…
僕が戻りたくないから…
戻れないのではなくて、戻りたくないから。
だって、戻れば、僕は決めなくてはならない。
マナに会いに行くのか、会いに行かないのかを。
今の僕の心はマナに会いたい気持ちと、会いたくない気持ち、その両方が責めぎあっている。
僕の心の大半はマナに会いに行くことを求めている。
彼女に会わなければ、何も進まない。
何をするにしてもマナに会って、自分の思いをすべて告げてからだ。
そう告げている。
それはもちろん理解しているつもりだ。
アヤちゃんのことを話すべきは、他の誰でもないマナに対してなのだから。
それ以外の誰に話しても意味はない。
それはただの自己満足に過ぎないからだ。
僕は、あの時、全てを忘れてなかったことにしてしまった。
そして、マナのことも忘れてしまった。
マナはそれを知ってどんなに傷ついただろう。
あの時、告げなければならなかった言葉をマナに今、告げるべきだ。
今を逃せば、もうそんな時はこない気がする。
僕とマナを繋いでいるものはそれだけのような気がしている。
でも、僕の心のほかの部分では彼女に会いに行っても何も変わらないのではないかと言っている。
何をしても、僕がアヤちゃんを死なせてしまったという事実を消すことはできない。
そのことでマナに何を言っても彼女を悲しませるだけで、何も変わらない。
それに、彼女はそのことで僕に復讐するために現れたのではないかという思いが消せないでいた。
彼女はアヤちゃんのことを忘れてのうのうと暮らしている僕が許せなかったのではないか?
だから、僕の前に現れて…
そして、僕も前から去っていった。
僕に悲しみだけを残して。
…
…
…
…
…
そうだとすると、もう彼女に会いに行っても仕方ないだろう。
彼女の中ではもうアヤちゃんのことは終わっているのだろうから。
そして、僕に復讐することを選んだのだから。
…
…
…
…
そう…
僕は、それが怖い。
今までマナが僕に向けてくれた好意が全て嘘だと分かってしまうのが。
彼女はただ僕に復讐するためだけに僕の元に現れたと知らされてしまうのが。
それが、たまらなく怖いんだ。
だから…
僕はこの世界を望んだ。
そして、その中に閉じこもってしまうことを望んだ。
自分自身を騙して。
…
…
…
でも、このままでいいのだろうか?
このまま、この世界に閉じこもっていて良いのだろうか?
いや、良いはずはない。
心の一部がさらに質問を投げかけてくる。
それに、本当に彼女はそんなことを考えていたのか?
彼女はあの笑顔を浮かべていながら、そんなことを考えていたのか?
…
…
…
マナの笑顔がシンジの脳裏に浮かぶ。
彼女は本当に僕のことを恨んでいたのか?
僕は彼女と最初に会った時の彼女の笑顔を覚えている。
その時の瞳の輝きを今でも思い起こすことができる。
あんな笑顔を浮かべながら、復讐なんてできるのか?
どうなんだ?
彼女は…そんな女の子だったのか?
…
…
…
そうは思いたくない。
僕の知っているマナは…
そんな女の子ではない。
純粋で、一途で、ずっと僕のことを信じていてくれた。
そう、あの時も…
「そうだね…でも、僕は…」
顔を上げて、マナを見るシンジ。
しかし、視線はマナに向けられていたが、マナを見ていなかった。
「忘れていた…マナのことも、会いに行くって約束をしたことも。」
首を振るシンジ。
「僕は…それが…許せない。」
シンジはまた小さく呟く。
「どうして忘れてたんだろう。」
と、マナが急にシンジの手を握る。
はっと、マナを見るシンジ。
マナはにっこりと微笑む。
「私が許してあげるよ。」
思いもよらない答えにシンジは驚く。
まじまじとマナを見つめるシンジ。
マナは笑みを消して、シンジをじっと見つめる。
「約束を思い出してくれただけで、私にとっては十分なの。
約束した私がそう言ってるんだから、これ以上、自分を責めないで。」
そう…あの時も彼女は僕を許してくれた。
マナのことも忘れていた僕を、彼女は許してくれた。
そのマナの言葉、笑顔でどれだけ僕が救われたか。
あの時の僕は、どうしてそんな大切なことを忘れていたのかと自分を責めつづけていた。
もし、マナが復讐のために僕のところに来ていたのなら、そんなことは言わないはずだ。
たった半年の短い間だったけど、マナとの思い出は一杯ある。
始めて会った時の君の表情。
名前を呼んだときの奇妙な懐かしさ。
僕の名前を呼ぶ時の君のはにかんだ笑顔。
思わず見てしまった君の裸。
そして、父さんに責められたとき、君は僕をかばってくれた。
両親の話をした春の日の深夜、そして次の日の朝のこと。
二人の始めてのおでかけ。
混んだ電車の中で感じた君の感触。
帰りの電車の中の君の寝言。
そして、繋いだ手。
風邪で寝こんだ時は君がずっとそばにいてくれた。
君のことを思い出した時の君の満面の笑み。
海外から来たエアメール。
二人きりの夜に僕の顔にかかった君の塗れた髪。
真っ暗な闇の中での会話。
図書館での君の横顔。
伸びた髪をそのままにする?と聞いた君。
海と、砂浜と写真。
七夕の夜空のマンションの屋上。
君は一年に一度しか会えなくなったらどうする?と聞いたね。
雨の日の下校路の途中。
君は両親の元に帰ると僕に告げた。
とまどいと不安。
空港での君との別れ。
その時の君の潤んだ瞳。
長いようで短い2週間の別離。
電話口から聞こえる君の声は会いに来てと告げた。
会いに行くと告げたときの君の返事。
帰ってきた君を見たときの僕の心。
みんなで行った小旅行。
一緒に小川沿いに散歩にいったこと。
倒れた君を見た時の心のざわめき。
花火を見に行った帰りに露店でかった指輪。
図書館での勉強会。
君に告白された時に触れた手のぬくもり。
病院での検査。
僕を襲う頭痛と、幻覚。
妊娠騒ぎ。
さよならを行った時、砂浜で風に乗って舞った君の涙。
全て、全て、大切な思い出。
君と僕の思い出。
シンジは小さく息をつく。
どうしてだろうね…
どうして、こんな簡単なことに気づかなかったのかな…
君はいつでも僕の傍にいてくれた。
ずっと僕を見ていてくれた。
僕のことを信じていてくれた
どんな時でも。
なのに…
僕は…
君を信じることができずにいた。
ごめんね…
僕はバカだよね…
こんな所に閉じこもっていても、何も解決しないのに。
シンジは瞳を開けた。
相変わらず、真っ暗で何もない世界。
しかし、シンジはある方向に向かって進み始める。
全ては僕次第…
分かっていたはずなのにね…
確かに、全ては僕次第なんだ。
僕次第でどんな風にも変わることができる。
この世界だって、変えられる。
そして…
…
…
…
マナ…
もう少しだけ待っていてね。
君に会いに行くから。
だから、もう少しだけ待っていて欲しい。
「起きてよぉ…」
そう呟き、シンジに顔を寄せるアスカ。
ずっとシンジの名前を呼びつづけているのだが、目に見える反応は返っていなかった。
やっぱりアタシでは駄目なのだろうか?
あの子じゃないと駄目なのだろうか?
アスカはシンジの胸に顔をうずめる。
規則正しいシンジの呼吸が一瞬、変わったような気がした。
と、シンジの右手がゆっくり上がりアスカの頭をなでる。
そして、囁くような小さな声がアスカの耳に入った。
その声はアスカが良く知っている声。
「ただいま…」
アスカは顔を上げてシンジの顔をまじまじと見つめる。
先ほどまで閉じられていた瞳が開いて、夜の空のような濃い藍色の瞳がアスカをじっと見つめていた。
久しぶりの再会なのだが、シンジはそれを口にせずににっこりと微笑でこう告げた。
「ありがと、呼び戻してくれて。」
アスカの瞳が涙で潤む。
少し声がかすれてしまったが、アスカはかまわず名前を呼ぶ。
「シンジ…」
まるで、それは名前を呼べば、シンジが消えてしまうのではないかと恐れているような、おずおずとした囁くような声。
シンジは手を伸ばし、アスカの髪をゆっくりとなでる。
浮かべている笑みはアスカが良く知っているシンジの笑顔。
アスカはその笑顔を見てほっと息をつく。
瞳の輝きもいつものシンジのものだった。
そして瞳を閉じて、気持ち良さそうにため息を漏らす。
シンジにこうしてもらうの、すごく久しぶりのような気がする。
「聞こえたよ。アスカの声。」
アスカはこくこくうなずく。
アタシの声はちゃんとシンジに届いていたんだ。
何故か、そのことがすごく嬉しかった。
「逃げちゃ駄目だって。」
小さな声でシンジの耳元にささやくアスカ。
シンジが目覚めたら言おうと思っていた言葉。
「おかえりなさい…」
シンジはアスカの頬に手を当てて告げる。
その時になって、始めてシンジはアスカがわざわざドイツから戻ってきている事実に思い至った。
すこし、恥ずかしそうにはにかみながらシンジはそのことを告げる。
「久しぶりだね。元気だった?」
アスカは頬を真っ赤に染めてうつむく。
そして、小さな声で答える。
「もう…何、のんきなこと言ってるのよ…すごく心配したんだから。」
シンジはそんなアスカの様子を見てくすりと微笑む。
「ありがと。」
「…バカ。」
その口調はいつものアスカのものだった。
シンジはくすりと笑みをもらし頷いた。
「確かに、僕はバカだよ。いろんな意味でね。」
そしてゆっくりと起きあがるシンジ。
じっと自分の顔を見つめるアスカにいつもの笑みで微笑みかける。
「だから、いつも後悔ばかりだ。」
やっとわかったよ…
この世界の意味も…
そして、君が何者なのかも…
僕が何をするべきなのかも…
僕は行くよ。
…
君は言ったよね。
何が正しいかなんて誰にもわからないって。
確かにそうだよ。
…
だから、僕は戻る事にする。
戻ったところで、解決するわけじゃないけど、
少なくとも、これからどうするか前向きに考えることができると思う。
…
彼は少しだけ間を置いてから言葉を続けた。
でも、簡単だよね。
僕はこの世界から抜け出せないと思っていたけど、
僕の作り出した世界だから、いつでも僕は帰ることができる。
僕が望めばね。
君も僕が作り出したものだから。
僕を引き止めることなんてできないよね。
ようやく、わかったのね。
彼女はそう告げると、ちいさくため息をついた。
私はあなたが作り出した、想像の存在。
だから、あなたの望むようしか動けない。
僕が罰を望んだから、君が現れた。
彼女はこくこくうなずくと、彼をじっと見つめる。
そう…でも…
でも?
彼女はまたもため息をついて、ふるふると首を振った。
何でもないわ。早く行きなさい。
そして、自分で決めなさい。
シンジは彼女に向かって軽く手を上げた。
…じゃあ…
そう告げて、シンジの体が光に包まれた。
その瞬間、すべてのものが消失し、無に消えた。
しかし、その彼女も含めて世界全てか消える一瞬、彼女は小さく呟いた。
でもね、私はあなただけから生まれたものじゃなかったのよ…
あなたの記憶の中にある私も取りこんだってこと知ってた?
あとがき
どもTIMEです。
すっかりお待たせしてしまいましたがTime-Capsule第37話「待ってるから」を公開します。
予告とタイトルが違いますが、当初の予定よりかなり変わってしまったので、タイトルも変更しています。
実際に2話分を1話として公開しています。そのせいで少しボリュームが多くなってしまいました。
#まぁ、「サービス、サービスぅ」ということで。
アスカの助けを借りて、シンジはやっと意識を取り戻して戻ってきます。
自分の心の中に閉じこもることでは何も解決しないと分かったわけですが、
彼の世界の中に現れたアヤは彼自身が望む形で現れた存在であるのですが、
実はシンジの心に眠る思い出の中にあるアヤをも取りこんでいます。
ですから、シンジを苦しめる一方、彼を現実世界に戻すためにいろいろ彼に質問を投げかけたりしていたわけです。
さて、やっと、意識を取り戻したシンジは当然ハワイを目指すわけですが、
次回はそのあたりを書く予定です。
では、次回TimeCapsule38話「かの地に向けて」でお会いしましょう。