「はい、碇です……あぁ、何だぁつまんない。今代わるから大人しく待ってなさいよ」
コードレスの受話器を手にした少女は話し口を手で覆うことなく、リビングでTVを眺めている少年の名を呼んだ。
その呼び方に遠慮の欠片もないのはいつものことだ。
「バカシンジィ!お仲間のバカから電話よぅ!」
26.5のストーリー
ピリオド達の楽園
「…………っつう、なんつー大声や。がさつな女やなぁ、っと、おおシンジかい。一昨日新潟から帰ってきおったんやろ、どうやった?……そら結構やな」
階段に腰掛けコーラ片手にポテトチップスを食べながら「お仲間のバカ」と評された鈴原トウジは、久しぶりに友人の声を聞いた。
「ほな三人ともしっかり焼けたやろ、ああ、こっちもいい天気やったで。ん?土産か?ああ、気ぃ使わんでええ。腐るモンやないんやったら何時でも持ってきてかまへん」
夏休みというのも半ば辺りになると友人の声が懐かしくなるものらしい。
脳天気なほど明るい大声はシンジの鼓膜と鈴原家の部屋中に響きわたり、何事かと彼の妹が顔を覗かせた。
「何でもないやさかいあっち行って早う朝飯食べいや……ああ、何でもあらへんこっちの話や。それでなぁ、シンジおまえ宿題どの辺までやったんか?……何や、もう終わらせおったんかいな、こん裏切りモンがぁ」
ふと自分の頭に白紙状態の宿題が浮かんだが慌てて消し去る。
まだ半分夏休みは残っているのだ、そんな不愉快なことは今気にする必要はない。
それにシンジが終わているのならそれを複写するだけだ、心配する必要など無い。
「何が言いたいんだよ……用は何?」
「せや、宿題はどーでもええんや。ちょい相談したいことがあってなぁ……」
真剣さと照れくささの割合が微妙な声だった。
「ほんまはシンジに相談したところでどないにもならんのやろうけどなぁ……」
なかなか失礼な言い方だが、それに構うことなく続ける。
「あのなぁ……イインチョおるやろ?せや、うちのクラスのな……まあ、何やそのイインチョから土産もろたんや。旅行行った言うてな」
イインチョ、つまり知ってるも何も学級委員長であり固有名を洞木ヒカリという。
アスカやレイとも仲が良いという、非常に希少価値のある同級生だ。
「それでな、なんぞお返しせなあかんと思ってな……せやけど何したらええか解らへんのや」
夏休みにその学級委員長は家族旅行に行き、おみやげをトウジに渡したらしい。
何故そういう経緯になったのかシンジには今ひとつ解らないが、彼の友人はそのお代えしに頭を悩ませているのだ。
「何でも良いんじゃない?ケーキでも渡せば?お菓子とか嫌いじゃないだろうし」
「せやなぁ……それはわいも思い付いたんやけどイインチョ自分で作れるやろ?それにありきたりやしなぁ」
鈴原トウジとケーキは確かに似合わないかもしれない。
店員に「贈り物にしたい」と予算と共に言えばそれなりの物を用意してくれるが、ケーキを買いに行くこと自体が何となく恥ずかしいらしい。
かといってシンジもそれ以上のことは何も思い付かなかった。
「まぁ……シンジに相談して何ぞいい案が出るとは思わんかったけどなぁ」
「だったら自分で考えろよなぁ、洞木さんに何渡したら良いかなんて僕に解るわけないだろ」
二人とも共通して女の子に贈り物などしたことがないのでこういう時困るのだ。
そのくせ分不相応に「ハイセンスでちょっと気の利いたものを」などと不釣り合いな事を考えたりするものだから余計に答えは遠のいていく。
そんな様子は興味深くシンジの側で盗み聞きしているアスカにも伝わった。
シンジの口から彼女の親友の名前が出たので気になっただけで、おバカ二人の会話には興味ない。
それと共に「困った」だの「解らない」だのという単語が盗み聞きに拍車を掛け、今ではシンジの隣に立っており、盗み聞きの範疇を越えて堂々と聞き耳を立てている。
「と、とにかく自分で考えろよ……洞木さんのプレゼントなんて」
「アホ!プレゼントやあらへん!!土産のお返しや!」
彼にとってプレゼントとお返しは違うようだが、そんなことはシンジの知った事じゃない。
恥ずかしそうなトウジの大声は受話器を通しシンジだけでなくアスカの耳にも伝わった。
ヒカリ、鈴原トウジ、おみやげ、お代えし、プレゼント、困る……聞き取ったそれだけの単語で彼女は頭の中で、パズルでも仕上げるように見事なほど事実を構成していく。
そしてその対策法を瞬時に描き出すとシンジから受話器を取り上げた。
「ちょっと!でかい声出さないでよバカ!!」
「……惣流……鼓膜破れるがな、がさつやなぁ」
「なによ、あんたが土下座して涙流して感謝したくなるような素晴らしいお返しのアイデア持ってるあたしにそういう言い方していいの?」
随分ご大層なことを言うアスカだが、それに値するようなアイデアは確かにあった。
あくまでも彼女自身の評価でだが。
「いい?よーーーーーーーーーーーーーっく、感謝しながら聞きなさいよ………」
*
「……ったく長話だな……」
話し中のサインしか出てこない受話器を置くと、相田ケンスケはつまらなさそうにリビングのソファに腰を下ろした。
仲のいい同級生は何を話しているのか知らないが、さっきから電話が繋がらないのだ。
長い夏休みだ、暇でしょうがない。
明後日から開催される新横須賀港セレモニーに出かけるが、今日は何もすることが無く暇なのだ。
勿論宿題は山のように残っているが当然そんな事は忘れていた。
飲みかけの缶ジュースを一気に飲み込むと、テーブルの上に広げた楽しみにしている明後日の催し物をより充実させるために様々な装備品を確認する。
何しろ夏休みが始まる前から楽しみにしていたのだ、手抜かりは許されない。
デジタルビデオカメラ、一眼レフカメラ、新横須賀周辺ガイド、双眼鏡、ミリタリーショップガイド…………
一揃いを全て以前購入した軍用のナップザックに詰め込む。
これで明日、迷彩パンツとメッシュジャケットを着込み、底の分厚いジャングルブーツを履けば完璧だ。
ご満悦の表情で空き缶を捨てにいったケンスケを電話が軽い電子音で呼び止めた。
恐らくトウジかシンジからの電話だろう。
きっとあの二人も長い夏休みを持て余しているに違いなく、遊びの誘いと予測を付けすぐさま受話器を取る。
「もしもし相田だけど…………あ…………」
予想は外れた。
「何か用?こっちは準備できてるから大丈夫だよ。父さんは連絡付かないからいけないと思うけど」
受話器の向こう側にいるのは肉親だった。
かつては家族だった筈の人だ。
「そう、うん……いいよ、別に楽しみにしてた訳じゃないし。本当は一人で行く予定だったから」
さっきとはうって変わって抑揚のない声に変わる。
受話器の向こう側から聞こえる子供の声、恐らく電話を掛けてきた家の子供だろう、楽しげにはしゃいでいるのが解る。
「じゃあ切るから……またね」
大きく息を吐くと出来るだけ静かに受話器を置いた。
どうしても落胆の色を隠せないがそれを見る者はこの部屋には居ない。
何の気無しに新横須賀のガイドマップを眺め止めどもなく流れる退屈な時間を過ごした。
どれほど経ったろう、リビングが朱に染まった頃ケンスケは目を覚ました。
ガイドマップ半分ほどを読んだところでいつの間にか寝入ってしまったらしい。
目を擦りながら体を起こすと誰もない筈の部屋に人の気配がした。
台所の方でゴソゴソと音がするのだ。
「……か、母さんかよ?」
そんなはずはない、そう思いながらつい口にしてしまう。
慌ててソファから飛び起き台所へ駆け寄った。
*
「帰って来るんなら電話ぐらいしろよ!」
「悪いな、さっきしたんだが繋がらなかったんだよ。それより母さんから連絡あったのか?」
無精髭をはやし薄汚れた格好で冷蔵庫を漁っていたのは、見まごうことなく自分の父親だった。
一応同居となっているが、実のところ父親の顔など殆ど忘れる寸前だ。
ジャーナリストを名乗るだけあって四六時中何処かを彷徨いており、殆ど自宅には帰ってこない。
それでも息子のケンスケから反感を買わないで済むのは憧れる職業のお陰だろう。
早速父親のハンディパソコンを開き我が物のように扱い始めた。
「ネルフって言うのまだ追ってるんだ?何か解ったのかよ」
「勝手に弄るなと言ってるだろう……」
「いいじゃんかよ……なんだ、全然解ってないじゃん」
父親にパソコンを取り上げられながらも覗いたファイルはしっかり記憶している。
NERV、正体不明の巨大生命体に対するべく第三新東京市に設置された特別組織らしい。
勿論ケンスケは詳しいことは知らないが、それでも将来ジャーナリストを目指すだけあって色々やっている。
避難所を抜け出してのビデオ撮影が主な取材活動内容だ。
「この間の奴もちゃんと撮ったんだぜ、見るんならセットするけど?」
「馬鹿、そんなモン撮るな。警察に捕まるぞ」
当然避難命令中は避難所から外出禁止で見つかった場合身柄確保、抵抗すれば逮捕、逃げれば射殺まで許可されている厳重な物だ。
まさか中学生のケンスケが外に出てビデオを回したぐらいでは、逃げたところで射殺されるはずもなく、悪くても警察署の留置所止まりだろう。
勿論説教のフルコース、反省文のデザート付きは当然である。
「あの騒ぎに巻き込まれたらどうにもならんだろうが……無茶と無理は違うんだ」
警察でも軍隊でも中学生のケンスケに気を使ってくれるだろうが、あの化け物はそんな事をしてくれない。
「大丈夫だって、すぐそばで見てるわけじゃないし」
「そう言う問題じゃないだろう、まったく……それより明後日出かけるんだろう?母さんから電話があったのか?」
「あったよ、向こうの家で用事があってどうしても抜けられないってさ。ま、一人で行って来るよ」
父親の二回目の質問でようやく答えた。
「そっか……しょうがないな、俺も横須賀に用があるから付き合うぞ。人に会うから途中で別行動だがな。飯ぐらいは奢ってやる」
「良いよ、別に……ま、暇そうだから一緒に行っても良いけどさ」
少なくとも交通費と電車代が浮く、これは余り小遣いに余裕のないケンスケにとっては有り難い話だ。
そして一人で彷徨かなくて済むというのもある意味有り難かった。
彼は暫しその門の前でウロウロしていたが、小さな手がTシャツの裾を引っ張り急かすので、大きく息を吸うと門の横に付いているインターフォンを押した。
大した行為ではなく、余所様のお宅にお邪魔するときは必ずすることなのだが今日、この家で、と言う付加がそれを難しく大変な行為にしていたらしい。
鼓動が大きく十回ほど働く程の時間を経て、インターフォンは少年の元に声を届けた。
『どちら様ですか?』
「あ……ワイ……ぼ、僕は鈴原トウジと言いましてその洞木さんと同じクラスでしてその……洞木さんいますか?」
普段とは全く声の質としゃべり方が彼の傍らにいる女の子を悩ませた。
小さなスピーカーから微かな笑い声が漏れる。
『えっと、『洞木さん』は家に三人ほど居りますがどの洞木さんですか?』
自分より年上と思われる声は、何処かトウジをからかっている風にも聞こえた。
とはいえそれを問いただすことも出来ず、しどろもどろの見本のようなしゃべり方がコードを通じて家の中のフォンから零れる。
「え……あ……ヒ、ヒ、ヒカリさん居られますか?」
同級生の女子を名前で呼ぶことがこれほど重労働だったとは。
背中にじっとりと汗を掻いているのを自覚できる。
そんなことは知らぬかのように声の主はあくまでも冷静なようだ。
『ああ、ヒカリね、ちょっと待ってて。ヒカリー!彼氏が迎えに来たわよ!!……トイレにでも行ってるのかしらねー!』
明らかにそれはトウジに対しても聞かせる為の大声だったのだろう。
さらにはすぐにフォンを置いても問題ないのに、中の様子を中継するように通信を繋げたままにしてある。
階段を駆け降りるような足音と何かにぶつかり物を倒す音が聞こえた。
そして少々荒っぽい声が聞こえた。
『コダマねえのバカ!!トイレなんか行ってないわよ!それに……』
『はい受話器、ヒカリの元気がいいからみんな聞こえてるんじゃない?』
あわてふためく様子が否応なく伝わってくる。
顔を真っ赤にした少女が現れるまで三分ほど時間を要した。
*
8:07分の電車は定刻通りに第三新東京市駅から発車した。
上のホームでは新横須賀着のリニアモーターが十分ほど前にやはり定刻通り発車していた。
夏休みと言うだけあって、色とりどりの旅行鞄を持った家族連れでごった返していたホームも、ようやく多少はその密度を減らした。
中学生ぐらいの男女と小学生低学年の女の子一人の行楽客が乗ったのは、8:07分発の通勤快速線だった。
「何やいい天気やな。出かけるにはちょうどええわ」
「そうよね、曇らなければいいと思ってたけどホント、いい天気ね」
同様の会話をかれこれ五回ほど繰り返している。
これだけ誉めて貰えれば晴れにした天気の神様も本望だろう。
雲一つない晴天の割には気温もそれほど高くなく、確かに行楽日和だが五回も繰り返して誉める必要はない。
……せやかて何話したらええのか……
生まれてこの方女子の同級生と学校以外の時間に一緒に出歩いたことなど一度もない。
故に洞木ヒカリと何を話したらいいのか皆目見当が付かなかった。
街中ならウインドウに飾られている物を話のタネに出来たが、電車の中ではそうそう話題が見つかる訳もない。
改めて今考えてみればお土産のお礼なのだから、それこそケーキでもクッキーでも何でも良かったのだ。
単にどんな物を買えば良かったのか聞きたかっただけなのに、ついアスカの口車に乗ってしまった。
『余ってるプールの券あげるからそれでヒカリを誘いなさいよね!ケーキやクッキーでちゃっちゃと誤魔化そうなんてさっき食べたメロンより甘いんだから!!』
何故プール?そんな疑問が昨日から頭を駆け巡っていた。
本来なら妹まで連れてくる必要はなかったのだがそこはそれ、兄としては幼い妹一人置いてくる事など出来よう筈もない。
ましてや昨日支度しているときに妹に何処に行くのかと問われ「ワイはプールで遊んでくるがお前は留守番や」などと告げられたらいっそ大したものだ、勿論トウジは「大したもの」ではなかったので一緒に連れてきている。
何れにせよその妹は朝から至極上機嫌で、水着の入ったバックを肌身離さず車窓の景色を楽しんでいた。
「あ……あの、鈴原……君、ジュース飲む?」
一方ヒカリの方もトウジと似たり寄ったりで、夕べから緊張を持続させていた。
校内では何の躊躇いもなく気楽に話しかけられ、時には注意することだって出来るのに一歩外に出ると思うように喋れなくなること夥しい。
『もしもし、あたし、アスカ。ねえヒカリって明日暇?ううん、別に用事はないんだけど暇ならそれで良いの。家に居るんでしょ?風邪とか引いてないんでしょ?……ならいいや。ううん、本当に何でもないの』
親友の不思議かつ謎に満ちた意味不明な内容の電話を受け取った一時間後に、トウジから電話が来た。
その時点でおよその想像が付いたが、だからといって冷静に対処できたわけではない。
しどろもどろなお誘いにあたふたとしたお答えを返す、そんな有様だった。
「ん、ん。悪いな、ちょうど喉乾いとったんや。遠慮のう貰うわ」
天気の事以外の会話がこの二人が電車に乗ってから初めて成立する。
「家でレモネード作ってきたから……ちょっと甘いかも知れないけど」
トウジの妹が一緒に来るというので、いつも作るより砂糖を多めに入れたのだ。
その辺りの配慮は「鈍い」という評価が一般的なトウジもさすがに気が付いたらしく、お下げ髪の少女に感謝した。
三つのカップにレモネードを注ぎそれぞれに手渡し鈴原兄妹の喉を潤す。
さして長くない列車の旅、一時間ほど揺られれば富士市に到着する。
其処にはアスカの寄越した無料招待券の使えるプールがあるのだ。
市民プールなら第三新東京市にもあるが富士市のそれは様々な種類のプールを有しており、夏ともなれば連日満員だった。
本来ならシンジ、レイ、アスカの三人で行く予定だったが、家族旅行が祟り小遣いが残り少ないのだ。
勿論旅行費など出してはいないが現地の遊興費、お土産経費などは当然自身の財布から出ている。
三人とも景気よく使い景気良く楽しみ、そして電車代も残らなかった。
そのお陰でヒカリとトウジ、その妹は今日楽しめるわけだ。
アナウンスが目的の駅に到着したことを告げる。
「えっと、ここやな。ほなイインチョ、降りようか」
チケットの半券に印刷されている地図を確かめ間違いがないことを確認すると荷物をまとめる。
トウジも車窓を飽きることなく眺めていた妹を急かし、その小さな手を握る。
富士市にはそのプール以外にも遊園地や各種観光名所があるのでその人出は多い。
ごった返すホームをそれぞれがはぐれないように手を繋いで改札に向かう。
汗ばみながら人の波をかき分けどうにかこうにかはぐれず駅の外に出ることが出来た。
彼ら三人を出迎えたのは目も眩むような真夏の日光だ。
今日一日まだ始まったばかり、だが一分一秒が惜しく感じる。
否応なく三人の気分は高揚しその足取りも軽くなり、トウジは山のように残っている宿題をも忘れることが出来た。
「ほな行こうか!」
小走りにバス停を目指す三人の姿が夏の光の中に消えていった。
*
一本の特急が新横須賀に到着したのは約三十分前だ。
リニア特急だけ有って持ってきたミリタリー誌を読み終える前に着いたが、別にそれ以上乗っていたいとは思わない。
今、相田ケンスケの目の前にはそのミリタリー誌に載っていた空母が勇姿を披露していた。
新横須賀祭。
五年ほど前から行われているこの行事は、米軍が中核をなす在日国連軍主催の親善行事だ。
セカンドインパクト直後に配備され、海上自衛隊と共に極東の国際治安を守るというのが建前だ。
実際には特務機関NERVの外部兵団的意味合いが強く、使徒襲来の折りは全兵力を持って援護に当たる……
それがかつて父親の取材ファイルを覗き見たケンスケの知っている情報だった。
シンジが聞けば「いつ手伝いに来たんだ?」と言いたくなったことだろう。
「さてと……ケンスケ、こっちだ」
港に向かう前に、やや高台にある喫茶店をケンスケの父親は指さした。
「なんで?早く行こうよ、混んじゃうしさ」
「言ったろうが、人と会うんだよ。それに今行ってもまだ早すぎる、朝飯も食ってないしな」
考えてみれば今行ってもお目当ての空母の近くには寄れないし、ミリタリーショップだって開店していないし臨時販売店はその姿すらないだろう。
そして父親の言うとおり朝飯は食べておらず、此処で一休みするのも悪くない。
そんな訳で二人は港に直行せず坂の途中にある喫茶店へと寄ることにした。
白い壁に焦げ茶色の柱、如何にも洋風と言った造りの喫茶店、丘から望む海に良く映える。
港を訪れる若者には人気がありそうだ。
樫の木にガラスを埋め込んだ扉を開けると、良く冷房の効いた空気と香ばしいコーヒーの香りが流れ出してきた。
店内は時間が早いせいかまだ客は殆ど居らず、白いシャツとブルーのエプロンを付けたウエイトレスがテーブルを拭いているだけだ。
彼女は入り口に立っている親子連れを丁寧に海の見える窓際に案内する。
「お決まりになりましたらお呼び下さい」
和紙の表装で洒落た作りのメニューを開くと、聞いたこともないような種類のコーヒーが並んでいる。
生憎と軽食類はあまり種類が無く、サンドイッチやピラフと言ったオーソドックスな物しか載っていない。
コーヒーに対してはさして興味のない二人は無難にモカブレンドとエビピラフを注文した。
「……待ち合わせって誰が来るんだよ?」
「ああ、お前は会ったこと無かったな。大学時代の友人だよ」
父親は週刊誌に目を落としながら答えた。
ケンスケはあまり父親について知らない。
何処の大学に通いどういった生活を送ってきたか、母親といつ出会ったのか、そんなことはケンスケは自分から聞いたことがなかった。
そもそも家を空けっぱなしにする父親とゆっくり話をする機会など殆ど無かったのだ。
肩車をして貰った覚えもなければ一緒に遊びに行った記憶もなく、キャッチボールなどしたこともない。
オモチャは父親が使わなくなったカメラだった。
……俺って良くグレなかったよなぁ、こんな真面目に育って……
呆れた思いをしまい込み、一隻の空母と数隻の軍艦が浮かぶ港を眺める。
見渡す限り晴れ渡った空と同じ色の海、店内に流れる静かな音楽、もしアベックでこの喫茶店に入ったならさぞかし会話が弾むことだろうが、生憎というか悲しいことにケンスケにはそう言う相手がいない。
父親でなければ「むさ苦しい中年オヤジ」以外の何者でもない相手と一緒だ、眺めが良かろうがおしゃれな茶店だろが洋曲だろうが演歌だろうがあまり関係ないだろう。
「なあ……父さんて昔からこの仕事してたのかよ?」
「いや、ケンスケが生まれる前はフラフラしていて何してたかな……まあ、そん時の知り合いが今日来るんだ」
初めて知った、初めて聞いた父親の過去にしては情けない。
セカンドインパクト直後に生まれたケンスケ達の世代からは想像もできない時代を経ている父親だ、一言では言えないようなこともあったのだろう。
再びテーブルの上に沈黙が訪れる。
店内の曲が入店してから四回替わり、五曲目の「I Didn't Know」が流れ始めたときテーブルに二つコーヒーが届けられた。
二人の口の中をほろ苦い液体が流れ込んでいく。
無言のまま半分ほどを飲み終えたとき二人は誰かに名を呼ばれた。
父親の言っていた友人だろう。
「よう相田ぁ!まだ生きてんのか、相変わらずしぶとくて図々しいな」
*
銀色の水しぶきが跳ね上がった。
程良く冷たい水と圧力が全身を覆う。
彼はクルッと一回転し天と地をひっくり返すと強く水を蹴る。
景色が徐々に明るくなり水面から顔を出したときは眩しいほどだった。
「ようイインチョーもやらへんか?気持ちええでぇ!」
手を振りプールサイドに佇む少女に声を掛けた。
彼女はその手に誘われるようにプールに飛び込むと暫し水の中に姿を隠し、再び現れたときは少年のすぐ目の前だった。
「ふぅ……すごいね、あんな高いところから飛び込めるなんて」
「大したことあらへんからイインチョもやってみたらええんや」
「駄目よ、恐いから……」
ライムグリーンのワンピースの水着を来た同級生は妙に新鮮だ。
いつもは縛っているお下げを解き、思っていたより長い髪を掻き上げる仕草にトウジの心臓が一瞬跳ね上がる。
「ま、ま、まあ、ええわ……それよりあいつ何処で泳いどるんや?」
何か誤魔化すように妹の姿を探し、子供用のプールで兄などほったらかしに遊んでいる姿を見つけた。
「鈴原、ちょっと上がらない?喉乾いたでしょ?」
「そうやな……なんぞ飲むか」
富士市プールランド。
セカンドインパクト後の復興計画の中で出来た遊戯施設だ。
その名の通りメインのサークル型大プールを筆頭に流れるプールや波を作るプール、渦巻くプールに球体の水槽のようなプールなど様々な設備がひしめき、ウォーターシューターや飛び込み台、岩場をもしたプールに熱帯魚や磯の生き物を放したスキューバプールまで完備している大がかりな施設だ。
フルシーズン楽しめる屋内施設なのだが、矢張り夏は賑わう。
プールから上がれば程良く空調の効いたプールサイドに様々な設備が並ぶ。
シャワーや休憩所はもとより飲食店の数は地方の商店街より多いかも知れない。
無料の休憩所もビーチベットや家族揃って座れるテーブルなどもある。
そのテーブルの一つに腰を下ろすとヒカリは手首に巻いた鍵を足下のロッカーに差し込む。
貴重品や持ち込んだ弁当などをしまっておけるので便利だ。
貴重品というわけでもないが、お手製のレモネードを取り出しトウジのカップに注ぐ。
「ゴチになるわ……ふう……今日は悪かったな、急に付き合わせてもうて。なんぞ用事あったんやないか?」
「悪いなんてそんなこと無いわよ、すごく楽しいし。本当にありがとうね、誘ってくれて」
「あ、ま、その……礼ならシンジに言うてーな。あれにプールの券もらったんやし」
笑みを浮かべる学級委員長はその名称が嘘と思えるほど愛らしく思える。
普段目の敵にされているとは思えないほどだ。
とまあ、そんな感想をそのまま口に出来るわけでもないのでどうしても会話が滞る。
「……せ、せやな、イインチョは田舎帰ったんやろ?おもろかったか?」
第三新東京市市民の大半は余所からの転居組だ。
毎年夏になると帰省で街は半ばゴーストタウンのようになる、が、そこはそれ静かで有り難いという人もいる。
ゲンドウがその最右翼だがそんなことはこの二人が知るはずもないし、どうでも良いことだ。
「うん、でも帰りに渋滞がすごくて向こうは朝に出たけどこっちに着いたのは夜だったの。お姉ちゃん……ほら、この間インターフォンに出たの、コダマ姉ちゃんなんかいびきかいて寝ちゃって」
さりげなく今朝の仕返しをしながら母親の実家の様子を語った。
「ええな、うちは此処が田舎やからあんまり有り難くないわ。今年かてお父が忙しゅうて旅行行けへんかったしなぁ」
「……だから妹さん連れてきたんだ……優しいね」
「な、なにいうとんのや。あれは単におまけで着いてきただけや」
そう言いつつも何かと面倒を見る兄だ。
普段からもトウジの行動のどこかには妹の存在を感じさせる部分があった。
ヒカリはそれを単純に優しさと評したがトウジなりに思うこともあるのだろう、級友達の前でそれが大変だと口にしたことは一度もない。
二人の喉を甘酸っぱいレモネードが通り過ぎていく。
「ねえ、今度はあそこのウォーターシューターやらない?あれならあたしもできるし」
「おもろうやな、ほなやってみるか」
高飛び込みはさすがに出来ないが水の滑り台程度ならヒカリにも出来る。
折角来たのだから一緒に遊べるものをやってみたい。
トウジからコップを受け取りテーブルの下のロッカーにしまい羽織ったパーカを脱ぐ。
アスカやレイ、トウジ、あと二人と一緒に買った水着が色鮮やかに映える。
「ン……ナ、ナンヤ、その水着よう似合うなぁ……」
ライムグリーンの水着を買ってからずっと期待し、不安に思っていた言葉が望んでいた相手の口から零れた。
うわずった声のありきたりな誉め言葉が、何故かヒカリの耳に染み込んでくる。
そもそも「似合わない」ときっぱり言える者が果たしてどれほどいるというのか、世の中社交辞令はちゃんとあるのだ。
それでもヒカリは嬉しかった。
三ヶ月分の小遣いの値段はした水着だったが今初めて安いと思えた。
欲しい雑誌を買わずアスカと一緒にアクセサリーも買わず缶ジュースも買わず貯めた小遣いだったが買って以来初めて惜しくないと思えた。
「そ、そう?ちょっと派手かなと思ったんだけど……」
「ソ、ソナイナコトアラヘンヤロ、その色ようイインチョに似合っとるわ」
言われた方より言った方の顔が赤い。
慌てるように背を向けるとサークルプールに足を向けた。
その後を1.5歩ほど遅れてヒカリはついていった。
*
目の前の男はおよそ職業を当てづらいタイプだった。
見た目三十過ぎだろうが派手なことこの上ないアロハシャツにダブダブの膝丈ロングパンツ、必要以上に大きいサングラスに足下の草履。
口元に浮かべたいかにも軽そうな笑みはあまり緊張感のない仕事に就いているからか。
何れにしてもケンスケには見当がつかなかった。
「相田、ひっさしぶりだなぁ……顔見たの何年ぶりだ?」
「忘れるぐらい前だな。それにしても良く生きてるな、世の中に申し訳ないと思わないか?」
「へっ、お前さんが生きてるんだ。俺が生きていたってお前より罪が軽いさね」
三十過ぎの男同士の会話はケンスケをほったらかしにして進む。
確かに父親の友人らしいが一体どういう関係なのか知りたいと思った、思ったが口を挟む隙が無く延々と昔話が続いていた。
呆れた顔を隠しもせずアイスコーヒーをおかわりし、頼んだピラフをほう張る。
半分ほど食べ終えた頃、三十過ぎの大人達の会話はやっと終わった。
「……父さん、この人は?」
「あ、まだ言ってなかったか。香山と言って俺の大学時代の友人でな、今は自衛隊の兵隊さんだ」
ケンスケは一瞬アイスコーヒーを吹き出しそうになったが辛うじて堪えた。
自衛官と言えばもっとカチッとした格好ではないだろうか、言っては何だが着ている物云々以前に雰囲気自体が自衛隊にはそぐわないような気がする。
「相田、お前の息子さんか?昔見たときはもっと小さかったぞ」
「そのままだと困るから大きくしたんだ、大体香山が見た時って赤ん坊の頃だろう」
ケンスケをきっかけに二人の昔話が始まり、それ以上の情報は仕入れられなかった。
それでも別に構わない、見るからにいい加減そうな三十過ぎ自衛隊員の情報などどれほどの価値があるというのか。
さっさとピラフを食べる方が遙かに重要だった。
大人達の会話は時を追うごとに過去に向かっているようで、いよいよ持ってケンスケの関わる余地はなくなっていった。
ピラフも食べ終わりアイスコーヒーも飲み終え、そろそろやることが無くなったケンスケは周囲を見回した。
幸いなことに客は他に居らず、何やら風営法に触れそうな単語の飛び交っている二人の会話は聞かれていない。
そんなとき入り口の扉が開き、一人の女性が入ってきた。
それを目ざとく見つけたのは話に夢中になっていたはずの香山だった。
「オウ山科、こっちこっち。あれは俺の副官でな、山科二尉だ」
「……結構美人だな」
素直すぎる感想は父親と息子の二人がこっそり口にした。
薄目の化粧だが目鼻立ちはハッキリしており、それでいてきつさの無い顔立ちだ。
セミロングの髪を後ろで軽く縛り、若竹色のスーツと白のブラウスがこの季節であっても涼しげに映る。
「初めまして」
ごく簡単な挨拶だったが決して無愛想ではなく、涼しげな笑みを浮かべたうら若き女性。
相田家の二人はただ何となく頭を下げるだけに終わった。
「こちらはな、しぶとく生き残っている昔の知り合いで……」
「お話は伺ってます。それより何処フラフラしているんですか?式典の打ち合わせに顔出さないものだから大騒ぎですよ!そんなことばかりするからただでさえ評判が悪いうちの部隊がますます評判悪くなって……その内給料くれなくなりますよ!!」
アロハシャツにサングラスのこの男は自衛官らしいが、どうやら階級が結構上の方らしいことにケンスケは驚きを隠せない。
そもそも二尉の副官がいるのだから佐官クラス、それも式典に顔を出すらしいから場末の部署でもないだろう。
……日本の防衛はどうなってるんだ!……
ケンスケは思わずいきり立つ。
何が悲しくってこんないい加減そうな男が、そんな重要らしい仕事に就いているのか。
重さが1グラムもない顔でヘラヘラと笑っている姿が自衛官の制服と対極にあるようにしか思えない。
口に出さない感想だったが、出したところで此処にいる面々なら「その通りだ」と同意を得られただろう。
さてケンスケの視界にはそんな三十過ぎの自衛官などは映っておらず、セミロングの髪が映し出されていた。
二十四、五歳だろうか?知性と清潔さに溢れながら柔らかさを失わない女性だ。
その彼女が口を開いた。
「打ち合わせにはもう間に合いませんけど、午後の式典には必ず顔を出して下さいね。そうでなくったって目を付けられてるんですから……私はこれで失礼します」
「失礼って何か用事あるの?」
すっとぼけた調子で香山が尋ねる。
打ち合わせをすっぽかした以上用事がないわけがない。
これから彼女は後始末のためにあちこちに頭を下げなければならないのだ。
彼に言わせれば「んなことしなくっても何とかなるよ」と言うことになり、実際有る意味特別扱いと言えば聞こえよく、実質仲間外れの香山の部隊では何とかなってしまう。
それで済まそうとしないのは山科二尉の常識度を示すところで、ケンスケとしては好感を持った。
「んじゃぁさぁ、そこの坊やも連れていってやれよ。此処にいて俺らの話聞いてても暇だろうし空母見に来たつってるから案内してやれや」
「はぁ……それは構いませんが……何か予定があったのでは?お父さんと来てるんでしょ?」
坊やと言われムッとし、案内してやれとの言葉に喜び、山科に顔を向けられどぎまぎした。
「あ……え……大丈夫だよ。子供じゃないから一人で回れるし、何度か来てるから勝手は分かってるし」
「オイオイ、遠慮すんな、山科だってそんなに獰猛じゃないから無闇に噛みついたりはしないと思うぞ」
取り敢えず香山の言うことは無視するが、確かにこんな所で二人の会話を聞いていたところで一文の得にもならないのは事実だ。
「えっと……ケンスケ君だっけ?良かったら少し案内できるわよ」
年上だが美人だ。
彼の担任も「年上の美人」に当てはまるだろうが明らかに雰囲気が違う。
理科教師の赤木リツコとミサトを合わせて2で割ればこんな感じになるのだろうか。
何れにせよあっさり断るのは「失礼」だろう。
無論一人でもこの界隈を漫ろ歩くのに困ることはないが折角のお誘いだ。
「お願いします!」
「それじゃあ行きましょうか。では香山一佐、失礼します……式典には本当に来て下さいよ」
第三新東京市上空に昇った太陽は容赦なく灰色の街を蒸し焼きにしていた。
さわやかな朝から気温は留まることを知らず上昇を続け、気温35度の灼熱の十一時を提供している。
風もなく熱気が漂う住宅地に人影はなく、大半の人々はエアコンの効いた部屋でTVでも見ているのだろう。
陽炎の立ち上る人っ子一人いない住宅街は何処か不気味さを覚える……かもしれないが、誰も外に出ていないのだから不気味と感じた者もいない。
単に暑くて外出していないか、あるいは旅行に行って不在かのいずれかだろう。
さて一足先に旅行に行った碇家では先立つものが無くて、何処にも出かけられなくなった三人の中学生が暇そうに雑誌を読んでいた。
「シンジ……アイス買ってきて、勿論シンジ持ちで。あたしストロベリー」
けだるそうな声がすぐ側から聞こえる。
目を向ければフローリングの床に一人の少女が転がっていた。
ダブダブのTシャツにダブダブの短パンという取り敢えず服を着ただけの格好、いつもなら活動的に動いている手足も伸びきったゴムのように張りが無く、生気に溢れているはずの蒼い瞳は、光を失い何処か淀んでプラスチックのようだ。
半ば死体のようだが勿論生きており、すぐ側の少年にアイスを要求している。
「ヤダよ、お金無いもん。外暑いし食べたいならアスカ買いに行けば?ついでに僕のも買ってきて」
やはり似たような脱力状態の少年は面倒くさそうに呟いた。
シンジの財布の中には小銭数枚しかなくとてもじゃないがアイスを奢れるような状態ではない。
「じゃレイ買ってきて」
「……あたし別にアイス食べたくないから……」
アスカはどうしても自分で買いに行くという発想が浮かばなかった。
なぜなら外は雲一つなく真夏の太陽が照りつけて、さながらフライパンの上のようなのを知っているからだ。
きっと近くのコンビニにたどり着く前に干上がってしまうだろう。
「じゃあアイスじゃなくてもいいや、コーラ買ってきて」
再び出された要求は横に振られた首で却下された。
朝起きてからこの調子の三人、金銭不足と暑さで出かけることもままならず、さりとて家でやることもなくウダウダと時を過ごしていた。
おまけに此処数日の夜更かしが祟り、流石の若さも疲れが抜けきれず体も重い。
TVも面白い番組はなくお盆でいつも読んでる週刊誌は休刊、ゲームソフトはどれも飽きがきてやる気にならない。
ある意味苦痛に満ちた一日がようやく半分過ぎようとしている。
「……誰かアイスとコーラ買ってきて……」
「はいケンスケ君。お待ちどうさま」
目の前によく冷えたコーラの缶が出された。
頼んだ訳でもないが暑い時間だ、冷たい飲み物は有り難い。
軽く頭を下げお礼をして受け取り喉に流し込む。
「大変だね、挨拶回りしてたんでしょ?」
「いつもの事よ、あの人のあとをついて歩くときはいつも頭を下げて回らなきゃいけないんだから」
つい先ほどまで彼女は式典に顔を出す自衛隊のお偉方の詰め所に行っていたのだ。
理由は言うまでもない。
ただ毎度のことなので向こうも半ば諦めているようで、何処か文句も投げやりだ。
彼女も慣れているので今更何とも思わない。
「さて、空母見に行こうか?これからちょっと打ち合わせするからその間見学させて貰いなさいよ」
クスリと笑うと山科二尉はコーラを飲む。
海を渡ってくる潮風に髪を揺らせ、接岸されている空母を指さした。
「あれ見に来たんでしょ?一般公開は式典のあとだけどケンスケ君さえ良ければ今案内するわ。これからちょっとうち合わせするからその間見て回れるわ」
「でもいいの?」
「勿論、これでも少しは融通が利くんだから。打ち合わせは五分ぐらいだから艦内でお昼食べてそれから回りましょ」
ケンスケ一人ぐらい早めに見学させても問題はないだろう。
問題があったところでどうせ自分達は独立愚連隊だ、それ以上の問題はいつも引き起こしているのだ。
そもそもこの部隊の指揮官にしてからが素行不良のろくでなしとの評価が行き渡っている、その部下が何かやらかしたところでそう大問題にもならない。
山科は最近そう思うようにしている。
風が彼女の頬を撫で通り過ぎていく。
空母の甲板はもっと気持ちいい風が吹いているだろう。
「さ、行きましょ。一般公開されないようなところも見せて貰えると思うわ」
*
肉入りアメリカ焼きそば三つにアイスコーヒー二つにパインジュース一つ。
それがプールにいる三人の簡素な昼食だが、それ以前にフライドポテトだのソフトクリームだのラーメンだのヒカリの作ってきたサンドイッチだのをチョコチョコと食べていたためそれで十分だった。
それでも食べる勢いは良く、発泡スチロールの皿に載った焼きそばは見る見る無くなった。
「ふう……ゴッソサン。ほれ、口の周りちゃんと拭きぃ、青ノリついとるがな」
小さな口の周りを兄の手が拭う。
程良く満腹になったのだろう、満足げな顔でパインジュースを飲み干す。
見回せばかなりの数がある飲食店の殆どが満席で、順番待ちの列が店外にまで伸びていた。
彼ら三人の周りのテーブルも殆どカップルだの家族連れだので埋まり、空いている席は殆ど無い。
そう言えば自分達は周りからどういう風に見られているのだろう、トウジは取り留めもなく考えていた。
単なる三人兄妹に見えただろうか、もし妹がいなければアベックと思われているか、幾ら何でも夫婦には見えないだろう……
考えてみればデートなのだ。
少なくとも中学校在学中はそう言う単語に縁のない生活を送るだろうと自分では思っていた。
それが今こうしてクラスの女の子とプールに来ている……何処か妙な感じがトウジにはしていた。
……せやけど何でイインチョは来たんやろなぁ……
もし他の女の子をプールに誘ったらこうして来てくれただろうか。
体よく断られるか、相手にされず断られるか、はたまたバッサリ断られるか……トウジは自惚れる質ではないのでそんな風に考えていた。
だからヒカリがこうして誘いを受け来たことに面食らっている。
その事をどう考えたらいいのか、普段アスカからは「単細胞、単純バカ、原生生物」なる称号を受けている彼に、目前の少女の胸の内を推し量るのは難しすぎた。
……もしかして誘ったの迷惑やったんかなぁ、それやったら来いへんやろう、けどイインチョあれで気ィ使う質やから断れへんかっただけかもしれんなぁ、いきなり誘ったモンで妙に思われてんやないやろか……
兄が深刻な顔で頬杖をついて考え込んでいる間に、その妹はとっととプールに向かっていた。
お昼を食べ充電も終わるとまだ遊んでいない楽しそうなプールが待っているのだ、ウダウダ悩んでいる兄など待っている暇はない。
華やかなBGMがプールサイドを流れ、彼等の昼休みを飾った。
一応予定としてはもう少し泳いだ後、隣接された熱帯植物園で見学、その後は第三新東京市に帰りレストランで夕食……何れもアスカから伝授、あるいは命令されたコースだ。
それは良いのだがこうして二人で面と向かって座っていると、どうしても会話が続かない。
トウジもヒカリも二人で会話することには馴れていない、趣味だって違う。
「あーうんと……そ、そや、イインチョ今度どないなプールで泳ぐんや?」
無理矢理ひねり出した質問がこの程度だ、が、答える方もそう気の利いた答えなど返せない。
「え、あ……何でもいいわ、ここいっぱいあるし」
こうして上手く継続していかない会話がさっきから繰り返されているのだ。
だからといって二人とも楽しくないわけではなく、だがお互いが気を使いすぎて気楽に話すら出来ない。
「な、イインチョ……あそこに面白そうな乗りモンあるんやけどやってみぃへンか?」
会話が駄目なら行動で……と思い経ったトウジは数あるプールの一つを指さした。
そこには浮き輪らしき物ににモーターをくっ付け水面に浮かんでいる乗り物があった。
名前はウォーター何とかと言うらしいがそんな名称などどうでも良い、取り敢えず何か『ネタ』が欲しいのだ。
委員長ことヒカリの方はあまり乗り気ではない、と言うよりその乗り物自体が怪しげなのだがここは一つ勇気を振り絞ることにした。
「うん、乗ろうか……面白そうだものね!うん!!」
例えアレに乗ってどんな目に遭おうと後悔はしない、大袈裟な意気込みは今日一日を大切にするためのものだった。
*
紺色に金の刺繍が入ったキャップを頭に乗せた少年は、これ以上はないほどご満悦な様子で、空母の甲板を闊歩していた。
一般見学客の入れない時間に乗艦させてもらえ、普通では見せて貰えない場所まで見学させて貰えたのだから顔もほころぶという物だ。
頭に被っている乗員用のキャップは元より手にした袋の中には、作業用のツナギやブーツ、シャツに階級章に部隊ワッペン……豪華絢爛なお土産を入手した。
これらの入手にいたってはケンスケを同行した山科二尉の功績が全てだろう。
普段むさ苦しい同僚の顔しか拝んでいない乗員達にとって彼女の笑顔はたいそう眩しく、その彼女にお願いされれば使わなくなった作業服や余り物の帽子、処分品の階級章など幾らでも出てくると言う物だ。
艦長に至っては空母そのものを渡しかねない様子だったが、どうにかこうにか思い留まり、二人に艦内の食堂で量だけは多いランチをごちそうした。
甲板を駆け抜けていく潮風が山科二尉の髪を揺らし、ケンスケの額から汗を拭っていく。
この後行われる一般公開の飾りにデッキアップされていた戦闘機に寄りかかり、二人は缶コーラ片手に暫しの休憩だ。
ランチの味付けが濃かったのか、干上がった喉を心地よく潤していく。
ケンスケは取り敢えず彼女の顔に見とれていた。
控えめに言っても美人だ、品が良く知的でそれでいて馴染みやすい感じの……もし身近にこんな女性がいれば日々の生活はさぞ楽しかろう。
見た目は良いが乱暴で口の悪い居丈高な女は同級生に一人居るが。
そんな学校のことや普段の生活、友人達のこと等……かつて山科自身が過ごしてきた時間を再生するかのように語った。
ただ家族のことに関しては父親のことのみが語られた。
それもたわいのない雑談の流れから生まれた質問だった。
「ケンスケ君は将来どうするの?何かやりたいこととか就きたい仕事とかもう考えた?」
「まあ一応フリーのジャーナリストになりたいんだ、最初は自衛隊も良いかなと思ったんだけど」
ケンスケの顔に何処か気恥ずかしそうな笑みが浮かび、年上の女性は将来を語られる少年を羨ましそうに眺めた。
別に自分の人生がこれまでなどと諦めているわけではないが、やはり先のことを語れる年齢というのは羨ましい。
「やっぱりお父さんがジャーナリストだから?」
山科にとってはごく当たり前の想像だったが、少年の顔からは笑みがいつの間にか消え、何か言いたそうな、だが言っていいものかどうか悩んでいる様子が取って代わる。
それを促すように彼女は視線を向けた。
「……ウチの親って離婚してるんだ、ずいぶん前だけど。俺その時何も教えて貰えなくって、知らないうちに全部決まってて親父に引き取られて……」
「そうなんだ、大変だったわね……」
セカンドインパクト以降夫婦の離婚率は跳ね上がっている。
災害後のストレス障害、復興時の多忙、生活上の変化等原因はいくつも上げられ、その全てにもっともな理由付けがされているので特定は出来ない。
何れにせよ死別を含めケンスケと同じ境遇にある者は多いが、だからといって彼が気にしないで済むわけでもなかった。
ある日学校から帰ってきたら母親は突然他人になっていた……その理由も過程も何一つ知らされぬままに。
「まあ、今じゃしょうがないと思ってるけど……でもやっぱり何も知らないって辛いんだよ」
気が付いたときは母親不在の生活が始まっていた。
それを拒否できなかったのは、何一つ異議を言えなかったのはやはり何も知らなかったからだろう。
「教えて貰えないんなら自分で調べるしかないじゃん、文句言うためにもさ」
この少年の胸に湧く思いはまだまともな形状を取っていない、取り敢えず手にしているハンディビデオを回し撮影するだけだ。
それに意味があると思ってあの化け物同士の撮影にも挑む。
少年を羨ましいと思うほど行き詰まった人生でもないが、あざ笑えるほどスレた人生でもない山科は静かに口を開いた。
「私の両親はセカンドインパクトの時死んじゃって……多分何が起きたのか解らないままだったと思うわ、遺体も残らなかったし。私もケンスケ君と同じよ、何も知らずできないまま終わっちゃうのって嫌だったから自衛官になったの」
記憶の波間に漂う欠片は時として山科に突き刺さる。
いや、彼女と同年代、あるいはあのセカンドインパクトを記憶した者達は、皆同じ欠片を抱えているだろう。
その苦痛に顔を歪めようとも投げ捨てること叶わず、癒されることも癒し方もないないままに。
「きっと色んな物が見えてくると思うわ、今まで見えなかった物も……だから頑張ってね、ケンスケ君」
「……うん、さてと、そろそろ式典の始まる時間だろ?山科さんはいいの?」
「ええ、そう言うのはウチのオヤブンの仕事だから。次は倉庫のほう回ってみる?関係者入り口から入れるわよ」
楽しそうな顔がケンスケに浮かぶ。
埃を払い立ち上がった二人に、展示用の戦闘機をすり抜けて潮風が吹き付けた。
周囲では乗組員達が忙しそうに式典の準備に取りかかっており、出席者らしい自衛隊の高官の正装姿も見られ始めた。
それが終われば一般見学客の受け入れ準備だ、普段とは違う忙しさだろう。
「さ、行きましょ。これ以上いたら邪魔になるわ」
「そうだね、そう言えば親父達何してるんだろうなぁ」
ふと思い出したように疑問を口にしたが、実のところ何をしていても別に構わない。
だか山科にとってはそれほど呑気に構えていられないのだ、もうすぐ式典が始まる……のに不思議なことに香山の影も形も見えない。
他の幹部連は集まり始めているというのに。
予感ではなく確信、それも極彩色で縁取りされた悪夢の近い確信だ。
美人と言っていい山科の顔に何か吹っ切れたような、自棄になったような笑顔が浮かんでいた。
「ほれ、奢りだから有り難く飲めよ。このビールはな、善良な市民の納めた税金で買ったんだぞ」
「バカ、その税金払ってるんだよ、俺は」
自販機の缶ビールはこれ以上ない程良く冷えており、木陰に座り込んでいる相田には有り難かった。
空母や展示品を見物に行った息子を探そうと近くまで来たのは良いが、あまりの人出に鬱陶しくなりこうして休憩している。
ちょっとした植え込みに腰を下ろしビールを飲む姿は、周囲から見ればあまり格好のいいものではないが香山、相田両名はさほど気にしていない。
最初の一口を気持ちよく喉に流し込み幸せそうに一息付くと、通りを過ぎていく人の波を眺めた。
夏休みと言うこともあってか家族連れが圧倒的に多い。
「香山、世間様はこうやって家庭を持って真面目に生きてるって言うのにいつまでそうやってフラフラ不真面目に人生送るつもりだよ」
「未来永劫だ。大体お前だって真面目な生き方ってのに失敗してるだろうが、ジャーナリストより公務員の方がまだ真面目に近いぜ」
「最近は公務員て書いてヤクザって読むんだ。知らないのか?」
口を開けばお互い不毛な会話しかできない。
共に三十五歳、家庭を持って休日には家族サービスをしていても当たり前の年齢なのだ。
相田は一時期そう言う暮らしをしていたが失敗に終わっている。
目の前を行き交うのが成功した家族連れなのかまだ失敗していない家族連れなのか、どことなく皮肉そうな目でそれを眺めた。
「なあ香山、あれから十五年経ったなぁ」
「どれからだ?お前が大学時代に女を孕ませてからか?それともそれが原因で退学してからか?その女が出産して金がないと言って俺のところに借りに来てからか?それとも……」
更に何か言おうとしたがこれ以上過去の悪事を掘り返そうとした香山を制する。
「そんな物は忘れろ、あれを見てからだよ」
「首都沈没なんざレンタルしなきゃ見れないと思ったんだがな……」
十五年前に記憶のフィルムを戻せば鮮明な映像が全く色褪せず蘇る。
蒼く澄みきった空に描かれた一筋の白い軌跡、それがビルの影に消えたとき巨大な光球が地上に生まれそこの全ては消えた。
全ては若き防衛大生の目の前で起きた出来事だった。
何が起きたのか理解できないまま、ただ漠然とその光球を二人で見つめていた。
やがて防衛大生は全てほんの少し前まで東京だった場所にかき集められ、救助活動に参加させられた。
「……香山、生きている人間てここにいるのか?」
「さぁな、死んでりゃ助けてくれって頼まないだろよ」
あの時後にも先にもそれ以外会話をした覚えがない。
林立するビルも無限に延びる高速道路も路面が見えなくなるほどの車も……全てが消滅した光景は、彼等の頭の中も同様にしてしまったかのように何の考えも浮かばなかった。
ただ黙々と瓦礫をかきわけ、死体を見つけては溜息をつく、それを繰り返す作業に没頭し
た。
南極に巨大隕石が落下した、世界各国同様に大小さまざまな隕石が落下した、東京に落ちたのはその内の一つだ、伊豆半島が消滅した、国内ライフラインは各所で寸断、朝鮮半島は事実上消滅、ニューヨークは津波により現在連絡不通、日本海沿岸に多数の死体漂着、各国の死者行方不明者数は算出不能……日を追う事に入ってくる情報は凄惨たる色合いを濃く、混乱を深めていった。
東京の消滅という異常事態は同時に公的機関指揮系統の消滅という事態をも招いている。誰が何をすればいいのかすら解らず、自衛隊にしろ警察にしろまともに組織としての活動は不可能と言っていい状態に陥いらせた。
家族の無事を確認してから昼夜を問わず救助作業に当たった市役所職員、家族と連絡も取れないままそれでも市民の避難誘導に向かう警官、家族の死を知ってもなお一人でも救おうと奔走する自衛官、次から次へと運び込まれる患者に息きらして治療して回る医師看護婦。
現場レベルでは職務に殉じ死にものぐるいだったのだろう、だが組織としては余りにも脆弱すぎた。
指揮のない状態では、あるいは指揮すべき人が姿を眩ました状態ではどれほどの成果を上げられると言うのか。
世界各国、日本全域が被災地なのだ、救いの手は何処からも伸びてこない。
ようやく組織的な救助活動が出来るようになったのは、約一週間後埼玉県南部に緊急対策本部を設置してからだ。
相田が不意に2015年に引き戻されたのは、小さな男の子が目の前を通り過ぎたからだ。
迷子になり掛かったのだろう、半べそをかきながらようやく父親と母親の元にたどり着いたようだ。
「……香山、時々あの時のことを夢みたいに思えるよ。本当は何もなかったんじゃないかってな」
「俺は夢だと思いたくなるがな。何も知らないままだったらそれもできたんだろうが……」
*
当時、防衛大生の中から数人が選抜され、救助道具や医薬品の代わりに迷彩服と自動小銃を手渡され、今は第三新東京市と呼ばれる場所に連れて行かれた。
巨大なクレーターと言えばいいのか、半径7500m程のすり鉢状に陥没した光景は香山と相田、同様に選抜された防衛大生達の言葉を問答無用に奪った。
この場所はかつて無人だったわけではない、無人になったのだ……このクレーターを形成した時点で……遺体など無論残ってないだろう、人が暮らしていた痕跡すら見つけられないのだ。
悪夢のような景色の中に不釣り合いな建造物がその中心に一つだけポツンと建っていた。
激しく揺れるジープに幾分吐き気をもよおしながらも目を凝らすと、それが巨大なドーム型テントであることが見て取れた。
幾人もの白衣を着た研究者らしき者やダークグリーンの軍服を着込んだ兵士らしき者達がその周囲で機材をテントの中に運び込んでいた。
集められた香山達には目的は何も伝えられず、ただ一言『監視要員』とだけ教えられた。
これも先の隕石落下と関係有るのか……勿論そんなことは一々説明して貰えなかったし、質問もしなかった。
彼等防衛大生は機材の運び込み、設置を手伝わされた後、テントの外周の警備に回された。
識別プレートを付けていない者はその場で射殺して良い、実行できるか出来ないかなどどうでも良いらしく、弾倉を二つ持たされ歩哨に当たる。
交代制の24時間警備、香山と相田はペアとなって何日目かのその夜、歩哨に向かった。
漸く無駄口をたたける程度には精神的回復を果たした彼等は、取り敢えず現状の不満を述べ合うことで何とか平常心を保とうとしていた。
「しかし何だな、お前の日頃の行いが悪いからこう言うことになるんだな」
「俺はお前の側にたまたま居ただけだ、それなのにこんな目に遭うんだ……自分の不幸は自分だけで納めろよな」
香山と相田どちらで有っても成り立つ会話だ。
「ところで相田……余計っ事だが彼女は無事だったのか?」
「ああ、あの件で実家に帰ってるらしい。あいつの実家の方は地震程度の被害で済んだみたいだしな」
「ほうほう、腹の中の子も無事ってか。取り敢えず良かったな」
香山が今まで聞くのを躊躇っていた情報は、様々な事情を含みながらも苦笑いと共にもたらされた。
馴れぬ自動小銃の重さに疎ましさを感じながらも何となく楽しい気分になり、自分達の置かれた立場への不満も更に加速され口から飛び出す。
「大体おかしいとは思わないか?何で俺達がこんな所に駆り出されなきゃいけないんだ?正規の自衛官にやらせりゃいいじゃねーか」
「人出が足らないんだろ、いくつの部隊が壊滅したと思う?残った連中だって治安維持だの湾岸警備だのに駆り出されてるし」
香山の言ったことが本当かどうか不明だが、確かに人手は不足しているのだろう。
減らず口とテントを眺める度に湧く疑問が、相田の口から照明で斑に塗装された闇に転がり落ちる。
「要するに小遣い渡して遊ばせておく暇はないってか、しかしここで何やってるんだろうな」
「ンナ事下っ端の更に下っ端の俺が知るかよ。こんなもん持たせるんだから相当やばいことだよな。これだけの人員と機材をこの時期に割けるんだ……ホント、何やってるんだろうな」
自動小銃ぶら下げて救助活動でもないだろう。
あの災害から一週間、例え一人でも、一台の車両でも欲しい被災地は無数にある筈なのにこの場に集中している。
それだけ重要な何かがここにあるだろう事は解るが、それが一体何なのか……被害状況しかり原因しかり現在の指揮体制しかり不明なことが多すぎて、それが彼等にストレスを与えていた。
「なあ……あの中覗いてみるか?ちょっと調べたんだが一カ所巡回路から入れる搬入口が有るんだが……ノーチェックで」
相田の一言は香山のくさくさした気分に一筋の光を投げ込んだ。
テントの中身を知ったところでどうなるものでもないが、調べるという行為自体が現状に対する憂さ晴らしになりそうだった。
だが辛うじて残っている常識的な部分が、こうまで厳重な監視を敷く場所に忍び込むことを躊躇わせた。
一旦口にした事で相田の決心は固まっているらしい。
「別に本格的に調べようってんじゃないさ、ちょっと覗こうってだけだ……見つかったときは迷ったとか便所探していたとか言えば大丈夫さ……多分な」
「多分……ね、幾ら何でも関しカメラぐらいは付いているだろうが。ヤメヤメ、ヤバ過ぎだ」
「監視カメラはあの内部にはないよ。搬入リストにあったカメラの数が殆どテントの外に向けられているんだ、数えて確認したよ」
何のことはない、彼はずっと覗くことを計画していたようだ。
その他にも処分品から拾った白衣だのテント内部の簡単な略図だのがあることを告げた。
以前からそうだったが相田には抜け道を探したり小細工を施したりと言った妙な才能がある。
お陰で防衛大の寮の門限を破っても発見されることはなかったし、厄介な者を連れ込んでも発見されることもなかった。
「やっぱり駄目だな、第一知ってどうするんだよ?」
「別に。ただ面白いだろうなと思って」
数分後巡回路から外れ、廃棄物搬出用の入り口に身を潜める二人の姿があった。
*
「……防護服の用意を。準備が出来次第降下」
ドーム型テント内に設置されている仮設ハウスで幾人かの作業員が慌ただしく動き出し、やがてその男の前に密閉型の防護服が用意された。
「三名で降下する、残りはモニタリングにかかれ。状況は逐次報告しろ」
彼は現場指揮官か、もしくは更に上位に位置する人物なのだろう。
まだ若く三十代と言ったところか、鋭さを感じさせる癖のある目つきでハウス内を見回した。
さほど広くない仮設ハウスに無数の測定機材が並べられ、オペレータらしき技術員が機器を立ち上げる。
機材の山から伸びたへその緒を連想させるコードの束が、防護服に背後に接続された。
「な、言ったとおりだろ?内部は思ったほど厳重じゃないんだよ。しかし……」
「にしてもこりゃ一体なんだ?掘削機にクレーンと昇降機……場所柄温泉でも掘ってるのか」
巨大なテントの内部は思っていた以上に閑散とし、山積みされた木箱と中央付近に設置された重機が目に付く程度だ。
低い唸り声のような駆動音はこのドームテントを膨張させるためのコンプレッサーだろう。
規模こそ小さいものの、東京にある全天候型野球場と仕組み自体は大体同じらしい、もっとも一週間前に本家は東京ごと消えてしまったが。
木箱の陰に隠れながら相田、香山両名は仮設ハウスに向かって慎重に進んだ。
「なあ相田、これ米軍が絡んでるな。あれ見ろよ」
小声で指さした先に金髪の歩兵がいた。
機材搬入時に居なかったのだから、後から到着したものと思われる。
「確かロシア軍にも金髪はいたしフランス軍にも金髪はいたはずだぞ」
「だがガム噛んで歩き回るような下品なのは米軍にしかいないぞ。見ろ、あの品性と無縁な顔立ちを……ああいうタイプは足も臭いんだ」
これ以上はないほど偏見に満ちた判断だったが、相田は背にした木箱の隙間から香山の断定を裏付ける物証を引っぱり出した。
「……米軍の軍服だ。奴ら泊まりがけでこんな事してるらしいな」
「何だって米軍が温泉掘りしてるんだよ、向こうだって人手が有り余ってるわけじゃあるまいに」
「こっちと同じだよ、無理矢理人員を割いたんだ……この場所で何かをするためにな」
まさか温泉掘りではないだろうが、あの穴の中にそうすべき何かがあることだけは確かなようだ。
貴重な人員と機材を割き、緊急対策本部と同時に急遽設置されたドーム。
これだけの物をまともな命令系統無しに作れるはずがないのだ。
……対策本部が作ったのか、それともこれを設置するために対策本部を作ったのか……
ただの防衛大生に答えを出せよう筈もない。
「なあ香山、対策本部の団長は誰だっけか?」
「えっと確か東部洋太郎とか言う奴だよ。ほれ、民国党の次期幹事長だか何だかの……防衛庁とのパイプが太いんだよな……この間うちに来て講演してたろうが」
相田の記憶に漸く顔が浮かんだ。
講演内容など覚えては居ないが、政治家よりもマフィアのボスと言った雰囲気の胡散臭そうな男だった。
もっともそれ以上のことは知らないので、ああそう言う奴もいたな程度で思考は中断した。
一方香山も同様らしく、引っぱり出した米軍の軍服をしげしげと眺めていたが、何も解りそうにないのでその辺に投げ捨てた。
「取り敢えず穴の中覗いてみようぜ。プレハブ小屋までいけるか?」
「多分……な、あの歩哨がどっかに行けばだが……」
相田の願いが通じたのかどうか、プレハブから防護服を着込んだ三人と機材を積んだ台車を押している作業員数名が出てくると、それに付き従うように米兵らしき者もその場から離れ中央部に向かう。
他にドームテント内にいるのは中央部を警備している兵士十名ほど、作業員がやはり十名ほどとそれに混じって白衣を着た研究者らしき者が数名、いずれも防護服の一団と同じように中心部に集まり始めているので相田達の発見される確立は低くなったようだ。
プレハブ小屋は中心から離れているので今なら近寄っても見つかりはしないだろう。
二人は視線を交わし、大きく息を吸うと出来るだけ速く出来るだけ静かに足を動かし、何とか騒がれずに移動した。
小屋の内部には白衣を着た研究者らしき者達三人が中央部からの連絡を待っていた。
内一人は女性で三十代後半か、短くした髪を時折かき上げ焦れったそうな様子だ。
「なかなか美人だけど、ちょっときつい感じがするな」
「相田の趣味はああいうのか?俺はもう少し若いほうが良いんだが……」
「趣味って訳じゃないさ、一般的に見て美人だと言ったんだ」
どうでも良いことで討論できるほど安穏とした状況でもない、兎に角あの穴の中の正体を確かめなければならないのだ。
確かめてどうすると言われても何か出来る立場にない、たかが半人前が二人いるだけだ。
これだけこのことが起きながら何一つ確かな情報が得られない苛立ち、自分達の置かれた状況が不明瞭なことに対する不安、まだ若い彼等は納得ではなく行動を選んだ。
「そんでどうするんだよ、こんな所じゃ穴の中は見えないぞ」
「解ってる、そこでだ……これこれ。暇だから携帯TV持ってきたんだがこれちょっと弄ってあってな、あの電波を受けられるんだよ。仕組みはな……」
相田の説明では調査に潜っただろう防護服の一団はケーブルで画像なり情報なりを穴の付近のチームに送るだろう、そして電波によってここのプレハブ小屋に送信される。
周波数さえ合わせればこの携帯TVでその映像を見られるはずだ。
「何でんな事断言できるんだよ?」
「さっき運んだ奴が送信機だからさ、それに小屋の屋根にアンテナが付いてるしな。恐らく何かあったときの為に一番端に小屋を建てたんだよ、バックアップも兼ねて」
「……まあいいや、一応信じるよ。で、肝心の画像は映ったか?」
「ちょっと待てって……良し!感度良好だ!」
相田は昔からの趣味でAV機器や通信機器に関してかなり詳しい知識を持つ。
彼の部屋にはその手の代物で溢れ返っており、今手にしてる改造携帯TVもその内の一つだ。
幾分ノイズを含みながらも微調整することによって徐々に映像を映し始めた。
「助かったよ、プロテクト掛けられたんじゃどうにもならないがそこまで余裕はなかったらしいな」
「そうだな、何焦ったことやってんだかなぁ。じっくりやられたら入り込むところじゃないが……そんだけ緊急って事かな」
「しっ!……映ったぞ……さて、何が出てくるか御尊顔を拝見させて貰おうじゃんか」
「降下開始……外気温度に注意しろ」
クレーンに吊された昇降機がゆっくりと垂直に空いた穴に向かって降下する。
くぐもったようなモーターの駆動音が頭上から降り注ぐ。
昇降機の出口付近に立つ二人のフード越しに見える顔は緊張のためか幾分青ざめており、降下するに連れ増していく。
その一方もう一人の責任者らしき男の癖のある目つきは変わることなく、淡々と時が過ぎるのを待っていた。
小刻みな振動が全身に伝わり、昇降機が不機嫌そうに軋む。
『……後一分で深度1000、そろそろ見えてくるはずよ。外気温42度……』
直径50m程の縦穴に無線とケーブルを通じて女の声が伝わった。
助手と思われる二人はカメラや観測機材の準備を始める。
誰もが終始無言のまま一分と言う時間が過ぎるのを待つ。
防護服越しに伝わる気温は急激にその温度を増し、腕に付けられた温度計は既に100度近くに達している。
温度調節機能が働いているとは言え、三人の額にはうっすらと汗が滲みそれを拭うことも出来ずにいた。
フードに取り付けられているマイクが奇妙な音を拾ったのはその時だ。
今まで聞いたことがない、あるいは遙か昔に聞いて今は忘れてしまった音かも知れない、地鳴りのような響きに全身が包まれた。
耳だけではなく全身に響く……だが不快ではない、むしろ緊張が解けていくような気分になる。
『……何か目視確認できる?ノイズが酷いけど……六分儀さん、聞こえてる?』
名を呼ばれてもその男は何も答えなかった。
ただ眼下に見える小さな塊に顔を向けたままだ。
赤い、血のように赤い小さな塊。
巨大なクレーターの中心部、そこに存在する縦穴に浮かんでいる赤く小さな塊。
その表面の凹凸は彼等の目の前でゆっくりと、だが地鳴りのような振動を発しながら確実に増えていく。
これから何になろうか悩んでいるような……
「……六分儀だ、存在を目視により確認した……」
今度は地上にいる女からの返答がない、だが同じ映像を見ているはずだ。
地中深い闇の中、まるで蝋燭のように赤く発光した深紅の塊は、ゆっくりとその形状を変化させつつより深く潜っていく。
「……赤木博士、ゼーレに連絡を……方舟を確認した、と」
六分儀と名乗る男は口元をあざ笑うように蔑むように歪ませた。
その表情は……何かを決意したような禍々しい微笑みだった……
……2015年夏、山科二尉はこの職に就いてから何度目かの魂が木っ端微塵に吹き飛ぶような虚脱感を感じていた。
それでも役目を忘れないところはいっそ立派だ。
「香山一佐、聞きたくないけど質問いたします……確認したくはありませんが式典はどうなさいましたか?」
そして予想された答えがアロハシャツを着て缶ビールを飲んでいる男から返ってくると、もはや立っていることが辛いとさえ感じる。
「……理由は聞きません、ええ、どうせ忘れたとか腹が痛いとか、ええ、もう好き勝手に誤魔化して下さい」
「そう言う言い方はないだろう……これでも行こうとは思ったんだよ、でもなあ……もし日射病になったら大変だし甲板は暑いし、どうせ末席だし……」
この日、目と鼻の先に勇姿を見せる空母ニミッツ上に於いて催された寄港歓迎式典は、香山不在など関係なく無事終了した。
だが無論このままで済むはずもなく、後始末……言い訳行脚をしなければならないのだ。
無論何ら責任のない山科二尉も同行しなきゃならない。
……そうなんだよな、こいつが何かしでかすと必ず誰か巻き込むんだ!……
自分は一段落した後防衛大を中退し食うか食わぬかの日々を暫く送り、香山はそのまま残り今の地位にいる。
十五年、様々な出来事が自分や自分の周囲、自分の住む街で起きた。
あのクレーターの跡を隠すように新しい都市が建設され、その地下で何かが蠢き、地上には得体の知れない化け物が徘徊するようになった。
全てはあの時携帯TVで盗み見た光景に端を発しているのだろう。
そしてこの後どう変わっていくのか……相田は頭を振って15年前の時間を追い払うと植え込みから腰を上げた。
「ケンスケ、そろそろ行くぞ。これ以上いると香山に巻き込まれるからな」
「何を言うか、俺を厄災の悪夢に巻き込んでたのはお前のほうだろ。お陰でこんなしがない自衛官にしか成れなかったんだからな」
お互いに巻き込み有っているのだろう……それが山科とケンスケ共通の事を同時に思い浮かべていた。
……類は友を呼ぶ、か……
「シンジ……何かない?面白いこと……お金のかかんない奴がいいわ」
「無いよ、漫画だって読んだしゲームだって飽きちゃったし……それにもう四時だよ、出掛ける時間もないよ。綾波、水出して良いよ」
名を呼ばれた少女が蛇口を捻ると、ホースの先から水が弧を描きながら乾ききった庭に撒かれた。
ついさっきまでリビングで土左衛門の如くゴロゴロしていた三人だが、そんな様子に呆れ果てたユイに追い出されたのだ。
ついでに庭の水撒きを命じられた。
「ねえレイ、何か面白いこと思いつかない?」
気力、体力、経済力共に著しい欠如の三人だったがそこは中学生、病気ではないのだから朝飯昼飯と食べれば気力と体力など幾らでも回復する。
だが経済力……要するに小遣いは増えようがないので、こうして家で管を巻くしかない。
「……ないわ」
冷ややかすぎる一言だったが、面白いことなどレイに聞いたのがそもそもの間違いだ。
そもそもこの三人の中で一番退屈に耐性の無いのはアスカなのだ。
逆にシンジは退屈を感じてもそれなりにのんびり過ごせるし、レイに至っては周囲がどういう状況であろうと文句を言うことがない。
一番最初に体力と気力を回復させた彼女が、最も退屈という苦痛を味わっているのだから皮肉なことだ。
「シンジ、あんた水芸の一つでもやりなさいよ。ただ水撒いたって面白く無いじゃない」
「出来る訳無いだろ、大体面白くって撒いてるんじゃないよ。それに庭の管理はアスカと母さんなんだから、ホントはアスカが撒かなきゃいけないんだからな」
別にそう決めた訳じゃないが、庭に植物を植えて喜んでいるのはユイとアスカなのだ。
シンジ、ゲンドウ、レイの三人は好き嫌い以前に興味を示さない、恐らく冬にひまわりが咲いても「ああそうか」と思うだけだろう。
色とりどり百花繚乱、絵の具をぶちまけたように咲き誇る夏の花々が大粒の水滴を受け、軽やかにダンスを披露する。
エアコンで乾ききった彼等に外の空気はいっそ心地良く、一日部屋にいた閉塞感からも開放され気分も軽くなる。
そうなってくると今日一日を無駄にしたような気がして、アスカはジッとしていられないのだ。
「じゃあさシンジ、レイ、散歩に行こうよ。どうせ暇なんだし七時までその辺歩いて」
「やだ!何で三時間も歩き回らなきゃいけないんだよ。少しはジッとしてたら?」
「全く面倒くさがりなんだから。良いわよ、あたしレイと行ってくるからシンジ留守番よ」
始終何かしていないと落ち着かないこの性格は一体どこから来たのか、不服そうに頬を膨らませる少女を何とはなしに眺めた。
早速蒼銀の髪の少女に散歩の話を持ちかけているが、レイの方はあまり乗り気ではないようだ。
無理もない、目的もなくブラブラ三時間も歩くのは如何にレイとて納得し難い物があるのだろう。
二人に振られると如何にアスカといえども自分一人でウロウロする気もなくなる。
仕方ないのでホースを踏んで水を止めてみたり、わざとシンジの前を横切って水が掛かったと因縁を付けたり、いきなりシンジの腕を掴んでホースの先をレイに向けたり……
「ねえ!つまんない!!つまんないつまんないつまんない!!どっか行こうよー!」
「あーあ、もう一日終わっちゃうね……楽しかったからアッという間に時間が過ぎちゃうわ」
第三新東京市駅の大時計は午後七時半、洞木ヒカリは携帯電話をポシェットに放り込むと寂しげに呟いた。
見慣れた駅は見慣れた賑わいを見せ三人を出迎えた。
「そう言って貰えると誘った甲斐があったちゅうもんや、ホンマ、付き合ってくれてアリガトなぁ」
鈴原トウジは幾分照れくさそうにそう言った。
プールで遊んだ後は近くに併設された熱帯植物園を見学し、帰りがてら富士市市内のデパートでウィンドウショッピング、そして喫茶店でアイスカフェオレを飲んだ後帰りの電車に乗る、絵に描いたようなデートコース……正確にはアスカの描いたデートコースを辿って予定通りの時刻に第三新東京市着いた。
流石にトウジもヒカリも話に詰まるようなこともなくなり、会話も十分楽しんだ。
それは普段交わすことのない様な会話だった。
「ところでイインチョは時間大丈夫かいな?良かったらこの後レストラン行くんやが……どうや?」
無論アスカの描いたコースの最終地点だ。
ヒカリは大きく頷いて夕食に同行することとなった。
先程携帯で家にそう連絡したのだが、もしトウジが夕食のことを言い出さなかったら自分が鈴原兄妹に御馳走するつもりだったのだ。
さて、アスカの指定した店はお洒落で小粋でそこそこの値段のする店だったが、トウジはそこを選ばずごく普通のファミリーレストランを選んだ。
別に費用の問題ではなく、妹がハンバーグセットを望んだ結果だった。
駅前から少し歩き国道沿いに出るとすぐにファミリーレストランが見つかり、幸いなことに並ぶことなく席に着くことが出来た。
「ワイはステーキセットや、で、こっちはイタリアンハンバーグセット。飲みモンはアイスコーヒーとパインジュースや」
「あたしは照り焼きチキンセット、飲み物は……アイスコーヒーで良いわ」
料理が出てくるまでの会話はやはりプールや熱帯植物園のことだ。
まるで思い出話をするように次から次へと話題が浮かび、注文した料理が運ばれてからもそれは続いたので、ちゃんと味わったのはトウジの妹だけだった。
「ちょっと喉乾いちゃった……あ、寝ちゃったの?」
「そうみたいやな……散々はしゃいでおったからな。飯食って眠うなったんやろ」
兄の膝の上で眠りこけている女の子は、今日一日で一体どれほど動いただろう。
お腹が一杯になった途端滑り落ちるように眠りに入ってしまった。
何の危機感もない寝顔がヒカリには印象的だった。
この女の子より年上の二人も眠りはしないものの、満足したお腹を抱え些か気分が緩んでいる。
流石に店内は混み始め、その名の通り家族連れの姿が多く見受けられた。
自分達が待たずに席に着けたのは本当に運が良かったからだろう。
おかわり自由のアイスコーヒー二杯目を飲み干したヒカリは目の前の兄妹を眺め、ふとした疑問を口にした。
「鈴原君て本当に面倒見良いわよね。やっぱりいつも一緒に出掛けるの?」
「アホ言うなや、こいつは普段友達と遊んでるんやけど夏休み入ってみんな出掛けてもうたみたいなんや。偉う暇しとるからな……それに大した所連れていってやれんしな」
「偉いね、鈴原君て時々大人っぽく見えるし。今日だってずっと面倒見てたもんね……優しいのね、やっぱりお兄ちゃんて感じ」
学校では殆ど気付かなかった一面だ。
それはヒカリの興味を引き、トウジについてごく表面的なことしか知らない自分に気付いた。
あれだけ長い時間学校で一緒にいても、ほんの一面しか見ていなかった……今話をすればするほど違う面が見れるかも知れない。
「そうだ鈴原君、アスカや碇君と幼稚園の時からずっと一緒だったんでしょ?この前アスカがそんな事言ってたの。ずっと仲良かったの?」
「ん……あいつそないな事言うとったんか。まあ仲がええちゅうか……ワイな、幼稚園のころシンジを仰山イジメとったんや」
再び意外な一面だ。
学校では相田ケンスケも絡み三人でつるんでいるのだ、そんな過去は想像していなかった。
もっともトウジとは中学に入ってから知り合ったのだから、幼稚園の頃など知る由もない。
「いじめっ子だったんだ?じゃあ碇君とは仲が悪かったの?」
「うーん、何ちゅうかシンジの奴ああいう性格やし……まあ妬みもあったんやろな。ワイらの通ってた幼稚園な、帰りには親が迎えに来るんや」
トウジ達の幼稚園時代と言えば2005年、セカンドインパクトからの復興時期に当たる。
第三新東京市が地図に書き込まれ、人々が住み着き始めてから漸く一年が経とうかという時期だ。
まだ日本各地に災害の傷跡は色濃く残っていたが、ここだけは新規に造られた都市だけ有ってセカンドインパクトなどまるで無かったかのようだった。
転居してきた人々もそれぞれ職と収入を確保しており、この時期最も治安の良い都市だが災害前と同等と言うわけにはいかず、子供、それも園児などの安全にはどの親も神経をとがらせていた。
他の地域での治安は未だ回復し切れてはいない時期だ。
トウジやシンジ、アスカの通う幼稚園も親の送迎を勧めており、それが不可能なときは幼稚園職員が送迎を行っていた。
「でな、その頃ウチのお母んはコイツ生んでそのまま逝ってもうてな……そん時はよう解らんかったけどな」
あの時は母親の死をそれほど具体的に認識できなかった、これから先永遠に母親の声を聞くことも姿を見ることも触れることもできない、その事がまだ判らなかった。
「せやけどな、シンジのところにはお母んがちゃんと迎えに来るンや……それが不思議でな、家に帰ってもワイのお母んはおらんし……」
初めて母親の死が具体的に認識できたのは、いつの間にかバスで送迎される自分に気付いてからだ。
迎えに来る母親を待っているシンジを見たとき悟ったのだ。
もう二度と母親に出迎えて貰えないのだと。
「それが優しそうなお母んで……何や偉う悔しゅうてな、ほれ幼稚園児やったし、ついシンジの奴いじめてたんやろな」
照れくさそうに笑いながらアイスコーヒーを口にした。
その時はともかく今となっては単なる昔話だ、他界した母親を懐かしいとは思っても、悲しいとは思わないほどの時間が過ぎていた。
それらのことはヒカリには実感できようはずもない、両親姉妹共に健在でつつがなく過ごしている彼女には。
アスカにも感じたようにトウジに対しても、その事が負い目であるかのように感じてしまう。
「そうだよね……お母さん居なくなっちゃったんだものね……だからよけい妹さんに優しいのかな」
「そないな訳や無いけど……まあ、コイツが自分に母親が居ないって解ったとき、少しでも寂しゅうなければエエなと思ってな。ワイはまだ顔知っとるけどコイツは顔すら見とらんし……引け目っちゅうんかな、上手い事言われへんけど」
それはもしかしたら自分の感じた負い目と同種の物か。
持つ者が持たない者に感じる優越的な負い目……
ヒカリはどんな顔をして良いのか解らないらしく、少し俯いて聞いているのを見てトウジは話題を変えた。
「まあ、シンジのことイジメたけどな、せやけどワイはその倍以上アイツにやられたんや!惣流の奴まるでシンジの用心棒やったわ」
例えば休み時間にシンジをぶって泣かせたとする、すると次の休み時間にとある女の子が何の警告もなく椅子を投げつけるのだ。
さらにシンジの遊んでいたオモチャを横取りしたりすると、そのとある女の子にいきなりバケツの水をぶっかけられたりする。
「えーアスカってそんな事してたの?あんまりそう言う風に見えないけど」
「アイツはな、外面はごっつうエエんや、せやけど裏でやってることは鬼か悪魔やで。あない酷い事しても一回も先生に怒られたことなかったしな」
その時の様子を思い浮かべ、危うくコーヒーを吹き出しそうになりながらも何とか堪えた。
確かにアスカにはそう言った一面があるが、やりすぎかどうかはともかく原因はトウジにあるのだからそうそう被害者ぶる事もできないだろう。
この辺はアスカに聞けばまた違うことを主張するのは想像に難くない。
「でもそうやって聞いてると碇君とアスカって昔っからくっ付いてたんだね、今でもそのくらいやりそうだし」
「くっ付いてたというかシンジをしょっちゅう引きづり回したちゅうか……まあ、あの頃のあの二人は親分子分やな」
自分で言って笑い出したヒカリにつられ、トウジも思わず笑った。
いずれにせよ笑い話だ、トウジは更に幾つかの……主にとある女の子の悪行の数々を披露した。
小学校に入ってからはシンジとつるむようになり、それにアスカが引っ付いてきて三人での行動が多くなる。
「そんでな、工事現場に三人で入り込んだんや。そしたら鍵が付きっぱなしのブルトーザがあってな……ワイとシンジは止めようと言ったんやで、せやけどあのアホが鍵ひねってな」
レバーを弄っているうちにゆっくりと前進しだしたブルトーザを止める術など小学生が持っていようはずもない。
今にして思えば怪我もせずに済んだのは良かったが、もしばれれば三人ともこっぴどく叱られたことだろう。
トウジの披露した昔話にヒカリは苦しい程に笑った。
そして楽しい時間ほどアッという間に過ぎる、気が付けば家に帰らねば不味い時間になっていた。
「オウ、もうこないな時間かい……ほな家まで送るわ。どうせ通り道やしな」
「あ……でも……うん、一緒に帰ろ。ホント、今日は楽しかったわ」
二人は席を立ち、トウジは眠ったままの妹を背負う。
その際に少しだけ起きたが、背負われ安心したように再び眠りの国に沈んでいった。
支払いはトウジが済ませ、レストランから外に出ると涼しげな夜風はヒカリのお下げを揺らし、微かに甘い香りを運んだ。
トウジやヒカリ達が生まれてから出来た街は夜を昼に変えるほど明るく、車も人も途切れることなく流れ続ける。
「ねえ鈴原君、不思議だと思わない?ここには大きな怪獣が来るのにみんな平気な顔して暮らしてるのよね」
「ん?……まあそうやな。恐くない言うたら嘘になるンやろうけど……まあそれほど被害も出ないし、言ってみりゃ台風みたいなもんと同じなんやろうな」
ふと街を眺めればいつもと同じようにビルが闇夜にそびえる。
「……いつまでこのままでいられるのかな……今凄く楽しいけど、いつか終わっちゃうのかな」
まだ遊び足りない夏の夜、家に一歩近づくごとに胸の奥で寂しさが沸き上がる。
明日もあるし明後日も来る、だが今という時間は確実に過ぎている……それをこれほど惜しいと思ったことはない。
砂時計のように流れ落ちていく今という時間、その上に乗っている今の楽園。
「せやな……ずっと楽しいままじゃおられんやろな。せやけど明日はきっと楽しいで」
「うん、そうだよね……」
巨大な怪獣が現れてから誰もが持ち、だが誰もが表に出さない不安。
何も知らないまま過ごし、いつか不安が消えてしまうことを望みながら暮らす街。
だかトウジもヒカリも明日は楽しいとまだ信じることが出来た。
「そろそろバスが来るやろ……ホンマ、今日は楽しかったな」
夏休みと冠した八月が残り僅かとなった、それは別に嬉しくも何ともない事実認識だ。
カレンダーを見てどことなく寂しさを覚えるのは何もシンジに限ったことではない。
新潟への旅行、連日の夜更かし、街へのお出かけ……思う存分満喫した夏休みだけに余計そう思えるのかも知れない。
「暇よ暇!誰が何と言おうと暇なのよ!それをどうにかするのはシンジの責任よ!!」
プロレス技で言えばチョークスリーパーと言う技になるのだろうか。
白い腕が容赦なくシンジを締め上げる。
ここ数日過ごした無為な日々が彼女を凶暴化させていた。
それは別にシンジのせいではないのだが、アスカにはそんなこと関係ないらしく、まるでヤクザの如く因縁を付けては絡んでくる。
「そんなに暇なら遊びに行けばいいだろ!洞木さんだっているんだから電話で誘えばいいじゃんか」
「誘ったわよ!そしたら用事があるって遊んでくんないンだもん!」
それもシンジの責任ではないのだが、彼の首に絡まった腕は一向に緩みそうになかった。
夏休みもいよいよ終盤戦、なのに何のイベントもない状態というのはアスカにとってはかなり辛い状態であった。
朝からプロレスをするハメになったシンジを横目に、もう一人の同居人は床に寝そべり隣の騒動など知らぬ振りで雑誌を開いている。
今日に始まった事じゃない、珍しくも何ともない、むしろ読み飽きた半年前のファッション雑誌の方が余程新鮮味があるというものだ。
レイは時々手元のコーラを飲みながらページを捲り、半年前の新作のコートを眺めていた。
事自分に被害が及ばなければ周囲がどのような状況であれ、いつでも自然体でいられるのが彼女の特長だ、暇だの退屈だのと騒ぐこともなければ暴れることもない。
やがて騒動が止み、ボロ布と化したシンジを放り出したアスカは新たなる標的としてレイを定めたようだ。
「レイ、何かして遊ぼう……あたし暇なの……何でもいいわよ」
否応なくアスカに取り憑かれ被害を被ることになった。
一瞬逃げようかとは思ったのだが寝転がっていたため行動が遅れ、背中にアスカが乗ってしまった。
「……重いわ……退いて……」
「何よ失礼ね、あたしそんなに体重無いわよ。重いなんて気のせいよ」
「……きっと夏休みの間に太ったんだと思う、動かなかったから……あ、痛い、何をするの?」
何をするもヘッタクレもなく退屈だからこうしてシンジやレイをいじめているだけなのであって、朝っぱらからいい迷惑としか言い様がない。
「大体何でそんなの読んでるのよ、半年前の雑誌じゃない」
「だって……雑誌は読む物だから……あ、痛い」
あくまでもレイの返答に悪気はない、そんな含みを持たせられるほど器用な返事など出来ないのだ。
それでも朝の静寂を破られたあげくプロレス技など掛けられたくはないので、抵抗するものだからさっきと同様の賑やかさをリビングに添えた。
例え小遣いが無くても賑やかさだけは変わらないらしく、ソファに身を沈め新聞を開いているゲンドウは今更何か言う気もないようだ。
無論心中では静かな朝という物を望んではいるのだが、それを口にしたところでどうなる物でもない。
さて、そんな碇家の主婦は先程から姿を見せず、一階の奥の部屋で何かしているようだった。
洗濯でもしているのだろうが、だが洗濯機の動いている音が聞こえてこない。
それに気付いたアスカがレイの背に乗ったまま、周囲を見回した丁度その時二人を呼ぶ声が奥の和室から聞こえた。
「アスカ、レイ、ちょっとこっちに来て」
呼び声に応えない理由は二人とも無いので、プロレスごっこを一時中断しリビングを後にし和室のふすまを開ける。
暫くして黄色い声……つまりアスカの声がふすまを突き抜け扉を蹴破り、リビングのシンジとゲンドウの耳に飛び込んだ。
何事か、と思う間もなく今度は声ではなく実体がリビングに飛び込んできた。
「ねえねえシンジ!これスゴイでしょ!!どうどう?」
ついさっきまでアスカとレイ二人が着ていたのは綿の膝丈パンツとどうでも良いようなTシャツだった、それが今は浴衣を羽織っていた。
アスカが着ているのは淡い朱を主体にしたホオズキ柄の浴衣、彼女の影から恐る恐る顔を出したレイが着ているのは紺を主体にした魚の柄の浴衣だ。
アスカがクルッと身を翻すと裾は優雅に広がり、さながら花びらが開くようだ。
「あ、うん、よく似合うよ。二人とも」
何とも無個性で平凡なシンジの誉め言葉だったが、アスカとレイはそれで満足した。
もっともアスカは取り敢えず満足しただけであって、後で絶賛させるつもりらしい。
「今日駅前でうちわ祭りやるでしょ?おばさまが作っておいてくれたのよ」
うちわ祭りというのは第三新東京市駅前を通行止めにし、大々的に行われる夏祭りだ。
この都市が建設されてから毎年行われるのだが、徐々に規模が大きくなり歩行者天国まで設置ようになったのは二年ほど前からだ。
うちわ祭りという名称だが別に何か由来があるわけではなく、当たり障りのない平凡な名称にしただけらしい。
それでも屋台や出店、山車なども出て賑わいは相当な物だ、また街外れで荒れ地のままの再開発地区では花火も打ち上げられる。
この辺りでの一大イベントなのだがアスカはその事をすっかり忘れていたらしい。
「どう?二人ともよく似合うでしょ。この間仕立てたんだけれどサイズもピッタリよ」
自慢げに語ったのは当人達ではなく、浴衣を用意したユイだった。
市内の高級呉服店でわざわざ仕立てたのだから喜んで貰えなければ張り合いが無いという物だが、二人とも表現方法こそ違えど予想以上に喜んでいる。
「……碇君……あの……何処か変じゃない?」
「ううん、全然変じゃないよ。似合ってると思うし」
ほんの少し頬を染め俯くレイ。
一方アスカの方はゲンドウにひけらかした後、今度はさっき足りなかった賛辞を言わせるべくシンジを捕まえた。
「で、感想はどう?正直に言っていいわよ。でも似合ってるとかそんなつまんない感想じゃ許さないんだから」
「許さないって……じゃあ綺麗だなとか……」
「何よそれ!もっと他に言うこと無いの!?」
「あとは……えーっと……夏向きだなとか……」
再びチョークスリーパーを掛けられ悶絶するシンジが、掠れた声で更に幾つかの誉め言葉を漏らす。
アスカは満足したわけではないが裾がはだけたので、取り敢えずシンジを開放した。
「ほらあんまり暴れると皺になったり破れたりしても知らないわよ、向こうで着替えて吊してきなさい」
「あ、ところで母さん、僕の分は?」
「何言ってるの、前に聞いたら浴衣なんて着ないって自分で言ったんでしょ。だから作らなかったわよ」
そう言えば以前そんなことを聞かれた覚えがあり、確かにそう答えた記憶もある。
とは言えこうして目の前で着られると自分の分も欲しくなるのは人の常。
「へへーン、シンジの分ないんだ?あたしの浴衣良いでしょ、ねえ、スッゴクイイデショー!」
ヒラヒラと裾を揺らす姿はまるで金魚のようで、ごく平凡なフナの前でその容姿を自慢しているように見える。
実際自慢しているのだ。
「あ、触らないでよ、汚れちゃうじゃない。大事な浴衣なんだから……汚さないように着替えてこよう」
散々披露し自慢し満足したアスカはとっとと奥の部屋に引っ込んでいった。
一方レイの方はまだ着ていたいらしく暫くリビングに留まったが、ユイに促され着替えに行く。
やはり汚したくはないし、もう少しすれば再び着られるのだ。
二人のいなくなったリビングにいるシンジはやはり浴衣が着たくなったらしい。
そもそも祭りのまの字も出てこない時期に聞かれても、浴衣などに興味の示しようがないのだ。
シンジにはこの手の後悔が結構多く、その点アスカなどは要領がよい。
「母さん、何か浴衣余ってないの?どんなのでも良いから」
「今更そんな事言ってもしょうがないでしょ、お父さんのお古があるけど大きさが合わないし今からじゃ合わせようがないわ」
もはや諦めるしかない。
その脇で項垂れる少年の父親は新聞を畳むと徐に立ち上がり、着ていたシャツを脱ぎ自慢げに言い放った。
「母さん、新調した浴衣を出してくれ。俺のはちゃんと頼んでおいた筈だ」
*
夕方ともなれば出歩くのにさほど苦労はしないで済む。
蝉の声も耳に心地よく、時折長い髪を揺らす風に乗って聞こえてくる祭囃子に胸が躍る。
アスファルトを蹴る下駄の音も軽やかに、そして小刻みになっていく。
「ほらシンジ、一個あげるから食べれば?何ふてくされてんのよ」
「別に……アチッ」
たこやきを口に入れ思わず顔を歪める。
「あ、やっとレイが見つかったわ、ほらあそこに」
祭り会場となった第三新東京市駅前は想像以上に人でごった返し、あれやこれやと出店を見て回っているうちにレイがいつの間にか消えてしまっていた。
どうせこの賑わいに気を取られているうちに迷子になったのだろう、そう思いさっきから探し歩いていたのだ。
アスカの示した指先の街路樹の下で、不安そうな顔でキョロキョロしている少女は紛れもなくレイだった。
「……良かったわ、そこにいたのね」
「何が良かったわ、よ!良いトシして迷子にならないでよね、もう」
「……迷子じゃないわ、あなた達二人が急に消えたの」
勿論消えるはずはないのでやはりレイが二人を見失ったのだろう。
呆れ顔のアスカはそれ以上言い訳を聞くことなく彼女の手を掴み、さっさと歩き出した。
「ねえ、金魚すくいでもやる?それとも射的とか」
「あたし射的やる。金魚じゃうちで飼えないもん、レイも一緒にやろ」
およそ遊ぶ物に困らない。
ユイもゲンドウも一緒に来ればいいのにとは思うが、彼等はもう少し遅くなってから来ると言っていた。
たまには夫婦でと言うのも解るのでアスカは必要以上に誘わなかった。
「でも何か悪い感じ、お小遣いこんなに貰っちゃったし……」
「別にくれるって言うんだからいいんじゃない?それにお金なきゃ遊べないし」
確かにお小遣いを貰えなければこうは楽しく過ごせない。
さっきから焼きそばだのたこ焼きだのジュースだの……それも全てその臨時収入のお陰なのだ。
さて歩行者天国に並ぶ露店の中から射的を探し出し早速声を掛ける。
「オジサン、三人分ね」
オジサンと呼ばれるには若すぎる青年が振り向く。
呼ばれ方が気に入らなかったのか不機嫌そうな顔だったが、声の主が浴衣姿の少女だったので表情は途端に柔らかくなった。
露店を出してから結構客が来たが、容姿だけなら見た限り今までの客で一番だ。
「ほい、じゃあこれ、軽い方がいいよな」
「アリガト、じゃあそっちの重い奴はシンジね。何文句言ってるのよ、当たり前でしょ」
射的と言っても結構凝った造りの銃で圧縮空気によりプラスチック弾を発射し、落とした的のトータルポイントで景品を獲得するルールだ。
無論一番小さな的が最もポイントが高く、高得点を取れば貰える景品も当然良くなっていく。
カウンター越しに撃つのだが的までは約5m、一番ポイントの高い的は一円玉と同程度の大きさで拳銃型のエアガンでは命中させるのは些か難しいかもしれない。
弾は十発、だがアスカとレイの手元には十五発の弾がある……理由は解るがそれはそれでシンジには何となく面白くない。
早速アスカがマガジンを挿入しセフティー外し、銃を構え狙いを付ける。
こういう場合真っ先に始めるのがアスカで、いつもハイリスクハイリターンを狙う。
浴衣姿ながらもなかなかに凛々しく、さしずめどこかの国の少女兵のようだ。
引き金が引かれポンッと弾が飛び出したが、狙っただろう一番小さな標的の脇を掠めただけに終わった。
「あーん、今弾がカーブしたわよ!」
それほど精度の低い銃ではなく、単に発射のショックで瞬間的に銃口が逸れただけだ。
不満顔のアスカの脇ではレイが彼女より馴れた手つきでマガジンを入れ、同じように一番小さな標的を狙う。
景品が何かなど、いや、景品を貰えることすら知らずにやっているのだが、軽い金属音と共に弾の命中した的が転げ落ちる。
続けてシンジも引き金を引き、やはり一番小さな的を落とした。
慣れの違いだろう、アスカは普段銃は勿論、銃の形をした物すら手にしたことがないが、シンジやレイはそれらの訓練を受けている。
たかがこんな遊びでもその差は出てしまうのだろう。
もし見る者が見れば彼等二人の銃の構え方に何か気付いたかも知れない。
二発目は三人とも外れて三発目はシンジとレイが命中させ、アスカは一番小さい的を三度狙ったがやはり外れた。
「ちょっとオジサン、この銃壊れてるんじゃないの?」
「そんなこたぁないよ、落ち着いて良く狙ってみな、もっと下の大きい的狙いなよ」
オジサンの言うことに嘘はない、ここにある銃の中では最も精度の高い銃だ。
その次に良い銃はレイが使っている。
とはいうもののあの的に当てるのはかなり難しく、二十人以上客が来たが当てられたのは二、三人だった。
栗色の髪の少女はそれでも小さな的に狙いを付け引き金を引く。
こうなったら意地でも落としてやりたいし、そう言う意固地さが確かに彼女にはあるのだ。
そして落ち着いて狙う、と言う芸当に不向きな性格でもあった。
「ちょっとシンジ、これとっかえてよ!そっちが良いの」
「同じだよ……単にアスカが下手なんだろ」
「何よ!シンジもレイも見てなさいよ……絶対あれに当ててやるんだから」
シンジの銃を引ったくると気合いを入れて狙いを定める、が、腕にも力が入りすぎたようだ。
三発撃って三発とも外れた。
「ほら、やっぱり当たらないじゃないか。素直に大きい的狙えばいいじゃん」
「……五月蠅いわね、そんなに言うなら大きい的狙うわよ!」
堪え性がない、とまでは言わなくとも活発な分逆方向の事が苦手だ。
銃口がシンジに向けられ遠慮無く引き金が引かれた。
発射された弾は逃げ出したシンジの素足に見事命中し、悲鳴を上げさせる。
「的がシンジなら当たるのよね……ちゃんと弾拾ってよ」
何か文句を言おうとしたシンジに再び銃口を向けその口を封じると、大きく深呼吸して的に向かう。
その脇でシンジ達は三発とも小さな的に命中させている、これはアスカにとって非常に面白くない出来事だ。
何故レイやシンジがこんなに上手なのか、無論その理由は知らない。
結局一番高得点の的に執着したアスカはその後一発も当てられず景品の貰えるポイントを取れなかった。
一方シンジとレイはその後快調に的を落とし、国籍不明の携帯デジタルミュージックプレーヤーをそれぞれ入手できた。
これはアスカにとって更に面白くない結果に終わった。
「ねえアスカは何取れたの?僕らは結構イイモノ取れたけど」
「…………」
「……もし良ければこれあげる、あたし多分使わないから……」
シンジに悪気はあるがレイにはない、だがアスカにしてみればどっちもどっちだ。
浴衣の件もあったからだろうか、さっきから景品を見せびらかしていた。
「……ふん、どうせお遊びじゃない、大したこと無いモン」
「遊びなら景品取れば良かったじゃんか」
「五月蠅いッ!オジサン、あたしもう一回やる!」
その結果、漸く的を二つ落としただけに終わり、再びシンジにからかわれる事となった。
一回り大きな的を狙えば景品の一つも貰えたろうが、意地を張ったアスカにそんな考えは浮かばなかった。
「綾波、アスカ何も取れなかったみたいだけどそろそろ行こう。全く意地張るからだよ」
「……良いじゃない別に。好きでやっただけだモン、意地なんか張ってないモン」
三度目に挑む気は流石にないらしく軽く前髪をかき上げた。
いつもならシンジに負けることなどアスカにはまず考えられなかった。
特にこの手のお遊びではこうまでムキになる程差が出たことなど無かったはずだ。
すっかりふてくされ下駄の音も高らかに射的場を後にしようとしたとき、不意に声が掛けられた。
「これ参加賞って事で持っていきな、一人だけ取れないってのも何だからなぁ」
射的屋の『オジサン』は何やら言い合っていた様子を見かねたのか、シンジ達と同じ景品をアスカに手渡す。
それほど高価な代物でもないのだろう、とは言え取れなかったのが少年の方だったらそんなことはしなかったと思われる。
「……アリガト」
どことなく複雑なのは景品が欲しかったわけではないからだろうが、それでも断る理由もなく大人しく受け取とり、先に出たシンジ達を追いかけた。
*
第三新東京市にそびえるビル群がほんの一時朱に染まり、やがて黒服を着込みその表面にいくつもの宝石を輝かせ始める。
それは天空に広がる星々を覆い隠し、自らの輝きだけを誇示するかのようでもあった。
もっとも例えビルが無くとも、地上は音楽と喧騒とネオンで溢れ、誰も星の存在など気付かないかも知れない。
「うーお腹いっぱい……ちょっと食べ過ぎちゃったかな」
「だってアスカったらフライドチキンまで頼むんだもん、太っても知らないわよ、ね、綾波さん」
その『綾波さん』もアスカと同じように苦しそうな顔をしているので、アスカについてとやかく言える状態でもない。
「あたしは太らない体質なの!何よ、レイもヒカリも太る太るって……あ、でもホントに食べ過ぎちゃった」
洞木ヒカリ達とこの祭りで出会ったのは偶然と言うわけでもない。
お互いどうせ祭りにに来るだろうと思っていたので、互いに何となく探していた結果あっさりと出会えたのだ。
ヒカリ達……出会ったのは彼女一人だけではなかった。
「それにしても用事ってこういう理由だったんだ……あ、別に言いふらす気ないから、ヒカリと鈴原がデートしてただなんて」
「やだ、デートじゃないわよ!たまたま一緒に祭りに来ただけで……」
律儀に顔を赤くして否定してみた物のあまり効果はなく、アスカの良いオモチャとなってしまった。
その一方で男性陣の方は大人しい物だ。
シンジはこの手の話にはあまり興味のない方だし、当事者たるトウジはわざわざ自分から話題を振る気もないし、電話で相談したのだから今更だろう。
そんなたわいもない会話を交わしながら歩くこと10分、程良い食後の運動を済ませた五人は、中心から少し離れた公園の小高い広場にいた。
後数分で闇色の空に大輪の花が咲き誇る、今夜の一大イベントの花火が始まるのだ。
周囲は彼等と同じように花火の見物客で賑わっており、静かに見物というわけには行かないがむしろ賑やかな方が盛り上がるだろう。
どうにか広場の隅を確保した一行は、手摺りに腰掛けると空を見上げた。
平和すぎる空に華が咲いた。
そして伝わる大音響は身体の芯まで振るわせるようだ。
「うわぁ……」
誰が漏らしたのか感嘆する声は、アッという間に次の花火で掻き消されていく。
瑠璃、玻璃、翡翠、数多の宝玉が漆黒の舞台に百花繚乱と咲き誇る。
それはほんの一瞬だけ無限に広がる空のほんの一角を飾り、静かに輝く星々を圧倒した。
地上に縛り付けられた者達は舞い踊る宝石達の演舞、一刹那の舞踏会を目に焼き付ける。
「……綾波?どうしたの?」
さっきからシンジのシャツを握りしめていた少女は、上空を見上げたまま彫像の如く微動だにしなくなっていた。
音、光、その全てが彼女を圧倒しているのだろう。
これ以上の音と光には馴れているはずのレイだったが、それは浴衣を着て眺める類の物ではない。
生まれて初めて見る闇夜のショーにのぼせ気味の少女は、現世に留まるためかシンジの腕を握りしめた。
まるで巨大な太鼓を打ち鳴らすように打ち上げられる花火は、僅かな時間だけ空を隙間無く埋め尽くす。
「ねえ鈴原君……もうすぐ夏休み終わっちゃうね」
音の止んだ僅かな隙間を縫ってヒカリが話しかける。
小さな声だったがシンジやアスカの耳にも届いた。
「せやなぁ……毎年思うんやけど後半は早送りに過ぎとる気がするわ」
それはこの場にいる誰もが感じている感覚かも知れない。
いつもと同じに進んでいるはずの秒針、だが短針はいつもより早く回っているのだろうかとさえ思える。
まだ人生でも何でも始まりの途中でしかない彼等、だがこの時期だけは終わりという物を実感できた。
眺める花火が消える度にそんな思いだけが募っていく。
一刹那の灯りに浮かび上がる同級生の顔にほんの少し寂しげな表情を見たトウジは、鼓動が一回だけ大きくなったのを自覚した。
「のうイイン……ほ、洞木……花火綺麗やな、せやからずっと見とっていたい思うわ」
多分一時的にイインチョではなくなった洞木ヒカリは小さく頷くと、同じように空を眺めた。
二学期は少し違う、それは何となく思うだけの予感にすらならない淡い物だ。
一際大きな花火が上がるとさっきより少しだけ近よった場所に座る二人が浮かび、その分離れた場所に座る三人も目映いばかりの光の中にいた。
「アスカ、ジュース一口飲ませて。喉乾いちゃった」
「さっき買えば良かったじゃない、ほら、全部飲んだらダメだからね」
飲みかけのスポーツドリンクを受け取ると、シンジは待ってましたとばかりに飲み込む。
何故か人が飲んでいるのを見ると喉が渇くようで、冷たい液体は心地よく染み込んでいく。
夜とは言えこの辺りはまだ蒸し暑いので汗もかく。
一気に全部飲んでしまいたいところだが後を考え適当なところで持ち主に返そうとする。
「……あたしも……」
「えー?レイも?やだ、ちゃんと残してよ。買いに行くの面倒なんだから」
軽く頷きはしたもののあまり気にしていないらしく、思う存分飲んだお陰でペットボトルの底に僅かにしか残らなかったが、花火にのぼせたレイにはまだ足りなそうだ。
名残惜しそうにアスカに返すが、返された方もかなりの不満顔だった。
まだ沢山あったのに一回りしたら一口分しか残らなかったことに抗議しようとした途端、アスカの口を塞ぐように空が輝いた。
時を忘れさせる華烈で幻想的な閃光、だがそれが幾ら放たれようとも時間は流れる。
光と音の乱舞はやがてゆっくりとしたペースになり、眺めていた者達を現実の中に引き戻た。
それはある意味夏休みという非現実的な時間からの帰還かもしれない。
残り一週間を切った事など別に今思い出したくなかったのだが、最後の花火が散っていくと、彼等の頭にカレンダーが浮かんだ。
「あーあ、夏休み終わっちゃうね……思ったよりも早かったな」
シンジの口にしたそれは、一同を代表した感想だったかも知れない。
静まり返った夜空を復権した星が月と共に飾り付け、透き間の空いてしまった彼等の胸を埋めていく。
その公園からも花火の終焉と共に見物客は去り、その分本来の静寂を取り戻していった。
ざわめきが消え虫の鳴き声が辺りから漂い始めると、言い様のない寂しさに包まれたシンジ達は互いに無駄口を叩く。
必ず流れる時間に抗うように、楽しい今を留めるように無駄話を続けるが公園の人影は次々と消えていった。
「さてと、ワイ等もそろそろ帰るか。イインチョももう帰った方がええやろしな」
後数日すれば二学期が始まり、日常の時間に飲み込まれていく。
日常……本当に訪れるのか、あの化け物を見て以来誰もが口にせず誰もが意識せずにいられない疑問だった。
「のうシンジ、あのバケモンは一体何なんやろな……もし倒せへんかったらどないなるんやろな」
隣りにシンジしか居ないので聞いただけだ、別に正確な答えなどトウジは求めていなかったし、聞かれた方も答えなど持ち合わせていない。
少し離れた場所で雑談するヒカリとアスカ、レイ達を眺めながら思わず口からこぼれ落ちた質問だった。
解らないから不安になる、理解の範疇を越えた出来事だから不安は恐怖に移行しない、喉に小骨が引っかかったような中途半端な状況。
安全じゃないと言う現実は何も自分だけじゃない、妹や親……そして……
「ちょっと鈴原!ヒカリが帰るって。あんたまさか一人で帰るつもりじゃ」
「ホンマ五月蠅い女やな。まあ、道も暗いししゃあないやろなぁ」
アスカに言われるまでもないのだろう、多少遠回りにはなるのだが苦になるはずもない。
先程まで五人だった集団は二人と三人で二手に分かれると、互いに手を振る姿が映る。
「ほらシンジ、あたし達も帰るわよ。レイも何ボーッとしてるのよ、チャッチャと歩きなさいよね」
急かされ先程まで映していた同級生二人の姿を視界から外す。
シンジはトウジ達が知りようのない事実は知っている。
彼だけじゃない、大半の第三新東京市市民の知りよう無い事実をシンジは知っている。
避難命令中に何が起きているのか知っているからこそ、不安は恐怖へと安易に変わるし、喉に引っかかっている物は小骨どころじゃない。
そして不安がって居られるわけでもなければ恐怖に戦いて居られる立場でもなかった。
ふと思う、自分には抗う力を与えられている……あの巨人の力を持つことは果たして幸か不幸なのか、と。
「ほら!何ぐずぐずしてるのよ!バス出ちゃうでしょ」
急かす声が背中から少年に伝わった。
何時の頃からか華奢に見えるようになったアスカの両腕に押され、ほんの少し歩みを早める。
「ちょ、ちょっと寄りかからないでよ!重いじゃない……巫山戯てるとバス間に合わないわよ!もうホント重いんだから」
「いいじゃんか、この方が楽だし……バス停まで押して」
シンジがそっくり返ったので背中を押していたアスカの両腕に掛かっていた重みが、急に増した。
何かと文句を言いながらも押すのを止めないアスカと文句を言われても体重を預けるシンジ。
ふとアスカの身体が軽くなったのは、レイが彼女の背中を押し始めたからだろう。
まるで祭りの後の寂しさを埋めるのか、互いに触れているとどこか安心できるのかも知れない。
「ねっシンジ、この間買った花火まだあるわよね、帰ったらちょっとだけやろうよ」
「うん、戸棚に入れてあるから大丈夫だよ。結構買い込んだもんな」
「……また花火?庭でやるの?……そう、別に良いのだけれど……」
何となく心配げなレイの様子は、花火イコール先程の打ち上げ花火とでも思っているからだろうか。
手持ちの花火などその存在すら知らないのだろう。
「あー!今シンジわざと踏ん張ったでしょ。ホントに急がないとバス遅れちゃうじゃない!間に合わなかったらあんた家までおぶりなさいよ」
「わざとじゃないってば。ちょっとつっかえて……イタッ!背中抓るなよ」
さして特別な事じゃない、日常の中に溶け込んでいるたわいのない事だ。
あの巨人の力は日常をそのまま留めておくために……シンジはそう思うことにした。
何時まで続くか解らないし得体の知れない相手ではあるが、それから守るべきモノも守る力も持っている以上、やらなければならないことはあるはずだ。
月影に描かれた三つの影は、一塊りになってアスファルトにくっきりと映っていた。
*
黄緑色のささやかな華はわずか時だけ輝き、そして闇の中に溶け込んでいった。
「少し残しておかないとあの子達が騒ぐわよ」
それが忠告なのかどうか怪しい。
男が袋から二本の手持ち花火を取りだし、その内の一本を手渡すと彼女は躊躇いながらもそれを受け取った。
庭で揺らぐ蝋燭にかざすと導火線が弾け、光の小さな滝を披露する。
つい先程までここ碇家の庭からも空に打ち上げられた花火は見られたが、手元のささやかな花火もそう悪いものではない。
「次はこれだな……ユイ、覗き込むな」
髭面の男はイソイソと筒を地面に突き立てると、ライターで導火線に火を灯した。
ユイとゲンドウの顔が数秒後に照らし出され、再び暗がりに沈むと周囲に白い靄が漂う。
「次はこっちのドラゴンという奴を……」
「あなた、いい加減にしないとあの子達が本当に騒ぐわよ、勝手に花火引っ張り出して……もう」
呆れたような妻の顔に構うことなく次々と花火に火を付ける。
一体どちらが先に花火をやろうと言い出したのか、食後TVを付けてもさして面白い番組もない。
久しぶりに五月蠅い連中も居ないので暫くはのんびりした時間が、ゲンドウとユイの間に流れた。
あの三人も一人ずつであるならさして騒がしいわけでもないのだが、一カ所に集めると化学反応を起こすようだ。
普段は無口なレイでさえ、あの二人と一緒にいるときは決して人畜無害というわけでもない。
何とも言いようのない目を穴の空いた壁に向ける。
今朝のプロレス騒ぎでレイが踵でぶち抜いてくれた穴だ……兎に角そう言った連中の居ない時間というのは貴重なのだ。
ふと気が付くとユイがゴソゴソと袋の中から線香花火をとりだしている、正確にはもう線香花火しか残っていない。
どうやら結局全部やることにしたらしい。
中途半端に残して置いても騒がれるのは目に見えているし、楽しいことは楽しいのだ。
「後でわたしが買っておくわ……仕方ないものね」
パチパチッと手元で儚げに弾ける火の玉は、見つめる二人の目前であっけなく地面に落ちた。
「揺らすから落ちる……そっと持たないと駄目だな」
「今のは風よ、ほら、今度は上手く行ったもの……」
子供のように真剣に散る線香花火を見つめるユイ、その彼女を眺めるゲンドウ。
夏のほんの一時は余りにもゆっくりと流れているようで……行き先を決めかね漂う煙のようにフワフワと。
ひとたび風が吹けばあっという間に散り、消え去る夢の時間だ。
手元で懸命に光を放つ花火の時間は短く、揺れれば落ちてしまうほど危うくて……手助けしてやることも出来ずただ見守るだけ。
夢の時間なのだ。
いつか消えることの確実な、必ず終わりの来るほんの一時の楽園。
二人は知っていた、知っているからこそ何も言わず無邪気に花火を愉しむ。
明日は必ずしも来ない、来ても全く違う明日かも知れない、だから何も言わず互いに寄りかかりながら今をゆっくりと過ごすのだ。
地面に落ちた火球を見つめたるユイとゲンドウにこからともなく聞こえる足音。
それはは余りにも元気が良すぎて、その正体を探る必要もなかった。
残り僅かな楽園の住人達、彼等はまだ光を放つ事が出来た。
続かない
あとがき
ども。
エーこれは本来夏休みの最後の章として出す予定だったのですが、いつの間にか月日は流れ去り今日に至った代物です。
手っ取り早く言えばHDDの片隅に残っていたものを引っ張り出して、書き足しただけなんですがぁ……
取り敢えずそう言うことで外伝としておきました。
因みに題の「ピリオド達の楽園」ですが、これは「あー何か気の利いた題がねえかなぁ。こう知的でメリハリがあってちょっと意外でそれでいて何となく解るようなヤツ」と考えた結果付けたものですから、作者のオツムの程度が知れる言うモノです。アッハッハッハのハ。
では後ほど本編で。