あれ、誰?
薄目を開けて、霞む視界にぼんやりとひろがる顔が在った。
その瞬間、体に感じる重みと暖かみ。
シッ、シンジ?!
しかし、跳ね除ける事が出来なかった。
初めて知った、心の壁の本当の意味・・・。
そういや、アタシこんな風に抱きしめられた事、無かったような気がする・・・・。
第一部 第九話
遣わされた使者
「まじか?」
デスクに向っていた伊勢は、目を丸くしてマコトに聞き直した。
「ええ。死人のIDカードですよ。」
「幽霊の方がまだ質が良いかもしれんで・・・・。」
伊勢はくるりと椅子を回し、デスクに肘をかけ額を押さえた。 マコトは右後ろから、その様子を見ている。
「しかし、戦死者と生存者のIDカードの照合を、一からやらないかんのか?」
「でも、恐ろしく頭が回るというか・・・・。あのサードインパクト時の混乱に乗じて、Data Baseを改ざんするとは・・・・。どれだけ、被害が有るか分かりませんよ?」
「これでは、世の中にどんだけ幽霊がいることやら。」
「それと、追跡結果なんですが・・・。」
「何処まで、追跡できた?」
「ドイツのテレコムまででして・・・。」
「ドイツ支部?」
「解りません。しかし、MAGIの防御壁を突破できるのは・・・。」
伊勢は机に両足を上げて、手に持ったレポートを天井に向けた。 マコトはその様子を見て、眉をひそめる。マコトの寛容さはミサトに使い尽くされたらしい。 それを気に留めないで、伊勢はマコトに言う。
「調査を続行してくれ。」
それに、マコトは横に首を振った。
「実は、今日をもって諜報部、特殊監査部、保安部の管轄が変わるんです。」
「あっ、今日か。」
「そう、今日です。」
NERV航空師団 厚木基地。
旧航空自衛隊の厚木基地は、現在NERVの持つ実航空戦力としての要となっていた。 その滑走路の脇に、冬月とシゲルが並んで立っていた。背後には、護衛の兵士が数人 銃を下げ立っている。
「奴の迎えとは。」
冬月は苦り切った顔をしている。
「何か、ご不満でも。」
「大有りだよ。」
「どうしてですか? アスカちゃんの両親がくるんでしょう。 これが、アスカちゃんの精神安定に大いに助けに成るんじゃないですか。」
何も事情の知らないシゲルは、不思議そうに尋ねた。
「会ってみれば解る。『百聞は一見にしかず』だよ。」
ありきたりの諺を使い、冬月は答えた。
ゴーーーー。
空から、爆音が鳴り響く。巨大な飛行機が2機、こちらの方へ向かってくる。 一機は通常の輸送機であったが、もう一機には何か白い物がぶら下がっていた。 爆音は更に近くなり、まず輸送機の方が着陸の体勢に入る。
ギャッ、ギャ、ギャ。
輸送機の車輪が悲鳴を上げる。何を乗せているかは解らないが、少し重量オーバー気味かもしれない。やがて、ラインディングが終わり、巨大な機体がゆっくりと冬月達の元に向かってくる。機体が止まるとタラップが繋げられる。そこに向かい、冬月達は、歩き出した。
「それで、どんな人なんです? 今度の副司令は。」
「フッ、食えん男だよ。もしかしたら、碇以上かも知れん。」
「えっ・・・・・。」
其の事を聞いたとき、シゲルは少し身震いをした。
タラップの下に着いた二人は、上のほうを見た。ドアが開き、二人の男女が降りてくる 男性はそれほど背が高くはないが、がっちりした体をしている。なりより、何か得体の知れない威圧感が漂っていた。女性の方は、年は三十後半だろうか? こちらもこちらで美人であったが、何か冷たい感じがする。両者はスーツを着ていた。 下まで男女が降りてくると、冬月は男性に右手を差し伸べる。
「ようこそ、Mr. ミカエル・ラングレー。」
「よろしく、Commander 冬月。」
シゲルは、ミカエルの顔をしっかりと見る。 くすんだ金髪を7:3で分けいて、少し鼻が高めか? 何より、グリーンの目から出ている威圧感が印象的だ。今度は、後ろのほうに居る女性の方を観た。肩まで伸ばされた金髪。整った顔だが、少し目元が釣り上がっている。これが、冷たい印象を放っているのかもしれない。 冬月は、今度は女性に右手を出す。
「ようこそ、Mrs. ハンナ・ラングレー。」
「どうも、はじめまして。Mr.冬月。」
さらに、その輸送機の後ろではもう一機の飛行機が止まろうとする。 その、音に冬月が反射的にそちらのほうを観た。
「ハハハ。お土産ですよ。EVA壱拾四号機。」
そう、EVA伍号機を初めとするEVA量産型の一機であった。
「弐号機のパーツは、頼んだはずだが。」
「もちろん、持ってきましたよ。 これは、ほんのサービスですよ。」
「気持ちはうれいしが、 一応、アスカ君とシンジ君しかEVAのパイロットはいないが?」
「いいえ。 もちろんパイロットもサービスですよ。」
話しが進む間にも、タラップから降りてくる一人の少年が降りてきた。
Wen der groβe Wurf gelungen,
Eines Freundes Freund zu sein
Wer ein holdes Weib errungen,
Mische seinen Junbel ein!
「司令、あれを。」
シゲルは、何か信じられない物を見たように言う。 促された、冬月が見た物は・・・・・・。
「フィフス!」
呆然と冬月がうめく様に言った。 フィフスチルドレンこと渚カヲルは、何かハミングしながら降りてくる。 ベートーベン 交響曲 第九番 歓喜の歌であった。
Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund.
さすがの冬月も、動揺を隠せない。
「どうかされましたか。ファーター?」
タラップから地に降りた銀髪で紅い瞳の少年は、何事もなかった様に ラングレー夫妻に向かいながら言った。
「いいや、何でもないよ。カヲル。とりあえず、挨拶を。」
「わかりました。 ファーター。」
そういうと、冬月達の方に向き直る。
「はじめましてというべきなのでしょうか? 司令?」
「とりあえずは。」
そう言って、冬月とカヲルは握手をした。 呆気に取られている冬月に見ながらミカエルは人を食ったように笑いはじめる。
「ハハハ!! とりあえず、案内してもらいましょうか? 司令。」
「どこへかね?」
「とりあえず、我が愛しの娘の元へ。そして、娘の王子様! なあ、ハンナ。」
「ええ、そうですわね。あなた。」
「・・・・・。」
冬月は何も言わずに振り返り、この場を去ろうとする。 その顔は憮然としている。 それをフォローするように、シゲルがラングレー夫妻と渚カヲルを案内し始めた。
伊勢はガサゴソと誰かの机や書類棚を漁っていた。 特殊監査部顧問室。かつて、加持リョウジを主として擁いていた部屋だ。 頭を掻きながら、周りを見渡し、次に漁る場所を探している。 その時、背後のドアが開いた。
「そこで何をしている?」
威圧感あふれる、低く通る声が伊勢の背中にかかる。 振り向くと、そこには黒い高級幹部用のNERVの制服を着た男が立っていた。
「何をしていると聞いている?」
「お久しぶりで、ドイツ支部副司令。」
両手を挙げて、少しおどけながら伊勢は答えた。
「今は君の上司だ。」
「そうですな、ラングレー副司令殿。」
「それより出て行き給え。ここは特殊監察部の物だ。作戦部には関係ないはずだ。」
「引き継ぎの準備をしていたんですが?」
「無用な気遣いは不要だよ。」
「そうですか?」
「そうだ。」
そう言われ、伊勢はミカエルからの刺すような視線を浴びながらこの部屋から退室した。ミカエルはその様子を見届ける。 部屋のドアについてるノブの近くの表示が赤いLockedに変わった。
昼の検温を終えて出て行く看護婦が一人。 その看護婦の目には、ベットに横たわっている茜色の髪をした美しい少女とそれを優しい目で見ている少年が映った。
「アスカ。何か食べる・・・・。」
シンジは棚の方をに向かいながらアスカに尋ねた。 マヤ、マコト、シゲルのオペレータ3人からのお見舞いの定番、果物の詰め合わせが棚の上には置いてある。
「べつに・・・。」
「そう、ならいいんだ・・・。」
シンジは、何故か顔に影を作りながら椅子に戻ろうとする。
「あ、やっぱり、リンゴ剥いて。」
アスカが天井を見ながら、独り言のように言った。 最初はぎこちなかった会話もだんだんとスムーズに成ってきている。 が、未成熟な人格にあのような大人でさえ逃げるような極限状態がどのような 影響を及ぼしたか・・・。マヤの1番の悩み事だ。 シンジはリンゴを取り、引出しを開けて果物ナイフを取り出す。
『アスカはどうして戻って来たんだろう?』
シンジはアスカが目覚めてから一週間、ずっとこの事ばかりを考えつづけて来ている。 初めてアスカが目覚めた時に、シンジはアスカに拒否されたと思っていた。 改めて、自分が要らない子供だと気づかされた。 しかし、目の前にはアスカがいて、このようにして話をしている。
『アスカはどうしてEVAから戻って来たんだろう。』
自分が初号機に取り込まれた時を思い出してみる。
『僕はどうして帰って来たんだろう? あの時は嫌な事ばかりだったのに・・・・。』
シンジは、手元をジッと見つめた。 眼には、紅く熟れているリンゴと鈍く光るナイフが映る。
『聞いてみたい・・・・。 けど、・・・・。』
少年は相手との距離の測り方はまだ判らない。 少女にもその事は判らない。 左手にリンゴを持ち、右手に果物ナイフを持ちながら、じっと手元を見たまま動かないシンジを見て、アスカは不思議に思い、
「シンジ?」
と、シンジの方をシーツから顔を出しながら伺った。
「あの時・・・。」
「あの時って、何?」
アスカにはシンジが少しおたおたしている様に映った。 シンジも思春期の少年だ。やましいことが無いと言えば、それは嘘になる。 つまりアンナコトや、ソンナコトである。
「まさか、アンタ。アタシが寝ている時に変なことしなかったでしょうね?」
シンジの目に目尻を釣り上げ始めたアスカの顔が映る。
「な、なっ、何もしてないよ!」
シンジは両手を横に振りながら、必死になって否定した。
「怪しいわね〜。」
シンジに背を向けて、アスカはからかうように言う。
「ああ、やだやだ。男って不潔で野蛮で。」
年頃の女の子に口喧嘩で敵うはずもなく、シンジは口をもごもごするだけである。
「何だよ・・・。何もしてないと言ってるだろぉ・・・。」
シンジは弱々しく言いながら、リンゴを剥きつづけた。
プシュー。
その時、病室のドアが開く。 黒い制服の男が入ってくるのがシンジの目に入った。
「久しぶりだな。アスカ。」
男は緑の眼をシンジを越してアスカに向けた。 アスカはその顔を見て驚きの表情をしたあと、一瞬にして無表情変わる。 そして、シーツを両手でグッと握った。
「アンタ、今ごろ何しに来たのよ。」
「父親が娘に会いに来てはいけないのか?」
「良く言うわね。ママを捨てたくせに! アタシを捨てたくせに!!」
「それは、アスカの誤解だ。」
「はん、聞く耳も無いわ。反吐が出るわ。何を、今頃。」
シンジの耳にはドイツ語でアスカとミカエルがどんな事を言い争っている解らない。
『逃げちゃ駄目だ・・・。』
何故かそんな思いに駆られ、二人の間に割って入った。
「辞めてくれませんか?」
二人の間に立った、シンジはミカエルに言い放った。
「君がサードチルドレンの碇シンジか?」
「そうです。碇シンジです。」
ミカエルはシンジに顔を向けた。 その眼はどこか獲物を見つけた時の蛇の眼を思い起こさせる。 シンジはそのミカエルの眼光に足が震え始めた。
「そこを退いてもらおうか? 他人の入る話しじゃない。」
ミカエルはシンジの肩に手を置き、視界から消そうとした。
「止めてください。それにアスカとは他人じゃないです。僕の家族です。」
シンジは驚いた。自分からこんな事が言えるとは思えなかったからだ。 アスカは、目を大きくしてシンジの背中を見詰めた。 一瞬の間、病室の空気が固まる。
「貴方はどなたですか!」
その空気をマヤの声が打ち破った。 シンジとミカエルが病室の入り口に顔を向ける。 二人の視線の先には、肩を上下に揺らしノート型の端末を持ったマヤが立っていた。 マヤは虚勢を張る為か、大きな声でミカエルに向かった。
「何方ですか?! ここは限られた関係者以外立ち入り禁止ですよ!」
「お嬢さん。もう少し言葉づかいには気をつける物ですよ。」
マヤがその落ち着いたミカエルの様子に飲まれる。
「それが、貴方の上司に者に態度なら、なおさら・・・。」
「えっ・・・・。」
マヤが右手を口に当てた。眼を丸くして、驚愕の表情を見せる。
「あなたは・・・・。」
「ミカエル・ラングレーだ。よろしく、伊吹マヤ君。」
ミカエルは、紳士の笑みでマヤに右手を差し出した。 マヤは差し出された右手に答えることが出来ない。 その時、入り口に長身の影が差した。
「あまり、部下をいじめていると人望が無くなりまっせ。」
「もう一人、上司への口の利き方を知らない輩がきたな。」
ミカエルは、声の主のほうに目線だけを向ける。 柱に片手を付いて、伊勢が立っていた。 シンジには、急に病室が狭くなったように感じられる。
「副司令。シンジ君に免じて、此処は引き取ってもらえませんか?」
「君は親娘の対面に水を差すのか?」
「私には、駆け落ちしたカップルの娘を取り返しにきた頑固親父にしか見えませんが?」
その混ぜ返し半分の伊勢の言いようにミカエルは黙ってしまった。 ここぞとばかりに、伊勢はミカエルを畳み込む。
「とりあえず、今回は引き取ってもらえませんか? セカンドチルドレンの体調も完全じゃないですから。今は絶対安静が必要ですよ。」
ミカエルは、口を結びつづける。
「とりあえず、中の案内の続きを・・・。今は私人としての時間ではなく、公人としての時間では? 副司令?」
そう言うと、伊勢はマヤの方に向いた。
「すまんが、中央司令室を案内してやってくれへんか?」
「はっ、はい。」
そう答えると、マヤはミカエルの方を向き襟を正した。
「副司令、こちらへ。」
マヤは病室を出て、ミカエルに司令室への方向を腕で指した。 何処となく、憮然とした表情でミカエルが病室を出る。
「シンジ君、後で話しがあるからロビーまできてもらえないかな?」
「は、はい。」
そう言って、片手を振って伊勢は部屋から出ていった。 それを、シンジは見届けると、アスカの方に向き直った。 同じように、伊勢とミカエルとのやり取りを見ていたアスカとシンジの目が逢った。
「シンジ・・・・。」
ベットに上半身を起こし、シーツをグッと握ったままだったアスカは立っているシンジを見上げながら 声を掛けた。
「何?」
シンジが安堵の笑みをアスカに向けた。
「何でもない。」
アスカはプイッと顔をそっぽ向けた。アスカの顔には気まずさと恥ずかしさが混じっている。 しかし、シンジはそのアスカの態度に首を傾けた。
伊勢とミカエル、それとマヤがエレベータに乗り合わせた。
その狭い空間に、肩にのしかかるような重い空気が立ち込める。
「困りますな。惣流アスカの監督責任者は私なんですが?」
「で。」
伊勢が言葉を放ち、ミカエルが受け流す。 二人は目を会わさず、じっと扉を見ている。 その後ろに、マヤが控えていた。 マヤは、後ろから上司に当たる二人の男の背中を見比べた。 ミカエルは、肩幅が広く広い背中。くすんだ金髪が印象的に見える。 いかにも鍛えられた体つきだ。 ミカエルより一つ頭を突き出しているのが伊勢。 碇ゲンドウと同じくらいの長身。黒髪が短く刈りこまれている。 しなやかな鞭のような体つき。やはり軍人の体だ。
「当然、面会許可も私を通じて取って頂きたいのですが?」
「親権の持つ者も許可が必要なのかね?」
「勿論です。」
「ほう、親権を持つ者は許可が必要で、なぜ、サードチルドレン・碇シンジは許可が必要無い?」
「セカンドおよびサードチルドレンへの治療の一環です。さらにこちらから言わせてもらえば、惣流・アスカ・ラングレーがセカンドチルドレンに選出された時点で超法規的処置により、貴方の惣流・アスカ・ラングレーへの親権は喪失している。」
「それは法規上の問題だ。事実上の親子関係にある者の対面をなぜ邪魔をする。」
マヤには、二人の間に何か壁の様な物を感じた。
少なくとも、初対面同士の人間ではない。過去に何かいわくの合った物同士だ。
『どうして、こんな人達を司令は同じ組織に招いたのかしら?』
マヤは冬月の人事に疑問を抱く。
「NERVという組織に身を置いてもらっている以上、NERVの法規に従ってもらいましょう。さらに言わしてもらうと、アスカ君は貴方を父親と思っていない様で?」
「思春期特有の反抗的態度というものだよ。しょせん子供の言うことだ。」
「そうですか? 親権、親権という前に、貴方を父親と思う様な事を彼女にしてあげるべきでしたな。それに彼女に確固とした人格があり、価値観があり、判断力があるなら一人の大人として扱うべきですよ。私は少なくともアスカ君はこの事を満たしていると思いますが?」
チン!
エレベータの扉が開く。
その狭い空間から重い空気が流れ出す様に、マヤは感じた。
窓から強い西日が入りこんでいる。 病院の待合室。 売店の営業時間も終わっており、シャッターが閉められている。 壁際に配置されている、飲料水の自販機が内容物を冷却する為に唸りを上げている。 その空間の中に並べている長椅子の最後尾の端の方に、シンジが少し俯き加減に膝の上に手を組んで座っていた。 じっと、座っていたシンジに細く長い影が覆った。
「すまんな。待たしてもうて・・・。」
その声に方に、シンジは向いた。
「いいえ。構いません・・・。」
シンジには影に成り伊勢の顔が良く見えない。 シンジは見上げたまま、首を横に振った。
「横・・・。ええか?」
「あっ、ええ。」
そう言って、シンジは体を横にずらす。 それを見ると伊勢はシンジの横に座り、そっとシンジの横顔を覗いた。 それに気づいたシンジは伊勢の方を見たが目が会った途端、目線を外す。 伊勢はその様子を見て、口元を緩ませる。 その空気を嫌ったのか、シンジが伊勢に話し掛けた。
「あなたは、あの時の?」
「ありがとう。覚えとってくれたんか?」
「は、はい。」
しばしの静寂が二人の間を漂う。 それをシンジの声が押し払った。
「ネルフの人だったんですか・・・。」
伊勢には、シンジの声が冷めているように聞こえた。
「そや。けど、こんな風に会うとは思わんかったしな。」
そう言うと、勢い良く伊勢が立つ。 そうして、歩いて行き伊勢は自販機に向かい硬貨を投入した。
「シンジ君、何飲む?」
「あ、何でも良いです・・・。」
シンジは、ぼんやりと伊勢の方を向いて答えた。
「そうか・・・。」
そう言って、伊勢は普段自分が選んでいる無糖の缶入りの紅茶のボタンを押した。
ガタン。
取り出し口に、スチール缶が出てくる。 伊勢はそれを取り出すと
「シンジ君。ほら。」
シンジに一声を掛けて、伊勢は缶を投げた。 綺麗な放物線を描き缶がシンジに向かっていく。 それを慌ててシンジは両手で受けた。 その様子を見届けると、伊勢は自分の紅茶を買う。
ガタン。
伊勢は自分の分の紅茶を取り、シンジの方を向く。
「あ、ありがとうございます。」
シンジが愛想笑いを浮かべながら、コクリと頭を下げた。
「どうもいたしまして。」
伊勢はそう言って、またシンジの横に腰掛ける。 そして、缶のプルトップを引き上げ、紅茶を口に付けた。 それを見たシンジが同じ動作をした。 伊勢は喉を潤したのち、シンジの顔を見る。 シンジは紅茶を口に付けた後、目線を伏せている。 紅茶の缶を見つめているようだった。 またもや、沈黙が二人の間に漂う。
「どうしたんですか?」
その自分の方をじっと見ている伊勢を不審に思い、 シンジが相手を伺うような愛想笑いを浮かべながら尋ねた。
「いやな・・・。」
ヒグラシの鳴き声が、日が沈むのを嘆くように響く。 視線を伏せた伊勢が持ったスチール缶をくるくる玩ぶ。 そして、鳴き声を打ち消すように伊勢が言葉を紡ぎ出した。
「いやな・・・。実は、司令に君の保護者になってもらえないかと尋ねられてや。」
シンジは、伊勢の横顔を覗く。 伊勢は少し困った顔をしているように見えた。
「どういう事なんですか?」
「葛城君・・・だったかな? 彼女の代わりを任されてもうたんや。」
「ミサトさんの代わり・・・ですか?」
「そや。」
シンジと伊勢の間に静寂が横たわる。 シンジは真剣な面持ちで言葉を選びはじめた。
「ごめんなさい。」
横で紅茶に口を付けていた伊勢は、口から紅茶を放しシンジの方を向いた。 シンジは反射的に俯く。そして、暫らくして静かな口調で話しはじめた。
「僕は親に捨てられてた子供です。叔父さんのところでも僕の居場所はありませんでした。ここにきてはじめて僕の居場所が出来たような気がしました。僕の帰る場所、居て良い場所。それが家、家族・・・。そのことを教えてくれたのがミサトさんやアスカです。 今、僕の家族はミサトさんとアスカだけです。」
シンジは白い十字のペンダントを右手に持ってそれを見つめながら言葉を続けていた。 それを聞き終えると伊勢はフーっと一息つき、窓の方に顔を向ける。
「そっか、それなら良い。そう言う話しがあるということを覚えといてくれへんか。」
窓の外は薄暗くなりはじめていた。
バシャ!!
両手を使い、L.C.Lのプールから出るカヲル。 それを見たハンナは立ち上がり、机の脇のスタンドに掛けてあったタオルを持って 立った。
「どうです? 体の方は?」
カヲルは全裸でハンナを方に歩いていく。 カヲルの体を伝わっていくオレンジ色の液体が床を濡らす。
「異常ないわ。」
ハンナはタオルを出しながらカヲルに答えた。 カヲルはその差し出されたものを受け取り、丁寧に白皙の肌に付いた液体を拭き取りはじめる。
「いつになったら逢わせてもらえるんです?」
カヲルはハンナの眼をじっと見据えながら問い掛けた。
「誰に?」
「僕が生れた意味。」
カヲルはタオルでプラチナブロンドの髪についた水分を取り除きつづける。 その答えにハンナは鼻で笑い、否定の言葉を言う。
「貴方が生み出された目的は。」
「ちがうよ。それは、老人や貴方達の目的ですよ。」
「なら、貴方は何の為に生れて来たの?」
「彼の・・・。リリンの希望の為に・・・。」
「希望?」
その言葉を聴き、ハンナは苦笑した。 彼女の様子を見て、カヲルはムッとした表情を見せた。
「ムッターとファーターは、好意に値しないね。」
「どうしてかしら?」
「僕を欺いている・・・。そして、自分達も・・・」
「欺いている?」
「リリンが欺き合っている限り、永遠に分かり合えることはないだろうね。」
「別に欺いていなくても、人同士が分かり合えることなんて無いわ。人の本心なんて見えないのだから。」
「しかし、欺き合っていれば、分かり合えるという希望も無くなりますよ。」
ハンナが鉄仮面のように表情を消す。 どこかシニカルな笑みを浮かべながら、 プラチナブロンドの髪を持った少年はロッカールームに消えていった。