あの衝撃のバースデーパーティーから一夜。後に愛妻家にして恐妻家として知られることになる碇シンジはその妻と初めて一緒のベッドで横になっていた。シングルベッドなのでどうしても体がふれあう。シンジは隣のアスカが気になって眠れない夜を過ごした。対してアスカは安心しきった幼子のようにぐっすりと寝ていた。 こうしているとほんとに可愛いよな……。 シンジはその天使のような寝顔に見とれていた。無意識のうちにアスカの髪をいじる。なんとなくその感触が気に入ってしまっていた。 これが僕の奥さん……。 シンジにはいまだに実感が湧かない。それはそうだろう。いきなり勝手に入籍されて「あなたの妻よ」といわれても実感など湧くはずがない。 だが嫌ではなかった。アスカのことは嫌いではない。むしろ好きだ。そうでなければアスカが「キスしようか」と言ったときにキスしていない。シンジは好奇心だけで好きでもない相手とキスできるような男ではなかった。だからキスの後うがいされたときは相当傷ついた。 午前八時。シンジはアスカを起こさないようにそっとベッドを抜け出した。いつものようにアスカのためにお風呂の準備をする。それが終わると朝食の準備。すべての準備が整った時点でアスカを起こしにいく。これもいつものとおり。いつもと違うのは起こしにいく部屋がシンジの部屋ということだ。 「アスカ、朝だよ。起きて」 いつもと違ってベッドの側で声をかけた。いつもならこれでぶちぶちと文句を言いながらも起きてくる。ところが今日は違った。 「やだ」 アスカが目をつぶったままそう答えた。幾分甘えた調子で言っていたが鈍いシンジは気がつかなかった。 「どうして?気分でも悪いの?」 シンジがアスカの額に手をやる。熱はないようだ。 「おはようのキス」 「へ?」 「おはようのキスしてくれないと起きない」 アスカのこの要求にシンジは赤くなった。アスカとキスしたことがないわけじゃないが恥ずかしいものは恥ずかしい。それにアスカとのキスにはあまりいい思い出がない。 「ふざけてないで早く起きてよ。朝ご飯さめちゃうし、洗濯物だって片付かないじゃないか」 シンジがちょっときつい調子でいった。主夫の朝は忙しいのだ。 「やだ。キスしてくれないと起きない」 「わかったよ。ずっとそのまま寝てれば!」 シンジは立ち上がろうとした。だがアスカがシャツのすそをぎゅっと握っていて立ち上がれなかった。 「放してよ」 「やだ。起こしてくれるまで放さない」 シンジはため息をついた。しかたなしにアスカの額に軽くキスをする。これでもかなり恥ずかしい。 「これでいいだろ?もう、起きてよ」 「駄目。唇にしてくれないと起きない」 「だ、駄目だよ!」 「うるさいわね!うだうだ言ってないでさっさとしなさいよ!」 そういうとアスカはシンジの首を引き寄せ無理矢理唇を奪った。最初のうちは強かったシンジの抵抗もだんだんと弱くなっていく。 こうやって既成事実を重ねていっちゃうんだろうな……。 シンジは諦めとともにそんな感慨を持った。 アスカはたっぷりとおはようのキスを堪能するとやっとシンジを解放してくれた。ちなみにこれがアスカのセカンドキス。 「おはよう、シンジ」 「おはよう……。早く朝ご飯食べよう。さめちゃうよ」 シンジは寝不足の上に朝からいきなり疲労困憊していた。この調子じゃ先が思いやられる。 朝食がすむとアスカはお風呂だ。 「シーンジ、一緒にはいろっか?」 「な、何いってんだよ!」 「うふふ、赤くなっちゃって、かーわいっ!」 「からかわないでよ!」 「あら、あたしは本気よ」 「もう、さっさと入っちゃってよ!洗濯物片付かないじゃないか!」 「はいはい」 アスカは笑いながら脱衣所に消えた。 アスカは上機嫌でお風呂に浸かっていた。先ほどのシンジの慌てぶりを思い出して一人にやけている。 慌てちゃってほんとに可愛いんだから。 困っているシンジを見ると可愛くてしょうがない。もっと見たくて更に困らしてやりたくなる。シンジにとっては迷惑極まりなかった。 あたしってこんなにシンジのことが好きだったんだ。 入籍して素直になってから初めて気付いた気持ち。むろんシンジの事はユニゾンの訓練の後ぐらいから気になっていた。そうでなければファーストキスを捧げてない。うがいしたのは照れ隠しだ。 アスカは風呂から上がるとその美貌に更に磨きをかけ始めた。そう、シンジ一人のために。 「ふー……」 いくら入籍したからといって積極的になりすぎだ。シンジは深いため息をついていた。流しで食器を洗い始める。それが終わると掃除。テキパキと手慣れた手つきで掃除機をかけていく。 リビングが終わったところでアスカが風呂から上がってきた。 「シンジ、上がったわよ」 アスカはバスタオルを巻きつけただけの格好で台所にやってくる。頭にもタオルを巻いている。冷蔵庫を開けると牛乳を取り出しパックから直接飲んだ。この辺は全ていつものことだ。今更注意する気にもならない。 「わかった」 シンジは台所の掃除を済ませると風呂に入ることにした。昨日入ってないので汗臭いような気がする。脱衣所に入ると汚れ物が置いてあった。いつもはないアスカの下着まである。以前はアスカは下着だけはシンジに触れさせず自分で洗っていたのだ。 シンジは服を脱ぐと風呂場に入った。シンジが湯に浸かってゆったりとしているとアスカが脱衣所に入ってきた。 「シンジ、背中流してあげようか?」 アスカが風呂場を覗き込んでいる。まだタオルを巻きつけただけの格好だ。 「わー!覗かないでよ!」 シンジは両手で股間を隠しながら叫んだ。アスカが風呂場に入ってくる。 「なに恥ずかしがってんのよ」 アスカの目は好奇心に輝いていた。シンジはその目に貞操の危機を感じた。といっても操を立てるべき妻は今のところアスカなのだが。 「いいからでてってよ!」 「遠慮しなくてもいいわよ」 「でてってよ!お願いだから!」 シンジはもう懇願していた。 「わかったわよ」 アスカはしぶしぶと、本当に残念そうに出ていった。 アスカ、本気なのかな……? これは愚問だ。本気でないのに入籍までするはずがない。 シンジはアスカにまた覗かれないように入り口に鍵をかけると体を洗った。さっさと上がると服を着てお風呂の残り湯で洗濯を始める。 シンジが脱衣所を出るとアスカはリビングで寝転がって旅行ガイドを見ていた。今朝とは色違いのタンクトップとジョギパンを着ている。夜と違ってちゃんとブラジャーはしていた。 「あ、シンジ。もうすぐ夏休みだし新婚旅行はどこいこっか?」 シンジはアスカの正面に座ると尋ねた。 「ねえ、アスカ。本気なの?」 「何が?」 「何がって、その……結婚のことだけど……」 アスカは起き上がるとシンジと向き合って座った。真っ直ぐシンジの目を見詰める。 「あたしは本気よ。あんたに一生尽くしてもらうって決めたんだから」 普通一生尽くすんじゃないのかな? そんな疑問が一瞬シンジの頭をよぎった。もっともこの考えは男尊女卑の風潮が根強く残る日本人ならではのものであったが。 「僕なんかでいいの?」 「あんたじゃないと駄目なのよ」 「でも僕は何も取り柄はないし、アスカとはつりあわないよ?」 「そんな事ないじゃない。エヴァに乗ってる時だってあたしより活躍してたし、今だって立派に家事をこなしてるじゃない。あんたはね、あたしの足りないところを補ってくれるの。だからあんたに決めたの」 本当はそれだけじゃない。女ならではのしたたかな打算も働いている。 「でも僕たちはまだ中学生だし、入籍はやっぱりまずいよ。早すぎるよ」 このまま一生アスカの尻の下かと思うとシンジも必死だ。だがシンジにアスカを論破できるはずもない。 「何がまずいっていうのよ?経済的にはちゃんと自立できるし、保護者がいるとはいえほとんど二人暮らしですでに結婚してるのと同じような状態でしょ。大体あんた昨日『うん』っていったじゃない。それともあたしのことが嫌いなの?」 アスカは瞳をうるっとさせてシンジを見詰めた。今度は泣き落とし。自由に涙を浮かべるぐらいアスカは朝飯前だ。 「き、嫌いじゃないよ」 アスカが泣きそうになったのを見てシンジはうろたえ始めた。 「だったらどうしてそんなに嫌がるの?」 アスカは瞳に涙をたたえてシンジを見つめた。あと一息で涙があふれる。 「べ、別に嫌がってるわけじゃ……」 アスカがシンジの胸に飛び込んだ。 「あたしにはもうシンジしかないの。幸せにするって約束して」 心の中で舌を出しながら泣いてるふりをする。 「そんな自信ないよ」 「あんたはこのあたしが選んだのよ。もっと自信を持ってよ。じゃあこれだけは約束して。酒と賭け事にはおぼれない、浮気はしないって。これさえ守ってくれればあたしはあんたとなら幸せになれるから」 「……わかった。約束する」 「じゃあ結婚のことは認めてくれるのね?」 「う、うん。僕はアスカのこと、好きだから……」 シンジは胸の中のアスカをそっと抱きしめた。 「ほんとね?浮気したら殺すからね」 「う、うん」 哀れシンジ、弱冠十五歳にして人生の墓場へと踏み込んでしまった。まあ、どっちにせよアスカの魔の手からは逃れようがなかったのだが。 「じゃ、あたしの部屋も掃除しておいてね。さって、どっこがいいっかな〜♪」 アスカはころっと態度を変えて旅行ガイドの続きを見始めた。 「あのさ……」 シンジがため息まじりに声をかけた。 「なに?」 青い瞳が喜色をたたえてシンジを見る。 「いや、もういい……」 これじゃ夫というより家政夫だよ……。 シンジは背中に哀愁を漂わせながら掃除機を持ってアスカの部屋に入っていった。元々はシンジの部屋だったがアスカの部屋になってからはほとんど入ったことがない。 アスカの匂いがする……。 女の子特有の甘い香り。シンジがこの部屋にいた頃は新築マンション特有の匂いがしたものだが。アスカの部屋は物が多いものの趣味のよさをうかがうことが出来た。シンジは掃除機をかけ始めた。 シンジは掃除機をかけているとふと机の上に伏せてあるフォトスタンドに気付いた。いけないと思いながらも気になって見てみる。その中にはシンジの写真が入っていた。教室などの雰囲気から今年度に入ってからのものらしい。珍しくいつもの気弱でやさしげな顔ではなく、何かを決断した凛々しい表情をしていた。 アスカ……。 シンジはフォトスタンドを元どおり伏せると掃除の続きを始めた。そんなに広い部屋じゃない。すぐに掃除は終わる。 「アスカ、シーツとかも洗うよ」 「ん〜、お願い」 シンジはアスカのベッドからタオルケットやシーツなどをはがすと脱衣所に持っていった。洗濯はもう終わっている。洗い終わったものをかごに移すとシーツなどを入れて再び洗濯機を回す。そしてかごを持ってリビングへといく。 シンジはかごを置くと寝転がっているアスカの横に座った。 「あのさ」 「なに?」 アスカは旅行ガイドから顔を上げずに聞き返した。 「手伝おうとか思った事ない?」 アスカが顔を上げた。 「ないわね。家事をやってるときのあんたって生き生きとしてるんだもの。なに?手伝って欲しいわけ?」 「うん」 アスカはシンジの返事を聞くといたずらっ子のような表情を浮かべた。 「じゃあ……キスしてくれたら手伝ってあげる」 それを聞いて赤くなるシンジ。 「もういいよ!」 かごを持つととぼとぼとベランダに出て洗濯物を干し始めた。 一通り掃除洗濯が終わった頃にはお昼近くになっていた。ちなみにミサトの部屋だけは掃除できない。相変わらず混沌と化しているからだ。 「ただいま〜」 ミサト一週間ぶりの帰宅。かなり疲れているようだ。 「お帰り」 「お帰りなさい。ミサトさん、お昼は食べますか?」 「そうね。いただこうかしら。その後一眠りさせてもらうわ。シンちゃん、夕方になったら起こしてね。買い物付き合ってあげるから」 「はい。疲れてるのにすみません」 「いいって、いいって。家事をみんな押し付けちゃってるんだから」 今日のお昼は焼いたサンマとお味噌汁。その辺の新妻には真似出来ないほどおいしい。ゲンドウ曰く「ユイの味に似ている」とのことだが、味覚の出来上がる時期にはユイがまだ生きていたためだろう。 「また魚なの〜」 アスカが嫌そうな声を上げた。ドイツ育ちのアスカは魚料理はあまり好きでない。なんだかんだいいながらもシンジの料理なら食べるのだが。 「ちゃんと栄養のバランス考えてあるんだから食べなきゃ駄目だよ」 「わかったわよ。その代わり今晩はから揚げにしてよね」 「しょうがないなぁ」 その後昼食は平和に進んでいった。アスカもミサトの前ではいつもどおりでいちゃついてこなかった。 「「「ごちそうさま」」」 シンジはお茶をすする。日本人に生まれてきてよかったと思うひとときだった。昔アスカにそのことを言ったら「じじくさい」といわれてしまったが。ミサトはヱビスを一缶空けると寝室に入っていった。 「それじゃあたしは一眠りするわね」 しばらくすると高いびきが聞こえてきた。 「僕も寝不足だから一眠りするよ。三時になったら洗濯物取り込んでくれる?」 「いいわよ。あ、ちょっと待って」 アスカは糸を持ってくるとシンジの左手の薬指に巻き付けた。そして糸に印をつける。 「もういいわよ。じゃ、おやすみ」 「おやすみ」 シンジは部屋に入るとベッドに倒れこみ、程なく眠り込んでしまった。アスカはその後しばらくどこかに出かけていたようだった。 シンジが息苦しくなって目を覚ますと目の前にアスカの顔があった。アスカはシンジの鼻をつまんで口を口でふさいでいた。驚いて壁まで跳びすさり張り付く。 「おはよう」 アスカはベッドに両手で頬杖を突き、艶然と微笑んでいる。シンジが動転しているのを楽しんでいるようだ。 「お、おはよう」 シンジは胸を押さえながら答えた。心臓がバクバクいっている。 「ミサト、もう起きてるわよ。買い物、いくんでしょ?」 「う、うん」 見るとアスカはピンク色のワンピースに着替えていた。 「あたしも一緒にいくからちゃんとした服に着替えてね。はいこれ」 シンジに服を渡すとアスカは軽やかな身のこなしで立ち上がり、スカートを翻して部屋から出ていった。 はいこれって、勝手に人の服出さないでよ……。 シンジはのそのそと起きると服を着替えた。 シンジがリビングにいくとミサトがビールを飲んでいた。 「ミサトさん、飲酒運転は駄目ですよ」 「堅いこと言わないの。ビールは酒のうちに入らないのよ。それにしてもシンちゃん、買い物にいくにしては気合の入った格好ね」 「アスカがこれ着ろって……」 「このあたしと一緒に歩くのよ。これくらい当たり前じゃない」 「ふーん。まあ、いいけど」 三人はマンションを出ると車でいつものスーパーに向かった。食料品から家電品までいろんな物を扱っている大きな店で安いのだが、車がないと来れない。 シンジがキャスター付きのかごを押していく。車がないと重くて大変な野菜や缶詰、冷凍食品などを買っていく。 「シンちゃん、これもこれも」 ミサトが缶ビールを大量に持ってきた。アスカもお菓子を大量にかごに放り込んでいく。 「ミサトさん、一箱だけにしてくださいよ。アスカもお菓子ばっかりこんなに持って来ないでよ」 「いいじゃない。けちけちするんじゃないわよ」 シンジはため息をつくと思いついた言葉を試しに言ってみた。 「アスカ、僕は太ってる娘は好みじゃないんだ」 「あたし太ってないじゃない」 「そうだね。でもこんなにお菓子食べたら太るだろうね。いつもごろごろしてるし」 「……わかったわよ。返してくればいいんでしょ!」 アスカはお気に入りのお菓子だけを残して他はすべて返してきた。シンジは自分の言葉が思いのほか効果を上げたことに内心喝采をあげていた。 食料品や生活雑貨を一通り買い終わるとアスカが洋服を見に行きたいと言い出した。いったん荷物を車に積むと洋服売り場に向かう。アスカが向かったのはなぜか紳士服売り場だった。 「アスカ、ここ紳士服売り場だけど?」 「そうよ。あんたろくな服持ってなかったから買ってあげる」 「ろくな服持ってないって、全部見たの?」 「そうよ。その服探すの大変だったんだから」 「でも別に買ってもらわなくても困ってないし」 「だめよ。一緒にいるあたしが恥ずかしいんだから。これなんかどうかしら?」 アスカがシャツを一着選び出すとシンジにあてがう。この調子でアスカはシンジの服を数着選んでいった。その様子をミサトが怪訝な顔で見つめる。いつも喧嘩ばかりしていたはずの二人がおかしい。 「あんた達、今日はずいぶんと仲いいわねぇ」 「あったりまえじゃない。あたし達は夫婦なんだから」 「わー!」 シンジが慌ててアスカの口を押さえようとしたがアスカはひょいとかわした。 「……アスカ、それ何の冗談?」 「冗談じゃないわよ。ほら」 アスカがショルダーバッグから戸籍謄本の写しを取り出してみせた。 なんでいつも持ってるんだよ……。 シンジは頭を抱えた。ミサトに知られた以上、もはやネルフ中に知られるのは時間の問題だ。 ミサトはまじまじと写しを見ると口を開いた。 「アスカ、公文書偽造って知ってる?」 ギクッ! 「失礼ね!これは偽造じゃないわよ!なんなら市役所に問い合わせてみればいいじゃない!」 「あらそう。シンジ君は納得してるの?」 「はあ、まあ……」 「ならあたしは何も言わないわ。ちょっと早いとは思うけど二人の問題だし。でもどうしてそんな事になったの?」 「アスカがバースデープレゼントだって……」 「ふーん。アスカも大胆な事するわね。それにしてもまさかアスカに先を越されるとはね〜」 「誰かさんと違ってあたしはがさつでずぼらじゃないもん。ほらシンジ、次はこれ」 シンジはアスカも大差ないような気がしたが恐いので口にしなかった。少なくとも家事をやらない点では二人とも一緒だ。 アスカの見立てた服はさすがにセンスがよかった。レジで会計を済ませる。アスカはカードを渡すと端末に暗証番号を入力した。クレジットカードと違って直接銀行等から引き落とされる。 「はい、シンジ」 「あ、ありがとう」 「お礼はいいから今度の土曜日に買い物に付き合ってよ」 「うん」 家に帰ると夕食を食べた。アスカのリクエストどおりから揚げ。基本的にアスカは肉料理が好きだが、シンジの作ったから揚げは日本に来てから好物に加わった。 「アスカ、お風呂出来たよ」 アスカはまたしても小悪魔のような表情を浮かべた。 「ねえ、シンジも一緒に入らない?背中流してあげるわよ」 「か、からかわないでよ!」 「あたしは本気だっていったでしょ」 アスカはシンジの手をつかむと引っ張っていく。シンジは真っ赤な顔をして手を振りほどいた。 「駄目だってば!」 「あんた達、いくら夫婦になったからって人の前でいちゃつくのはやめなさい」 ミサトがビールを飲みながらいった。 「や〜ね〜、いき遅れのひがみは」 「なんですってぇ!」 ミサトがビールの空缶を投げつける。アスカはさっと脱衣所に逃げ込んだ。 アスカは風呂に入ると体を磨きこんだ。今日はシンジも結婚のことを納得したし、体を求められるかもしれない。不安に思う気持ちがある反面、期待もあった。女にだって性欲はあるのだ。 あいつ見掛けによらず結構スケベだし、必ず来るわよね。 アスカはポーっと妄想に赤くなると、一層熱心に体を磨き始めた。 来なかったらどうしよう?あいついざとなると意気地がないし。 アスカの手が止まった。 やめやめ。来なかったらこっちから押しかけてやればいいんだわ。 アスカは気を取り直して続きを磨き始めた。 アスカが風呂から上がるとシンジはリビングにもダイニングにもいなかった。自分の部屋にいるらしい。 「ミサト、お風呂どうぞ」 「はいはい。あ、ペンペン、久しぶりに一緒に入る?」 「クェー!」 一人と一羽は風呂場へと消えていった。 アスカは今日はいつものタンクトップとジョギパンではなく、昼間シンジが寝ている間に買ってきた白いネグリジェを身に纏う。新妻にふさわしく清楚なデザインのものだ。間違ってもすけすけのものではない。 しばらくするとシンジが部屋から出てきた。 「なにしてたの?」 「宿題と予習。これでも一応受験生だから」 「ふーん。ねぇ、これどう?」 アスカが立ち上がってネグリジェを見せた。シンジは赤くなって目のやり場に困っているようだ。露出度は以前の格好の方が高かったはずだが。 「う、うん。よく似合ってるよ」 シンジがテレビの前に座った。 「ねえ、新婚旅行だけど夏休みにヨーロッパ一周なんてどうかしら?シンジに私の故郷を見せてあげたいし」 アスカはシンジの隣に座って旅行ガイドを開いた。いつもみたいにあぐらじゃなくて女の子座り。 「アスカ、そのことだけど夏休みは駄目だよ」 「どうして?」 「だって僕受験生だし。夏休みには夏期講習があるから」 「そんなものどうだっていいじゃない。あたし達に学歴なんて関係ないでしょ」 「でもミサトさんも高校ぐらい出ておいた方がいいって言うし、僕もそう思うんだ。学校っていうのは勉強するだけの場所じゃないって思うし。それにアスカが大学まで出てるのにその夫の僕が中卒だなんて嫌なんだ。アスカにつりあう男になりたいんだ」 「……わかったわ。じゃああたしも受験する。一緒に高校行く」 一緒に行ってシンジの浮気を監視する。 「いいの?」 「うん。その代わり一番良い高校に行くこと。あんたの成績なら無理じゃないわよね?」 「それがその……ギリギリらしいんだ。二年のときの成績が悪いから。この間の面談で聞いたんだけど」 「もう、しっかりしてよね!あ・な・た!」 アスカがつんっとシンジのほっぺたを突っついた。 「う、うん」 シンジが赤くなってうなずいた。 アスカがこてん、と頭をシンジの方によっかからせた。しばらく仲良く二人並んでテレビを見る。 「……あのさ、もうこういう強引なやり方はしないで欲しいんだ。僕の意思もちゃんと確かめて欲しい。勝手にこういう事されるのは正直いってあまりいい気分しないから」 「ごめんなさい。でもあたし、不安だったの。シンジはファーストの事ばかり気にかけてるから」 珍しくアスカがしおらしく謝った。 「綾波は僕にとって母さんみたいな人なんだ。実際綾波の遺伝子はほとんど母さんのと一緒らしいんだ。だから綾波の事は気になるけど、それはアスカの事を好きなのとは別の気持ちだよ」 「シンジ……」 見詰め合う二人。アスカが目を閉じた。二人の唇が近づく──。 「シンちゃん、お風呂あいたわよ」 もうすこしのところでミサトがタオルで頭を拭きながら声をかけた。脱衣所からペンペンが肩にタオルをかけて出てくる。およそペンギンらしくない格好だ。 「あ、はい」 赤い顔をして答える。シンジはいったん部屋に戻って着替えを持ってくると風呂に入った。 深夜。アスカは待っていた。寝る前にそれとなく誘ったのだ。ところがいつまでたってもシンジは来なかった。いい加減業を煮やしてシンジの部屋へと向かった。入り口のふすまに手をかける。開かない。心張り棒がかましてあるらしい。 シンジ〜、愛する妻を締め出すとはどういう了見!? アスカはふすまをがたがたと動かした。ふすまなんて溝にはまっているだけだ。外れるに違いない。だがアスカの予想に反してふすまは外れなかった。どうやら向こう側に何か小細工がしてあるらしい。 もう!せっかく覚悟を決めたのに!馬鹿みたいじゃない! アスカは腹立ち紛れにシンジの部屋のふすまを蹴っ飛ばした。仕方がないので自分の部屋に戻ってベッドにもぐりこむ。 明日は見てなさいよ、バカシンジ!傷付けられたプライドは十倍にして返してやるんだから! アスカはタオルケットにくるまるとそのままふて寝した。 次の朝は月曜日。今日は学校がある。シンジはアスカの部屋の前で声をかけた。 「アスカ、朝だよ。早く起きないと遅刻するよ」 すぐにがらっとふすまが開いた。アスカが飛び出してきてシンジに抱き着く。 「おはよう、シンジ」 にこやかにそういうとアスカはシンジに熱烈なキスを見舞った。たっぷりと30秒はキスしたかと思うとやっとシンジを解放する。 「お、おはよう」 「それじゃあたしはシャワー浴びてくるわね」 表面的には上機嫌にみえた。だがシンジはアスカの目が笑ってない事に気付いていた。 締め出した事怒ってるのかな? 取りあえずシンジにはそれぐらいしか心当たりはなかった。アスカが朝シャンをしている間にお弁当と朝食を作る。ご機嫌を取るためにアスカの好物をそろえてみた。 朝食が出来上がったあたりでアスカが朝シャンを終えて出てきた。ミサトは今日は休みらしいので二人で朝食を摂る。 「あ、あのさ。もしかして怒ってる?」 シンジはおずおずと声をかけてみた。 「怒られるようなことした?」 アスカはにこにこと微笑みながら聞き返した。相変わらず目が笑ってない。 「昨日、締め出した事とか……」 「そうねぇ、それもあるわねぇ」 「ほ、他にもあるの?」 「ねぇ、シンジ。あたし達夫婦よね?それはあんたも認めたわよね?」 「う、うん」 アスカの顔から笑みが消えた。 「ならどうして人が誘ってるのに来ないわけ?」 「さ、誘ってるって何に?昨日何か誘われたっけ?」 アスカは拍子抜けしてしまった。このにぶちんは全然わかってなかったのだ。 「もういい!ごちそうさま!」 アスカは食器を流しに下げると鞄を持って家を飛び出した。 シンジが教室に入るとレイは自分の席で本を読んでいた。以前よりは人付き合いをするようになったとはいえ、相変わらず自分からはあまり積極的に人と接触しようとはしない。 「おはよう、綾波」 レイはシンジを一瞥するとまた本に視線を戻した。返事もしてくれない。表情からは何も読み取れないがパーティーでの事を怒っているのは明白だ。言い訳しても仕方がない。アスカを選んだのは事実だから。 「おはようさん」 「おはよう、シンジ」 「おはよう、トウジ、ケンスケ」 トウジとケンスケがシンジの席にやってきた。トウジがシンジの首に腕を回し、声を潜めて聞く。 「どうやった?新婚初夜は」 ケンスケも頭を寄せてきた。 「そうだよ。一足先に大人になった感想聞かせろよ」 「どうって……別に何もしてないけど」 「ほんまか?子作りにはげんどったんとちゃうんか?」 「そんな事してないよ!!」 シンジは思わず大声を出していた。一瞬教室中の視線がシンジたちに集まる。しばらくするとまたそれぞれの会話に戻っていった。 「ほんとのところ、A、B、C、どこまで行ったんだ?」 ケンスケが眼鏡を怪しく光らせて聞いた。 「その……Aまで……」 赤くなりながらシンジが答えた。 「ふ〜ん。ま、シンジじゃそんなもんかね」 そうこうしているうちに予鈴が鳴った。それぞれの席に戻っていく。 学校にいる間は概ねいつもと一緒だった。アスカも今のところ学校ではべたべたしてこない。最近はお昼はヒカリやアスカと一緒にとっていたレイはまた一人で食べていた。レイの怒りはアスカにも向いているらしい。 夜は夜でアスカはシンジがお風呂に入っている間にシンジのベッドにもぐりこんでいた。シンジはしかたなしにアスカが寝るまでは添い寝して、アスカが寝るとリビングに布団を敷いてそこで寝た。おかげで今週は寝不足だった。結局レイは今週は一言もシンジと口をきいてくれなかった。 そして土曜日。シンジは一通り掃除洗濯を終えて一息ついていた。 「シーンジ、約束通り買い物付き合って」 アスカがテレビを見ていたシンジに後ろから抱き付いて甘えた。シンジは押し当てられた胸の感触に赤くなる。アスカは青いジャケットに黒いぴったりとしたスカートをはいていた。 「う、うん」 シンジは部屋に戻るとアスカに買ってもらった服に着替えた。部屋から出るとアスカが値踏みするようにシンジを見つめる。 「……よし、合格。じゃ、いきましょ」 アスカがシンジと腕を組んだ。シンジもいい加減甘えてくるアスカに慣れた。腕を組むぐらいなら自然に出来る。 アスカがシンジを連れていったのは繁華街にある宝飾店だった。 「先日指輪を注文した碇ですけど」 そういってアスカは注文票を店員に渡した。 「少々お待ちください」 そういって店員は奥に引っ込んだ。そしてしばらくして宝石箱を二つ持ってくる。 「お待たせしました。お確かめ下さい」 そういって宝石箱を開けた。中にはシンプルなデザインの指輪が入っていた。 「アスカ、これって……」 「そうよ。シンジ、はい、つけて」 そういってアスカは左手をシンジに差し出した。シンジはアスカの手を取ると薬指に指輪をはめた。 アスカも同様にシンジの左手の薬指に指輪をはめた。少しゆる目だがぴったりだった。 「ちょうど良いみたいね。あたしの分はシンジが払って。シンジの分はあたしが払うから」 「うん」 二人はカードで支払いを済ますと店を出る。 「お幸せに」 店員が最後に後ろから声をかけた。 アスカは歩きながらうっとりと幸せそうに左手を見ていた。シンジはそんなアスカを可愛いと思った。普段きつい性格なだけに余計そう思うのだろう。 「買い物ってこれだけ?」 「ええ。でもちょっと歩いてから帰りましょ」 二人はウインドウショッピングをしながら連れ添って歩いた。 「ねえ、シンジ。順番が逆になったけど、今度石のついた指輪を贈って欲しいな。給料の三ヶ月分ってやつ」 いわれてシンジの顔にはてなマークが浮かぶ。 「もう、相変わらず鈍いわね!エンゲージリングよ!」 「あ、うん」 「普通はダイヤか誕生石なんだけど、あたしはトルコ石よりもダイヤの方がいいわね。最低1カラットよ!それ以上はまからないからね!」 シンジは指輪を待っている間に見たダイヤの指輪の値段を思い出した。セカンドインパクトの影響でダイヤの値段は高騰している。エヴァに乗ってる当時ならいざ知らず今の給料の三ヶ月分では1カラットはとても無理だった。まあ、いざとなったら貯金を切り崩せばいいが。 アスカがブティックの前で足を止めた。うっとりとショーウインドウの中を見る。 「ねえ、いつになったら着せてくれる?」 そこにはウェディングドレスが飾ってあった。シンジは少し考えると答えた。 「……高校を卒業したら」 「そんなに先なの?」 「ごめん……」 「もう、簡単に謝らないの!あたしはいつだっていいんだから。ね、今度はシンジがあたしに服を買ってよ」 そういうとアスカはシンジの手を引っ張っていった。 アスカがシンジを引っ張ってきたのはアスカのお気に入りのブランドの店だった。アスカはブランドにはこだわらないが、ここの服は気に入っていた。 「シンジ、どっちがいいと思う?」 アスカがワンピースを二着自分の前にあてがって聞いた。シンジはこういう質問が一番苦手だった。シンジは服にはこだわらないたちだし、少し優柔不断なところもある。だがはっきり選ばないとアスカが怒り出す事は一緒に暮らしていてよく分かっていた。 「えっと、右の、かな」 シンジが選んだのは幾分地味な方だった。 「じゃあ、これとこれだったら?」 「やっぱり右の、かな」 今度も地味な方を選んだ。 「あんたの好みって地味ねぇ。じゃあ質問の仕方を変えるわ。どれが一番あたしに似合うと思う?」 シンジはアスカとならべられた服を見比べた。アスカが着た姿を想像する。どれも似合うような気がした。シンジはしばらく悩んで一着の服を選んだ。 「これ、かな」 シンジが選んだのはマリンブルーのワンピース。派手な色の割にデザインは落ち着いている。ウエストの細いアスカにはよく似合いそうだった。 「ふ〜ん。やっぱりそうかしらね。じゃ、これ買って」 どうやらアスカの選んでいたものと一致したらしい。アスカは上機嫌で服をレジに持っていった。 その後二人は昼食を摂ってから帰った。 その夜、ミサトは帰れないとの事だった。シンジが結婚を認めてから初めての二人っきりの夜。アスカは今夜一線を超えるつもりだった。今回はそれとなくではなくはっきりと誘うつもりだ。体も念入りに磨いた。準備万端整えてシンジがお風呂に入っている間にシンジの部屋に入り、シンジを待つ。 部屋の前に人の気配がきた。シンジだ。アスカは慣れない正座をして三つ指を突く。シンジがふすまを開けた。アスカを見て固まる。 「不束者ですがよろしくお願いします」 アスカが頭を下げた。シンジは硬直したままだ。 「ちょっと、何とか言いなさいよ!」 アスカが業を煮やして顔を上げた。シンジがペタン、とアスカの前に座る。 「……何の真似?」 「今晩は二人っきりよね」 「うん」 「そんでもってあたし達は夫婦よね」 「うん」 「夫婦っていったら、ほら、やる事があるじゃない」 アスカが赤くなりながら言った。 「おやすみ」 シンジはそのまま部屋から出ていこうとした。その手をアスカが掴まえる。 「ちょっと待ちなさい。なによ、その態度は!あんたあたしに恥かかす気!?」 「……アスカ、僕たちまだ中学生だよ?」 再びアスカの前に座ってシンジ。 「だからなによ。もう既に経験した子だっているんだからね。それとも何?あたしはそんなに魅力ない?」 「そんな事ないよ。アスカはこの一週間、僕がどれだけ我慢したか知らないんだ」 「何で我慢するのよ?」 シンジはしばらく言いよどんだ。 「……アスカを傷つけたくないから。それに今はまだ出来たら困るし」 「ここで拒絶される方がよっぽど傷つくわよ。それに今日は多分大丈夫のはずよ。ミサトのところで調べたから」 「ほんとにいいの?」 「いいに決まってるでしょ。じゃなきゃ入籍なんかしないわよ」 「後悔しない?」 「しつこいわね。するわけないでしょ」 「わかった」 そういうとシンジは立ち上がって明かりを消した。 そして震えるアスカにそっと口付けると優しく抱いたのだった。 次の日、シンジはゲンドウに呼び出されていた。司令官室のインターホンを押す。 『誰だ?』 「シンジです」 『入れ』 シンジは扉を開けて入った。相変わらず無意味に広く、わけの分からない図形が描かれている。 「何のようですか?」 幾分刺を含んだ口調でシンジ。シンジはいまだにゲンドウの事を許していない。 ゲンドウは机の引き出しから小さな箱を取り出すと机に置いた。 「持っていけ」 そういうとゲンドウは椅子を回して後ろを向いた。シンジは箱を手にとって開けてみる。中には指輪が入っていた。おそらくはダイヤ。1カラットはある。 「昔ユイに贈ったものだ。アスカ君のサイズに直してある」 「……ありがとう、父さん」 「用はそれだけだ」 相変わらず後ろを向いたままのゲンドウ。シンジはきびすを返すと司令官室を後にした。 場所は変わってミサトのマンション。徹夜明けのミサトが帰ってきていた。 「ただいま〜」 「お帰り」 「どうしたの?アスカ。変な歩き方して」 「べ、別に何でもないわよ」 とか言いながら股でも痛いのか、ちょっと変な歩き方をしている。アスカはテレビの前に腰を下ろした。ミサトはピン、ときた。 「はは〜ん。アスカ、シンちゃんは優しくしてくれた?」 ミサトがいやらしい笑いを浮かべた。 「な、何の事?」 アスカは赤い顔をしてとぼける。 「夫婦なんだからとやかくは言わないけど、学生のあいだはちゃんと避妊しておきなさいよ」 「何の事だか分からないわ」 「ま、いいわ。あんまりいちゃついてシンジ君の成績を下げないようにね。じゃ、あたしは一眠りするから」 そういってミサトは自室に引っ込んだ。 しばらくするとシンジが帰ってきた。 「ただいま」 「お帰り。司令は何だって?」 「え〜と……。まあ、いいか。アスカ、目をつぶって手を出して」 「なんで?」 「いいから」 アスカはわけが分からなかったが、取りあえず言うとおりにした。シンジはアスカの左手を取ると貰ってきた指輪をはめる。 「もういいよ」 アスカが目を開けて左手を見た。そこにはダイヤの指輪が光っていた。 「どうしたの?これ」 「母さんの形見だって」 「でもぴったりよ?」 「父さんがアスカにあわせて直してくれたんだ」 「こんな大切なもの、貰っちゃっていいの?」 「うん。父さんもそのつもりでくれたんだから」 「……ありがとう。大切にする」 アスカは左手を胸に抱くようにした。シンジは少し照れていた。 「そ、それじゃお昼御飯作るね。何がいい?」 「ハンバーグ!」 答えを聞いてシンジは苦笑した。 「ハンバーグ、好きだね」 「いいじゃない。あんたのハンバーグ、おいしいんだから」 すねたように言うアスカ。すっかりシンジに餌付けされているようだ。 「アスカにそう言ってもらえるとうれしいな」 そういってシンジは作業を始めた。 「あ、そうだ。ミサトさんはどうするのかな?」 「さっき寝たところだから食べないと思うわよ」 「じゃ、二人分でいいね」 手際のいい作業の音が台所に響いた。シンジは料理は好きだった。食べた人が喜んでくれるのがうれしかった。 「アスカ、できたよ」 「ん」 アスカがおっくうそうに立ち上がる。相変わらず変な歩き方で席についた。 「……まだ痛い?」 「大丈夫。まだなんか入ってるみたいな感じするけど。でも不公平よね。あんたは気持ちいいのに」 「ごめん」 「もう、謝らないでよ。あたしが望んだ事なんだから。さ、食べましょ」 「「いただきます」」 今日のハンバーグもいい出来だった。 その晩ミサトは起きるといったん何か買い物に出かけた。戻ってくると買ってきた箱をシンジに渡した。 「シンちゃん、遅くなったけど結婚祝」 「ありがとうございます」 「ちゃんと使うのよ」 「はあ」 シンジは怪訝な顔をする。ミサトはいったん自分の部屋に引っ込んだ。シンジは箱の包装を開けてみた。中から出てきたのはコンドーム。何に使うものかぐらいは知っている。 「アスカ、もしかしてミサトさんに話したの?」 「話してなんかないわよ。歩き方で気付かれたみたいだけど」 「これ、結婚祝だって」 シンジが箱を見せた。アスカも保健の授業でそれがなんだか知っている。二人とも赤い顔を見合わせた。 「ミサトの奴、もっとましなものくれればいいのに」 「あら、実用的でいいと思ったんだけど?」 ミサトが着替えて部屋から出てきてた。 「シンちゃん、今日の晩御飯はなあに?」 「豚の生姜焼きです。すぐ作りますね」 シンジは台所に行くとテキパキと料理に取り掛かった。 夕飯を食べているとミサトがアスカの指輪に気付いた。 「アスカ、その指輪、どうしたの?」 「司令が、お義父さんがくれたの。シンジのお母さんの形見だって」 アスカが左手をかざした。 「ふ〜ん。いいわねぇ。それ、ダイヤでしょ?」 ミサトはうっとりと見とれた。光り物に弱いのはいくつになっても同じだ。 「ミサトも加持さんに買ってもらえばいいじゃない」 「あの馬鹿にそんな甲斐性があるわけないでしょ。ああ、あたしにも誰かいい人現れないかなぁ」 さすがに女も三十路に入ると少々の事では顔を赤らめたりしない。そのくせ夢見る乙女のように手を前で組みあわせると遠い目をした。 「無理ね。シンジみたいな男がその辺にほいほい転がってるわけないじゃない。家事が出来ない女なんて大抵願い下げよ」 「失礼な事言うじゃない。これでもシンジ君が来る前はちゃんと一人暮らしをしてたんですからね。人よりちょっち下手だけど出来ないわけじゃないわよ」 「ミサトさん、ほんとにちょっとですか?」 シンジは越してきたときの事を思い出していた。まだミサトも引っ越してきたばかりだったので部屋はそれほど汚れてなかったし、荷物も箱に入ったままだったが、そこいら中に酒の空き瓶が散乱していたし、食器も流しに積まれたままのひどい状態だった。 「そうよね〜。シンジがエヴァに取り込まれたときは、あたしが家事をやってなかったら大変な事になってたわよね〜」 シンジがいなくなった当初はミサトが料理を作ったのだが、インスタントばっかりですぐに嫌になりアスカが作るようになった。最初は失敗ばかりだったがすぐにそれなりのものが作れるようになった。ミサトは散らかすばっかりなので掃除もアスカがやった。洗濯もしかり。普段やらないし、シンジも知らないがアスカもそれなりに家事をこなすのである。 「二人していじめる〜。どうせ私は家事が出来ない女ですよっ!」 ミサトがぐいっとビールをあおる。そのままぶつぶつといじけながら生姜焼きを突っついていた。 「ところでアスカ。出来るんなら少しは手伝ってよ」 「だからキスしてくれたら手伝うってば」 今となってはシンジもキスをするぐらいならやぶさかではないが、そんな事でキスを乱発するのは嫌だった。シンジにとってキスはもっと神聖なものなのだ。 シンジは別の手を考えた。気の強いアスカは押し付けても反発するだけだ。ここは一つ自分からやりたくなるように仕向ければいい。 「そう。残念だな。アスカの手料理、食べてみたかったのに」 シンジがさも残念そうに言う。もちろん芝居だ。 「え!?本当?」 「うん。でも手伝ってくれないんだろ?」 「そんな事ない!明日の夕飯はあたしが作ってあげる!」 「本当?楽しみだな」 「まっかせなさい。腕によりをかけて作るからね」 シンジもアスカの操縦法を段々と飲み込んできたようだ。アスカはすっかり乗せられていた。 その夜、シンジは別々に寝る事を主張した。シンジだってヤりたいが明日は学校がある。もちろんアスカは反対したがシンジに説得されてしぶしぶ自分の部屋で寝た。久しぶりの自分のベッドはなんとなく寝心地が悪かった。 再び月曜日。ここんところあわただしくて時間の過ぎるのが早い。 休み時間。シンジはトイレに行っていた。クラスメートの一人がアスカの指輪に気付いた。ちなみにユイの形見の方は無くすといけないのでして来ていない。 「アスカ、奇麗な指輪してるわね」 「あ、これ?いいでしょ」 「もしかしてステディリング?ちょっと見せてよ」 アスカは指輪を外しながら答えた。 「ん〜、ちょっと違うわね」 指輪を渡す。いつのまにか周りに女の子達が集まってきていた。みんなでアスカの指輪を見る。一人が裏に彫ってある文字に気付いた。 「なんか書いてある。えっと、”Ikari Sinji Asuka 2016.6.10”」 女の子達が顔を見合わせた。 「……もしかしてこれって結婚指輪?」 「そうよ」 アスカが平然と答えた。一瞬沈黙が訪れる。 「え〜、アスカ、碇君と結婚したの〜!!!」 周りの女の子達が一斉に唱和した。 「私、碇君の事好きだったのに〜」 「私だって」 「あたしも〜」 「私だってねらってたのに〜」 「どうやって結婚したの〜?」 などなど口々にしゃべり出す。かしましい事この上ない。アスカが証拠に戸籍謄本の写しを見せると更にうるさくなった。だが周りの男子生徒達はもっと色めきだっていた。いや、むしろ殺気立っていたという方が当たっているかもしれない。とにかくシンジはこの場にいなくてよかった。 シンジがトイレで用を済ませると出口のところでレイが待っていた。 「碇君、今日帰りに家によって」 「え?う、うん」 「じゃ、待ってるから」 それだけいうとレイはすたすたと教室に戻っていった。シンジはレイが久しぶりに口をきいてくれたのでほっとしていた。アスカがいようとシンジにとってレイが大切な人である事にかわりはない。 シンジが教室に戻ると雰囲気が異様だった。女子生徒も何やらおかしいが、男子生徒のシンジを見る目は尋常じゃない。取りあえず先生がきたので急いで席についた。 授業中、ケンスケからメッセージが届いた。 『結婚の事がみんなに知られたぜ』 それを見てシンジが焦り始めた。学校内でのアスカの人気はシンジだって知っている。さっきの異様な雰囲気の理由を理解した。 『誰がしゃべったの?』 シンジは震える手でキーボードを叩いてメッセージを送った。 『惣流本人。休み時間はどっかに隠れてた方がいいぜ』 シンジは忠告通り休み時間ごとに教室を飛び出して隠れた。 そして昼休み。 「シンジ、お弁当」 「はい」 シンジは新妻よろしく赤いお弁当箱をアスカに渡した。アスカはヒカリのところに向かっていった。机をあわせて一緒に食べる。今日はレイもまざっていた。お弁当を食べ終わった頃にレイがぼそっと言った。 「碇君はあなたには渡さない」 「おあいにくさま。シンジはもうあたしのものよ」 「そんな事ない。私が取り返すもの」 「あんたがどう頑張ったってシンジはあんたにはなびかないわよ。あんた自分がシンジとどういう関係だか知らないの?」 「知らない。でも私の望みは碇君と一つになる事だけ。そのためだったら何だってする」 「はっ。せいぜい頑張る事ね」 その時アスカは男子生徒達に連れて行かれるシンジに気付いた。 「ちょっとあんた達!人の亭主をどうする気!?」 男子生徒の一人がばつの悪そうに言い訳する。 「ちょっと話を聞かせてもらおうと思って……」 「いいからシンジを放しなさい!」 男子生徒達は顔を見合わせるとシンジを解放した。 「まったくもう、あんたはどうしてもうちょっと毅然と出来ないの!?」 「ごめん」 「大体あんたはね……」 その後昼休みが終わるまで延々とアスカのお説教が続いた。 放課後、シンジは用があるといってアスカを先に帰した。一人でレイのマンションに向かう。レイは前に住んでいた団地がなくなったため、今はマンションで一人暮らしをしていた。 ピンポーン。 『誰?』 「僕だよ」 『入って。鍵は開いてるから』 ドアを開けて中に入る。 「それで用ってなに?」 「上がって」 シンジはあまり気が進まなかったが靴を脱いで上がった。昔と違ってそれなりに女の子らしい部屋。調度品のほとんどはミサトやアスカ、ヒカリなどが選んでやったものだ。 「お茶、飲む?」 「いいよ、すぐ帰らなきゃならないから」 「あの人のところに?」 「……うん」 レイはじっとシンジを見詰めた。やおら制服を脱ぎ始める。 「ちょ、ちょっと綾波!やめてよ!」 「碇君、フリンしましょ」 レイは下着姿になった。ブラジャーに手をかける。シンジは後ろを向いた。 「加持一尉に相談したら教えてくれたの。愛は奪う物だって」 加持に憧れているシンジだがこの時ばかりは怨んだ。 「駄目だよ綾波」 「どうして?私は結婚してくれなんて言わない。あなたと一つになりたいだけ」 レイが後ろから抱きついた。 「駄目なんだよ。僕たちは兄弟みたいなものなんだ。だからそういうことをしちゃいけないんだ」 「どうして?どうして兄弟だと駄目なの?あの人の望みはかなえたのに私のはかなえてくれないの?」 「……ごめん」 「……そう。……駄目なのね。……ならもう私には何もない」 「そんな悲しい事言わないでよ。綾波だって僕にとって大切な人なんだ。だから何もないなんてこと絶対にないよ!」 レイがシンジに抱きつくのを止めた。服を着ている気配がする。 「今日はもう帰って。あなたの顔を見ているとつらいから……」 「綾波、絶対にいなくなったりしないでね。じゃ、また明日学校で」 そういってシンジはレイの部屋を後にした。 マンションから出るとアスカが待っていた。 「ア、アスカ、これは別に浮気してたわけじゃなくて、その……」 シンジは慌てて言い訳を始めた。その口をアスカが押さえる。 「わかってるわよ、そんな事。あんたがあの娘の事をどう思ってるか聞いてなかったら疑ってただろうけど。今日あいつ変だったから気になっただけよ」 「……思いつめた事しないといいんだけど」 「あいつ、思い込み激しいからね。心配なら後でミサトに見に来てもらえば?」 「……そうだね」 夕日の中、道に長い影が二つ、ならんで揺れていた。 数日後の朝。いつものようにレイは一人自分の席で本を読んでいた。 「おはよう、綾波」 シンジがいつものようにレイに挨拶した。 「おはよう、お兄ちゃん」 レイは本から顔を上げてうっすらと微笑んで答えた。 「お兄ちゃん!?」 シンジが目をむいた。 「そう。私妹になったの。だから私は碇レイよ」 「妹になったって、綾波」 「レイって呼んで。お兄ちゃん」 「綾波、一体どうして?」 「…………」 「綾波?」 「…………」 「レ、レイ?」 「なあに?お兄ちゃん」 レイが小首を傾げる。しぐさも以前に比べるとなんとなく可愛らしい。 「妹になったって一体?」 「お兄ちゃんが私たちは兄弟みたいなものだって言ったから司令に本当に兄弟にしてもらったの。これで一生一緒よ」 「じゃああんたはあたしの義理の妹ってわけね。あたしの事を義姉として敬いなさいよ」 アスカがこういうとレイは以前と同じ無表情に戻り言い放った。 「あなたみたいに図々しくてがさつな人はお兄ちゃんの妻とは認めない」 睨み合う二人。嫁と小姑戦争勃発。挟まれたシンジはたまらなかったが、新しく出来た家族に幸せを感じていた。 おわり |