ホワイトデー前日。シンジは夕飯の片付けを終えると何やら作り始めた。アスカはリビングでごろごろとテレビを見ている。ミサトはすでに酔いつぶれて部屋で寝ていた。 しばらくすると部屋に甘い香りが漂ってきた。それに気付いたアスカがシンジに聞く。 「シンジ、何作ってんの?」 「え?ああ、ホワイトデー用のカップケーキ。バレンタインデーのお返しだよ」 シンジがミトンをつけた手でオーブンから鉄板を取り出すとその上にはカップケーキが乗っていた。 「ホワイトデー?なにそれ?」 「うーんとね、バレンタインデーにチョコレートをもらった人がお返しをする日だったかな。普通はキャンディーとかマシュマロとかを送るらしいんだけど、本命用はキャンディーだったかマシュマロだったか、そういう決まりがあるらしくって。そういうのよく分からないからとりあえず僕の作れるものでカップケーキにしようと思って」 シンジはアスカのわがままに付き合っているうちに通常の料理のみならずお菓子作りまで出来るようになっていた。ミサトと暮らし始めたころは冷凍食品を暖めるぐらいしか出来なかったから格段の進歩だ。特にアスカが来てからは、アスカがレトルトとかを嫌がるためにかなり腕を上げていた。 「ふ〜ん、無敵のシンジ様はおモテになるから大変ね。もちろんあたしの分もあるんでしょ?一個頂戴」 「あ、アスカの分はないんだよ。これから」 作るから、といいかけたがアスカはみなまで聞かずに怒り出し、 「あっそう!別にあんたなんかにもらわなくったってかまわないわよ!ふんっ!!」 といって自分の部屋に引っ込んでしまった。 まったく人の話を最後まで聞かないんだから。 シンジはそう思いながらため息を吐く。 まあいいや。見られてると恥ずかしいし。 そしてシンジはお菓子作りを再開した。 アスカは枕に顔をうずめて横になっていた。 なによ、なによ!バカシンジ!人がせっかく手作りのチョコレートあげたってのに! シンジが自分の分を用意してくれてないのがショックだった。 そりゃ「義理」って書いたけどさ。あたしにくれないなんて……。 まさかシンジ、誰か他に好きな娘が出来たんじゃ……? アスカの不安はどんどん大きくなっていく。 アスカはごろりと仰向けになった。手のひらを上にむけ両手を目の上に乗せる。 やめ、やめ!あんなさえない奴が誰を好きになろうと関係ないじゃない! アスカは強がってそう考えようとした。でも胸の中の重たい不安はぬぐえない。ふと、綾波レイの顔が浮かぶ。普段は無表情なくせにシンジにだけは笑顔を向ける物静かな少女。 あいつの好きな娘ってやっぱりファーストなのかな……。 シンジとレイが手に手を取ってここから出て行く光景が頭に浮かんだ。なんだかとっても嫌だった。慌ててその光景をかき消す。 けぶるような優しい笑顔を浮かべたシンジの顔が浮かんだ。思わず顔が上気する。 な、なによ!あんたの事なんか何とも思っちゃ……いないんだから………。 アスカの強がりも長続きしなかった。 やっぱりあたし、あいつの事が好きなのかな……。 アスカは慌ててその考えを否定しようとする。 そんなはず無いわ!あんなうじうじとしたひ弱で鈍感で間抜けな奴なんか! でもいざって時には助けてくれる……頼りになる……そして優しい………。 アスカは悶々と思考のループを繰り返していた。シンジの事が好きな自分とそれを認めたくない自分。そう、認めたくないだけなのだ。シンジが好きである事を。シンジが他の娘を好きかもしれないという事とプライドのせいで。 こうしてアスカはたかがカップケーキ一個でなかなか寝付かれぬ夜を過ごす事となった。 ホワイトデー当日。シンジとアスカは若干寝不足気味だがいつもと同じように目覚めた。ちなみにシンジが寝不足気味なのは夜遅くまでケーキを作っていたからだ。アスカがシャワーを浴びている間にシンジは朝食の用意をする。 「おはよう」 「………」 シンジが声をかけたのにアスカはぷいっと横を向いて無視をした。アスカはそのまま席につくと黙々と朝食を食べ始める。 「あ、あのさ、アスカ」 シンジがおずおずと声をかけた。 「うるさい」 アスカはにべも無い。シンジはアスカの並々ならぬ低気圧に声をかけられず、仕方無しに黙って弁当を作る。 そのうちミサトが起きてきた。 「おあよ〜」 頭はぼさぼさ、おなかをぼりぼり掻きながらのその姿は百年の恋も冷めるといった感じだ。まあ、いつもの事だが。 「おはようございます」 シンジが挨拶する。アスカはぶすっとしたままだ。 「あらぁ?なにぶすっとしてんの、アスカ?」 「別に」 アスカはそっけなくこたえた。 またシンジ君と喧嘩でもしたのね。 ミサトはそう思ってさわらぬ神にたたりなし、と傍観を決め込んだ。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、席について一気にあおる。 「あの、ミサトさん。これバレンタインのお返しです。おやつにでも食べてください」 シンジがミサトにきれいに包まれたカップケーキを渡す。 「ま〜、悪いわねシンちゃん。今日はホワイトデーだったっけ。ありがたくいただくわ」 がたっ! アスカは音を立てて立ち上がり食器を下げると何も言わず弁当を引っつかんでどたどたと家を出た。その足音からもアスカの機嫌の悪さが相当なものであると分かった。 ミサトはアスカを見送るとにんまりとした笑いを浮かべ、シンジに詰め寄った。 「シンちゃ〜ん、今度は何したの?」 「はぁ、それがその、バレンタインデーのお返し、アスカの分が無いって勘違いされちゃって」 朝食を食べながら困ったようにシンジ。 「あらぁ〜、シンちゃん、アスカにももらったんだ〜。どんなのもらったの〜?」 ミサトは軽くシンジをからかう。 「あの、義理って書いてある手作りのチョコを……」 「へぇ〜、あのアスカが手作りのチョコをねぇ〜。で、アスカにはどんなお返し用意したの?」 「みんなに配る分とは別にケーキを作ったんです。みんなに配る分は人数分しか作らなかったのでアスカの分はないって言ったら……」 「怒り出したってわけね」 得心がいったミサト。 「それにしてもシンちゃん、アスカの分だけ別に作るなんてもしかして〜?」 にんまり笑いのミサト。ミサトのからかいにシンジは真っ赤になった。 「ミ、ミサトさん!」 「照れない、照れない。で、アスカの分のケーキはどこにあるの?」 「冷蔵庫の中です。生クリームつかったので」 ミサトが冷蔵庫の中を覗き込む。 「どれどれ。あ、このきれいな箱に入った奴ね。何かメッセージ添えたの?」 「え?ええ、一応。ケーキの上に書いておきましたけど……」 「じゃあアスカが勝手に開けても大丈夫ね?」 「ええ、それは大丈夫ですけど」 シンジの答えを聞くとミサトはメモ用紙に何やらかき出した。書いたメモ用紙を見るとこう書いてあった。 『冷蔵庫の中のケーキ食べてもいいわよん。ミサト』 「今のままじゃ、直接渡しにくいでしょ?こうしておけばアスカも受け取るだろうから」 「はい。ありがとうございます、ミサトさん」 「どういたしまして。っと、シンジ君急がないと遅刻よ」 急にまじめになってミサトが時計を示す。いつも出かける時間を過ぎていた。 「うわっ、本当だ!行ってきます、ミサトさん」 シンジは慌てて弁当を鞄に入れると家を飛び出していった。 アスカはとぼとぼと学校への道を歩いていた。 なんでミサトにはあげてあたしにはくれないの!? いつもは胸を張って堂々と歩いていくアスカも今日はうつむき加減で元気が無い。 あいつ、まさかミサトの事が好きなんじゃ!? 普段のアスカならこんな事考えもしないだろうが、不安が見境の無い疑念を呼んでいた。 「おはよう、アスカ。今朝は早いのね」 「おはよう、ヒカリ」 「どうしたの?なんか元気ないみたいだけど」 ヒカリはアスカの様子がいつもと違う事に気がついた。 「そ、そんな事無いわよ。ちょっと寝不足気味なだけ」 「そう?ならいいけど。なんか悩みがあるなら言ってね。相談に乗るから。ところで碇君は?」 ヒカリが何の気無し聞いた質問にアスカが過剰に反応した。 「な、何であのバカの事をあたしに聞くのよ!あたしはあいつの保護者じゃないんだからね!」 「今日は一緒じゃないから聞いただけじゃない。……ふ〜ん、アスカが元気ないのは碇君のせいか。また喧嘩でもしたの?」 「な、何いってんのよ!た、ただの寝不足だってば!」 アスカが赤くなりながら言い訳する。説得力のかけらも無かった。 「はいはい。で、碇君がどうしたの?」 アスカの言い訳を聞き流してヒカリが重ねて聞く。 「なんでもないってば!そうよ、何でもないのよ……」 後半は自分に言い聞かせるように言うアスカ。 「そ、そう……」 ヒカリは触れてはならない事に触れてしまったような気がして気まずかった。 「大丈夫よ、ヒカリ!あたしはこのとおり元気だから!」 アスカは空元気を出してヒカリの背中を叩いた。 ヒカリに心配かけちゃったな。 アスカは心の中で反省し、親友の気遣いをありがたく思うのであった。 シンジは遅刻寸前に教室に駆け込んだ。席につきながらちらっとアスカの方を見る。アスカはシンジの方を見ていたが目線が合うとぷいっと横を向いた。 まだ怒ってるや。どうしよう? シンジは思案にくれた。この様子だと口もきいてくれないだろう。何とか誤解を解きたいところだが。 ホームルームが終わるとシンジはアスカの事は後回しにしてカップケーキを配り始めた。ついでにヒカリにアスカの事を相談するつもりだった。 「洞木さん。あ、綾波も。これ、バレンタインのお返し」 紙袋から奇麗に包まれたカップケーキを取り出して渡す。 「あ、今日はホワイトデーか。ありがとう、碇君」 ヒカリはちらりとトウジの方を見たが、トウジはケンスケとばか話をしていてこっちには全然気付いてなかった。気付いたところでトウジにホワイトデーなんか期待するだけ無駄な事はヒカリには分かっていたが。 「……ありがとう……」 レイは大事そうにカップケーキの包みを受け取ると頬を桜色に染めてうっすらと微笑んだ。 「うれしい……」 一人感動に浸っているレイ。 「碇君、これもしかして手作り?」 「うん。うまく出来てると良いんだけど……」 「ところでアスカの分は?」 ヒカリが声をひそめてきいた。 「それが持ってきてないんだ」 シンジも同じように声をひそめてこたえる。 「どうして!?」 ヒカリが非難するように問い詰める。アスカが元気無かった原因はこれかなと思った。 「アスカの分は生クリームつかったから冷蔵庫に入ってるんだ」 「そのことアスカは知ってるの?」 「言ってないよ。だって昨日アスカ自分の分のカップケーキが無いって知ったとたん怒り出しちゃって……。そのあと口もきいてくれないんだ」 「じゃあ、アスカの分もあるのね?バレンタインのお返し」 「うん」 「わかったわ。私からそれとなく言っといてあげる」 「ありがとう、洞木さん」 そこで始業のチャイムが鳴った。各自自分の席に戻る。 その後シンジは休み時間ごとに他のクラスにカップケーキを配りに行った。なぜか行く先々にアスカがいたが声をかけようとするとぷいっといなくなる。そのせいかヒカリもアスカに話が出来なかった。 そして昼休み。アスカはヒカリとレイと一緒にお弁当を広げていた。最近ではレイも自分でお弁当を作ってくる。 なんであたしにだけくれないの? シンジが配ったカップケーキの数は13個。もらったチョコレートの数は14個だからアスカだけもらってない事になる。 もしかして好きな娘が出来たんじゃなくてあたしの事が嫌いになったの!? アスカは不安でいっぱいになった。嫌われる理由で思い当たるものは山のようにある。お弁当も喉を通らない。じっと恨めしそうにヒカリとレイのカップケーキを見つめる。その視線に気付いたレイがカップケーキをそっと手元に寄せた。 「これはあげれないわ……」 レイが静かに言う。 「べ、別にほしかないわよ!」 「そうよね〜。アスカには碇君特製のケーキが待ってるもんね〜」 ヒカリがからかうようにいった。 「へ?」 いきなり言われた言葉が理解できず間抜けな返事をするアスカ。ヒカリに問いただす。 「なによ、それ?」 「碇君いってたわよ。アスカの分は家の冷蔵庫の中だって。よかったわね〜、アスカ」 「うそ……。だってシンジあたしの分ないって……」 「それってカップケーキの事でしょ?アスカのはカップケーキじゃないみたいよ。生クリームつかったとかいってたから」 「あなた、碇君に想われてるのね……」 レイが無表情に言った。だが注意してみるとちょっと寂しそうな表情がにじんでいた。 あたしのだけ別に作ったの? アスカはにわかには信じられなかった。ボーッと考え込む。 「アスカ、早く食べないとお昼休み終わっちゃうわよ」 「え、あ、うん」 アスカはお弁当を食べ始めた。 放課後。アスカは家に飛んで帰った。靴を脱ぐ間ももどかしく急いで冷蔵庫に飛びつき中を見る。ビールの隙間に奇麗な箱が入っていた。箱を取り出し机の上に置いた。そこで机の上のミサトが書いたメモに気がつく。 やっぱりケーキなんだ! アスカははやる気持ちを押さえラッピングを解くと箱を開けた。 そこには10cmほどの丸いケーキが入っていた。常夏となった日本では手に入りにくくなった苺をふんだんに使った生クリームのデコレーションケーキ。ケーキの上にはメッセージが書いてあった。 『アスカへ 心を込めて シンジ』 シンジらしい簡単なメッセージ。もっとも10cmほどのケーキにかける文字数などかぎられてるが。 嫌われたんじゃなかったんだ……。 安心した途端、アスカの目から涙が溢れ出した。ぽたっ、ぽたっと涙が机に落ちる。 「ただいま」 シンジが帰ってきた。アスカは慌ててごしごしと涙をぬぐう。 シンジがダイニングにやってきた。 「あ……」 シンジはアスカがケーキを前にしているのを見て照れくさそうに頭を掻いた。 「き、気に入ってもらえたかな?」 優しい笑顔を浮かべる。そんなシンジにアスカの胸は高鳴った。 「ま、まだ食べてもないのにそんな事分かるわけないでしょ!ま、まあ見掛けは悪くないわね!」 口から出たのはそんな憎まれ口。 こんなこといいたくないのに! ありがとうっていいたいのに! アスカはそんな素直になれない自分の性格を呪った。 「そ、そうだね。あ、僕着替えてくるよ」 シンジが制服を着替えにいった。アスカもケーキには手をつけず部屋に戻って制服から着替える。 「あれ?アスカ、まだ食べてないの?」 「あ、あたし一人じゃこんなに食べられないわよ!あんたも食べなさい!」 「でも……」 「いいから!それともあんた、あたしを太らせたいわけ!?」 「わかったよ」 シンジは苦笑しながらナイフでケーキを半分にきり、皿に載せた。ついでにオレンジペコの紅茶を入れる。苦みが少ないのでアスカのお気に入りの葉だ。 「はい、どうぞ」 シンジが紅茶とケーキを差し出す。 「そ、それじゃいただくわよ」 アスカがフォークでケーキを口に運ぶ。シンジは自分のケーキには手をつけずじっとその様子を見ていた。アスカは顔が赤くなるのを感じた。 「どうかな?」 シンジがアスカの様子をうかがいながらきいた。 「あ、あんたにしては上出来ね。まあまあだわ」 本当はとってもおいしかった。素直じゃないからそうとは言えないが。シンジもその辺は分かっているようだ。 「よかった」 シンジは極上の笑みを浮かべた。その顔にボーッとなるアスカ。シンジがケーキを食べ始めると我に帰る。 「シンジ」 「なに?アスカ」 「何であたしだけカップケーキじゃなかったの?」 「それは、その……アスカのチョコレートが一番うれしかったから……」 シンジが赤くなりながらこたえた。その答えにアスカも赤くなる。二人は黙々とケーキを食べた。 アスカが先に食べ終えた。意を決してシンジに声をかける。 「シンジ」 「なに?」 シンジが顔を上げると、アスカはすっと唇を重ねあわせる。しばしのあいだ時が止まった。 「ケーキのお礼」 アスカは赤い顔をしたままそういうと、呆然としているシンジを残して自分の部屋に走り去った。 二度目のキスはとっても甘かった。 おわり |