ネルフの警戒網は、《使徒》の襲来を捕捉した。
けれど、まだ第3新東京市の近くにまでたどり着いてはいないのだろうか。
遮光フィルターの張られた防弾ガラス製の窓の外に流れる街並みは、ただいつものままに穏やかだった。
そう。考えてみれば、《使徒》がこの街に襲来したのは、いままでに一度しかない。
二度目は千葉島の沿岸にある、どこかの軍需産業の施設付近で戦ったし、もう一度は海上で《弐号機》が撃破した。
この街は、対《使徒》迎撃要塞都市っていうけれど、どこに現れるかわからないのに、そして、その目的もわからないのに、要塞なんて作る意味があるんだろうか。
わからない。
そして、考えるのをやめた。
わかる必要なんてない。
エヴァに乗ることが母さんの願いというのなら、乗り続ければいい。
母さんの願い、それをかなえて生きる。
それで十分満足できる。
いつも身から離したことのないペンダントを握りしめた。
掌のなかで十字架の角が、かすかな鋭さを主張した。
《使徒》の撃退については作戦部が基本的に主導権を握り、技術的な面から技術部がそれをサポートする。それがネルフのシステムの基本であり、それに従って、戦闘前に余裕があればミーティングが合同で開かれる。
そのミーティングには、パイロットにも同席が許されていた。
今回もその余裕があったらしく、プラグスーツに着替える前にミーティングルームにつれていかれた。
薄暗い部屋のなかを見渡して、銀色の髪を見つけてその横の椅子に座る。
どうやら最後だったようで、技術部の主任である赤木博士がひとつ頷いて巨大なディスプレイ上に映像を映しだした。
「まず状況のおさらいを……。ネルフ本部に敵性体が侵入しました」
あまりに淡泊すぎるその言葉に場がざわめいた。
侵入の事実に対する驚きでというよりも、それを確認したからという感じがした。
隣りに座っている綾波の方を見ると、落ち着いた様子でモニターを眺めていた。ちょっと白すぎるくらいの肌が、モニターからの光に浮かび上がっている。綾波は表情を変えていなかった。けど、《使徒》の侵入についてはもう聞いていたんだろうとわかった。
「ネルフ本部深部にあるシグマユニットより、劣化した防護壁を突破して侵入しました。目標はごく微少サイズ……いわゆるナノマシン状の、無数のパーツによって構成されたものと推定されます」
どこか(たぶんシグマユニットだろう)の壁面に、オレンジ色の光が複雑な模様を描いて浮かび上がっている。ただ、どうしてかわからないけれど、妙に人間くさいとでもいうのか、人の気配を感じさせる模様だった。
「本部内に侵入した目標は、シグマユニット一帯を制圧したのちに第四実験場のコンピュータを取り込み、保安部のデータバンクにクラッキングを敢行。それによってMAGIシステムのパスワードを奪取し、そして三十秒間で全防壁を突破してメルキオールを完全に掌握しました」
再び場がざわめいた。
今度はその驚異的な能力に対するものだと思う。
誇張でもなんでもなく、MAGIシステムは人類最高峰のコンピュータだ。旧式の、いわゆるスーパーコンピュータ数千台に匹敵する演算速度と解析能力を持っている。
だから、MAGIをクラッキングするなら、同じMAGIタイプを用いなければ不可能なはずだった。
当然技術部を中心に説明を求める声があがった。
赤木博士は冷然とざわめきが静まるのを待って説明を再開した。
「敵性体がMAGIに匹敵する能力を得た理由についてですが、目標には自己進化能力が備わっているからという回答が与えられます。つまり、コンピュータという概念を理解して、MAGIシステムと同等の能力まで進化したというわけです。つまり、ナノマシンの集合が知能回路を形成していると推測されます」
それがどれくらいすごいのか、すぐにわかった。
ねじ回しもない状態から宇宙船を作るようなものだ。
「そして、現在残るMAGI、バルタザール、カスパーの両機に対するクラッキングを行っています。ただし、MAGI三台のネットワークのシンクロコードを低下させることで、その速度を大きく減じさせています」
「残り時間は?」
威圧するような声で問いただしたのは司令だった。
なんで無意味に人をおびやかすんだろう?
「残り一時間半というところです」
そう答えてから、
「目標はMAGIシステムを掌握することによって、MAGIによる本部施設の自律爆破を行うようです。現に、メルキオール制圧後に提案され、否決されました」
赤木博士はコップの水を一口飲んだ。
「周知の通り、人工知能による自律自爆には、MAGI三台の一致が必要です。つまり、バルタザールとカスパーが制圧されるまでに対応をしなければなりません」
「《使徒》の本体をエヴァ三機で撃破したらどうですか?」
作戦部のスタッフのひとりが挙手して発言した。
「目標は敵性体ではありますが、《使徒》とは認められません」
赤木博士は奇妙なことをいった。確かに、今までの説明のなかで、なぜか敵のことを《使徒》とは呼ばなかった気がするけれど……。
それについて問いただす声を黙殺して、赤木博士は先の質問に答えた。
「また、目標を破壊したとして、万が一にも《第三使徒》のように自爆した場合、本部全域に被害が及ぶことが推定されます。よって、その案は却下とします」
《使徒》と同じ性質を持つといいながら、一方では《使徒》と認めない……。いったいなんなんだろう。
そのあと、スタッフたちから次々と作戦案が提案され、ことごとく却下された。その最後にミサトさんが、
「作戦部長としてMAGIの物理的破壊を提案します」
確かに、MAGIさえ爆破してしまえば、どうあがいても自律自爆はできない(はず)。
ミサトさんらしいけっこう豪快な案だけど、解決案としては最良のひとつじゃないだろうか。
「……技術部として許可できません。MAGIの破壊は本部の破棄と同義です」
「他に方法があるっていうの!?」
ミサトさんは会議という場だということを忘れて声を荒げる。
「リツコ……。リツコのお母さんがMAGIの制作、設計をしたことは知ってるわ。完成前になくなったこともね。けど、だからって私情を持ち込まないでちょうだい!」
「私情など持ち込んでないわ」
ミサトさんとは対照的に、確かに赤木博士が冷徹な振る舞いを崩さない。
そのとき、別の誰かが手をあげた。
立ち上がったのはセカンドチルドレンだった。中学生の手に負える問題とは思えないんだけど……。
自信に満ちあふれた表情で立ち上がった彼女の姿に、周囲からはざわめきが洩れた。
「今回の使徒の特長は、その凄まじいまでの進化……進化速度にあるわけよね?」
「そうよ」
意外なことに、赤木博士はまじめに彼女に対応している。ミサトさんとのやりとりを鎮めるつもりだからかな……。
「なら、残っているMAGI……カスパーを通して進化促進プログラムを送り込むのよ」
「進化促進……?」
敵が進化したら、MAGIの性能を上回って、その支配が早くなるだけじゃないんだろうか。セカンドチルドレンのいいたいことがわからない。
けれど、赤木博士は頷いた。
「なるほど……。相手を進化の袋小路に追い込んで、MAGIと同化させるわけね」
全然わからない。
けれど、ほとんどのスタッフにはそのアイデアが理解できたみたいで、感嘆の声さえあがっていた。
「でも、その進化促進プログラム……だっけ? それが効果があるとしても、組み立てる時間の余裕、あるの?」
ミサトさんは冷静さを取り戻して訊ねた。
もしプログラムが効果があるにしても、間に合わなければ意味はない。
「間に合うわよ」
赤木博士は微笑した。
「この事件がきょう起こってよかったわ。きのうだったら間に合わなかったでしょうね」
ミサトさんは一瞬怪訝な顔をして、そのあと納得したように笑った。
「そうね」
「よかろう。その作戦、許可しよう。赤木博士はプログラムの作成にかかりたまえ。葛城一尉。きみはMAGIの爆破準備だ。赤木博士が間に合わなかった場合の保険は必要だからな」
司令が決定を下した。
「了解しました」
「綾波……。結局どういうことなの?」
「なにが?」
ミーティングが終わって、ネルフのスタッフたちはそれぞれの仕事に就くべくそれぞれの持ち場に去っていった。
綾波くらいしか残っていない。見渡しても、セカンドチルドレンの姿さえなかった。
「いったい、どうなったの? 相手を進化させたら、MAGIよりも性能がよくなってすぐにクラッキングされちゃうんじゃないの?」
「そうはならないわ」
綾波にはあのやりとりが理解できたみたいだ。
「進化っていうのは、退化と同じことなの。だから、その終局点である自滅にまで追い込めばいいの」
「ごめん……。全然わからない」
なんで進化することが退化するのと同じなんだろう。
「わたしも聞きたいわ」
不意に背後からぬっと顔を出して、ミサトさんは綾波に訊ねた。
「ミサトさん、大学出たんじゃなかったんですか?」
「わたし、文系なのよ」
綾波はしばらく考えていたけれど、ゆっくりと言葉を選んでもう一度説明をしてくれた。
「……いい説明じゃないけれど、例をあげるわ……。生物学の一説に、ウィルスの進化論があるの」
「ウィルス?」
「そう。普通、ウィルスというのは生命の最初の形といわれてる。けれど、ある学説はその逆を主張しているわ」
最初の反対は、最後。
「つまり、生命の最終段階がウィルスである……」
綾波は頷いた。
「ウィルスは、生命体が自分のあらゆる器官を廃棄して進化した。……最初は自分に備わった器官で生命活動を維持していたのに、寄生することで他の生命体のそれを利用するようになって、そのはてにほとんどの器官を失った。もはや生存本能以外の欲望は存在しない。こういう学説よ…」
「つまり、《使徒》をウィルスと同じように退化に追い込んで、MAGIを爆破させる知能を失わせてしまうというわけね」
「そうだと思います」
なんとか理解した……つもりになった。
「ありがと、綾波」
綾波は唇をわずかなカーブを描くように形を変えてみせた。綾波らしい微笑みだった。
「あー、それでね。シンジ君とレイは自爆の十五分前にエヴァに搭乗。ATフィールドのなかなら、本部の自爆からも生き残れるはずよ。いまここでエヴァを失うわけにはいかないもの」
そして、代わりのいないパイロットもまだ失うわけにはいかない……。
「セカンドチルドレンの……惣流さんでしたっけ? 彼女はどうするんですか」
「アスカ? アスカはリツコと一緒にプログラムを作ってるわ」
中学生がなにをやってるんだろう。
人の心を読んだのか、ミサトさんはにやりと笑って、
「アスカ……あの娘、情報工学の博士号を持ってるのよ」
「え?」
「ほら、この前テレビで……」
しばらく考え込んで、思い出した。
いつか、ミサトさんとコーヒーを飲みながら見ていたテレビでそんなことをいっていたような気がした。
「セカンドチルドレンがあの天才、惣流・アスカ・ラングレーなんですか」
迂闊なことに、名前を聞いても情報を結びつけられなかった。
「そ。納得した?」
「はい……。彼女がいるから、きょうなら間に合うって赤木博士がいったんですね」
「そういうことね」
「葛城三佐」
綾波が訊ねた。
「MAGIの爆破作業はいいのですか」
「日向君に任せたわ」
「……上司がいなくても部下は育つ、ですね」
「どういう意味よ」
食堂へ行くために廊下を歩いていると、長髪と無精ひげの、だらしない格好の男が、オペレーターのマヤさんに話しかけているのに出くわした。話しかけているというよりも、口説いているという感じだった。
……きょう、港の公園でセカンドチルドレンとデートしていた人じゃないか?
「その前にきみの口をふさぐよ」
彼はそうのたまうとマヤさんに顔を近づける。冗談みたいな雰囲気だったけど、ファイルを抱えたまま、マヤさんは表情をこわばらせて、大げさなくらいのけぞった。そして、こちらに気づいた。
「あ、葛城さん……」
迷子の子供が親とようやく巡り会ったかのような、そんな瞳だった。
「……葛、城?」
男は怪訝な顔を浮かべて振り向いた。
次の瞬間、間合いを詰めていたミサトさんは容赦のない勢いで彼の腹に拳を打ち込んだ。
「うぐっ」
男はそのままうずくまった。
床をつかむように手を握ったり開いたりしながら、必死で痛みに耐えている。
マヤさんはミサトさんと倒れ込んでいる人とをおびえた表情で等分に眺めた。ミサトさんって、こんなに怖い人だったの……?
「……マヤちゃん、こんなところでなに油売ってるの?」
一瞬間をおいたミサトさんの声は、普段と変わった感じはしなかった。かえってその方が怖い。
「あ、はい……。先輩とアスカがいまカスパーで進化促進プログラムを作成中です」
「いや、だからマヤは?」
「その……」
マヤさんはわずかにその表情を暗くした。
中学生が気づくくらいだから、ミサトさんにわからないわけがなかった。けれど、口から出た言葉を捕まえて閉じこめるなんてことは、誰にもできない。
「……わたしじゃ、先輩の役に立てませんから」
「リツコの一番弟子の、マヤが? 冗談でしょ」
マヤさんは首を横に振った。
「わたしじゃ、先輩やアスカのレベルには追いつけないんです」
無理矢理に作ったような微笑みを浮かべると、マヤさんは会釈して足早に去っていった。
「ごめん、シンジ君」
ミサトさんは慌ててマヤさんのあとを追っていってしまった。
マヤさんに追いついて、いったいどうするつもりなんだろう。
「あの……大丈夫ですか?」
床に突っ伏している男に声をかけた。
「大丈夫よ。葛城三佐はぎりぎりの段階で手加減しているわ」
綾波は冷静に評してからつけ加えた。
「たぶん」
はたして、無精な格好の男はミサトさんに殴られた腹の辺りをなで回しながらもなんとか立ち上がった。
額に浮いた脂汗を拭い、一息ついてから、
「ふたりとも。無責任な葛城はおいといて、俺とお茶でもつきあわないか、碇シンジ君と綾波レイちゃん」
「どうしてぼくたちの名前を?」
「自覚してないのかい? 望もうと望まざろうと、君たちは世界で三人しかいないチルドレンのひとりだ。有名にならざるをえないさ。司令と碇博士の子供ということもあるしな」
碇博士……母さん?
「母さんって、そんなに有名な人なんですか?」
「そりゃあな」
ミサトさんの代わりに加持さん(無精ひげはそう名乗った)に連れられて、食堂に来て三人でお茶をすすりながら母さんの話を聞いていた。
加持さんは母さんと直接の面識はないというけれど、それでも、母さんの話は聞きたかった。
「E計画……エヴァを作ったのは、碇博士だよ。学会などに顔を出したこともほとんどないが、一部ではMAGIを開発した赤木ナオコ博士……リッちゃんのお母さんや、アスカの母親の惣流・キョウコ・ツェッペリン博士以上に知られていた」
リッちゃんというのは、赤木博士のことだろう。ミサトさんのさっきの赤の他人に対するには容赦のなさすぎる態度などを考えると、ミサトさんと加持さん、そして赤木博士は知らない仲じゃないんだろう。
ミサトさんと赤木博士は大学時代からの親友っていってたし、加持さんもその関係の人なのかな……。
「一部でしか有名でないって、どういうことなんですか?」
「ん……」
加持さんはコーヒーを一口すすって、
「人工進化研究所……ネルフの前身組織で働いていた碇博士の研究は、おもにエヴァに関係したものだったからな。表に発表できる性質のものじゃない。まあ、それはアスカの母親とも同じだけどな」
だからか……。
納得した。
中学生だと、どうしても母さんのことを調べきれなかったのだ。
母さんは表舞台で研究の成果を発表することはほとんどなかった。だから、第3新東京市の図書館で顔写真目当てに母さんのことを調べても、論文も著書もなにも見つからなかった。
けれど、その理由が加持さんの説明でようやくわかった。
「ちょうど、いま、エヴァについて伏せてあるみたいに、ですか」
「そういうことさ」
「それにしても……。遺伝率三分の二ですか」
「なにがだい?」
加持さんは訝しんだ。
「天才の、ですよ。リツコさんとセカンドチルドレンは親子そろって天才といわれ、ぼくは違う……。あ、いや、別に天才なんていわれたいわけじゃないですけどね」
加持さんは困ったように苦笑した。
そこへミサトさんがやってきた。
「よう、葛城」
加持さんは、ついさっき容赦なく殴られたことを忘れたかのように、平然と手を挙げた。
ミサトさんはわずかに眉をひそめた以外、反応らしい反応を示さないで近寄ってきた。
テーブルの上に並んだセットのトレイ三つを見て、
「加持のおごり?」
「はい」
ミサトさんは無表情なままに懐に手をやって財布をとりだし、ふたり分の代金を(まったくお釣りなしで)きっちりとテーブルに載せた。
「一食くらい……」
「あんたみたいなやつには借りを作りたくないの」
加持さんの台詞を、ミサトさんは冷たい声で遮った。
「そうかい?」
加持さんは首をすくめた。
「葛城がそういうなら受け取っておくよ……。本意じゃないけどね」
ミサトさんは顔をこわばらせたままだった。
「アスカと《弐号機》を届ける、その用事は済んだんでしょう。なら、さっさとドイツへ帰りなさい」
「つれないなあ……」
加持さんは苦笑した。
「葛城をおいて逃げ出せるわけないだろ」
「どうして?」
「そりゃ、葛城……」
「赤の他人でしょ」
《赤の他人》と評する関係にしては、ミサトさんの態度は不自然で、加持さんのそれは慣れ慣れしい。
妙に張りつめた雰囲気から逃げ出そうと思って綾波の方を見ると、二人の争いなどどこ吹く風というように、ポケットから取り出した文庫本に視線を落としていた。母さんの話のときはそんなことはしてなかったと思っていたけど、どうだっただろう。
タイトルをのぞき込もうとすると、綾波が視線を上げた。
「なに」
「え、あの……。なんの本を読んでるのかなって……」
「《形而上生物学序説》」
「ケイジジョウセイブツガクジョセツ?」
「そうよ」
なんのことだかさっぱりわからない。
「へえ? また難解なもの読んでるんだな」
加持さんがミサトさんとの会話から逃れるように感心した言葉を口にした。そのミサトさんは席を離れて食事を買いに行っていた。作戦部の部長ともあろう人が、そんなのんきなことをしていていいのかな?
「そうでもありません」
「謙遜することはないさ」
目の前の会話に注意を戻した。
加持さんは誤解しているけれど、綾波が謙遜なんてしないことはよくわかってる。謙遜っていうのは、儀礼的な行為だ。自分を正確に、客観的に評価することとは表現として離れている。けれど、基本的に他人を意識しないことが当たり前となっている綾波には、確認したことはないけれど、概念として存在しないはずだ。
だから、本当に難しくない本なんだろう……少なくとも、綾波にとっては。
「さて、と……。葛城が戻ってくる前に退散することにするよ」
加持さんは腰を上げた。
ふっと加持さんは、食事を選んでいるミサトさんの方を見て微苦笑した。
「《わたしが食事を買ってくる前にどっかへ行きなさい》だからな」
「以心伝心ってやつですか」
「いや、口でいわれた……。あいつに味がわかるはずもないのに、なにを迷ってるんだか」
「ミサトさんとはやっぱり知り合いなんですね」
「ん……まあな」
加持さんはもう一度微苦笑を浮かべた。ただ、今度のそれは苦さがよりウェイトを占めているみたいだった。
「昔のことだけどな」
「昔、ですか」
「ああ、昔のことだ。お互いガキだったころの……いや、俺だけだったかもな。あまり変わっちゃいないがな」
「ぼくくらいですか」
「いや……大学生のころさ」
まだメニューに迷っているミサトさんとは反対の方に向けて、加持さんは歩き出した。それを呼び止める。
「加持さん。きょう、公園でアスカとデートしてましたよね?」
「なんのことだい?」
加持さんはおもしろそうな表情で振り返った。
「勘違いじゃないかな」
そして、つけ加えた。
「俺もアスカも臨海公園になんて行ってないよ」
《R警報を発令します。D級勤務者以下のスタッフは本部から待避してください》
その放送を、パイロット専用の更衣室で聞いた。
もう一度その言葉が繰り返されたあと、ようやく着替えが終わった。
プラグスーツの左手首のところにあるスイッチを押す。プシューッという音がして、ぴったりと躰に張りついた。
脱いだ服を畳んでロッカーにおさめると廊下に出た。
すでに綾波は着替え終わって外に出ていた。なにをするでもなく、たたずんでいる。
「あ、待っててくれたんだ……」
状況を都合よく解釈することにして、綾波の横に並んだ。
「さ、ケイジへ行こう」
綾波はなにもいわずに歩き出した。
なにかを話そうと思ったけれど、なにも話題が思いつかない。
「あ……あのさ……」
「なに」
「うまくいくといいね」
「そうね」
……やっぱり続かない。
沈黙したままケイジにたどり着いたところで、普段はそこにいない人間がいた。
この世でもっとも不愉快な存在……司令だった。
その横を綾波と並んで通り過ぎようとしたとき、
「レイ」
司令は綾波を呼び止めた。
「はい」
綾波は立ち止まった。
それにつられて足を止めると、
「サードチルドレンは《初号機》に搭乗しろ」
その声を聞くだけでどす黒い感情がこみ上げてくる。
返事をする気にはなれない。けれど、この男が上司の地位にあることは事実で、だから、命令には従わざるを得なかった。
背を向けてその場を離れることにした。
冬月が司令室に戻ると、ゲンドウは机の上で手を組んで表情を隠すといういつもの姿勢で、小さなディスプレイを眺めていた。
「ここだったか、碇。――六分儀か。慣れんな」
「冬月か」
ゲンドウは手元を操作してディスプレイの表示を消去した。銀色の髪の残像がゲンドウの目に残された。
「捜したぞ。ケイジにでもいると思ったのだがね。それとも……」
冬月は後半は口の中にとどめておいた。
ゲンドウは冷ややかに沈黙を守った。
「まあいい。今生の別れとなれば、我々の計画も水泡に帰すのだからな」
「わかっている」
「まあ、心配はいるまい。赤木博士が……いや、赤木博士たちがきみを守ってくれるだろう」
《たち》というところでゲンドウの眉がわずかに動いた。が、やはり沈黙を守り続ける。
「MAGIのなかにいる赤木ナオコ君の人格……。バルタザールは科学者、メルキオールが母親。カスパーが女だったな。残されたのがカスパーなら勝利は堅かろう」
そこで冬月は鼻を鳴らした。
「それにしてもリツコ君にナオコ君。親子そろってきみに盲従するとは、わたしには正直理解できんよ」
ゆっくりと歩いて冬月は自分の椅子に深々と腰を下ろした。
「ところで、息子との別れはすませたのかね」
「息子? 俺には息子などいない」
はじめてゲンドウの声音に感情が込められた。が、冬月はそれに気づかない振りをして言葉を続けた。
「縁を切ったからか? だが、ユイ君の子供であり、ユイ君は碇、故人とはいえおまえの妻であることには変わりなかろう」
エントリープラグのなかに収まってからふと、思う。
司令にとっての綾波って、なんなんだろう。
綾波にとってのあの男は?
そして、また思う。
この作戦が失敗すれば、司令も赤木博士も死ぬ。最低でも、赤木博士は。
それなら、失敗したときの方が、メリットが大きいんじゃないか?
《いいわね、シンジ君、レイちゃん》
不意にエントリープラグの壁面の通信ウィンドウが開いて、オペレーター業務に就いているマヤさんが顔を見せた。
「はい……?」
間の抜けた答えを返してマヤさんを見る。
なんとなく目が赤く見えるのは気のせいかな……。
知らないうちにじっと見つめていたのか、
《どうかしたの?》
笑われてしまった。
「いえ……なんでもありません」
ここでいつもならよけいな茶々を入れるミサトさんは、なぜかその場にいなかった。
マヤさんの背後をうかがうと、そこは普段の第一発令所じゃなくて、予備の第二発令所だった。
もしMAGIを爆破せざるを得なくなったときに、エヴァのサポートの遂行を可能にするためだろう。
MAGIがなければかなり苦しいんじゃないかと思うけれど。
《爆破カウントダウンの十五分前にエヴァを起動。ジオフロント内、十番ルート近くで待機します。技術部のプログラムが間に合わなかった場合、もしくは効果がなかった場合には、作戦部によってMAGIが爆破されます。このときには二機のエヴァでシグマユニット内に強行侵入。目標を殲滅すること》
MAGIによる自爆は、三機のMAGIの意見が一致した二秒後に実行される。
だから、カスパーが完全に制圧されてしまった瞬間に、ミサトさんがMAGIの爆破スイッチを押す。このときには、MAGIカスパーのなかで作業をしているセカンドチルドレンと赤木博士は死ぬことになる。
《その他、目標の殲滅に失敗した場合。このときにはシンジ君とレイちゃんのふたり以外はほぼ確実に死んでいると思うわ。おそらく目標も……ね。だから、日本政府、それに中国にあるネルフ支部の保護を受けてね》
「はい……」
ミサトさんに、本部の自爆システムの破壊力は聞いていた。
ジオフロントの深部を中心に、N2爆雷が十三。それに原爆、水爆、レーザー水爆などがあわせて三十。第3新東京市ごと吹き飛んであまりある。
自爆システムになんでそこまでと思うほどのとんでもない数だ。
《レイちゃんもいいわね?》
《了解しました》
マヤさんはそこで人の気も知らずに微笑んだ。
《大丈夫よ。きっと、先輩なら》
エントリープラグのなかって落ち着くよな……。なんか、あたたかくて……。
待機位置でエヴァを固定させて、ぼんやりと綾波の映っているモニターを見つめた。
《零号機》のプラグのなかで、綾波は目を閉じている。緊張のかけらも見あたらなかった。
発令所から送られてくる、敵によるMAGIの侵入率を画像で表示したものを見る。最初に侵入されたバルタザールは真っ赤になっている。
完全に乗っ取られているという表示だ。
いま、侵入を受けているメルキオールも、そのほとんどが赤く染められている。
……全部赤くなった。
《バルタザールが乗っ取られました!》
日向さんの叫ぶ声が聞こえた。続いて、合成音声の無機的な声が続いた。
《人工知能により、自律自爆が決議されました。自爆装置は三者一致の二秒後に作動します。特例582発動下のため、人工知能以外によるキャンセルはできません》
新しいウィンドウが開いた。デジタル表示の時計が表示されている。補助コンピューターによって推測される、カスパーが完全に制圧されるまでの予測時間だ。つまり、滅亡へのカウントダウン……。
ふとケンスケとトウジのことを思い浮かべた。
あのふたりは、いまなにをしているだろう。地下から、死が迫っているとも知らずに。
なぜかはわからないけれど、微笑みがこぼれた。
さらに新しいウィンドウが開いた。表示は『SOUND ONLY from MAGI.CASPER』。
《リツコ、急いで!》
ミサトさんの焦りのうかがえる叫びに赤木博士が叫び返した。
《やってるわよ。黙ってて!》
発令所からも、緊迫した叫び声が伝わってきた。。
《メルキオール、バルタザール、さらにカスパーに侵入!》
《なんて速度だ!》
例のウィンドウの、カスパーの表示が、すさまじい勢いで赤く塗られていく。
《だめ! 三秒足りないわ!》
《そんな!》
赤木博士が絶望したように叫ぶ。
《こっちに回して!》
これはセカンドチルドレンの声だろう。同じように叫んでいても、三十路手前の女性ふたりよりよっぽど落ち着いている。
残り時間は十五秒。
赤木博士の余命も十五秒。
けれど。
《リツコ、押して!》
セカンドチルドレンの声とともに、カスパーの赤い点滅が静止した。わずかな間をおいて、水色が広がっていく。
どうにかして、セカンドチルドレンが間に合わせたらしい。
《人工知能により、自律自爆が解除されました。なお、特例582も解除されました。MAGIシステム、通常モードに戻ります》
結局、赤木博士は生き残ったのか……。
《シンジ君、レイちゃん、お疲れさま。エヴァをケイジに戻してちょうだい》
安堵した表情のマヤさんが映った。
「……はい」
SNOWです。
とりとめもなく。
アスカ登場のわりにアスカが表に出てきませんね。
語り手であるシンジがいないところで活躍している以上仕方のないことではありますが。
進化促進プログラムについてのレイの講義ですが、とある小説からの流用ですので、実際の生物学にそんな学説が存在するのかは未確認です。本当の理屈が知りたい方は、考証系のホームページをうろつきましょう(他力本願モード)。
『Three Mothers』というタイトルにしたのに、ユイはともかく、赤木ナオコと惣流キョウコの話題がほとんど出てこなかったですね。
結局MAGIだけか……。
B-part 冒頭に書きましたが、第3新東京市に使徒が来ないですね……。この部分を書くまで気づいていませんでした。
次にこそは来る……かな(未定なんです。(毒)電波的に書いている面があるので……)。
ではまた。