がんがんがんがん。
フライパンとおたまをたたき合わせる音だ。
楽器ではない。
「ミサトさん、朝ですよ!」
がんがんがんがん。
ネルフ作戦本部長、葛城一尉殿は、めっぽう朝に弱い。
耳元で、この、叩いている方がいやになる音を響かせても起きないというのだから大したものだと思う。
がんがんがんがん。
脱ぎ散らかされた服や下着、雑誌、コーヒーとビールの空き缶のなかの万年床のなかから、ミサトさんはようやく顔を出した。
「あーら、シンちゃん。おはようのキス?」
「……このフライパン、ミサトさんの頭のぶつかるともっといい音がするでしょうね」
精一杯冷たい目でミサトさんを睨む。
「もう、シンちゃんってば」
そういって大あくびをすると、ミサトさんはようやく布団から這い出てきた。
足の付け根でカットされたジーンズとタンクトップ。
目のやり場に困る格好だ。
思わず顔を赤くすると、ミサトさんは、
「なーに赤くなってんの、シンちゃん?」
わかっててやってるから始末に負えない。
「ご飯、さめますよ」
そういって背中を向けた。
ミサトさんは、のどの奥まで見えそうな大あくびをしながらダイニングに入ってきた。
椅子に座りがてら、冷蔵庫からビールを二本取り出している。
毎朝の習慣みたいなんだけど、これで酔わないで出勤できるのは大したものだ。真似をしたいとは思わないけれど。
そんなことを思っていると、ミサトさんはプルを起こして一気飲みを始めた。
「ぷはぁ! やっぱじんせい、このときのためにあるわよねぇ」
人生の意義がたくさんあってよかったですね、ミサトさん。
心のなかでそんなことを思いながら、
「今日は仕事、ないんですか?」
「お昼から、レイと《零号機》の再起動実験があるわ」
綾波か……。
学校に編入して一ヶ月。綾波の全身に巻かれていた包帯も、ようやく取れていた。
「あの……。綾波って、なんであんな怪我してたんですか?」
前から聞きたかったことだ。
自分から綾波のことを話題にすれば、ミサトさんはからかいにかかるだろう。
それを、家族のコミュニケーションと考えているんだろうけど……。
ミサトさんから振った話題なら、そんなこともないだろう。
「あたしがここに来る前のことだから、詳しくは知らないんだけどね」
ミサトさんはそう前置きした。
「なんでも、最初のの起動実験のときにね、《零号機》が暴走して、プラグが強制排出されたらしいの」
起動実験場は見たことがある。ずいぶんと狭いところだった。
エヴァが暴走しているなか、プラグが射出されたら……。
それに、射出されたプラグは、普通、パラシュートで軟着陸する。けど、実験場のなかじゃそんなわけにはいかない。
「それで、よくまたエヴァに乗る気になりましたね」
「そうね……」
ミサトさんも少しまじめな顔をした。
でも、すぐにそれを打ち破って、
「あー、そうそう。今日の夜、リツコが遊びに来るからね。ご飯は三人前よろしく」
「リツコさんが……?」
ミサトさんとリツコさんは大学以来の親友なのだそうだ。
専攻、というか、学部は違うみたいだけど。
リツコさんという人間はよくわからない。
最初にあったときは、人のことを、それこそモルモットみたいに扱っていたのに、模擬体を使ったシンクロテストのために会ったときは、そこまで冷酷じゃなかった。
かといって、綾波に対して冷酷なのは変わらない。
こっちをひいきにしてるんじゃない。向こうが嫌いなんだと思う。
その、大人げない態度が、普段の冷静な科学者という尊敬できる仮面からのぞく本性なのかな……。そう思うと、あまり歓迎できる人じゃない。
「わかりました。なにかリクエストとかありますか?」
「そうねえ」
「カレーとか……」
ミサトさんお手製のカレーを口にする機会に恵まれたことがある。
シンクロテストのときに、ネルフ本部でミサトさんが、自分が今日は料理担当だという話をしたとき、オペレーターの日向さんがものすごくうらやましそうな顔になった。
「シンジ君。ぼくは君がうらやましいよ」
冗談のような顔でいってたけど、多分本音なんだと思う。
青葉さんは無関心にコーヒーをすすっていて、マヤさんは、
「お料理かあ……。せめて、自分でお料理できる時間くらい欲しいです」
日向さんとはまた違った意味でうらやましそうだった。
リツコさんは、背中を向けてデータを調べながら念仏でも唱えるようにいったものだ。
「大胆不敵。五里霧中。墓前供養」
そのときはなにをいっているのかわからなかった。
いまはわかる気がする。
「ミサトさん」
綾波もかくやという無表情になっていう。
「ミサトさんが作ったカレーのせいで、ペンペンが病院送りになったの、忘れたんですか」
当分、カレーはごめんだ。
「いやあ、ペンギンってカレーは食べられないのね」
人間でも食べられないと思う。
「……そうですね」
なにもいうまい。
そう決めて空になったコーヒーカップにコーヒーを注ぐと、ミサトさんはサーバーを手にした。
そして、半分くらい残ったビールの缶に注いで飲み始めた。
それも、おいしそうに。
底なし沼におぼれる気分ってこんなときに使えばいいんだろうか?
ガラスと隔壁の向こうに、黄色い巨人が立っている。
《零号機》だ。
《初号機》と違うのは、ひとつ目ということだ。
模擬体のシンクロテストのあと、第二実験場で、綾波と《零号機》の再起動実験が行われているのだ。
実験には、技術部所属のリツコさんとマヤさんだけじゃなく、作戦部のミサトさんと日向さん。それに、司令がいた。
「レイ、準備はいいか」
普段からは想像もできない温厚さで司令はいった。
「はい」
モニターの綾波を、リツコさんがすごい瞳で睨んでいた。
顔が無表情を保っているのに、目だけがとがっている。あれは怖い。
「では、赤木博士。実験開始だ」
司令の言葉に、リツコさんの視線は元に戻った。
どうしてリツコさんは、綾波のことがそんなに憎いんだろう。
「エントリープラグ挿入します」
マヤさんが緊張した声でいった。
《零号機》の背中に、白い筒が挿入される。プラグのなかには、綾波がいる。
この実験の直前、時間を待っていた綾波に訊いてみた。
「綾波……怖くないの?」
「なにが」
「前の起動のときは、大怪我したんだろ? なのに、またよく乗る気になったね」
「あなた、碇司令のこどもでしょう。どうして父親を信頼できないの」
「どうして、血のつながりと能力が関係すると思うの?」
「……わからない。わたし、家族、知らないから」
綾波には家族がいないんだろうか。
それとも、暖かく接してくれた人がいない、そういう意味なんだろうか。
でも、訊けなかった。
「稼働電圧、臨界点突破」
「起動システム、第二段階へ移行」
「パイロット接合に入ります」
目の前では、着々と起動手順が続けられている。
オペレーターたちの緊張した様子とは裏腹に、プラグのなかの綾波は、無表情を保ち続けていた。
そういえば、綾波が表情を変えたところなんて、見たことがない……。
「シナプス挿入、結合開始」
「パルス送信」
「全回路正常」
「絶対境界線まであと2.5……」
エヴァに母さんの願いが込められているんだったら、綾波を助けて……。
右手でペンダントを握りしめる。手のひらが汗ばんでいるのに気づいて驚いた。
なんでだ……?
マヤさんのカウントがゼロに近づいていく。
そして。
「ボーダーライン、クリア。零号機起動しました」
ほうっという安堵が実験室を包んだ。
「……引き続き連動試験に入ります」
ひとり、リツコさんは冷静だった。
リツコは、自分の前に置かれた皿、正確にはその上に載せられた物体をじっと見つめた。
赤い色をした米を、黄色い膜が包んでいる。高い確率で、黄色い膜は卵だろう。
だが、と考える。
ここはミサトの家である。
従って、なにかを口にするのにこれほど不適当な場所はない、と断言できるのだ。
「やーねえ、リツコったら。遠慮なんかしなくていいのに」
脳天気に諸悪の根元がいう。
遠慮ではない。
生命維持の本能だ。
そう叫びたい気持ちを、リツコは必死に押さえつける。
おそるおそるスプーンを手に取り、リツコは脂汗を流しながら口にその米と卵に見えるものをもっていく。
逡巡の末、口の中にそれを収めた。
そして、ときが止まり……
「あら? おいしいわね」
リツコは自分の味覚が破壊されたのだろうか、と思った。それ以外においしいと誤解できる要因は思い当たらない。
「そうですか。ありがとうございます」
目の前に座っている少年、シンジが微笑んだ。
「お口に合わないかな、って気になったもので……」
「いえ、おいしいわ……。ひょっとして、シンジ君が作ったの、このオムライス」
「はい」
「そうだったの」
急ににこやかになって、リツコはオムライスを食べはじめた。
考えてみれば、ミサトがオムライスなど作れるはずもない。もし、仮に、偶然に、なにかの間違いで、奇跡が起こったとしても、こんな綺麗にまとめることはできない。
「ミサトさんからカレーっていうリクエストもあったんですけど」
シンジの言葉にリツコはむせた。
「やっぱり、リツコさんもミサトさんのカレー……に見えなくもないもの……食べたことあるんですか」
「……思い出したくもない過去だわ」
頷きあうシンジとリツコにミサトは不満そうな表情を浮かべた。
「どういう意味よぉ」
「言葉通りの意味だと思いますけど」
「そう、言葉通りの意味よ」
息のあったふたりの台詞に、ミサトはひとり小首を傾げた。
オムライスの皿を片づけ、コーヒーを入れてリビングに戻った。
ミサトさんとリツコさんは、なにかのパンフレットをのぞき込んでいた。
コーヒーカップを置きながら見てみると、ロボットが写っていた。
エヴァよりいくらかサイズは小さいみたいだ。
「なんですか、そのロボット」
リツコさんは目を細めながらコーヒーカップに口をつけた。
そして、満足そうな表情になると答えてくれた。
「日本重化学工業共同体が作った、ロボットよ。戦自と共同で制作した兵器ね」
「《使徒》に対抗するためですか?」
エヴァのパイロットとしては当然の反応だと思う。
「違うわ」
けれど、リツコさんは否定した。
「結果的にはそれも目的になるんでしょうけど、本来は戦争用の兵器よ」
「役に立てば、でしょ」
ミサトさんはずいぶんと素っ気ない。
「そうね。このスペックじゃ、エヴァには遠く及ばないわ」
「だいたい、核分裂炉を搭載ってところに問題があるわよね」
「簡単に放射能を撒き散らしてしまうってことですよね」
冗談じゃない。
第3新東京市でそんなことになったら、どれだけの惨事になるか。
「だから、単なる置物よ」
ミサトさんは流し読みを終えたパンフレットをこちらに回してくれた。
正直、専門用語はよくわからない。だから、適当に眺めるだけなんだけど、本当に原子炉が積んであった。
「エヴァを作ったリツコが、興味を持つほどじゃないわね」
「そうでもないわよ」
リツコさんはコーヒーを飲み終えて、カップを静かに置いた。
「エヴァは南極で発見された第壱使徒のコピーだもの。人間が作ったものとは違うわ」
初耳だ。
「南極……」
セカンドインパクトが起きたところ。
「セカンドインパクトを引き起こした第壱使徒を模倣したものなの」
ミサトさんはしかめっ面になった。
「聞いてないわよ」
「そうだったかしら」
リツコさんは空のコーヒーカップを手にとって、あきらめて置いた。
そこに残っていたコーヒーを注ぐと、ありがとうといって口に運んだ。
「一応秘密だから、シンジ君、話しちゃだめよ」
当然、エヴァについては機密扱いになっている。
この第3新東京市の住民には知られているにせよ、情報操作が一応行われていた。
「こっちの」
ぽんぽんとパンフレットをたたきながら、
「ロボット……えっと、J.A.についてもですよね」
「ええ」
「あ、そうそう。シンちゃん」
思い出したようにミサトさんはいった。
「このポンコツのお披露が明日あるのよ。それで、あたしとリツコはその説明会に出席しなきゃいけないの。司令の命令で、シンちゃんとレイにもついてきてもらうわ」
「ミサト……まだいってなかったの」
リツコさんは天を仰ぐ真似をした。
ここを空けておいてもいいんだろうか。
だいたい、なんのために行くんだろう。
その疑問をぶつける。
「さあ? 司令の命令だから、かまわないんじゃないかしら」
ミサトさんは無責任にものたまった。
そして翌日。
千葉島にある日本重化学工業共同体の研究施設まで来ていた。
セカンドインパクトの前はこのあたりも陸続きで半島だったそうだけど、いまは島になっていた。
「悪いけど、シンジ君とレイはそのあたりを適当に散歩しててくれないかしら」
「散歩、ですか」
制服を着て、無表情に立っている綾波の方を見る。
もう包帯は取れていた。
でも、なんで制服なんだろう。
「あっちのほう、結構景色がいいらしいわ」
海岸沿いの方をミサトさんは指で指し示した。
「ここにいても退屈でしょうし、行ってらっしゃい」
「わかりました」
「この研究所の私有地からは出ちゃだめよ……。じゃ、二時間後にここに来てね」
そういってミサトさんとリツコさんは扉の奥に消えていった。
「じゃ、綾波……。行こうか」
綾波は頷きもせずに歩き出した。
馬鹿なことばかりいっていたから、嫌われたのかな。
最初にあったときのことを思い出した。
重傷で、包帯に巻かれていたのに、《大丈夫そうだね》なんて口走ってしまったのだ。
「綾波……どうしてぼくたちがここに連れてこられたのか、知ってる?」
重苦しい沈黙が嫌で、話しかけた。
変だ。
黙っているのが嫌と思うのは、はじめてだった。
人間関係なんて、煩わしいだけなのに。
綾波は振り向きもしないで頭を振った。
綾波も知らないのか……。
横に並ぶ。
ちらちらと横顔をのぞいてみるけれど、綾波の方はなにも気にしないでまっすぐに歩いている。
「あのさ」
前々から訊いてみたかったことがある。
「最初に《使徒》が来たときなんだけど」
エヴァに乗ることを承諾した、あの日。
「街でさ、綾波に会ったよね……。覚えてる?」
「知らないわ」
そう。綾波はあれだけの怪我をしていたのだ。街のなかをうろついているはずがない。
「そう……。とにかく、その、綾波に似た女の子、ぼくを見て泣いてたんだ……」
「ひょっとして、綾波の姉妹だったのかな……」
綾波は紅い瞳でこちらを睨んだ。
といっても、このごろわかったことだけど、本当は別に睨んでいるわけじゃない。瞳の色ともあいまって、そう見えるだけなんだ。
「わたしじゃないわ」
少しだけ、言葉が強くなったような気がした。
「家族なんて、いないもの」
綾波は、少しだけ歩く速度を速めた。
綾波は、ベンチに座って本を読んでいた。
その横には、 布で包まれた弁当箱が、手も着けられずに放り出されている。
さらにその隣りに座って、ひとり弁当をつついている身になると、ずいぶんと圧迫感がある。
もったいないよな……。
ミサトさんにいわれて作ってきた、綾波の分の弁当。
でも、綾波は食べる気さえ見せてくれなかった。
開いてもくれないところが哀しい。
三十分くらい前に、この休憩場についた。
ベンチがあったし、ちょうどお昼時ということもあって、綾波に訊ねた。
「その……お昼は?」
綾波は無言のまま、制服のポケットから錠剤をいくつか取り出した。
「……これ?」
冗談でもいってるんだろうかと思って綾波の顔をのぞいたけど、そんな様子はない。
「普通の弁当は?」
「これで十分生きていけるわ」
そういうことがいいたいんじゃないんだけど……。
「これ、よかったら、食べて」
背負ってたカバンから弁当の包みを出して綾波に渡そうとした。
「いらないわ」
「……そう」
とりつくしまのない綾波の言葉に、弁当箱が宙をさまよう。
「その気になったらさ、食べてよ。ここにおいとくから」
それだけをいうのが精一杯だった。
綾波は、その言葉を無視すると、錠剤を飲んで文庫本を取り出した。
こうして冒頭に戻る。
食べ終えた弁当箱をしまうと、もうやることがない。
昨日リツコさんが渡してくれたパンフレットを眺めていたけど、すぐに飽きてしまった。
ベンチの上に放り投げると、ぼんやりと綾波の横顔に視線を向けた。
銀色のショートカットが、風に揺れている。
ちょっと異常なくらい白い肌に、血の色の瞳。
全く表情を変えない。
笑えばかわいいのに、もったいないよな……。
でも、綾波の笑顔が想像できない。
どんな風に笑うんだろ……?
眉間にしわを寄せて考えていると、綾波の瞳がこちらに向けられた。
「なに」
「えっと……、綾波って、笑わないね」
少し、間があった。
綾波にしては珍しい。
「……必要ないもの」
必要、ない?
「命令があれば、笑うわ」
綾波の笑顔を見てみたい。
そう思っていることに驚いた。
そのとき。
かさかさ。
じゃり。
草と砂利を踏みつける音が背後から聞こえた。
振り向くと、中学生くらいの少年ふたりが近づいてくるところだった。
ジャージと迷彩服という、わけのわからないコンビだ。
誰だろう?
「あなたたち、誰?」
「ここは私有地なんだけど……」
なんで武器商人の研究所に中学生がいるんだ?
「そういうおまえらこそ、なんでこないなとこにおるんや」
ジャージ男がいう。
関西弁のようでそうでもない。似非関西弁というのが適当だ。
迷彩服が訊ねた。
「だいたい、俺たちの顔ぐらい覚えといてくれよ、転校生。綾波」
転校生?
同じ中学の生徒ってこと?
転校して一月たったけど、綾波以外、ひとりも名前も顔もを覚えてない。
「そう……ごめん」
どうでもいいことだったから、軽く謝ってすませることにした。
迷彩服は、セカンドインパクト前からあった金網に身をあずけて、
「俺は相田ケンスケ。こっちは鈴原トウジ」
「よろしゅう」
「……よろしく」
義理だけで答えた。
「えっと、碇、だっけ? それと綾波……なんでこんなところにいるんだ?」
迷彩服とジャージ男の方が、それを説明するべきじゃないのか?
綾波は再び本に目を落とした。
「君たちこそ」
「なに、こいつの道楽につきあわされただけや」
似非関西弁がいう。
「ここで戦自の新兵器のお披露目があるって聞いて、ね」
なんで知ってるんだろう。
その疑問に先回りするように、
「こいつのおとんがネルフとかいうわけわからん組織に勤めとってな」
「そのデータをちょいとのぞいたんだ」
「そう……」
ミサトさんかリツコさんに通報した方がいいんだろうか。
「今度はそっちの番や」
「まさか、デートってわけでもないだろ」
そういいながら、本を読んでいる綾波の方を見る。
完全に無視。
本を読み続けてる。
迷彩服は慣れているらしく、軽い苦笑だけを浮かべた。
「で」
先を促すようにいう。
困ったな。
エヴァのパイロットってことは、できる限り伏せておくようにいわれてるし。
「保護者がね、関係者なんだ」
「へえ……綾波も?」
綾波はやっぱり無視。
「うん」
代わりに答えておく。
そんなことを話していると、突然綾波が立ち上がった。
「時間よ」
それだけを口にして、背を向ける。
時計を見ると、確かにいまから帰らないとミサトさんとの約束の時間に間に合わない。
「待ってよ、綾波」
結局綾波が食べてくれなかった弁当をつかむと、カバンに押し込んで、迷彩服とジャージに背を向けて綾波の後ろ姿を追いかけた。
ミサトさんとリツコさんが待っていたところは、なぜかやけに騒がしかった。
「何かあったのかな……」
周囲の背広やら制服姿の大人たちが、私服や制服姿の中学生に奇異の目を向けてくる。
つまようじをくわえたミサトさんと、すました顔のリツコさんは、そのなかでは異様に落ち着いて見えた。
「なにかあったんですか」
ミサトさんが答えてくれた。
「演習中の戦自の艦隊がね、未確認飛行物体と遭遇したの」
「《使徒》、ですね」
「そう。で、MAGIによる予想進路が、ここなのよ」
「なるほど」
そう聞いて周囲を見渡すと、逃げだそうとする政治屋と、変に興奮した戦自のふたつに別れて見える。
胸のペンダントに手をふれながら訊ねる。
「出撃、ですか」
「そうなんだけどね……」
ミサトさんは困った表情を浮かべた。
「戦自のバカどもが、ポンコツの試運転を行うって」
あの、歩く核爆弾の?
「第3新東京市からウィングキャリアでエヴァは輸送中なんだけど、トラブルで《初号機》の準備に時間がかかってるの。《零号機》はともかく、《初号機》は使徒に間に合わないわ」
「レイは東の滑走路で待機。零号機の到着後、戦自と協力して《使徒》の撃破。シンジ君はいったん避難して《初号機》の到着を待つ。いいわね?」
「わかりました」
いつもの無感情な声で、綾波はいった。
「じゃ、シンジ君、行くわよ」
「……はい」
数歩歩いてから振り返った。
綾波になにかいおうと思ったけど、もうその姿が見えなかった。
珍しく、ミサトさんはそんな仕草をからかわなかった。
ミサトさんが押収したジープに揺られて、敷地のはずれにある仮設指揮所に移動することになった。
「そういえば、ミサトさん」
山の上であったふたり組のことを思い出して、運転席のミサトさんにいう。
「さっき、綾波と一緒に行った山の上に、中学生がふたり入り込んでたんですけど……」
ミサトさんは厳しい表情をさらに引き締めた。
「なんだってそんなところに!」
「例のロボットを見物しにきたっていってました。父親がネルフ職員とかで……」
「どういう管理体制よ。怠慢ね」
助手席のリツコさんはあきれたように首を振った。
「わかったわ。数人そっちに回させるわ。付近の民間人のシェルタに放りこんどけばいいわね」
そういって携帯電話を取り出した。
「シンジ君、そのふたりの名前は?」
なんだっけ?
聞いたはずだけど、どうでもよかったから覚えてない。
「……確か、相田と鈴なんとか、です。迷彩服とジャージの変なコンビでした」
リツコさんは再び携帯電話の相手との話に戻った。
そうこうしているうちに、戦自の仮設指揮所にたどり着いた。
「《零号機》、遅いですね」
レーダーに移る《使徒》は間近なのに、まだウイングキャリアは到着してない。
「乱気流に巻き込まれたわね……。迂回した《初号機》のほうがひょっとしたら早くつくかもしれない」
リツコさんが冷静にいう。
「だったら、綾波はどうなるんです!」
「どうもしないわ」
まただ。
どうしてこの人は、綾波にここまで冷たいんだろう。
「目標、ゼロエリアに到達、航空部隊、迎撃に移ります」
「アメリカ海軍の空母《エンタープライズ》からの支援部隊が30秒後に到着!」
ミサトさんとリツコさんがしがみついている小さなモニタ−をのぞき込む。
平べったいイカのような《使徒》が映っていた。
UNの戦闘機がミサイルやらなにやらで攻撃をくわえているが、全く効果が見られない。
「ATフィールドですね」
「副指令じゃないけど、税金の無駄遣いよねえ」
ミサトさんとそんなことをいっていると、背後から嘲弄するような声がかかった。
「ああ、あんなバリア、簡単に突き破ってみせますとも。我々の開発したJ.A.ならばね」
パンフレットに、ロボットの名前として載せられていた。
振り返ると、中年の男がいた。
「例のおもちゃのことよ」
嫌みたっぷりにミサトさんがいう。
「おもちゃとは心外な」
芝居気たっぷりに中年男は皮肉な笑みを浮かべた。
「ネルフの所持する化け物より科学が勝るのは当然の帰結ではありませんか」
腹が立つ物言いだった。
母さんが望んだものを悪し様にいうこの男、絶対好きにはなれない。
ミサトさんも腹を立てたらしく拳を握りかけたけど、それをリツコさんが制止した。
「おやめなさい、葛城。他人にほめられたがってる、程度の低い男の相手をすることはないわ」
ずいぶんと毒が込められている。
男は顔色を変えた。
「なんだと、この……」
その続きは、戦自のオペレーターの叫び声が被さって聞こえなかった。
「目標、上陸しました!」
「J.A.起動! 迎撃プログラムを走らせろ!」
確か、パンフレットには無人で、プログラムによって作動すると書いてあった。
モニターが切り替わって、鋭角的なデザインの人型機械が映し出された。
間違いない。J.A.だ。
滑走路の端に立って、海から近づいてきた《使徒》の前に立ちはだかる。
……滑走路!?
血が引く思いだった。
「まさか、この近くに綾波が……」
「そうね」
リツコさんが肯定した。
「なら、このポンコツが壊れたら、レイは放射能に……」
ミサトさんもようやく気づいたのか、リツコさんの襟をつかみあげた。
「《零号機》のウィングキャリアの到着の遅れが仇になったわね」
リツコさんは微笑した。ものすごく怖い微笑みだった。
「よ……呼び戻さなきゃ」
そういってペンダントを握りしめて立ち上がろうとすると、
「馬鹿なことを!」
中年男が嗤った。
「わたしのJ.A.が化け物ごときに負けるものか」
ぶち。
切れるというのはこういうときにいうんだろう。
立ち上がって、拳を握りしめた。
ミサトさんに押さえつけられた。
「シンジ君がこんな小物の相手をする必要はないわ」
その直後、戦自のオペレーターのやりとりが聞こえた。
「ウィングキャリア02、着陸許可を求めています」
「やらせろ!」
リツコさんが振り向いた。
「《初号機》の到着ね。行きなさい、シンジ君」
答える気にもなれなかった。
リツコさんをにらみつけて、きびすを返す。
その直後、オペレーターが悲鳴を上げた。
「J……J.A.の原子炉が!」
《使徒》から伸びた触手が、J.A.を貫いていた。
パンフレットに載っていた、J.A.の図が頭の中で一瞬ひらめいた。
あの位置には、原子炉がある!
「放射能、漏れてます!」
さらなるオペレーターの悲鳴。
「綾波は!?」
「お、すっげえ」
ケンスケは嬉々とした表情でハンディカメラを回していた。
離れたところにある滑走路の上では、ロボットと、海上からやってきた化け物がぶつかり合っている。
「おい、そろそろ逃げた方がいいんちゃうか」
トウジは心配そうに友人にいった。
「もう遅いよ」
「へ? なにいうとるんや」
ケンスケはファインダーから目をはずすと、バッグのなかのパンフレットを指さした。
「そいつ、ちょっと開いてみて」
「なんや、このパンフは」
トウジは怪訝な顔をしながらそれを手にした。
表紙には、J.A.資料・極秘と書いてあった。
「極秘資料やて? なんでおまえがそないなもん持っとるんや」
「持ってたのは俺じゃないよ。あの転校生……碇だ。あいつが置き忘れていったみたい」
「なんで転校生がトップシークレットなんぞ」
「たぶん、噂が本当だからじゃないかな」
ケンスケは再びファインダーをのぞき込んだ。
「噂?」
「碇と綾波が、この前の騒ぎのときのロボットのパイロットってことだよ」
「なんやて!?」
トウジの眉毛がぴくりと動いた。
「あいつらがわいの妹を……」
「それで、そのなかにロボットの構造図が少しだけ載ってるんだ」
ケンスケは少し暗い声でいった。
「あのロボット、原子炉積んでるんだよ」
「原子炉?」
「そ。動力源。ちょっと傷ついたら放射能をまき散らしちゃうだろ? 逃げてももう間に合わないよ」
無論、運が良ければそうでもないし、J.A.という名のロボットが化け物を倒す可能性もある。
「ま、碇と綾波の踏ん張りに期待しよう」
そのとき、身を起こした化け物が、触手でJ.A.の胸部をぶち抜いた。
「あれま」
ケンスケは口笛を吹いた。
「予想が当たっちゃった」
「当たったっていうてもやなあ」
トウジが抗議する。
そのとき、山と山に囲まれたところから、紫色の巨人が姿を現した。
ついさっき、巨大な飛行機が着陸した付近だ。
「ほら、どっちかわからないけど、化け物退治に出てきたな」
トウジはその紫色の巨人を見て拳に力を入れた。
ケンスケはふっとため息をついた。
「落ち着けよ、トウジ」
静かにいう。
「考えてみろよ。あのロボットはいま放射能を撒き散らしてる。でも、あいつらは、そのなかに入っていって、そのうえ命までかけて戦ってるんだ」
「それは、まあ……そうやな」
「トウジの妹が前の騒ぎで重傷を負わされたのは知ってる。けどさ、あのふたりが命をかけてるのも本当だろ?」
ケンスケは諭すようにいう。
「あいつらのことをどう思うかは、そりゃトウジの自由さ。でも、そのことは考えてやれよ」
しばらく沈黙があった。
それから、トウジはぽつりといった。
「ケンスケ、おまえって、大人やな……」
妹も同じことをいった。
そう思えなかったのは、トウジだけだった……。
「綾波!」
《初号機》を走らせて、綾波がいる滑走路の方に向かう。
《使徒》はJ.A.の残骸を近くの建物に投げ飛ばしていた。
コンクリートの建物が、いともあっけなく崩れる。
外部音声のスイッチを入れて叫んだ。
「綾波! どこにいる!?」
その叫び声が、《使徒》の注意を引いた。
光り輝く触手が閃いた。
それを両手で受け止める。
焼けるような激痛。
投げ飛ばしてやりたかったけど、そんなことをしたら、どこにいるかわからない綾波が、その下敷きになるかもしれない。
それが怖くてできなかった。
それに、こうしていれば使徒の攻撃手段もないはずだ。
「綾波!」
もう一度叫ぶ。
母さん、どうすればいい?
助けてよ!
十字架のペンダントを、焼けつく痛みの走る手で握りしめる。
「綾波!」
さらに叫ぶ。
そのとき、警告するように、赤いウィンドウがプラグ内のモニターに開いた。
コンクリートの煙がもうもうとしているなかに、誰かが立っている。
それを慌てて拡大した。
綾波だった。
肩のあたりが妙に黒ずんで見える。
さらに拡大して、その原因が分かった。
たぶんガラスかコンクリートのかけらのせいだろう。肩から血が流れている。
「待ってて、綾波! いま回収するから!」
《初号機》を、《使徒》の触手をつかませたまま跪かせる。
そのまま、《初号機》の体を、現行命令で固定させる。待機状態のときなどに役立つように作られているモードだ。
エントリープラグを排出して、プラグのハッチを開く。
濡れそぼった私服のまま外に飛び出した。
「綾波!」
飛び出したこちらを見て綾波は軽く目を見開いた。
はじめて綾波が感情を表に出した瞬間だった。
けど、そんなことに気づける余裕がなかった。
「早く乗って!」
綾波は《初号機》のプラグに乗り込もうとし、よろめいた。
それを慌てて抱きとめる。
すごく軽い。
これなら運べそうだ。
そのまま抱え上げて、プラグのなかに戻った。
このまま抱いていたい……。そういう暖かさがあった。
綾波が腕の中で身じろぎして、慌てて手を離した。
「ご、ごめん」
紅い瞳が静かに見つめる。
「あ、あの……け、けがの具合は?」
綾波はそれに答えなかった。
「どうしてプラグから出たの? ここは放射能汚染されているわ」
「それは綾波だって同じだろ」
「同じ……?」
ハンカチを開いて、綾波の肩の傷を縛る。
ネルフでの訓練に、救護活動が含まれていてよかった。本当にそう思う。
「綾波だってさ、外にいたんだし、ほっとくわけにはいかないだろ」
さらになにかをいおうとする綾波を制止した。
綾波の肩から流れてくる血が気になった。
「まず《使徒》を倒さないと……」
「……そうね」
すでに内部電源は残り一分を切っている。
《使徒》を蹴り飛ばし、身を起こすと、プログレッシヴナイフを抜く。
ゆらゆらと揺れている《使徒》に近寄って、左腕で組み伏せる。
無防備になった腹のコアに、プログナイフを刺しこもうとした。
そのナイフを、使徒の触手が砕いた。
「ちくしょうっ!」
口汚くののしると、使徒の上に馬乗りになりコアをつかむ。
「つぶれろ!」
叫ぶ。
自由なままの触手が、《初号機》の腹部を貫いた。
激痛。
でも、これで相手の攻撃手段がなくなった。
あとは、時間との戦い。
「つぶれろ!」
内蔵をかき回されるような痛みと戦いながら、そう願い続ける。
「くうっ」
耳元で押さえたような苦痛の声。
綾波のけがの具合が悪くなったのか!?
違った。
綾波は、プラグのなかにあった予備のヘッドセットをつけていた。
だから、《初号機》を貫いている痛みを感じていた。
「急いで。時間がないわ」
見れば、内部電源は30秒を切っていた。
「つぶれろ、つぶれろ、つぶれろ!」
綾波が、両手をインダクションレバーの上の手のひらに重ねた。
暖かい。
なのに。
肩のあたりのLCLが赤く濁っている。
白い肌が、いつもよりも白く見える。
シャツのなかに押し込んだ銀のネックレスの感触が、やけにはっきりとしている。
「まだ、死ねない!」
いままで、死ぬのも生きるのも、同じと思ってた。けれど、いまは死にたくないと思う。
ごめんよ、母さん。
でも、いまは会いに行けない。
コアが少しずつ歪んでいく。
バッテリーの残量がゼロに近づいていく。
「まだ、死ねない!!」
そう叫ぶとともに、腹の痛みが一気に増した。
そして、次の瞬間、嘘のように消えた。
と同時に。
バッテリーが残量ゼロになり、使徒のコアが砕けていた。
「お疲れさま、シンジ君」
ミサトさんが微笑みながら毛布を掛けてくれた。
綾波の肩の傷も、戦自の軍医か誰かが包帯を巻いて手当をしてくれていた。
「少し、寒いですね」
サイズの合わない戦自の制服が、妙にごわごわしていていやだった。
キャスターのついたベッドの上で、綾波は静かに目を閉じている。
ずいぶんと出血していたけど、輸血したおかげで頬に赤みが戻っている。
規則正しい寝息。
それにあわせて動く、やはり戦自の制服に包まれた胸。
思わず微笑んでいた。
すると、ミサトさんが肘でぐりぐりと頭を押さえつけた。
「痛いじゃないですか、ミサトさん!」
綾波を起こさないように小声で怒鳴る。
「女の子の寝顔をのぞくもんじゃないわよぉ」
猫みたいな笑みを浮かべている。
「はあ……」
掛けられた毛布の位置をなおして、ミサトさんの向かいに座った。
疲れた……。
そう思って目を閉じる。
「コーヒー、いれてくるわね」
なにかいっているけど、いいや……。
意識がゆっくりと沈んでいく……。
気づくと、左の頬が暖かかった。
眠ってたらしい。
「シンちゃん、起きた?」
ミサトさんが耳元でささやく。
「え……はい……」
横になったまま寝ぼけ眼をこすって、顔が上になるように寝返りをうとうとした。
「……あれ?」
ミサトさんの顔が、妙に近い。
「うわ!」
慌てて体を起こした。
いままでミサトさんが膝枕をしていたみたいだ。
慌てた顔を見て、ミサトさんはにこにことしている。
「シンちゃんの寝顔って、かわいいのね」
ミサトさんは大口開けて涎たらしてますからね。
そういってやろうかと思ったけど、膝枕が気持ちよかったのでやめた。
「ここは?」
訊かなくてもわかる。
ネルフ直属の、ジオフロントにある病院だ。
「さっき、レイの検査が終わったわ。一週間くらい様子見に入院するっていってたけど、大丈夫だって」
よかった……。
「病室は301。十五分たったら戻ってくるのよ」
「はい!」
思いっきり走って、三階まで駆け上がる。
301、綾波レイと書いてあるプレートのあるドアの前にたどり着くと、息を整えてノックする。
返事はなかった。
もう一度ノックしたときに、なかから看護婦さんが出てきた。
「あら、面会? 長い間はだめよ」
そういって通してくれた。
広い病室の真ん中に、ぽつねんとベッドが置いてあって、そこで綾波が休んでいた。
紅い瞳が動いて、こちらの姿をとらえた。
「やあ、綾波」
ベッドの脇に近づく。
「けがの具合はどう?」
「麻酔で痛くないわ」
「そう……よかった」
そういって微笑む。
もう話題がつきたような気がする……。
でも、いままでこうなったときと違って、穏やかな充実感があった。
なんでだろう?
「碇君」
綾波がささやいた。
「なに?」
「あ……ありがとう」
「え? あ、うん」
ルビーのような瞳が優しく見つめている。
そう、優しい。
いままでの冷たい無表情が嘘のように、すごく優しい瞳が向けられている。
こんこん。
ドアをノックする音。
「そろそろ、お時間です」
さっきあった看護婦さんの声だ。
ずっとここにいたかったな……。
そんな寂しさを押し隠して微笑む。
「また明日来るね」
そういうと、綾波も微笑んだ。
透明な、限りなく透き通った微笑みだった。
SNOWです。
【砂の果実】EPISODE:2……の修正版です。
旧版の面影がありませんが……(だからあとがきも完全削除)。
ウィングキャリアの到着時間は、完全に物語の都合にあわせてあります。
放射能の影響はどうなんでしょう。いまのところ考えてません。
いい加減ですみません。
御意見御感想などはRXY05111@nifty.ne.jpまでお願いします。
ではまた。