いつもの事だけど、「あの人」の言う事はあまりに突拍子なんだ。
その日だってそうだった。翌日にはハーモニクステストが控えていたというのに、僕に断りもなく勝手にリツコさんにキャンセルを申し出たらしい。
いつの間に僕の着替え一式をディバッグに詰め込んだのか、僕が眠っている身上に突然バッグを放り投げ、何事かと慌てて起きた僕の目の前で、あの人はいつものように気張ってこう言った。
「出かけるぞ、シンジ!」
「出かける……って、こんな真夜中に何処に?」
「山だっ。」
ネルフ本部の出口には、誰から借り受けたのかハイブリッドカー仕様の青いシビックが停まっていた。
まあ、誰の仕業かは考えるまでもない。前準備の手際の良さだけは、この人は超一流なんだから。
僕は理不尽な理由で叩き起こされたのと眠気の為に、我ながらすこぶる不機嫌だったけど、あの人はそんな事は意にも介さず僕をそそくさと助手席に連れ込む。
「眠いんなら、目的地まで寝てればいいから、そうふてくされるなって」
何がそんなに楽しいのか、にこにこと笑みを絶やさないでそう言う彼。こういう時は限っておかしな事考えているに決まっているんだ。まあ、それがいつも結果オーライになっているから文句は言えないんだけれど……。
「それじゃ、しゅっぱーつ!」
まるで僕の方が引率員に見えるほど、彼は歳も忘れてはしゃぎきっている。
反面僕の方はこれ以上ないほど白けていたが、そういう顔をしているといつものように突然背中を叩かれて、体育会系風に「時化た面してるんじゃない、少年!」なんて言うに決まってる。だから僕は早々に寝込む事に決め込んだ。
僕が眠り込んだのを確かめてから、彼は静かに電気エンジンをかけ、車を始動した。
ふと目覚めて、ちらりと覗いた腕時計は5時を少し回ったところだった。
確か叩き起こされた時が3時半頃だから、かれこれ一時間と少し走っているらしい。
彼に気付かれないように薄目で運転席を見やる。彼はと言えば、車載のFMラジオのミュージックに合わせて、ハミングしている。……相変わらずですね、そのマイペースぶり。
「そういうお前も、狸寝入りしてるくせに」
いきなり声を掛けられるものだから、つい身体が跳ねた。案の定だと思ったのだろう、彼が笑った。
「目的地まではあと1時間も掛からない。もうちょい寝てろ」
一声僕に掛けた後、正面を向き直って彼はまたハミングを始める。
と言っても寝たり覚めたり何度もできる物じゃない。僕は睡眠を諦めて仕方なくシートを起こし、景色でも眺めている事にした。
景色は……郊外の幹線道路なんだろうけど、正面には高い山が見える。山道に差し掛かろうとしているその道に、今の時間帯には対向車なんて殆どいやしない。たまに申し訳程度に、ライトを照らした長距離トラックが通り過ぎるだけだ。
「……いいんですか? 勝手に飛び出して来てしまって?」
僕には、実験と都市防衛という仕事がある。その事は彼だって重々承知しているはずなのに、
「ああ。リツコさんにはちゃんと前日に断ってあるよ。
それと、どうせ当分は『来ない』んだろう? 心配ないって」
あっけらかんと答えた。それを聞いて、僕は全身から力が抜ける感覚がした。
脱力に任せ、はぁーっ、と溜息一つついた後に僕は再びシートを倒し、眠るとも景色を眺めるともつかない体勢でぼんやりと窓の外を眺めていた。
その間に僕の脳裏を掠めるのは、あの二人の事だった。
アスカ、そして綾波―――。
第十一使徒。それが「今の」僕達が倒した最後の使徒。
なんだかんだ言って、僕は生意気にも公言通りにたった一人の力で使徒を倒し続けている。(もっとも、第十一使徒だけは流石に僕の専門外だったのだけど……)
勿論、僕のそんな行動の代償は厳しい。ミサトさんの降格に始まり、アスカの憎悪、綾波の孤独感……。
でも、みんな僕が引き起こした事だと考えると、却って気が晴れる。責任と罪は僕一人に集中しているのだから、僕一人断罪されれば全て後始末は済むんだから。その為にこんな事してるんだと……そう信じて。
この事が、どれだけ馬鹿馬鹿しいと証されても、どんなに恨み辛みを被っても、仕方ないだろう? だってこいつは「僕」なんだから。
それで良かった筈なんだ。最後までこれを押し通して、最後の最後に僕さえ破滅すれば、みんなの心の枷は全て解かれる。そう頑なに信じてこれたから、今の今までこんな態度を押し通して、みんなの心の枷になってこれたんだ。どれだけみんなの憎悪の視線を受けても、厚顔無恥でいられた筈なんだ……。
……なのに、そんな狷介的な僕の「味方」だと称する人が現れた。
彼が何者なのか、僕は未だに分からない。
「以前」にはこんな人には出会わなかった。やっぱり、僕が多少なりとも歴史を変えてしまったのが原因なのか、以前の世界との誤差が、最近顕著に現れてくる。
初対面の頃から何処か変わった人だった。ふざけているのか、それとも真面目なのか、この人の奇妙なアドバイスにいざ従ってみると、意外な効果を発揮する。おかげで助かった事も何度もある……というより、この人に出会ってからは助けられっぱなしなのが本当の所だ。
以前の第十使徒との戦いにしたって、彼の助言がなければ今頃僕はあの巨大な質量を持つ使徒に成す術なく、第三新東京市と共に消滅していただろう。常に彼が生み出す発想の奇抜さと、根回しの良さには密かに感謝までしている自分もいる。
とどのつまり、この人も「いい人」の部類なんだ、そう分かった時に僕のとるべき行動は一つしかなかった。でも彼にはまるで通用しなかった。どれだけ僕が生意気を並べ立てても、子供の悪戯程度にしか考えていないのか、彼はいつも笑って寛容してしまう。その癖、いざ使徒撃退となると、僕の隣で真剣に満ちた表情をしながら、僕をサポートしてくれる。
最近では、まるで、こんな兄が居てくれたら……と思う時さえ、あるんだ。
ミサトさんの手を振り払って、アスカや綾波とも会話らしい会話なんか一つもしなくなって、結果僕は望んで独りになった。それで良かった筈だった……筈だったのに、最近僕はこの人の温もりを知り始めてから弱くなり始めている気さえする。
今まで、何度もその温もりを振り解こうと試した。彼の前で悪辣に振る舞ってみようとした。
そんな僕に、彼は僕の頭を撫でて、いつものように顔をほころばせてこう言った。
「悪ガキだなぁ、お前さんは。ははは……」
そんな快活的な一言を返されて、気力が抜け果ててしまったのを覚えている。
それに、この人は何処か……
「おい、何時までぼけーっとしてるんだ、シンジ?
着いたぞ。こっからは歩きだ、キリキリ歩けよ」
気が付けば、何処かの登山道路の麓に車が横付けされていた。他には人っ子一人見当たらず、適当に突っ立てられたのであろう寂れた案内板が、ここが如何にマイナーな登山道路かを表しているようだった。
彼はとっくに自分のディバッグを背負って、膝の屈伸運動なんか始めている。仕方がないので、僕もだるい身体を車から引きずり下ろして彼に習う。彼が言うには、ここから丸二時間かけて山頂付近まで歩くらしい。
いくらか全身運動を行った後、彼が簡単な地図を手渡してくれた。ルート自体は単調だけど、崖が多いから注意しろ、とだけ言われて、いざ僕達二人は遊歩道を歩き始めた。
突然、ブルブルと身が震えた。ふと自分を見ると、僕は半袖にジーンズという格好をしている。成る程こんな山中では寒いに決まっている。正直こんな山に来させられるとは思わず、自分の軽装を一瞬呪ったが、よくよく考えれば僕がなんでこんな所に連れて来られなければならないのか……。
彼に抗議しようかと思って声を掛けようとしたら、彼はいつの間にか僕の背負ったディバッグを後ろから漁り、何かを取り出していた。
「上着。そんな格好じゃ寒いだろ?」
取り出したのは、今時の日本では滅多に着る事はないフェルトの長袖。しかも僕の物じゃないのに、サイズは心持ち大きめと言った感じで、冬服にしては丁度いいサイズ。彼のではないだろう、彼の体格は僕より頭一つ半、胸囲だって二周りは大きい。
続いて彼は僕のバッグを勝手に脱がし、着替える仕立てまでしてくれる。
いつの間にやら僕はまたしても彼の術中にはまり、完全に抗議のチャンスを逸してしまっていた。
陽も未だ上らない山岳地域は、見事に霧の楽園と化していた。
おかげで視界は20メートルと利かない。しかも突風が絶えず吹きすさむ。長袖一枚羽織ってもまだ寒すぎる。でも彼には敢えて言わなかった。こんな事言おうものなら、今度は何処から何を取り出すか分かった物じゃない。
その彼はと言えば、いつもの黒革のジャンパーに白いスラックス。この人一年中こんな格好しているんだろうか。最初に出会ってからこれ以外の服装を見た事がない。失礼な、替えは何着もあるんだぞ、と言って洋服箪笥の中を僕に開いて見せた事もあったけど、どれもこれも似たような衣服ばかりで、却って閉口してしまった。
おまけに、この年中真夏の第三新東京市で、常にジャンパーを欠かさないってのがますます分からない。一度だけ手に持った事があるんだけど、これが見た目に反して物凄く重い。鉛でも詰め込んでいるのか知らないけど、見積もって10kgはあるんじゃないかな。その時、あまりの重さに思わず足に落としてしまって、悶えてしまうみっともない所を見られたせいもあって、それ以来この人の前ではどうにも頭が上がらない。
それでも、申し訳程度に登山靴は履いているんだ。ホントに分からないなぁ、この人。
ふと、立ちこめる霧にそっと指を透かす。
指と指の間を駆けめぐるのは、冷蔵庫に手を突っ込んだようにひんやりとするあの感覚だ。
常夏と化してしまった日本でも、こんな所があったのかと少し驚く。確かに今は11月だけど、麓の気温は未だに20度から下を回る事は殆ど無い。確か標高が100m高くなると0.6度気温が下がるって習った事があるけど、そうすれば、おそらく気温が10度足らずなここは一体標高何メートルなんだろう?
「標高? 1300mくらいだろ」
彼はまたもあっけらかんとそう答えた。
少し平坦になった道が現れた所で一旦休憩。彼はと言えば道端の平石に腰を下ろして、自分のバックから水筒を出して何か飲んでいる。僕も勧められたが、断った。
もう陽が昇っていてもいい時間なのに、そんな様子が一向に見えない。今日は曇りなのだろうか。
「山の天気と、秋の空と、女心は変わりやすいって言うだろ?」
聞きもしない下らない事を言う。いちいち付き合うと疲れるので僕も無視を決め込んだ。
突然、熱い液体が僕の脳天を焼く。
「あつっ! ……つう……!」
不意を突かれて、思わず情けない声を出してしまう。見上げると、彼が水筒を持って仁王立ちしている。さては中身を垂らしたな?
「子供がナマぶるからだ」
一言僕に釘を差してから、もう片手に用意していたタオルで僕の頭を勝手にごしごしと拭く。
……なんか、鞭と飴を使い分けられているような気がして来る。それでも、憎みきれない何かがこの人にはあるから、僕もこの人が側にいる事に、口煩くなれないのかも知れない……。
一悶着した後、再び出発。さっきは僕が先行していたが、今度は彼が前を行く。「この先は崖が多くなるから危ない」そうだ。
実際さっきまで足下は均された土の遊歩道だったけど、今はごつごつした岩肌でしかない。
途中、ふと足を止めた彼が不意に左側を指差した。
「天気が良いとな、あっちに富士山が見えるんだ。
今は霧が出ていてまるで駄目だけど、下りの時には晴れて見られるかもな」
それだけ告げて、彼はまた先を急ぎだした。
そろそろ、歩き始めて二時間が経つ。いい加減着いてもいい頃だけど……。
「そろそろ頂上だぞ」
さっきから思うに、彼の行動はまるで遠足の時の引率の先生そのままだ。手際の良さとかよりも、むしろ本人の雰囲気がそう思わせる。
……正直、遠足にいい思い出なんか僕にはない。小学生の時に一度だけあったけど、友達も居ない僕にしてみれば、終始辛い徒歩を強要されているだけのイベントでしかなかった。お陰で、何処をどう歩いたかも、弁当の中身さえも何一つ覚えていない。
結局、中学の修学旅行も行かなかったけど、別に後悔とか言う気持ちもないし、構わない。
行きたい場所もないし、一緒に居たい人がいる訳でもないし……。
……また考えに耽って、僕は前を見ていなかった。
思わず僕は立ち止まった彼の背中にぶつかる形になってしまっていた。
「まぁたぶつくさ考え事してたな?
まあいいや。着いたぞ、シンジ」
彼は崖際に用意されていた気持ちばかりの柵をあっさりと乗り越えてしまい、そのまま景色に魅入る。
取りあえず僕も習って、柵を乗り越えた。
そこに映った景色は……あれっ?
「どうした? 見た事があるとでも言いたそうな顔してるな
この人は実は凄く意地が悪い。知っていて連れてきたんじゃないだろうか。
そうだ、僕はここに一度だけ来た事がある。
あれからもう一年半は経っただろうか、僕が初めて第三新東京市から「逃げ出した」時に、目的も無しに郊外を彷徨って、辿り着いたのがこの景色だった。あの時、何処をどう歩いたかなんて今では全然覚えていないけど……、……こんな高地だったのか……。
深い霧が立ちこめる山中から、第三新東京市の全景が、遠く、小さく映る。霞棚引くその風景は、さながら昔の屏風絵巻を彷彿とさせるような、えも言われぬ不思議な雰囲気だ。
……あれがみんなの住む街。そして、僕が守ると誓った街―――。
あの街が、もう一度危機に晒される「その時」まで、僕は独りで戦うと誓ったんだ。
「……独りで、か?」
ふと右を振り向くと、あの真剣な眼差しの彼がいた。
使徒が現れた時、もしくは僕を真剣に諭そうとした時だけ見せる、あの顔だ。
「無茶するな。たかだか15の子供の癖に」
「15はもう子供じゃありませんよ」
「子供だよ。そんな考え方が罷り通ると信じているうちはな」
「……通る通らないは関係ないんです。
この力がやがて通用しない時が来たら、僕の寿命もそれまでですからね」
「馬鹿な事を言うな」
言葉とは裏腹に……彼は笑った。
「そうさせない為に俺がいる。
お前は独りにしとくと、いつか本当に自滅するだろうからな。
……本当に達したい目的があるなら、這ってでも生きろ。
あの娘達の為に、何処までも戦い抜くって誓ったんだろ?
それが、どんなに廃れた目的だろうと、途中で投げ出す事を考えるんじゃない。
折角恵まれたチャンスなんだからな、目一杯生きてみろよ」
「チャンス? ……ゼロが勝手に『僕』を投げ出しただけです。
僕の本当の望みとは違います。僕の本当の願いは、もう……」
「そう時化んな。
なるようになるさ、お前が努力すればな。
……あの街の存亡がお前の双肩に掛かっているのは確かだけど、
お前は……取りあえずあの娘達の事に一生懸命になるんだな。
今のお前は、それが精一杯くらいが丁度いい。
……未来の心配は、大人達の仕事だ」
彼は、暫く第三新東京の景色から目を離さない。
何か彼にも、あの街に深い思い入れのある物事でもあるのだろうか。
「……遠くから見ると、小さいもんだな、あの街も」
「……そうですね」
「シンジ、あの街の人口が今何人居るか、知っているか?」
「……いえ」
「都心部は、2015年9月の時点で16万と4000人余りだそうだ。
郊外の人口を合わせても27万人程度。
どの道、近未来に想定された首都移転地の規模とは到底思えないさね」
「……実際は、ネルフの為だけの擬装都市ですからね」
「そう、民間には人口総数は水増しして報告されている『偽装首都』に過ぎない。
しかも、街の人口の約5%はネルフ職員、またはその家族。
職務が何らかの形でネルフに関わっている人間も含めると40%弱。
残りの60%は、その人達を賄うだけの衣食住産業だ。
……確かに、実質『ネルフ』の為だけの都市だな。
同時に、ネルフが見捨てられる事と、この街が見捨てられる事も同義だ」
「……その日はそう遠くないんです。
最後の使徒を撃破すれば、『彼等』の次の目標はこの街です。
そして、それが彼等の最終目的」
「『人類補完計画』……か。莫迦な連中だ……」
彼が思いうんだように呟く。
だが、何故彼がその事を知っているのか、今更僕は聞きはしない。「真実」の一端を知る立場でありながらも、それでも敢えて僕を導いてくれる人だからだ。
この人が、何か深い理由があって僕に接近して来ているのは最初から分かっていたけど、
―――甘い考えかも知れないけど、僕には、どうしてもこの人が敵だとだけは思えなかったから。
「さて、朝食にでもするか」
気持ちをさくっ、と切り替えて彼は柵の内側に戻ると、自分のバッグを背中から下ろした。
その中から飛び出すのは、レジャーシートと小型のバスケット。
……分からない。この人は軍人なのか技術者なのか、あるいは只の賄いさんなのかも、未だに僕には分からないというのに。
「どうしたシンジ? メシだメシっ。ぼけーっと突っ立ってないで座れっての」
はっきり言ってしまうと、この人、自分だけが楽しければそれでいいんじゃないだろうか……?
彼はバスケットから弁当箱を取り出して、一様に並べ立てる。
「いっただきまっす」
彼は先程の水筒のお茶を片手に、おにぎりを一つ手に取り頬張り始めた。
「……ほうひた? おまへもふへ」
どうした? お前もくえ、って言ったんだろか? 口におにぎり頬張ったまま喋らないでよ。……まあいいや。
確かに、起き抜けに食事も摂らずに山登りなんかしたものだから、正直凄くお腹が空いている。それじゃ、遠慮なく頂きますよ。
「このおにぎり、中身は何ですか?」
ちなみにこの人、無骨な体格に反して家事一切に事細かに精通しているんだ。……まさかとは思うんだけど……、
「うん? 鮭と鱈子と明太子と梅干しと、シーチキンマヨだ。食べられないのあるか?」
……やっぱり。自分で全部握ったのか、この人……。
となると、やっぱりこのおかず類も全部彼の手作りなんだろうな……なんか頭痛がしてきた。
「僕は、梅干しだけは食べられないんですよ。
前々から思うんですけど、なんであんな酸っぱいのがおにぎりに入っているんですか?」
「それはあれだ、梅干しを入れると一番日持ちするんだよ。
酸っぱいのには殺菌作用があるからな」
分かっている事を敢えて聞いてみる。……分かっているからおっかないよ、この人。
それに、このおかず。こっちは僕の好物ばかりだ……というより、僕の好みの味付けばかりだ。
炒り卵の野菜炒めに醤油で濃い目に味を付けるのも、卵焼きに牛乳と砂糖と醤油を混ぜて焼くのも、ハンバーグソースをウスターソースとケチャップを半々に混ぜて作るのも……僕のちょっと特殊な味付けばかり。いつ覚えたんだろう? ここまで根回しがいいと気持ち悪いなぁ。
「あ、お茶貰えます?」
彼は黙って箸で僕のバッグを指した。まさか……やっぱり。
こっちには冷やしたカルピスが入っている。そう、僕はキンキンに冷やしたカルピスが一番好き……だからなんで僕の好みを知っているの、この人?
「なんでって、お前が自分で言ったんじゃないか、前に。」
そうだっけな……覚えてないなぁ。
でも、何か懐かしい味なんだよな……。
それもその筈、かつてミサトさんとアスカと三人で食卓を囲んでいた頃に、僕がよく作っていた料理なんだ。ハンバーグの焼き具合なんか、いつもアスカに難癖付けられて、苦労していたっけ。
……なんか、遠い昔の事のような気がするな。今は絶対にそんな事出来やしないというのに、何今更未練がましい事言っているんだろ……。
……いけない、感傷的になってる、僕。
ほら見た事か、彼はしてやったりって顔してる。彼はそうやって、僕が思い出に耽ってしまうような事ばかりする。最初は鬱陶しかったけど……今になると、なんとなくそれが拒めない自分が居る。
やっぱり分からない。この人は一体……。
「ああーーっ!」
彼が突然素っ頓狂な声を上げた。どうしたかと思って彼を見上げると、シートから卵焼きが一つ転げ落ちているのに気が付いた。
「折角の卵焼きが……俺の卵焼きがぁぁぁぁっっっ! マイガッ!」
……頭が痛い。別の意味で信用できるかどうか怪しくなってきた、この人……
食事も終わった頃、時計は9時に差し掛かるところだった。
「そろそろ下山するか」
後始末をしていた彼がそう呟くのに合わせて、僕も頷いた。
今から帰れば、正午からのハーモニクステストにギリギリ間に合うだろうから、急いでリツコさんに申し立てれば参加できるだろう。
「何言ってんだ。まだ予定は半分も終わってないぞ」
え……? ……まさか。
「予定だと、この後下山してから昼食、その後は市内散策だ」
「市内散策……って、第三新東京市の、ですか?」
「うん? 希望があれば別に他の街でもいいぞ」
「いやそうじゃなくて……」
彼が僕の肩をパンパンと叩いて、耳元でこう言った。
「今日は一日俺ととことん付き合って貰うぞ。
エヴァの事は今日は一切合切忘れるんだな。諦めろって」
「そんな……」
僕の考えなんかお構いなしに、彼はこう続ける。
「取りあえず、下山してからどこかレストランにでも寄ろうか。あ、勿論ワリカンだ。
食べ盛りだと言っても、俺の寂しい懐に頼るんじゃないぞ、少年」
もう、嫌だ……。
結局、帰り際も霧が引かず、彼が期待していた下山間際の富士山展望は出来なかった。
「まあ、しょうがないな」
僕の前を歩く彼はそう言ったが、そう語る背中が明らかに気落ちしているのが妙におかしかった。
いつもは僕よりも子供っぽい所を見せておいても、いざとなるとしっかりと事態を把握して最善の判断を下し、僕を補佐してくれる。時々謎な言動も見せるけど、それは少なくとも僕達に対する敵意として働いている様子は全然ないのでさほど気にしていない。
何故、こんな人が僕の味方でいてくれるのだろうか……分からない。
車の所まで辿り着くと、二人で黙って車に乗り込んで、一息付いた。
不思議と、そんなに疲れはない。往復四時間も歩いたのにしては、さほど足も痛まない。
やっぱり、彼のあの珍妙なトレーニングが功を奏しているのだろうか……。
「疲れたか? ほい、タオル」
それでも多少は息が乱れている僕に対して、彼はまるで疲労が見えない。
叩き上げの軍事訓練を受けたというだけあって、流石な運動能力だなぁ。
「いえ。それよりも、こんなに歩いたのは久々ですよ」
「どうだ、たまには遠足もいいだろう。
近頃は移動手段ばかり進歩して、人間、足腰がめっきり弱くなってるからな。
たまにこうして歩く分には気持ちいいぞ」
「……そうですね」
しまった、うっかり変な事答えてしまった。
横を見ると、彼はケラケラと笑って「そうか、そうか」と得意顔になっている。
不機嫌を装おうとしたのに、いっつもこの無防備な笑い顔に騙されてしまうんだよなあ……。
「今度は、みんなを連れてきたらどうだ。男二人よりずっと楽しいぞ?」
「みんな?」
「ネルフのみんなに決まっているじゃないか。
アスカとかレイとかミサトさんとか司令……あの人は遠足って柄じゃあないか。
まあいいや、綺麗所な人達でも呼んでみたらどうだ? って事だよ」
「……今度なんて、僕にはありませんよ」
「言うと思った。そうは問屋が下ろさないっての」
冷たく放った僕の視線も介さず、彼は意気揚々と答えた。
やっぱり、この人は僕の「破滅」を許すつもりはないんだ。その為に僕に付いてまわっているんだ。
……けど、何故この人が?
僕の無言の疑問を後目に、彼は愛用のサングラスを掛けつつ、エンジンを始動していた。
その後の僕は散々だった。
レストランで昼食を摂った所まではまだいい。けれどその後に彼は、懐が寂しいとか言っていた割に、僕を様々な施設に連れ回した。市内の温水プールにスポーツジム、夜はゲームセンターにまで。
プールでは、泳げないと言った僕を好都合とばかりに無理矢理しごいてくれるし、スポーツジムではあらゆるトレーニングを課せられて流石にくたくたになり、夜は夜でゲームセンター中の機械で競争し、僕は殆ど負けてしまっていた。
すっかり彼のペースに乗せられた一日だったけど、不思議と嫌気はなかった。
泳法をしごくと言っても指導自体は凄く丁寧だったし、スポーツジムでのトレーニングも、僕の体力配分を考えて素人目にも能率的なメニューを課してくれる。「エヴァの操縦も体力資本だろが!」というのは彼の口癖だ。
ゲームをしていても、たまに僕に負けるとこれが面白いくらい躍起になって「次だ次! 次は負けないぞ!」と言ってすかさず隣の機械で再勝負になる。そしていざ勝ったとなると、凄く嬉しそうに振る舞う。それも、全然わざとらしくなくて、まるで同年代の友人を相手にしているようだった。
そして、僕も負けたとなると何か悔しくなって、コインを投入する手が止まらなくなり、結局ゲームセンターが閉まる午前0時まで、僕達は大人げなく熱中してしまっていた。
やがて、閉店作業に勤しむゲームセンターを出た僕達。夕食はゲームセンターの軽食で済ませてしまっていたので、今頃になってお腹が空いたと彼が言う。
「よし、夜食にラーメン屋台にでも行くか!」
僕も食欲には勝てず、すっかり素直に彼について行ってしまっていた。
都市部を歩いているうちに、程なく彼がラーメンの屋台を一つ見つける。僕達二人は有無を言わさずそこに決定した。
四人も座れば一杯になりそうな狭い屋台。だけど、僕達二人しか客はいないから狭くは感じない。
「……さて、何にしようかな」
メニュー一覧を見て決めかねている僕の隣で、彼は屋台の主人と話していた。
「景気良くないみたいだねぇ、主人」
「だねぇ……使徒とやらがこの街を襲うようになってから、
みーんな疎開しちまって、商売あがったりだよ。
オレもだいぶ粘ってみたけど、ここらで鞍替えの時節かねぇ」
「悲しい事言うなよ、主人。俺等で良ければ時々食べに来るさ。
……おいシンジ、また決まんないのか? もう俺は注文してしまうぞ。
あ、主人。俺はフカヒレチャーシューの大盛りお願い」
フカ……もしやと思って、僕は椅子から降りて、外ののれんを見た。
「……どうした?」
……間違いない。ここも、かつて僕がミサトさん達と食べに来た屋台だ。
どうりで、懐かしいメニュー表だった訳だ。
「シンジぃ……まだ決まらないのか?」
業を煮やし始めた彼に促されて、僕はこう答えた。
「それじゃ、僕はニンニクラーメンのチャーシュー抜きでお願いします」
……なんとなく、そう言ってみたかったんだ。
屋台のおじさんは僕の変な注文にちょっと首を傾げた後、麺を茹で始めた。
「なんだ、お前チャーシューも食べられないのか。好き嫌い多いなぁ」
不思議そうな顔をする彼に、僕は静かにこう答えた。
「……なんとなく、チャーシュー抜きが食べたくなって」
彼がフッ、と微笑んだ。
「そっか」
爪楊枝を口に挟んだ彼と、その横に並ぶ僕は、重たいお腹を抱えて車を止めた駐車場まで歩く。
その間、彼は僕にこう語ってくれた。
「今の主人の話、聞いたろ?
何が報道管制だか、屋台のおじさんにまでバレバレなようじゃ先は無いぜ。
このままだと、いずれこの街は荒廃の一途を辿るだけになりそうだ。
『ネルフが背理心を持っている』日本政府の腰抜け達にそう吹き込めば、
常々、国連お抱えのネルフに煮え湯を飲まされている連中にしてみれば、
いざこの街に見切りを付けるのに躊躇はしないだろうからな。
逆を言えば、お前はそれだけの事が裏で容易に出来る、あの権力志向の老人達を独りで敵にしているんだ。
お前の言う『ゼロチルドレン』とやらとお前さんは違う。お前は無力なんだ。
15の子供が世界に喧嘩売るその度胸は、俺は買っているけど、
とかく後先考えずだからな、お前は。このままだとどうなるか分かった物じゃない」
「……だからと言って、老人達がてぐすね引いているのを黙って見てられませんよ」
「やるなとは言ってない。無茶はするなって言っているんだよ、俺は。
お前さんは自分の命は惜しくないかも知れないけど、
降りかかる災厄はお前一人の物じゃない。
……それに、お前達に災厄を振りかけるのが、ゼーレだけとも限らない」
「……? どういう意味です?」
「勘って奴でな、キナ臭い物を感じるんだよ。特に新任したあの作戦部長なんかにはな。
気を付けろシンジ、お前の敵は多い上に強敵揃いだ」
「……分かってます。
でも何があろうと、僕の全てに掛けて、彼女達は必ず守ってみせますから」
彼女達の幸せの妨げとなる物は、全て排す。それが今の僕を貫く唯一の理念。
その対象が補完計画であれ、僕であれ、その信念の強さに何も変わりはないのだから。
「……そうか、それを聞いて安心した。しっかり、二人を護ってやりな。
取り合えず、何があろうと俺はお前さんの味方だからな。
何かあったら気兼ね無く頼ってくれよ、相棒。ははは……」
今頃、ラーメンと共に兼ねた晩酌が回ってきたみたいだ。
彼はまさに酔いの入った絡み方で僕の肩に手を回し、高揚さに気を良くしている。
相棒……か。僕も、そう悪い気はしなかったけど、さ……。
ところが、午前0時を過ぎたパーキングは翌日まで開かないらしく、僕達は車の横で立ち往生してしまった。
「やっちったなぁ」
彼がぼやく。
「やっちったなぁ、じゃないですよ!
このまま夜が明けるまでここにいるつもりですか?」
「そう怒鳴るない」
う〜ん、と一つ唸りつつ、彼が頭を掻きながら参っている。こういう適当な所なんか、酔ったミサトさんそっくりだ。なんとなく僕も段々腹が立ってきたので、つい声を荒げてしまう。
「どの道飲酒運転になっちまうからな、車は動かせないなぁ。
考えてもしょうがない。今夜はここで夜を明かそう」
信じられない事を言う。
「夜を明かすって……まさか」
「そ。お・や・す・みぃ〜」
彼は車のドアを開けると、そのままシートにもたれ掛かって眠りに付こうとする。
「冗談だろ……」
と言いつつも、僕一人でこのまま歩いてネルフまで帰る訳にも行かず、結局僕もそれに続いた。
「大丈夫だ、寒いなら毛布があるぞ」
……なんでそんな所だけ気が利くのだろう……。
「……起きてるか、シンジ?」
あれから三十分、僕が寝付けなくて悶々としていた所に、彼が小声で不意に声を掛ける。
「……ええ」
今度は寝入りを決め込む訳でもなく、僕は素直に答えた。
「……たまには、こんな気晴らしがあってもいいじゃないか。
15の身空で何でもかんでも抱え込んで無理を気張っていると、反動で壊れるだけだ。
勿論、お前が自分を強く憎んでいるのは知ってる。
それでもな、せめて『その時』まではもう少し自愛があってもいいだろうが。
見ていて痛ましいのはお前さんの方なんだよ」
「……その為に、僕を担いだんですか?」
「ははっ、担いだとはまた歪曲な言い方だなぁ。
単に二人でふらっと出かけたくなったんだよ。ホントにな」
でもそれはやっぱり半分嘘だと思う。お陰で僕は、辛い思い出の琴線に触れるような体験をしたのだから。彼にとっては気紛れの旅でも、僕にとっては……。
「……一つだけ、分からない事があるんです」
「……言ってみろよ」
「……どうして、僕に構うんです?
僕は知っての通り、ネルフでも随一の天の邪鬼ですよ。
作戦部長は出し抜くし、他のチルドレン二人は出番を奪われてまるで立場を失って……。
アスカに至っては、僕に存在価値を奪われたと思い込んで、僕に殺意まで抱いているんです。
あなただって見たじゃないですか、アスカが僕を殺そうとした所は。
それだって、アスカが悪いんじゃない。そうなるようにけしかけた僕の報いです。
……あなたが悪い人じゃない事は、良く分かりました。
でも、それなら尚更分からない。
どうして傷付いているアスカや綾波じゃなくて、こんな僕に構って……」
「あのな」
それまで黙って星空を眺めていた彼が、不意に僕を振り向いた。
「……本物の天の邪鬼はな、こんな所でそういう弱い部分は見せないんだよ。
それに、お前の『本音』はどの道最初からバレバレだしな。
少女達の幸せの為に、陰でたった独りで戦う少年。これの何が悪いんだよ」
彼は、視界に映る僕を手製のファインダーに込めつつ、巧笑を絶やさない。
「……そんな殊勝な話じゃありませんよ。
僕はただ、自分に向き直れずに逃げ続けているだけです。只の卑怯者なんですよ」
「……逃げたっていいじゃないか。
逃げるだけ逃げて、逃げる事に疲れたのなら……またいつでも戻ってくればいい」
思い直したような表情で彼を見あげる僕に、彼は不思議な微笑みを返す。
「お前は容姿と頭は悪くないんだから、
もうちょい楽しく生きるコツさえ覚えれば、幸せになれるのにな」
彼は微笑みながらも、心の中では僕の生き様を緩やかに否定したかったのかも知れない。でも……それをはね除けられない自分がいる……。
本当に……不思議な……人だ…………。
……いつの間にか、僕の意識は昏睡していた。
翌朝―――。
気が付けば、僕は自分の部屋の二段ベッドで眠っていた。
見渡してみても、見慣れた自室に違いない。相部屋のあの人はと言えば、上のベッドには居ないようだ。
(……夢、だったのかな……。いつもとは違った趣向の夢だったな……)
眠たさにかまけ、ゆっくりと身を起こす。いつも以上に気怠く感じる身体に気合いを入れて、洗顔する。
タオルで顔を拭いていると、ランニングシャツ姿の彼が突然部屋に入ってきた。毎朝の日課は今日も続けているらしい。
「おおっ、起きてるな、結構結構。
それじゃ、今日の朝食はお前の分担なんだから、早く頼むぞ」
「はいはい……」
僕は呆れた返事を返したが、それはそれで、相変わらずな彼の様相に含み笑いが隠せない。
「……? 何がおかしいんだ?」
「いえ、何でもないです。
それより、朝食のリクエストでもありますか?」
「うーん、そうだなぁ。
昨日のラーメンと酒が腹に残ってるから、比較的あっさりした物がいいな」
……そうか、やっぱり夢じゃなかったんだ。……そっか……。
「なんだ? 今度は嬉しそうな顔してぼーっとしやがって。
今日のお前、何かおかしいんじゃないか?」
首を捻りつつ、珍しく怪訝な表情をしてる彼。
でも、僕は心の中で、黙って彼の昨日の気遣いに感謝していた。
昨日一日で、僕は何か大事な事に気が付けた気がするから……。
今週はヒット記念という事で、番外編形式で公開です。
ビデオの四巻が借し出し中だったので、腹いせでこれを書きました(笑)
とは言っても、私なりに色々と考えているんですよ(^^; まずは、原作であったイベントで、今のシンジでは実現不可能な物を纏めて組み込んでます。考えてみると、私シンジの一人称ってのは初めて書いたかも。
第四話でシンジが一人で彷徨っていたくだり、第壱拾壱話で、四人でラーメン食べに行くくだり、また、これは第壱拾七話でしたか、加持とシンジが夜中に語り合うくだりとか。個人的に好きな場面ばかりなんでどうしても組み込みたかったんですが、今のシンジでは到底出来ない事なんで、今回こんな形を取りました。
ちなみに、私は芦ノ湖付近の地理にはてんで暗いくせにこんな話書いてます。その辺りへの突っ込みはご容赦を(^^;
さて、この話ですが、大体本編の二十四、二十五章あたりの裏話になる予定です。……予定ですよ、あくまで(^^;
我ながらいつの間にか話が膨らんでますねー(笑)。まあここで改めて列挙はしませんが、色々あったのは事実です。シンジに限らず、周囲の心境も様々に変化してますから。とは言え、今作中最も暗い展開部分の裏話なので、物騒な日々の裏側は意外に陽気だった、という訳ではないんですけどね……。
さて、私が話したい事はこれだけだよな……そうだな、うん、間違いない。漏れはないはずだ、絶対。
という訳で、次回からはまた本編を続けていきます。
それでは、また次回……。
……なんか聞きたそうな顔されているような気もするけれど、気のせいだよな、うん(^^;
なので、例えメールで質問をされても、私は一切答えられないのでご了承を(^^;; (←何が?)