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 息せき切って発令所に駆け込むような時のミサトは、既に待機している筈のリツコの眉間の皺を真っ先に伺う癖がある。

 現状を自分以上に冷静に見つめる事の出来るであろう洞察眼に、常々ミサトは一目を置いている、そしてリツコの眉間の皺はその状況を最も読み取りやすい箇所と言えるらしい。目は口ほどに物を……とは言うが、差詰め感情がミサト程起伏に飛んでいないリツコにとっては、それが唯一の体現方法なのだろう。

 久しぶりに陣頭指揮に就くその緊張感を唾と共に飲み込みながら、ミサトは発令所各自に問い掛ける。

「街の直上に正体不明の物体ですって……リツコ、やっぱり使徒なの!?」

「パターンシグナルは橙色、現在は微速を保ちながら本部直上を目指しているわ。

 攻撃的な様子を見せていない以上、まだ使徒と断定できる要素は今の所見当たらない状態」

「いずれにしても、あんな巨大な物体が街中に迫ってくるのに寸前まで気付かないなんて……、

 青葉君、富士の電波観測所は確認していなかったの!?」

「監視網は完璧でした。あの物体の出現は、突然降って湧いたとした表現できません……!」

「怪奇なヤツには違いないという事ね。伊吹二尉、MAGIは何て?」

「状況判断に基づく資料の不足から、判断を保留しています」

「つまり五里霧中って事か……碇司令もイリア三佐も居ないこの状況を狙ったかのように、よりによって」

「葛城一尉、弱音を吐いている場合じゃないわよ。

 司令達があなたに現場指揮を一任している以上、信頼は裏切らないようになさい」

「分かってるわよ……エヴァー発進準備! 警戒は引き続き怠らないで!

 子供達は三人ともブリッジに集めて。私が状況を説明しておくわ」

 ミサトは己の思うまま迅速な指令を下し、発令所の空気を厳戒に促すと足早に発令所を飛び出していく。

 リツコはその後ろ姿を一目見送ると、入れ替わるようにして後ろから歩み寄ってくる冬月を振り返る。

「やはり、使徒だと思うかね」

「人知の及ばない生命体を全て使徒と呼ぶべきで有るのなら、そうなるでしょう。

 それに、正体不明の物体が現れる直前に既に、シンジ君だけはケージで警戒態勢を取ってました。

 あの子が敵と認めたのでしょう、なら間違いはない筈です」

「碇の子か……。赤木君、俺には分からんよ。あの子が何を考え、何の為に戦っているのかが。

 時折あの子の瞳に、14歳の子供とは思えないギラついた眼光を見る時がある。

 それも、若い頃の碇に似てひどく不遜で不透明な瞳の色だ。線は細いが、確かに碇の子だな、あれは」

「私はそうは思いませんわ。とても真っ直ぐで不器用な眼光なのは認めますが……、

 あれは間違いなく子供の目です。それも、研磨の足りないダイアモンドのような純粋な瞳」

「少し買い被りではないのかね?」

「私はそう信じますが」

「……やれやれ、敵も味方も謎ばかりだな」

 先の見えない苛立ちか、冬月は発令所内の喧噪を少し眉を顰めながら見渡しつつ、大型メインディスプレイを見上げる。そこに、白と黒のツートンカラーが幾何学模様を模した球体を確かめ、更に眉を顰めた。

(いつから、ヒトは使徒などという存在と戦う宿命を背負わなくばならなくなったのだ。

 人間は、同じ人間である隣人さえ疑いながら生きている存在……試練ならそれで十分ではないか。

 自身に不相応な野心を持ったという、その報いにしては少し荒っぽい洗礼だな……)

 抱えた苦労性と共に、大きい溜息を一つ吐く。

 人生に徒労を感じ始めている、齢六十の老いがそこにあった。

 

 


 

=悔恨と思慕の狭間で=

 




− 第三十一章中編 暗転入滅 −

 

 

 ネルフはその組織の特性上、敵性を認められない相手に先手攻撃を仕掛ける事は出来ない。使徒に対する迎撃行為だけが主任務である為に、必要以上に武器(エヴァ)を振り回すのは単に後始末が面倒になるだけだ。これは決して些細な事ではなく、生命の尊守と国家予算という題目が掛かった問題である。

 作戦開始前、積極的な性格のアスカは先制攻撃の案を展開し、案の定ミサトを悩ませた。アスカとてネルフと政府、戦自達との協調が上手く取れていない今時の現状を知らないわけではないが、イリアに激励された気負いがあるのだろう、自分の手で仕留めてやると言い放って憚らない。

 結局その場は静観案を主張するミサトとレイの二人に辛うじて宥められ、エヴァンゲリオン三機は、微速全身を続ける物体に気取られないように静かに出撃し、気配を殺しながら尾行するという静観的な作戦に落ち着いたのだが……。

 

 一方敵性があるかどうか、その事実を知るシンジは何も言わずに三人の意見を後目に沈黙していた。

 アスカが気負っているのも幾分気掛かりだったが、それ以上にシンジ自身にも別の気負いがあった。

 第十二使徒レリエル……その実体は、体内に虚数空間を持つ無機体。そして「虚数空間」その四文字が示すのは、シンジにとって鬼門にも等しい地である。

(僕は確かめなければならない。自分自身の人格が裂けると感じたあの瞬間、

 僕の身体と魂に起こった変化……そして分裂した僕のもう一人の人格である「ゼロ」。

 一体何を考えて、こんな中途半端な状況に僕を陥れたのかを……問い質さなきゃならない。

 何故僕がまだ生きているのか、そして僕自身の目的意識を確かな物にする為に……)

 今のシンジにとって、レリエルは「敵」というよりむしろ「穴蔵」という発想が先行している。虚数空間と現世を繋ぐゲートの役割を果たす物体、と考えればより相応だろう。実際シンジには、アスカやミサトやネルフ陣営以下のように、使徒イコール敵もしくは悪とは考えていない。それは己が体験が学んだ「事実」だと信じているからだ。

 

 どういう理由かは分からないがシンジは間違いなく、以前とほぼ同じ世界観を体験している。それもこの半年の間にシンジの周囲に起こった出来事は、シンジの記憶とほぼ時期と事実を異する事なく忠実に施行されてきた。つまりシンジにとってはいずれ、自分達がかつてと同じ破滅的結末を迎える事になるであろう危惧は当然の結論である。

 その結末を変えるべくして、あえてもう一度エヴァに乗り奮戦してきた。今度こそ同じ愚は繰り返すまいと、皆との心の距離も必要以上に突き放した。周囲の期待や羨望、抱擁的な温もりも一切受け付けない無欲な自分自身を完成させたつもりでいる。それがシンジに考えうる唯一の現状打開策だったからだ。

 どんなに不純であったとしても、自分が想った娘達にもう二度と自分の為に辛い思いはさせまいという意識はある。だが自分がエヴァを駆って、最終的に何処に辿り着くかという事を深く考えた事はまだ無い。

 自分さえこの世から居なくなってしまえばそれで全て事が済むと頑なに信じていた。自分の中に存在する矮小な世界観にさえ、自分の居場所は有ってはならない物だと思い知った筈だった。

 だがシンジはまだ生きている。これが彼女達の生きている現世への未練なのか、ヒトとしての本能に依る生への執着なのかは、彼にはまだ分からなかった。

 

 


 

 

 未確認物体が悠々と街中を浮遊する、その様子をじっと窺うエヴァが三機。街中のビル群の間隙を縫うように慎重に移動を続け、三方向に散った三機のエヴァはその輪を縮めていくようにして、物体との距離を徐々に縮めていく。今回アスカとレイにエヴァを別々に運用させたのも、相手の戦力が読めない今、相手の出方を窺うために多勢の姿勢を取った為だ。

 その内の一機、零号機に乗るレイは今三人の中で最も冷静でいる。寡黙な彼女が実際冷静なのはいつもの事だが、殊更今度の出撃に関しては彼女自身強く意識した上での冷静沈着さと言えた。

 彼女には人間の心情を深く観察する能力に秀でてはいるが、それをどう周囲に表現したり働きかけて行けば良いのかという表現法に関してはまるで疎い。しかし、常々感情の起伏に乏しいと言われる彼女にも、場の雰囲気に対する自分の働きかけ方を自分なりに考えて行動しようという気概はある。

 今回の場合、嫌に気負っている節のあるアスカや意味深に考え込んでいるシンジでは、本来の能力を発揮出来る戦闘は望めないのではないか……彼女はそう考えていた。

「弐号機、もう少し早く右側に廻って」

「やってるわよ! コソコソしながらそんなに早く動ける筈無いじゃない!」

 気負うアスカは、自然と弐号機の間合いを物体に寄せている。その為に相手に気取られないように動くのに、より慎重を期す羽目に陥っていた。だがそんな慎重策は今のアスカにはやや無理な相談だ。

(あんなボーッとしている相手なんか、後ろから一撃で仕留めてしまえば楽なのに!

 ミサトの奴、何が静観案よ。第一あんなヘンテコリンが使徒以外の筈ないのにさ)

 内心、アスカは不満で溢れていた。今自分は物体の背後にあるビルの影に陣取っている。相手がそれに気付いた様子もない、それでいてこちらが攻撃出来ないのは馬鹿馬鹿しいとまで思う。功を焦るあまりの考えだとは、アスカ自身は到底思い至っていない。

 発令所も、弐号機の接近の様子は捕捉している。それが更にミサトの焦燥を生む。

「アスカ、少し後退しなさい。近付きすぎてるわ」

「ここまで来てそういう事言うの!? あたしにだって足止めくらい出来るわよ!」

「アスカ!!」

「レイ、あたしが仕掛けるわ、相手が怯んだらそのライフルで狙撃して!」

 ミサトの制止も空しく、遂にアスカは弐号機を跳躍させた。手にしたソニック・グレイブを頭上に振りかざし、相手を唐竹割りにせんとばかりに一気に振り下ろす。

「こんのおぉぉぉっっ!」

 威勢よろしく振り下ろしたグレイブ、だが相手はその斬撃が直撃する寸前に霞のように消滅した。

「え……消えた? ホログラフィーなの!?」

 あたかもアスカの目にはそう映った。そして、跳躍中の不安定な体勢のまま強烈な斬撃を加えようとした無理が祟って、弐号機は体勢を崩して落下し、尻餅を付くようにしてアスファルトを歪ませた。

「痛たたた、カッコ悪い………………え!?」

 アスカが異変に気付いたのは、弐号機を立て直すために右手を地面に付いた瞬間だった。地面にめり込むようにして沈んでいく感触を手が味わっている。

「沈む?! な、何なの!」

 そこには泥沼のように弐号機を引き込む、黒い地面が円状に広がっている。底の伺い知れない深遠の闇に怯えたように、アスカの表情がひきつっていた。

「パ、パターン青! 正体不明の物体を使徒と確認、弐号機に接触しています!」

 モニターから、マコトの焦った声が聞こえる。ミサトの苦悶に歪んだ表情が見える。リツコの驚愕に彩られた表情が見える。そしてアスカは知った。自分が敵に引きずり込まれているのだと。

「う、嘘っ、ヤダっ、手が抜けない……起きあがれない!?」

 弐号機の右手と臀部、そして両足は既に黒い沼に引き込まれている。弐号機は左手に握っていたグレイブを手近なビルに突き立てて食い留まろうとするも、沼の吸引力が強すぎて留まる事はない。

「なんて事だよ……!」

 その光景に特に顔を青ざめさせているのは、一度自分が罠にはまった覚えのあるシンジだ。

 考え事をしていて反応が遅れたなどという言い訳を理由にするつもりはないが、アスカが勢い余って仕掛ける事を見抜けなかったのが腹立たしいのだ。いつもは戦闘に関して物怖じせず、かつ慎重に事を運ぶ性格のアスカがつい功を焦って突進するなどと、それは最早シンジの知る範囲のアスカでは無い。

 知らないのはまだいい、所詮自分がアスカを計れる筈もないのだから。しかし「あの」虚数空間にアスカが引きずり込まれたとなれば血相も変わる。アスカ自身の命も不安だが、何より絶対に会わせたくない人間に引き合わせるようで、それだけは絶対に見逃せなかった。

 アスカを「殺す」よりも、アスカを「壊す」方を恐れる自分……シンジはそれが何より怖かった。

「レイ、シンジ君! 弐号機を救出、急いで!!」

 ミサトの声に跳ね起きるようにして反応したシンジは、零号機とほぼ同時に黒い沼の前まで駆け付けた。だが既に弐号機は周囲のビル群ごと沼に引きずり込まれ、頭部と左腕だけが地上に露出している格好だ。

 それ以上近付けば自分達も引きずり込まれるのは目に見えている。ライフルという長物を持っているレイはそれを弐号機に差し出すようにして弐号機の左手に持たせようとするが、

「……届かないわ」

 零号機と弐号機との間合いは60m程離れている。全長40m弱のスナイパーライフルではあとエヴァ半歩分及ばない。レイはその端正な表情をわずかに歪め、悔しがっている。

「やむを得ないな……確かこれはATフィールドに支えられた極薄の空間の筈だから……そうか!

 少し乱暴な方法になるけど我慢しなよ。雷壁……!!」

 苦渋の決断を以て、シンジは初号機の右腕を振り上げる。放電撃に包まれる右掌が即ち「乱暴な」救出方という事になるらしい。

「止めなさいよ!!」

 その行為を大声で止めるアスカ。その表情はレイ以上に悔しさで歪んでいた。

「あんたに助けられるだなんて真っ平ご免だわ……こんなもの、あたし一人で抜け出てやるわよ!」

「一人じゃ無理だ!」

「サードが勝手に決めつけんじゃないわよ!」

 まるで海で溺れている子供のように手をバタつかせ、黒い沼から抜け出ようとするアスカだったが、自身でもどうにもならないのは既に分かっていた。ただ、サードチルドレンに恥を掻かされるのだけは避けたいという意地だけがアスカの口を突いて出ている。

 二人が言い争う間にも、弐号機はその頭部だけを残して沈没していた。焦る発令所とアスカを後目に、シンジの視線は泳いでいた。そしてその心は、諦めと意固地の狭間の葛藤に揺れていた。

(僕は、アスカに必要とされようだなんてもう思ってない……けど、例えアスカの意志に背いたって、僕は!)

 それは正に無謀としか言えなかった。シンジはその初号機ごと自ら黒い沼に飛び込んだのだ。

「! シンジ君まで何を!」

 ミサトが何やら懸命に騒いでいる。だが直後にはその通信さえ途切れた弐号機。最後にアスカの視界に映ったのは、自分の頭上に向かって飛び込んでくるらしき初号機だった。

 

 

「レイ、一旦後退しなさい。あなたまで引きずり込まれたら打つ手がないわ!」

「でも、まだ碇君とアスカが」

「下がりなさいレイ。……これは命令よ」

「……了解」

 命令―――レイが常々「守れ」と強く言い聞かされていた物。シンジとアスカが黒い沼に引きずり込まれてしまったのを目の当たりにしながら、レイは後ろ髪を引かれる思いに捕らわれつつ零号機を後退させる。

「……碇君」

 明らかに敵に引きずり込まれると分かっていながら、それでも無謀に飛び込んでいった初号機の背中がレイの脳裏に焼き付いて離れない。嫌われ者のシンジが進んでアスカを助けに言ったなどと誰が信じずとも、色眼鏡を持ち合わせていないレイには、それがシンジ自身が心に率直に従った故の行動として映っていた。

「アスカは碇君を憎んでいる、それは碇君がアスカを口で蔑むから。

 でも戦いの中での碇君はいつも、身を呈するように私達を庇う……何故そんな逆順を見せるの、碇君」

 表層的な憎しみを見ず、深層的な心理に問い掛けるのがレイの本質ならば、もしレイ自身がその事に気付けたならば、その問の答えも出るであろうが。

 

 

 後には、黒い沼にズルズルと引きずり込まている、二本のアンビリカルケーブルだけが虚しく地擦りを続けていた。

 

 


 

 

 ミサトは苦渋の思いで零号機を後退させた後、街中のあらゆる物を飲み込んでしまった黒い沼に十分距離を取って、野外に陣取り警戒を続けた。不足した戦力は戦略自衛隊の戦力を借りて補い、使徒を取り囲むようにして威圧をかけ続ける。それでも使徒の動きには目立った所はなく、逆にネルフ側を威圧するようにミサト達の眼前で畏怖し続ける。気圧されているのはむしろ、敵の正体を掴みきれないネルフ側だった。

「プレッシャーを掛けているつもりが……してやられている訳か」

 作戦本部を敷く高台の上で、光学双眼鏡で使徒を観察し続けているミサトが、横にいるリツコに向かって忌々しそうに呟いた。

「とは言え、この状況を何十時間も保っていられるわけではないわ。

 引き上げたアンビリカルケーブルの先は途切れていた……つまり、

 今のエヴァは内蔵電源だけで稼働せざるを得ない状態なのよ」

「どのくらい持ちそう?」

「あの子達が無闇にエヴァを動かさず、生命維持モードに切り替えて救出を待っているようなら、

 弐号機は十六時間……初号機ならその二倍は持つわ」

「どうして初号機だけ?」

「初号機の右肩に積んでいる、エンハンスドエナジーシステムのゲイン分を回した場合の話よ。

 でもシンジの事だから、多分使わない手はないわ。それを考えれば……むしろ初号機の方が危険ね。

 いずれにせよ、今日の日付が変わらないうちに救出作戦を組んでおくのがベターよ」

 目安を明示されたのを受けて、ミサトは先日贈与されたばかりの紫色の腕時計に視線を落とす―――現在時刻は六時八分。

「あと六時間か……厳しいわね」

「今マヤ達にあの使徒と穴の解析を急がせているわ。あと二時間もすれば結果が出ると思うけれど」

「了解……期待しないで待ってるわ」

 互いに、この状況を打破しようとする努力を怠る気はない。しかし、得体の知れない敵を相手に、自分達の力に限界を感じて煮詰まる事くらいはある。ミサトの悪態もそういう意味だ。

 足取り重く作戦本部のテントに戻っていったミサトと入れ替わるように、リツコは高台の手摺りに肘を添え、頬杖をつきながら呆然と街の景色に魅入っていた。白黒の球体に、乱雑に生えているビル群という前衛的なオブシェを飾っている街は、夕焼けの茜に照らされて奇妙な感慨をもたらす。

「戦功を焦って捕まったアスカと、それをがむしゃらに助けに向かったシンジ君……」

 つい、と振り向いた先に、自分と同じように街の景色に見入っているレイがいた。目の色素が弱いのをおして視線を一心に使徒に向けているその瞳には、敵に対する敵視としての視線以上に、何処か憂いさえ含んでいるように見える。

「そして、それを歯痒く見守っているレイ……か。ちぐはぐのようで意外と形になっているものなのね、あの子達。

 ……そういえば」

 こういう時、限って現れるはずの青年を先頃から全く見掛けない事に気付く。いや寧ろ、彼の出現を心待ちにしている自分自身が居ると言い換えてもいい。

「こういう時こそ彼の助言を扇ぎたいところだけど……流石に今回は無理ね」

「ええ、ちょっと無理ですね」

「! ……脅かさないで頂戴、ノヴァスター君」

 いつの間にか自分の背後を取っているノヴァスターの存在に気付くリツコ。少し度肝を抜かれた事を照れ隠すように、金色に染めた髪を掻き上げつつ平静を装いながら問い質した。

「流石に、今回はあなたでもお手上げかしら」

「お手上げと言うより……手放しにしておいて欲しいんです」

「手放し? まさか私達に、何も手を打つなというの?」

「本人達に助かるつもりが有れば、シンジが何とかしますよ。それを信じましょう」

「そうは言うけど……今回の使徒にも、あの技が効くという保証はないわ。

 ましてあんな物体の内側に取り込まれてしまった今となっては……」

「保証なんか要りません。何とかなると信じているから、何もさせないだけです」

 使徒から見て日陰側に陣を取った高台は、つまり眼前に夕日の来る位置にある。室内に籠もる生活の長い性分のリツコには視線が強過ぎるのか、太陽に背を向けるように手摺りに背もたれている。

「便利ねぇ、そのサングラス。私にも貸してくれない?」

「こ、ここじゃ駄目ですよ。目が弱いから、明るい所で外したら目が眩んでしまうんですってば」

「ホントかしら……まあいいけど」

 リツコはサングラスを借りる事はあっさり諦め、使徒を凝視し続けているノヴァスターとは裏返るようにして本部の喧噪を眺めていた。

「……あなたはまるで、これから起こる出来事を全て知っているかのように物を言うのね。

 成功する事を知っているから、失敗しないと分かっているから、だからシンジ君をけしかけるの?」

「現状を打破しようとする、その気概までもシンジに強制する気はないんです。

 もし彼が戦う意欲を失えばそれはそれで仕方のない事だし、

 それが『あの』シンジにとって、初めから定められた運命なのかも知れない。

 誰かの為に闘う戦でありたいと思っても、人によってはそれこそが偽善だと嘲笑うでしょうし。

 だからあの子供達には、全部自分で決めて貰いたいんです。

 逃げる事も戦う事も、全て自分で決断さえできれば……少なくとも悔いは残らない筈だから」

「流石にそれは少し、格好付けすぎなんじゃなくて? ノヴァスター君」

「やっぱりですか? こういうのって今時クサいのかなぁ……。

 本心で喋っているだけなのに、いつも笑われちゃうんですよね。

 それでも、俺の言い分を認めてくれる人も居るから、クサくもなれるんですけれど」

「奥さんとの惚気話なら要らないわよ。……とりあえず、その助言は一考しておくわ」

 それでも結局、ノヴァスターの言い分を取り入れてしまう自分。科学的根拠に著しく欠ける発言を何処か心待ちにさえしていた自分。歯の浮くような言葉につい照れ隠しを装ってしまう自分。

(これが……惚れた弱み? まさか、まさかね私……)

「いつまでもサボッている訳にも行かないから、私は行くわね」

 言葉だけは感情を見せずに、リツコは足早にテントに戻っていった。その場に留まっている時間ほど、科学者である自分にそぐわない発言を求めて、そして期待してしまう自分がいる事を知っているから。

 リツコは常々、母譲りの「科学」に呪縛されている自覚を感じている。抜け出したいという努力はしなかった、溺れても構わないと腹を括っていたつもりだった。まして科学しか自分に残っていないのだと、自らに言い聞かせてさえいた。何故ならそれこそがリツコにとっての「惚れた弱み」だった。

(駄目よ、今彼の言葉を信じたら、私は二つ目の弱みに呪縛されてしまうわ……)

 未練に縋る自分……リツコはそれを無性に恥ずかしんでいた。

 

「見限られたのかなぁ?」

 今回ばかりはやや見当はずれを言っているノヴァスター。

 途端に手透きになったので、向こう側の手摺りに掴まっているレイに話し掛けようとする。その瞬間、シンジと初めて出会った時の光景がふとデジャヴとなって重なって見えた。

(やっぱり、こういうのって『血』なのかな……)

「何か見えるのかい? そんなに一点だけ真剣に眺めてさ」

「……よく、分からない。でも何もしないで居ると、落ち着かないの」

「それは、胸騒ぎ、って奴じゃないのかな」

「胸騒ぎ…………分からない」

 それでも「理解しよう」とする努力を感じ取れる少女だから、ノヴァスターは彼女には何も言わずに済むのかも知れない。彼女も機会あらば常に己を知ろうとして努力している娘だ、それを大人は「賢い」のだと錯覚する事がある。レイはただ物事の、真実に迫る部分を納得が行くまで知りたいだけなのだ。

「そうか、意外と貪欲なんだね、レイは」

 レイの新しい一面を知ったかのようなその表情は、喜びに彩られていた。

 

「……とは言え、シンジにとっては此処が正念場さ。

 戻ってくるなら良いけど、もし戻ってこなかったその時は……俺一人で戦うしか、手がないのかもね」

 彼とて自分の目的という物がある、子供達だけに己の労苦の十割を割いて働きかけている訳にも行かない。それでなくともシンジの決断はシンジ自身で、アスカの決心はアスカ自身に任せる他はないのだから。

「あの子達は今が肝心なんだ。もし立ち上がるにしても、全てを諦めるにしても今こそが……。

 母さん、どうかあの子供達を守って欲しい。今はまだ……異性より親に守って欲しい年頃なんだ」

 

 夕日が地平に沈む、その黄昏を一身に背負ったように一人呟くノヴァスターを、少し神妙な表情をしたレイが横目で窺っていた。

 

 


 

 

 沼の底に引きずり込まれたと感じた瞬間、シンジは激しい嘔吐感と混迷感を感じていた。船酔いの時のように平衡感覚の狂ったあの状態である。その朦朧とする意識を振り払うように頭を振り、シンジは全景モニターに視線を向けた。

 そこには以前の時と同様に、見渡す限り雪原のように真白い空間だけが広がっていた。かつての経験から半ば無駄と分かりつつソナー、レーダーの類を操作してもやはり一切外部の反応は拾えない。

 第十二使徒が体内に持つ虚数空間は、別次元の宇宙とを繋ぐワームホールの様な物と推測されていた。もしこれを自由に操作できれば、いわゆる「ワープ航法」をも可能にするとさえ言われている。かつてシンジは実際それが可能である事を、己自身によって体現していた。

 思えば皮肉な物である。自分の半身として埋め込まれていたもう一人の人格にはそれを為す術を持ちつつ、今はようとしてその行方は知れない。シンジの持つ思考レベルも内省性さえも共有している、まるで鏡に映したかのように綺麗に絶たれたもう一人の自分自身には、この行き詰まった現実を全て覆せる力さえも備わっているであろうに、当のシンジ自身さえその力を自由に扱えない状況に陥っているのだから。

 容姿はおろか性格さえ完全に瓜二つの彼我を区別する方法はたったの二つ。銀髪紅眼と、心の壁をいとも容易く扱うその力だけ。それは渚カヲルと呼ばれた少年と同様の宿命でもあった。

 

「有り余った力を持つ者は、それに応じた心の強さを抱かねばならない義務がある。

 さもなくば、その力は己の周囲を傷付けるだけの暴力に成り下がってしまう」

 

 ノヴァスターが「雷壁滅砕掌」を授けると共に語った言葉は、カヲルやシンジ自身のような人間に対する強い訓告でもあり、シンジはごく最近になってその言葉の重みを知りつつあった。

 現実の全てに取り返しが付かなくなったと信じ込んでいる、今の瞬間にこそ―――。

 

 シンジは未だ朦朧とする意識のまま、初号機を生命維持モードに切り替える寸前に、狭いエントリープラグの中に響かせるような大声で叫んだ。

「いるんだろう、そこに! 僕のもう一つの人格、ゼロ!!

 姿を現せよ……自分自身の不始末は、絶対に自分一人で決着をつけて……うっ…………」

 目一杯叫んだ反動で、酸素を急激に失った為に意識は霞み、シンジはそのままエントリープラグのシートに崩れ落ちるようにして意識を失った。

 

 

 

 

 

―――反転。