夢の世界は一転して、闇一色に染められた暗黒の帳が何処までも広がっていた。
目の前を遮っている闇に手を伸ばせば黒い煤が掌中に掴めそうな、
それほどに重苦しい空間は自ずとシンジの呼吸をも息苦しく感じさせている。
実際、夢の中の筈なのにシンジには呼吸の自覚があり、自分の思うがまま手足をも動かせられる。
しかしそれはシンジが夢に対して思い描く先入観を否定する現実に過ぎない。
そもそも夢とは一体どういう定義で定められた世界なのだろう。
それとも己が妄想を映し出すスクリーンに過ぎない、自己満悦に彩られた幻想の世界なのだろうか。
「そうさ、夢は単なる仮想の世界じゃない、自分自身が生み出した妄想をより確実に実現する為の舞台。
自分という存在のアイデンティティを、欲と理想を使って構成している場所さ。
本心を誤魔化さずにいられるから、時折醜い現実さえ垣間見えることがある。
差詰め……今の君と僕との関係が、そうなんじゃないかな」
暗黒の空間に漂っている自分の目の前に、全身血染めと化した第壱中学校の制服に身を包む少年がいる。
自分と全く同じ顔立ちをしているのに、自分とは異なる紅瞳が自分以上に冷徹な眼光を湛えている。
行き過ぎた科学と狂気が生み出した欲望の権化……それが碇シンジのもう一つの人格『ゼロ』。
己の欲を恥とせず、性悪説を掲げては超然としているその遠望的な視線をたたえて。
その姿を確認した『純血』シンジは、内心煮えくり返りそうな激情を精一杯押さえ込みながら、
ポーカーフェイスを決め込むもう一人の自分に負けじと、努めて冷静を装う。
「僕はつい最近まで、君と僕は似て非なる別人だと信じてた。
でもそれさえも、自分の本心の醜さから逃げていただけだったのかも知れない。
今更逃げる事を恥じる気はないけど、出来るだけ本当の事は知っておきたかった。
そうか、君の本当の姿は……僕以上に僕の欲に素直な、もう一人の僕自身だったんだね」
「彼我を区別する最も安易で明瞭な差異さ。それに君も薄々分かってるんだろう?
何故自分の人格が二つに分裂したのかを、そして互いに背負った役割の違いを」
「そんな事は分からない、僕には分からないよ。
人工で生み出された命だとしても、碇ゲンドウの血だけを受け継いでいたとしても、
君と僕が互いに『碇シンジ』と呼ばれている人格だという事に、違いは何もないじゃないか」
「違いはあるさ。君は人として生まれいでた碇シンジ。僕は使徒として生まれた碇シンジ」
「それは力だけを見た話だろ。性格は……所詮どっちもどっちさ」
「違うね。人は自分の中に常に、自分に相反する人格を常にかかえてる。
それは自分自身の、欲に忠実な行為を触発したり制限したりする相反した感情……いわば理性と本能。
差詰め僕は本能の塊さ。だから君は、自分の欲に自制を掛けられるかもしれない。
でも僕は違う、一度願った欲に対しては貫徹するまで絶対に歯止めが掛からない。
僕が何かを行おうとすれば、誰も止める事は出来ない……自分自身でさえもね」
「そうかも知れない。その、自分だけは何でも出来ますっていう思い上がりがある限りはね」
「思い上がりじゃない、事実に裏付けされた覆しがたい現実だよ。
終わりの見えない話の中途を全て端折る事さえ出来る力、それを僕に望んだ奴がいる。
だから僕は一度、その通り全てを終わらせた。そして『碇シンジ』は一度この世から完全に消え去った」
「でも実際は消えてなんかいない。二人ともまだこうやって息をして生きている。
教えなよ、どうしてこうなってしまったのかを……何処で狂ってしまったのか。
あれだけ自分自身を強く憎んだあの激情を、一体何処に忘れ去ってしまったのかを。
その答え次第では……ここで今直ぐ全部の決着を付けて、終わりにするよ」
シンジは右の拳を力強く握りしめると、相手に突き付けるようにして掲げた。
元来ならば力の真っ向勝負で勝てる気はしないが、
『純血』のシンジは『ゼロ』シンジと彼我を分けて以来、
もう一人の自分自身にも知られていない、絶大の破壊力を有した切り札を持っている。
もし交渉の決裂があらば最後にはそれを喰らわせてやる、そういう意気なのだ。
自分の裏の人格を知り得ようとするに、これほど写実的で明確な方法はない。
実際の自分自身をもう一人、眼前に用意すればただそれだけで良いのだから。
だが、目の前にいるのが自分自身だからといえど自分の理屈を全て理解してくれる訳でもない。
むしろ自己の道理の逆順ばかりを感じて、苛立ちと憤りを露にする事もあるだろう。
『純血』シンジにとっての『ゼロ』シンジとはそういう裏側の人格であり、
クールに振る舞っているように見える『ゼロ』シンジにとってもそれは全く同じ事だった。
結局、彼等は一つの人間を綺麗に等分割しただけの彼我の個別ない人格に過ぎないのだが、
その現実を素直に受け入れられる程人間が出来ていない上に、シンジは実は人並みより短気な方である。
自己の矮小さを掻き乱す為に、互いにわざと強がっているとも言えた。
「無駄な事を……過ぎた力は身を滅ぼすという事がまだ分かってないらしいね」
「それはこっちの台詞だよ。もう煩わしいのや面倒な出来事に巻き込まれるのは沢山なんだ!
このイライラが吹き飛ばせる為なら、なんだってやってやるさ!
初号機、エンハンスドエナジーシステム起動! エネルギー臨界凝縮!!」
その直後、暗闇に佇んでいた『純血』シンジの背後に、
まるで後ろから抱きすくめつつ主人を守るかのようにして、初号機がその巨大な風貌を表した。
「!」
突然の光景に『ゼロ』シンジは僅かに驚愕の表情を示すが、
次の瞬間には自嘲したような微笑みを浮かべつつ自らの右手を振り上げた。
その振り上げた時の衝撃のためか微かに、右手全体から粉のような物が降り落ちる。
「まあ自分自身の聞き分けの悪さは分かっていたつもりだけど……情けない奴」
「うるさいっ! こっちこそ言い訳がましく生き長らえてる自分自身の言い訳なんか真っ平さ!
そっちが死にたくないのなら……僕が殺してやる!!」
闇の中、初号機の右腕から激しい稲妻が迸り、暗闇を切り裂くような烈光が縦横無尽に走る。
「必殺、雷壁滅砕掌!!」
瑠璃色の輝きを纏った右掌を、初号機はその憎々しい自分自身に叩き付けた。
その数億ボルトの衝撃と巨体の腕は人一人程度を容易に吹き飛ばすと思われたが、
『純血』シンジが見たのは、初号機の右腕を『ゼロ』シンジの眼前で食い止めている銀色の腕だった。
そう、『ゼロ』シンジの身体の背後にも初号機同様に、守護神たる巨躯が控えていたのだ。
同時にその銀色の巨躯もまた、掌の中にATフィールドを溜め込んで発動中の雷壁滅砕掌を防ぎ続けている。
「銀色のエヴァ!? ……四号機!」
「以前に、四号機は未解析のままS2機関を実用に使った為に、
ネルフのアメリカ支部と共に虚数空間に消滅したという話を思い出したんだよ。
虚数空間に浮遊していたのを探し出して借り受けたのさ……こういう事もあろうかとね」
そう言って不遜に顔を歪ませ嘲笑う顔はやはり、互いに『碇シンジ』なのだという印象を裏付ける。
(それは嘘だ。僕と違って、エヴァを使う必要のある身体じゃない筈なのに。
それに気のせいか右腕が一瞬風化していたようにも見えたけれど、
まさか……力が制御しきれなくて身体に無理が生じているんじゃないのか?)
あの日、サードインパクトが起こる寸前までは一介の中学生に過ぎなかった『碇シンジ』。
だがその実体は、肉体の遺伝子情報に人為的操作を加えられた半人工の生命体であった。
しかし如何せん未成熟の身体にとっては埋め込まれた内なる力は絶大すぎて、
結果その身体の長期的な生命活動に著しい負担を掛けていた。
覚醒したあの当時の瞬間ならともかく、あれから既に半年の月日が流れている。
既に身体はその負荷に耐えきれず徐々に崩壊の前兆を見せていたが、
『ゼロ』シンジは例え自分の半身にさえも、それを自ずから話すつもりはなかった。
何故なら彼にとって本当の彼我の区別は、その力自体ではなく力のもたらす「末路」なのだから。
「それにしても、エヴァの全身を覆っているATフィールドを掌一点に集中して攻撃するなんて、
僕の知らない間に随分面白い技を身に付けてるじゃないか」
(向こうの自分も、自分なりに現状を打破しようとしている……これもその為の独自の力なのか)
迂闊にも一瞬だけ憂いてしまった表情は、だが最後まで悟られる事はなかった。
「ち、ちくしょうっ、サハクィエルさえも一撃で沈めたこの雷壁滅砕掌が、
たった片手で封じ込められてしまうなんて……。やっぱりあの絶大な力は健在って事なのか」
しかも四号機は『雷壁滅砕掌』と同様に、掌にATフィールドを収束させて威力を防いでいる。
つまりたった一瞬で技の本質を見破られ、かつ真似されてしまったという事になる。
(それだけの力があれば……それこそ出来ない事はないだろうに!)
やがて進退窮まった初号機はそれ以上エネルギーを失うまいと、渋々手を引きその姿を消す。
それに示し合わせたかのように四号機もまた、その巨躯を再び闇の中に消した。
「ここで二人して消えるのが一番の近道のつもりだったけど、それももう無理なのか。
……なら僕はどうしたらいいんだ! どうすればこの気持ちに整理が付くんだよ!?」
「気持ち?」
「そうさ。自分の弱虫ぶりにはとっくに愛想が尽きた筈なのに、それでも僕は生きてる。
君だってそうだ、あれだけ後戻りの出来ない状況を作っておいて、今更何を考えてるのさ!?」
元来一つの人格だったシンジが二つに分かれてから既に半年。
その間に彼等の人格は互いに一人立ちし、ただ短絡的に自虐に陥るのではなく、
現状をより冷静に、客観的に見られるような独自の考え方を模索するようになっていた。
だがそれが仇となり、今頃になって自分同士の擦れ違いをも生んでいた。
『純血』シンジにとっては、あの一年間のやり直しを余儀なくされている間にも、
違った角度からの現状把握を覚えた事や、雷壁滅砕掌のような強い力を身に付けたもあってか、
今度こそ間違いなく、サードインパクトを自力で防いでみせるという自負も生まれつつある。
明日を生きる事さえ諦めきっていた当時の事を考えれば進歩したと言えなくもないが、
確かな目的がまだハッキリとしない以上、何があろうとどんな状況であろうと、
自分を常に突き動かし言い聞かせる事の出来る明確な命題を求めていた。
「つまり、生きる必要を感じていない自分自身の為に、生きる為の理由が欲しいのか。
ただ闇雲にエヴァを振り回すのではなくて、何に向かって勧善懲悪を行うべきか、
その判断を……僕に委ねるっていうのかい?」
「おかしいのか? 自分自身に、自分の生きる理由を問うのがそんなにおかしいかい?」
確かに彼等の場合お互いに問うという行為は、己の決断を他人に依存している訳ではなく、
自分自身で決めるべくの行為であるといえる。
だがその言葉に『ゼロ』シンジは高笑いをあげた。そんな自分自身の姿を嘲笑ったのだ。
「……何がおかしいんだよ!」
それもその筈、『ゼロ』シンジは既に己の過ぎた力にどう決着を付けるか、
どのようにして自分自身と目の前の自分との決別を付けるべきかを、
この半年の間『純血』シンジが再び使徒と賢明に戦っていた間に、
彼はこの虚数空間の闇において、誰の相談を受ける事も無く慎重に考え抜いていた。
そして決断を生かす機会が今になって訪れる……これ以上の好機は無かった。
「だったら僕の話に耳を傾けるといいさ……碇シンジという人間の真の本質を、教えてあげるよ」
何処までも冷酷で淡い言葉の響きに、思わず息を飲む『純血』シンジがいた。
「『碇シンジ』は決して普遍的な定義に基づいた存在じゃない。
葛城ミサトの心の中に住む碇シンジ、惣流アスカの心の中に住む碇シンジ、
綾波レイの心の中に住む碇シンジ、渚カヲルの心の中に住む碇シンジ。
赤木リツコの心の中に住む碇シンジ、そして碇ゲンドウの心の中に住む碇シンジ……、
全てイメージは微妙に別物さ。単一の言動でさえ、全員が全員違った物の見方をする時さえある。
ある者はその言動を鼻に掛けたものであると信じて疎み、
ある者は謙虚であると信じて敬意を表すかも知れない、そしてそれは万人の性格上仕方のない事さ。
だがその個性というものが、時折人を妬みや争いに陥れる元凶となる……これも仕方のない事。
ならいっそ心の壁という名の垣根を取り払って、心の通じ合わない煩わしさを打ち消し、
一つの安寧に包括されようと考える……それが人類補完計画の大本の理念さ。
だけど自分の行いを自分自身が一番悪い方向に受け取って、
独りで勝手に自滅しているのが碇シンジの元来あるべき本性だろう?
理性の方はそれを認めたくなくて、中途半端に格好を付けようとしているようだけれど」
「そ、それは……!」
何かを言いかけて、だが何も言えなくなってしまった『純血』シンジは口ごもってしまった。
結局、己自身には何もかも見透かされているという事を認めなければならなかった。
そして、ただ自己の本質を問いたいと願うだけの事が、如何に至難であるかをも思い知った。
―――一時はあれだけ自己の可能性に絶望したシンジが未だ生きている理由。
それは自分のごく身近に存在した人達に対する、悔恨と思慕の狭間でせめぎ合う二律背反。
例えどんなに良かれ悪しかれチルドレンとして過ごしたたった一年間の思い出は、
シンジにとって何物にも代え難い貴重なコミュニケートの営みであった。
初めて他人に褒められる事、他人と協調する事、他人に好意を持つ事、他人を親友と呼べる事、
その全てが新鮮な経験であり、戸惑いを見せる事も毎日のようであった。
加えて、思春期の最中であるシンジにとってその貴重な日常の日々の中、
自分と最も身近に接していた少女に対し淡い恋心が芽生えたとて当然の成り行きだった。
もし悲劇がそこにあるとすれば、シンジにとっての恋は人並みより遥かに貪欲だった事である。
何故ならば、凡人が想い人に対して本来求めるべき青臭い感情よりも、
遥かに多岐で贅沢な代物をその少女に求めすぎてしまったから。
シンジの恋はいつしか、心の貧しい育てられ方をされた幼少時代の古傷を癒す為の手段と化していた。
しかしレイとアスカには、その渇望の全てに応える心の余裕を持ち合わせてはいなかった。
彼女達とてシンジ同様、人の心の隙間を埋められるほど豊かな心を育てられた訳ではない。
そして子供達は生半可賢かった。それが互いをより傷つける原因としかならなかった。
だからシンジは最後の最後に決断をする。抜け出る事の叶わない荒んだ現状を打破する為に、
自分の中に眠っていた起こしてはならない物を起こしてしまった。
ただ行き詰まった現状と、彼女達をどうにかしたい……それだけが動機の全て。
やがて、シンジの中の激情にも似た貪欲は一瞬にして冷め、シンジは己を己で愛し、
そして他人にも相応に愛されたいと願っていた価値観の全てを投げ捨てる決意をする。
だが身の破滅さえ叶わなかったシンジには次の決心も見付からず、その心理は迷走の一途を辿っていた。
そこで渡りに綱とばかり現れたのが、昔の恥とも言えるようなもう一人の自分の人格。
シンジに唯一残ったプライドは……いまだ己の過去を赦せない所、と言えるだろう。
「だけど僕は違う。碇シンジの本来あるべき本心と我欲を全て把握している。
本能だけは、己の欲求に対してだけは何があっても嘘をつかないからさ」
『純血』のシンジには無く、
『ゼロ』シンジには或る物。
それは「本心を吐露できる開き直り」だった。
「結局……君は欲が無い訳じゃなくて、逆に私欲の塊と化してしまったんだよ。
皆に後ろめたい事があるから生きていくのが辛いと言って逃げ出したつもりが、
今度は逆に、恩着せがましくエヴァを扱い始めている……今はそんな所じゃないのか?」
「それは違うよ。僕は今更何かを得たいだなんて思ってない。
ただ昔の一時期だけ……アスカとミサトさんとそれなりに楽しく同居していて、
エヴァを上手く使いこなしたらあの無愛想な父さんが褒めてくれて、
シンクロ率が上がったからといってリツコさんに褒められて、
綾波が優しく諭してくれた事、そしてカヲル君に優しく接して貰えた事が嬉しくて……、
あの頃の、僕が一番浮かれていられた時期の楽しい出来事がいつまでも忘れられなくて、
その思い出だけを唯一心の糧にして、いつも幻覚のように思い起こしながら戦っているだけさ。
僕は……僕の喜ぶ顔が見たかったんじゃない。僕が何かを働きかけた事で誰かが喜んでくれる、
その人が笑顔を浮かべるような事を出来たんだっていう自負と自信が欲しかったんだ。
誰かが笑えば、僕も笑える。愛想笑いでも苦笑でもいい、辛そうな顔よりはずっとましだから、
みんな辛い過去と今を引きずっている人達ばかりだから……せめて笑って欲しかったんだ。
でも結果は違った。結局最後には辛さの余りみんなバラバラになってしまった。
そしてそのバラバラになった人間関係の真っ直中にいたのが僕だった。
終いには僕自身さえ、自虐に耐えきれずに本性を現して一人勝手に自滅した」
「そして僕はその歪みを修正する為に一役買おうとして現れた影の人格という訳か……。
本末転倒だね、中途半端に認められたその性格が虚勢を生んで、結果この有様か」
「何とでも言えばいいじゃないか。どうせ過ぎてしまった事は戻りはしないんだ。
そう、戻りはしないはずなのに……なのに今の僕は何故かタイムスリップしてしまってる。
答えろよ! 君なんだろ、こんな事をしでかしたのは!
言っておくけど、幾ら僕でも同じ間違いを二度するほど馬鹿じゃない!
もし歴史にifがあるのなら、僕は今度こそ……!」
「今度こそどうするのさ、今度こそ取り返しのつかない展開を望んでいるのか?
あの時僕はベストを尽くして『碇シンジ』の痕跡を絶つ後始末を付けた。
それとも、あれに勝る始末の付け方があったと思うのか?」
「そういう問題じゃないだろう!? 今また此処に僕達が居る事自体が問題じゃないか!
昔の事はもう終わった事だけど……けど今此処にある現実はどうするのさ!
二度同じ事を繰り返させてどうしようっていうんだ、また同じ破滅が繰り替えされてしまう!」
『純血』シンジの激高にしばし逡巡する表情を伺わせる『ゼロ』シンジ。
少し俯き加減になっているその表情は、解きがたい悩みを抱えている少年の絵図そのものであった。
「……本当に、前と同じ結果になると思うかい?」
「どういう意味さ」
「少なくとも僕達『碇シンジ』は一度、使徒と戦い抜いてきた歴史を体験している。
その予備知識があるだけでも、少しは戦い易くなるだろう?」
「そんな事はいいんだ、問題はアスカや綾波達の……!」
「最初から諦めきって対応をすれば傷付ける事は無いよ。
初めから何も馴れ合わなければ、彼女達の受ける心の傷だって随分と軽くなる筈だから」
「それは分かってる……僕は今の今までもずっとそうして来たさ。
僕自身が臆病で内籠もりなままでいれば、見限られるのは簡単だからね。
アスカやミサトさんのように自分を向上させる為の不屈の精神を持っている人間にとっては、
僕みたいな存在は酷く目障りらしいから……出来る限りの事はしてるよ」
「不屈……ね。彼女達は志は高いけれど、本当はそんなに心の強い人達じゃない」
「他人の侮辱はやめろよっ! 元はと言えば僕等が悪い事じゃないか!」
「言ったろ? 今の僕が口にしているのは常に、客観性に裏付けされた現実だけだよ。
『碇シンジ』は元々、根性はないくせに洞察眼だけは人並み以上に備えた存在、
だから厳しい現実は分かっていた筈なのに、一度として現実に打ち勝てなかった」
「君だってその軟弱者の片割れだっ! それを、今更他人事のように偉そうに……!」
「他人事さ。もう僕は『碇シンジ』で居る必要は無くなったのだから」
「? それはどういう……!」
「黙って聞きなよ。今君の居る世界が、かつてのそれとどう違うのかを説明してあげるよ。
君だってそれを知れば、少しは現実に対する焦りというものを感じるはずさ」
不敵に微笑みながら謎をちらつかせる『ゼロ』シンジの態度に対し『純血』シンジは、
向かい側の相手が自分の短所の具現的存在とは言えど、既に我慢は限界近くに達していた。
たとえどんなに自分に絶望した人間だとしても、
不甲斐ない自分をあくまで自分自身の口で説明するのは殊更気分が悪い。
そして目の前の自分自身は、それを他人平気でする存在だ。
その価値観の相違からアスカやミサトに激高された事とて何度もある事から、
先頃会話の中に二人の名前が出てきたのはそういう意味合いなのだろう。
それに勘付くと、心の中に不愉快さが霧として具現したかのような不快感が漂った。
(……道理で僕の存在が、他人をいつも怒らせる訳だ)
だが、いかに自分を見限ろうとも、向上心に対する気概を完全に失う事は……どうにも出来ないらしい。
「パラレルワールド、という世界観がこの世には存在する。
同じ時間律を、別の選択肢とその可能性を考慮して想定した場合の……いわゆるifの世界さ。
時間律を照らし合わせる事で、その事態の結末の善し悪しを考慮できたりもする事象」
「知ってるよ、映画や小説のような作り話ではよくある類の『辻褄合わせ』だろ」
「そう、そのパラレルワールド同士間の航行が可能になれば、
今自分達が生きているこの現実の世界を容易に作り替える事さえ出来るようになる」
「……! それを僕にやらせようっていうのか!」
「そうさ。そしてそれを望んだのは君自身だよ」
「僕が!? 何故!」
「あの時、全ての決着を付けた後に、君は僕を代弁するようにしてこう言った。
『この世の全てから碇シンジを抹消しよう。そうして彼女達を救おう』……と。
そして僕も『碇シンジ』の半身である以上、それを望むのは当然の事だ。
だが俺達はまだ、幾千もあるパラレルワールドの一つだけを解決したに過ぎないんだよ」
少しだけ彼の言葉の真意が計りかねたが、一瞬後に恐ろしい仮説が脳裏に思い描かれた。
驚愕に心を奪われている間にも、悲愴感と絶望感が徐々に心を蝕んでいくような不快な心境。
「……まさか!!」
「そうさ……僕はあらゆる可能性を完全に打ち消す為に、幾千もの別世界に存在する、
全ての『碇シンジ』を抹殺する! ……ifなんてあり得ない、完璧な結末をもたらせる為に。
どうせやるなら徹底的にやった方がいい、そうだろう?
僕には、他の世界にも『碇シンジ』が存在していると考えただけでもう我慢がならないんだよ」
「意味があるのか……そんな事をして、今更何の意味があるのさ!」
「そうでなければ、他の全てのパラレルワールドにも同じ悲劇が起こる」
「!」
「何千も存在するパラレルワールドに於いても、碇シンジの魂が二重に存在した世界は無い。
だからこれは、本当の意味で僕達にしか出来ない事なのさ。
たとえたった一つの世界でみんなが救われたとしても他の何千もの世界においては、
何の影響もありはしない。僕にはそれがまざまざと見えるんだ。
見なよ……このディラックの海こそが、全てのパラレルワールドを繋ぐ岐路だという事が分かる光景を」
『ゼロ』シンジはゆっくりと自分の後ろを振り返ると、
そこにはまるで天体に浮かぶかのように、幾つもの映像の断片が映し出されていた。
―――はじめて見る存在「使徒」の恐怖に絶叫を露にする碇シンジ―――
―――痛々しくも全身を包帯にくるんだ寡黙な少女、綾波レイとの奇妙な出会い―――
―――胸元に十字架を飾って戦う女性、葛城ミサトとの同居生活―――
―――はためくスカートの裾も気にせず、一身に陽光を浴びていた少女、アスカとの出会い―――
―――自分を見下ろすようにして常に畏怖を知らしめていた父、碇ゲンドウの後ろ姿―――
―――初号機の掌の中で、全ての結末に納得した息絶えていった少年、渚カヲルの笑顔―――
たった一年の間に起こった、掛け替えのない思い出と出来事。
だが今となってはその全てが、シンジの心を咎めそして責め立てる悲痛に過ぎない。
「止めろ! 止めろ、止めろーーーーーーッッ!!
二度と思いだしたくもないんだ、もう二度と不幸だけを振りまくような自分は沢山なんだ!!」
懐かしくも凶器のように残酷な回想の絵図に、頭を抱えながら絶叫し拒絶する『純血』シンジ。
表面上は平静を装いながらも、その眉間が蹙めっている『ゼロ』シンジ。
互いに思うところは……結局一つでしかない。
「僕には見えるんだ。他の世界でも、全く似たような出来事が引き起こっている事を。
『エヴァを無事に乗りこなし、他人と協調しながら生きる強い精神の持ち主シンジ』、
幾千ものパラレルワールドの中にさえ、そんな絵空事のような世界は一つたりとて無いんだよ。
臆病で内罰的な子供が一人、エヴァンゲリオンという非常識な兵器に関わっただけで、
サードインパクトという大悲劇を引き起こしてしまうのが殆どの相場なんだ。
君なら分かるだろ……それがどんなに閉鎖的で救いのない結末なのかを」
「でも僕達が元々居たあの世界は……あの世界は無事に事後を過ぎているはずだよ」
「それは間違いないと思う。だから、あの世界こそが初めて2016年以降を生み出した世界さ。
今更誰かに貢献しようとも思わずとも、せめて自分の不始末に自分で決着を付けたいから、
だから僕は誓ったんだ……この力で、元凶を排斥する為に全ての力を注ぎ込むんだ、とね」
『ゼロ』シンジの幼稚かつ極めて残忍な決心とは裏腹に、『純血』シンジの表情は暗く重い。
臆病で狡猾な自分の事しか考えられない矮小な自分と、規模こそは大きいものの、
自虐的な計画だけを心の糧にして生き長らえているもう一人の自分と、
どちらがより救いの無い存在だろう、より愚か者なのだろう……互いにそればかりを考えていた。
「……だったら君独りでやればいいだろう。
僕も反対はしない、けど僕自身にはもう関係のない話さ。
僕は本当に自分の始末の事だけしか考えてない。いくら自分自身の事とは言っても、
他の世界観にまで考えが回るわけないだろう? それにそういうのって……偽善だよ」
「たとえそうだとしても、もう遅い。遅いんだよ」
「遅い? どうして?」
「さもなければ、第二、第三の『ゼロ』がアスカや綾波の体に埋め込まれるかも知れない。
それを平気で出来る奴が、今君達の間近に迫っているからさ」
「え!?」
「元々……僕達は一つの肉体に二つの魂を抱えた状態だった。
だけどサードインパクトが起ころうとしたあの日、その魂は二つに分かれた。
そして肉体を手に入れたのは、『ゼロ』である僕の方……今此処にあるこの身体さ。
一方の余分な魂は身体から弾き飛ばされた……それが君、純血の遺伝子を持つ碇シンジ」
「僕の記憶にもうっすらと残ってるよ……『ゼロ』の人格を作り出すための残忍な実験。
近親配合によってワザと遺伝子の異常を引き起こし、使徒の遺伝子に類似した生体を……!」
そこまで思い出して、『純血』シンジは一つの確信を得た。
その途端、夢の世界に居る筈の己の身に異常な変化が起こり始める。
激しい動悸、青ざめる顔色と唇、掌にかく汗、そして憤怒に血走る瞳……至って尋常でない反応。
「思い出した……思い出したぞ!
『ゼロ』として生成した遺伝子構造体を僕に移植する為に、それを生み出し提供した男。
試験管の中で薬付けになっていた僕の肉体を、舐め回すようにして見ていた厭らしい男。
老研究者達に囲まれて一人、若い男が居たのをうっすらと覚えているんだ。
その男の名前が確か……ゲオルグ! 父さんが、母さんの兄と言っていた人だ!」
「それこそが、可能性の分岐点となる部分さ。
本来あり得ないはずの生命を作り出して次元を惑わせた奴。
倒錯した愛を一方的に母さんに向けて、禁忌の生命を作ろうと画策した奴。
それに立ち向かおうとした碇ゲンドウを目の敵にしてゼーレの後釜を取り込んだ奴。
そして今はこのディラックの海を使って自分の野望を広げようとして、
君の居る世界に割り込んでいる……そういう事さ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。昔の事を思い出したのはいいけど、
今君の言っている事は性急すぎて訳が分からない……」
禅問答のような受け答えばかりしていたのでいつの間にか論点がぼやけたのだろう、
二人は改めて一呼吸ついて合間を取った。
しばらくして二人の動悸が収まった頃、『ゼロ』シンジはその重い口をようやく開く。
「もしゼーレの計画通り無事サードインパクトが引き起こるとしたら、
ゼロという生命体は優先順位の低い存在だった。未完成の鍵だったからさ。
実際僕は自分勝手を引き起こして歴史を変えた。アスカや綾波達を助けたい……その一心で。
結果、無事サードインパクトは回避されて、みんなは無事戦後の世界を生き続けた。
だけど同時にゲオルグも無事生き延びた。実験体の未完成さが功を奏したからさ。
そしてあいつは時を待った、自分の真の願望を叶える為に。
君も身に覚えがあるはずだ……史実を繰り返しているだけの筈なのに、
以前には出会わなかったはずの人間に出会ったり、思わぬ災難に遭遇したり」
(ノヴァスターさんと……イリア三佐の事かな。あとアスカに刃を向けられた事もあったっけ)
「ハッキリとは分からないけれど、そのズレにあいつが関わっているのは間違いないと思う。
同じチルドレンとしてアスカや綾波、カヲル君達が辛い羽目に遭うのは容易に想像できるさ。
どの道そんな奴に弄ばれるくらいなら、せめて抗ってから逃げたって遅くはないだろう?
彼女達にとっての平穏を打ち壊す存在の全てが憎いというのなら、あいつと僕達は同類なのさ」
「つまり……更に敵が増えるという事なのか」
「かつてのゼーレは補完計画の鍵として、初号機の操者である『碇シンジ』を選んだ。
その碇シンジも今では完全に自棄的になってるから、補完計画の鍵としては最早用をなさない。
もし代わりに鍵が選ばれるとしたら……孤独に怯えつつも自己愛だけでそれを補おうとする子供」
「それじゃあ、サードインパクトがアスカ達を依代にして行われる事も有り得るという事?」
「そう、それがチルドレンと呼ばれる子供達に課せられた呪縛と因縁だからね。
それに、もう他人事だからと言って完全に割り切れるほど、
彼女達に対して未練が残っていない訳じゃないんだろう?」
自分自身に絶望はしても、その自分が心を寄せた存在は別物……そう言いたいらしい。
「……そうか。それが僕の逃げ切れない理由なんだね……」
臆病者ぶるだけというのも、それはそれで耐え難い苦痛と思える時もある。
自己尊厳という言葉に縁遠いと思っていたシンジ自身、心の片隅に己の内なる願望を認めた以上、
それを叶えるにしろ振り捨てるにしろ生半可な決心では決着を付けられないという事を悟って、
もう一人の自分に決心を促すべく働きかけている自分自身の存在を知る。
「でも何故? 君にとっては、そのゲオルグって人は父親みたいなものなのに」
「そんなセンチな感情は無いよ。お互いもう、今更父親も母親もないだろ?
それに……勝手に押しつけられた運命よりも、もっと大事な人達が居るじゃないか」
「違いないや。どうせ想い出だけに縋って生きるなら、アスカや綾波達だけを想っていたい」
「そういう事。だけどみんなの未来はみんなで決めればいい。
僕達のように、誰かに勝手に振り回されるのはもう御免だしね」
こういう時に限って、自分自身という存在は実に巧妙に話の妙味を共有する。
互いに慰め合って感傷に陥っているだけなのは、百も承知の上だった。
「……それで、僕はどうすればいいのさ」
「もう、今の俺達にとっては、使徒もゼーレもゲオルグも同類だからね。
僕達の大切な人達を脅かす存在……僕等自身も含めて、敵は増える一方なのさ」
「どうせ逃げるならその前に、出来るだけの事はやっといた方がいいという事か。
所詮僕にはエヴァを乗りこなすくらいしか取り柄がないんだから、それでもいいかな……」
シンジのような非建設的な自己評価は本来世間では疎まれる考え方だが、
そこから自分達なりに目的意識を見いだそうとする意識も残っていた。
同時に、その程度の発想でしか明日を生きる活力が見いだせない自分達がいる。
自分に絶望した人間の筈なのに、それでも往生際悪くすがる物を求める自分……。
(それが貪欲って事なのか)
それでも彼等は自分達が考え出した方法にまでは、異論を持ち出す事はしない。
たとえどんなに自分自身に不信を抱いても、その不信感自体に不信を抱かないのと同じように。
「……元々エヴァはこんな使われ方をされるべき代物じゃなかった。
もっと慎重に、そして皆の期待を一身に背負った使われ方をされるべきだったんだ。
なのにいつしか、自分勝手を補うかのような用い方をする極一部の人間達の発想が、
チルドレンと呼ばれた子供達や、それに関わった大人達を苦しめる羽目になっている。
だからこそゲオルグのやろうとしている事は邪道なのさ。
それでも僕達にはあいつの行動を強く諫める資格なんて無いのかも知れない、
結局はあいつの行動も全ては自己満足の為、僕達のそれと殆ど変わりはないわけだからね……」
『純血』シンジは少し逡巡の表情を伺わせながら、俯きつつ黙って話に耳を傾けていたが、
……………………。
やがて吹っ切れたような笑顔と共に顔を見上げ、頷く。
「……でも、だったらその男を尚更見逃すわけにはいかないよ。
本人達以外誰も望まない悲劇に、アスカ達が巻き込まれるのも見過ごせない。
偽善でも独善でもどうでもいいじゃないか、そいつらに一泡吹かせてやろうよ。
決めた、僕は決めたよ。その決意に乗ってみる、出来るだけの事はやってみるさ」
碇シンジという一介の少年であった過去を全て投げ捨てて、
『ゼロチルドレン』という名前と因縁だけを抱えて生きる決意をしたシンジ。
その過去を投げ捨てる事も叶わず、しがらみを背負って生きる決意をしたシンジ。
お互い利口な選択をしたつもりは毛頭ない。むしろ後ろ指を指されて然るべきかも知れない。
だがそれが彼等自身の堅い決意となり得た以上誰も口を挟めないのもまだ事実。
ノヴァスターだけは或いは、こんな自分には愛想を尽かさずに接してくれるだろうか。
『純血』シンジはふとそんな淡い期待を抱き、そして一瞬後に首を振って自己否定した。
自己否定と自己欺瞞を繰り返してこそ、自分にとっての真実を吟味したというのならば、
それはそれで一つの模索法となり得ている事を、彼らは自然と悟っているのだろう。
「その代わり、もしその話が本当だとしても僕独りで勝手にやらさせてもらうよ。
今更誰と協力できるわけでもないし……無論、仇と狙うのが自分自身なら尚更さ」
「好きにすればいいさ、僕も僕なりの決着の付け方は考えてる」
結局は、自虐的といえるその感情が何も変わった訳ではない。
互いが互いを強く憎み疎んじ、そして排するべきという意志は強固なままに。
その意志さえ常に不動でいられれば叶わない事は何もない……そう頑なに信じている。
「一つ、渡しておきたい物がある」
『ゼロ』シンジはそう言って右手を振り上げると、夢幻の闇より再び現れるエヴァ四号機。
だが今度はその手に、一振りの刀らしき物が握られていた。
「これは?」
「マゴロク・エクスターミネイトソード……別名『次元刀マゴロックス』。
ATフィールドを中和して使徒を切り裂く為にと、アメリカ支部で開発されていた未完成の武器さ。
四号機と一緒に回収した代物だけれど、今の君なら多分使いこなせるよ。
それにさっきの技で、初号機の残り稼働時間も殆ど残ってない筈だろ」
『純血』シンジは一瞬だけその『力』を借りる事に躊躇を感じたが、
「……素直に借りとくよ。アスカもこの空間に捕まっているはずだしね、助けなきゃ」
初号機の手はそれを静かに受け取ると、闇の中へと再び戻っていった。
「その代わり僕はさっきの技を借りよう。確か雷壁滅砕掌……と呼んだね。
流石に電撃を発するのは無理だけど、ATフィールドの拒絶力なら誰にも負けない」
もう一度、今度は左腕をゆっくりと振り上げると、四号機の左腕にみるみる『闇』が収束していく。
四方八方の空間から吸い寄せられるようにして闇が集まるのに比例して、
徐々に二人の周囲に白い光が射し込む。それは元来の虚数空間を象徴する光景だった。
(夢の世界だとばかり思っていたら……黒いATフィールドに包まれた空間だったって事か。
確かにこれだけATフィールドが自在に操られるのなら、雷壁滅砕掌を真似るくらいは簡単かも知れない)
『純血』シンジはその只ならぬ光景と力に、俄に肝を潰し一筋の冷や汗を流す。
「……勝手にしなよ。その代わり、そのボロボロの身体で使いこなせるのならね」
「あと半年くらいなら何とか持つさ。そんな心配は要らないよ」
「僕が心配しているのは、僕自身の手で殺られるまで生きていろよ、って事だよ」
「それはお互い様だろ?」
ふっ……と自嘲の笑みを浮かべ、彼等は最後の伝心を交わす。
「じゃあ……僕はそろそろ行くよ。
使徒を全て薙ぎ払い、ゼーレの補完計画を阻止して、全ての事件に決着が付いた時」
「その時こそは、僕等も本当の意味で決着を付けなければならないだろうさ。
『アヌンナキ』との因縁を断って、エヴァを悪用する者は全て根絶させなければならない」
「アヌンナキ」
「その名前を聞きつけた時には、迷わず全力で立ち向かうという決意だよ。
いずれ君も分かるさ、使徒やゼーレとの諍いも、全ては『アヌンナキ』との因縁に過ぎないって事をね……」
その言葉を最後に、彼我の距離は見る見るうちに離れていく。
『ゼロ』シンジは意味深な言葉を投げかけておきながら、その全てを答える事なく、
もう一人の自分の意思に全てを賭けてその姿を再び己の闇に包み隠した。
「ま、待ってよ! まだ何か隠している事があるんじゃないのか!?
答えなよ、君は何を知ってるのさ! 何故、自分で戦わないのさ!」
だがその答えに応える者は既に無く、そこには膨大に広がる白い空間だけが虚しく残った。
「……そうやって、また逃げるのか……」
なりふり構わず逃げる事にさえ、最早疲れ始めていた『純血』シンジの呟きと本音だけが口を突いた。
そうして、意識はまたも闇の混濁に巻き込まれるようにして堕ちて行く。
・
・
・
「はっ!」
まだ朦朧とする頭に、額を押さえながら渋い表情でシンジが目を覚ます。そこは電源を最小限以外全て落とし、暗く灯された室内灯だけが照らすエントリープラグ内部。
自分がいつの間にか眠りに落ちていた事に気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「夢……だったのか?」
シートからゆっくりと起きあがったシンジは、モニターの電源を灯す。辺りには相変わらず真白い光景だけが映し出され、身動きの取れない現状が露になる。
シンジは溜息を一つこぼすとプラグスーツの左手甲に表示されている、生命維持の残時間表示を伺う。
「……残り十一時間か。でも残り時間が三十時間分以上あった筈なのに、
丸一日分寝ていたとは思えないし……」
エンハンスドエナジーシステムの計器類を確かめると、やはり使った痕跡が残っている。
そして更にシンジを驚愕させたのが、初号機の右手が掴んでいる代物だった。
「マゴロク・エクスターミネイトソード! やっぱりあれは夢じゃなかったのか。
前にリツコさんに資料だけは見せてもらった事はあるけど……まさかエヴァの武器が日本刀だなんてね」
その刀を試しに抜くとすれば、初号機を起動させなければならない。しかし生命維持モードの残時間十一時間は、稼働時間に換算すればおよそ三分強。以前は自力で抜け出る事の叶わなかった空間に於いて、今初号機を再起動するのは得策とは言えないだろう。
しかしシンジは、それを打破するのが右手に握られた武器なのだと信じてみる事にした。雷壁滅砕掌を既に使ってしまった初号機にはいずれにしても、最早これしか脱出の手掛かりはない。
「ATフィールドを斬る事が出来るから別名が『次元刀』なのか。……やるしかない」
しかし、たとえ刀を振るうにしろ只振るっただけでは、この特殊な空間に於いて有効だとは思いにくい。シンジは必死に頭を働かせて、この刀の一撃で最大の効率を叩き出せる方法を思索する。
(でも本当に、只の刀がATフィールドを斬られるんだろうか?
それとも何か別の作用を働かせないといけないんじゃないたろうか?
もし失敗すれば僕は初号機ごとこの空間に取り残されてしまう。
……前のように暴走に頼るのは危険が伴うし、今度はアスカもこの空間に捕まってるんだ。
失敗は許されない一発勝負、その為にはどうすればいい?
多分この空間には何処かに出口があるという訳じゃなくて、出口は自分で作る事が出来るはず。
だったら無理矢理出口をこじ開けるようにすればいい筈だけど……)
生命維持装置を働かせたまま、シンジは眠ったようにひたすら熟考を続ける。
十分……二十分……三十分……稼働時間を削ってまでも、より確実な方法を考え抜いて脱出を成功させようと言う気概を自己に促しているようでもあった。
(こんな時の為の雷壁滅砕掌は、さっき怒りに任せて使っちゃったからなぁ。
代わりになる物があるとすれば……そうだ、久々にやってみよう)
「初号機、再起動」
最早手慣れた動作で次々と計器類を操作すると初号機は再び、その怪しい瞳に鋭い眼光を取り戻す。だがこれでシンジのに命も三分間というリミットが付いてしまう事になる。
「多分三分も要らない。出し惜しみしないで、一撃に全力を注ぎ込んで斬り付けないと。
基礎は出来ているってノヴァスターさんも言っていた『最後の一つ』を使えば……!」
シンジが決断するや否や、今度は迷う事無く迅速にインダクションレバーを操作し、マゴロックスの鞘を左手に持ち替えるとその柄に右手を掛ける。初号機の構えはさながら任侠映画や時代劇で見かける「居合い抜き」の構えであった。
だがここからがシンジ独自の工夫の見せ所。敢えて左掌側一点にATフィールドを収束させて、柄の中にエネルギーを充填させる。一瞬だけ刃を抜いてその様子を確かめると、純銀に輝く刃は瑠璃色を纏い、その不可思議で妖艶な輝きに一瞬魅せられそうにさえ思われた。
その戸惑いを打ち消すように、再び刃を鞘に収め目を閉じると、数呼吸の間平常心を保つべく安静に装う。
それは自分の目的を完遂する為であり、裏を返せば後がない状況を脱出する為の死活の方法。何が何でも目的を果たそうとするその風体は、今までのシンジにはない強い決意の現れでもあった。
「………………いっけぇぇぇーーーーーーッッ!!」
超高速で鞘を走り抜刀された刃が、暗中に一閃の光明を輝かせた。
「……行ったみたいだ」
シンジはもう一人の自分の成功を知ると、闇の中に仕立てられた椅子にでも腰掛けるかのようにして、その身をゆっくりとしなだれさせ背もたれる。
身を落ち着かせたのを見計らってか、シンジの両脇に何処からともなく、一衣纏わぬ姿の二人の少女が現れる。少女達はまるで主人であるシンジに傅くかのようにシンジの両腕に妖しく抱き付くと、二の腕に向かって愛撫するように口付けを始めた。だがその端正な裸身は闇の中では煤けても見え、その少女達が儚い虚像である事は明白だった。
それでもシンジはその光景に何の疑問も抱かず、右腕に愛らしく口付けを続けている少女の鮮やかな栗色の髪に手を梳き込みながら、少女の耳元に自分の後悔を優しく囁いた。
「結局、今の今まで僕が学んだ事は、自分の気持ちに嘘を吐くのが一番辛いって事なんだと思う。
求めたいという気持ちを押し殺して、愛されたいという気持ちをかなぐり捨てて、
でもそんな事をしてしまうと、最後には僕の中に何も無くなってしまったんだ。
だから僕は自分だけを罰しようという感情だけを拠り所にして、これを自分の基準にすげ替えた。
あの時の僕は、自分自身を完全否定する要素が欲しかったんだと思う。そうでもしないと僕は、
客観的に自分を見つめる瞳さえ見失って何を基準にして生きるべきかさえも分からなかったから。
でもね、全部自分が悪いと一度決め込んでしまえば後は何もかも楽だった。
僕を最低の基準だという指標が出来てからようやく、君達との距離感がハッキリ掴めたんだ。
そしたら君達がとても遠くに感じて、余計辛く感じてしまったけれどね。……当然か」
栗色の髪の少女は、顔を顰めて語るシンジの表情をしばらく見つめ続けていたが、やがて感情が高ぶったのか今度は自分がシンジの耳元に囁くようにして、可愛らしい唇を動かせる。
「何でもかんでも内罰的に考えるのって、結局自分が辛いだけじゃない。
ただ無闇に自分がへりくだったって、誰もシンジを振り返ってはくれなかったじゃないの」
「僕の考え方が間違っているかとか正しいかとか、そういう考え方にはあまり意味は無いと思ってる。
それよりも、僕を絶対的に動かすプライドみたいな物が欲しかったんだ。
自分を押し殺して虐げるのがプライドだ、なんて言ったら君は鼻で笑うだろうけどね。
だけど、周囲の考え方に押し流されて生きるんじゃなくて、僕なりに僕を突き動かす理由、
これさえあれば自我を貫けるんじゃないかっていう自信や確信がどうしても欲しかった。
生き抜こうとする理由、エヴァで戦うべき理由、他人を愛したいと思える理由、
とにかく理由と呼べる肩書きがないと、僕は自分が生きている事への保証も持てなかった」
自分の弱点や欠点をひたすら開陳するのはシンジにとって一種の懺悔でもあり、また不思議と爽快を得る倒錯した行為でもあった。だが実際は誰も聞いてはいないその独白で尚更自分を責めても只の悪循環でしかない。いつか本物の彼女達に対してけじめを付ける為の前準備……その位の用途しかない、冷めた自覚の元に呟く自白のような物であった。
すると今度は左側の二の腕を愛撫していた蒼色の髪の少女が、小さな唇で問い掛ける。
その赤い瞳はそんなシンジを更に詰問するような、強い眼光と意志に満ちていた。
「人は、誰かに理由や保証を与えられて生きるのではないわ。
自分が真に求める物のために動いて、自分が真に守りたいと願った物のために働くの。
でも碇君の考え方は、他人を基準として自分の存在を構築しているに過ぎないわ。
それでは誰も愛せない。今の私達のように、妄想で彩られた幻覚を愛するしかないのよ」
「……それも分かってる、いやむしろ分かってて足を踏み入れた事なんだよ、きっと。
どんな理由を付けたって、僕が逃げている事を認めなきゃならないのも分かってる。
でも逃げる事が駄目だっていうのなら、逃げずに済む理由も一緒に欲しくて……、
駄目だ、どうしても理由とか建前とかそういうのがないと僕は行動できないみたいだ。
自分の作り出した幻覚にさえ言い負かされるんだから、僕の建前もたかが知れてるのかな……」
暗黒の空間に一人きりで長く幽閉され続ければ、当然普通の人間は精神に異常をきたす。シンジは長い間この虚数空間に己を捕らえている間、唯一心を紛らわす方法としてアスカとレイの幻覚を妄想し、二人を相手に他愛のない独り言を呟きながら時を過ごしていた。
それがいつからか、幻に過ぎないはずの彼女達が自分を諫め始めた。それが自分の奥底に潜む本心が言わせているのかどうかは分からなかったが、実際の二人がシンジを咎めるに相応しい言葉遣いと諫言を使いこなす為に、余計にシンジの心に強い後悔を促す。
だからこそシンジは幻と知りつつ、二人の幻影をひたすらに愛でた。その虚しい自慰が自分と生とを繋ぐ唯一の絆でさえあった。
スゥッと大きく息を吸い、一つ頷いて見せたシンジの表情には暗い翳りがあったが、同時にシンジの心の中に生まれつつあった強固な決心を彼女達に静かに言い聞かせる。
「……それでも僕には自分に出来る事、やらなくちゃならない事がまだ残ってる。
せめてそれが終わるまででいいんだ、もう一人の僕が目的を果たすまで、
幻でも妄想でもいいから、もう少し……もう少しだけ僕の側にいて欲しい」
シンジの心に唯一残っていた不動の決意、それは既にもう一人の自分に託す事が出来た。後はそれを最後まで見守る事が出来れば、悔いはない。その一念を信じられるからこそ、シンジは虚しい自慰に依存しながら生きて来られた。
「……碇君は何を願うの?」
「違うよ綾波。僕の身体はもう『碇シンジ』でも無ければ、
ゲオルグが望んだ『ゼロチルドレン』にもなり損ねた完全な出来損ないさ。
どうせどっちつかずな存在なら、せめて利用できる物は利用したい、それだけなんだ。
それが終わった時は多分、最初に僕が願った通りの結末になると思う。
……初めから決められていた結末に行き着くだけなのかも知れないけどね」
「でも自分自身を憎みながら独りぼっちで戦うのは……辛いわよ、シンジ」
「それはアスカも一緒だろ。でもそれが居たたまれなくて、向こうの僕は戦っているんだよ。
大丈夫、僕以外の『碇シンジ』という存在は、そんなにヤワじゃない」
「「?」」
「最初から、僕は独りきりなんだという喩え話だよ」
少し話し疲れたのか、シンジは再びその身体を背もたれに沈ませる。水に沈んでいくかのような落下感を全身に受けながら、気が付けば両脇に控えていた二人の幻は姿を消している。
途端に身の凍えるような寒さを体感するシンジは、虚空を見上げながら静かに呟く。
「一つだけ彼我の間で確約した真実があるとするなら……、
僕が一番側にいて欲しかった二人を助ける事が、罪を償う事だと勝手に信じて込んでいる事。
僕が本当に自分の願望の事しか考えていない独り善がりな人間だとしたら、
自分の欲望を叶えるために、なりふり構わず戦うのなら……いずれにしろ彼女達は助かるよ。
だから何も心配はしてない、僕の願いはきっと叶うと信じてる」
しかしその為にはシンジはもう暫くの間、この暗黒の空間で無駄に時を過ごさねばならない。それは彼にとって何よりも辛い孤独な半年間になる事だろう。
新たなる驚異が襲い来るその日まで、シンジは再び孤立という名の闇に囚われ続ける―――。
三十一章中編、お届けしました。
……終わってみると、今までで一番書きにくかった章でした。
一番書きたかったエピソードを引っさげていざ突入した筈が、逆に混乱してしまい、実際書きたかった事の半分も書けなかった気がします。でもこれ以上書くと冗長なんだろうなぁ……。
以前も書きましたが、この作品にはシンジが二人登場します。
そしてどちらのシンジも、偽物でも無ければオリキャラでもありません。いささか『ゼロ』の方はシンジっぽくないように見えますが、それは彼が望んで生み出した雰囲気であって、私も口調の表現などには常に悩みます。
(「俺」という一人称は、やはりシンジには到底似合わないなあ……という訳で変えました)
何故シンジが二人いるのか。それは勿論「碇シンジ」が二人必要だったからです。
「悔恨と思慕の狭間で」はいわゆる「勧善懲悪劇」と「映画補完」を両立させたような展開を目指してます。もっとハッキリ言ってしまえば、二つのSSを同時進行させているような状態です。
『純血』シンジと命名された方のシンジは「勧善懲悪劇」の、『ゼロ』シンジと呼ばれている方のシンジは「映画補完」に重きを置いている主人公だと説明すると分かりやすいでしょうか。そしてアスカやレイ以下の面々も同時に、それぞれの世界観に於いての使命を全うするために各二人ずつ登場しているのです。
今回は少し堅すぎた感もありますが、私なりに「碇シンジ」同士を対話させてみました。
私はシンジの内罰的と呼ばれる性格には特に是も非もないと思っています。勿論悪い部分もあるでしょうが、同時に認めるべき点もあると思っているからです。
もし「碇シンジ」が現実に実在するとしたら、この世に何百万人といる中学生の中でどれだけ奇異な存在なのでしょう。私は、ごくごく平凡で平均的な存在に留まるだろうと思ってます。シンジより不幸な人間だって沢山居ます。シンジより曲がっている子供だって沢山居ます。そんな中で、彼だけを特別持ち上げて訴える物など一体どれだけあるのでしょうか。
シンジは、アニメーション作品の主人公としては平凡過ぎたのかも知れません。そんな彼に、この作品で活躍してもらうには最低限のインパクトを持たせる必要を私は感じました。その為の強い内罰癖であり、お互いを切磋琢磨する為に用意した二人のシンジだったのですが……やはり難しいです。
後編は、今回の話をそのままアスカに照らし合わせたような展開になると思います。
卵が先か鶏が先か……これでどっちが先に教えた事になるんだ、あの技?(笑)