しずしずとした撫子仕草が実に様に合いながら、今年十八になる加瀬ミヤコは客人にそっとお茶を差し出す。
そばかすの残る笑顔は決して美人と喩えられる程美麗ではないが、生来の気立ての良さが奏してか何処に嫁がせても恥ずかしくない、慎ましい立ち振る舞いの持ち主であった。
「有り難う、いただくわ」
対して粗茶を差し出された彼女の方は、万人が認める逸脱した容姿の持ち主であった。グラビア雑誌から切り抜いてきたような端正な顔立ちと白磁のような柔肌、日本人離れしたスリムな体格、そして西洋の血が色濃い事を示す紅毛碧眼が近所でも噂の若妻は、先日二十四になったばかりの女盛りの女性である。
客と言っても、彼女は既にミヤコとは旧知の仲。週に一度、道場に立ち寄ったついでに、裏の母家で暫く時を潰すのが彼女の日課のような物だった。
道場とは、この家の離れを改造した二十坪程の小さな建物を指す。当初は特に活用する術もなく、時折剣道をたしなむ家主の気紛れで使われる程度だったが、現在では他人に半譲渡した形で、格闘技道場として盛況している。
そして客人である彼女は、夫が本業の合間に道場の師範代を受け持っている事から、家主の孫である少女とも遠からぬ縁となっている。彼女の夫は生憎長期の出張(と周囲には話している)の為長らく道場を不在にしているが……。
この格闘技道場はその規模こそ小さいものの、家庭環境に恵まれない子供達を、現在の館長である師範の恩情により薄謝で通わせている事で有名になっている。子供達の健全な心身の育成の為に、格闘技を介して互いの交流を深めようというその経営方針は、元々心理科医の卵である彼女の提案から来ている。
実際保育に熱心な彼女は子供達からの人気も高く、先程も少し道場を立ち覗いていただけで子供達に取り囲まれ、身重の身体を振り回される形で散々に付き合わされていた。
「そんな身体で子供達と張り合うなんて……身体に障りますよ」
「あの年頃は遊びたいさかりなんだから、あれくらいで丁度いいの。身体の方は心配ないわ」
「……今どれくらいですか?」
「五ヶ月。予定日は来年の五月よ。そろそろマタニティグッズも買いに行こうかと思ってるの」
初産であるにも関わらず彼女はさして不安がっている様子もなく、少し目立ち始めてきた下腹部をさすっては、やがて生まれてくるであろう我が子を大事に慈しむ。慈母としてのそんな些細な動作が、同性であるミヤコの羨望の視線を、嫌が応にも惹きつけていた。
「じゃ、じゃあ今度例のショッピングセンターに御一緒しませんか。
開店十周年記念に加えて、クリスマス商戦中だから今安いんですって」
「そうなの? 夕食の買い物もあるから帰りに寄っていこうかしら」
若々しく歓談に時間を潰す女性達の傍ら、隣部屋の書斎ではミヤコの祖父がぐうたらな寝そべり方をしながら、午後のワイドショー番組を暇そうに眺めている。昔から彼は長時間テレビの前でゴロゴロと時間を潰すのが日課のようで、お陰で離れ屋が余所手に回ったような物であるが、家主である筈の当人は何処吹く風だ。
「もう、お爺もゴロゴロとしてないで、他に何かしたらどうなの!?」
ミヤコのこんな口喧しい小言も毎日の事なので、動じた様子は見られない。
「ミヤコも口うるさく言い過ぎるのよ。お爺ちゃんはあれが一番くつろげるんだから、
若い身空で文句ばかり言ってないで……あら明日香さん、いらっしゃい」
そう言って台所から出てきたのはミヤコの母。御年四十八の彼女は中年太りが可愛げな、見た目通り恰幅の良い女性である。加瀬家は代々女系家族で、ゴロゴロしている祖父も元は婿入りの身だったが、長年連れだったミヤコの祖母が数年前に逝去してからはこのぐうたらぶりである。
庭の手入れで濡れた手をいそいそとエプロンで拭いながら、ミヤコの母も腰を下ろす。
「来ているならそうと仰ってくれれば良かったのに」
「いえ、夕食の準備もありますのですぐに帰る所でしたから……」
「えーっ、明日香さんもう帰っちゃうの? 今来たばかりなのに」
「こらミヤコ、客人に我が儘言うんじゃありません。
すみません、せっかちな娘で」
女三人姦しき……とはよく言った物で、結局ミヤコの母の乱入で話題は更に加熱する。
「そう言えば、旦那さんはまだ出張から戻らないの?」
突然話題が夫の事にすり替わり、彼女は一瞬虚を突かれたが、経緯を正直に話す。
「ええ。多分この子が生まれる頃まで帰れないと思います。何かと忙しい人ですから」
「心配だねえ……身重の奥さんを残したままじゃ旦那さんも気が気でないだろうに。
旦那さんはあれでしょ、『あぬんなんとか』とかいう連中の生き残りを追って、
今でも世界中を飛び回っているっていうじゃない。大変ねえ……」
「『アヌンナキ』でしょお母さん、この間あれだけ教えたのにもう忘れたの?」
ミヤコは物覚えの悪い母に眉を顰めながら、それでも丁寧に言い直す。その名称は三年程前に、世界中で大々的に報道されたテロリスト集団の名。残虐と大罪で幅を利かせた彼らを知らぬ者はまず居ない。
「でも凄いわよね、あんな危険な相手に対して凄腕の活躍だって、あの頃は連日のように報道していたもの。
私そんな人が身近にいるなんて、本当、最初会った時は感激したんですから」
妻である彼女にとっては内心複雑ではあるが、夫の人柄の良さは友人を多く育んでいるのは確かだという事は良く分かった。尤もそれは彼女自身の隠れた功でもある。
「あの人はそれが生涯を掛けた仕事だって、日頃から語ってますから……」
彼女の重い言葉に、二人の親子は自分の発言が軽率だった事を恥じる。
「あ、そんな心配そうな顔しないでください。夫はきっと元気でやってますから。
少しくらいの事でへこたれる様な人間じゃありませんし、それに……」
もう一度、慈愛の籠もった手のひらで、我が子の育つ自らの腹部をそっと撫で回す。
「この子の元気な顔を必ず見に戻って来るって、信じてますから」
「……偉いわねえ、まだ若いのに」
気だての良い彼女に、つい涙腺を潤ませるミヤコの母。
「やだ、湿気た話になっちゃいましたね。すみません」
「いいのよ明日香さん。そうしたら、せめて元気な子供を産んで、旦那さんを安心させてあげないとね」
「はい」
彼女がふと手元の腕時計に視線を落とすと、今朝合わせてきたばかりの針は四時四十二分を指していた。
「いけないもうこんな時間なの。夕食の準備が遅れちゃう」
一家六人の食事は、今晩は彼女の担当だった。遅れても口うるさく小言を言うような醜悪な家族を持っていないのは幸いだったが、嫁入りの身としては怠慢であってはならないという、彼女自身の戒めというものがある。
「そうね、いつまでも引き留めていられないわ」
「明日香さん、また来てくださいね。今度一緒に買い物しましょうね」
二人は身重の彼女を慎重に玄関先まで見送り、彼女もまた丁寧に頭を下げつつ玄関の戸を開く。
「お世話になりました」
慎ましい彼女の様を見て、つくづく出来た夫婦だと二人は常に感心するのだった。
「あれから半年、か……」
夕焼けに染まりだした茜色の空を見上げながら、彼女はその華奢な背に哀愁さえも漂わせつつ帰路を歩む。
我が身を寂しげに照らすノスタルジックな陽光に打ち負けじと、
「待っている方にとっての一年は、結構長いんだゾ、このバカ亭主っ」
遠い異国の地に思いを馳せて、彼女は夫に可愛らしく毒をついた。
「それに、みんなも待ってるんだから、必ず戻って来るのよ。
無事でいてくれればそれで十分だから、だから必ず、私の所に戻ってきてよね……。
ちゃっかり子供まで作っておいて、もし帰ってこなかったりしたらぜーったい承知しないんだからっ!」
一抹の寂しさに潤んだ瞳で空を見上げ、今は遠く離れた最愛の夫に思いを馳せる。
「必ず帰ってくるよ」と約束した時の凛と、した彼の表情を思い起こしては恋い焦がれ、待ち焦がれる。
まるで、ウブな年頃だったあの時の、純な愛情のままに。
―――西暦2025年12月。世界は概ね平和だった。
「一つの物事に応用が利くようになれば、誰にも負ける事はないさ。
つまり雷壁滅砕掌ってのは、君自身の成長度合いを問う技だからね」
シンジは襲い来るソニック・グレイブを紙一重で右に避けながら、ノヴァスターの言葉を脳裏で反芻していた。
対して弐号機を操るアスカの形相が、憤怒を露わにして操縦桿を右に左に振り回している。イリアに基礎から教え直され、理に微細まで忠実な筈のアスカの攻撃は、それでも尚正確にシンジの操る初号機を狙っているのだが、先日の模擬戦闘訓練とは一転して攻撃はことごとく虚空を泳いでいた。
「なんで……なんで当たんないのよっっ!」
既に頭に血が昇っているアスカと、その真後ろで黙々と電算処理の作業を手伝うレイ。不規則に振り回されているシミュレータプラグの動きに少しだけ鬱陶しそうな表情をしているものの、レイの視線はあくまで冷静だ。
つまり、先日のシミュレート戦闘訓練からたった二週間の間に、シンジの『纏繞呑吐(てんじょうどんと)』は一応の形になっていたのである。連日連夜に及ぶシンジの、特訓に対する意気込み(それは決してノヴァスターの意気込みだけではない)は半ば執着的でもあったが為に、ジークンドーは確実に彼の糧となり始めていた。
シンジの天分の才とは将に、技能自体だけではなく、その飲み込みの早さにあると云えよう。
そして彼は、ノヴァスターの教えを忠実に守る事の確かさを噛み締めながら、その教えを思い起こす。
「ロボットにも三原則があるように、雷壁滅砕掌にも三つの基礎原則がある。
前に教えたよな、雷壁滅砕掌の兼ね備える三つの特性」
「斬る、撃つ、当たる……でしたっけ?」
「ああ。だけどそれと同時に、あらゆる状況に適応出来るように、
臨機応変に形態を変える技でもある雷壁滅砕掌は、融通の利かせ易い特性を持っている。
たとえば……」
ノヴァスターは自分の掌をシンジの額にそっと押し当てる。
「自らの肉体ごと相手に突撃し、一撃必殺の掌底を押し当てるのが『当たる』特性。
そして、ここから更に派生した二つの形態も存在し、それぞれ『斬る』と『撃つ』をより強調している。
けどその内の一つである、『雷僻斬鉄波』は独学で学びつつあるようだから、これは後回しだね」
相変わらず腰砕けを起こしそうなネーミングセンスに愕然としながら、シンジはそれでもノヴァスターの鞭撻に耳を傾ける。……他に選択肢がないのかなぁ、と自分の心の中で幼げな葛藤を起こしながら。
「まあそう呆れた顔をしなさんなって。使える技だって事を分かってくれればそれでいいよ。
という訳で、今日は残りの一つのコツを伝授してあげよう」
ノヴァスターは柏手を一つ打つと、そのまま両手を頭の後ろに振りかぶる。
「これでアスカをビックリさせてやるんだ、って意気で念じてみな」
あくまでアスカを打ち負かすのではなく、「度肝を抜く」ところを強調して訴えるその表情が、悪戯っ子のような笑顔を振りまいている。そんな破天荒な彼に、シンジはやはり苦笑してみせるしかなかった。
この何とも棘のない彼の言葉一つ一つに、自分にない温もりを見て取り、そして羨んでしまうのだから。
自分が既に忘れて、捨て去って久しきその感情に……。
「先ずは、横に振りかざす攻撃を待つ」
ノヴァスターの教訓を自然と口ずさみ、アスカの隙有る攻撃をじっと待つシンジ。
対してのアスカは、防戦一方であるシンジを更に攻め立てるべく、仮想に作られたビル群を撫で切りにしながらソニック・グレイブを右往左往に振り回している。だが、がむしゃらに攻め立てるアスカの内心は、外見の様相とは裏腹に不安に苛まれていた。
先日と同じ防戦一方の筈の相手なのに、その攻撃は先程から有効打を未だに見出していない。手も足も出ないという意味での防戦一方とは明らかに違う今の初号機の雰囲気に、むしろ攻めている方のアスカが気圧されていた。
アスカとて、只惚けてこの二週間を過ごしていた訳ではない。二週間後に改めて模擬訓練を想定していたイリアに手取り足取り、攻防術を叩き直されていたのだ。それがアスカの自信を生半可助長していたが故に、反してアスカは今言い様のない恐怖に駆られてしまっている。
「ラングレー。」
冷淡な表情で、モニターの向こうのイリアが一言アスカの名を呼ぶ。
するとアスカの表情が途端に険しくなる。上官の苛立ちがその一言で理解できてしまったのだ。
「……ふうう」
連撃を止めたアスカは、やや間合いを置いて一呼吸ついた。グレイブを握り直すと、冷静さを取り戻した頭脳が一点、初号機の頭部に狙いをすませる。
アスカにはまだ勝算があった。初号機が今手にしている改良型プログナイフ「ツヴァイ」単身で弐号機の槍の間合いに挑んでくる筈がない、故にシンジは必ず「雷壁滅砕掌」を使うという確信があった。すると要は、初号機の右手を自分の間合いに入れなければよい。
まして、シミュレータといえど雷壁滅砕掌の発動には充電分の時間がカウントされる。当然アスカとしてはその時間を与えるつもりはない。
やはり飛び道具を使わない限り、右手を警戒されているシンジ側にこの間合いの違いに打ち勝つ術はないだろう。万一懐に飛び込んだとて、ナイフの一撃などたかが知れている。有効打の必要ない模擬訓練だからこそ、槍と小刀の違いも特に問題視されず、計画者のイリアは今も不敵に微笑んでいた。
(この戦闘訓練自体には、始めからさしたる意味などない。
ラングレーが勝とうが勝つまいか、その状況に応じて展開が二択に広がるだけだ)
冷めたイリアの碧眼が、それでも今回の訓練はアスカの勝ちだと踏んでいた。
均衡は、初号機がプログナイフを弐号機の眼前に投げ付けた事で打ち砕かれる。
ここでアスカは一つの失敗を犯した。投げ付けられたナイフを槍で叩き落としたのだ。
それは技術の高いアスカの器用さの表れでもあったが、戦闘中の動作としては余計な手間であった。
槍の体勢を立て直したとき、アスカは頭上を跳躍する初号機の影に気が付く。
「そうは……いかないわよ!」
初号機の右腕には既に亜麻色の雷光が光っていた。ナイフで虚を突いて頭上からの跳躍攻撃……全てはアスカの読み通り。そして、それはアスカが間合いを制したことをも意味する。
「もらったあっ!!」
シンジの行動を読んでいたアスカが、初号機の胴を薙ぎ払うようにグレイブを振りかざす。一方初号機のエンハンスドチャージは完了しないまま、弐号機の間合いに無謀にも飛び込んでいく。
「勝負、あったな」
イリアが、さもつまらなそうに呟いた一言が、その直後に覆った。
初号機は、右手を突き出すことなくそのまま姿勢を地に屈めたのだ。
シンジにとってアスカが槍を縦に振るか、横に振るかは一種の賭けだった。縦に振られた場合、それを右手で受け止める事で場の状況を膠着させる事は可能だったが、それでは只の仕切直し、シンジの勝ち目は薄くなる。
だが、アスカは槍を横に振った。ナイフを叩き落とした行動から移行しやすい、横薙ぎの動作を選んだのだ。
その槍が振り切る直前に、弐号機に攻撃を叩き付けずに地に伏せた初号機の動きを、アスカの動態視力は一瞬見失った。意表を突いた初号機の動きは、まるで眼前から完璧に消えたかのようにさえ映っただろう。
その瞬間、弐号機の顎を強烈な掌底が突き上げる。稲妻を伴わない、左手による只の掌底だったが、弐号機の体勢を崩すのには十分だった。
「まだ、まだあっ!」
尻を付きそうになりながらも、辛うじて踏みとどまった弐号機もさるものである。相手が懐に入ってくるのだけは何としてでも阻止しようと、槍を前面に突き出して初号機を牽制する。
だが、勝負は既にチェック(王手)が掛かっていた。両手を合わせ頭の後ろで大きく振りかぶった、初号機の両腕が振り下ろされたその瞬間に、アスカは自分の胸元に襲い来る碧色の雷光を見る。
これこそが『撃つ』特性を前面に押し出した、雷壁滅砕掌の飛び道具版『雷霹貫殺翔』。間合いの差を無視できるシンジの切り札だった。
「……チッ」
決着が付いたのに合わせて、誰かが忌々しそうに呟いていた。
ミッションを終えた後、イリアはレイとアスカの二人をブリーフィングルームに呼ぶ。
シミュレートの結果を完全に失態だと思いこんで、顔を伏せて肩身の狭そうな表情をしているアスカ。無表情だが時折アスカの顔を窺う様子を見せるレイ。その二人の後ろで気が気でない落ち着かなさを見せるミサト。
そしてその三人を眼前にして眉一つ動かさず三人を睨み通しているイリアは、沈黙という名の圧倒的な威圧感を漂わせ、司令官相応の厳格さと畏怖を三人に植え付けているかのようだった。
「ラングレー……君は私の教えを忠実に守り、間違いのない戦術を取った。それはいい。
むしろ今回のシミュレートは、あの大道芸紛いの初号機の技に讃辞を送るべきなのかも知れん」
淡々と語るイリアの手元は、いつからか彼女が常備している指揮棒でペシペシと自らの掌を叩いていた。口調とは裏腹の、手元の焦れたような癖がアスカの気を引き、殊更に不安を掻き立たせる。
「しかし、だ。今回のシミュレートで君の、器の底がある程度見えたのも確かだな」
案の定皮肉を込めた叱咤を聞き届け、アスカの肩が震える。常に気丈であろうとするアスカの気質を、逆に程良くコントロールして見せるその技は、彼女が強く意図している物ではなく、元来から持ち合わせている才能とも等しい。
「事前の努力は認めよう。だが私は、実戦に役立たない力を重宝するつもりはない。
……ところで葛城一尉」
まるで戦力外通知にも等しい酷な言葉をアスカに投げ捨てると、一転してミサトの名を呼ぶ。
俯いて肩を戦慄かせているアスカに気が引けながらも、ミサトは敬礼をしつつ一歩前に出た。
「はい」
「適格者選出専門部、通称『マルドゥック機関』を知ってるな?」
「ネルフの一員である以上、当然です」
「そのマルドゥック機関が先日、アメリカでフォースチルドレン候補生を選出した」
「! 本当ですか?」
無意識のうちに、喜びとも驚きとも付かない返事が口を衝くミサト。
本来なら『戦力』が増える事に喜ぶべきなのだろうが、さらに使徒戦線に送り込まれる事になる子供が増えるであろう事と、今のアスカの追い詰められつつある心境を考えれば、両手を挙げて喜べる筈もない。
「フォースチルドレンは現在アメリカのネルフ第弐支部に於いて、その潜在特性を調査されているとの報告だ。
故に私は明日より、碇司令と共に現地に赴き、彼をネルフ本部に引き取る為の交渉に入る。
本来なら先方の報告と返答を待つのが筋だが、最前線の事情ではそうも言ってられぬからな」
「司令も直接赴くのですか」
「貴重なチルドレンだ。労力は惜しめまい?」
とは言え実子のシンジの時と比べれば、大した待遇の差だと思うミサトは内心面白くない。シンジに気兼ねしていると言うよりは、イリアの言葉の裏に不透明な物を感じた為だと言えるのだが。
一方ミサトの懐疑を余所に、イリアはアスカの肩に手を添えてその耳元にゆっくりと語り掛ける。
「ラングレー……私は君に戦力外通知するつもりなどは無いのだ。
己を示したければ、私の居ない間にそれ相応の努力と結果を出して見せよ。
そうすれば、破天荒なサードや新米のフォースにも示しが付くのだ……私の言葉の意、分かるな?」
「は、はい!」
「宜しい。では葛城一尉、我々の留守の間は君にネルフの全権を一任する。
万一の時は、私と碇司令の代理として恥ずかしくない指揮を執ってくれ。
そしてレイ=アヤナミ。君もラングレーを良く補佐して尽くすように」
「了解!」
ミサトの敬礼に合わせ、三人は快活な返事を返す。その返事に気をよくしたのだろう、イリアは直属の部下を伴って悠々とルームの外に立ち去っていく。
それを見送るアスカの胸中には複雑な気概ばかりが渦巻いていた。
イリアが立ち去った後のブリーフィングルームには、常に奇妙な静寂が漂う。
「ねぇ、レイ?」
それを打破するように、わざと裏返ったようなミサトの声。
「……はい」
「この後の予定はあるかしら?」
「特にありません。この後の自宅待機を申し付けて下さい」
「う〜ん……その自宅の事なんだけどさ。
今度レイのマンション、この街の新規築工事計画の対象になって、取り壊される事になったのよ。
元々旧世紀からの古い建物だったし、迎撃戦にも差し支える位置にあるからって、
それでイリア三佐があの土地を遮蔽物のない更地にしようって言っているのよ」
「……引っ越すのですね」
「ま、端的に言えばそうして欲しいの。
で、さ……モノは相談なんだけど、もし良かったらウチに来ない?」
「ミサト、それどういう事?」
この話題に初耳のアスカが、聞きただす。
「いーじゃない、元々女所帯なんだし、ノヴァスター君も一々二軒廻るよりその方が楽でしょうしさ。
それに碇司令が、レイの生活費分は特別手当でくれるって言うしさぁ」
「……別に、レイならいいけど」
いつもなら良かれ悪しかれそれなりに騒ぐ筈のアスカが、神妙な顔で合意の意を示す。それをしないのは、姉妹喧嘩同然の険悪な雰囲気がまだ生きているからに他ならない。
ミサトの側としても、ヘラヘラとした顔で金の話を下世話に語っている反面、それなりの算段はあった。最近身の上に良い事のないアスカの心身に余裕を持たす為という、自らが誇るべき保護者意識の為である。
そしてその節介が薄々判っているのだろう、アスカのミサトを見つめる目線が座っていた。
「それじゃ、決定ね。この後私もすぐ仕事あがれるしさ、善は急げって言うし。
ノヴァスター君にも頼んで早速レイの引っ越しでもしましょ」
一人で勝手に話を進めて盛り上がる時に限って、要りもしない迷惑な節介を焼く。ミサトはそういう女なのだと、アスカの目線が暗に訴え続けていた。
既にアスカの心では、如何にしてシンジを出し抜き自らを誇るか……それだけを考えていた。
その様子を見つめるミサトは、アスカがイリア三佐に依存しつつある事に危惧を抱き始めている。
葛城家の朝は決して早くはない。
低血圧なミサトとアスカは朝に弱いので、二人揃って朝一に用事がある日(普段は大体そうなのだろうが)はどうしても遅刻がちになる。本人達は決してぐうたらを前面に押し立てて寝入っている訳ではないが、身体に染みついた性分を今直ぐ改められるほど殊勝でもない。
増して昨日からレイも同居を始めた慌ただしい葛城家では、自然と彼の出番を必要とする。
「あれ、ノヴァスター君、お出汁変えた?」
朝からビールの缶を片手に、それでも朝食は律儀に味わいながら、ミサトは味噌汁の味の僅かな違いを偶然見分ける。朝から余所の家の台所に召喚された事を不平にも思っていないらしい表情で、振り返ってキビキビと答えるのはやはり、葛城家専用おさんどん初号機ことノヴァスター。
「あ、分かります? リツコさんのお土産を使ったんですよ」
「ふうん……フフフフフ」
「な、何ですかその気色悪い笑い方はっ!?」
「聞いたわよーん。リツコの誕生日に、熱海の温泉旅行をプレゼントしたんですって?」
何だその事か……くらいに軽く思うノヴァスターは、ミサトから思わぬ疑惑が掛かっている事など露知らずで、朝一の談話に律儀に付き合う。
「あ、ええ。遠い場所だと仕事に障るって言うものですから、熱海なら近場で丁度良いかと思って」
ミサトはとにかく下世話な噂話を聞きだそうと要らぬ節介と探求心を露わにしているが、ノヴァスターはそんなミサトの質問を小手先で回避している。自覚が無い人間は案外タフネスなものだ。
「そうじゃなくて、リツコには随分と贅沢なプレゼントしたじゃない?」
「たまたまいつも通っている、商店街のスピードクジが当たっただけですよ。
それにミサトさん達がこの間浅間山に行った時は、リツコさんは同伴してなかったですし」
「律儀ねえ……」
「ミサトさんとアスカにだって、ちゃんとプレゼントはしたじゃないですか」
「ああ、この時計はちゃ〜んと使わせて貰ってるわよ」
と、ビール缶を口にくわえたまま、自分の左腕に着けた腕時計を掲げてみせる。青紫を基調としたシックなデザインの時計は決して値の張る品ではないが、贈る相手のセンスにとっては程良く似合っていた。
一方、
「……おかわり」
先頃から黙ってる割には味を占めたのか、レイが淡々とした口調で二杯目の味噌汁をせがむ。
「はいはい」
お椀を預かり味噌汁を装い、レイに慎重に手渡すその動作を眺めていたミサトが一言。
「こうして見てると、まるで保父さんみたいねぇ」
「保父ですか? それも面白そうですね」
満更悪い気はしないのか、ノヴァスターが苦笑しながら尋ね返した。
「その不気味なサングラスさえ外せば、ね」
「アイタタタ」
「……フン、ばっかばかしい!」
三人の穏和な雰囲気を打ち破るように吐き捨てたのはアスカだ。先頃から拗ねたような表情で黙々と食事にありついていたが、突然癇癪を起こしたように立ち上がる。
「どしたの、アスカ?」
「何でもないわっ! ごちそうさまっ!!」
まだ中身の残っているお椀と箸を卓に叩き付けると、足音荒く自分の部屋に駆け戻って行く。
その華奢な背中には、歳不相応の『しがらみ』が透けて見えるかのようだった。
「……機嫌、悪いですね」
「シミュレータでシンジ君に負けたのがこたえてるのよ。
あの後、イリア三佐にもこってりと絞られてるから、昨日の夜からずっとあの調子。
努力は人一倍しているのよ。なのに成果が追いついてこないから……きっとその空回りが辛いのね」
その場に居合わせていたミサトが苦々しそうに呟いたが、それだけが原因でない事も分かっている。
誕生会の夜の情事を、よりによってアスカに目撃されてしまった事を後ろめたく感じていたからだ。あれ以来加持とはそれなりに復縁しているが、それに反比例したかのようにアスカとの隙間は広がっていく一方。ミサトには、男と妹分との絆を両立できないのが辛いのだ。
レイの同居に承諾させ、ノヴァスターに積極的に呼び掛けて、仮初めとは言え家族の和を広げていこうとするその努力こそ空回りしているという現実の辛さも、容易に理解出来てしまう。
やはり似たもの同士なんだな……傍観者のノヴァスターにはそう感じられた。
「……おかわり……くれないの?」
「あ、はい。それにしてもよく食べるね、レイは」
「……美味しいから」
こういう場の空気を察するのが苦手なレイは、食欲に忠実に努めることで、あえて場の平穏を保っているようでもあった。
ミサトは出勤ついでにレイとアスカを学校に送り助手席にノヴァスターを残すと、都市郊外部を突き抜けるようにしてアルピーヌを駆る。その面持ちは彼女にしては珍しいほど堅く、ノヴァスターにはまるで相談を持ち掛けかねている苦悶の表情と感じられた。
全開に開いた車窓を突き抜ける心地よい風にも、ただ漠然と艶髪を棚引かせているだけで、ノヴァスターのように心地よさそうな表情が自然と浮かぶという訳でもなく……その視線さえも泳いでいるようだ。
彼には、その苦悶を探求したいという欲の一方、迂闊に問い質すのも良くないという自制がある。だがそんな彼の心配を余所に、ミサトがようやく重い口を開いた。
「……ノヴァスター君には、家族はいる?」
「ええ、居ますよ。両親も健在ですし家内もいるし、それと年子の妹が一人」
「へえ、妹さんが居るのね、それも初耳だわ。
……ねえ、思春期の頃はノヴァスター君にとって、その妹さんってどういう存在だった?」
即座に、ミサトが自分とアスカの事と重ねている質問だというのは分かる。だがそれをこの場で言う程互いに無節操ではない。
「そうですね……俺と違って明るくて活発で、自分に持っていない物を沢山持っている羨ましい娘です。
でも逆に、とても冷静な目線で現実の本質を確かめようとしている節もあって、鋭い部分も持ち合わせてる。
自分にしてみれば、嫉妬ともまた違う……羨望みたいな視線でいつも見ていたっていうのが本音かな」
「その感情を、恋だと感じた事って有る?」
「無いと言ったら嘘ですけど……男として、妹にしか注げない特別な愛情もあると思っていますから。
恋人への愛情、親に対する愛情、妹に対する愛情、義弟に対する愛情……俺にとってはみんな別物です」
「義弟?」
「妹の夫です。とは言っても彼も小さい頃からの馴染みなんですけどね。
四人とも同じ中学、高……もといハイスクールに通った仲なんですよ」
そう言って照れ笑う彼に、やはり何処か歳不相応の幼さと純粋さを感じる。
一方ミサトは、愛情に区分があるというノヴァスターの言葉が隅に引っかかる。
「ノヴァスター君には、家族を憎むという感情はこれっぽっちもないみたいで羨ましいわ。
私には居たわ、憎らしい家族が。だから同じ家族でも愛情の量には当然差も出たの。
そして、今は新しい家族も出来て、それはそれで上手くやっていけると思ってた……でも現実は甘くなかった。
男には不器用で、妹分にはもっと不器用で……せめてもっと器量の良い家庭で生まれていれば、
私も人との絆を上手く繋げたのかなって、そう思えてならないのよ」
「そんな事はないですよ。誰にだって親が憎く思える時期は、あるじゃないですか。
血の繋がった家族でさえそうなんだから、増して他人を家の中に迎え入れるのは、難しい筈ですよ。
長い努力と、粘り強い訴え掛けを続けていかないと……頑なな心は動かないんですから」
まるで身に摘まされるようであり、彼の実体験が籠もっているような重い一言が返って来る。
人はその外見とは裏腹に、とても重く辛い過去を背負っている時があるものだ。さしずめサングラスで素顔を隠し、日頃は戯けて見せている彼もその部類の人間なのか……ミサトはそう思い直す。
「孤独に苛まれながら闇の中でずっと膝を抱えて座り続けて、
そして、いつか自分を無償で受け容れて、闇の中から救ってくれる愛しい温もりを待ち続けて……。
セカンドインパクトをも生き延びたミサトさんなら、その時の喜びが理解出来る筈です」
「私には駄目よ……母親のような温もりが身から滲み出せるほど、人間が出来てないもの」
「そうやって思い込みを固持している限りは、駄目なのかも知れませんけれど、
人間はいかに自分の思い込みを打破できるか、新しい自分を受け容れられるか、
それがその人間の強さと人生を決めるんじゃないかって……俺はそう信じていますから」
つまりノヴァスターには、そうやって救われた過去があるという事なのだろうか。誰にでも隠したい過去はある。思い起こすだけで恥ずかしい、でも忘れてはならない思い出がある。差詰め彼は、それを素顔と共に覆い隠す事で初めて、自分達の目の前に現れる事が出来るのだろうか……ミサトは熟考する。
「するとやっぱり、『ノヴァスター』という名前も偽名な訳ね?」
「ど、どう考えを辿ったらソコまで理屈が飛躍するんですか(^-^;」
「私はそろそろ、少しくらい本当の事を話してくれても、いいんじゃないかって思ってるのよねぇ」
穏やかな口調とは裏腹に、ミサトの横目が鋭く突き刺さるのを感じるノヴァスター。
だがミサトには悪意はない。むしろ彼女なりの角度から事態の真相を突き止めて、そしてアスカや加持に対する己の器量を広げたいと願うが故の行動だ。
家庭に収まるだけが女の幸せではない。彼女のように、むしろ危機の局面に身を晒す事で自分のアイデンティティを誇示できる、男勝りの女性も存在する。それがネルフに於いて彼女が見つけた、彼女自身最も身の置き場として相応しいスタンスである以上、誰もそれを否定できないのだから。
「リツコさんにも言われましたよ……そろそろ本当の事を話してくれたらどうか、ってね。
でもそれはまだ言えません。もし言えば、その事実自体が災厄となって、罪無き人を傷付ける事もあります」
その些細な言葉がミサトに、彼の背後に迫る巨大な闇の気配を連想させた。
「ノヴァスター君、あなた一体……」
そこまで言いかけた所で、アルピーヌは本部のカートライン入り口に差し掛かった。
元々ノヴァスターをここで降ろす約束だったので、彼女は渋々ブレーキを踏み込んで車を止める。
「どうしてもアスカが心配だというのなら、一つだけ……話せないでもないですけれど」
「それを教えて欲しいわ。お願い」
懇願するミサトの視線に、漸くノヴァスターが折れた。
身に羽織るジャケットの懐から静かに、一枚の紙を取り出しミサトに手渡す。
ミサトはその用紙の見出しを確かめて……愕然とする。
「逮捕状!? それじゃ、彼女は犯罪者なの!?」
その紙切れ一枚には、数十人に渡る人名と十指に余る最上級の罪名が羅列している。そしてその中には、イリア=ラブルガードの名が上から二番目という位置に存在していた。
もしそれが事実であれば彼女の裏の顔は凄まじく陰惨であり、そして残忍であるという事だ。
だがノヴァスターはその大事な逮捕状を、躊躇無く握り潰すと忌々しそうに吐き捨てた。
「こんな物は『ついで』みたいなものです。実際、捕まえようと思えばいつでも捕まえられた。
でも今は、あの女には泳いで貰わないと困るんですよ。そしていずれは、
『組織』の全てを一網打尽にする為に……今はまだ、多少の理不尽には耐えなければならない」
「ノヴァスター君、それじゃあなたは……!」
「とは言え、組織ぐるみを俺一人で捕まえるのは、ちょっと難しい話です。
いずれ、ミサトさん達の力も借りなければならない時も来るでしょうから」
「もしそうなったら、私に何か出来る事……あるかしら?」
ミサトはまだ全てを自覚していないが、いつの間にか彼の話を鵜呑みにしている自分が居た。ノヴァスターの捲し立てる話を「嘘くさい」と一刀両断するのは容易だったが、ミサトもまた彼の穏やかな語り口に魅入られてしまったのか、彼の訴える話を受け容れようと努力している自分が居るのだと自覚するのは、もう少し後の話である。
ノヴァスターとてこの話を真に信じて貰うためには、誰の目にも明瞭な事実で示さなければならないと考えている。
「今はもう暫く、ミサトさん自身のスタンスを守って頑張って下さい……としか言えないんです。
それと、今の話はシンジにさえ教えてません、くれぐれも他に漏らさないように」
「司令は? イリア三佐と一緒にアメリカに行っている司令は、この事を……」
「教えました。あの人には別の角度から助力を願っています。
みんなが、各自の出来る限りの事を尽くせば、きっと目的は達成されると信じてますから」
故にノヴァスターは、今は素顔を隠してシンジのオブザーバーとして身をやつし、葛城家の中ではからかわれやすいおさんどん青年として女傑達に扱われている。
それは彼の演技や芝居などではなく、彼自身のスタンスを忠実に守っている結果としての身分なのだ。有言実行、その言葉こそが信頼を勝ち取る最上の方法だと信じている、彼なりのアピールの方法として。
「ノヴァスター君、あなたって人は……」
「それでは、また後で会いましょう、ミサトさん」
ノヴァスターは突然話をブツ切りにすると、車から降りてせっかち気味にドアを閉め陽気な笑顔を振りまきながら、カートラインの闇に消えていくミサトの愛車を手を振りつつ見送るのだった。
「…………」
ミサトをゲートの中に見送って後、ノヴァスターは道路の横で呆然と都会の景色を眺めている。
この場所は、第九使徒が来襲した時にシンジを無理矢理先に行かせ、彼は自分を付け狙う黒ずくめの男を倒した場所だった。ある種の感慨を抱くかのように、彼は暫く周囲を眺めていたが、
「……李仙恪か」
人の名らしき言葉を呟くと、それに呼応したかのように姿を現す男が居た。ノヴァスターの背後に気配もなく現れ、ギラギラと輝く眼光で彼の背後を見つめている。少し小柄でかつ恰幅の良い体躯に黒い外套らしき布を羽織っているかと思えば、手には白い羽で繕われた扇を手にしているという、異様な出で立ちが特に目を引く。
この男も、イリアがネルフに赴任した時に同伴していた四人の内の一人。その名も李儒仙恪(りじゅせんかく)、華僑の末裔で東南アジア系の裏業界を掌握していると噂の男である。
「如何にも。やはり此処でアトラスを倒したのもお主か」
「ゲオルグの知恵袋まで直々に赴いてきたのか。ご苦労様な事だな」
「お主こそ、またしても我々を追って来たのであろう、その執念天晴れなり。
アトラスは腕は悪くなかったが、単身でお主に向かうとは……所詮猪突猛進だけが能の愚昧か」
「なら、そういう貴様もここで果ててみるか?」
ノヴァスターは颯爽と懐のコンバットマグナムを抜き去り、背後に控えていた男に照準を定める。それは全くスキのない完璧な動作であったが、ノヴァスターが振り返った時には既に男の影は、黒ずくめの外套だけを残して消えていた。
相変わらず不気味なヤツ……ノヴァスターは小声で吐き捨てた。
(おっと、拙者は単身でお主に挑むような愚はせんよ。
お主との決着はいずれ、トラバント大人が此の地に駆け付けるまで預けておくとしよう)
「トラバント! アヌンナキ近衛隊長アイムス=トラバントか!」
ノヴァスターは己が知る限りで唯一、敵として認めた益荒男(ますらお)の名に驚愕した。
(そして我々の聖賢ゲオルグ総帥もお主の存在を消さんと、目下躍起になっておられる。
『紅の音叉』の量産計画も既に佳境に入った……最早お主一人の抵抗など風前の灯火の如し)
「黙れよ! 俺は無価値な殺戮も暴威も認めない。
お前等のしている事が、時代に逆行した簒奪(さんだつ)に過ぎないと何故分からない!」
(その一言実に愚かなり。人間の歴史の全ては所詮、殺戮と強奪と偽善が塗り固められた物に過ぎぬ。
ならば人の世を封じる最後の一手こそ、最も華やかな破壊行為であるべきなのだ)
「詭弁をっ!」
激昂したノヴァスターは、カートラインゲート付近のコンクリート目掛けて銃弾を一発撃ち込む。
そこにはコンクリートの壁以外何も存在しない筈なのに、銃弾は何かを弾いたような音をして四散した。
そこに残ったのは、地面に散り散りに舞う白い鳥の羽のみ。
(フフフ……危ない危ない。やはり我が隠行の術、通じずか。
しかしこの李儒仙恪の存在を銃弾などで捕らえようとは愚の骨頂。
その有り余った『力』を敢えて「使わない」のか、それとも何か理由があって「使えない」のか)
「好きに判断すればいいさ。どの道、今はお互い陽の当たらない裏の存在、
俺に用が有れば、俺だけを狙えよ。他の誰かを巻き込むのは絶対に許さないからな」
(心配せずとも、お主の奥方と妹君を狙うような下卑た真似はせぬ……少なくとも拙者とトラバント大人はな。
今日はお互い本意ではない遭遇、我は引かせていただこう。またいずれ合おうぞ、倅殿)
「チッ!」
「倅(せがれ)」と呼ばれたのが癪に障ったノヴァスターが、もう二、三発銃弾を叩き込む。
だが既に気配の消え去った場に対して、それは余りに虚しい行為であった。
「もう俺は……ゲオルグとは何の繋がりのない人間だ。
父と母の誇りを受け継ぐ為に……あえて名乗ると誓った姓名と共に生きると決めたんだ」
孤高の己に語り掛けるように強く戒める、その一念。
だが今の自分はもう孤独ではない。自分の帰りを待ち焦がれてくれる愛しい者が居てくれるからこそ、生きて帰るが為に生に足掻き、ひたすら死に抗うのだ。死中に活を求める戦士として、その想いにより相応しくなるべき己の為にも。
だが、己の信念を二分したあの日の苦々しさを今一度思い起こしながら―――ノヴァスターは呟く。
「シンジ、アスカ、レイ……君達も負けないでくれ。
君達に襲い来る理不尽な暴力と、か弱い自分を苛む業の深さに、絶対に負けないで欲しい……」
遙か遠方、第三新東京市の上空に浮かぶ幾何学模様の球体が目に飛び込んでくる。
新たに襲い来たその使徒に、まるで恥じるべき自分の過去を見つめるようなノヴァスターの視線。
それは―――暗転入滅の儀。
三十一章前編、お届けしました。
さて、今章から更に設定と人間関係が膨張していきます。
殆どは第四部に入る為の前準備のようなものなので、即座に憶える必要はないと思いますが、
シンジ達の周囲の緩やかな変化とは裏腹に、一方では激動の前触れが始まっているという事です。
増える一方の敵の姿、悩める一方の人間関係、そして自問自答で現れる自分の弱音。
子供達に平穏が訪れるのは、まだまだ先の話になるでしょうね……。
次回はいよいよ、一年ぶりに復活する「もう一人の主人公」のお話です(笑)
(だってみんなオリキャラだと思っているんだもの……あっちも歴とした「エヴァ」の主人公なのに)
暗転入滅、その言葉の意味するのは闇に染まった「もう一人の自分」の人格。
シンジは己の誤った過去を説き伏せられるのか、それとも自責の念に駆られ闇に堕ちてしまうのか。
それでは、また次回……。
実はもう一人、一年ぶりに登場したキャラが今章にいるとかいないとか(爆)