「えーと先ずはレタスに玉葱、ジャガイモとニンジン、チーズに小麦粉、サラミにトマトと鶏肉。
フルーツバスケットにビール缶にジュース……後は何かあったかな」
指折り数えながら、ノヴァスターは買い残しがないか慎重に、しかし楽しそうに復唱していた。
道場の帰り道、途中細々とした忘れ物を最寄りのコンビニエンスストアで買い込むと、万全の体制を整えていざ葛城家へと向かう。少しばかり約束の時刻を過ぎているので、踏み込むアクセルも心持ち深め。下手をすれば小躍りしかねないほど、今の彼はご機嫌だった。
いざ訪れた葛城家の玄関先には、既に男女、大小合わせて六つの靴が小綺麗に揃えられていた。恐らく気配りの良い性格の誰かが全員分を丁寧に揃えたのだろうと考えると、つい苦笑がこみ上げる。
「どうも、遅れてすみません」
両手一杯の買い物袋を抱えて居間に踏み込むと、案の定彼は喧しい歓迎に迎えられた。
「いらっしゃーいノヴァスター君。悪いけど待ちきれなくてもう始めちゃってるわよぉ」
「おっそーいおさんどん! もうメンバー殆ど揃ってるんだからサッサと料理作んなさいよね!!」
「へえ、この人がアスカの言っていた、『おさんどん』さんなの?」
「……ノヴァスター=ヴァイン二尉よ」
「なんやけったいなナリしとる奴やなぁ……センス最悪や」
「何言ってるんだよトウジ。あのジャンパーは防弾仕様の特製だって言うじゃないか。
それに今時、M1911A1と357コンバットマグナムを愛用している通な人なんて、
滅多にいるもんじゃないんだ、ここは是非蘊蓄を窺わねば!」
「そらケンスケ独特の価値観ならそうやろな……」
居間の卓台を囲むのは、正面のミサトを中心に、その右にアスカ、アスカとレイの級友である洞木ヒカリ、鈴原トウジ、相田ケンスケ、そしてレイと続く。ミサトの卓前には既に、日も沈まぬうちに缶ビールが数本並び、子供達も炭酸と清涼飲料のペットボトルを注ぎ回っては食前の一服を姦しく過ごしている。
「なんだ、もう出来上がってる……じゃあ早速始めますか。
あ、リツコさんと加持さんはどうしたんです?」
「あの二人は夜まで残業だってさ。後から合流するらしいわ」
「分かりました。それじゃ最初はアスカの誕生日記念という事で、子供達向けの料理から始めますね」
ノヴァスターは素早くジャンパーを脱ぎ捨てると、フリルの付いたエプロンを軽快に身に付け、ある意味戦場となるであろうキッチンに堂々と踏み込む。外見とは裏腹にコメディ色豊富なその風体に、彼を初めて見知ったクラスメイトの三人は思わず顔をひきつらせている。
が、唯一ミリタリーフリークのケンスケだけは目を輝かせて、ノヴァスターの脱ぎ捨てたジャンパーに駆け寄って、触り心地と防弾性能を細かく吟味している。当の持ち主は苦笑して眺めているだけだ。
「アスカ……私、付き合う人は選んだ方がいいと思うの」
「分かってるけど……あれで料理の腕前だけは一級品なのよ。多分家事に関してはヒカリより多芸ね」
「で、名付けて『おさんどん』さんな訳ね」
納得したようなしないような、微妙な表情のヒカリ。周囲に配慮を欠かさないその性分が、時折苦労性に近い物を感じさせる少女だ。アスカ達のクラスの学級委員長でもある彼女は、アスカが来日してから後の、第一の親友でもあった。
余談だが、その隣に二人並ぶ少年達は、半分おまけ扱いで主催者のアスカに呼ばれている。格別親しい訳ではないが、誕生会に呼べないほど疎遠な間柄でもないらしい。年頃らしく食欲に正直な彼等は、並べられた料理を片端から食い尽くすつもりらしく、先頃から元気溌剌としている。
そして、原則的にはこういう宴会の類に疎遠なレイも、アスカとミサトのどちらかが強く説得したのだろう、あまり居心地の良さそうな顔はしていないものの、ミサトの横でちうちうと可愛らしくストローをくわえていた。
「みんな元気で何よりさね。こっちとしても作り甲斐があるよ」
ノヴァスターは買い込んできた食材を一旦全てテーブルと冷蔵庫に移すと、事前に自作したレシピを片手に、本格的に作業を始めたのだった。
まずは手軽なサラダスパゲティと持参の菓子で皆の口を間に合わさせている間、炊飯の準備とピザ生地の下準備に取り掛かる。大人組の揃う宴会の後半は酒が入る事が予想されるので、つまみになる物と、そして子供達の口にも合う夕食用のメニューと半々の前準備が必要だった。
鶏肉の唐揚げとフライドポテト、イタリアンピザに握り飯とフルーツ盛り合わせ……これから作るべき物は山程控えている。が、料理好きな者の多くがそうであるように、食欲旺盛な人間に「がっつかれる」程、料理人としての感慨はこの上ない。ノヴァスターもそれが楽しくてこの役割を引き受けているような物である。
「あの……」
しずしずとした足取りで、恐る恐るキッチンに入ってきたのはヒカリ。
「あれ、どうしたの?」
「何かお手伝いできる事ありませんか?」
どうやら食事にありついているだけというのも手持ち無沙汰で落ち着かないらしく、年頃にしては料理が得意な彼女は、台所の様子を伺いに来たらしい。世間で「鍋奉行」と呼ばれる類の人種が、例えば彼女だ。
「ああ……、お気遣いは有り難いけれど、今日の君は客人なんだから働く事はないよ」
「そうですか、ならいいんですけど……」
ヒカリはやんわりと断られている合間にも、キッチンの様子を目敏く確認していた。だが手際よく料理を勧めている彼の手際は、一度は彼の容姿に引いていた彼女を、今は十分に納得させているようだ。
「……くすっ」
ついノヴァスターは苦笑を漏らした。
「玄関先の靴を揃えていたの、洞木さんでしょ」
「え、ええそうですけど、それが何か?」
どうもとっつきにくいノヴァスターの言い回しに、ヒカリは顔に疑問符を張り付けていた。
「いや、気にしないで。こっちが勝手に安心しているだけだから。
そうだ、丁度いいからこれを運んでもらえる?」
と言ってノヴァスターが差し出したのは、今揚がったばかりのフライドポテトの乗った皿。
「熱いから気を付けて運んでね、洞木さん」
「はい、分かりました。……あれ、そう言えば、私の名前をどうして知ってるんですか?」
あまりに自然に自分の名を呼ばれたヒカリが、疑問の眼差しを振り向ける。
「えっ……あ、ああ、さっきミサトさんが君の事をそう呼んでいたと思ったけど」
何故か少ししどろもどろな反応を返されて、頭を傾げていたヒカリだったが、それでも期待通り仕事を貰えた彼女は、嬉しそうにしながら皿を持って居間へと戻っていく。
卓の上に置かれたフライドポテトはたちまち、飢えた子供達とミサトの空腹へと収まっていった。
それから小一時間程、子供達向けに細々と作られていく料理で腹を満たしながら、子供達は他愛ない日常の噂話や互いの近況を話題にしては絶え間なく会話を続けている。尤ももっぱら騒いでいるのはアスカとトウジ、そして性格上喧嘩腰になりがちなこの二人を宥める形で、ヒカリとケンスケが続く。横から冷やかしと茶々を織り交ぜてミサトが乱入し、偶にレイがボソリと油断ならない言葉を呟いては場の空気をかき乱す。
……何はともあれ宴の場は概ね盛況だった。
「いよう、盛り上がってるな」
「お邪魔するわね」
午後七時を過ぎた頃、残業を終えた加持がリツコを連れだって現れた。アスカは喜々とした表情を浮かべると、すかさず加持の腕を取って自分の席へと誘う一方、ミサトは懐疑の目で腰を下ろしている加持とリツコの両人を窺っていた。
「……なんで二人で一緒に来る訳? あっやしーわねぇ」
「偶然帰りが一緒になったから、リッちゃんを乗せてきただけさ。
あれ、もしかして葛城、妬いてるのか?」
「ブァーカ」
さもあらんと言った様子で話題をぶつ切りにするミサト。
「ねえアスカ、アスカの言っていた加持さんってこの人なの?」
「そうよ。ネルフにはイモみたいな男ばっかりだけど、加持さんだけは別格なのよねぇ」
ちなみにそのイモの内の一人は、奇しくも今台所で芋を向いている。
勿論しっかりアスカの声は届いていた。
(……しくしくしく)
「おやおや、光栄だね。アスカはクラスメイトにはそんな風に話してるのか」
一方色気付いた話題は蚊帳の外にして、トウジとケンスケはひたすらピザを貪っている。ミサトはリツコを左脇に座らせコップを握らせると、加持にもそれを半強制して、
「それじゃあ、わたくしこと葛城ミサトと、惣流アスカの祝誕を祝ってぇ、かんぱーーいっ!」
と勝手に音頭を取って一同を盛り立てる。各自ビールなりジュースなりを注いだコップを掲げては、ミサトの乾杯に習って隣人同士で鳴らし合う。
全員がコップの中身をぐぐいと一気に飲み込んだ後、再び他愛ない会話の羅列が続いた。
「おやおや、やっと来ましたね御両人」
先程ミサトから追加注文のあった焼き鳥とフライドポテトを両手に掲げ、キッチンからノヴァスターも姿を現す。
「やあ、お邪魔してるよ。君は相変わらず葛城に扱き使われているのかい?」
「加ぁ持ぃ、人聞きが悪いわれぇ」
「好きでやってる事ですし、俺は別に構いませんよ」
呂律が回らなくなってきたミサトを宥めるように、ミサトの眼前に焼き鳥の皿を並べる。
「あはっ、ろヴァスター君の焼くつくねは美味しいろよねぇ〜」
一言味を褒めたかと思えば、一串手にして早速豪快にかじり付く。既に酒の勢いで、妙齢の女性としての慎みを失いつつあるミサト。
「ホント、ただの酔っぱらいね」
こうはなりたくないわね、と言わんばかりの冷ややかな視線を横目で流すリツコ。
その手元では、三分の二程飲み尽くしたリツコのコップに、ビールを静かに注ぎ足すレイがいた。
「あらレイ、ありがとう」
「……ありがとう。感謝の言葉……初めての言葉……あの人にも言われた事無かったのに……」
(レイ……その台詞はまだちょーっと早いんじゃないかな)
と、心の中だけで誰かが突っ込みを入れたとか入れないとか。
「加ぁ持ぃ、飲みが足りないわよぉ」
「無茶言うなよ葛城、俺は車に乗ってきたんだぞ」
「そうよミサト、加持さんに絡んでみっともない」
「あによお、こーいつのみっともらいのは昔からよぉ」
「……ミサトも同じくらいみっともないと思うけれど」
「ミサトさんはみっともなくなんかあらへん、いつも凛々しいですわ。少なくともワシはそう思とります」
「そうそ、毎日激務に耐えておられるのですから、偶には息抜きも必要ですよ」
「あら鈴原君も相田君も上手いわね、アリガト」
「鈴原、さっきから唐揚げばっかり食べて、バランス悪いわよ」
「ええやないか、今日くらい細かい事言いなや委員長。
委員長こそサラダばっかり食うてると、全身緑色になるで」
「フン、年中ジャージで真っ黒の見苦しい鈴原にだけは言われたくないでしょうよ」
「なんやと惣流、表出んかい自分!」
「何よ、喧嘩なら受けてたつわよ」
「ちょっと鈴原もアスカも、すぐ喧嘩腰にならないでよ!」
「させとけよ委員長、惣流もトウジも単細胞なんだから口喧嘩程度じゃ収まらないよ」
「……相田、アンタもそれだけ言うんなら只じゃおかないわよ」
「アスカ、女の子が無闇に暴力に訴えるのは良くないな」
「はーい、加持さんがそういうんなら止めまーす!」
「ケッ、けったくそ悪い、男の言う事は素直に聞くんかい。惣流も意外とミーハーや奴ちゃのう」
「鈴原ッ!!」
「……肉は嫌い、血の色は嫌い。でもビールはLCLの色、LCLの味、LCLの匂い……ぐびぐび」
「ちょっと誰、レイに酒を勧めたのは!?」
「おおお、レイもなかなかいい飲みっぷりじゃなーい」
「ミ・サ・トォッ!!」
「怒らない怒らない、小皺が更に増えるわよ、リツコ」
「誰のせいだと思ってるの! 全く中学生に酒を勧めるなんて非常識な……レイも従うまま飲んでないで!」
「大丈夫です赤木博士私の体に特に異常は認められていませんその為のネルフですから全く恥をかかせおって」
「うわあ、レイが酔うとこうらるのね、作戦指揮上の参考になるわぁ」
「ならないわよ! 酔うのは勝手だけど、誰彼問わず酒を勧めるのがミサトの悪い癖なのよね……」
「はい、おにぎり追加です。中身は鮭と焼き鱈子とツナマヨネーズで分けてますから間違えないように」
「マイペースなのは、おさんどんだけか……」
「ある意味普遍的でもあるわね、彼の場合」
ピンポーン!
すっかり荒れ果てた宴会の場に水を差す形で、突然葛城家のチャイムが鳴った。
「? 誰かしらこんな時間に」
既に予定の参加者は全員揃っている。ミサトは飛び入り参加しそうな人間に心当たりはなかった。オペレーター三人組はともかくとして、よもやイリアではないかとまで一瞬勘ぐってしまったが、
「ああ、俺が前もって駅前の美味しいケーキ屋に注文しておいたんですよ」
と、台所から姿を現したノヴァスターが足早に玄関先に駆けつけた。
「そう言えば、何か足りないかと思ったらバースディケーキが無かったのね」
リツコが妙に納得したような表情をして、ノヴァスターの背を艶やかな視線で眺めていた。
結局の所、彼女も少し酔いが回っている。
「君に買い出しに行ってもらって、助かったよ。サンキュ」
玄関先でケーキを届けてきた人物に軽く礼を述べると、ノヴァスターは家の中を指さした。
「今盛り上がってるんだけど……混ざっていく?」
「まさか。僕が入っていったら場が白けるだけですよ。……この家にはもう僕の居場所はありません」
「……そうだったな」
「じゃあ、僕はこれで帰ります」
「ご苦労さん。気を付けて帰るんだぞ」
一瞬硬い面持ちになった顔を宴会仕様に緩めて、ノヴァスターは皆の前でケーキを披露する。
「メインディッシュのケーキお待ちどお。駅前の銘菓甘夏堂の特上生クリームケーキとチーズケーキ、見参」
両手に掲げられたケーキの箱を前に、各自から何故か歓迎の拍手が飛び出す。たとえアルコールの入っていない者でも、すっかり高揚した場の雰囲気に酔いしれて気分がハイになっている為に、宴会場特有の連帯感が幅を利かせている。
「チーズケーキは食後のお楽しみという事にして、先ずはバースディケーキを……」
ケーキカットは勿論ノヴァスターの役目。ケーキを卓の中央に披露すると、何処からか持参したケーキナイフで、上に乗った砂糖性の装飾物を殆ど崩さないように、綺麗に八等分に切って配っていく。
「あーあかん、流石にケーキが入るほど腹に余裕がないわ」
「アラ、意外といけるじゃない。甘夏堂って言ったっけ……今度から要チェックね」
「私も通りかかった事があるだけで、こんなに美味しい店だなんて知らなかったわ。
アスカ、今度みんなで寄ってみない?」
「OKヒカリ。今度の土曜日にでも行ってみましょ。レイも勿論来るのよ、いいわね」
「命令ならそうするわだってあなたは私が護るものなのにあなたは何故エヴァに乗るの泣いているのは私?」
「……駄目ね、レイ完全に酔ってるわ」
「寡黙な綾波の秘密が一つ増えたぞ、こっちはこっちで要チェックだ」
「ちょっと相田、こんな所でカメラ取り出すんじゃないわよ!」
終始こんな調子で、阿鼻叫喚の大宴会が夜更けまで続く。
「……ふふふっ」
「? 何がおかしいんだい、ノヴァスター君」
「いえ、平和だなぁと思っただけですよ。なべてこの世は事も無し……か。」
まるで、実の弟や妹を愛でているかのようなノヴァスターの優しげな横顔が、加持には印象的に映った。
夜九時を過ぎて、宴半ばではあるが子供達三人は帰宅させようという事になる。余談だが、レイはあの後コップ一杯のビールですっかり酔い潰れ、今夜は葛城家で寝かしつける事になった。
「それじゃ、俺が送っていきますから後は宜しくお願いしますね」
加持が少しほろ酔いが入っている為に、無難にノヴァスターの車を持ち出して子供達を各自家まで送迎する事になった。案内役のアスカを同行させているので、葛城家に残るのは大人達三人と酔い潰れたレイだけという勘定になる。
アスカは加持とミサトを一緒にして置くのに一抹の不安を感じたが、道徳に煩いリツコも居るので、滅多な事はあるまいと何とか信じて渋々と級友を見送る方に回ったのだった。
「ノヴァスター君、殆ど料理に口を付けてなかったわね」
「へ?」
突然話を吹っ掛けられたミサトは一瞬反応が遅れたようだが、
「駄目よミサト。彼、意外に献身的な部分が強いから、負んぶに抱っこしているといつか負担になるわ」
「そこまでのつもりはないわよ。只、色々と世話を焼いてくれているうちに、
どうにも手放せない存在になっちゃったのは確かだけど……。
でもその割には、こっちの事情に滅多に深入りしてこないのよね。
彼、ああ見えて意外とドライなところがあるのよ」
当初ミサトがあれだけ懐疑的な目でノヴァスターを斜に見ていた事を考えれば、長い時間をかけてミサトの信頼を勝ち取ったであろう、ノヴァスター側の努力勝ちである事はリツコには容易に判断できた。
「あなただけじゃなくて、アスカといいレイといい、そしてシンジ君も……、
あんなに目まぐるしく世話を焼いてくれて……ホント、彼は一体何者なのかしら」
「さあ。少なくとも、もう敵視はしてないわ。彼も敵意とは縁遠い自分を振る舞いたいみたいだし、
これは私のカンだけど、彼の本当の目的は、私達やネルフとはまた違う所にあるんじゃないかしら。
それに司令とは旧知の縁らしいんでしょ? だったら私の勘ぐる事が出来る処じゃないわ。
それよりも、私はイリア三佐の小言の方が辛いわよ……生真面目な人だから」
「…………」
一方加持は何も語らず、黙々とコップの中身を煽っている。
「折角だけど、シリアスな顔をしてジュースがぶ飲みしてても様になんないわよ、加持」
「そんなつもりはないさ。それにしても、葛城はいつも俺の一挙一動が気になるみたいだな」
「ばぁか、そういうのを自信過剰っていうのよ」
「ふう……あなた達はホント相変わらずねえ」
「こんなのと一括りにしないでくんない? リツコはリツコで昔の恥をジクジクと……」
「……結局、私達って大学の頃から何も変わってないのね」
酔い潰れて、すぅすぅと可愛らしい吐息で眠りに付いているレイにそっと毛布を掛け直しながら、リツコは二人の顔を見比べるように、そして自嘲気味に呟く。
「人間はそう簡単に変わる事はできないさ。まして、いい歳した俺達みたいなのは特にな」
「いい歳は余計よ、あたしはまだ二十九なんだから」
「じきその境界線も踏み越えるから安心なさい」
「くーっ、行かず後家の三十路女は気軽でいいわねぇ。もう怖い物は何もないんだから」
「……それが皮肉のつもりなら、受けてたつわよミサト」
「おいおい、大人げないぞ二人とも」
三人の関係は昔からそうだった。二人が諍いを起こすと、一人がやんわりと仲裁に入る。そうして間柄を程良く保って居られたからこそ、ミサトと加持の恋人としての関係が破綻してもなお、彼等は悪友同士で居られるのだから。
「でも、まだ思春期最中の子供達はその限りではないわね」
「? 何の話?」
「忘れたの? さっきの話よ、性格はそう簡単に変わらないって事。
人間は心に深い傷を負う程の、余程大きい衝撃を目の当たりにでもしない限り、
自分を改めようとはそうそう思わないものよ。さもなくば長い期間をかけて感化されていくか。
特にあの子達は、親御さんの愛に恵まれなかった子供達ばかりなのよ。
どんな形にしろ心に歪みはあるはずだから、尚更生きる事が苦難に思えるんでしょうね」
リツコは脳裏にシンジの、幼くも悲愴な表情を思い浮かべながら呟く。
ゲンドウが言うには、生来気弱で引っ込み思案な子供である筈のシンジが、チルドレンとして選出された前後から人格が豹変したとしか思えないと、リツコにはそう語っていた。
だが、ネルフの一員として、そして使徒と戦うべきチルドレンとして選ばれた事だけが、彼の性格を180度変えたとは思いにくい。しかも、リツコの目から見てもアスカやレイ達に対する態度は極めて不可思議で、本人達には忌み嫌っているような言動と忌避しているような接し方が目に付く、その癖一度裏側に回ると、ノヴァスターと二人で如何に彼女達を無事に守るかという事に対して、細心の注意を払って戦っている事も知っている。
リツコには、何か常識では計られない因果が、四人の間で渦巻いているとしか思えなかった。
だがその事を、たとえ十年来の親友であるこの二人にも打ち明けるのを憚られるのは何故だろう……リツコは悩む。しかも、特に際だつ理由が明確でないまま悩んでいる気がしていた。
「そう言えばリツコぉ、あんた最近妙に色気が付いてきたんじゃなぁい?」
リツコが現実に帰ると、酒臭い息を吐きかけながら迫ってくるミサトの顔がそこにあった。
「な、何が?」
「MAGIとエヴァだけが恋人かと思っていたけど、意外とマトモな恋も出来るんじゃない」
「……ミサト。酔ってなかったら殴ってるわよ」
「おいおい二人とも。だけど俺も、興味ある話だな。
確かに最近のリッちゃんを見てると、少し変わった気がするよ。
そうだな……艶めかしいというか、それでいて妙に幼くてあどけないというか……」
意味深で遠回しな加持の言葉の真意が掴めなくて、リツコの顔が僅かに顰む。
「で、加持君の結論としては?」
「つまり、好きな人が出来たんじゃないかって事さ」
「……ノヴァスター君の事を言っているなら、残念だけどお門違いよ」
リツコは敢えてノヴァスターの名を自ら口にする事で、言及の手を逃れるような素振りを見せる。
実際、少し図星に感じたのは事実だった。
「でも残念ねえリツコぉ、彼は売約済みだって言うじゃない?」
「とは言うけれど、誰も彼の奥さんを知っているわけじゃないよな」
「分かったわ! 実はリツコと籍を入れてたのね! 澄ました顔して意外とやるじゃないリツコ!」
「……だからミサトと酒を飲むのはイヤなのよ、私……」
確かに、既に缶ビールを十数本空けていたミサトの悪酔いは止まる事を知らず、ゴシップ記事やスクープ報道の好きな中年女性のような悪態を披露している。リツコはいつものミサトの悪癖と知りつつも、とうに辟易していた。
「葛城、少し酔いすぎだぞ」
「分かってる、もう一本だけ」
言ったか言わないかのうちに、早速次の缶ビールを用意するとプルタブに指を掛ける。が、平衡感覚が既に失われているのか、もはやプルタブを起こす事にさえ手間取っている。
「葛城、やっぱり酔いすぎだ、もう止めておけ」
「う〜んそうかもしんない。……少し羽目を外しすぎたわ、外で頭冷やしてくる」
漸く冷静さを取り戻したらしいが、千鳥足で玄関に歩いていく、その後ろ姿に不安を感じた加持の肩を借りながら、二人は夜風に当たる為に外に出掛けていった。
後に残ったのは、祭りの後の閑寂。
横から僅かに聞こえるレイの寝息を感じながらリツコは一人、静かに飲み直す。
(……ノヴァスター君の事を言われて、ドキッとしたのは我ながら事実ね。無様だわ)
直接缶ビールに口を付けながら、苦々しい液体を無感動に飲み干した。
たちまち一本を空にすると、次の缶のプルタブを容赦なく跳ね上げ、口に付ける。
(苛立ってるの、私?)
自答しながら、やはり勢いだけで次の一本も飲み尽くす。
(恋とか、そういうのとは違うと思う。彼から不思議な安心感と暖かみを感じるのは確かだけど、
でも彼はシンジ君達の為に尽くしている人なのよ、私の気持ちの方がお門違いなのよ……)
不意に、視線が宙を漂い、床に落ちる。リビングに敷かれたカーペットには、今日の来訪者達の落とした頭髪が何本か散乱していた。
(可能ではあるけど……)
その中に、ノヴァスターの頭髪はあるだろうか。もしDNA鑑定の結果をMAGIで検索すれば、その仮面の下の素顔も分かるのだろうか。
……一瞬そんな事を考えて、科学者たる自分にあるまじき妄想を恥じた。
(駄目ね、私)
「う〜〜〜〜〜〜〜〜……きもぢわるい」
コンフォートマンション最寄りの公園の一角、公衆トイレの隅で空嘔吐を繰り返しているのはミサト。
既にトイレの中で何度も戻してきたばかりなのだが、収まりのつかない胃腸に辟易しながらも、立ち眩む頭を必死に奮い立たせ、気力だけで正気を保っている。
「そういう葛城を見るのも久々と言えば久々だなぁ」
「……あにを他人事みたいに呟いてンのよぉ」
公園の椅子に腰掛けて悠長に構えている加持に毒吐いたが、その途端にまた胃液が逆流する。
もう迂闊に口も開けなくなったミサトは、両手で口を押さえながら加持の横にやっとの思いで腰掛けた。
「相変わらず仕事の『ウサ』を酒で片付けているのか?」
「そうよ、だから弱い人間だって言いたいの?
好きになさいよ、コッチだって仕事の善し悪し選べずに暮らすのは……結構大変なのよ」
俯いていると嘔吐感がこみ上げてくるからなのか、ミサトは天を仰いだまま話を続ける。
濁った曇り空は星を映さず、どんよりとした空気は公園まで沈殿させているかのようだった。
「……リツコの歳を笑っていられる場合じゃないわね。
私もいよいよ来年で三十かあ……昔の同級生達は、今頃になって焦ったように次々と結婚してるってのにさ。
女やもめはみっともないったらありゃしないわね、愚痴も増えるし皺も増えるし」
ネルフという組織で颯爽と陣頭指揮に当たる女傑的なイメージとは裏腹に、ミサトはいつしか、一人の女としての凡庸な幸福を望むようになっていた。たとえ父の為とは言え、四六時中復讐を考えているわけにもいかない。それどころか、死んだ父の呪縛によって、いつまでも人並みの幸せを掴み損ねている気さえしているミサトの内心は、極めて複雑だった。
一時期、全てを忘れて青春に興じる事が出来たのは、今傍らにいる男との短い恋愛生活の間だけだったのかも知れない……そんな苦い思い出にふと回帰する事もある。
それでも尚あらゆる物をなげうって、士官候補生時代とネルフへの仕官だけに全ての心血を注いだこの六年間を捨て去ることも出来ず、ミサトは苦悩の狭間で思い悩む。
男に生きるか、復讐に生きるか……彼女は六年前に一度、断腸の思いで決断した筈だった。
「葛城の判断は、正しかったと思うよ」
「今更何を……加持君は、加持君は突然私に別れを切り出されて、本当になんともなかったの!?」
「葛城が悩みに悩んでいたのは知ってたさ。これだって、今だから言えることだけれどな」
「加持君、憶えてたんだ……私と父の話。
加持君と、私の父がとても似ているって話」
「ああ。一度見聞きした事は忘れられない性分でね」
「漠然とした怖い物をただ振り切りたかったの……弱いのよ、昔も今も。
だから嘘をついてまで加持君と無理矢理別れた、そして復讐の道を選んだの。
でもやっぱり無理みたい……この歳になって、一人で生きていく事が辛く思えてきたの。
がむしゃらを止めた途端、男の人の温もりが欲しくなっただけなのよ! 全部都合でしかないのよ!」
「それでも俺は、弱い葛城が好きだった。俺を頼って傅いてくれる葛城が好きだった」
「加持君……御免なさい……御免なさい……」
「謝ることはない。お互い重いペナルティに苦しんだんだ、葛城だけが泣くことはない」
今も昔も変わらぬ胸元の温もりが、ミサトの涙を吸い寄せそして受け止める。
「……加持君、ホントはまた危険な仕事に就いているんでしょ」
「何事も自分の目で確かめないと気が済まないからな、代償を払わねばならないことも有るさ」
「相変わらず好奇心だけで、今も危ない橋を渡ってるのね。
そういう出歯亀根性がいつか破滅に繋がるわよって、何度もキツく言ったのに」
「……今度のヤマは今までで一番大きくて厄介だ。
でもこれが終われば、当分俺達のような存在はお払い箱になるだろう。
今更市井に戻れる訳でも無し、俺の生きる場所は結局裏の世界だけさ」
「お互い身寄りはもう居ないものね。だから死地にも赴くし、色恋もしない」
「それでもお互い未練の虫が騒いでいる……違うか?」
加持はそっとミサトのおとがいに触れると、吸い寄せるようにしてその唇を奪う。
ミサトは、始めこそ抵抗するそぶりをみせて荒い息をしていたが、やがて大人の口付けに魅了されたかのように、黙ってその身を預けた。
「葛城……口は濯いだんだろうな? なんかツンとするぞ」
「そっちこそ、いい加減無精髭剃りなさいよ……」
奇遇にも、その情事を目撃している二人が居た。
当初は、偶然公園の入り口で二人を目撃したので呼び掛けるつもりでいたのが、眼前で繰り広げられ始めた二人の感極まった行動に割り入ることも出来ず、すっかり登場のタイミングを逸していたのだ。
「…………」
至極不機嫌な表情で、二人の行動を睨み続けているアスカ。
(…………修羅場だ)
一方こっちは、複雑な人間関係のど真ん中で起爆した気まずさに、身の置き場のないノヴァスター。アスカの級友達を見送った後、偶然見かけた二人を回収して帰ろうと考えた配慮が、裏目に出た事を知る。
しかも盗み見るようにアスカの横顔を窺うと、予想と全く違わない表情をしているではないか。
(……よし)
こういう時、彼は己の分を弁えていた。
つまり、自分が「碇シンジ」の代理として、この状況に一石を投じなければならないという事である。
シンジ本人の目的は只一つだが、シンジが密かに願う願いは幾つか有る。その内の一つを今こそ叶えるべく、彼は運転時から手にしていたコーヒー缶を、わざと中身を残したまま地面に落とした。
当然その音が三人の視線を一転に集め、そして当然の結果として互いの存在を知るのであった。
極限まで張りつめた緊迫感が、開放される。
缶ビールのプルタブをこじ開けるのにも飽きて、リツコはぼんやりと夜のニュース番組に見入っていた。
時折「みんな遅いわね」などと何度か呟いてみるものの、酔いの回った身体で探索に廻るのも億劫で、仕方なく、寝入り続けているレイと二人きりで留守を守っていた。
そこにようやく戻ってきたのが、ミサト、アスカ、ノヴァスターの三人。だがアスカとミサトは互いに牽制しあったような視線を交わしながらだんまりを決め込んでいるし、その真ん中に立ってはタハハと苦笑いしているノヴァスターの様子が不可思議だった。
取りも直さず言えば、場の空気のまずさだけが広がっていた。二人の様子に何処と無く居辛さを感じたリツコは、翌日の出勤に響くからと言い訳しながら、送迎係のノヴァスターを連れて早々に退出した。
「あの二人、喧嘩でもしたの?」
郊外の夜景を助手席からぼんやりと眺めつつ、リツコはそれとなく問い質したつもりだった。
「ええ、まあ……。似たもの同士なところがありますからね、こじれると厄介なんですけど……」
本質以外を削ぎ落とした簡単な返答を返すノヴァスター。
「ふうん……よく知ってるじゃない、二人の事」
「はは、それはリツコさんの買い被りですよ」
「そうかしら」
狭い車内で足を組み直しながら、リツコはフロントミラー越しに疑惑の眼差しをやんわりと突き刺す。
「やだなぁ、まだ何か疑っているんですか?」
「疑うのはもう止めたわ。何も知らずに眺めていた方が面白い事も、世の中には稀にあるから」
ノヴァスターを侮蔑しているわけでもないのに、どことなく冷徹なリツコの視線を感じるのは気のせいではない。実際彼女は、ノヴァスターという人格の本質を見抜く己の眼力を修練し始めていた。
「それで、加持君は先に一人で帰ったの?」
「ええ。彼も何やらお忙しいらしいので」
その言い方は彼にしてはやや素っ気なかった。彼も何かキナ臭い匂いを感じているのだろうか。
加持が夏にドイツから出向して以来、この数ヶ月間彼の挙動に幾らか不振な点が認められている。だがそれはネルフの裏上層部……つまりゲンドウ、冬月、リツコの三人のみが嗅ぎ付けている事であり、確かにゲンドウと癒着の強い彼が知らない道理はない。
(けど……そういうのとは違いそうね)
日頃の、彼とミサト達との交流ぶりからしてそう思えるリツコ。彼には加持のような強い好奇心は伺えず、かと言って対人関係は誰よりも把握し、誰の心にも差し障らない絶妙な距離を維持する青年である。
「加持君、また危ない仕事に打ち込んでいるのでなければいいんだけど」
「でもそんな言葉で忠告しても、きっと彼には無駄なんでしょうね」
つい、度肝を抜かれた事を表情に表してノヴァスターを振り向いてしまう。
「危ない仕事を好きこのんでチョイスして、誰の心配をも省みない。
一度火傷をしてみないと考え改めない性分……相変わらずなんですよ、あの人も」
「どうしてあなたは、そうやって全てを見通したような言い方ばかりするの?」
「そういうリツコさんこそ、ちょっと卑怯ですよ。
知っている知識の全てを白状しない内に、いつも相手のカードだけを窺おうとするんですから」
言葉尻の割に棘の感じられない糾弾に、つい折れてみようとさえ考えてしまう。
「そうね、これは私の悪い癖。相手のカード以上の枚数は絶対に出すまいとするの」
「疑心暗鬼……良くないですよ、ネルフは只でさえそういう手段を身につけやすい場所なんですから。
大人に限らず、シンジやアスカだってそれを真似て、自分の性格を故意にねじ曲げて見せたりするんです」
「あの子達が、自分自身をわざと演じて、本当の人格を覆い隠してしまうというわけ?」
「それが、子供達の防衛本能でしょうから」
「ならあなたは、そこまで知っていて家政夫を引き受けているの!?」
「だからそれは買い被りですってば」
そういう時に限って彼が見せるわざとらしい照れ笑いが、彼を神秘のヴェールで覆い隠す。その笑みに騙されまいと疑って掛かると、逆に煙に巻かれてしまう。リツコは抗っても抜け出られない迷宮に迷い込んだかのような、そんな錯覚で彼の性格を捉えていた。
(ノヴァスター君……あなたは謎過ぎるわ。人として、そして男としても……)
存在自体が謎と神秘に包まれた青年、その魅惑こそがリツコを惹き付けて止まないのであろう。
広大な荒野に、暮れなずむ茜色の光が満面に広がる。
四方を山で囲まれたこの盆地には、この時刻になるとどの方位からも冷たく湿った吹き下ろしが吹き荒れる。人気の存在しない集団墓地の、冷厳な雰囲気を助長するかのように風が止むことなく乱れるのだ。
セカンドインパクト後の日本で、あらゆる合理化を配慮した結果生まれた、数千から一万に渡る数の簡素な墓石だけが、地に無数に突き刺さっている。遺骨も残らなかった横死者専用であるこの墓地には、訪れる者も数少ない。
そんな荒野の片隅で、或る墓標の前で佇む少年が一人。その後ろからゆっくり歩み寄る男がもう一人。
今日は、碇ユイの11回目の法要日だった。
「……正直、来るとは思わなかったぞ」
墓石に百合の花を捧げるシンジの後ろで、彼を日陰に覆い隠すようにして立つゲンドウ。彼のように多忙で冷酷な合理主義者でも今日この日だけは必ず、亡き妻の法事だけは欠かさなかった。
一方、花を捧げたはいいが、シンジは墓石を見下ろしたまま何も語ろうとはしない。
「こうして二人でユイの前に来るのも三年ぶりか」
「…………」
「あの時お前は私とユイの無言の圧迫に耐えきれずに、逃げ出した。だが、実にお前らしい行動だった。
しかしもうあの時のお前は此処には居ない。人はどんなに足掻いても変われぬ生き物だというのにな」
「父さんの理屈は聞き飽きたよ。そういう価値観は、父さん達だけが大事にしていればいい」
後ろを振り返りもせず、シンジは墓石に吐き捨てるように呟いた。
「……ユイを弔ってはくれぬのか」
「死んだ人は弔うさ。でも弔うような僕の身内はもう居ない……居ないものだと思ってる」
「お前は私に会いたいのではなかったのか」
「それは思い上がりだよ。父さんじゃ有るまいし」
「ならば何故お前はネルフにいる」
「エヴァを使わせて貰える、それだけで十分さ」
「……お前はやはり変わった」
「変わってなんか居ないよ、僕は昔通りさ。ただ逃げ道が無くなって、難儀しているだけだよ」
眉間に皺を寄せて、ゲンドウはすっかり不遜になった自分の息子を見下ろしていた。
まだゲンドウには事の真相が計れない。何が自分の子を豹変させたのか、全てを計り知れない。
「自分の意志で戦おうとする者が、なぜそれだけ無気力でいる」
「気力なら有る。何が何でもやり抜いてみようと思ってる事が、一つだけあるから。
それに父さんは……母さんにもう一度逢いたいから、だからその為の補完計画を作ったんだろ?
それと一緒だよ。自分の中の願望に正直になって、みんなを傷付けながら足掻いているだけだから」
「シンジ、貴様」
「もう父さん十八番の隠し事は一切無しだ。そして老人達の繰り言も、今の僕の耳には届かない。
僕は絶対の『復讐』を誓った。そして僕の目的に立ちはだかる物には、容赦はしないつもりだから」
「老人共を知ってるのか……何を見てきたというのだ、お前」
「……今日の父さんは質問ばかりだね。いつも、知らない事は無いと言わんばかりの表情をしてたのに」
「答えろ」
「嫌だね」
シンジの背に突き刺さるゲンドウの冷徹な視線、そしてそれを不貞不貞しく跳ね返すシンジの背。
互いに二分ほど無言で争っていたが、やがて折れたのはゲンドウだった。
「……私も老いた。もうお前を、威圧でねじ曲げる事は出来ないのだろうな。
それに、今のお前には何を言っても無駄だろう。
何を考えているかは知らないがせめて、私の計画に障らぬようにな」
「父さんさえ僕の邪魔をしなければ、多分上手くいくさ」
「そうとは限らん。補完計画は私だけの所有物ではない。
老人達の権威とて軽く見られたものではないし、第一私がユイを取り戻すとなれば……ゲオルグが黙っていまい」
「ゲオルグ?」
シンジには初耳の名前だった。つい、不遜な筈のシンジが一瞬素に戻って尋ねる。
「元来ユイの家元の碇家は、その名前が示すとおり海運公社から興った富豪だと言われている。
故に西洋の諸侯や富豪とも親しく、特にゲルマン系との混血が盛んだったらしい。
無論、お前にも僅かながらその血は流れている」
「そんな話は要らないよ。それよりゲオルグって誰なのさ」
焦れたように尋ねるシンジに、ゲンドウはようやく少年らしい鱗片を垣間見た。
それに気を良くしたか、ゲンドウにしては珍しく饒舌に言葉を紡いだ。
「ゲオルグ=碇=ニーヴェル……ドイツ人を母に持つ、ユイの腹違いの兄だ。
が、ユイはとうに兄妹の縁を切っている」
「どうして?」
「あれは人外の道に走った男だ。自分の妹に異常愛を示し、そしてユイに自らの子を宿そうと企んだ」
「!」
「近親交配によって生じる劣化遺伝子を利用した特殊生命体、そしてアダム遺伝子との融合による神格化。
その異端な研究理論は、あの老人達でさえ危険視し抹殺しようと企んだ。
やがてゼーレを追われたとは聞いているが、あの男の事だ、諦めはすまい」
その激白は、シンジに少なからぬ衝撃を与えた。墓石を見下ろしたまま、押し黙るシンジ。
そして苦々しく語るゲンドウの脳裏には、刹那レイの顔が浮かんでいた。
荒涼とした雰囲気に、湿った風が掠めていく。二人の額に浮かんだ脂汗を拭うかのように。
「……お前は私とゼーレの確執を気にしているのかもしれんが、事態は最早それだけでは済まないのだ。
しかし、それに合わせたかのように、あの男がこの世界に現れたのは……天命という奴かも知れんな」
「あの男?」
振り返った先に、はにかむサングラス姿の青年を認める。
二人の墓参を邪魔せぬように遠くから眺めていた、ノヴァスターである。
「父さん、あの人は一体誰なのさ」
「お前に分からないようなら、私にも分からん。あれはそういう奴だ」
「?」
はぐらかされたような印象を受けながらも、シンジは結局それ以上は聞き出せなかった。
「……私は少し、あいつと話がある。お前は先に戻っていろ」
「父さんの指図は受けないって言ったろ」
口では不躾に言い放ったが、シンジは大人しく席を外し、ノヴァスターの車に戻っていった。
「……ゲオルグの事、教えて良かったのか?」
シンジと入れ替わるようにして墓石の前に立ち寄るノヴァスター。
やはりその背後から声を掛けるようにして、ゲンドウが呟いた。
「今のシンジの見知らぬ、でもいずれ相見えるであろう相手ですからね」
「しかし解せんな。今頃になって何故ゲオルグが……」
「今頃、だからですよ。あなたの知らない間にも、何年も掛けて用意周到に企んでいたんですから。
いずれ組織ぐるみで雌雄を決する日も来るでしょう。たった一人の女性の為に……少し理不尽ですけど」
それだけを語ると、きびすを返してシンジの後に続く。
「お前は弔って行かないのか?」
「まさか。俺の両親は健在なんですよ」
「……そうか、そうだったな」
「それでは」
やがて肩を並べて墓地を立ち去っていく二人の背を見送りながら、ゲンドウは静かに一人ごちる。
「あの男が……遂に動いたというのか。ユイを……妹を私から取り返す為に。
奴の恐ろしきは権威や暴力ではない、妹への偏愛と執心に駆られた嫉妬故に、何をしでかすか分からぬ所だ」
先頃から不快な汗が一向に止まらないのは、決して気候の為だけではない。
ゲオルグの復讐を予感したゲンドウは、その言い知れぬ不安を隠せないのだ。
―――そして全ての事態が、この時を境に風雲急を告げ始めた。
第三十章、公開です。
ユイってそもそも純粋な日本人なのだろうか。そう思えてきたのが今回の設定の始まりです。
髪の毛が黒くないのはアニメのお約束にしても、彼女自身の生い立ちや立場を考えると、一介の日本人であるとも考えにくいし、しかしそこまで特別な人間でもないだろうし。
中間を取って、特殊な本家から出奔し独立した女性ではなかったのか、などと考えてしまいました。
作品のテーマ性に関わる部分なので、この辺は今後も考えどころです。
さて次章ですが、私が第三部に於いて最も書きたかったパートと言っても過言ではありません。
本作の折り返し地点である部分であり、またシンジやアスカ達にとっても大きな岐路となります。
第十二使徒の来襲。それは即ち「ゲート」の開く貴重な瞬間。
その中で繰り広げられる、全く同じ姿形でありながら正反対の決意と苦悩を抱えたもう一人の自分自身との対峙、過去の過ちへの後悔、そして葛藤。前中後の長編で、書き上げたいと思っています。
それでは、また次回……。
その前に、某さんの鬼畜なリクエストに応えねばっ(爆)