それは特赦と呼べば聞こえはよいが、利用価値を見いだされた者の悲劇と呼ぶのがむしろ似合っているのかも知れない。
第十一使徒を殲滅した一週間後、シンジは予定より早く赦免され営倉から出る事を許された。その命令自体はゲンドウの直接の指揮による物だったが、その横に立ちつくしながら不敵に笑っていたイリアの思惑の方が実際の所。彼女の意志一つで、叩き込まれたり出されたりと忙しない処遇を受けてもシンジにはその真相に突き当たる事も出来ず、ただ彼女の成すがままに従うしかなかった。
そして、通常の生活に戻れる事になった筈のシンジは、翌日からいつも通りチルドレンとしての日課を送る事になる。その復帰第一日目に彼を待っていたのは、イリアの指揮の元行われたエヴァ同士の模擬戦闘訓練だった。
「くっ!!」
歯を食いしばったシンジが、やむなく初号機を数歩後退させる。
間髪入れず弐号機が、両手に握りしめていたソニック・グレイブを初号機の頭部目掛けて振り下ろす。初号機はその斬撃を辛うじてプログナイフの刃で受け止める。こんな芸当が出来るのも、初号機用のプログナイフを大型の刃に換装していたからであろう。
「この、このこのぉっ!!」
防戦一方の初号機を次々と攻め立てる、アスカ操る弐号機。一見無造作なまでに連続して振り回されるソニック・グレイブを、シンジはその度々毎に間一髪で受け止め続けている。
「どうしたのサード! いつもの威勢は何処へ行ったのよ!」
反撃しないシンジを相手に、図に乗ったアスカが戦闘の合間にもシンジを軽んじて挑発する。その程度はイリアも黙って見て見ぬ振りだ。懸命にインダクションレバーを操作している目の血走ったアスカの後ろでは、戦闘補助と記録計測を引き受けているレイが淡々と自分の任務だけを担っていた。
実際アスカの勝ち気に乗じたかのような弐号機の斬撃は一撃一撃が鋭く、シンジは防戦から転ずる事が出来ないでいる。
「このっ!」
それでも何とか斬撃の合間を縫って初号機が右腕を突き出すが、弐号機はそれを難なくかわす。初号機の右手には特に細心の注意を払っている為に、アスカにとってシンジの狙いは明確だった。
「ぐっ!」
逆に、その隙を縫って弐号機のソニック・グレイブが初号機の脇腹を襲う。直前で初号機の左手が辛うじてその柄を受け止めるものの、初号機の片手対弐号機の両手分の力では依然力の分が悪い。
一瞬互いの動きが膠着する。と、間隙を縫って初号機が弐号機の胴体を蹴り上げた。
「いったぁっ! こ、このおっ!」
更に頭に血が上ったアスカがヤケになってソニック・グレイブを振り回そうとするが、
「それまで!」
イリアの一声で、模擬戦闘は終了させられた。
「……二人ともやや戦闘態勢に問題が見られるな。後で私の所に来るように」
後には不満げで物足りなさそうな表情をしたアスカと、虚ろなシンジの顔だけが残された。
(所詮は子供か)
吐き捨てるイリアの本心。
たとえシミュレーター画面内での戦闘とはいえ、その精度は高い。
技術課の職員達が忙しなく働き回る第七ケイジで、戦闘訓練後に精密に算出されたレポートを片手に、イリアが三人のチルドレンを集合させて総括する。
「私自身、初めて二人の戦闘訓練状況を見学させて貰った。
一度、直接君達の純粋な戦闘能力が調べたくてな、今日の臨時的な処置を設けたわけだが……。
まずは、ラングレー」
「は、はい!」
畏まってイリアの前に一歩踏み出るアスカ。横で立ちつくしていたシンジには何故かその些細な仕草気に入らない。常に高慢気なあのアスカが傾いでいる、その様が将にイリアに体の良いように利用されている気がしてならないからだ。そして、その理由は薄々シンジにも理解でき始めている。
そう、イリアという存在は夢の中で見たアスカそのものの姿なのだ。
シンジを毎晩のように苦しめ続ける悪夢に現れるアスカ……愛情に荒み、人の温もりを忘れ去ってしまって久しいすれっからしのあのアスカから感じる物と、今のイリアから感じられる物はひどく酷似している。だが、そのイメージをまだ正確に言葉に出来ないのが苦々しくもある。
只の直感に過ぎないが、それでもシンジには一つの確信があった。今のままアスカをイリアの性格に染めてしまえば、間違いなくアスカは誤った未来の姿を学んでしまうだろう。
だからと言って今のシンジに、それを警句するような手段は一切取れない。イリアの言葉とシンジの言葉、アスカが今どちらの言葉を受け入れるのか、信用するのかは明白だ。
「ラングレーの方は、模擬戦闘訓練の成果は幾分高まっているようだ。
シンクロ率もレイとの双互換増幅システムが効果を現しつつあるからな、その能力具現性も高い。
が、惜しむらくは攻撃が、直情に任された短絡的な物になってしまっている。
以後気を付けるように。冷静に心理面を対処できれば何も問題はないのだからな」
「はい、分かりました」
実際、こんな従順なアスカをシンジは知らない。偽りの仮面だとか、体裁だとか、プライドだとか、そんな表面上の問題でもないにしろ。
(僕にとってのノヴァスターさんも、もしかしたら同じなのかな……)
ノヴァスターには当然イリアのような感情の棘はない。それでも、自分が何処まで彼を知っているか、と聞かれれば殆ど知らないのがシンジの現状。イリアがアスカを導こうとしている事と、ノヴァスターが自分を導こうとしている事の是非に対する明確な境界線が、シンジの心はまだ明確に見いだせない。
(……止めよう。僕が誰かを理解できるかも知れないなんて、それだけで有り得ない幻想なんだ。
それが出来なかったから、今の僕がいるというのに……僕には何も分かるわけ……ないんだ……)
辛い過去を思い起こす時、限ってシンジはその右手を堅く握りしめたり、離したり。
彼が独りである限りは、その癖が止む事は無い。
結局考え事の最中は、イリアの言葉を殆ど上の空で聞いていたシンジ。
イリア曰く「サードの戦闘術は、シンクロ率の高さだけに依存した攻防の理屈を知らない素人芸であり、基礎的な部分の訓練が不可欠」との事。
言われてみれば、自分は逐一使徒の性質に合わせた対応を練ってはいるものの、それを応用していたのは総じて、過去の体験に裏付けされた大雑把な戦闘状況だけだった。実際、細かい操縦技能を強く必要とした戦闘を、シンジは殆ど知らない。まして、レイやアスカのように幼少の頃からチルドレンとしての長い経験がある訳でもない。
いくら使徒が知能的とはいえ、人の乗ったエヴァを相手にすると流石に勝手が違う。まして相手は自称エリートを語るだけはあるアスカだ、小細工で押し通せる相手でもない。
だからシンジは今回の事で、自分の弱点を知った気がしていた。そう、所詮「史実を知っている」などと言うアドバンテージは比較的対応の容易な使徒を相手にした場合だけだという事を。純粋な戦闘技能では、やはりチルドレンとしての時間を長く生きてきたアスカの方に一日の長がある事は否めない。
シンジは自己の欠点であるそれを補うべく、唯一最後の手段を取る事にした。
そうと決まれば、シンジは早速自室への帰路を急ぐ。
ところがその自室では、慌ただしく駆け込んでくるシンジを後目に、ノヴァスターは台所で悠長な鼻歌なぞ歌いながら、至極楽しそうに料理しているのである。シンジの立てた物音に気付いて、ヒヨコエプロンで手を拭いながら振り返るその穏和な仕草が、何とも小憎らしい。
「どうしたんだシンジ、慌てた顔してさ」
「はぁ……」
彼の間の延びた声を聞くと、情けないような安心したような奇妙な感覚に捕らわれてしまう。これから面持ち堅く相談しようとしていた自分が馬鹿馬鹿しくなる。
「はぁ、じゃ分からないよ。血相変えてどうしたんだって聞いてるんだからさ」
「わ、分かりました。話しますから……ちょっとはそれらしい態度を見せてくださいよ」
シンジが言うのは、相談される相手にもそれなりに堅い面持ちになって欲しいという、いわば状況作りである。形から入る日本人特有の苛立ちとも言える。
「ん……分かったよ」
ノヴァスターもエプロンを外すと、そんなシンジを真正面に捉えて向かい合った。
「で? どうしたのさ?」
「はい、実は……」
自分の悩みを話せるようになっただけ、彼らの距離は近付いていたのだろう。まだシンジが他人と一線を画す頑なな感情を持っていたとして、ノヴァスターにはさしたる問題とは思えなかった。
そう、シンジの心の深遠に、まだ彼女達への秘めたる愛情がある限り、それはノヴァスターにとっても希望と同意義なのだから。
「……という訳なんです。だから……僕は力が欲しいんです。
無闇に力だけを求める事が良い事だとは思ってません。それを使う時に分別くらいは付けられると思ってます。
だから……僕に彼女達を守られるだけの、彼女達より勝るだけの力をください。
あなたが持っているだけの力と知識を……僕に授けてください!」
真剣な面持ちで訴えかけるシンジの態度は一途である。が、 まるでノヴァスターを神か天使と見間違えているかのような物言いは間違いなくノヴァスターを引かせていた。
「ちょっ、ちょっと待った。俺にはそんな大層な事はでき……」
「嘘だっ、あなたなら出来るはずだっ! 僕に、『雷壁滅砕掌』を教えてくれたあなたなら!」
シンジの確信と決意は変わらなかった。ノヴァスターにはそれだけの知識がある。場合によってはリツコよりもエヴァの知識に長けている彼ならば、或いは……と。
既にシンジは心の何処かで、彼を只の一技術員だなどとは信じていなかった。
そう、彼はもしかしたら、自分の技術と知識をも越える―――。
「わ、分かった。そんな調子で見込まれたらこっちだってそれなりの態度で出るしかないよ。
……俺で出来るだけの事は教えてあげるさ。ただし……」
「わかってます。文句は絶対に言いません」
奇特で突飛ではあるが、実用性があるのがノヴァスターの教えならば、一時だけでも己の頑なさを忘れるしかない……シンジはそう割り切った。要は、自分自身の最終目標に届きさえすれば……という、がむしゃらな感情だ。
「へえ……随分と腹を括ったもんだね。アスカに引き分けたのがそんなに悔しいか?」
「悔しいとか、そんなんじゃないんです。ただ……強くなればなるほど目的が近くなると思ったから、
もし使徒に負けたりしたら、その時点でみんなの未来が無くなってしまうと考えたら、僕は……」
サードインパクトの形は一つではない。ゼーレという力の関わらない、使徒が引き起こすサードインパクトとて有り得るのだ。その時彼女達の、いや世界中の運命は何処に向かうかはシンジにも分からない。ただ、それが自分が彼女達に求める未来であるという保証など全くない。
反面、サードインパクトがあの二人の欠けた心を満たす最善の手段であると知れば、シンジは自らの手でそれを引き起こす覚悟だってある。酷く偏った愛着とも取れる端的な行動意欲だが、シンジの愛着に関した原理はそういう性質なのだ。
ひどく愚直で短絡的で、青臭い……ノヴァスターにとっては、そんなシンジの素直さが時折眩しくもある。
「……そう辛い顔しなさんなって、何とかしてやるさ。
じゃあ取りあえず、明日一日俺に付き合って貰おうかな」
そう呟く彼の顔は、まるで絶好の悪戯を思い付いた子供のように嬉々としていた。
翌朝の日曜日。
シンジは珍しくノヴァスターより早く目を覚ます。眠い目をこすりつつ寝床から起きあがったシンジは二段ベッドからそっと降り、動きやすい服装に着替えると、まだ眠っているノヴァスターを起こさないように忍び足で部屋を出ていく。
だがその様子を全て薄目で見守っていたノヴァスターが、自身もいつものランニング用の服装に手早く着替えて、シンジの後を追うように部屋を出る。
まだ陽の登り切らない青白い空が映るジオフロントの中庭に、のんびりと膝の屈伸運動をしているシンジの姿があった。シンジは自分の方に歩み寄ってくるノヴァスターに気が付くと、彼にしては随分と爽やかな笑顔で挨拶を掛けた。
一つ、吹っ切れた物を得た……そんな軟らかい表情だった。
「おはようございます、ノヴァスターさん」
「お、おう。随分と元気だな……しかも妙に爽やかと来た」
こうなると逆にノヴァスターの方が気圧されてしまう。彼自身にとってもシンジの今朝の態度は意外だった。
「……あれから一晩中考えたんです。僕は確かに臆病で陰湿でどうしようもない奴だけど、
エヴァという力を使える以上、僕には僕なりに出来る事がある筈なんです。
それは決して正しい理由から来る動機じゃないとは思います。
……やっぱり僕は、自身を憎む僕を覆す事は到底出来ませんから。
でも、でもそれが戦う動機ならそれでも良いだろうってノヴァスターさんが言ってくれたから、
それで何か吹っ切れた気がして、でもそれだって決して真実じゃないんだろうけど……」
「体裁に格好を付ける必要なんかないさ。何が正しいかなんて俺だって知りはしないんだし。
君が決めた事で、君が動く。何もおかしい事じゃない、それだけでいいんだよ、きっと」
「はい」
朝露のように清々しいシンジの返事に、ノヴァスター自身なぜか心が洗われる感じさえする。やっぱり子供は素直なのが一番可愛いのかな……そんな事を考えながら。
(子供……か)
ふと、自分を郷愁的にさせる、そんなシンジが小憎らしいとさえ思えた。
「それじゃ取りあえず、日課のランニングに付き合ってみるか?
その後に朝食を摂ったら、ネルフの射撃場を借りる事にしようか」
「え、射撃場って……? 射撃訓練をするんですか?」
「君自身の、拳銃の射撃訓練だよ」
「えっ、ええっ!? そんなの聞いてませんよ!」
「だろうねぇ、何せたった今言ったばかりだから」
「……そんな……」
確かに、最初からこれでは先行き不安である。彼の理屈はいつも限って突発的で、思いも寄らない角度の志向性を持っているのだから。
「さ、それじゃまずは走り込むか、人間基礎体力が肝要だからな!」
ノヴァスターに引っ張られるようにランニングを始めるシンジの心には、既に漠然とした不安が広がり始めていた。
そして朝食後、二人はネルフ本部の地下にある射撃訓練場へと足を運ぶ。
訓練場は、本来ネルフのC級職員以上の人間に対して必修として課せられている射撃訓練の為に設備されているものだが、元来対人戦用ではなく使徒戦用の軍施設であるネルフにとっては、最低限以上は使用される事のない訓練設備であり、ましてプライベートで利用する酔狂者など存在しない。
とかく寂れた射撃場を目の当たりにして、却って好都合とばかりに思うノヴァスター。
「碇司令の許可は予め取ってある。撃ち放題で構わないってさ。どうせ誰も使わないからな……だと。
エヴァにも銃はあるんだから、君自身が得手になれば今よりも役立つと思うけど」
「で、でも……」
起き抜けとはうって変わって、今のシンジからはやや覇気を感じられなくなっている。
だがそれも当然とも言える。シンジは自分達に襲い来る「敵」をエヴァという力で排除する為だけに今もネルフに居るのであって、自分自身が銃による「人殺しの技術」を学ぶ必然など考えた事もなかった。
第一、これ以上自分が誰かに犠牲を強いるなど、考えたくもない。が、自分の道がそういう道である事も理解できていない訳でもない。
「……銃というのはつくづく無情な武器なんだよ。人が誰しも背負っている宿命や意思や愛憎、
そしてその人間が今まで親や友人や恋人達に育まれ培ってきた何十年という人生の重みさえも、
たった数十グラムの鉛玉一発で全て無に帰してしまう、冷酷な兵器だ。
俺は戦場で、脳天を打ち抜かれて死んでいる亡骸を見る度に、そんな事を思ってた。
だから銃という武器を持つ者には、それなりの覚悟という奴がいるはずなんだ。
でも実際は、向こうも持っているから自分も持つ、そんな程度の理屈がまかり通るから、
核という武器さえもこの世には誕生した。一発で何十万人の意思を飲み込んで死滅させる魔の兵器……。
エヴァもきっと理屈は同じなんだろう。他人の意思を強制的に黙殺したり、命その物を奪ったり。
シンジ、俺が教えたいのはそういう事なんだ。武器という物は、他人を排除する為にあるという事。
どのような経緯がある以上君が武器を手にしたからには、その覚悟を持ってほしい」
ノヴァスターは長い経緯を話しかけながら、小腰からそっと愛用のガバメントを抜き取り出す。
シンジの堅く握られた手をそっと開いてやりながら、その重い鉄の塊を握りしめさせようとする。
「君にこれを預ける。数年間俺の命を救ってくれた相棒だ。きっと君達を守ってくれる」
「ま、待ってください! 突然そんな事言われても、僕には何がなんだか……」
「そう言うと思ったよ。というより、そう言ってくれる方が俺としてはむしろ助かる。
武器を持つ者は臆病なくらいでちょうどいい。いざという時にだけ引き金を引ける人間なら尚ベターだ。
俺も最初は躊躇した。鉛玉一発で人の意思を消し去ってしまう戦場という場所に踏み込む事を。
でも……それに引き替えてでも俺には護るべき存在の人達がいた。
だから俺には、戦場で血を浴びる決心さえも出来たんだ。
ちょうど、君が自分を汚しつつアスカやレイを守ろうとする決意に似ている……今はそう思える」
「そんな!? ノヴァスターさんは僕なんかよりずっとずっと大切な想いを背負っているから、
僕なんかよりもずっとずっと大切な人を大切に出来る心を持っているから、だから出来るんだ!」
「そう思ってくれるのなら、せめて君に、俺とその想いを共有してほしい。
人を殺める決意が、只の殺伐とした感情にならないように、常に自分を自制できるように」
「ノヴァスターさん……」
「シンジ。君には……護る為の力という物を覚えてほしい。
互いに、何よりも護りたいと願う存在を見つけた者の、義務と特権として」
彼が、とかくシンジに自分を重ね合わせて諭そうとしている理由は、もしかしたらシンジ自身も感じつつある、連帯感とも親近感とも例えにくい感覚の照らし合わせなのかも知れない……シンジにはそう思え始めてきた。シンジは己の価値観がひどく周囲から浮いた、厭世的で奇異的な代物である事を知りつつも、同時にとても近しい存在の人間に目聡くなっている自分をも知っているからだ。
そして、それはノヴァスターも気が付いているのだろう。だから、あえてそんな廃れた自分の価値観に併せて、彼自身も諭してくれているのかも……そうも思えた。
性格はともかく、本来の彼の素性にはまだまだシンジの知り得ない裏があるのも確かなのだ。
「…………わかりました」
一つ、静かに頷いたシンジが、自らの意志でゆっくりとガバメントを受け取りその掌に収める。ノヴァスターの愛銃は意外と持ちやすく、不思議とシンジの手に馴染んだ。まるでその銃自体が、シンジの手の中に収まる事を長い間待ち焦がれていたかのようにも見え、同時に、無機的で寒々しい鉛の重みをもズシリと感じられる代物だった。
それに、初対面の時に握らされたもう一丁の、コンバットマグナムの時にも似たような感慨を覚えた記憶は朧気にあった筈なのだ。尤もあの時はその事に気付くほどシンジに心の余裕は無かったが……。
言葉だけではなく、物自体から発せられる嘘の吐きようのない一体感。今はそれがシンジを深く納得させる。
「これが……僕の力、ですか?」
「力は、使う者を選ぶんだよ。力という物は原則的に、狂気に取り付かれた人間の専売特許だ。
けど世の中には極まれに、その狂気を取り払う為に授けられる力という奴が存在する……俺はそう信じている。
だから、周囲の反対を押し切って俺はこれを手にした。俺が17歳の時の話さ」
ノヴァスターは語る合間にシンジの両手を取ると、射撃場の10ヤード向こうに見える射的に向けて銃砲をゆっくりと持ち運んで見せた。男にしては繊細な手に包まれているシンジの両手は、その温もりに少しだけ怯えているようにも見えた。
「両手でしっかりと構えて……狙いの付け方は分かるな。
そして一呼吸置いてから、ゆっくりと引き金を引くんだ」
ゴクリ、という喉を鳴らす音が、隣のノヴァスターにまで聞こえた。シンジは渇く喉を唾で濡らすと、ガバメントの引き金をゆっくりと引く。
パンッ!
乾いた衝撃波と、手に伝わる反動はシンジが想像していたよりは意外と小さかった。こんな他愛ない行為で人が殺せるのかと思うと、拍子抜けさえ感じられた。鉛玉は的の中心からやや左下を貫き、見事に命中していた。命中を確認した時に、シンジの手からノヴァスターの温もりはそっと離れていった。
「あ……当たりました!」
「そりゃあ、こんなにじっくり狙っていたら素人でも当たるさ、
戦場でこれだけゆっくり待ってくれている奴がいればの話だけどな。
本番では、どれだけ早く正確に狙いを付けて、かつ相手の狙いをかわせるかに掛かっているんだ。
ま、態勢が一通り形になるまでは、最低三年は掛かるかな」
「さっ、三年ですか!? 半年以内にまかりならないんですか!?」
シンジにしてみれば、自らの戦いに三年も掛けるつもりはない。たった半年後には襲い来るであろう人類補完計画の悪夢と戦う為だけの存在と自己を割り切っている以上、半年で物にならない教養など何の身の足しにもならないのだから。
「ばかもんっ」
ピコンッ!!
「てっ!」
実際には殆ど痛くもない衝撃だったが、頭を叩かれたシンジは反動で思わず叫んでしまった。見れば、ノヴァスターの右手には何処から持ち出したのか、プラスチック樹脂製の赤いハンマーが握られていた。
「フフン、驚いたか。この間100円ショップで見つけた代物さ」
「聞いてませんよそんな事は」
「そう言うと思って自分から言ったのさ」
「……はぁ……」
呆れて物も言えないとはこの事だ。
「昔の人は良い喩えを言ったな、『桃栗三年柿八年』。
つまり、どの世界でも何かを修養する為には最低でも三年は掛かるんだっていう喩えだね」
「……そんな事言って、本当にこれが実になるんですか?」
「だいじょぶだいじょぶ、一生懸命こなせば役立つハズ……多分ね、多分……」
何とその場任せで頼りない助言だろうか。余りの情けなさに、シンジの撫で肩が更に傾いた。
「……僕を使って遊んでませんか?」
核心を皮肉ってみたつもりのシンジでも、
「下手に生真面目なよりも、遊びながらの方が身に付きやすいだろ?」
とあっけらかんと返されたのでは打つ手もない。「糠に釘」「暖簾に腕押し」……ついそんな比喩が脳裏を掠めるシンジであった。
「……あなたの天然度には勝てません……」
「やー、なかなかどうして褒められたよ」
「褒めてませんッ!」
この人を相手にすると疲れる……シンジは先行きに暗い暗雲の存在を見ずにはいられなかった。
「ま、この訓練に関しては長い目で育てていかなくちゃな。
半年もすれば、まあ形くらいにはなるだろうし。さて、次に行こうか」
「……はい」
どこか暗い暗雲に閉ざされた予感がするまま、それでも渋々付き従うシンジ。
「……今度は何処へ行くんですか?」
「元々は、操縦の事であの女に叩かれたんだろう?
だから今度は操作のイロハを教えてあげようかと思ったんだけど……何か怪しんでる?」
「今度こそは、エヴァの操作の事ですよね……?」
一応、何を企むか知れぬノヴァスターの発案を案じて、確認は取るシンジ。
「残念ながらそうなるね。君があと四年……いや二年歳を食っていたら単車の扱い方も考えたんだけど」
シンジは溜息が出そうになったが、出してしまうとそこに突っ込まれて話が更に長くなるので我慢の子。
そんなシンジの苦節も知らず、ノヴァスターは手元の腕時計に視線を落としている。
「この時間ならそろそろリツコさんも出勤しているだろうし、借りられるだろうな」
「またリツコさんに何か手伝わせるつもりなんですか?」
「エヴァを使うならしょうがないだろう?
それに、その手間に報いるだけの努力をすればいいだけの事さ」
「はぁ……」
ノヴァスターは自分をシンプルな思考の持ち主だとは言うが、そのシンジ本人にとってはノヴァスターこそが最もシンプルな発想の持ち主にも思えた。
努力すれば必ず報われる、希望は強く願えばいつかは叶う、恋い焦がれれば想いはきっと通じる……そんな夢のような話ばかり信じて、それを運良く叶え続けて生きてきたような人だと、そう見えた。自分のように、地獄絵図のような惨劇を知らずに育ってきた人なのではないかとさえ思われた……いや、シンジの境遇にとってはそうであって欲しかったのかも知れない。
何故なら、彼は周囲を喜ばせ、明るくする才能に溢れている。それは、不遜なシンジさえも時折顔を綻ばせるほどに。それが理解できるシンジにとっては、そのめげない爛漫さと強さを他の人に向けて欲しかった。
そう、自分がかつて恋い焦がれ、想う事の出来たたった二人の少女達の為に……。
「? 何ボーッとしてんだシンジ。考え事なら後にしなよ、とりあえずリツコさんの所に行くぞ」
思い込みの強いシンジに業を煮やし、背を押して連れ立っていこうとするノヴァスターの顔は、実に楽しさに満ち溢れている。反面、屠殺場に連れられていくかのような表情をしたシンジの姿が実に対比的だった。
リツコが小難しい顔をしている。限って、ミサトに理不尽な相談をされた時の表情だ。
尤もこの場合、彼女に無茶な要求を求めたのはノヴァスターであったが。
「……それは非常に難しい相談よ、ノヴァスター君。
もしそれが出来るようなら、私達だって子供達だけを戦わせたりはしないわ」
「それは分かってます。でも簡易的な連動システムを組むくらいなら問題はないはずです。
ユニットステータスを弐号機に合わせて、シミュレーター上だけで戦闘する分には」
「確かに、それで良いならさして手間は掛からないけれど……でも、それで彼の実になるの?」
「十分ですよ」
先日の使徒侵入の件で、ネルフの電算システム系統は軒並み被害を被っている。技術課員などは総掛かりで連日の復旧作業に追われ、正直この時期にチルドレン一人の私事にかまけている暇などはない。
リツコとてノヴァスターが強く依頼するから渋々引き受けたような物である。だがそこは計算高いリツコの事、ノヴァスターの申し出の裏をそれとなく読みとって、打算を含めて引き受けてようとしている節がある。
「いいわ、引き受けましょう。シンジ君はプラグスーツに着替えて初号機に、ノヴァスター君はこっちよ」
ノヴァスターは目線で、後ろに控えていたシンジに合図を送ると、シンジも無言でラボを退出する。ノヴァスターが何を企んでいるかはリツコ共々、薄々読めているので、今は様子を見ていると言って良い。
一方のノヴァスターは、リツコが別途に用意した予備のエントリープラグへと連れて来られる。そして手で招いて、プラグの中を指し示す。どうやら「入れ」と言っているようだ。
「あくまでこれは簡易的なシステムよ。言い換えれば二本の操縦桿だけが使えるラジコンと一緒だから」
「構わないですよ。むしろ簡単でいい」
「ふう……それもそうね。LCLは使わないからその格好のままで構わないわ。
システムのサポートは、今技術課員が出払っているから直接私が指揮するから。
私が指令塔に戻ってから起動させるから、それまで待っていて頂戴」
第一発令所から操作する方がシステム面で優れているのだが、今発令所に居るであろうイリアの事を考えると得策ではない。そもそもイリア本人が発令所のシステムを総借りしてアスカとレイを連日のように訓練している。傍目には何も咎められた事ではないので、割り入りようもない。
それに対抗するには、技術課長のリツコと言えどこんなアンダーグラウンドな立場に勤しむ必要があった。だが彼女自身は、イリアにある種の対抗心があるのでこの作業自体にはやぶさかではない。
「それじゃ、頑張って」
色んな意味を含めた励ましの言葉を掛けつつ、リツコはプラグの側を立ち去る。
「……始めるか」
ノヴァスターは自身には小さく感じるエントリープラグ(シンジ達中学生の体格向きに作ってあるのだから当然ではあるが)に無理矢理身体を押し込む形になりながら、俄然やる気のある自分が不思議だった。
中は至って無機的な円筒。そんな鉄の筒を内部から見渡しながら、操縦席に座ったノヴァスターは静かに呟いた。
「久しぶりだな、この感覚……」
一方、いつも通りのエントリーを済ませ、LCLの循環溶液を肺に染み込ませているシンジは、黙って眼を閉じてただひたすら出番を待っていた。
昔は嗅ぐ度にザワザワとした不快感を感じた血の匂いも、今では大分慣れていた。「無感動になっている」方が正しいと、自分では思っているらしいが。
《シンジ君?》
モニター越しにリツコに呼びかけられて、静かに目を開くシンジ。
《ノヴァスター君の方も準備ができたから、このシミュレートシステムを二人に簡単に説明するわ》
そのリツコの様子は、同時にノヴァスターのプラグ内モニターにも映っていた。
《シンジ君は、昨日アスカ達と模擬戦闘訓練したわよね。
その時採取した弐号機のデータのステータスを引き継いだ形で、
ノヴァスター君がモニター画面内の弐号機を操作できるようになっているわ。
勘違いしないで欲しいのは、ノヴァスター君は弐号機とシンクロしているのではなくて、
あくまで弐号機の能力を貸りているに過ぎないという事。
実質その為の弊害が多くて、とても操作性の保証は出来ないのよ、分かる?》
「……はい」「大丈夫ですって」
限って気楽なノヴァスターの返答。だが彼の側としては慎重すぎるきらいがあるリツコを急かしているに過ぎない。
《こちらの準備は完了したわ。午前中の間なら自由に使ってくれて構わないから》
「了解。一応戦闘記録は撮っておいてくださいね」
《心配しないで。私一人でもそのくらいの事は出来るから》
自分でも随分面倒見の良い事だと思いつい失笑してしまうリツコ。そういう柄ではない性格の筈だけに、「変えられた自分」という倒錯的な感覚さえも受けてしまう。尤もそれが嫌で仕方ないのならば、こうもノヴァスターとシンジの秘密訓練に律儀に付き合うわけもない。
「さて……行くぞシンジ」
ノヴァスターがゆっくりと操縦桿を引き上げた。シンジもそれに応える形で、操縦桿を引き上げる。
《シミュレーター、起動開始!》
画面の中は、夜間を想定した第三新東京市街地をモデルとした戦闘フィールドが構成されていた。
朧気に浮かぶ街明かりの中、六車線道路に佇む初号機。だが肝心の弐号機の姿が何処にもない。
「!?」
シンジは一瞬システムの異常かと思ったが、どうやらそうではない。
その証拠に、初号機の頭上に何か黒い感覚が蠢いているのを感じた。
「腕前の割にはカンが効くんだな」
ついと見上げた高層ビルの屋上に、暗闇を纏った赤い巨体を認める。
「ノヴァスターさん、いつの間に!?」
「……こっちに感心している暇はないと思うよ」
その声は初号機の背後から聞こえた気がした。目を見開いたシンジが素早く振り向くと、ミドルキックを炸裂させようとしている弐号機の姿。その姿を脳裏に焼き付けようとしたかしないかの間に、初号機は数十メートルも蹴り飛ばされてしまっていた。
「なっ!? いつの間に!?」
数値上には、初号機の脇腹に著しいダメージが確認される。
相手を確認する暇もなく先制攻撃を食らった事に焦るシンジ。
「なんて迅さなんだ!」
そう叫んだ直後には、既に弐号機の拳が初号機の腹部を狙い澄ましていた。とっさに腕を腹部で交差させ、防御しようとしたシンジだったが、一直線に腹部を狙っていた筈の拳が直角に軌道を変える。
途端顎を吹き飛ばされ、初号機が仰け反る形で張り倒された。
「そ、そんなっ!!」
「どうしたんだシンジ、プライドの高いアスカを負かして、最強を目指すんじゃなかったのか?
それが彼女達の為だと信じているからこそ、弐号機に負ける訳にはいかないんだろう?」
膝を折った初号機の眼前で、檄を飛ばしながら悠然と腕を組んで胸を張っているところが、如何にもアスカの弐号機らしい仕草だ。だがそのスペックはアスカの操る弐号機とは速度が段違いである。
「り、リツコさん、弐号機のリモート操作、正常に働いているんですか!?」
アスカ以上の戦闘能力に気圧されたシンジが、ついシステム性に疑問を抱いた。
「コラコラ、今更リツコさんに泣き言なんてなしだろ、シンジ。
今の俺はあくまで、アスカとレイの相互シンクロ効果に基づいた性能を持つパイロット。
違いますかリツコさん?」
二人の言葉に、モニターの中のリツコが静かに頷いた。
《本当よシンジ君、システム面の異常は見あたらないわ。
ノヴァスター君自身の運動神経は本来のパイロットの性能を遥かに凌駕している……けどそれだけなの。
他の面ではアスカとの能力の違いはない筈よ》
実際、リツコの手元で計算されているステータスは子供達の戦闘記録と同じレベルだ。ノヴァスター本人が反応する反射神経速度だけは飛び抜けて早いだけで、それ以外の部分では全てアスカと同レベル……加えてノヴァスター自身が弐号機にシンクロしている訳ではないので、操作にも多少のラグが発生する筈。
だがその欠点を補って余りある程、ノヴァスターの格闘能力は優れている。つまり、今シンジが相手をしているのは、「反射神経が今より格段に機敏になったアスカ」と喩えられる。
(ノヴァスター君が傭兵である事を考えれば、戦闘能力の高さは認めるのだけれど……それにしても凄いわ)
リツコには、ノヴァスターがチルドレンで無かった事をつくづく悔やみ、その戦闘能力を惜しむ。
その脳裏には、先日彼に食事を奢ってもらった帰りの、車内での会話を思い出していた。
「それに、さっきシンジ君にATフィールドの事を事細かく説明していたあなたは、
科学者の立場で……というよりは、まるでシンジ君以上に洗練されたパイロットからの助言のように聞こえたわ。
もし私の勘が当たっていれば、あの子供達に代わってあなたにパイロットをやってほしいくらいね」
(調べてみる価値はある……)
ノヴァスターの申し出にそのヒントの手応えを感じたからこそ、このテストを引き受けたのだから。
一方、画面内の初号機は反撃に出ていたものの、弐号機の体躯には指一本掠りはしない。
「このおおっ!!」
大きく振りかぶり、弐号機の顔面目掛けて勢い良く突き出した正拳突き。ところが、
「遅い」
弐号機の腕はその正拳突きを容易に絡み取り、逆に腕ごと捕まれた初号機は一本背負いの要領で地面に叩き付けられる。模擬訓練とはいえ、その痛烈な衝撃は確実に初号機に蓄積していく。
「ぐうっ……! ち、ちくしょうっ!!」
実際の戦闘と違ってシンジ自身にはダメージは行き届かないが、相手の自由に体躯を弄ばれていては悔しさもこみ上げる。
今度は起きあがりざますかさず蹴り上げてみるものの結局絡み取られ、今度は豪快に宙を一回転してやはり地面に叩き付けられる初号機。
「……ッッ!!」
一方的な展開のあまりシンジは最早声も出ない。
「よく聞くんだシンジ。無闇に蹴ったり殴ったりしたって対人戦闘では勝てはしない。
使徒を相手にした場合と違って人間が相手なら、相手は限って、効率よくこちらの弱点を狙ってくる筈だ。
そこで攻撃をある程度予測して、相手の力を利用して投げ飛ばしたり、受け流して優位な間合いを作る。
そういう細かい心理戦が必要になるんだ。これを面倒くさがってたら絶対に勝てないんだよ」
「わかりますけど……そんな器用な事は今直ぐには……!」
「おいおい教えてあげるさ、とりあえず今は、対人戦闘のコツを覚えるといい」
「た、対人戦闘……ですか!?」
「そう。君が本当に戦うべき相手は使徒じゃない……時が来れば、それが分かる筈だ」
シンジには元来、逆境に立ち向かう努力心に欠ける自覚がある。実力内で済ませられる事には幾らか積極的にはなれたとしても、手に余る範疇になると途端に弱腰……それが今までのシンジ。
それに対する荒療治のつもりも含めて今回の戦闘訓練がある。尻ぺたをひっぱたけば兎に角動くシンジでもないが、切羽詰まった時に立ち上がる事の出来ないシンジでもない。
だからノヴァスターは、逆境で跳ね上がるシンジの力が一度見てみたかった。それが、シンジ本人の意志を動かす真の原動力となる事を期待している為である。
「そもそもシンクロ率なんて、パイロットとしての一つの測定基準でしかないんだよ。
例えば100の力を持つ者のシンクロ率が50だとして、
50の力を持つ者のシンクロ率が100だとしよう。この場合、どちらが勝つと思う、シンジ?」
戦闘中にいきなり質問されては、つい思考が止まってしまうシンジ。
「あー……えーっと……それって同じ事じゃないんですか?」
「正解、この場合全くの五分なんだ。互いに50しか実力を発揮できないのさ。
さしずめ今の君が後者で、前者がアスカだよ。尤も、50と100ってのは君達の場合としては極端な例だけど」
「つまり、今の僕の技術自体がアスカに負けているから……力が五分という事ですか?」
「そう、単純な戦闘技能だけなら恐らくアスカは君より上だ。一日の長って奴だね。
それを覆す方法はただ一つ。君自身が、高度な格闘術を学ぶ事。そしてそれをエヴァで応用する事。
生憎俺に出来るのは、そのイロハを君に学ばせる事くらいだけれど……少しはやる気になってもらえたかな?」
シンジの気力を啓発させるつもりで挑発的な戦闘をふっ掛けたのだ。せめて良い反応を見せてほしいと願うノヴァスターの期待に漏れず、シンジはこう答えた。
「なら……このままだと今の僕が通用しなくなるって事を、あなた自身で証明してみてくださいよ」
「へえ……いい覚悟だ」
度胸を決めた二人は、互いに約300m程の距離を取って対峙する。
そして初号機の掌が、鈎型を象る。目敏くそれを見つけたノヴァスターが、悟った。
そう、シンジは小手先の攻撃を諦め『雷壁滅砕掌』に一縷の望みを託す賭けに出たのだ。
「行きます……」
「おうさ、来な」
初号機が姿勢を屈めて、弐号機目掛けて突撃していく。左半身を前に出し、右腕を庇う格好だ。
シミュレート画面の中での事なので、本部内の膨大な電力を使用せずとも雷壁滅砕掌は使用可能だ。加えて模擬戦闘訓練中の彼等には直接ダメージが及ぶ事はないので安全でもある。
そして実質、あの威力が決まればその時点で決着が付いてしまう一発逆転の技だっだ。
「いくぞぉぉっ、必殺! 雷壁滅砕……!!」
間髪入れず突き出された初号機の掌は、今までの初号機の突きや蹴りを凌駕した凄まじい速度で弐号機の顔面を捉えた……筈だった。だが、稲妻と亜麻色を纏った腕は虚しく空を切る。
ノヴァスターが攻撃をどうかわしたかは見切れなかった。だが、シンジはその時点で既に己の負けを察していた。
そして、逆に弐号機の掌が初号機の鳩尾を捉えていた事を知る。残像を残しつつ初号機より更に素早く相手の懐に深く潜り込んだ弐号機は、腹部を突き上げるようにして掌を突き刺し、初号機を持ち上げんとするばかりの力でシンジを圧倒していた。
「そんな……っ!」
シンジは、及ぶべくもない戦闘能力の違いを、つくづくもって思い知らされた。
だが、絶望に沈むそんなシンジの耳元に囁くように、ノヴァスターが優しく語りかける。
「かつて、俺はありったけの力と引き替えに、俺にとって一番大切な存在を失った事がある。
だけど、その存在を取り戻して、より大事に護りたいと願った時、それ以上の力を手に入れた。
いや、手に入れようとする強い向上心を得た。そして、それを正しく使おうとする心掛けも、ね。
シンジ、君も最強である必要なんてない。ただ、理不尽な力に負けないだけの力がある事を望めばいい。
そうすればきっと……求める物も、あるべき存在も、きっと元の鞘に収まる筈だから。
エヴァの力を暴力と勘違いしてはならない。折角生まれつきの才能なんだ、お互い大事に生かそう」
かつて自分が強く抱いた後悔の念を、シンジには踏ませたくないと強く願う。だからこそ、無闇に力を求めたいだなんて、そんな虚しい様はシンジに語らせるべきではない……ノヴァスターはそう信じている。
「だからこそ敢えて今は撃つ……」
初号機の腹部に突き刺さった弐号機の掌が亜麻色に光り輝き、妖しい動向を始める。その奇怪な動きを認めたシンジが、直後に予想される衝撃の源に思い当たり、絶句する。
「まさか!」
「真・らいへ……!!」
だがノヴァスターが何かを叫ぼうとした瞬間、リツコの眼前の計器類がスパークする。
《ちょっ、ちょっと待ちなさい!! ノヴァスター君、なんて無茶するのっ!!》
不覚にも、二人揃ってリツコの怒声にビクリと肩を震わせ、気合いが抜けた二人は最早戦闘どころでは無くなってしまった。
リツコの方とて言い分はある。いくら『雷壁滅砕掌』がシステム上でも使用可能とは言え、その複雑な攻撃機構はシステム全体に強い負荷を掛ける。シンジのそれでさえギリギリ処理許容範囲内であったというのに、加えてノヴァスターが未知の技を使うべく怪しい動きを見せたところで、システムの処理能力が先に根を上げたのだ。
《全く、無茶苦茶やってくれるわね……悪いけど、もう今日はお開きよ。
お陰で解析プログラムが一通りお釈迦になっちゃって……ああ、これでまた仕事が増えたわ……》
最後の方の言葉は既に愚痴である。当の加害者の二人はただひたすら萎縮するばかりであった。
「す、すみません……」
誠心で謝ったつもりのノヴァスターの言葉が、逆に浮いていた。
《……まあいいわ。とりあえず二人ともあがって、総括してあげるから》
口調は至極優しかったが、その口元がピクピク痙攣しているのを見取った二人は気が気でなかった。
「まずシンジ君……は特に問題ないわね。昨日通りのステータスが取れたわ。
但し、雷壁滅砕掌を使う瞬間だけは一瞬シンクロ率が僅かに上昇していたわね。
因果関係は不明だけど、パイロット本人の気力の問題かしら、これって」
語る本人も訝しい表情をしながら、悪くない手応えを感じた訓練だったと感じるリツコ。
「次にノヴァスター君……には言いたい事が山程あるわ、はぁ……」
これだけ手間の掛かる人間はミサト以来だと感じてしまう、苦労性のリツコ。
「お、お手柔らかにお願いします」
「……操作性に保証は置けないと前置きした割に、あんな高速で振り回されるとは逆の意味で意外だったわ。
言い換えれば、アスカの方にも成長の余地が秘められているとも言えるけれどね。
アスカ本人の反射神経が、まだまだ弐号機の限界反応速度に至っていないという事は、参考になったわ。
ただ……その問題と、あなたが弐号機を手軽に扱って見せた事とは別の話だけれど」
「? 何か問題でも?」
「問題なら大ありよ。エヴァのシミュレーターは元々、素人が手軽に扱える代物ではないわ。
確かにエヴァにシンクロできない人間でも使いこなせるように、
最もシンプルな模擬戦闘仕様プログラムを組んでみせたけれど、それにしてもあなたの成績は異常よ。
……そろそろ教えて貰ってもいいんじゃないかしら。貴方が、一体何者なのかを」
「赤木さん……」
それはシンジとて前々から追求していた事である。しかしこうも単刀直入に切り出すリツコの神妙さに気圧されて、思わず以前の調子で声を掛けてしまう。敢えて堅苦しくも名字で呼んだのがギリギリの抑制心。
「シンジ君……私は今まで彼の人柄に免じて、敢えて強く言及しなかったわ。それはあなたも同じ筈。
けれど、彼自身薄々自分の正体を仄めかしつつある以上、言及の余地もまた生まれるの。
彼だって、本気で自身の素性を隠そうとするならばこんなまどろっこしい手法は取らない、
そうでしょうノヴァスター君?」
しばらくはリツコの言うがままに任せていたノヴァスターは、罰が悪そうに頭を掻いていた。
賢い彼女を長く騙らせる事は出来ないとは知っている。また、ひたすらに隠すべき素性であるのかどうかさえも、本人自身が疑問に思う事とて一度や二度ではなかった。
彼の意思は一瞬だけだが、この時俄に揺らいでいた。
しかし今、自分の表情を訝しく見つめているシンジの表情を確かめると、その意思は再び強固な物としてノヴァスターの胸中に腰を据える。
「リツコさん、ヒントは以前教えた筈です。それ以上は今は内密にお願いしますよ。
確かに俺はまだ素性の知れない怪しい人間だし、正直自分でも内心複雑です。
ただ、少なくともあなた達の敵に回ったり、怪しく嗅ぎ回ったりする事はありません。
……本音としては、ただ楽しいんですよ。
ネルフに居て、ミサトさん達の世話を焼いたり、こうやってシンジとマンツーマンであれこれ競い合ったり、
そんな他愛ない事が凄く楽しいんです、それだけなんですよ。
失った物を取り戻そうとして、足掻いているだけなのかも知れませんけどね……」
何処を向いて喋っているのだろう……真正面に見据えられている筈のノヴァスターの表情は、真正面の自分を向いている筈なのに、だが本当の彼は何処か、遥か遠くを眺めてつつ呟いているようにリツコには見えた。
「ならノヴァスター君、あなたにとって失った物とは何?」
「俺には、それを指し示す語彙が見あたりません。しいて言うなら『平和』かも知れませんけど、
もっと身近で親密な……そう、『日常』の方が正しいかも知れません」
あくまではぐらかされているようにしか聞こえないようでもあり、だが彼が醸し出す神妙な雰囲気は到底嘘とも呼べない真剣な物だった。
「……ノヴァスター君。人間は弱い生き物よ、隣人さえ疑ってかかる事こそ日常のように行われているわ。
世界中には飢餓と紛争と経済戦争が渦巻いている、そんな今日に、
まして貴方のように戦場の真ん中で生きてきた筈の人が、そんな事を言えるなんてね」
「犠牲は何も生みません。だけど戦争は無くなりません……人が生きている限りは、永遠に。
俺は戦争の行く末なんかに興味はないんです。勝手に滅ぶも栄えるも知った事じゃありません。
ただ、それでも護りたい、大事にしたいと思う存在が身近にいる以上、俺は戦えます」
唐突に、横にいたシンジの頭を抱えその厚い胸元に寄せる。戸惑うシンジは結果ノヴァスターのなすがままに、その温もりに抱かれる。
「それは、ここに居るシンジも同じです。こいつは博愛主義者じゃないから、
世界を使途から守る戦士としての信条を持って、エヴァを駆る事はまず無理でしょう。
シンジにはせいぜい、自分の中に抱えた淡い恋心を守る為に戦うので精一杯なんです。
でも俺は、そんなシンジの方が好感が持てる、彼の気持ちの為なら何かが出来る、そう思ったんです。
その為に素性を隠すサングラスで、その為に身に付けた操縦技術。今はそう理解してやってください」
真摯な態度でそう語り続けるノヴァスターの言葉は、確かにリツコとシンジの胸に幾分の感慨を与えた。
ネルフという組織の中で敢えて汚れて生き続ける彼女にとって、その無垢で一途な言葉は歯痒くもあり物珍しくもあったが、少なくとも嫌悪の対象でもないし、敬遠の対象にもなり得ない。
ただひたすら、お天道様に向かい合うような彼の生き様が眩しかった。組織の地下に埋もれた、不健康な体質のリツコには、彼をこんな風に育てた豊かな環境がとかく羨ましかった。
「……つまり、あなたはシンジ君に共感する物を持ったから、シンジ君の力になれるのね。
それは分かったけれど、ならアスカやレイは違うのかしら。あなたの心を打たない存在なの?」
顎の下で見上げるシンジの瞳も、全く同じ物を彼に訴え掛けていた。無言の、二つの圧力がノヴァスターの口を開かせる。
「……あの娘達は、俺にとっては特別なんです。そしてシンジにとっても同じだけ、特別なんです。
でも彼女達を救いたいという意志は、『こっち』ではシンジの方が強い。
だから俺は、シンジに力を託す事で間接的に彼女達も救われれば……そう思います」
それは恐らく少し違うだろうと、シンジの心は首を振っていた。
シンジは時折、アスカやレイ達に視線を送る時のノヴァスターの眼差しに、とても慈愛的で慈しみに満ちた物を感じていた。自分の前では自分に遠慮してか、彼女達に直接話し掛けたりする事は滅多になかったものの、おそらく彼女達に対する想いは、或いは自分以上の物があるのではないか……シンジはそうとさえ思っている。
だが彼はあくまで、突然自分達の前に現れた不思議な存在でしかないと言い張る。あの二人がノヴァスターの事を知らなかった所を見ると、彼女達が自分と出会う以前の親交も無い筈だ。なら尚更、彼が自分よりも彼女達に強い庇護欲を抱く理由など、シンジの中では見当もつかない。
「……納得していないって顔だな、シンジ。だけど、俺自身はこの言葉は嘘じゃないと思ってる。
彼女達の事は君に一任している。だから尚更、君には負けて貰いたくはないんだよな。自分にも、敵にも」
不可思議な笑みを浮かべてシンジの頭を撫でるノヴァスター。小恥ずかしいが、その手をどうにも振り払えないシンジ。そして、そんな二人のじゃれあいに苦笑を隠せないリツコ。
「……ふう、結局またはぐらかされてしまった気もするけど、その真摯な言葉に免じて今日は黙殺してあげるわ。
その代わり、あまり無茶はしないようにね。シンジ君は貴方と違って普通の中学生なんだから」
「本人が無茶で物を押し進める気質ですからね。俺の手に余らなければ良いんですけど……」
「私から見ればどっちもどっちよ。ホント似た者同士なんだから、あなた達」
「たはは、以後気を付けます。お邪魔さまでした。
じゃあ、次行こうかシンジ」
罰が悪い表情を引きずりながら、シンジの身体を引きずるように這々の体でラボから退出していくノヴァスター。
「……変ね」
プリントアウトされた膨大な資料を手元に広げながら、リツコは腕組みしつつ思考の渦に引き込まれていた。
戦闘訓練の時、リツコはノヴァスターには内緒で彼のシンクロ適正を密かに調べていた。或いは青年である彼にも例外的に、チルドレンとしての適正が見出せるのではないか……と。
だがその予想は見事に空振りに終わった。彼にエヴァとのシンクロ性は皆無見られなかった。
そう、皆無。可能性の数値は全くのゼロを指し示していたのだ。だが逆に、その明確な結果こそが今リツコを強く悩ませている。
「人間には誰しも、エヴァとシンクロ出来る可能性を僅かなりとも秘めている筈だわ。
例えそれが、オーナインシステムと蔑称されるほど低い確率だとしても。
それが彼の場合は全くのゼロ……つまり、エヴァが受け入れる事の有り得ない肉体の持ち主という事?
そもそも彼は、純粋な人間なのかしら。そんな事さえ疑わしくなってしまうわ」
エヴァのテクノロジーには未知の部分が多い。この世で最もエヴァに詳しいであろうと自称するリツコが言うのも、極力研究結果で肉付けし裏付けされた憶測でしかない。
「でも、彼はエヴァを器用に操っていた、それもシンジ君以上に……この矛盾した事実は何を示唆するの?」
ふと、マザーレスチルドレンという言葉がリツコの脳裏に浮かんだ。元々ネルフにとって『チルドレン』と呼ばれる少年少女達は、早くに母親を無くしているが為に歪んで育った、社会不適合な人格たる要素を求められ選出されている。
つまり、ざっくばらんに言ってしまえばシンジ、レイ、アスカの三人は、ネルフで戦士として生きる以外の術を見出せない、偏狭な人間として育てられているような物であった。
そういう意味では、ノヴァスターのあの実直さは子供達とは対極の思考である。彼が両親の豊かな愛情を受け育ち、頼れる親友や師を得、そして人生のパートナーとして掛け替えのない恋人を得ていれば、エヴァという心の依代を必要としないのも道理には違いない。
だが、そんな漠然とした愛情論がリツコの研究を妨げているとは、当人には知る由もない。この時点でのリツコは「エヴァとシンクロ出来る子供達によってのみエヴァの本性は引き出せる」という絶対にも近い思い込みを、脳裏から外して考える事は出来ないでいた。
ゲンドウにもゼーレにも、イリアにもリツコにも、そしてシンジにもまだ見知らぬ部分にこそ、エヴァという兵器の本質がある事を知るのは、奇しくもこの世で今はまだ……一人だけだった。
昼食は外で食べようと言いだしたノヴァスターの提案により、街中を軽快に走るシビック。日差しが眩しい日曜の昼下がりには、街の中はショッピングやプライベートを楽しむ若者達でごった返していた。
赤信号で停止線に車を止めると、ノヴァスターは唐突に助手席のシンジに問いかけた。
「何食べようか?」
「……別に何でも構いませんよ」
「嗜好の主義主張はするべきだと思うよ、俺は」
「あなたは、ね。僕はそうは思いませんから」
「相変わらずつれないなぁ」
青信号に変わったのに合わせて、勢いよくハンドルを右に切ってみるノヴァスター。特に右の道に食事処の当てがあった訳でもないが、ブラブラと街中を彷徨いながら、その内何処か適当な場所が見つかるだろう、程度の感覚でいる。
「おっ」
ノヴァスターが奇妙な声を上げる。どうやら何かめぼしい物を見つけたらしい。
彼の視線につられてシンジが見つけたのは、最近広告で噂になっている、複数の店舗が参入している新築の大型ショッピングモールだった。
見積もって敷地面積はゆうに400メートル四方。城壁のように連なる店舗には、食品店から衣料店、更に美容室や貴金属店、果てには映画館まで参入している超大型店舗であり、第三新東京市きっての新名所として期待されていると噂されている場所だった。
その反面、正体不明の使徒との戦争に明け暮れるこの街にこのような大型店舗が参入する事は、その筋の者に言わせれば無謀な賭けでしかない。だが皆が同じ理由でこの街での営利権を放棄しつつあるからこそ、そこを逆手にとって独占を狙う企業も極一部にあるという。
「そうだ、ここがあった。よし、ここに決めたっ」
シンジに有無を言わさせずに決定事項としたノヴァスターは、店舗に囲まれるように存在していた広域の駐車場に車を乗り入れる。渋り気味のシンジの背を押すようにしながら最寄りの店舗に踏み入ると、中は若者達や家族連れの人混みでひたすら賑わっていた。
「……騒がしいのは苦手です」
「別にこの人混みを取って食う訳じゃないんだし、いいじゃないか。
さ、店を決めて何処かに腰を据えようか」
食事処に足を運ぶものの、新店舗の昼飯時の混雑は異常に込み合っていて長蛇の列。和洋中何処の店でも当分立たされる羽目になりそうだった。
「……何処か人混みの無い場所で時間を潰しましょう」
既に疲れたと言わんばかりの表情のシンジがそう呟いた瞬間、サングラスの奥に秘めたノヴァスターの瞳が怪しく光ったような気がして、シンジは空寒い物を覚えた。
「時間が余っているのかぁ。しょうがないなぁ、なんなら映画でも見て時間を潰すかぁ」
「……なんでこう、何をするにもワザとくさい人なんだか……」
ぼやきつつも、それが彼の手法である事は自他共に認めるところ。他に当てもない以上、シンジは大人しくノヴァスターの後に続いて映画館に足を運ぶのだった。
映画館は大小合わせて六つの劇場があり、各室に分担された計六本の映画が均一料金で上映されていた。
チケット販売カウンターの前はやはり大勢の家族連れや若者達で賑わい、見るべき映画をゆっくり選択する余裕さえ奪われそうである。喧噪のあまりシンジの顔は顰まっていた。
「さて、ど・れ・を・見・よ・う・か・なと」
まずは、最新版の洋画が二本。B級アクションとラブストーリー物の両タイトルは、それぞれ全米収益ナンバーワンを宣伝にしているらしいが、米国の映画は作られる度に収益が一位だよな、とぼやいてお茶を濁すノヴァスターと、つい失笑してしまうシンジ。
次に小児向けのアニメ映画が二本。二人ともそういう嗜好はないので自動的にこの選択肢は無くなる。
次に、テレビでも話題になっている、逃避行を題材とした最新邦画が一本。渋い名俳優と全くの新人ヒロインという斬新な配役が話題になっているらしい。シンジにはこの映画が一番興味を惹かれたようだ。
最後に、往年の名作特集と銘打った映画が一本。「今月はブルース=リー特集」のタイトルがカウンター前に申し訳程度に手書きされていた。始めたばかりで好評の声が足りないからなのか、この映画館特有のサービスにしては形見が狭い。
そしてシンジは既に、この先自分達の向かうべき展開を呼んでいた。自分としては邦画に興味を惹かれているが、あの態とらしい演技で自分を此処に寄せたノヴァスターがそれを黙って許す筈もない……と。
「ホレ、君の分」
いつの間にか、シンジの手の中には映画のチケットが一枚握りしめさせられていた。そう、このひたすら有無を言わさない強引な性格が、ある種羨ましくさえ思うシンジ。
「……ブルース=リー、見るんですね」
「おお、チケットもろくに見ないうちに良く分かったな、君ってエスパー?」
「訳分かりませんよ。とにかく、決まった以上は入りましょうか……」
背中に歳不相応の哀愁さえ漂わせながら、シンジは重い足取りを引きずりつつ、ノヴァスターと共に指定された上映室へと入っていった。
六つある上映室の中でも最も小さい一室なのだろう、僅か六十席程しかない狭苦しい室内に、観客も片手で数えられる程しか着席していない。他の映画がカップルや家族連れで相当賑わっていたのに比べて、此処にだけは閑寂が息づいている。
「……静かですね」
確かに静かな雰囲気はノヴァスターも嫌いではないが、この街でブルース=リーの人気が低いという指標が浮き出ているようで、何か物悲しいらしい。
「上映タイトルは、何でしたっけ?」
「『ドラゴン危機一髪』。何度もビデオで見たから、俺にとっては感慨深いタイトルだよ」
「何度も見たのなら、わざわざ映画館に来てまで見る必要ないじゃないですか」
「逆だろ? ビデオでしか見られなかったから、一度は巨大スクリーンで見てみたいんじゃないか」
「…………」
シンジ、絶句。
「……ノヴァスターさんってもしかして、格闘技オタクなんですか?」
「まさか。彼がちょっと特別なのさ……俺にとってはね」
ところが、たった数人の観客を相手に上映されたアクション映画は、肝心のシンジを一番引き込みつつ白熱の展開を見せていた。ブルース=リーの一挙一動に姿勢を屈めてスクリーンに魅入り、炸裂する大技の一つ一つに肌を震わせるシンジ。
元々シンジのヒーロー願望は強い方だった。社会の中で身を縮めて生きてきたシンジはその反動からか、大立ち回りを演じる俳優やアニメヒーローの存在に憧れを抱き、一体感を得る事に強い願望を持っている……持ってはいた。
しかし現実はまるで逆だという事を、今ではかつての願望以上に強く痛感していた。実際に体験した英雄化のチャンスは、自分にとって忌まわしい兵器と体験と、そして絶望を押しつけられただけに終わったのだから。
だが、今こうしてブルース=リーに魅入っている自分がいるという事は、まだ初号機のパイロットである自分を捨てきれず、未練を抱えて生き続けている自分の具現化にも等しい。何故なら今のシンジは、生き延びる為に戦っているのではない、戦う為に生き延びているに過ぎない。かつての戦いから「サードチルドレン・碇シンジ」の人格が得た決意とは、つまりそういう代物だった。
そんなシンジのパラドックスたる深い困惑と後悔を置き去って、彼の華麗なクンフーは絶えずスクリーンに焼き付けられ続けていた。ノヴァスターはただ黙って、画面に視線を注ぎ続けている。
「……」
目の前に置かれているオムライスの食べかけを、何気なく皿の上で弄んでいるシンジ。場の空気を読んでくれ、という呪いにも似た視線を時々ノヴァスターに送ってはいるものの、当人は何処吹く風という表情で爪楊枝で歯の合間を拭っていた。勿論、ノヴァスターの眼前にあるハンバーグピラフの皿はとうに綺麗に食べ尽くされている。
口元でいくら愛想良く笑って見せてはいても、厚着でサングラスという風貌は確実に、レストラン内のウエイターと家族連れの客達を引かせていた。そんな人物の向かい側に座っているのでは、他人の振りも出来はしない。シンジは目立つ事と常識外れな事をする連れと同席するのが元々大の苦手だ。
(そういえば、昔はアスカと二人で外食した時もよくこんな羽目に……)
そこまで回想しておいて、シンジは突如拳をテーブルに叩き付けて自噴する。
「器用なヤツだなぁ、飯食べながら腹立ててるよ。カルシウムが足りないぞ」
むしろ、こういう見当外れな慰めが一番この場に即しているのかも知れない。余裕のないシンジにそれを受け入れろというのは、やはり少々無理な相談だが。
「僕が何をしようと僕の勝手でしょう」
「そうだったっけ」
暖簾に腕押しとはやはりこの事、相手をなじるように吐き捨てたはずの台詞はいつも軽く流されてしまう。これがアスカやミサトが相手だとしたら、容易に相手の神経を逆撫でられるのだが、それで下手に自信をつけた反動からか、ノヴァスターにはこの手法がまるで通じない事がシンジを余計に落胆させた。
「どうやったらこの泥沼の状況から抜け出られるんだろう……」
「足掻けばいいんじゃないか?」
独り言のつもりが、見事に相手にすくい取られていた。
「足掻けって、何を……」
「今の自分の心の在処が気に入らなければ、他を求めて動くしかないだろうさ。
その為に今日はこうやって、何が悲しくてか男二人でランデブーしてるんだからね」
言うだけの事はあるのかも知れない。ノヴァスターという人間は、確かにシンジの行動を助長する事はあれ、シンジの望んだ行動を制限した事はない。妙な言動で戸惑わせる事は多々あれど、それがマイナスに働いた事はシンジにとって身に覚えがない。
今まで自分が出会った人間の誰よりも特異な人間である癖に、今まで出会ったどの人間より親しみやすい。時には飄々と、時にはねちっこいくらい接してくる人柄は一体何を示しているのだろうか。
まるで、彼は「碇シンジ」という特異な人種に適応する為に作られた、これまた特異な人種ではないのか……そんな他愛ない妄想が一瞬シンジの脳裏を支配する。
「……」
「ところでどうだった、映画の感想は。あ、おねーさんアイスコーヒー追加」
通りがかりのウエイトレスは突然食後のデザートを頼まれ、一瞬困惑したような表情を見せながらも時給950円の意地に掛けて丁寧に対応を示していたが、その瞳はノヴァスターの容姿に怯えに近い物を示していた。
要は、外見でひたすらに損しているのだ。サングラスで覆われている以外の箇所の顔立ちは良いのだから、せめて公共の場ではサングラスは外してほしいものであるが、
(もしかしてワザとなのかな?)
ノヴァスターが掛けている、大型のスポーツサングラスは確かに素顔を隠すのには役立っているが、彼の日頃の言動はわざと自分を小さく見せようとしている節がある。今ではミサトやアスカに体よくおさんどん扱いされている彼だが、結果としてそれさえも彼の作戦勝ちに思えた。
(そういえば……)
彼と同居を初めて早二ヶ月が過ぎたが、シンジは未だにノヴァスターの素顔を見た事がない。
唯一眠る時さえ手早くアイマスクを付けてベッドに入るのだから、問い質すきっかけも掴めない。
「……俺の話聞いてる?」
「あ、はい」
映画の感想を聞かれていた事をすっかり失念していたシンジだが、思考の渦にすぐ引き込まれて一人の世界に旅立ってしまう毎度の悪癖はノヴァスターも十分承知しているので、険悪な雰囲気を呼び込む事はあり得ない。
「えっと……結構面白かったです。
ブルース・リーって、なんかこう……闘いの中に自分を見出しているというか、
格闘技自体が彼の生き様そのものみたいな映画でしたね」
シンジの洞察は大凡的を得ていた。稀代のアクションスターと呼ばれ、三十三歳という若さで玉折した李小龍(ブルース=リー)は、同時に格闘家としても非常に熟達した人間でもあった。そのアクションは見せ掛けではなく、彼自身の哲学とも言える程に昇華された技巧だ。
「そうだな、ただ殴ったり蹴ったりするなら喧嘩が強いというだけ。
だけど彼のように、闘いを通じて自分を高めようとする学術を用いた技は芸術的でもある」
ノヴァスターは弄んでいた爪楊枝をそっとへし折ると、アイスコーヒーを細かく啜りながら少し改まって解説を始めだした。
「……これは意外と知られていないけれど、ブルース=リーは古来より中国に伝わる功夫『詠春拳』をベースに、
アメリカのボクシングや韓国のテコンドー等の、外国の主な格闘技をも取り入れて独自の拳法を作った。
だからブルース=リーには映画俳優と同時に、その格闘術の創始者としても知られている」
「格闘術……ですか?」
「そう、その名も『截拳道(ジークンドー)』。……俺が習っているのもこれさ」
「えっ!?」
シンジの驚いた表情に会心の笑みを浮かべながら、ノヴァスターは会計書を手に取って立ち上がる。
「午後は道場に付き合ってもらうよ。詠春拳の基礎なら、エヴァでの戦いでも役に立つ」
道場とは言っても、フローリングの施された二十坪程度の小さな一室に過ぎない。「道求」(逆から読む)と書かれた掛け看板と陰陽印を中央に掲げ、小綺麗な佇まいを醸し出している。
市の郊外にあるそんな小さな道場に二人は訪れていた。ノヴァスターはこういう人知れぬ施設の知識に長けている。そんな彼に掛かると、第三新東京市は更に謎めいた空間としてシンジの心に刻まれる。
昼下がりの道場は利用者も居なく、一人退屈そうにしていた管理室の男はノヴァスターの顔を見るなり鍵を手渡して「自由に使え」と一言断ったきり、二人が来る前からそうしていたように、引き続きテレビに没頭していた。
「あれじゃいずれ人の手に渡っても、文句は言えないよなぁ……」
よく判らない独り言を呟きながら、ノヴァスターは車のトランクに持参していた白い胴着に手早く着替える。
その隣では、道場の中で着替えるのに少し恥ずかしげな表情をしながら、彼に習うシンジ。
(どうして僕のサイズを知ってるんだろう)
不器用ながらも帯を締めて、正装したシンジはその胴着が身にしっくりとくる感触を覚える。だがその胴着は新品ではなく、誰かの使い古しであるように見えた。
今朝もそうだが、彼から手渡された物は一々の食事や兵器に至るまで不思議と肌に合う。嗜好や志向という点に関しては、自分の人生に於いて彼ほど熟知し配慮できる人間をシンジは知らない。
互いに着替えた事を確認しあうと、二人は道場の真ん中で向かい合う。シンジは内心、少しずつ彼の次の発言を心待ちにしている感情を持ちだしていた。
「……で、どうするんです?」
「これから君に簡単な護身術を覚えてもらう。
エヴァを使って戦うにしろ、実践に使う為の技術は、自分の身体で覚えるしかないからね。
かくいう俺もまだ修行中の身だから、お互いお手柔らかにな」
首から上……つまりサングラスさえ黙殺すれば、ノヴァスターの格好は確かに堂に入っていた。彼は道場の正面、つまり陰陽を示す印の前で軽く一礼する。礼を重んじる彼は、やはり外見とは裏腹の繊細な性格に見えた。
礼を終えてシンジを振り返った時、彼の表情は既に陽気さを隠した神妙な物であった。
「ジークンドーの最大の特徴は、ただ技と肉体の強さだけを追い求める代物ではないという点だ。
修練には先ず、自分の心と向かい合い、自分が何者であって、何を求める人間であるかを考える所から始まる。
あらゆる束縛や執着、偏見や因縁に捕らわれずに、自分の中で最前の答えを導き出し、
そしてそれを確信して形に成す事で心の強さを得る。そして初めて、技の力となってそれは具現する。
……これが李小龍始祖の編み出した、ジークンドーの原理だ」
そう、ノヴァスターにとってブルース=リーという存在は、アクションスターである以前に敬愛すべき師であった。自己の昇華を追い求め、彼が辿り着いた答えの一つがジークンドーなのた。
「これこそが……今の君に相応しい試練だと思う。
戦う事に、まだ迷っているみたいだからね」
今のシンジにはそれ以上の言葉を必要とはしなかった。ただ格闘術を習わせてエヴァを担がせたのではシンジにとって何の利にもならない。只与えられた力を誤って振るい、己と周囲の人間を傷付けるだけで終わる……それはノヴァスターにとって確信に等しい予感だった。
果たしてそれを悟る事が、今のシンジに出来るだろうか……それだけがノヴァスターを悩ます。
「……僕とは対極の人なんですね、ブルース=リーって」
「そうかな。むしろ紙一重だと俺は思うよ。彼もかつては孤独だった。
故国の技に西洋の文化を取り入れて、西洋人に広めた事で彼は故国の格闘家達の偏見を受けた。
だが彼には理解の深い妻がいた。妻の献身的な助けを借りて活動を続けた彼は、
やがて、アクションスターとしてハリウッドで大成功を収めると同時に、
独自に編み出したジークンドーの始祖として、その弟子達にも広く敬愛されている」
こういう部分に詳しいのは、むしろ彼自身の格闘技フリークとしての部分だ。
が、シンジを諭すには十分効果はあったようだ。シンジにとって、ブルース=リーに自分の生き方を準えるのは無理な相談でも、己の道を追い求めようとするその理念は魅力的だ。
失格者であると自分に見切りを付けた……その過去があるからこそ、シンジは自分の中の釈然としない答え、つまり何故今になってもまだ戦うのかを考え、またその答えが示す先にある物は何なのかを求めようと考える。看板に掲げられた「求道」の二文字は、将に今のシンジ達の命題を言い得ているかのようだった。
「まあ、焦る必要はないよ。なんせ俺だって、十年近く習っていてこの体たらくだしな」
「……そんなの、日頃のあなたを見ていれは分かりますよ」
「言ったなコノ」
ピコンッ!
何処から持ち出したのか、今朝も炸裂していたピコピコハンマーだ。
「……それ止めてくださいよ、ノヴァスターさん」
「その不似合いなクールなイメージを払拭するのには、役立ってると思うけど。
ちなみに道場の中では師匠と呼んでくれたまえ」
「イヤです」
「即答かよぉ」
それから二時間、シンジはみっちりと詠春拳の基礎を叩き込まれた。
詠春拳とは―――中国清朝時代に編み出された、本来は非力な女性向きの攻防法。鶴と狐の争う光景から編み出されたというその動きは、相手の攻撃を腕先で捌く 『 纏繞呑吐(てんじょうどんと)』 と呼ばれる手法を元にした新機軸の技であり、その後中国各地に広く普及した。
ブルース=リーはこれを元に更に様々な格闘技の要素を取り込んで、ジークンドーを編み出している。「截拳道」の「截」という字も本来は、相手の拳を受け止める、という意味を持っている言葉だ。截拳道とは厳密には違うものの、ジークンドーへの入門編として、ノヴァスターは当面シンジに、詠春拳の基礎だけを教え込む事に決めたのだ。実際シンジが望む「半年」という期間に即して考えればこれでも余りある。
詠春拳は比較的非力な人間にも向いており、相手に強烈な一撃を叩き込まれたとしても、それを捌く方向と手段を間違えなければ多少の力の差は覆せる。あくまで攻撃を「防ぐ」のとでは直後の反撃行動に大きな制限が生まれる為に、対人戦闘の理屈が比較的通用するエヴァ同士の格闘には大いに役立つであろう……というのがノヴァスターの見解。
実際あれだけの力の差を見せ付けられては、シンジに与えられた選択肢として贅沢な代物だ。
二時間後、すっかりへたばって汗だくのまま尻を付いているシンジ。
「にしても体力がないなあ、情けない奴さねえ」
「はぁ……はぁ……あなたに勝てる筈ないじゃないですか……」
「遠泳とか日課にすると、体力が付くんだけどな」
「……僕泳げないですから、謹んで遠慮します」
「なんだ、泳げないのか。それならそうと、今度は水泳も教えてあげような」
「…………」
藪蛇を突いてしまったシンジは、最早言い返す気力もなく、黙って項垂れてしまった。
「まあ、お陰でいい汗かいたじゃないか。時にはなーにも考えずに何かに打ち込むのもいいもんだよ」
「……ノヴァスターさんはいつも何を考えているか分かりませんよ」
「失敬なぁ、俺だって色々考えてるんだぞ。たとえば今夜の誕生日会のメニューとか、大変なんだぞ」
「……誕生日会?」
唐突に見知らぬ話題を耳にしたシンジが、疑問符を投げかけた。
「あ、そういえば話してなかったっけ。今夜ミサトさん家で誕生日会を開くのさ。その料理係を頼まれてね」
「……今日って誰かの誕生日でしたっけ?」
シンジがカレンダーを脳裏に思い描く。
「今日は……十二月の六日……誰の誕生日でも無かったような……あっっ!!」
「そうなんだよ、ミサトさんってば、自分とアスカの誕生日を一纏めにしちゃったんだよ」
タハハと笑いながら、彼は癖のようにして頭を掻いていた。
実は前以てミサトが決めていた事らしく、十二月四日生まれのアスカと同じく八日生まれのミサトの誕生会を、休日である事を利用して、中間である六日に行ってしまおうという型破りな提案だった。
「来年はきっとそんな事しないだろうな。『今年はまだ二十代だから』って張り切ってはいたけど」
「ミサトさんらしいや」
互いに顔を見合わせては苦笑する。直接触れ合えずとも、彼女達を確かめられるその感覚が微笑ましい。忌避していた筈の感覚に馴染めるのも、ノヴァスターの前だからだろう。
「という訳で、夕方には食材一式を抱えて葛城家におさんどんさ。
アスカは親しいクラスメイトを何人か呼ぶって言ってたし、レイも多分その中にいるだろうし、
リツコさんと加持さんも仕事を早く切り上げて来るらしいから、こりゃ大所帯になるな」
勿論だが、シンジはその席には呼ばれていない。その事に勘付いていながらもシンジは何も言わなかった。
「ま、おかずが余ったら持って帰ってくるよ。という訳で悪いけど今夜は自分で作って食べてくれよな」
「……分かりました」
「今日はこれくらいであがろうか。……もう三時じゃないか、約束の時間に遅れたらヤバイからね」
道場の帰り道、二人は立ち寄った食品店であれこれと料理の蘊蓄を語り合いながら、葛城家用の食材を買い込んでいた。食材を次々と買い物籠に放り入れていく彼を横目で眺めながら、やはりシンジは深い思考の渦に引き込まれていた。
気心の知れた兄貴分というよりは……双子のように寄り添う彼の姿。
他人が側にいる筈なのに、不思議と違和感のない穏やかさがシンジの心を捕らえる。そうでなくばノヴァスターにここまで自分の事を打ち明けたり、側にいる事を許したりはしなかっただろう。
ここまで気心を許させたのはカヲル以来だが、シンジは両人の性質は明確に違うとも感じていた。カヲルが超然として垢抜けた性格だったのに対し、ノヴァスターはとても身近で家庭的である。互いに掴み所のないその不透明さが、逆にシンジの淡い期待を掻き立てるのかも知れなかった。
ならば彼はどんな目的を持って、何故自分の前に現れたのだろうと、シンジは暫く考え倦ねていたが、
「もしかしたらあなたが……?」
自分の大切な人達を護ってくれるであろう理想の人間は、実は眼前にいる彼なのではないか……そう思えたのだった。
「あ、この唐揚げおいしいや。おばちゃんこの鶏肉500グラムくださいっ」
店頭の試食販売に惹かれて容易く買わされてしまう、その背中に一抹の不安は感じるものの……。
大変長らくお待たせしました。第二十九章、ようやく公開です。
しかし、三ヶ月も止まってたんですね……他の原稿を書いていたのでそんな気がしなかったのですが。
更新中断中にメールを送って激励していただいた方々、誠にありがとうございました。
ちなみに、このSSを書いている合間一度書きかけの原稿を消してしまっていました(^^;
最初は前回の予告通り、サイコロを使ったザッピング形式のSSを目指していたのですが、書き直しを余儀なくされた為に改稿し、結果サイコロを必要としなくなりました。予告と違えてしまった事をお詫びします。
今回の章は色んな所で穴だらけの設定です(^^; 一応参考文献や、その筋に詳しい方にアドバイスを伺いながら書き進めてはいるのですが……。
その点の突っ込みに関しましては、苦汁と共にそのまま飲みこんで頂けると幸いです(爆)
さて次章ですが、大方の予想通り、葛城家の誕生日会の様子を書き進めたいと思います。
元々、2015年12月6日が本当に日曜日だった事から生み出されたネタです……我ながらなんて安易な(笑)
久々にクラスメイト達の登場(勿論あの三人です。ケンスケもしかして初登場!?)も予定してます。
(結局あの二人は間に合わなかった……三十二章までには出られると思うけど……)
それでは、また次回……。
カヲルに勝ってマユミに負けて、ミズホに勝ってネコに負けた……なんか微妙だゾ、おさんどん(笑)