「来ましたか。第十使徒……サハクィエル」
淡泊に呟くと、シンジは傍らのノヴァスターにつられて一つ伸びをした。
二人はリツコのラボに避難する形で居座っていた。シンジはともかく、ノヴァスターが発令所に顔を出すのを渋った為である。リツコもイリアと極力顔を合わせたくない自分の事もあってか、そんな二人に何を言うでもなく三人だけの作戦会議と相成った。
「で、どうするノヴァスター君? 多分イリア三佐はシンジ君の参戦を歓迎しないわ。
彼女はアスカとレイを中心に使って作戦を展開するつもりで居るから」
リツコの言葉に、ノヴァスターも珍しく真剣に考え込んでいる。
「う〜ん……今のところ、打つ手はないでしょう。あの女の成すがままにさせときますよ」
「じゃあ、やはりシンジ君に軍規違反してもらうしかないわけ?」
二人は伺うようにシンジの顔を覗き込んだが、シンジはギブスで固められた自分の右手にひたすら視線を注ぐだけであり、二人の会話は既に、殆ど耳に入っている様子がない。
「ですね。本人もその辺は覚悟しているでしょうし、やるしかないでしょう」
「それこそ決定的にイリア三佐の機嫌を損ねるわよ。シンジ君、二度と作戦に使われないかも……」
「どの道あの女狐、シンジは軽んじるつもりでしょうよ」
ノヴァスターの険しい顔に、リツコはこの日初めて息を飲んだ。
初めて見る彼の険悪な表情に、初めて他人を貶める事を言うノヴァスターにたじろく自分を知ったのだ。
「ノヴァスター君、彼女を知っているの? ……いえ、それは聞かないでおきましょう。
とりあえずは、あの落下傘のような巨大使徒を迎撃する方法を考えないとね」
「その必要は無さそうですよ。本人は既にやる気でいますから」
実際、シンジはその右手から注意を逸らす事なく精神を集中している。
戦う前の精神安定の方法として、彼は静かに脳裏でイメージトレーニングを重ねているのだ。
リツコはそんなシンジの様子に思い知らされると、苦笑する。
「そうね、無粋な事を聞いた私が悪かったわ。早速『あの技』に挑戦してみるつもりなのね。
電力と初号機は私の権限で何とか徴発するから、シンジ君は勝つ事だけを考えていてね」
そのリツコの穏やかな言葉にも、シンジは反応を見せない。
実際は聞こえてはいたのだが、その優しい言葉に反応してみせる手段が分からなかった為だ。
それを見抜いたのだろう、ノヴァスターが喉の奥でクックッと笑いを押し殺している。
「……ノヴァスター君。少し、二人きりであなたに話があるの」
不意にリツコは部屋の外に赴き、そこでノヴァスターを手招きした。
精神集中をしているシンジの邪魔にならないようにと思った為である。
「俺に?」
「そう。ミサトの事でね、ちょっと」
その言葉に、大人しく従って付き添うノヴァスター。
地下ジオフロントが一面に見渡せる絶景に位置する、ネルフ本部内一角のカフェテラス。
撤退命令が及んでいるジオフロント内部の灯は乏しく折角の絶景も萎れてはいたが、ノヴァスターにはこれこそが本来あるべきジオフロントの本性のようにも見えた。地下数百メートルに明かりが眩しく灯り、人の活気が息づいている環境というのはやはり認めざるべき姿に映る。
そんな寂れた光景に横目をちらつかせながら、二人は互いにコーヒーマグを手に取り口に運ぶ。
二人は暫くの間どちらともなくその沈黙を保っていたが、不意に懐から静かに煙草を取り出したリツコを手で制したノヴァスターの手の動きが、場の時を刻み始めさせた。
「煙草は遠慮してもらえますか」
「あら、あなたは嫌煙家? それとも奥さんの健康に気を配ってかしら」
リツコに先に当てられたノヴァスターは、苦笑いを一つ。
「それもありますけどね、煙草の煙よりも吸う人の仕草の方が気に障るんですよ」
「? 変わった話ね」
「……煙草を吸う人の仕草って、自嘲的になっているか自慰的になっているかのどちらかにしか見えないんです。
自嘲するのも自慰に浸るのも只悪いとは思わないけれど、今だけは自分の眼の毒なんです、そういうの。
シンジでさえ自戒すると言って聞かないのに、俺が何もしない訳にも行かないですし……なんて」
「律儀なのね」
「まさか」
謙遜するノヴァスターの顔をしばし見つめていたが、やがて納得したリツコは煙草の箱を懐に戻す。
しかしそれで手間を持て余したリツコは、中身が空になったマグを弄り続けている。
「……ミサトさんの話が、あったんじゃないですか」
暫くの間は黙って待っているつもりだったノヴァスターだったが、様子の変わることのないリツコをようやく促す。
「少し待って。私自身、あの姿をどう受け止めてよいか、分からないのよ」
「この間のミサトさんの事ですね」
イリアが赴任したあの日、降格の衝撃に沈んだミサトを見かねて、リツコはノヴァスターを連れだって彼女を家まで送り、彼の助言のまま彼女をアルコールの海へと泳がせた。
ミサトは珍しいくらい無口で淡々とビールを煽り続け、やがて酔いにまかせ静かに眠った。
気丈な彼女はただ黙って、酒と共に現実を受け入れようとしていたのだ。
「あれは耐性なのよ、ミサトの。
彼女の心にある傷は既に一つ二つじゃないから、もう一つ傷が増える事には耐えられたかも知れないわ。
でも今度の傷は、今まで傷を負ってまで駆け抜けてきた努力そのものを傷付ける傷だったから……」
「駆け抜けてきた努力……ですか」
「そう、ミサトは人よりちょっと特別な経歴の持ち主だから……」
そして、リツコは自分の知る限りのミサトの過去を「あなたにも知っておいて貰いたい事だから」と一言補足した上で余す所無く語り始めた。
「ミサトの父親は高名な研究者だったわ。私の母と共同で研究した事もあるらしいの。
でも反面彼は家族を顧みず、ミサトや奥さんを打ち捨てて……いえ違うわね、
家族を養う、労る責任から逃げて、自分の世界に閉じこもる為の研究だったのかも知れない。
少なくともミサトから見た限りではそうとしか見えない……本人はそう語っていたわ。
そんな彼は、やがて奥さんから娘の同意の元に三行半を突きつけられて、離婚せざるを得なかった。
ミサトはいい気味だと喜んだらしいけど、その時はまだ父親の本当の心境を知らなかったのね。
ミサトの親権は奥さんが受け取ったのだけど、離婚の直後ミサトは父親と共に南極に向かったの。
南極で当時進められていた探索活動にミサトを連れていく事は、離婚以前から決まっていた事だから、
それから戻ってきた時、初めてミサトは父親に悲しまされる事のない母親の姿が見られたでしょうにね」
リツコは話の合間を縫って、いつもとは違い無人のカフェテラスのキッチンに失敬して、自分のマグに次のコーヒーを注ぐ。ノヴァスターもそれに付き添うように、彼女の手からコーヒーポットを受け取って自分のマグに注ぐ。
二人はそのまま、カウンター前の椅子に並んで座り直す。リツコは一杯目とは違って砂糖とシロップを十分に注いで、カラカラとかき混ぜるティースプーンの音を奏でながら、静かに話の続きを始めた。
「でも知っての通り、不幸にもその最果ての地で起きたのが、例のセカンドインパクト。
当時南極からの生還者は絶望視されたけど、その後ただ一人だけ救命されたのが、ミサトよ。
彼女自身が朧気に覚えていたのは、最期に自分を救った瀕死の父親の姿。
そして不幸にも、本国では大爆発の衝撃が生んだ津波に浚われて、母親も亡くなっていたの。
それを知った彼女は、自分が信じていた物の、頼っていた物の儚さを思い知って絶望したの。
今でこそあの性格だけど、事件の直後はショックの余り二年間以上失語症に陥っていたそうよ。
……私の知っているのはここまで。この話はミサトだけでなく、副司令から聞き知った事実も混じってるわ。
でもその話を聞いた時、私は思ったの。
ミサトは、自分を投げ捨てていたはずの父親の愛に気が付いてしまったが為に、
セカンドインパクトを引き起こした存在に、父親を奪った存在に復讐心を芽生えさせてしまったのだと……ね。
きっとミサトの心は日々葛藤で揺れていたのよ。
特に、セカンドインパクトの元凶となった使徒が来襲するようになった最近は殊更にね。
自分達大人の代わりに子供達を戦わせる事になったのにも、ミサトは常々申し訳なさを口にしてた。
だから最初は、保護者の元を離されて一人、戦いに赴く為にこの街に召喚されたシンジ君を哀れに思って、
せめて自分が保護者として引き取る、そうも言い出したの。
ミサトがちょうど失語症に陥っていたのがあの年頃だったのも、その理由だったのよ、きっと。
でも私には、そんなしがらみを背負って生きるミサトには、辛い選択肢だと思ったわ。
そして出会ったシンジ君は、むしろミサト以上に辛いしがらみを背負って生きているようにも見えた。
そしてこの間になって、ミサトは自己の復讐心を満たす手段からさえ遠ざけられてしまった。
失語症から立ち直った折角のきっかけを、あの歳になって挫かれたのよ。
きっと辛かったでしょうね、ミサトの立場にしてみれば」
長い語りを終えて、適温に冷めていたコーヒーに静かに口を付けるリツコの横で、ノヴァスターは神妙な顔付きでその言葉を深く解釈し続ける。やがて、彼も自らの心のありのままを伝える。
「シンジの奴は『これで、良かったんです……』と一言虚しく呟いてましたよ。
俺もそう思います。辛い事実なのは確かでしょうけれど、
復讐心で生きているなんていつか必ず反動が来る物です。
彼女がその復讐心の本当の魔性に捕らわれないうちに、
その道を閉ざされたのはむしろ良き岐路だったのかも知れない……そう思えますよ、俺には。
シンジが彼女に悪辣に振る舞っていたのも、その為なのかも知れないですし」
「……ミサトはそう簡単には割り切れないでしょうね。私には何となくわかるの、彼女のジレンマが。
そしてイリア三佐の訓戒に打ち震えるミサトを傍らに見ながら、
次は自分の番かも知れない、私もふとそう思えたのよ。
だから戸惑うのかも知れないわね、私もミサトの事を言えないくらい弱いのよきっと……」
脳裏に一瞬、自分を支配する男の影を垣間見ながら呟くリツコは、やはり自身の弱さを知る。
「……けど男は強いわね。雁字搦めに感じるくらいの支配欲で女を呪縛するわ。
欲求に対するそのあまりのリビドーに身を震わせて、目を眩まされてそして組み敷かれて……」
せめてあの時、自分の心境の裏切りに任せてあの男に身を委ねる事が無ければ……そう悔やむ。
「……それは違います。誰だって弱い、そして脆い。暴力なんて表面的な力に頼る奴は尚更なんです。
でも弱い事を恥じたり惨めに思ったりはしてません。それが自分の本性だと知ってますから。
自分一人が弱いなら誰かと共に生きれれば、心の支えになってくれる掛け替えのない人が居てくれれば、
それだけで俺は生きていけたから……」
リツコはその整った唇からゆっくり嘆声を漏らし、ノヴァスターの顔に見入る。
「それが、今の奥さんなのね。羨ましいわ」
「こう見えても大恋愛の末の結婚だったんで、ハハハ……」
彼は照れ隠しに顔を伏せ、旋毛をポリポリと掻いてみる。
「……あの人にも、あなたくらいの甲斐性があってくれれば、なんて叶いもしない事を時々思うわ」
「願うだけでは何も変わりませんよ。立ち上がってみせなければ、辛い現実は辛いままです。
だから今のあいつのように、その手にその心に強く思いを込めて、毅然と動いて見せなければ……ね」
ノヴァスターがリツコとは反対側の回廊を振り返ると、既にプラグスーツに身を纏ったシンジがノヴァスターの言葉通り毅然とした態度で立ちつくしている。
右手のギブスも無理矢理取り外している所を見ると、負傷を押してまで修行の成果を試したいらしい。
「行けるのかシンジ? その右手で」
「……行けます、いえ、行かなければならないんです!
今度こそ、僕の臆病さで誰も悲しむ事がないように、せめて自分の使命は果たしたいから……!」
一瞬だけ彼はシンジの右手の心配を頭に過ぎらせたが、そんな心配でシンジの折角の気力を削ぐまいと思い直して、ノヴァスターはシンジの側に歩み寄った。
「よし、なら行って目一杯かまして来い!
『叫ぶ』のだけは、忘れるなよ。破ったらお仕置きだからな」
「全く、ノヴァスターさんはいつもそればかり言いますね」
「性分だからな」
自分でもその言葉の意味が図りかねる。そう感じた彼は少し、笑った。
そして、シンジの背を叩いて気合いを込め、彼を見送ろうとした。
「じゃあな、シンジ! 必ず勝って帰って来いよ。……待ってるからな」
あいつの帰るべき場所になってやろう、帰ってきたいと思える場所で居てやろう……それがノヴァスターの言葉。
「シンジ君、それじゃ私達は発令所に上がりましょうか。ところでノヴァスター君は?」
リツコはシンジを連れ立とうとする間際に訪ねる。
「発令所には生憎顔を出せませんけど、何処かで必ず見守ってますよ。
リツコさん、そのやんちゃ坊主の面倒、くれぐれも宜しく見てやってください」
「……私は、ミサト以上に育児が不器用な女よ」
「そう思っているのだって、もしかしたら世界であなただけかも知れません」
ノヴァスターのその言葉は、リツコには意外な諭し方に感じられた。
それは、自分で自分の価値観を無理に定めている限り、現実が何も変わりはしないという事。
「それでもね、多分私がシンジ君に肩入れできるのは、シンジ君一人の為だけじゃないわ」
シンジという存在の裏にあなたのような人が居る為よ……とはとても口に出せないリツコだった。
その代わり、シンジの背を軽く促して、
「さあ、行きましょうシンジ君。あなたの信念を、その右手に託す為に」
「……はいっ」
リツコが今までシンジに問いかけた言葉の返答として、それは最も穏やかで厳かな一言であった。
ノヴァスターはコーヒーマグをその手に掲げつつ、二人の背中を黙って見送る。
「シンジ君、これを受け取って」
長いエレベーターを上る間の沈黙を利用して、リツコは独自にMAGIの端末で算出した使徒の情報を、一覧にまとめた数枚の資料としてシンジに手渡し、二人だけの作戦協議に入る。
「あの第十使徒は、恐らく全身を以てしてネルフ本部ごと自爆するつもり。
となれば、あの使徒が第三新東京市に着地するまでにそのコアを撃破しなければ、
次に待っているのはジオフロントごとの消滅。すなわち私達の一巻の終わりよ。
シンジ君、あなたならばこの使徒、倒す手段が見つかる?」
予測調査の結果、使徒は第三新東京市全域をカバーするだけの破壊力と、それに見合った広範囲の着地点予想がなされている。その範囲はエヴァ一機どころか三機でフォローするのも容易ではない。たとえシンジがその意志を曲げてレイやアスカの助力を借りたとしても、使徒を補足できるかどうか……リツコはそう告げているのである。
着地点を赤く描いた全面真っ赤な地図が、シンジに現実の厳しさを物語っていた。
「どうするのシンジ君?」
「……ここ」
シンジが指差したのは、ネルフ本部直上よりやや東部に位置する小高い丘であった。
「まさか此処にヤマを張るつもり? 危険よ、それは」
「ヤマじゃありません。何故か、僕にはここのような気がしてならないんです」
本当はここで一度この使徒を受け止めた事がある……とは説明しかねるから、こんな曖昧な言葉で濁すしかない。
「ふう……何の科学的根拠もない言葉だけれど、あなたがそう信じる以上説得は無理のようね……」
「……すみません。折角ノヴァスターさんの我が儘を聞いてくれたのに……」
「あら、あなたが謝る事はないわ。私が私の興味本位で打ち込んでいる仕事なのだから」
「仕事だから……ですか?」
曇ったようなシンジの顔とその言葉に、リツコは苦笑した。
「シンジ君。私やミサト、いえネルフ職員はみな、人類を守る仕事という名誉ある自負があるからこそ、
こんな厳しい任務にも就けるのよ。色々と汚れた事もしているけど、それでも間違いなくここネルフは、
全人類を守る為の最後の砦なの。そして、その為のエヴァなの」
その言葉に、シンジが俯いた。リツコの優しい嘘に耳を塞ぎたくて仕方がなかった。
「エヴァは本来、使徒を倒す兵器として使う為に開発された物なんですか?」
「? そうよ」
シンジのくぐもった声に、今更何を聞くのだろうという疑問を張り付けたリツコの表情。
「……嘘だ。エヴァを兵器として用いる為じゃなくて、
エヴァが補完計画の要として、何処まで可能性を引き出すかを見たいから父さん達は僕等を使うんだ。
だからチルドレンには親が居ない。愛に飢えたチルドレンを依代に祭り上げる為にあえて……」
リツコの顔が強張った。この子は一体何処まで知っているのだろう……と。ノヴァスターが来訪した頃からか、しばらく忘れていたシンジに対する猜疑心が再び芽生えてくる。
「……司令がそう言ったの?」
「いえ、一度見知った事実を忘れる事が出来ないだけなんです。でも事実は僕には何も教えてくれなかった。
もしかしたら、『僕』を見いだす答えは僕の周りにはないのかも知れない。
それを知っていて、ノヴァスターさんは僕に『あの技』を教えたのかも……」
「シ、シンジ君」
嗄れるリツコの声。反してひどく落ち着いたシンジの声。
「だっておかしいじゃないですか。
地下のアダムを使徒から守り、予想されるサードインパクトから人類を防ぐ為のネルフ。
でもあの第十使徒が直上に墜落すれば、ネルフ本部はおろかアダムだって消滅しますよ。
……僕にはなんとなく分かる、あの使徒はアダムと融合する為なんかじゃない、
アダムをも含めた僕達の存在そのものを葬る為に、自爆覚悟で襲撃してくるんじゃないかと。
今までの使徒だって、アダムよりもむしろエヴァを狙っていた時がありますし……」
「あ……!」
シンジの言葉はまさに青天の霹靂、リツコが思いも寄らなかった考え方であった。
「最初に気付いたのは、僕じゃなくてノヴァスターさんなんです。
第六使徒の時、彼が使徒がアダムより弐号機を狙っていたように見えたと言われて、
なんとなく引っかかる物を感じてそれからずっと考えていたんです」
(……とすると、もしかしたら僕の知識もあまり当てにはならないかも知れない)
自分のアドバンテージに拘っていたシンジにとっても、それは喜ばしくない現実であった。
そして、史実を知っている自分にも勝る予測が出来るノヴァスターという人物にも、改めてスポットを向けざるを得なくなった。一体彼にもたらしているその的確な知識と勘は何処から持ち出された物なのだろうか、と。
だが、リツコにしてみれば二人とも遥か飛躍した感覚の持ち主である事に違いはない。
「ふう……あなた達には何度も驚かされるわ。言われて見ればもっともな話ね。
それじゃ、使徒の本当の狙いは何? アダム? エヴァ? それとも……」
シンジは静かに首を振った。それは流石に彼にも分からない。
「いえ、使徒によっても微妙に違うようですし、断言はできません。
一つだけ言える事は、彼等は酷く孤独な存在だという事です。
群生もせず、協調もできず、人類には敵視されて排除の対象にされる……彼等はむしろ、被害者なんです」
「被害者……使徒が?」
「人類には、元来悪い癖があります。自分達を敵視する存在を必ず『悪』だと決めつける癖が。
だからこそ使徒は攻めてくるのかも知れない……人間こそが特異な存在だと認識するからこそ」
それはシンジ自身が前々から考えていた事、エヴァという凶器を手渡されて、自分なりに自戒するべきと考えた時に心の中に芽生えてきた思い。だが、
「だけど、それでも彼等が彼女達の障壁となるならば、やっぱり僕は一切容赦出来ない。
むしろこう考える僕こそ、特異な存在なのかな……だから使徒にも人間にも敵視される『悪』なのかな……」
「シンジ君……」
エレベーター内部に、しばし重苦しい静寂が戻る。
「赤木さん、初号機は山間部の第二十ゲート付近に配置してください。
そこから全速力でこの小高い丘に駆けつけて使徒を攻撃したいと思います」
シンジがおもむろに指差した地点は、第壱中学校の間近であった。
「確かにそこからだと都心部より幾分近いから、零号機と弐号機の配置次第では一番乗りできそうね」
「イリア三佐には、僕がここの丘に駆けつける理由を説いている暇もないですし、
多分彼女の性格だとミサ……葛城さん以上に強情そうですし、僕は独断で行かせてもらいます」
「そうね、彼女の性格ならあなたを許しはしないでしょうね。
いえ彼女ならば、いつだかのように営倉送りにされかねないわよ、あなた」
「構いません」
そのシンジの横顔に、強い決意と共に見て取れたのが、影を落とす淡い想い。
「健気なのね。……それほどあの娘達はあなたにとって大切な存在なの?」
「!」
シンジの肩が驚きのあまりビクリと跳ねたのを見て、リツコは悪いと思いつつも笑いを隠せなかった。
「まさかと思ったけど、本当にその為に戦っているなんてね。成る程、彼の言葉には信憑性があるわ」
「……ノヴァスターさんですね、あのおしゃべり!」
シンジの憤怒を押さえつけるように、リツコがシンジの肩にそっと手を添える。
「! 赤木さん……」
「シンジ君。私にその事を語ってくれた時のノヴァスター君は、とても真剣だったわ。
あの時はあなたを茶化す為ではなく、あなたを思う余り必死に私を説得する言葉として使ったの。
……シンジ君、あなたが何にそれほど絶望しているかは私は知る由もないれど、
少なくともあなた、ノヴァスター君にはとても大事に思われているみたい。
それだけは忘れないであげると良いわ。あの娘達の為にもね」
「そんな……彼がそんな事を……」
戸惑う理由は一つだけではない。彼とは出会って三ヶ月と経っていないのに、そこまで信頼されるような事を自分が成した記憶もないし、心当たりもない。むしろ彼が一方的に好意を寄せてくれている気さえする。不遜な自分の、何処にそれだけ見込んでくれだのだろうか……シンジには疑問でしかない。
「そうよ。そして彼があなたに授けたあの技も、彼の善意の一つなのよ、きっと。
彼は言っていたわ。『あいつは必ずやり遂げる。ああ見えて誰よりも目的意識の強い奴ですから』って。
彼のそれだけの深い信頼に、あなたは応えられる?」
リツコが教え諭す言葉に、心が洗われる思いさえして来るシンジ。その優しい信心に心を委ねるのは甘えではないかと思いつつも、シンジはその優しさをはね除けられない。何処までも弱い自分を噛み締めつつも、彼の思いが結果二人の少女を救う事になるのならば―――。
「……やってみます。この右手で、彼女達を救ってみせます」
まだ痛む右手の掌を握りしめ、決意の程を右手そのものに知らしめるように、胸元に握り寄せる。
―――ならば、やがてその右手の意志がこの身を貫く事になるかも知れない……そう思いながら。
作戦司令室。既にそこにはイリアとアスカとレイの三人が控えていた。
イリアは立案した作戦を二人に解説し、その手段を説いている。
「あの使徒を……受け止めるのですか!? そんな無茶な!」
アスカが喫驚したが、イリアの鋭い視線に射抜かれてすぐに黙りこくってしまった。
「確かに無理に思えるが、止むを得ないのだ。あの使徒のATフィールドの規模を想定すれば、
遠距離射撃は殆ど功を成さないだろうからな。危険ではあるが、着地寸前の近接戦闘しかあるまい。
三機のエヴァでATフィールドを展開し、使徒のコアを撃破する。何か異存は?」
「……はい」
静かにレイが挙手した。
彼女はゲンドウの一言「当分は彼女に黙って従うといい」により、アスカと共にイリアに付き従っているが、アスカ程には彼女を受け入れている訳ではない。むしろ、何処か本能の部分で彼女自身から感じるピリピリとした肌を突き刺す感覚を、何とはなしに不快だとさえ思っている。
それでも使徒殲滅は自分の任務。彼女は職務にはむしろシンジ以上に忠実だった。
「アヤナミ、何だ?」
「碇君と、共同戦線なのですか?」
彼女は薄々分かっていた。彼が自分達とは協調しないであろう事は。
彼は自分達とは遥か遠くに目標を置いている。その為に自分達を振り切って戦っているのではないか……レイは第五使徒以来今までシンジの戦い方をそう解釈しつつあった。
「そうです、あいつは絶対イリア三佐の言葉なんて聞きません!
聞いた所じゃあいつの独断専行は一度や二度ではないんですよ!」
そして、憎悪という感情でシンジを忌むアスカにもそれは予測の付く事であった。
「二人とも心配する気持ちは分かる。
だが心配は要らない。私は命令を無視する人間を重宝するつもりはないからな。
君達のような聞き分けの良い戦士はともかく、彼が聞き分けなくば、私の元では長くは働けまい。
たとえ多少ばかりサードの成績や戦果が優秀であったとしてもだ。
DDTシステムは当分戦闘には使用できる状況ではないが、完成しさえすれば君達こそが戦士になれる」
その言葉は、一見辛辣だがアスカを安堵させた。
実際レイではなく、アスカだけの為に言い聞かせているようにも聞こえる。
「じゃあ、サードは……」
「今回の戦闘は特に非常事態だ、一応戦力の投入はする。
だが、そこで私も見極めさせて貰おう。サードチルドレンという少年をな」
今まで、エヴァが三機で共同戦線を張った事はない。だがシンジの戦歴を見る限り、彼が寸前で二人を出し抜いて動くであろう事はイリアにさえも予想は付くのだ。
だからこそ、そこに理由を付けてラングレーを重宝出来るかもな……それがイリアの算段。
その時分になって、リツコに連れられてシンジが作戦司令室に入室してきた。
「遅いぞサードチルドレン。こちらは既に作戦協議に入っている!」
「……はい」
シンジが入室するのを見届けて、リツコだけは退室した。
シンジに依頼されたとおり、初号機に万全の状態を施しておかねばならなかった為だ。
「さて、サードが来た所でもう一度作戦の簡単な説明に入る。
予想される最終落下予測地点を全域防護するように、エヴァをネルフ本部中心に正三角状に配置。
三機で、或いは最悪一機だけででも着地地点に駆けつけ、
落下して来るであろう使徒を受け止め一瞬で迎撃する事。出来なくば我等は全滅だ、肝に命じよ」
勝算の薄そうな作戦に、顔をいくらか青ざめさせるアスカ。博打要素の高い作戦立案に加え、同僚には命令無視の常習犯が控えているのだから無理はない。
「本当に、この作戦に勝算はあるのですか?」
「低くはない、とだけ言っておこう。
君達に不可能を強いるつもりはない。君達の技量に大きく依存する作戦であるのは確かだがな。
だがラングレーが不安がるのも無理はない、私とて自分を恥じているのだ。
私はこの作戦しか君達に推奨できなかった、傍目には無茶としか思えないこの作戦しかな……。
今回に限り、君達の意志で作戦を辞退する事も許そうと思うのだが……」
「イリア三佐……」
常に強気なイリアが微かに見せた、儚い言葉にアスカが答える。
「いえ、私はイリア三佐の作戦に従います。必ず、任務を果たして見せます」
「……期待しているぞ、ラングレー」
「はいっ!」
期待という明らかな信頼の言葉を受けて、アスカの心は沸き立つ。
だが、その高揚した雰囲気に割り入るように、静かに挙手する腕があった。
「……何のつもりだサード」
「見て分かるでしょう? 許していただけるのならば、僕はこの作戦から辞退させていただきます」
瞬間、地獄の鬼もかくやという形相で、シンジの胸倉に荒々しく掴みかかったのはアスカだ。
「あんた、一体何様のつもりなの!!
イリア三佐が考えてくれた作戦と心遣いに対して、その態度は何!
第一、チルドレンたる者が使徒を目の前に尻尾を巻いて逃げ出すつもり!? 冗談じゃないわ!」
アスカの言い分は、彼女自身がイリアに依存し始めていた事を差し引いても、傍目には当然の言い分ではあった。チルドレンとしての責務を放棄するなど、特にアスカにとっては許し難い事である。
「そんなにやる気があるなら、君達だけでやればいい。
僕はとてもとても耐えられないね。命の危険がありすぎて怖くて仕方がないから、この作戦から一抜けた」
「この……!」
右腕で思いっきり殴りかかろうとしたアスカの腕を、イリアが食い止める。
「止せ、ラングレー。やる気のない者に何を言っても聞くまい」
「は、はい……ちっ!」
舌打ちで悪態を付いて、アスカはシンジの胸元からようやく手を離した。
「では、僕はこれで……」
きびすを返して立ち去ろうとするシンジの背中を見つめる忌々しそうなアスカの瞳。
そして、イリアはその背中に向けて声を掛ける。
「サード。今回の作戦に応じられないと言うならば、それは私の言い出した事だ、処罰はしない。
だがお前がもし、本部での待機命令を破り勝手にエヴァを用い行動を起こしたとあらば、
それは厳罰の対象だ。覚悟せよ」
「……了解」
シンジは自身も忌々しそうに一つ舌打ちをして見せ、作戦司令室のドアの向こうへと消えていった。
(やはりあの小僧、一人で動くつもりだな。
まあいい、私の手元に口実が転がり込んでくるだけよ。六分儀を黙らせるには格好だ)
「やむを得まい。ラングレー、アヤナミ両名、こうなれば君達だけで使徒の殲滅に当たって貰おう」
「はい!」
「……はい」
快活な返事を返すアスカは、これでシンジを出し抜いて自分が優位に立てる絶好の機会だと割り切り、必ずこのオペレーションを成功させるべく自らに渇を入れていたのである。
だが、レイはそれとなく悟っていた。シンジが作戦を放棄したのではなく、独自に動くであろう事を。
(彼は、使徒を倒す事に拘っているわ。だけど、それだけじゃない感じ。
私達が使徒を手に掛ける前に、必ず彼は動く。そして、結果私達は救われる……)
自分の代わりに、加粒子砲の前に立ちはだかったあの初号機の姿を思い起こしながら、そう思う。
(だって彼、「守る」って言ったもの。私達の事、守ってくれるって……)
レイは、自分の心の中に芽生える不思議な想いに少しずつ気が付きつつあった。
思い起こす度に、何故か少しだけ頬が熱くなってしまうとても不思議な、レイにとってそれは未体験の感覚。
だが、それを今のアスカに語ることは出来なかった。故にイリアに惹かれていくアスカを止める言葉を持ち合わせる事もなかった。
心の狭間で揺れ動く者が、ここにも一人。
不安の中、発令所では作戦が開始された。
「使徒による電波攪乱の為、目標を喪失したままです」
だか早速入ったマヤの報告に出鼻を挫かれ、またも眉を顰めるイリア。
「むう、これでは使徒の正確な位置測定も出来ないな。
仕方が無い、直前までの情報をMAGIを使って落下予想地点を算出させろ」
一瞬後にはイリアの命令に習い、発令所のメインスクリーンに都心部を真っ赤に染めた地図が映し出される。
「? いやに算出が早いな。誰が計算した?」
「私ですが」
名乗り出たのは、発令所の隅にいたリツコだ。先程シンジに見せた情報をそのまま公開しただけなので、確かに手間は掛からないだろう。
「ほう……随分と広範囲が出た物だな。やはりこれでは当てにならぬな……」
まただ。あの女は故意にMAGIを侮辱するような発言を心掛けているに違いない……だがリツコは心に溜まった怒りを押さえ、シンジがイリアの度肝を抜くその瞬間を期待する事にした。
そしてイリアは、自分の真横に控えさせていた直属の部下―――先日の三人組の一人―――に耳打ちする。
(やはりMAGIなど当てにならぬ。『奴』で算出し直せ。それと一応例のレポートとも照合しろ)
(了解)
言付けを受けると、男はそそくさと発令所を後にする。シゲルなどはその男が先程から背後で不気味な気配をちらつかせるのが薄気味悪くて仕方が無かったので、居なくなって清々としたとばかり表情を緩ませていたりする。
だがしばらくしてその男が戻ってくると、彼はまたしても背後からの心地悪さを受けながら仕事に勤しむ。
(どうだった?)
(落下予測地点が判明しました。この地点です)
男がこそりと差し出したレポートに目を通すイリア。慌ただしい発令所内部で、二人の内密な会話に気が付いていたのはリツコだけであった。彼女には彼女の仕事があったがそれを一時マヤに預け、自分はイリアの気配を時々探り彼女の手腕を観察していたのである。
(ほう、この小高い丘付近が予想地点……着地予想時刻はあと130分後か。随分絞られた物だな)
(それと、例のレポートとも一致しました。使徒は必ずここに来るでしょう)
(分かった。貴様は作戦司令室に戻っていろ)
(了解)
男は再び発令所を後にし、今度は戻ってくる事はなかった。
「カツラギ二尉、チルドレン両名を此処に呼び出せ」
「了解。……レイ、アスカ、イリア三佐が呼んでいるわ、発令所に来る事」
ミサトの呼び出しで急遽二人が、発令所に呼び出される。
「エヴァの配置位置が決まった。君達が通う中学校からやや離れた此処……」
イリアが指差した箇所は、都心部の外れに近い場所の小高く丘になっている場所だった。
「ここを中心に3km離れた上下の地点にエヴァを二機配備する」
「そんな!? ここではMAGIの予想地点を全域埋める事は出来ません!」
「ラングレーの言う事は尤もだが、どの道二機では全域には手が届かぬ。
私が独自に算出した最終着弾予想地点がこの丘付近だ。
だからせめて君達の学舎に影響が及ばぬよう尽力してくれたまえ」
「くっ……サードの奴が逃げ出す事さえなければ!」
アスカが忌々しく吐き捨て歯を噛み締める。
「気にするな。君達ならば必ず達成してくれると信じる事にしている」
「はい、必ずご期待に添います!」
アスカはこの頃には、既にイリアに従順している節がある。自分の上官として相応しい手腕を認め始めていたのである。
一方レイは寡黙を守ったままだったが、イリアの言葉には彼女なりの信憑性があるのだろうと思い、従う事にした。
「ならば早速出撃してくれ。使徒が落下してくるまでこの地点で各自待機を命じる」
「「了解!」」
反して発令所の片隅では、イリアの言葉を聞き付けたリツコの顔が険しくなる。
(彼女の独自の算出結果ですって!? しかも、シンジ君が指した部分と一緒……。
どういう事、彼女はシンジ君と同じ秘密を抱えた人間だとでもいうの?)
「先輩、先輩!」
リツコの険しい顔立ちに心配の声を掛ける傍らのマヤ。彼女もイリアのMAGIに対する扱いが蔑ろなのを察している為に、リツコの心配の一部は把握できている。
「あ、ああ、何でもないわ、マヤ。
ところで、今説明したとおりの手際、あなたに一任したわよ」
「初号機を独断専行させるという話ですか? イリア三佐に知れたらどうなるか……」
彼女の性格ならば、ミサトの時以上の雷が落ちそうだと思い、マヤは震える。
「マヤは何もする必要はないわ。いつもの通り、零号機と弐号機のバックアップを勤めて頂戴。
逆に、初号機がとんな行動を取ったとしても初号機には干渉しないで。シンジ君に任せておきなさい」
「先輩……彼の言葉をそんなに信用しているのですか?」
マヤが言うのはノヴァスターの事だ。マヤにとってノヴァスターは「先輩にあれこれ吹き込む怪しい人物」というあまり良くないイメージが付きまとう。同僚のシゲルなどは良い付き合いをしているらしいが、マヤには素性の知れないノヴァスターを受け入れるリツコやシゲルの神経をつい疑ってしまう。
「信用はきっと、結果が示してくれるわ。取りあえず、ここは彼等に従いましょう。
私達は、私達に出来る仕事で彼等を補佐するの。きっとマヤも、やり甲斐を感じる仕事だと思えてくるわ」
「私には……まだ分かりません」
「正直ね、マヤは」
そんな可愛げな部下の頭を軽く撫でてやる。つい愛猫を可愛がる時のリツコの癖が出たようだ。
「さて、シンジ君……あなたの右腕に稲妻が走るその瞬間、確かめさせてもらうわ」
そして、二時間が過ぎた―――。
「目標を、最大望遠で確認! 距離、およそ二万五千!」」
シゲルの報告に発令所の緊迫感は更に増大し、全員の顔が強張る。
燃えさかる大気圏の摩擦を物ともせず、全長1km超の使徒が空から降ってくる光景は壮絶だった。
「来たな……小癪な奴が。エヴァ弐号機、零号機各機、戦闘準備に入れ!」
イリアの言葉に、前傾するエヴァ両機。ここから第十使徒の真下に駆け込むべく、短距離走で言うクラウチングスタートの体制を取る。兎に角、敵の着地に遅れる訳にだけは行かないのだ。
「ラングレー、アヤナミ両名。こちらからの指示を元に適宜行動する事。
こちらの手元では、目標を光学観測による弾道計算でしか補足出来ない。
高度二万まで様子を見る。そこからは各自で誤差修正、使徒の落下位置を割り出して駆け付けるのだ」
「「了解!!」
「では……作戦開始!」
イリアの号令と同時に、二機のエヴァのアンビリカルケーブルが脱却される。
「レイ、スタートするわよ!」
アスカの言葉に合わせ、モニターの向こうのレイも相槌を打ちながら零号機を発進させた。
凄まじい轟音と共に、大地を揺るがし都心部を駆け抜けていく二機のエヴァ。
(あたしは絶対に、あの使徒を仕留めてみせる!
今度こそ、サードの奴を見返して、あたしが一番に君臨する為にっ!)
アスカが決意を込めて、操縦桿を傾ける事で弐号機が更に加速する。それに併せて、零号機もまた高機動モードで駆け抜ける。
既に二機の直上にはサハクィエルの巨大な風貌が、二人の元に一心に落下すべくその巨体を落下させている。
「やっぱりイリア三佐の言うとおり、ビンゴね!
レイ……受け止めるわよ、歯を食いしばって行くわ、フィールド全力展開!」
山間部の頂上に駆け付けた二体のエヴァが、同時に両腕を突き上げる。
だが、使徒の余りの巨体が二人に一抹の不安を過ぎらせる。果たしてこれが二人で仕留められる敵なのか、と。
そしてレイは心の何処かで待っていた。彼が、シンジが駆け付けるその時を。
(外電源パージ……発進!)
主電源供給システムの表示が、9:59:99からゼロに向かって逆カウントを始める。
その瞬間、初号機はゲートのドアを蹴破って表に姿を現した。
無論、発令所の面々にもその「暴走行為」は一瞬で捕捉される。
「初号機か!? サードめ一体何を考えている!」
イリアが憚る事なく叫ぶ。自分が独自に算出した着弾地点からさほど離れていないゲートに姿を現した事に驚きを隠せないのだ。
(やはりあの小僧……知っているのか!?)
だが、そのゲートは着地地点の最短距離のゲートではない。むしろ多少離れている方が好都合なのだ。
「早い!!」
その余りの速度にミサトが叫んだ。シンクロ率の違いだろうか、二機のエヴァとは比較にならないほどの超高速で大地を駆け抜けて行く高機動モードの初号機。つまり助走を付ける為、あえてシンジは多少離れたゲートを選択し、その助走が生む膨大な運動エネルギーをも自らの力とすべく走るのである。
「距離、一万二千!!」
シゲルが叫ぶ。だが既にその声は、発令所の殆どの人間の注意を引く事は無かった。
唯一、心に余裕を持ってその光景を眺めていたリツコだけが、口元を緩ませている。
シンジは、都心部を駆け抜ける初号機の中、ノヴァスターの助言を反芻していた。
まずは走れ。加速による運動エネルギーを出来うる限り初号機に宿らせて、その力を利用するんだ。
次に、拳に念じろ。ガマの油売りの要領を思い出してな」
「フィールド全開! エンハンスドエナジーシステム発動ッ!!」
叫べと言われたノヴァスターの言葉を、意識して忠実に実行しているつもりはなかった。
ただ、ひたすらに強い彼の不動の決意が、シンジの右手とシャウトにありったけの力を込めさせるのだ。
そのシンジの意志に応えたか、初号機の右腕に傍目にも明らかな程の凄まじい放電エネルギーが宿り始める。
「何をするつもりだ、サード!」
イリアの叫びなど聞こえてはいない。シンジは通信を絶ち、全ての意識を右腕に集中していたのだから。
(「何をしている伊吹二尉! 初号機を止めぬか、命令違反も甚だしい!!」)
喉まで出かかったその言葉を辛うじて飲み込んで、イリアはシンジの動向をあえて見守る事にした。そしてリツコの思惑通り、実際に初号機を止めるにしては既に手遅れでもあったからだ。
やがて、初号機の右手に瑠璃色の光が宿り出す。ATフィールドを過剰に凝縮すると現れる現象だ。
重ねられた層が細かく多ければ、それだけ同じ厚さや生成エネルギーでも破壊力に違いが出る。
そして相手に拳をぶつけた瞬間に、そのATフィールドを大量の細刃のイメージに変えて、
放電に乗せて目一杯バラまくんだ。その衝撃と斬撃と放電で、相手は四散するだろう」
凄まじい勢いで跳躍する初号機。空中でその上半身を右に捻り、腰のバネさえもその右腕に宿らせる。
「サード!?」
「碇君!」
遥か上部を跳躍する存在に気付いた二人。時速数百kmで飛び跳ね、サハクィエル目掛けて一心に突撃していく初号機は、まるで空を駆け抜ける稲妻を見ているかのようであった。夢とも幻想とも付かない一瞬の衝撃の映像に、目前の敵さえも忘れ去って上の空で見入ってしまう。
「行きなさい、シンジ君。あなたの意志を叶える為に、その右腕を突き出して!」
発令所で祈るリツコの願い。
「炸裂させるその時こそ叫べ、君が右手に乗せた意志と共に!」
自分に技を託してくれたノヴァスターの願い。
そして自らの不屈の意志をも乗せて、シンジはその技の名前を目一杯叫ぶのだ。
負けはしない、挫けはしない、眼下に見える少女達に襲いかかる驚異を、全て払い除けるその日まで。
『雷壁滅砕掌』 ! ! ! 」
サハクィエルのATフィールドに阻まれたのはほんの一瞬だけ。稲妻と破壊壁を纏った掌の前では、紙同然とばかりに突き破った。瞬間シンジの怪我をした右手に、衝撃の反動で鈍痛が走るが彼はなりふり構わず、エントリープラグの中でその右腕を突き出し続けている。
そして初号機はその身を巨大な流星に準え、サハクィエルの全身を腑分けするかの如く抵抗無くその身を突き抜ける。同時に使徒のコアをその巨体から奪い取り、その手に納めていた。
やがて、胴体に巨大な風穴を空けたサハクィエルは無惨な屍を丘に着地させ、丘の上に待機していた零号機と弐号機に寄り掛かり、しなだれる。
初号機は使徒の死を確かめると、全ての決着を付けるべく掌の中のコアを二つの拳で挟み砕いた。
後には、莫大な爆発だけが三機のエヴァを包むのだった。
「なんて……なんて奴なの……サード……!」
あの巨大な敵さえも一撃で葬る力の持ち主、サードチルドレン……そして初号機。
アスカは震えずには居られなかった。そして、彼女は真の敵をそこに見出したのだった。
使徒よりも遥かに強く、己にとって忌まわしい存在……それはアスカの立場であれば、必然の結果だったのかも知れない。
「碇君……やはり、来たのね」
レイは静かに喜んだ。彼がその誓いの言葉を裏切らずに意志を果たしてくれた事が、何故だか嬉しいのだ。
「守ると言ったあなたの言葉……信じて、いいのね」
そして、その言葉の意味を何度も考え込むうちに、彼女の心にはいつしかシンジに対する「信頼」とも呼べるべき感情が芽生える。それは、その思いに身を委ねれば何故だか安らぐ不思議な感情。エヴァでなくとも、心安らげる場所がそこにあるのだとレイが気付くのも、時間の問題かと思われた。
「でも……アスカは納得しないわ、きっと」
その事を考えると、レイは静かに首を横に振った。
また二人が、戦いの後に確執を起こすのであろう事を考えたからだ。
「あれがサードチルドレンか……。あの力は、確かにラングレーとアヤナミでは手に余るようだな。
だが、所詮は旧式の悪足掻き、我々の真の驚異にはなるまいに。心配性なのだよ、ゲオルグは」
二人のチルドレン同様出し抜かれた筈のイリアの口元に、邪笑が浮かぶ。
彼女の絶大な自信は、『雷壁滅砕掌』を見届けた後でさえも未だ健在であった。
何も思わず、何も語らず、ただ艶やかな微笑みを口に浮かべるだけのリツコ。
彼女は、自らの研究の成果と、シンジの強い意志の融合技の成果に只満悦するだけであった。
各自がそれぞれの思惑を交差させながら、第十使徒戦は終結する―――。
「申し訳ありませんでした、イリア三佐……」
酷く消沈した面持ちのアスカが、ペコリと頭を下げる。その隣にはアスカに習って静かに頭を下げるレイ。
「君が謝る必要はない。使徒を倒すという成果はあげる事は出来なかったろうが、
君の努力に期待する私の気持ちに変わりはない。次の戦いでも楽はさせないぞ」
「はっ、はい! ありがとうごさいます!」
寛容なイリアに心から感謝し、敬礼で答えるアスカ。
「……だが、命令違反者は処分せねばな。子供であれ私は容赦はしない。
そうだろう、サードチルドレン?」
イリアが振り返った先には、三重の手錠で手を拘束されたシンジが立ちつくしていた。
『雷壁滅砕掌』を使った時に無理をしたのだろう、その右手にはテーピングで応急処置が施されていた。
シンジ自身は覚悟など出来ていたし、この処遇も初めての事ではないので落ち着いたものだ。
その不敵な態度が、ますますイリアとアスカの癪に障る。
「ふん、結果は出せても手段は問わず……か。私が最も嫌うタイプだな、貴様は。
下手に無能よりタチが悪い、目の届かぬ所で何をしでかすか分からないからな」
「……で、僕をどうするんです?」
イリアのご託などより、自分の処遇を早く知りたがるシンジ。
シンジ自身、イリアを嫌悪し始めていたのもある。今のアスカを優遇する人物など、エヴァに対する依存を増すような羽目に陥らせる人間など、シンジの目的の障壁でしかない。
「当然禁固刑は免れまい、貴様当分は出て来れぬ物と思え」
「……当分とは、具体的にいつまでです?」
「もうすぐ年も暮れるからな、お望みなら暗室で年越しをさせてやるぞ」
売り言葉に買い言葉、互いに悪辣な言葉だけが飛び交う険悪な雰囲気。
「連れていけ、もう目障りだ」
イリアも必要以上にシンジを毛嫌ってみせ、アスカに対して尽くす自分を訴える。
実際シンジの処遇にいい気味だと思い込むアスカの視線は、保安課員に両手を連れられて営倉送りにされるシンジを眺め続けていた。
「そうですか。シンジの奴、成功させましたか。いや安心安心」
実際は室内の小さなモニターでその様子を人知れず見守っていたノヴァスターだったが、リツコの報告で殊更機嫌を良くし、二人でささやかに勝利と開発成功の祝杯をあげるのだった。
「私も驚いたわ。まさかあれだけの質量を持った使徒を一撃で仕留めるなんてね。
机上の理論もいざ実際に目の当たりにすれば、小気味良いものだったわ。
シンジ君の手柄もあるけど、やっぱりあなたの発案無しには、今回の勝利はなかったでしょうね」
「ま、そうだと俺もやり甲斐があったって物ですよ」
一瞬機嫌を良くしたのもつかの間、
「でもやっぱり何か引っかかるわね。あれは本当にあなたが考え出したシステムなの?」
と返されると、そのまま椅子から転げ落ちるノヴァスター。
「ホンット信頼ねぇなぁ俺……(^-^;
まぁ……実はあれは立案が俺で、基礎図面に起こしたのは別な人なんですけどね」
「でしょうね」
「面目ない(^^;」
クスクスと笑いたてるリツコに、少しだけ罰が悪かったりする。
「まあ、今更あなたに騙されたなんて思ってないわ。私は私の仕事を全うできたのだから、満足しているの」
科学者としての本望を生かせた事に、素直に感謝できるのが今のリツコ。
「ところで、シンジの奴はどうしました?」
「それがね、案の定……」
発令所で起きていたイリアとシンジの確執を聞き及び、事件の顛末を聴き知る。
ノヴァスターの顔が曇った。
「まずい、アスカを買いすぎだ、あの女。……まさか!」
「どうしたのノヴァスター君? ……顔色が悪いわよ」
ところが突然椅子から立ち上がると、ノヴァスターは一目散に駆け出していった。
「ちょっ、ノヴァスター君?」
リツコの制止も聞かず、ひたすら全速力で駆け出すノヴァスター。
「悪い予感がする……早まるなよシンジ、アスカ!!」
彼が背負わなければならない二人分の確執、そしてしがらみと苦悩。
本当の心の強さを得た筈の彼にも、心の焦燥が襲い来る。
孤独な戦いは、子供達だけの話ではない。
「苦々しいといった面持ちだな、ラングレー」
イリアはアスカの頬にゆっくり手を添えると、その暗い表情を覗き込む。
イリアから漂う強い香水の香りが、アスカの鼻腔をかすめた。
「三佐、あたしはやっはり、あいつが許せません……。
あたしの存在価値を奪い去るようなあいつの生き様が、許せません……」
憎々しいシンジの顔を思い起こすとアスカの顔がより険しさを増す。
「ふうむ、弱ったな。私は直接どうとも出来る立場ではないし……。
よし、ではこうしようラングレー。私に名案がある。聞いてくれるな」
「はい……イリア三佐」
アスカの従順な返事と共に、その瞳がトロンととろけだす。
半ば虚ろにイリアを見つめるその瞳を、逆に覗き込むように話し掛けるイリア。
「ラングレー。よく聞くといい。
君が大成する為には、君が皆の賞賛を浴びる為には、君が一人前の女性となる為には、
ひたすらサードチルドレンの存在が壁となって君を苦しめているようだな。
……よし、今の言葉を自分の言葉で反芻して見せよ」
虚ろなアスカの意識が、その言葉を鵜呑みにして繰り返す。
「……サードの存在が壁となって……あたしを苦しめている……」
「そうだな。だから、私は何としてでもサードを排除しなくてはならない」
「……あたしは何としてでも……サードを排除しなくてはならない……」
オウム返しのように呟き返すアスカ。その瞳は既に鉛のように濁って染まり、光を映してはいない。
平常時のアスカならば、イリアの言葉の異変にも気が付いただろう。だが、今のアスカは逆に彼女自身が著しい異変に囚われ、平常の判断が出来ていない。
「そうだ。だから私はサードを殺す。何としてでもサードを殺す」
そのアスカの濁った瞳を覗き込んで、丁寧に丁寧に言い聞かせていくイリア。
既にアスカは一緒の催眠状態に陥り、イリアの言葉を完全に飲み込み続けていた。
「……だからあたしはサードを殺す……何としてでもサードを殺す……」
「そうだ。それでいい。そんな君にこれを渡そう」
イリアが懐から周到に取り出したのは、一本のナイフ。そして営倉の合い鍵。
だかそのナイフは刃が小さく、殺傷能力が強力とは思えない代物。
「……これは……」
「これでサードを一思いに……殺せ。君の心に巣くうあの少年を排除するのだ。
そうすれば、君が一番なのだ。君こそが栄誉あるチルドレンになれるのだぞ」
静かにアスカの耳元で呟いたイリアの一言が、アスカの深層心理に強く刻まれた。
イリアによって更に濁されてしまった心に、その言葉は呪縛として彼女を完全に捕らえたのである。
「……イカリ……シンジ……コロシテヤル……!」
おぼつかない足取りで作戦司令室から立ち去って行くアスカの後ろ姿を見つめながら、計画の全てが順調に進んでいるイリアの口元から邪笑が絶えない。
「くくく……それで良い、それで良いのだラングレー。
たとえ君が殺し損ねようと、これで二度とサードとの間にくだらぬ愛情を挟む事など有り得まい。
そして史実は変わるのだ、この私の手でな……フフフ……」
全てを掌握したイリアの顔は、恍惚とした笑みに彩られていた。
第二十六章後編、公開です。
しかし前後編通じて長い長い(^^; ストーリー上大事な章である事と、私がエヴァの中で最も好きなのがこの壱拾弐話パートという事もあってだいぶテキスト量が膨れてしまいました。
この連載の為にビデオを見返しているのですが、今でも時々新しく気付く事があるんですよね。
苦悩を抱えたミサトの心情を察して、ステーキの奢りにわざと沸き立ってみせるシンジとアスカを見ていると「なんだ二人ともしっかりしてるじゃないか。お互い呼吸も合ってるし」なんて思ったりもしますし、私は壱拾九話のシンジよりもむしろこの話のシンジの方が逞しく凛々しく見えたりもしますし。
一番、子供達が活気付いていて、生きているんだなと実感した話です。
でもシンジの背が綾波よりも低かったという事実はちょーっちショック……(笑)
(但し、当連載では原作より一年分の成長があるので、一応アスカとほぼ同じとしています。)
しかも公式設定だと、アスカよりヒカリの方が背が高いのだから世の中不思議だ(笑)
さて、それでは本編の補足を少し。
今回は細々とした話を幾つか組み込んでますが、何より作者がその描写を待ち遠しく思っていたのが、「雷壁滅砕掌(らいへきめっさいしょう)」の登場です。
(アクセントは「さいしょう」の部分でお願いします(笑))
その存在意義は単に、破壊力に欠けると常々言われていたエヴァの力を補う為だけではなく、シンジ自身がこの技を通じて自分自身の目的を掴んでいく為に身につけた技というコンセプトにしています。
故にこの技は、単純な技量とはまた違う意味で、現時点のアスカやレイには使いこなす事は出来ないでしょう。
さて次章はTV本編から少し離れて、シンジの胸中の決意自体を言葉で語る展開になります。
殺意の塊と化してしまったアスカ、そしてシンジとノヴァスター……。
次元を越えたシンジが、かつてゼロと呼ばれた自分との確執と葛藤を思い起こす話です。
それでは、また次回……。
外伝壱を書いた頃から決めていた事とは言え……(^^;