徘徊する蛇を思わせる緩慢な動作で、営倉に徐々に近付いてゆく一つの影。
懐には手渡された短刀を隠し持ち、周囲に警戒しながらその影は目的地をひたすら目指す。だが不思議と営倉には監視の気配が一切なく、その影は滞りなく目的地に近付いて行く。
少女のフラストレーションは限界に近付いていたのだろう、その切羽詰まった表情は年相応の無垢さと微笑ましさを失い、陰惨さや悪意だけを背負った醜い物でしかなかった。だが少女には既にその黒く染まった自我を取り払い浄化するべき力を失っていた。ただひたすら、その殺意という名の衝動に囚われ、それを解消する為だけに動くのだ。
やがて、その少年が幽閉されている独房の前まで歩み寄る影。事前に手渡されていた合い鍵をそっと差し込み、その重圧な扉の封印を解く。
少年は独房の中で仮眠を取っていたが、静寂に響きわたるその開錠の音に目を覚ます。
そして少年は、扉に開けられた狭い覗き穴から亜麻色の髪が踊るのを見た。
少年は知った。とうとうその時が訪れてしまったのだと。自分の歪んだ生き様に、一つの決着が付いた瞬間を。
その少女の名は、惣流=アスカ=ラングレー。その少年の名は、碇シンジ。
歴史は再び反転し、暗転す。その不動なる摂理を思い知る少年にとっては、あまりに容易に予想された結果だった。
アスカはのそり、と独房の中に歩み入ってきた。シンジは堅く薄いベッドから起きあがり、後光に映える少女の一挙一動に細心の神経を配り、彼女の動きを見守る。
「来ると思っていたよ」
なのに、毎日顔を合わせる級友に挨拶でもするかのように、シンジはさらりと挨拶を掛ける。
訪れるべき時が来ただけ……それだけの事に動揺するような臆病さは既に彼の心には、無い。
「……あんたが悪いのよ。あたしの全てを奪おうとするあんたが……」
アスカの言葉は低く暗く、シンジの心に妖しく絡み付く粘っこい呪詛のようであった。
「あたしにはエヴァしかない。だからエヴァはあたしだけの物。
あたしはエヴァで満たされて、チルドレンである事で満たされるの。
だからこそ、チルドレンとしての訓練に何年も何回でも掛けて打ち込んだわ。
それで認めてさえ貰えれば、友人なんて要らなかった。あんな親だって家族だって要るもんか。
それでもあたしにはエヴァしかなかったのに、それでもあたしには栄誉は手に入らない。
あたしは一番でなければならないのに、誰よりも認められた存在でなければならないのに……」
自分の一面を重く語るアスカ。その身は扉の側から離れる事は無く、鋭い眼光でシンジをひたすら睨み付けている。
「そうでなければ、君が君で要られないからだろう?
チルドレンという珍しい地位が、自分を慰める格好の餌である事を知っているからだろう?
馬鹿な大人がそれに食らいついて自分を褒め称える事を逆に蔑んで、
その優越感で更に自分を慰める為に。そしてその為に独善的な言い訳を自分の中で常に取り繕っている」
「! ……なんであんたにそんな事が分かるわけ!?」
シンジの答えは実に簡素で、答えるその顔もまた垢抜けていた。
「なんだ、君も僕と同じ考えでいたんだね。奇遇だな」
「あたしとあんたは違うわよっ!!」
「へえ、何を基準に、僕と君の間に境界線を引いているのさ?
生憎僕は、君と違ってチルドレンである事が優越的で誇りある事だなんて思った事もないよ。
だけど、エヴァという力を振るう事で此処では優遇される。その能力に比例してね。
だから僕は此処の一番でいられるのさ。幸いドイツから来た同僚さんよりは『使える』人材らしいからね」
「くうっ……!」
アスカがその皮肉に激しい歯軋りを起こす。それを見たシンジの顔がアスカを嘲るように笑い、歪んだ。
「だから此処には、君を必要とする人間なんて居ないのさ。諦めなよ」
「い、イリア三佐はあたしを必要としているわ!
あの新システムの被験者は、あたしでなければならないんだから!」
その言葉が、明らかに動揺している。シンジはそんな自分達に少し滑稽さを覚えた。
「……目的と手段を取り違えているんだね。
本来は使徒に勝つ為の新システムなのを、君は僕を見返す為の方法だと取り違えているだろう?」
「そ、それは……!」
「図星か。語るに落ちたという奴だ、勝てない身内に神経を奪われるようじゃあね。
君も早く認める事だね。自分はチルドレンには不適でした、無能な私ですみません、って具合にさ」
クスクスと笑いたてるシンジ。そのいやらしい笑みはアスカに一層激しい殺意を覚えさせる。
「……方法ならあるわ。あんたを退座させて、あたしが此処の一番になれる手っ取り早い方法がね……」
「へえ、今の君にそんな都合がいい方法があるんならご教授願うよ」
その時になってアスカはゆっくりと、懐から短刀を取り出す。
シンジの位置でもその鈍く光る切っ先は容易に見て取れた。
「自業自得よサードチルドレン、覚悟しろ……」
「実に短絡的な方法だね。僕を殺して地位を奪い取る気なんだ、そこまでして欲しいのかい、僕の立場が」
「うるさいっ! あんたに、あたしがどれだけ渇望しているかなんて、分かるわけないじゃない!」
「分からないね。だから、欲しければくれてやるよ、こんなカスみたいなモノ。
大人に媚びてかつ体よく扱われるだけ立場なんて欲しがる君の気持ちなんか、僕には到底理解できないから」
シンジは、アスカが長年自らの全てを注ぎ込んでまで求めた物を、極限まで貶めてみせた。
そして、彼女が新しく輝ける可能性に目覚めてくれる事を心の隅で切に願いながら……。
「あんたなんか……殺してやるうっっ!!」
一足飛びで自分に跳びかかるアスカを静かに見つめながら、シンジはその刃に身を任せるか否かギリギリまで迷った。ここで自分があの刃に身を任せれば、自分もアスカもどれだけ楽になれるだろう。このしがらみを今全てここで解き放つ事が出来れば、どんなに安らげるだろうか……と。
(でも、僕はこんな中途半端な所で安易に死ぬ為に生き恥を晒しているんじゃないんだ。
アスカだって、試練を乗り越えて強くなって欲しい、でも僕をその手に染めたって何の解決にもならない。
ここで僕が死んで見せたら、それこそ本当にアスカはエヴァの呪縛から一生抜け出られないんだ。
だから僕は……僕自身だけがアスカの呪縛で居続けなければならないんだ……。
どうせアスカにとって忌まわしい存在でしかないのなら……永遠に心が通じ合えないのなら、いっそ……)
アスカが両手で握りしめ、渾身の力で振り下ろした刃をシンジはその左手だけで受け止める。
刃を握りしめた掌から、シンジの左腕を一筋の血だけが流れ落ちていた。
「……無理だよ。その程度の殺意で……僕を殺せるわけがない」
アスカの両腕の力と、シンジの左腕一本が辛うじて均衡を保っている。
アスカはなんとかしてシンジの胸元に刃を振り下ろそうとするが、予想以上に強いシンジの腕力がその手を離さない。
「その程度とは何よ! あたしがどれだけあんたが憎いと思っていたと思う!?
あたしの誇りを根こそぎ奪い去って辱めてくれて、あんた只で居られる訳がないじゃない!」
「随分独善的な理屈だね。僕じゃなくでも誰も納得しないよ、そんな言い分」
「うるさいっ! あんたにあたしを裁く権利なんかないわ!」
「なら君にも僕を裁く権利なんてないはずだ」
二人の力が膠着した。腕に掛かる力は二の次で、その悪態の応酬に神経が注がれ始めているからだ。
「あたしがあたしで居る事を否定する権利なんて誰にもないわ!
あたしが求めた物を、あんたに辱められる言われもないし、道理もない。
ずっとずっとそれだけを追い求め続けていたのに、此処に来てあんた如きに否定されるなんて、
納得いくはずないじゃない! あたしが欲しがっていた物を、どうしてあんたなんかに!」
「心外だね。僕は此処で生きている、それだけだよ。
僕が生きる為に行っている事が、たまたま君という存在と突き当たって、負けた方が弾き飛ばされただけで。
それで負けたから逆恨みなのかい? 誰かに突き当たる度にそれを続けるのかい?
そんなに他人の存在を排除してばかりで、生きていける筈がない」
「あたしは生きていけるわ! あんたみたいな子供とは違うのよ!」
「駄々をこねる子供はどっちさ」
「あたしはこの年で修士課程も卒業してるのよ! 中学の勉学が一杯一杯のあんたと一緒にしないで!」
「だから君は特別だって言うのかい? 大学を卒業した人間がこの世に何人居ると思うのさ」
「なおかつあたしは選ばれたチルドレンで、世界の救世主よ!」
「でもその技能は僕にも劣る」
「だから見下してんじゃないわよ!!」
刃から手を離し、アスカの平手がシンジの頬を鋭く襲う。心地よくさえ思える音が独房に響く。
「うるさいうるさいうるさいっっ!!
あたしが一番なんだ! あたしは特別に選ばれた存在なんだ! あたしの努力と才能が一番なんだ!
だからあたしはあたしで居られる、一人でも負けずにいられるのにぃっ!!」
「アスカ!」
シンジは心の片隅で、アスカの挙動が先程から何処か異常だと感じていた。
確かにアスカにはプライドが高い所があるが、それにしては今日の彼女は余りに意固地すぎる。アスカは確かに年頃よりは賢い少女だから、反論できない事に暴力で対抗しようとするほどには本来の彼女は排他的で暴力的ではない。
殺意を抱かれるのは構わなかった。ただ、その事で自分を見失わないで欲しかったのだ。
だからシンジはまだ死を躊躇した。今のアスカがその手を自分の血で染めて、彼女に未来があるとは到底思えなかったからだ。
「うるさい、あんたに馴れ馴れしく名前で呼ばれたくなんてない!!」
思わず以前のようにファーストネームを呼んでしまったシンジは、そこだけに僅かな動揺を示した。
だが、それが命取り。その一瞬の隙を見逃さなかったアスカが、シンジの左手から素早く短刀を抜き取り、再びシンジの胸元へ振り下ろすべく大きく振りかぶった。
「!? しまっ……!」
「あんたなんか、死んでしまえばいいのよぉーーーっ!!!」
その時シンジが見上げたアスカの表情は、殺意と憎悪と悲壮がひたすらに綯い交ぜになっている形相でしかなかった。太陽のように眩しかったあの笑顔は一体何処に消え去ったのか、いや失わせてしまったのか、シンジはアスカをそこまで貶めた醜い自分自身を見つめているかのように、ただ暗然とした視線を虚空に泳がせる。
今ならば、アスカの刃を素直に受け止めてもいいのかも知れないのに……そうとさえ思った。
だがまさにシンジの胸に刃が振り下ろされようとした時、そのアスカの腕を後ろから力強く掴む手があった。
背後からの不意の存在に驚いたアスカが振り返った瞬間、
パァン!
彼女の眼前で大きな柏手が鳴った。
「ひゃっ!?」
一瞬だけ本来の彼女らしい可愛らしい叫び声を唱えたかと思うと、彼女の意識は彼方に吹き飛んでいだ。
そのまま崩れ落ちる彼女を支えた彼に、シンジは安堵した表情を浮かべてその男の名を呼んだ。
「……ノヴァスターさん……」
「間一髪だったな、お二人さん」
彼はいつものように笑っていた。だがその額には、人知れず僅かな汗が滲み出てはいたが。
意識のないアスカを静かにベッドに横たわらせ、ノヴァスターはそのベッドの隅に座り込む。
同時に、片隅にあった小さい椅子に座るのはシンジだ。ノヴァスターが自分の左手を治療している様を呆然としながら見つめている。
「まったく、右手も左手もボロボロにしちゃってさ……」
ノヴァスターもそんなシンジを怒るでもなく、静かにその左手に治療薬を塗りつけ、包帯をくるめていく。シンジにはシンジの事情がある事を、その為の怪我である事を暗に察する彼には、その傷の理由を追及するほど野暮でもない。
「……余程追い詰められていたんですよ、アスカ。言葉が支離滅裂でした。
本当は僕がアスカに口喧嘩で勝てた覚えなんてないのに、今日に限って……」
やがて頭を抱えてうずくまり、自分にしか聞き取れないようなか細い声で後悔し始めるシンジ。
「口喧嘩で勝てないからエヴァで勝っていたわけか?」
「そうじゃないんです。本来のアスカは……アスカは……」
何かを言いたそうで、それでも塞ぎ込むしかないシンジ。誰にも相談できない彼だけの沈痛。
「さっきのアスカは、軽度のトランス状態にあった。本来の意識で動いていたわけじゃない」
アスカの方を軽く振り返りながら、ノヴァスターは諭すように語り始めた。
穏やかに眠り続けるアスカの寝顔からは、先程のような悲壮な感覚はさほど伝わって来ない。むしろ悲しみに満ちたか弱い少女の泣き顔を連想させるような、いやまさにその通りでしかない寂しげな寝顔だった。
「トランス状態?」
「一種の催眠術みたいな物だな。特定の暗示を遂行するようにアスカに仕込んだ奴がいるのさ。
深層心理の、特に心のどす黒い部分だけを引き出して、剥き出しにさせて……な」
ノヴァスターの柏手はその音と視覚的な衝撃で、簡易的な暗示を瞬時に解消していたのである。
「その暗示が僕を排除する事なんですか? そんな……誰が……」
シンジにはその言葉が俄に信じられなかった。アスカ本人が自分を排除しようと思うのは無理のない事だが、そのアスカを利用して自分を殺させるような存在が思い当たるはずも……。
だがその時、シンジの脳裏にマコトの乗った車を狙撃した黒装束の男が思い当たった。
男は確かに自分の名を呼んだ。そして、その言葉には明らかに殺意が込められていた。
「僕が……アスカ以外の誰かに狙われている?」
「……かも知れないな」
ノヴァスターも断定はしかねるのか、それとも他に理由があるのか言葉尻ははっきりとしない。
「確かに、僕が身勝手な事をしているせいで事象が狂っているのかも知れないけど、
そういう事があってもおかしくはないけど……それにしても……」
ミサトの降格とイリアの赴任といい、アスカの挙動といい、最近になってシンジが見知っていた筈の事象とは大きく食い違いが起こっている。これが単に自分のせいなのか、それとも漠然とした可能性の分岐なのかまではシンジ本人にも決定的な判断は出来ない。
だが、今自分の目の前にいる人物こそその事象の違いを最も顕著とする人物であり、そして 今現在の自分が唯一信頼できる「可能性」を秘めている人物。
彼ならば、あるいは八方塞がりとなった自分達の岐路となるのだろうか……そう思える。
(今まで彼が掛けてくれた言葉に嘘はなかった。助けて貰った事だって何度もある。
伝授された「雷壁滅砕掌」は、確かにサハクィエルのような強力な使徒をも一撃で倒した。
僕はこの人が拒めない。たとえ世界の全てを拒絶しようとしても、可能性なんて言葉に愛想を尽かせた筈だとしても、
気が付けばこの人の存在はいつの間にか僕に溶け込んでくる。何故か特別なんだ、この人だけは……。
その理由はまだ全然分からないんだけれど、もしかしたらこの人は……僕達の光明なのかも知れない……)
かつてノヴァスターは言った。自分はシンジの道標なのだと。
あの言葉が彼を特別たらしめている事を、最近になって深く納得するシンジの心が、存在した。
「あなたに……聞きたい事があります。突拍子だけど、とても真面目な話なんです」
少しだけそれを話すべきか逡巡したシンジだが、持ち直して語りだそうとする。
「……俺で良ければ」
「あなた自身の事です。あなたが僕を使って何をしようとしているのか、それが知りたいんです」
シンジの言葉はノヴァスターにとって確かに突拍子であった。どうもシンジには自分を利用されていて、それにあえて甘んじている自分がいると思い込んでいるらしい。
「たはは……。そんなに悪い事をしていたつもりじゃなかったんだけど、君が気を悪くしていたのなら謝るよ。
だけど、別に俺は君を利用していた訳じゃない。むしろ君の為に俺を利用して欲しいんだけどな」
「それはおかしいじゃないですか。僕から見ればあなたの方が余程策士だ。
何かを知っていて、でも隠していて、意味深な言葉や行動ばかりで僕を惑わそうとしている」
「そうかなぁ。……じゃあ、いっそお互いここで腹を割って話し合う事にしよう。
君が知っている事、俺が知っている事、ここで融合してみないか」
「……誰の為に?」
シンジが問い質す。既にシンジ自身の決意は出来ている、それでもそんな態度を示すのは、彼自身を試すためだ。果たして彼が自分の、いやアスカやレイの未来の道標として相応しいかを、深く判断しなければならない為だ。シンジには、それが今の自分にとって唯一実現可能な「使命」にも思えた。
そんなシンジの複雑な心を見透かしていても尚、ノヴァスターの顔は綻ぶ。
「自己を満たす満足感の為……というのが一見本音に見える建前で、
アスカやレイ達の為……というのが建前に見える本音。違うかな?」
シンジは我慢しようと思っても、心底から滲み出てくる苦笑いがどうしても隠せなかった。どうしてこれだけ正解を見透かされて、悪辣でいられようか。
「すみません、あなたにはやっぱり勝てません……。
でもやっぱり一つだけ違います。本音は本音でしかない……それが僕の導き出した結論ですから」
「なら話してくれるな、その理由を」
「はい……その代わり、あなたの事も教えてくださいよ」
「……分かったよ」
二人は頷きあった後、互いの身の上話を始める事になった。
長い昔話に、なった。
シンジが話し始めたのは、自身が第三新東京市を訪れた所からであった。
もっとも、それは数ヶ月前の話ではなくまだ自分の人格がゼロと融合していた頃……そう、本当に初めて第三新東京市を訪れ、エヴァに出会い父に出会い、そして綾波レイという少女に出逢った時の事。
父を恐れ疎遠な生活に準じた自分を、綾波レイという少女に感じた思慕を、エヴァという存在に対して感じていた忌まわしさと一縷の希望を……シンジは余す事なく詳細を語る。
誰かに心の中を語る、という行為はシンジにとってたったの二度目であったが、慣れぬ行為だからこそシンジは事実の捏造もなく素直に心情を打ち明け続けていた。ノヴァスターも黙って耳を傾け、時折昏睡しているアスカにも注意を傾けながらシンジの話を聞き続ける。
そして実は自分が、次元を飛び越えてこの世界に訪れたのだというショッキングな事実を、ノヴァスターは笑う事もなく真剣に聞き入っていた。シンジには、そんな冗談のような話を静かに受け止めてくれたノヴァスターがほんの少しだけ嬉しくて、遠慮なく話を続けた。
やがて話は、船上でアスカという名前の、自分に似た境遇の少女と出逢った時まで進む。
「本当は僕は、騒がしい女の子って凄く苦手だったんです。
彼女達は自分のペースと都合でしか話をしないから凄く溶け込みにくくて、全く馬が合わなくて。
最初はアスカともそんな感じだったんです。でも半ば強制的に彼女と同居するようになってからは、
彼女の色んな一面を垣間見るようになってからは、それも少し僕の偏見だったなって、そう思えたんです。
人前では強くて逞しくて光り輝いていたアスカでさえ、夜には涙しながら寂しそうに寝ていたから。
……僕はそんなアスカに特別な感情を感じた。その時からです、僕が自分の内の激しい性衝動を感じたのは。
女性……特に一番身近だったアスカに対して感じた欲情を押さえきれなくて、僕は初めて自慰を覚えました」
しばらくは開いたり閉じたり焦れたように動いていたシンジの指が、手のひらに深く食い込む。
忌まわしい事を無理矢理思い出そうとすると、必ず身体の何処かが身体の何処かを虐げるのだ。自分の否が、自分の醜だけがもたらした過去に、シンジは辛い思い入れしかない。
ノヴァスターはそんな手の動きを見つけると、やるせない感情をシンジと共有してしまう。だがそれが安っぽい同情でなくなるようにと、その事をシンジに指摘する事はなかった。
「僕は色々と小賢しい手段でそれがばれないように努めていたけど、
多分勘の鋭いアスカは、それでも僕の行為に気付いていたと思います。
実際ある時を境に、アスカは事ある度に自分の躰の魅力を誇示したり、性の話をして僕を困らせました。
そして一度だけ、二人の同意の元に唇を重ねた事もありました。
でも結局、愛情も何もない単なる接触行動にしかすぎないような空しいキスでしたけど。
最初は強がっていたアスカでしたけど、異性と口付けをした事があるようには見えませんでした。
多分、彼女なりに目一杯背伸びしようとして、試練みたいに思って行っただけの行為なんですよ。
最初はそれも分からなかったんです。……今だって確信があるわけじゃない……。
でも僕の心の中のアスカはいつも僕に許容的だったから、僕にとって甘ったれた解釈しかできなかったから、
実は真実は、全てその逆を逆を行っていたんじゃないか、そう思ったら途端に気が楽になりました。
ああ、本当はアスカにとって僕ほど目障りな存在はいなかったんだな……って。
だからかも知れない、その時になって思い出したように綾波に縋ったのは。
それが余計アスカの心を逆撫でするとも知らずに。浮ついた僕の気持ちさえもアスカを傷付けていたんです。
その頃からか、アスカのパイロットしての性能が突然落ちだしました。
身体の不調とか精神の不安定とか、色々理由は言われました。
でも僕には分かったんです、多分僕自身の存在がアスカを苦しめていたのが理由じゃないかって。
チルドレンとしてのプライドが高かったアスカには、自分を僕が追い抜くのが我慢ならなくて、
ましてその僕は脆弱で臆病で、隠れて自己本位な性格で、それが余計アスカの逆鱗に触れて……」
自分を貶めるような口調になっているのに気付いたシンジはあえてそこで話を止めた。
他人の前で自分を貶めるのも、自分が言えば単なるナルシシズムではないかと思いはじめていたからである。
「……きりがないんで話を飛ばしますね。
ある時、アスカが遂に失踪しました。父さんもアスカをパイロットして不要として思っていたからなのか、
特に気を配ることもありませんでした。そして僕も、それを格別恨みに思うような事もありませんでした。
アスカの心理が分からなかった事もありますけど、それも結局余計にアスカを傷付けていたんですね。
発見されたのは一週間後……廃墟の家屋で彼女は自身も廃人同様になってました。
診断の結果は、鬱性昏迷及びバーンアウト症候群及び外傷神経症……、
あと幾つか併発している病名がありましたけど、頭の悪い僕が覚えているのはここまでです。
僕にもはっきりと分かった事は、アスカは幾つもの心の病を併発してしまって、
既に取り返しの付かない状態になってしまっていた事だけでした。
精神的に働きかける治療法も有るにはあったんですけど、その時のアスカの状態から推察すると、
完治するには数年から十数年、最悪なのは一生直らない場合、
または心理内で激しい自己破壊衝動を起こして、自殺を図る場合も十分あり得る……そう聞かされました。
それも、アスカにとって強い心の絆を持った人間が働きかけてやっと可能性があるのだ、とも。
それを聞かされても、僕にはそんな人物は到底思いつきませんでした。
僕が知る限り唯一アスカが心を開いていたと思えた加持さんは死んだと聞かされたし、
彼女はミサトさんや綾波も嫌っていた。まして僕は言うに及びませんでした。
彼女の実母は大分以前に死んでいたと聞かされたし、
アスカを引き取っていた父親や義理の母親とも疎遠だったみたいです。
僕はその時になって初めて、本当の意味で彼女が孤独になってしまっていた事を知りました。
僕の心の中では、いつも幻のアスカや綾波が優しく労ってくれていたから、辛い事にも幾らかは耐えられたけれど、
彼女は僕のように妄想で自分を慰めるような空しい手段が使える娘じゃなかったから、
だから彼女のココロは…………壊れました」
シンジは長話の間にも、まだギブスの取れない右手を無理矢理開いてその掌に視線を注いでいる。
先日は使徒を一撃で粉砕したその掌さえも、私生活では欲情の処理機としか思えなかったからだ。
「渚カヲル君。アスカの代わりとして、人類補完委員会が送ってきた五人目のチルドレン。
そんな時僕が出会ったのが彼でした。不思議な口調と魅惑的な笑顔が珍しくて、僕は不思議と彼に打ち解けました。
人と知り合えるという事が、あれほど嬉しく思ったのが初めてで、僕は色んな事を彼と話しました。
こんな風に自分の事を話す事が出来たのは、あの時が最初だったんです。
でもその時でさえ、性欲なんて言葉と無縁そうな高尚な彼には、こんな事は到底言えませんでした。
でも彼なら僕の苦しみも分かち合ってくれる、僕の心の支えになってくれる、あの時はそう感たんです。
カヲル君は無償で僕に、絶えず微笑み続けてくれた事にまたも付け込んで……」
ギブスで固められた右手を、無理矢理握りしめるシンジ。つられてギブスが僅かに軋む。
「でも彼は本当は使徒だった。それだけの事実か僕を狂気に駆らせました。
使徒だって良かったはずなのに、使徒だから僕に何を害したわけでもないのに、
だけど僕はエヴァのパイロットで、彼は使徒。だから僕は……彼を殺しました。
彼が最後に残した遺言があったけど、あの時の僕には彼の意志を何も汲んであげる事もできませんでした。
きっと彼だって、好きで使徒でいた訳でも僕と敵対した訳でもなかった筈なのに、
それでも僕は自分を裏切ったという理由だけで彼を殺したんです。初めて、私怨でエヴァを使った瞬間でした。
でも使徒とは言え外見は普通の少年だから、僕には殺したのが人間だとしか思えませんでした。
でもネルフは、僕にそれを正当化させる理由を与えたんです。そして卑怯な僕はそれに乗じた……」
今度は、シンジの右手の五指が鉤の形を象っていた。シンジの内なる感情に合わせ、その右手が次々と形を変えていく。シンジの心情の一端がそこに素直に現れている。
その右手を見つめながら語り続けていたシンジが、ふとノヴァスターに視線を返す。
彼は「聞いているよ、続けてくれ」とばかり、一つ頷いて見せ次を催促した。
「……その事件の少し前になります。綾波の身体の秘密を知ったのは。
出逢った頃から、カヲル君とは違う意味で不思議な魅力のある娘でした。
日頃はとても寡黙なのだけど、時折強い自己主張をして驚かせられた事もあって、
一見趣味も持たずに黙々と日々を過ごしているようにも見えて、その心底には強い信念がありました。
彼女の側にいても会話も弾まないし、特別彼女が僕に何かをしてくれた訳でもないけど、
僕は彼女に何か懐古的な姿を見いだしたりして、僕の心の中でも特別な地位を占めていた少女でした。
でも結局彼女もまた、僕にとってはアスカとは似て非なる意味で欲情の対象でしかなかったんです。
……彼女が実は父さん達の作り出した、ユイ母さんの複製体であると知った時僕が思ったのは、
またしても裏切られたという僕の一方的な破綻劇と失望感でした。
何故父さんがあんな事をしていたのか、何故綾波がそんな境遇で生きてきたのか、そんな事は考えもしなかった。
ただ、彼女の身体に身代わりが効くだなんていう恐ろしい事実に戸惑って、結果僕は彼女から離れて……」
ノヴァスターが座っていた足を不意に組み替えた。シンジも無意識につられて足を組み替える。
それ以外に独房の中で変わった事象はない。アスカも昏々と眠り続けているだけだ。
「みんなが僕から離れていって、皆に裏切られたと思った僕は一人になった自分を哀れみました。
けど違う、皆を裏切ったのは僕の方で、誰の心の支えにもなれなかった貧弱な僕だけが残って……。
一生懸命生きていたみんなが挫折して、何もない空虚な僕だけが生き残る摂理のおかしさに、
何処か常識と違う自分自身に、ようやく気付いたのがその頃でした。
そして、そんな僕に止めを刺すようにやってきたのが、『人類補完計画』の発動でした」
「人類補完計画」
不意にノヴァスターが反芻した。
「知っているんですか?」
「聞いた事はあるさ。だけど、君はその計画に対してどう思っていた?
その空虚な自分や、精神を閉ざしたアスカや、疎遠になったレイや、自分が殺したカヲル……。
みんなと再び出会える、心を分かち合える折角の機会かも知れなかったろうに?」
「幾ら僕でも、そこまで傲慢にはなれません。……絶好の機会だったのは確かですけど」
シンジが再び右手を強く握りしめた。今度は骨の音が軋む。
その激しい痛みを物ともせず、シンジは忌々しい物を吐き捨てるかのように口を開いた。
「……その時僕は初めて知りました。
自分という存在が、実は二つの魂から形成されていた事を……」
「……聞かせてくれ、その正体を」
ノヴァスターの催促に、シンジは黙って頷いた。
「ナンバーゼロチルドレン。堕ちるところまで堕ちた科学者が生み出した、狂気の象徴。それが本来の僕です」
シンジが次に語りだしたのは、ゼロチルドレンと呼ばれた人格と自分との相違点だった。
「でもゼロは僕の裏人格ではなく、むしろ表人格と呼ぶべき人格でした。
だから本来の『碇シンジ』とは、彼自身の人格を指すんです。
本来の僕は、まるでスクリーンに映っている喜劇映画のように、彼が補完を進めるその光景を眺めているだけ、
『碇シンジ』という生命体の奥底で、自分の喜怒哀楽をも視聴しているだけの立場だったんです」
「ちょっと待て。なら、君は誰だ。君は碇シンジじゃあないのか?」
シンジはその質問に少しだけ迷った。自身の頭では判別できてはいたが、いざ他人に自分達の因果関係を説明しようとすれば適切な語彙が見当たらなかった為である。
「……勿論、僕は碇シンジです。碇ゲンドウと碇ユイの間に生まれてきた、正真正銘『純血』の碇シンジの魂。
でも肉体は違う。本来の肉体と魂を生み出した父は、まさに狂気を具現化したような意志でした。
共通しているのは、どちらも母胎が碇ユイであったという事。
それと……いずれにせよアスカや綾波達の害的な存在であったという事。
幾ら僕が裏人格だなんて言い訳しても、彼と分離する瞬間までは確かに僕も碇シンジの半身だったし、
アスカや綾波達の心を貪っていたのは僕達二人の共通認識です。二人は全くの同罪なんです」
「……二人の違いは分かった。なら、ゼロの方のシンジはどうした? 彼は何処に行った?」
「彼は、自分の側の魂にだけ特別な力があるが為に、僕達二人の後始末に準じてくれました。
裏で計画を進めていたゼーレの老人達を抹殺し、精神薄弱なアスカの心身を劇的に回復させ、
そしてカヲル君や加持さんといった大事な故人達を甦らせました。
でも……後始末の全てが終わった後の彼の行方は、僕にも知れません。
少なくとも、僕が彼の事を今こうして覚えているという事は、何処かでまだ生きているのかも……」
「死人を生き返らせる、か。まるでお伽話だな」
「その滑稽さに一番失笑していたのも彼です。だって、ついこの間まで誰の心も理解できなかった僕達が、
特別な力を持つようになって初めて他人の心の中を読み取る事が出来るようになったんですから。
だけど、彼の持つ力は強大すぎて、余りに忌まわしい意志が生み出した物であったのは確かです。
彼は自分自身の危険性を知っているからこそ、自分自身ごと始末しようと考えたのかも知れません。
でも無力な僕は放り出されました。本来なら僕は、僕の魂ごと始末してくれと頼んだんです。
でも、彼は始末したどころか……僕をこの世界に送り込んだ。
ここはかつて僕達が居た世界じゃなくて、別の可能性を生み出すパラレルワールド。
たった一つの分岐が運命を変える世界なんです。
この世界で、ゼロが僕に何をさせたいのか未だに分かりません。
せめて僕一人でも生きろと言いたいのか、それともこれが僕自身の人格に対する断罪なのか……」
「…………」
次の言葉にしばし迷ったシンジが黙ってしまう。その雰囲気を察して、ノヴァスターも何も言えなくなっている。
シンジは仕方なく、今の心情を新しく紡いでそれを打ち明ける事にした。
シンジ自身まだ明確には確立していなかった生き方の方向性を、ここで確実な物とするために。
「……だから僕は、ゼロが選んだ未来とあえて同じ未来を作るべく戦おうと思ってます。
何故なら、向こうの世界では碇シンジは既に存在しない生命体だからです。
だからアスカや綾波達の未来には二度と支障をきたさないから、そして彼女達は平穏に暮らせるはずだから。
僕にはゼロのような特異な力はありません。だから実現は彼の時より難しいと思います。
でもそれでも、僕にはこの先の史実を知っているという彼にもなかった特権がある。
それに今では……この右手に宿る雷壁滅砕掌という力もある。
だから僕は決めました。僕の手だけで使徒を倒し、ゼーレの計画を砕いて、
今度こそ『三度目』のないように、確実に『碇シンジ』という害を葬る為に戦うと。
アスカ、綾波、カヲル君、ミサトさん、リツコさん、父さん、加持さん……そして、ノヴァスターさん、あなたも。
もう誰にも辛い思いはさせたくないし、忌まわしい兵器にも計画にも関わらせたくない。
それは僕の中でだけ決まった独善でしかないけど、僕が僕を封じるのは僕の勝手だけで済むから。
だから僕は独りで戦い続けるつもりだったんです……」
「……そうだったのか。ようやく分かったよ、君がそれだけ自虐的な理由がね。
だけどその為に、アスカ達の前であえて悪辣ぶるのは何故だ?」
「決まっているじゃないですか。そうじゃなければ僕じゃない。碇シンジじゃあないからです」
シンジが単身になって初めて自身に定義付けた観念、それが今の自分の性格。
曲がって歪んだ人格の成れの果てだからこそ、彼女達にも示し甲斐があるというものだから。
「……辛い選択だな」
「最近じゃあもう慣れましたよ。開き直りって、強いんですね」
シンジがニコリと笑ってみせたが、ノヴァスターには当然、その虚しい笑みに何も楽しさを感じる事はなかった。
「今ならそれだけ彼女達の辛い心が分かっているのなら、彼女達を想うのならば、
彼女達とやり直す可能性だって、君にはあったはずじゃないのか?」
「止めてください。そんなの、それこそ思い上がりだ。
人生は本当はやり直しなんて効かないのに、僕にだけはこんな形で機会が転がり込んできた。
でも僕にその恩恵を喜べる訳がないじゃないですか。
向こうの世界でみんなをあれだけ虐げて、こっちで都合良くやり直そうだなんて馬鹿げていますよ。
それじゃあ、向こうの世界のアスカ達だけが不遇じゃないですか。
自分達を踏み台にされて別な世界の自分達をどうこうされるなんて……ふざけてる。
だから僕は可能性なんて、未来だなんて言葉は信じない。僕に与えられた結末は一つで十分です!」
「今度こそ、自分を滅ぼす為にか」
「……はい。」
その決意の強さに、見上げたシンジの凛々しくも雄々しい強さを、もっと違った方向に生かせれば……と思うのも固定観念に捕らわれた考え方なのだろうか。だからノヴァスター自身も否定して見せるしかないのだろうか。
シンジが辿った道の反対を行くのがアスカ達ならば、シンジは永遠に悪役で居続けなくてはならない。それを宿命と定めてこそ初めて、シンジは「碇シンジ」として再生できたのだから。
それを偽善だとか独り善がりだとか、ナルシシズムだとか責任転嫁だとか。
「言われたくないだろうな」
「……ノヴァスターさん?」
あるいは開き直ったのは彼の方かも知れない。それでもその笑顔は不可思議なまでに眩しかったが。
「いいさ、君の好きなようにやりな。君が君自身の意志で決めた事なんだ。
俺が君の為に助力しようと思う決意は何も代わりはしない。今まで通り俺は俺で飄々とやってみせるさ」
「いいんですか? 僕がおかしい奴だとは思わないんですか?」
「それを決めるのは君だろ。自分がおかしいと思えば自分を変えればいい。
『自分』なんて意外と適当なもんさ。大さじ一杯の砂糖を鍋に放り込むのと感覚は一緒だな。
分かっているようで、大凡見当をつけているようで、実は厳格な量じゃあない。
知ってるか? 計量スプーンってスプーンのメーカーごとに微妙に容量が違ってるのさ。
擦り切り一杯で正確に計っても、そこに15CC分あるかどうかは誰にも分からない。計った自分にもな」
「それが……今の僕ですか?」
「それを決めるのさえも君自身。砂糖が嫌なら塩でも小麦粉でも片栗粉でもいい。
間違っているのを正確に正すのは難しいが、間違っていると気付くのは簡単だ。
明らかに間違っている、と分かっている事から身を興して生きていくのだって一つの方法さね。
そして、その善悪や正誤を判断する基準を自分で探すのさ。どの道、自分の基準は自分にしか定められない。
今日日ネットワークが地底を伝って五大陸を繋ぐ時代だ、情報には困らないだろうしさ」
「僕は……自分を悪だと決めつけています。だから自分が変わるとも思えません。
そもそも、自分って何なんですか? 何が自分の根本なんですか?
自分自身で決めろって言われても……何が僕自身なのかも僕には……」
「おいおい、今度は禅問答かい?
そうだな……あんまり哲学的な事は言ってやれないけど、じゃあ俺が愛妻から教わった教訓を一つだけ」
聞くからに実にも肉にもなりそうにない言葉の前置きに、
「またおのろけですか?」
二人は見合わせて笑い出す。そんなシンジはノヴァスターの前で素直に笑える自分を何故か憎いとは思えなかった。
(そうか、これが……自分……)
シンジにはほんの少しだけ、「自分」の掴み方のコツを得た気がした。
「博識な妻が言うに、自分という人間が生来持ち合わせているのは『本能』だけだ。
つまり、食う寝る遊ぶ。この三つは誰にでも備わっているという事さ。でなきゃ死んでしまうからな」
「食うと寝るはともかく、遊ぶというのは……」
「この場合、遊ぶというのには性欲も入る。性交が遊びって聞くと語感は悪いけど、悦楽なのは確かだしな。
人間誰に教わらずとも、男が女に欲情する事は知っているのさ。本能だから、逆らうのも難しい。
ならばむしろ、我欲に正直であれというのが俺と妻の間の見解さね。
誰か異性を好きになる事、求める事、愛し合おうと思う事。その為に頑張るんだってな。
勿論、俺達夫婦の観念を参考にするのも否定するのも君の自由だ。これはあくまで『俺』の言葉でしかないのだから」
「ならあなたは、僕がアスカや綾波に劣情を催すこの気持ちに正直になれと言うんですか!?」
「いずれ、決着を付けなければならない感情なんだよ。
男としての本能を認めて彼女達の為に戦うか、一切俗欲を捨てて、勤勉な自分でいるのかを。
まあどの道、君がアスカやレイに括られた感情を持つ以上、その気持ちを捨て去るのは無理だろうな。
ならいっそ劣情を認めてそれを捨てられない自分を憎むか、劣情そのものを憎んでその気持ちを捨て去るか。
ホラこれで早速今の君には二つの選択肢が出来た。
たとえ結末が一緒だとしでも、過程の違いは大きい。本人のやる気の問題もあるからな」
「……難しいですね、『自分』を定めるのって」
「一生決まらない奴が大半だよ。君のように物事をシンプルに考える奴が珍しいんだよな」
「シンプルって悪い事なんですか?」
「だから、それは切磋琢磨した後に君自身が決めるのさ。
……なーんてね。ここは自己啓発セミナーじゃないんだから、俺の意見もそう当てにはならないかな?」
埒があかない。説教なのかそれとも単にはぐらかされているのかもシンジには分かりかねる。
「まあ俺が思うに、14でこれだけ人生難しく考えている奴は奇異だね」
「……僕、心だけは一応15ですよ」
「なんで? 身分証明と違うじゃないか」
「だって、ここだけは一年余計に生きてますから」
シンジは包帯を巻かれた左手で、そっと自分の左胸を指さした。
「成る程違いないや。14でこれだけの悪タレたガキがいる訳もない」
「ですね。……ふふっ、あはははっ」
「はははははは……!」
二人はまたしても顔を見合わせて、大口を開けて笑い出していた。
打ち解けあう喜び、互いに解り合える嬉しさ、そして本音を語り合える清々しさ。
シンジは、自分の心をさらけ出してノヴァスターに語った事を、後悔するまいと思う自分が出来た。
また、自分を判断する基準が一つ出来た瞬間だった。
笑いも収まり、静寂を取り戻した独房内だったが、シンジが語り続けていた時間はゆうに5時間を超えていた。手元の時計でその事を知ったノヴァスターは、周囲の心配を始める。
「まずいな、そろそろアスカも起き出すだろう。起きてからまた修羅場になるのも御免だしな」
「そういえば、誰がアスカに催眠術なんて掛けたんでしょう……」
シンジの解けない疑問に、ノヴァスターは今度は迷う事なく答えた。
「アスカが君を刺し殺す為の舞台を用意したつもりだろうが……いや、失敗の方がシナリオの本命か。
催眠術と一口で言っても、掛けるには多少の技術と、それに被験者のアスカ自身の思い込みが必要だ。
そして、アスカがその人間の命令を聞くことで得をする人物。
その条件に全て適合するのは……あの女狐くらいだろうな」
「女狐!? もしかして、イリア三佐の事ですか?」
シンジはさも意外だという驚きの表情を示していた。それはイリアがどうこうという訳ではなく、あのお人好しのノヴァスターが珍しく他人を悪く言うのを聞いた為にである。
バイザータイプのサングラスが相手では、シンジには横から覗いたとしても彼の瞳は伺えない。だがその瞳の奥で、静かに決意の炎が燃えているのが、シンジにも気配として薄々伝わってくる。
「シンジ、どうやら潮時だ。俺はアスカを連れ立って此処から去る事にする。君はまだしばらく囚人でいてくれ」
「そんな、約束が違います! あなたの事だって教えてくれるはずじゃあ……!」
「そう思って簡単に手紙にしてある。後で監視の目をくぐって読んでくれ」
「……必ずですよ」
「ああ」
ノヴァスターは長時間その腰を預けていたベッドから緩慢に立ち上がると、固まった身体をほぐす為にうんと伸びを行い、その後で同じくベッドに寝かし付けられていたアスカを両手に抱え上げる。
「……一つだけ、心配があるんです」
「何だ、言ってみな」
シンジは、暗い表情のままで、ほんの少し前までは誰にも言えなかった筈の相談を持ちかける。
「第十一使徒イロウル。MAGIに寄生して本部の破壊を狙った使徒を僕は知っています。
あの敵だけは僕の裁量ではどうにもなりません。それに僕の幽閉期間の間に使徒は来る筈ですから……」
「む……なら、以前の君はどうやってその使徒を倒したんだ?」
「リツコさんが頑張ってくれたと聞きます。でも今回もそう上手く行くとも限りませんし……」
「リツコさんなら大丈夫だろ。彼女の仕事ぶりに信頼するしかないんじゃないかな」
「でもそうすれば僕の決意は……」
シンジの顔に一層の影が差す。
「成る程、自分以外の人間が使徒を手に掛けるのが忍びない訳だ。
大丈夫だろう、君が手を出せない相手ならアスカやレイにもどうにもならないだろうし、それに……」
「それに?」
「いざとなれば俺がいる。頼ってくれよな、相棒」
「……なんて人だ」
シンジは苦笑してその言葉を聞き流した。
「あ、信用してないだろ? こう見えてもちょいとくらいは使える奴なんだぞ、俺は」
「はいはい、『ちょいとくらいは』僕も期待していますよ」
「このガキッ!」
独房内に、またしても二人の笑い声が響く―――。
シンジが重厚な扉を開き、ノヴァスターがそこからアスカを両腕に抱えて立ち去る。
帰り際、シンジは昏睡しているアスカから目を離す事なく見送っていた。
ノヴァスターはそんなシンジの悲愴な表情を背に受けながら、独房の施錠を確かめその場を後にする。
後に残されたのは、ひたすらの静寂と暗闇。
シンジは黙って独房の闇の中に戻り、ノヴァスターが枕元にそっと置いていった手紙を手に取った。
(あの人の、秘密が此処にある……)
それはシンジが今最も知りたがっている事実の一つでもあった。
シンジははやる気持ちを必死に抑えながら、丁寧に封緘された封筒を破り、中に入っていた便箋を取り出す。
そこに記されていたのはたった一行の台詞……。
「んん〜いわゆるひとつのぉ、シ〜クレットですねぇ」
「これだからあの人はっっっ!!!」
シンジは彼らしくない壮絶な怒りの感情を込めながら取り乱し、手紙をビリビリに引き裂いていた。
しかし、至極彼らしいはぐらかし方であると知ると、起こる気も失せるというのが実情だった。
(まだ『俺』を教えるにはちょっと早いよ。君が、しがらみから抜け出せないその間はね)
アスカの華奢な体躯を両腕に抱きながら、ノヴァスターは自分の身の上話を有耶無耶にしてしまった事に対する後ろめたい気持ちを持ちつつも、心を鬼にするという言葉に習っていた。
「……しかし、久々に君を抱えたけれど、相変わらず華奢なんだね」
強い保護欲を抱かせるようなアスカの寝姿の耳元で、ふと懐かしそうに囁く彼の後ろ姿。
二十七章、公開です。
今回はシンジの独白話ですね。彼がこの世界で果たそうとしている目的の全容がようやく明らかになりました。
それと今回で、「ゼロシンジ」と「純血シンジ」(私はこう読んで区別してます(^^; )の判別をある程度明確にしました。
つまり、私達がTV版或いは映画版で見たシンジはどちらのシンジでもあるのです。ゼロシンジはれっきとした「碇シンジ」であり、オリキャラではありません。勿論純血シンジも「碇シンジ」であり、その価値観などや思考のパターン等も二人に差異は殆どありませんでした。……本来ならば。
出生の秘密やその忌まわしい力の有無が、二人のシンジの運命を分けた訳です。
この辺は都合上今まで曖昧にしてしまっていたのですが、第三部は実質純血シンジ一人の物語になります。第六章の最後に少しだけ登場していたのが純血シンジの魂(肉体は第三章にあるように死滅してます。……が、第二部ではその「分体」の生存が明らかになってます)であり、第一部、二部を通じて呼ばれていた「シンジ」はゼロシンジに当たる訳です。文中では、一応一人称(「俺」と「僕」)でゼロとシンジを分けています。
……こんがらがってませんか? 宜しいですか?(笑)
となると、この物語には二人のシンジが別々に存在することになります。同時に、アスカやレイ、カヲル達もそれぞれ二人存在する事になります。
第一、二部の世界と第三部の世界はパラレルワールドとして別々に有るはずなのに、ここで純血シンジという二つの世界の航行者がいたが為に起こる事象の変化、それが第三部の全容です。
しかし、それは果たしてシンジ一人の特権とはなりえないのも、確かです。
そして、第十四章でシンジを探す為に旅立ったアスカの行方も、これで近いうちに判明する事でしょう。
それでは、また次回……。
となるとイメージイラストの内容は余計意味深だったりする。< 多分故意