それは、秋も深まろうとする季節の境目の出来事。
シンジは街中で偶然にも、数年ぶりに彼女と再会した。
艶やかな容貌を華麗な衣装で身を包ませ街中を颯爽と駆け歩くアスカは、シンジの想い出の中の少女とはかけ離れた姿ではあったが、それはとても彼女らしい成長ぶりでもあった。
シンジは、郷愁的な思いと苦い初恋の想い出を抱きながら、恐る恐る彼女に声を掛ける。
「あら、あんた。懐かしいじゃないの」
「そうだね。あの戦い以来だから……10年ぶりかな」
数年ぶりに出会った彼女は意外にも、昔の怨恨も綺麗さっぱり忘れ去ったかのように穏やかであった。
「何年だかなんて忘れたわよ。そうね、時間もある事だし……あんたの奢りで良ければそこの喫茶店辺りで」
彼女が不意に指差した店に、シンジは何かに取り憑かれたかのようにふらふらと立ち寄ってしまう。
「風の噂で聞いたわよ。あんた、店を開業したんですって?」
アスカはモカブレンドを無糖のまま一口付けると、悠々と語りだした。
「え、あ、ああ。小さい探偵業だけどね。お陰で軌道には乗っているよ」
「ふうん」
自分から話を振った割には、シンジの身の上話には殆ど興味なさそうにしている。一方のシンジはアメリカンブレンドに二杯目の砂糖を注ぎながら、落ち着きなさそうにティースプーンをひたすら掻き混ぜていた。
「それで、君は今何を?」
「某社の社長令嬢。こう見えても新婚三ヶ月よ」
「へえ、知らなかったな……おめでとう」
シンジは心の片隅に苦々しい物を抱きながらも、素直に祝辞を述べたつもりだったが、それを聞いた途端アスカの顔が険しくなった。
「何もめでたくなんかないわよ。あと三ヶ月したら、慰謝料ふんだくってとっととオサラバ」
「な……どうして!?」
「だって今懐が寂しいんだもの」
アスカはサラリと言い切った。
「か、金の問題じゃないだろう!?」
「金の問題よ。そうでなきゃなんであんな汗苦しい中年太りの男と寝てやらなきゃなんないのよ」
「! ……そ、そんなの、身売りと同然じゃないか」
「何よ、あたしの生き方にまた説教するつもり? 上等じゃない」
睨み付けられたシンジは、言葉を失う。彼女に対して負い目だらけの人生を送ってきたシンジには、彼女に言い返せる言葉は存在しないのだ。
「……ふん、まあいいわ」
直ぐに腹を立てなくなっただけ、成長したのか擦れきってしまったのか、アスカはシートに深く座り直して機嫌を直す。
「……もしかして、初婚じゃないの?」
「七度目よ。別れるコツも大体掴めたわ。
最初は要領が悪くて喧嘩沙汰にもなったけど、最近じゃあ慰謝料くらい簡単にもぎ取れるし。
上流階級ほど金に糸目がなくて馬鹿だっていう事も知ったし、彼奴らスネに傷だらけだから、
マスコミが喰らい付くようなスキャンダルも持ち帰れば、それが売れて一石二鳥だしね」
自慢げに語るアスカの全身をそれとなく盗み見ていたシンジの目が曇る。確かに彼女の全身は流行物のブランド品ばかりで、値の張りそうな装飾品も一つ二つではない。果たして彼女が今身に纏っている衣服や装飾品は、シンジの安月給の何倍に相当するだろうか。
(結婚詐欺……いや、慰謝料狙いの結婚でも一応合法ではあるのか。それにしても……)
あまりに荒み、豹変してしまったアスカの価値観。だから余計シンジは負い目を募らせていく。
「男ってつくづく馬鹿よね。ちょっと耳元で甘い言葉を囁いてから股を開いてやれば、バックリ喰らい付くの。
御曹司なんてそれこそ温室で育てられた世間知らずばかりで、飢えているから簡単に引っかかってくれるわ。
反対に、同じ金持ちでもちょっと女遊びに手慣れた奴には、逆に下手に出ればちょろいものよ。
それにそういう奴に限ってスキャンダルネタを隠し持っているから、すっぱ抜くのも簡単。
ついでに女の扱いにだけは手慣れているから、こっちも適度に愉しめるしね」
(な……なんでそんな事を僕の前で自慢げに……)
シンジは慌てふためきながらも、何故かアスカの言葉に耳を塞げない。
「……あんたは相変わらず潔癖の固まりみたいね。よくそれで事業が成功するもんだわ」
「そんな、人を騙し続けて生きていけるはずがないさ!」
「だから馬鹿だっていうのよ、男なんて。あんたみたいな価値観の奴が、あたしの格好の餌食なのよ」
そこでシンジはようやく気が付いた。男に対する差別的な発言も、潔癖だと罵るのも、すべては自分に対する当て付けと復讐なのだと。シンジがかつてアスカに好意を持っていた事を逆手に取って、シンジの想い出や恋心を引き裂くべくこんな話をしているのだと。
それでも彼女の表情や服装、そして衣服の片隅から覗き見える艶めかしく育った肢体からして、それがアスカの狂言とも到底思えない。彼女は本当にその言葉通りの人生を送ってきたのだろうから。
そんなシンジの苦い表情を見てアスカは悦に入る。
「ホント、男なんて所詮性欲と支配欲の固まりでしかないのね。昔のあんたみたいに」
「!」
「ま、今更ぐちくぢ言うつもりもないから忘れてあげるわ。
『あたしは動けなかった身体に付け込まれて、あんたに病室でレイプされかけて、
揚げ句言いなりにならないからと言い掛かりを付けられて絞殺されかけたんです』
なんて事はね。どう、嬉しいでしょう?」
「……くうっ……」
拳を握りしめ顔を伏せ、、自らの過去への愁傷にその身を震わせる。
アスカは完全にシンジの心をその足下に組み敷くのに成功したのだ。
そう、アスカは憎しみを忘れていた訳ではなく、その復讐の為に渡り歩いていたのである。
探偵業の駆け出しのシンジよりも、マスコミに通じていたアスカが遥かに上手だったのだ。
アスカはいつしかシンジから憎しみの視線を解放し、通りすがりの女性の手元を見ていた。
「あら、あれって某ブランドの新作のバッグじゃない。あたしがまだ持っていない奴ね。
ねえ、あれ買ってくれないかしら? たったの16万円なのよね」
「え!?」
「だから、ヤラせてあげるからあのバッグ買ってくれない?」
その生々しい言葉がシンジの心に楔を打つ。
「そ、それこそ援助交際じゃないか! 自分の身体を安売りするなんて、何を考えてるんだ!」
「……今更あんたがそれを言うの?」
「ぐっ!」
言い返そうとしても無駄な足掻き、アドバンテージはアスカの手から動きはしない。
「どう? 今なら昔の事も綺麗さっぱり忘れてあげるって言ってんのよ。
あの時あんたが味わえなかったあたしの躰、じっくり堪能させてあげるからさ……ねえ……」
アスカがその整った麗姿の媚笑で、シンジを誘惑しようとする。
「そんな……そんな事……出来るわけ……」
言葉では幾ら抗おうと、シンジは既にアスカのスカートから覗く細足から目線が離せなかった。
「くすっ、商談成立ね。勿論ホテル代もあんた持ちよ。
さ、行きましょうか」
自分の手を取って連れ立とうとするアスカに、シンジは最早抵抗する理性は持ち合わせていなかった。
手は組み敷かれ、あられもない嬌声を恥じらう事無く室内に響かせ続けるアスカ。
獣のように荒い吐息、乱れる呼吸、男しての激しい衝動のまま動くシンジ。
ひたすら襲い来る悦楽に次々と貫かれながらも、
自らの復讐が成功した事への限りない喜びをも受けて、至高の快楽のままに果てるアスカ。
牡としての本能にも抗えない悔しさと、かつて立てた唯一の誓約さえも破ってしまった惨めな自分を憎みながら、
それでも想い慕った少女の、男に手慣れ成熟した躰から受ける快楽のままに果てるシンジ。
激しい情欲の光景の片隅には、黒光りするブランド物のバックが無造作に打ち捨てられていた。
アスカが、そのブランド品には何の興味も持っていなかったが為に―――。
「これで、あんたっていう人間がようく分かったわ」
情欲の跡を急いで流し去るかのように、行為が終わって直ぐシャワーに駆け込んだアスカ。
その色香めいた肢体をろくに隠す事もなく、バスタオルで全身を拭きながら浴室からアスカとは対照的に、シンジはその身をブランケットにくるんだまま呆然とベッドに座っていた。
「口では『守る』とか『償い』だとか偉そうな事をほざいていたけど、
結局あの時あたしにしたかった事は単にこういう事なんでしょう?
あたし達を貪るが為に近付いて、使徒を倒し続ける事で恩を売って、
自分が不出来なように思い込みながら実はそれを全部あたし達に責任転嫁していたのよ」
「ち、違う!」
「違わないわ。どうせあんたがあたしに欲情した事実は拭えないのよ。
他人の気持ちなんか到底推し量れないから、無理矢理あたしを組み敷こうとして、失敗した。
無敵のサードチルドレン様だからと言って、何でも出来るだなんて思い上がり甚だしいわ。
あんたには襲い来る使徒を倒す事は出来ても、それ以外の用途では只のクズでしかないくせに!」
それが長年アスカの心の深層に潜んでいた怨恨の言葉なのだろう……それを悟ったシンジは黙ってアスカの侮蔑の視線と言葉を受け続けるしかなかった。
「これであたしも精算は完了して、満足したわ。
あんたには二度と会うこともないでしょうから、これでバイバイよね。
まあ、数日後にあんたの家と探偵事務所が突然謎の放火事件に巻き込まれるかも知れないけれど、
それも結局は自業自得よね。そっち系の知り合いだって簡単にけしかけられるのよ、あたしは」
「なんだって!?」
「あとは一生路頭に迷ってなさい、哀れな元サードチルドレン。あんたはこれで何もかもお終いなのよ」
アスカは自分の衣服だけは急いで着替え終えると、部屋を後にしようとする。
「ま、待て! そんな事はさせるか!」
「言ったでしょう。自業自得なのよ。あたしをないがしろにして粋がったその代償としてね。
チルドレンとしての才能は確かに負けたけど、戦後の要領の良さが人生を分けたわね。
それと、あたしと同じようにあんたに屈辱を受けたレイ、今何をしているか知ってる?」
「あ、綾波……! 綾波の居場所を知っているのか!」
アスカ同様、レイは戦後以来音信不通だとばかり思っていたシンジには、まさに寝耳に水の情報だったが、
「さあ、何を思ってか普通のボンクラ男と結婚して平凡に生きてるわよ。
けれど、あの娘ああ見えて意外に男好きだから、
旦那の居ない間に色んな男を連れ込んで、相当遊んでるみたいだけどね。
でも奥さんに一途な旦那様は、そんな妻を疑う事も知らないとってもとっても潔癖な人なんですってよ。
写真で見せてもらった旦那も、あんたによく似たおマヌケそうな男だったし。
日本人は形から入るってのは本当なのねえ、あたし感心しちゃったわよ」
それが又してもアスカの狂言かそれとも真実かは分からない。
だが、アスカが自分をこれだけ憎んでいたのなら、レイの生き様とて道理が通るかも知れない。折角シンジが命懸けで守り抜いたその身と心を平然と堕落させているレイの生き様もまた、シンジに対する復讐と取れる以上は。
彼女達は知っていたのだろう、少年の純粋な思慕を。そしてそれを逆手に取る事で、復讐を成しえたのだ。
「じゃあねサード。せいぜい堕ちる所まで堕ちるがいいわ。いい気味よ、あんた」
「アスカッッ! 君は本当にそれでいいのか!?
僕が自業自得なのは分かっている! だけど、どうして君がそこまでして……!」
「あたしを名前で呼ばないで! ……それといい加減反吐が出るわ、その偽善っぷり。
結局あんたは大言壮語の割には、誰も救えなかった癖に。
加持さんもミサトもリツコも碇司令も、結局はあんたのせいで死んだんじゃない。
あんた一人だけ納得できるような正義なんて、あたし達は要らないのよ!
そうやって自分の偏った価値観だけで人を救おうだなんて不相応な事、二度と考えない事ね!
そして、実質あんたは誰一人助けられなかったくせに! この偽善者!」
「…………」
シンジには既に抗う言葉が無かった。彼女の言葉は一々尤もであり、自分が結局誰一人として本当の意味で救う事が出来なかった不甲斐なさを、そしてそれが出来ると信じていた滑稽な自分の過去に、ただ絶望するのみ。
「……もう終わりなのよ、あんたは」
それだけを吐き捨てて、アスカは部屋から去っていく。
後には、憑き物が落ちたように陰惨な表情のシンジだけが取り残された。
「……僕は、結局死ねなかった。あれだけ自分を憎んでいた癖に、死ねなかった。
何だかんだ言って、結局自分だけが可愛くて……保身だけが僕の全てで……。
なんであの時僕は死ななかったんだろう。そして、エヴァが無くなっても生きている僕。
なんの意味があったんだろう……そうだ……僕なんか死んでしまえば全てが良かったんだ……」
「それも一つの可能性」
「!」
聞き覚えのある声に思わず振り返れば、そこにはレイが居た。驚き跳ね起きるシンジ。
だがそれはシンジの想い出のままの制服姿の綾波レイが、幽魂のように浮かんでいるのだ。
「こうやって、アスカに復讐され、思い詰めて惨めに自殺するのも一つの結末。そして、」
レイが今し方シンジが座っていたベッドを、先程までアスカと情欲に溺れていたベッドを指さす。
そこには、全身に診療器具を取り付けられた半裸状態のアスカがやはり幽魂が映す幻覚のように、何者かに絞殺されそのうつろな瞳が虚空を彷徨っている哀れな姿があった。
「それも一つの可能性。或いはアスカを病室で絞め殺していたであろう光景」
「!」
その声は余りに冷徹で低く、生の温もりを感じ得ない悲しい響き。
「そして、」
今度はレイがシンジ自身の右手を指差す。
そこには、自らの衝動の余韻を残すかのように白濁した物がこびり付いていた。
「う、うわあああああっっ!!」
「そんなアスカのしどけない姿に発情したあなたの残滓。即ち繰り返す歴史」
「そんな……そんな……!」
「いくらあなたが自分を罰しても憎んでも、何も変わらない現実。それがその右手に証として残る。
ならば、その右手は何の為にあるの? あなたは何故此処にいるの?」
淡々と語り、シンジを見つめるその冷めた瞳には、彼を思いやる感情など微塵も見出せない。
「なら僕は……僕は一体何の為に……生きていたんだ……?」
「意味など無いわ。生きる意味に縋ろうとしても、所詮あなたには何もない。
劣情に任せ我欲に溺れ、他人を傷付け続けるだけの世界に、あなたの居るべき場所なんてない。
そんなに他人が怖いなら、自分が憎いのなら、いっそ自分も他人もない処へ逝ってしまえばいいのに」
「綾波っ!?」
「さよなら碇君。あなたは世界そのものから拒絶された哀れな生命体でしかないのよ。
同情はしないわ。アスカの言う通り、あなたの存在こそが私達にとって禁忌の象徴でしかないのだから……」
「あ……あやな……み…………」
微睡む意識、薄笑いを浮かべるレイの冷酷な表情。暗転する光陰。
全てが絶望の彼方へと吹き飛ぶ中、シンジに只一つだけ残った感情は、それでも自己に対する限りなく膨大な自己憎悪でしかなかった。
「そうだ……思い出した……僕が此処で僕で居る理由を……。
……殺してやる……殺してやる……殺してもまだ飽き足りない……それでも殺してやる……殺して……」
終わりのない憎悪の中、シンジは目を覚ました。
数十日ぶりの悪夢。大量の寝汗。荒れる吐息。懐かしい感触。忌まわしい想い出。有り得る未来。
ふと気付いた下着の中の不快感だけが、彼に唯一の現実の証を突き付けていた。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる!!」
朝っぱらから随分と物騒だな……部屋の外まで聞こえる悲痛な叫び声を耳にしながら、ノヴァスターは早朝ランニングから戻ってきた。部屋の扉を開けた時彼の視界に飛び込んできたのは、血に赤く染まった壁と、やはり同じく赤く染まったシンジの右手の拳、そして絶叫と共に泣き暮れるシンジの涙であった。
「止めないか! 右手を潰すぞ!」
ノヴァスターが叫んでも、シンジは横にノヴァスターが居る事にも気付いていないのか、ひたすら「殺してやる」と叫びながら壁に拳を打ち付け続けている。
「! 要領を得ない奴だっ!」
何度目だろうか、シンジが再び右手を壁に打ち付けようとした瞬間、ノヴァスターがシンジの腕を掴み取った。拳の皮は荒くめくれて血が滴り、腕全体が冷たく黒ずんでいた。もしかすれば骨にも影響が及んでいるようにも見える。
「止めないか! ここでお前が短絡的になってどうする!」
シンジが藻掻くが、シンジよりも圧倒的に腕力の強いノヴァスターの腕がどうともさせない。
「離せ、離せっっ! 大体、こいつを殺せば何もかも解決する事なのにっっ!」
「解決する? 本当にそう思っているのか! 答えは別にあるはずだろう、分かっているんだろう!?
お前はその答えに自信が持てない、それだけなんだろうに。
有るはずもない答えを無駄に探そうとしていると、生き様を迷うだけだぞ!」
「そんなの知るか! ここで思い知らせとかないと、絶対僕は……!」
「僕は? 僕がどうする? そんなに自分が忌まわしいのか!」
「ああ忌まわしいさ! 生きてててもどうにもならない奴だと分かっていて、
なんで生かしておく必要があるんだ! 僕は自分の罪にも報えない臆病者なのに!」
「……本当の臆病者は、自分の罪に向かい合おうともしない奴の事を言うんだ。
誰だって心に傷を持っている。でも殆どの人間はそれを忘れやることで生きている。
だけどお前は自分の過去の生き様にしっかりと責任を持とうとしている。だから必要以上に罪悪感を持つ。
誰もお前を責めたりなんか出来るものか。俺が言わなくても、お前だって分かっている事の筈だ」
「僕には……分かりません」
「そうか。……お前がそう言うのなら、それで仕方ない」
ノヴァスターはシンジの右腕を静かに解放した。シンジも幾分落ち着いたのか、再び壁に向かい合うような事はなかった。
「取り合えず、理由くらいは聞かせてくれ。なんで今日になって突然そんな衝動に駆られた?」
「そ、それは……」
シンジは答えを渋る。ノヴァスターも無理には問いたださないものの、場の空気はシンジが口を開かない限り容易に解消しそうにない事をシンジに薄々と知らしめている。
部屋の中に静寂が戻る。すると、二人の耳に何処からともなく静かなモーター音が聞こえだした。
「? ……もしかしてこんな朝っぱらから洗濯機使ってんのか?」
「!!」
シンジはその言葉を慌てて否定しようとしたが、動揺した表情は既に読みとられてしまっている。
「どれどれ」
シンジの無言の制止も聞かず、ノヴァスターは浴室の隣に置いていた洗濯機のカバーを開く。
洗濯槽の中では、白いブリーフとTシャツだけが悠長にクルクルと泳いでいた。
「はっはーん……成る程ね。別にいいじゃないか、お前さんくらいの年頃にはよくある事だろうに」
「良くなんてないっ!」
「単なる男の生理現象だろ。そんなに堅いこと言うなって」
「良くなんて、ない……」
終いには俯いてぶつぶつと呟きながら自己否定し始めたシンジの姿に埒があかないと思いながらも、ノヴァスターは自分なりにその理由を考え始めていた。やがて一つの結論が彼の頭を過ぎったが、彼がそれを自分からシンジに言及する事は無かった。
「……まあいい。ちょうど二人共起きてきたんだ、朝食にしよう。
それと、その右手も処置したほうがいい。後で医務室に行って見てもらう事にしよう」
ノヴァスターは自分のTシャツもついでに洗濯槽に叩き込むと、普段着に着替えながら台所に立つ。
「あ、今朝の食事当番は僕……」
「いーから座ってな。その手じゃあ家事なんかどの道無理だ。当番なら、明日の俺と代わればいい」
鼻歌を歌いながらエプロンを付け、米を研ぎ始める。それはいつもの剽軽な彼の背中そのものであった。
その背中を静かに見つめながら、彼はノヴァスターと同居して初めて悪夢を見た事を思い出す。
第三新東京市に舞い戻ってきた直後には、毎晩のように見ていた悪夢。アスカとレイを辱める忌まわしい場面の数々。だか以前はもっと漠然とした感覚に苛まされるだけの悪夢だったが、今朝の夢は酷く生々しいシチュエーションであった。
(どうして……今日になってまた……)
シンジにはその理由の顕著な心当たりがなかった。しいて言えば、昨日の第九使徒襲来の件で更にアスカとの確執が深まった事が、深層心理で影響したのだろうか……そのくらいしか見当が付かない。
「そうだシンジ。今日、食事が終わったらちょーっと俺に付き合ってくれないか?」
途中で何かノヴァスターが喋った気がしたが、シンジの虚ろな意識はそれを聞き取れなかった。
「……はい……」
揚げ句生返事。
「……重傷だなぁ」
米を研ぎ終わったノヴァスターは炊飯器のスイッチを入れ、台所の用事を一旦終えると箪笥の中の小物入れから救急用具を取り出し、シンジの手を取ると手際よく治療を始めた。
大きくても繊細な彼の手の温もりを感じながら、シンジはなされるがまま右手を包帯絡めにされる。
「……っ!」
不意にその手に力を強く込められて、激しい痛みを覚えたシンジの顔が歪む。
「バカだなお前さんも、どうやら骨をやっちまったみたいだな。
自分の身体だからこそ粗末にできるんだろうけど、結局そういうのって何にもならなかったんだよな」
「……?」
ノヴァスターは応急処置の終わったシンジの手をまだ離さず、半分身の上話のように語り始めた。
「なぁ、シンジ。人間って俺達が思っているよりかは結構情けない生き物だ。
そんなに生真面目になっても報われないさ。それよりかは、気楽に生きていく事の方が楽なようで実は難しい。
エヴァをどんなに上手く使いこなしたって、世の中なんて結局殆ど変わりはしない」
「……ならどうして、僕にあの技を教えたんです? あの技は僕を強くする為に……」
「そう、自分の為にしかならない技だからさ。信念と一緒なんだな。
どんなに極めても取り繕っても、所詮自分の為の言い訳でしかないから、最後には自分で自分が虚しくなる。
それならいっそ、我欲のままに生きられたら良いのにな。そう思わないか?」
「……僕の欲望は歪んでいます。だったらいっそ、僕ごと捨て去ってしまえばいい、そう思ったから……」
「歪んでいる? 最初にそう言ったのは誰なんだ? それも自分一人だけなんだろう?
誰だって性欲くらいある。人間の持って生まれた本能なんだからな。
好きな女の子が居て、一つになりたいと考えて。何か間違っているか?」
「そんな綺麗な話じゃない、僕のはもっと歪んで汚い欲望なんだ!
元々僕は、人の歪んだ心だけを見透かして、絶望する為に作られたような存在だから、
だから僕は可能性に絶望し続けるしかないんだ!」
「……ならば、君は何度も同じ事を繰り返すだけなんだぞ」
「! 繰り返す……あれを……もう一度僕は……繰り返すのか……」
ノヴァスターの言葉に触発されてか、シンジの脳裏にサードインパクトの光景がまざまざと浮かび上がる。絶望と孤独に苛まされた子供の心を利用して人類の魂を無理矢理統合化しようとする計画……自分達は、もう少しであれを完遂してしまうところだったのだ。
計画の為に依代にされたのが「純血」である自分。計画を行使するのは「ゼロ」としての自分。
二つの人格が、完全に意志を一致させた瞬間の筈だった。だが、すんでの所でそれを阻んだのは、たった一つの心残り。そしてその心残りは、未だに果たしてはいない。
だからこそ、今でもシンジは醜態を晒しているという負い目を抱えて生き続けているのだから。
「……それでもいい。僕は、どうせその為だけに生まれてきた存在なんだから……」
「自分に絶望するのはいつでもできるさ。他人を阻んで孤独に陥るのもな。
だけどな……もし人を好きになれたら、それだけでも生きていける活力になる。
誰か一人の為だけの生、それも一つの生き方の形だと思うぞ、俺はな」
「…………」
「って、俺がそんな事言うと只のおのろけでしかないかな。つまんない話して、悪かったな」
「いえ、気にしてませんから」
シンジの頭を軽く撫でて、今の重い雰囲気を嫌うかのように振る舞うノヴァスター。彼は少しの照れ笑いを込めながら、台所へと戻っていった。
だがシンジには、今彼が語っていたのはもしかすれば彼自身の過去の一端だったのではないか……そうも思えた。
(……もしかしたら……)
彼は、自分にとても似た種類の人間なのかもしれない。彼の言葉と手の温もりと、その心遣いが不思議と心にしみるのも、その為なのかも知れない。何故ならそれは、シンジにとって不快ではなかったから。
やがて台所から、味噌の沸き立つ香しさが漂ってくる。
シンジはいつしか、自分はこの穏やかな雰囲気に癒されているのかも知れない……そう思い始めていた。
「? 扉の前で何をしている、セカンドチルドレン。入ってきたまえ」
「は、はいっ……」
震える唇が小さく返事を伝え、アスカは動かない身体を無理矢理運ぶようにしながら入室した。
今朝、作戦司令室詰めのイリアに呼び出されてから、アスカは肩の震えが一向に止まらない。アスカは自分が針のむしろに座らされているような沈痛な心情を二日も持ち続けており、心身共に限界が近かった。
昨日ミサトが降格される光景を目の当たりにして、アスカは次は我が身だと知ったからだ。
(あたしも、不要だと言い切られてしまうのかな……)
作戦部長の換えは利いても、チルドレンの換えは利くまい……そう思い込んでみようとしても、自分が戦力外通知されるのではないかという恐怖が常に頭の片隅でアスカを脅す。恐怖心はそうそう払拭はできない。
やがて、椅子に座っているイリアの前まで歩み寄る事になんとか成功していたアスカだが、その足の震えが一向に止まらない。いつも気丈に振るっているアスカを知る者には、彼女が文字通り一回り小さく見えるであろうほど、萎縮しているのが見て取れる。
それでも最後の意地かはたまた無理目の気丈さか、上半身の態度だけはそれなりに努めて見せていた。
「そう堅くならずとも良い。今日はただ君に話があるから来てもらっただけだ」
「は、はい……」
濃い化粧に赤のきつい口紅。必要以上に香り漂う香水。アスカはイリアのような容姿の女は勿論好きではない。
だが反面、若いながらも辣腕を振るい、雄々しく生きているその風貌には同姓として尊敬しさえする。
ミサトよりは確かに、作戦部長として相応なのかも知れない。だからこそ襲い来る恐怖心もより増す。
「セカンドチルドレン、惣流=アスカ=ラングレー君だな」
「……はい」
「君の事は、君が幼少時の頃から伝え聞いている。ドイツ支部の担当者は君を高く買っていたよ。
彼女は神童だの才女だのと、あの男は何かと誇大的に物を言う為に好かなかったが、
仕事には嘘はないようだな。彼は立派な戦士を育成してくれたらしい」
「……はい」
だが返事は殆ど上の空だ。当の本人の意識は、イリアが次に何を言わんとするかだけを先読みしようとしている。
勿論、ろくな想像はできない。ミサトの時と同じ事になるのも次の台詞次第だと思っていた。
「私も君の事は高く評価しているつもりなのだが、反して戦果は振るっていないようだが?」
アスカの肩が跳ねた。今度こそイリアにもそれが見て取れたようである。
「? そうビクビクせずとも良い。何も君を処罰するつもりで呼びつけたのではないのだ」
「でしたら……何故……」
「私なりの疑問があるから、尋ねているまでだよ。
君はドイツ支部で数年間の模擬戦闘訓練をレクチャーしている身であり、その成績も優秀だ。
なのに此処に来てから、素人同然の少年に打ち負かされているかのような戦闘記録ばかりのように見える。
私は個人のプライバシーにはあまり関わりを持とうとは思わないのだが……、
君は何か、彼に負い目を背負っているとか、脅されているとか、そういう事はないのかね?」
「……ありません」
「隠さずとも良い。私は君の相談に乗ろうというのだ」
「本当に、何もありません」
アスカは神妙な顔立ちのまま答える。言葉には確かに嘘はない。
真実は、負い目を背負っているのはシンジの方であり、またシンジがアスカを脅している訳でもない。シンジが、自分の居場所から自分を突き落とすのでは……という恐怖心に常に脅されているのは本当だが、それを認めたくないアスカの薄皮一枚のプライドが、それを答えるのを一瞬阻んだ。
「ふうむ……となると尚更納得が行かないが、研究成果は無駄にならずにすみそうだ」
「研究成果?」
アスカが疑問を顔に浮かべたのを見て、イリアは魅惑的な薄ら笑いを浮かべる。
「君には教えてあげよう。私が研究している新型機動システムの概要を」
「新システム……ですか?」
「『デュアル・ディベロップ・トレースシステム』。
簡単に言えば、エヴァに二人が搭乗する事によって相乗的な効果を期待する為のシステムだ」
そう言われて見れば、アスカには一つだけ心当たりがあった。
先日、突然弐号機の起動実験にレイを使うと研究員達に言われ、乗り込むのがレイならば……とその時は渋々承知したのを思い出したのだ。
「ドイツ支部の研究報告書によると、君にはどうも、自らが優秀である事に高いプライドがあるようだ。
だが、ここネルフ本部では十分な自己披露ができず悩んでいるのではないか?
端的に言えば、自己を越えるサードチルドレンの存在と活躍が目に障る。
これはあくまで私の考えた現状なのだが、違うかラングレー?」
「……はい、その通りです……」
半ば屈辱的な問いに、肩を振るわせながら頷くアスカ。結局はアスカが答えずともイリアが看破してしまった。
「だが、生憎私には公私混同はできぬから、君が彼を打ち負かす事を手助けする訳には行かないが、
君がこのシステムを使いこなす事で結果的に彼を見返せるというのならば、それはまた別の話だ」
つまりは、イリアは暗喩でアスカに逆転の機会を設けているのだ。
「それは、つまり……!」
「ラングレー、このシステムを修得してみる気はないか?
もう一人のパイロットと組む事で、君の本来の能力以上の力を引き出す事が出来るのだ。
私はあくまで研究の成果で君を補佐する。その力の使い道自体は君が決めればいい」
イリアは椅子に座ったまま、作戦司令室のフロアスクリーンの電源を入れるように部下に呼びかけた。
その部下はアスカの知らない研究者だった。昨日、イリアに寄り添っていた三人のうちの一人でもある。
スクリーンに映しだされたのは、既にシステムの改修が始まっている弐号機の詳細データだった。アスカはそれを見た限り、微細までそのシステムの機能を読みとる事が出来なかったが、エヴァにパイロットを二人乗り込ませ、より深いシンクロと確実な起動を求める機能である所まではなんとなく読みとれた。
「レイと……組んで乗れという事ですか?」
「そうだ。弐号機の場合はあくまでメインパイロットは君だが、
サブパイロットが君の補佐に回る事で、精神汚染の可能性も減り、エヴァの運用自体が楽になる。
君さえ承諾してくれれば、明日から当面君の任務はこのシステムのモニターだ。
危険が少ない事、確実な成果をもたらす事、この二点は私が責任を持って保証しよう。
あとは君の、決断自体だよ」
「あたし……あたしは……」
アスカの表情は渋い。イリアの言葉は確かに今の自分にとって魅力的だが、反面不安とてある。
自分にレイというオプションを付けなければ、今の自分がシンジに打ち勝てないのだという劣等意識が片隅に引っかかるのだ。だが、斬新なシステムのモニターとして見込まれているのも悪い気はしない。
「ラングレー。私は君を買っている。私を悲しませるような返事はしないでくれるな?」
「…………」
アスカに決断の時が迫る。
「……分かりました。あたしで良ければ、是非役立ててください!」
全ての迷いが断ち切れた訳ではない。だがこのままでは現状は何も動かない事も、アスカは悟っている。
アスカの返事は歯切れのよい物ではなかったが、その返答はイリアを十分に満足させた。
「良かろうラングレー。君を裏切らない成果を出せる事を、私も誓おう」
「あ、ありがとうございます!」
「……宜しいのですか?」
「何がだ」
アスカが退室したのを見計らって、先程の研究員がイリアに耳打ちしている。
「幾ら例のモニターが手元に居ないとはいえ、あんな小娘にあれほど入れ込むなどとは」
「忘れたのか? 我々にはあの娘が必要なのだ。となればラングレーの期待にも応えねばなるまい」
「イリア殿は意外と子煩悩であられる」
「子煩悩……私がか。……ふっ、ふふふ……確かにな。子供とはかくも可愛いものよ」
「……私には分かりませんな。足下に擦り寄ってくる子供など、負担でしかないでしょうに」
男は意外だと言わんばかりの表情で困惑している。イリアはまた小さく笑った。
「戦地育ちのお前に言わせれば、そうなのだろうよ。
だが、子供ほど単純で騙しやすく、欲望に明け透けな存在は他にあるまい。
特にあれのように生半可賢しく、打算で相手を見比べるような小娘なら尚更だ。
それにいざ不要になれば始末も容易く、出るゴミも少なくて済む。手駒はやはり、子供に限る」
実体験でそれを知る男も同感なのか、喉で笑っていた。
「前言撤回ですな。イリア殿は意外とエコロジストであられる」
「馬鹿を言うな。そうと決まれば突貫で作業に入る必要がある。各員に伝達せい。
それと、『アトラス』が死んでいた原因の究明も、急げよ」
「はっ」
男が早足で作戦司令室から出ていくその背中を眺めつつ、椅子に深く腰掛け直すイリア。
「さて……忙しくなるな」
イリアの脳裏には、将来の展望のビジョンが駆け巡っていた。だが、定められた計画のラインは一つではない。あらゆる事象の変異に柔軟に対抗できる為に、イリアはここに来たのだ。
(それが、古い価値観を拭い去れない哀れな老人達の作成したシナリオとの相違点よ)
「私を失望させてくれるなよ、ラングレー。そしてレイ=アヤナミ……」
無地のキャンパス、或いは積乱雲の中を彷徨っているかのような朧気な意識。
目覚めても尚、視界には白い天井しか映らない。
もしこの世に天国があるとしたら、こんなにも清楚な光景なのだろうか……。
「日向君!? 目覚めたの?」
憧れのミサトの言葉が遠くに聞こえる。やはり此処は天国……。
「日向君!?」
「か、葛城さん!?」
ミサトの呼び掛けに驚いて跳ね起き、天国どころかそこが病棟である事を認識すると、マコトは何かに失望したかのようにぐったりと肩を落とし、シーツにくるまり直した。
「良かった、頭を打っていたと聞いたから心配したのよ」
「だ、大丈夫です、このくらい。心配お掛けしました」
恐らく自分が意識を取り戻す前から病室につきっきりでいてくれたのであろうミサトに、思わず感激する気持ちの方が上回って、マコトの惚けた頭はしばしの間頭痛をすっかり忘れていた。
「やだ、そんなに畏まらなくていいわよ」
「い、いえ、葛城さんは上司なんですから……」
心の中で抱く尊敬の念と思慕の念とを混同しないように必死で努めて、いつものように畏まるマコト。
だが、今回に限ってその言葉でミサトの顔に途端に陰が差した事は意外だった。
「上司……ね。もうそんなの気にしなくていいのよ。……今日から、君と私は同僚なんだから」
「え……?」
まだ意識が明確に覚めていないマコトは、一瞬ミサトの言葉が飲み込めなかった。
「干されちゃった。私には、作戦部長の立場は重荷だったみたい……」
「そ、そんな!? 降格してしまったんですか、葛城さん!! つっ……!」
頭が事実を捉えた瞬間、一気に頭に血が上ったマコトは頭痛のあまり頭を抱えてうずくまってしまう。
「無理しないで日向君、頭部の傷は昨日縫合したばかりなんだから」
ミサトのたおやかな仕草でベッドに寝付け戻されようとした時、彼女の薄い香水の香りがマコトの鼻腔をくすぐる。
(あ……葛城さんの匂いだ……)
「しばらくは安静にしていなきゃ。でないと傷口が開くわよ。何せ七針も縫う大怪我だったんだから」
「そうだ……思い出しました、俺、粋がって選挙カーを飛ばしていたら突然車が横転して……。
気が付いたらシンジ君が目の前にいて……あとは覚えていません……」
「あなたを介抱してくれていたのはノヴァスター君よ。多分その時シンジ君も側にいたのね」
「ああ……彼が……」
「日向君。あの時あなたの車を狙撃した人間は目撃していない?
車が横転していた跡には、炎上したワゴンとその中に居た一人の遺骸だけが残っていたのだけど……」
「……すみません……心当たりはまるで……」
「そう……分かったわ。それだけが気掛かりだったの、辛い所を事情聴取なんてしたりして、ごめんね」
「いえ、俺こそ役に立てなくてすみません……」
「いいのよ」
ミサトは腰掛けていた椅子から立ち上がり、マコトにもう一度シーツを掛け直す。
「暫くは安静に療養していてね。あなたの抜けた穴は私が引き受ける事になったから」
「……重ね重ねすみません」
「それじゃ私は行くわね。また時々見舞いに来るわ……お大事にね」
微かな香水の香りを残して、ミサトは扉の向こうに消えていく。
マコトは寂然とした心境を顔に出さないように努めながら、ミサトの背中を笑顔で見送っていた。
シンジは、ギブスでくるまれた右手を煩わしそうに見つめ続けている。
病棟の廊下を歩いている間、彼の意識はその右手から途切れる事は殆どなかった。
「バカだなぁお前さんは。結局骨折してたじゃないか」
「……別に。このくらいはいつもの事ですよ」
「なんだかなぁ」
付き添いで隣を歩くノヴァスターも、呆れた表情で歩を進めている。
二人して病棟に来たのは、シンジの右手の治療の他に、マコトの安否を確認する為である。
「折角この間の続きで、トレーニングをあれこれさせようかと思ったけどその右手じゃあ腕の方は当分無理か」
「どうせ、使徒か来る頃までには直りますよ」
「また、今朝のような発作を起こすような事さえなければな」
「…………」
シンジには、その一言を否定する事が出来ない。
「今の君なら、その腕を更に壁に打ち付ける事くらいはしそうだからな。
そんな自己虐待を続けていれば、そのうち右手が壊死を起こすぞ」
「……もし僕の右手が無くたって、エヴァには乗れます」
もはや自分をエヴァの機能の一端としか見ていない、シンジらしい冷めた一言だった。
「右手が無くたって頑張って生きている人間は沢山いるけれど、あれば困るなんて事もないだろう。
まして今まで右利きで生きてきた人間が急に右手を失えばどうなる?
例えば泳ぎも不得手になるし、本を読む事も字を書く事も、キーボードを打つ事も楽じゃなくなる。
好きな女の子が出来た時に、その女の子を愛撫してあげられるような出来る喜びも減るしな……なんてね」
「そんな話は止してください! 大体、あなたの話す喩えはどうしていつも突飛で性的なんですか!」
「突飛? 確かに、常にエヴァで戦う事しか考えられない戦士にとっては突飛かもな。
だけど、只の中学生にとっては何も驚いた話じゃないだろうに。
それでなくてもこの時分の男の子なんて、四六時中性欲に悶々と悩まされる体質なのになぁ」
「僕はそんなんじゃありません!」
「そうかな。むしろ君の大本の行動原理は、そういう事だと思えるんだけど。
まるでフロイトの理論を全身で表現しているように。勿論、それが悪いなんて思ってないよ、俺はな」
「……そんなんじゃ、ない……」
噛み付くかのような抗議も一手でひっくり返されてしまう。それは例外なく「図星」という要素を含んだ言葉であるからこそだ。
「お前さんはさ、シンプルすぎるんだよ。欲求も願望も、嘘も建前もな。
だからちょっと深く観察すれば君の本音はバレバレなんだよね。
みんなが、特にあの二人がもうちょっと深く君を観察してくれれば、苦労はないんだろうけど」
「……そんなのは絶対に御免です」
肩を落として消沈するシンジを見かねてか、その肩に緩やかに腕を回す。
そのささやかな温もりが、間に合わせでもいいから彼の心の片隅にでも生きてくれればと思いつつ。
「しがらみばかり背負って生きるのは辛いだろうに、無理ばっかりしやがって……。
まあいいさ、生き方の無理強いなんて誰にも出来ないんだしな、君のやりたいように生きてみればいい」
「……否定しないんですね、僕の生き方を」
「誰かに、否定してほしかったのか?」
それもまた、一つの図星。だが知られてはいけない、知らせてはいけない自戒。
「……すみません、今の言葉は忘れてください」
「はいはい、そーします」
二人が語りながら病棟の廊下を通り過ぎる、その廊下の角に隠れ図らずしも聞き耳を立てていたミサトが居た。
初めは向こうからやってくるノヴァスターにお礼を言っておこう、程度の気持ちで近寄るつもりだった。
ところが、ノヴァスターの隣に顔を合わせにくいシンジが居た事や、その右手に何故かギブスが巻かれていた事、向こうがたまたまこちらの存在に気付いていなかった事などの要素が重なって、何故か掛ける言葉に詰まったミサトは思わず柱の陰に隠れ、二人の会話を盗み聞く形になってしまっていたのだ。
彼女の顔には、二人の違った一面を知った事で明らかな困惑の色が浮かんでいた。
それから二週間後。
シンジの右手も、マコトの頭部の傷も未だ完治はしていなかった。
だが反面、ミサトは多少不慣れなオペレーターの作業に何とか慣れつつあり、イリアの新実験も軌道に乗りつつあった頃、この二週間研究棟にひたすら詰めていたリツコは、一つの偉業を達成していた。
初号機の右腕部の補修―――つまり放電撃制御装置(エンハンスドエナジーシステム)―――をついに完成させたのである。システムアップの成功に歓声に湧く実験棟の面々、その部屋の片隅ではシンジとノヴァスターが壁に寄り掛かって静かにその光景を眺めていた。
「これで、ちょいとは便利になったかな」
「…………」
「なんだい、折角みんなが喜んでいる時に、そんなに沈んだ顔をしてさ」
確かに、システム開発の成功に微笑んでいたノヴァスターに対して、シンジの顔付きはいつも通り憮然としたままだ。
「……なんか、何でもあなたの思惑通りに進んでいますよね。それがなんか薄気味悪くて……」
「正直な意見だな。だけど、『あの技』をどう用いるかは君次第だという事に違いはない。
あの技を只の凶器にしてしまうのも、狂気のまま振り回すのも有り得る事だし、
自分を取り巻く環境をより良い方向に向かわせる為に、自分自身を変える為に使うのも全て君次第だ」
「……まるでエヴァと一緒ですね」
「そうだな。強い力を持つという事は、それだけ持ち主の我が儘が自在通るという事だ。
そして必要以上に強い力は、操者に狂気を宿らせる。
狂気に取り憑かれた人間が考える事は限ってろくでもない。権力主義はいつでも弱者の敵だ。
この場合の弱者とは、自分にとって護るべき者の事を言う。君にだって居る筈だ、大切な存在の少女達が」
「……はい」
「だからなシンジ、君があの技を用いるに際して、俺から訓戒として言っておきたい事がある」
「……はい」
神妙な顔で語るノヴァスターに、何故か素直な態度で頷いてしまうシンジ。
自分が常に悪辣で居なければならない自戒を、どうしても忘れてしまう一瞬だった。
「あの技を使う時には、その度に自分の言動には強い責任を持て。
そして自分の掴んだその力を、自分の意志の為だけに使え。その意志は誰にも揺るがされてはいけない。
あの技は決して只の破壊兵器じゃない。より高く崇高な精神……なんてクサい言葉は使わないけど、
常に穏やかでかつ力強い自我を保てるように努力する為の、修養のための技だと思ってくれ」
「……つまり、あの技は破壊するだけの力ではなくて、使う自分自身をも正す技、という事ですか?」
「そうだ。あの技を通して、本当の自分を見出す為だけにその力を注ぐんだ。
そして掴んだ自分自身が、その強大な力の虜にならないように常に努めるんだ。約束だぞ」
「……はい」
「男同士で、何を神妙な顔して語り合っているのかしら」
二人が語らっている所に、喜びという感情で顔を染めたリツコが歩み寄ってきていた。
「なに、本番でしっかりせいって喝を入れていた所ですよ。
なにせATフィールドに加えて数億ボルトの超高電圧の融合技なんですから、疎かには出来ないでしょう」
ノヴァスターはいつも通りの明るい笑顔で話題を振る。こういう顔の時の彼は、とても25とは思えないほど無邪気に見える……それが今のリツコとシンジの共通の認識だ。
物事をはぐらかす為の笑顔なのかも知れないが、それにしては嘘で塗り固めた表情とも思えない。
だからこそ何処か不思議な感覚で魅了され続けるのだろう……二人はそうも思っている。
「……そうね。予想される破壊力は確かに尋常じゃないわ。
けれどシンジ君、この絶大な力をあえて、あなたを信じて託す事にします。
使い道を決して間違わないように。それだけは常に頭の片隅に置いていてね」
「……はい」
「なんだか今日は随分聞き分けがいいな。いつもこれだけに素直だといいのにねぇ」
ノヴァスターが横から茶々を入れるが、シンジにはそれが「あなたのせいだ」とはとても言えなかった。
神妙な顔付きのシンジに覚悟の程を見ると、リツコはマヤに隣の部屋にモニターを用意するように指示する。
「ついてきて、シンジ君。このシステムの詳細使用法を解説してあげるわ」
こうして、二人はリツコに案内されて隣のモニタールームへと連れだった。
「マヤ、スイッチを」
「はい」
暗い室内の中、リツコの指示に従ってマヤは逐次初号機のシステムの詳細を画面に映していく。
シンジとノヴァスターの二人はパイプイスに座ってリツコの説明に耳を傾ける準備を済ませた。
「まず、このシステムを用いるに当たって、私達は初号機の蓄電プールを大幅に確保したの。
更に初号機の右肩部バックパックのニードルガンを換装して、そこに瞬間高圧変電装置を増設、
システムの使用時にはそこを通して右腕用の電力を送り、瞬時に高電圧に変電されます」
「……質問。いいですか」
シンジかそっと手を挙げた。
「はい、何かしら」
「あの技、実際には何発打てます?」
「ちょっと待ってね。電力の話をもう少し進めてからよ。
初号機背部への蓄電装置増設により電力をより多くプールできた事で、
初号機の最大活動時間は、ゲインを最大に利用した場合従来の約二倍の10分間。
ところが、この技を使うには放電分の電力と初号機本体の活動分の電力と、
合計約一千六百万kw……時間に換算して約四分間稼働分のエネルギーを瞬時に消費します。
更に、システムの冷却時間を考慮すると再始動に一分は掛かる事から、
結論として実際はギリギリ二回使えるかどうかという所ね。でも私は連発は推奨できないわ。
連発時におけるシステムの耐性と冷却装置にまだ不安があるから、出来れば一回の使用に留めて頂戴」
「ヤシマ作戦の時と同じですね。失敗した時の事を考えず、一撃で仕留める事……」
「そうね。実際威力の方も、陽電子砲を右腕に内蔵しているような感覚で構わないわ。
電力はあの時程は使わないけど、ATフィールドの事もあるからその破壊力は未だ未知数。
でもこの技はむしろATフィールドの力に依存する技だから、最終的にはあなたの技量が威力も決めるわ」
「……全て、僕次第なんですね……」
改めてこのシステムの操作性と自己の技能依存度の高さを思い知り、シンジの顔が曇る。
胸につかえるプレッシャーの重圧が、ひたすら重く感じる。心なしか呼吸さえも辛くなる。
狂気の力、エヴァ。それが明日から更にその力と忌まわしさを膨らませるのだ。
「責任が重いか、シンジ?」
それでも、自分を試すようなその言葉の響きには打ち負ける訳に行かなかった。
貫かなければならない意志が、確かに心の中にある限り。その是非は、この技が見いだしてくれるだろう。
「いえ……やらせてください。試してみたいんです、今の自分が何処までやれるのか……」
心配がないと言えば勿論嘘になるのも確かだ。だが、「自分は間違っている」という烙印を自らに押していたシンジが、だからこそ自分の可能性をそのまま形として表せるこのシステムに魅了されているのである。
(僕が間違っているのならば、この技が僕の未来を示してくれる筈。
そこに破滅が待っているのか、それとも何か違う可能性が待っているのか……試してみたい)
「いけるのか、シンジ?」
「……いけます!」
決意を素直に表したシンジの精悍な顔を確かめ、ノヴァスターとリツコの顔が綻ぶ。
(あなたの言った通り、彼が良い方向に変わってきたのを感じるわ。手柄ね、ノヴァスター君)
(当たり前ですよ、こいつは俺の自慢の弟分なんですから)
そんなアイコンタクトが、いつの間にか二人の意志疎通になっていた。
ところ変わって、南緯78°東経122°―――つまり、南極。
かつては氷の大地が支配していたこの地を、国連軍の大艦隊がゆるりと航行していた。
セカンドインパクトの後遺症で氷は融解し大陸はその形を失い、残った海は毒素に染まって紅い。
だが常人は瘴気に当てられ生きる事も叶わない地の、その底に『それ』は沈んでいた。
ゲンドウと冬月はゼーレのタイムスケジュールに沿ってそれを回収し、機密扱いで輸送し持ち帰る。
老人達に顎で使われているはずのゲンドウの口元は、それでも歪んで笑っていたが。
「如何なる生命の存在も許さない死の世界、南極……。いや、もはや地獄と呼ぶべきかな」
南極の惨状に、冬月の口が揶揄する皮肉。
彼は十五年前、世界が荒廃する様に自らの身が切り取られていくような痛みを覚えた。
それでも自分達に残された唯一の住処、地球。人は何処までこの地を蹂躙するのだろうか……と。
「だが我々人類はここに立っている。生物として生きたままな」
「科学の力で守られているからな」
特殊ガラスで全面防護された監視ブリッジ、それが今の二人の立ちつくしている場所。すなわち生命線だ。
「科学は人の力だよ」
「その傲慢が十五年前の悲劇、セカンドインパクトを引き起こしたのだ!
……結果この有様だ。与えられた罰にしては余りに大きすぎる。将に死海そのものだよ」
「今更あの老人達にそれを説いたところで聞きはしない。
全人類の救いの為の、僅かな犠牲に対して奴等が感じるのは、罪悪ではなく収支の誤差に過ぎない」
「ならば、その言葉を葛城君にありのまま聞かせてやったらどうだ」
冬月の眉間に皺が刻み込まれる。
「その必要はない。既にあいつがその苦しみを背負っている。
我々は老人の為にではなく、あいつの為にこれを預かるのだからな」
「……何を考えている、碇」
その問いに、ゲンドウは中指で自らの色眼鏡を押し上げる。
「『科学は人の力』。かつて、私にそう説いた若い男がいた。
科学が人の世も命の摂理も、やがては自分の廃れた欲望さえも満たすと信じてやまなかった男がな」
「初耳だな」
「真実を知れば、シンジとてお前とてその男を縊り殺したくなる。
……あれは稀代の獰悪よ。ユイを辱めたその罪、それだけは何としても償ってもらわねばな」
「!」
冬月がその意味深な言葉を問いただそうとしたその時、割り入るようにブリッジに通信が入る。
《報告します! ネルフ本部より入電。インド洋上空、衛星軌道上に使徒発見!》
「第十の使徒か。あの女も仕事の虫よな」
「イリア三佐の事か」
「いや、あれは只の醜女だよ。あの男の使い走りに過ぎん」
いい加減真相をはぐらかし続けるゲンドウに、冬月の眉間はいよいよもって皺寄る。
ユイの名を聞かされれば平穏で居られない、彼のサガとも言える。
「気にする必要はない。本部にはあいつがいる。我々は負けはしない」
何故か息子の顔を思い出すと、素直に微笑む事のできる自分が居た。
早い歩調で発令所に駆けつけるイリアとリツコ。だが入り口の前で互いを牽制しつつ二人はタイミングをずらして立て続けに入室した。最初にイリア、次にリツコ。
「二分前に突然、衛星軌道上に現れました!」
振り返って報告するオペレーターはミサトだ。仕方なくも彼女はこの職種に慣れつつある。
「監視衛星は飛ばしたか?」
「じきに映像が入るかと」
ミサトの答えは意識して簡潔だった。緊迫した発令所の中でも、彼女の声は特に通りが良い。
「よし青葉二尉、メインモニターに回せ」
「待ってください…………目標、映像で補足」
監視衛星が捉えた使徒の映像が、メインモニター狭しとばかりに一面映される。
奇怪な紋様と形態を持った橙色の使徒の容姿に、思わず発令所の職員全体から歓声とも嘆息ともつかない声が漏れる。
「なんてシンメトリックな奴……常識を疑うわね……」
ミサトさえも見上げたスクリーンを前に、そんな感想しか口に出せなかった。
だが、あらゆる生命の倫理や法則から逸脱したその使徒の形態は如何なる生命体にも物体にも喩えることは出来ず、今まで出現した使徒以上に奇特な存在であるのは確かだ。
「無駄口は叩くな葛城二尉。引き続き監視を続けろ」
一切の緊張の緩和も許さないイリアの叱咤に、慌ててコンソールに向き直るミサト。
「目標と、接触します」
一方、インド洋上空の使徒に隣接するのに成功していた監視衛星が、使徒のサーチを開始する。
ミラー状の衛星が二つ、使徒の両側を挟んで監視しその映像を地上にレーザー送信する。
だが飛び込んできた映像が映したのは、ひしゃげた衛星と歪んだ使徒の像。
一瞬後には、映像は砂嵐と化していた。
「小癪な。だが使徒の規模は今のでも十分わかった……相当に巨体だという事がな」
発令所の後方の壁にもたれ掛かり静かに映像を伺っていたリツコには、それがシンジも使いこなし始めたATフィールドの応用技能である事を容易に見抜く。
だが心配はしていない。少年は出来ると断言し、青年はそんな少年に微笑みかけていたのだから。
(まったく不思議な二人組ね。決して出来ないと思うような事さえも、出来そうだと思わせてしまう……。
あの女には分からないでしょうね。彼等の強い決意も、その穏やかな微笑みも)
自分も比較的無感動で冷めた部分を持ち合わせていると自覚しているリツコだが、あの女はそれに勝るとも思っている。何故なら自分達は、降格を言い渡されたその晩、アルコールに一晩中溺れていたミサトを知っているからだ。
彼女は最後まで泣かなかった。だが、いつ泣き出してもおかしくない顔で沈んでいた。
状況の判断を終えたイリアの指が、コンソール上の通信装置を駆けめぐる。
「弐号機ケージのラングレー、アヤナミ両名に告ぐ。
使徒が現れた。今すぐ実験は中断、総合作戦司令室まで来るのだ」
「了解!」
「……了解」
一方のケージでは、同じエントリープラグに搭乗してハーモニクステストを受ける二人が居た。
まだ新システムは暫定的な物で正式稼働は先の話だが、研究成果と扱い勝手は悪くない。
それを身を持って知っている為か、エントリープラグから身を乗り出したアスカの顔は、不思議と穏やかだった。後から身を乗り出すレイの手を取ってその身を引き上げ、おっとりとした彼女を急かすようにその背中を押しながら発令所へと駆け出していた。
やがて、使徒はその身体の一部を大気圏内に投下したという情報が入電する。
海面上に映し出された巨大な波紋の映像を手元のモニターに見下ろしながら、イリアは二人のチルドレンとオペレーター達を囲み作戦協議に入る。リツコは一人そんな皆からやや離れて、やはり壁際にもたれ掛かったまま状況を眺めている。ノヴァスターにそれとなく習った観察術だ。
「現在判明している使徒の特徴は、自らの身体その物を爆弾のように利用してると言う事だ。
加えて落下エネルギーとATフィールドの力でその破壊力は相当級である。
着弾修正と思われる初弾こそ太平洋に外れたが、誤差修正の後四発目は見事カリフォルニア半島に直撃。
直径5kmが吹き飛んだ。着弾修正でこれならば本体の威力は推して知るべし。
ましてあれが体当たりで落下してくるような事があれば、日本列島くらいは容易に吹き飛びかねないな」
イリアの淡々とした言葉が表す事実に、一同が息を飲む。
だが次の映像に切り替わったところで、彼等の焦燥は更に掻き立てられる事になる。
「UN軍がN2航空爆雷を数十発投下したが、まるで効果は認められない。
恐らく今までのどの使徒よりも強力なATフィールドの持ち主だ」
「以後、使徒本体から発信されるジャミングの為、使徒の消息は不明です」
シゲルの伝える電信の内容にイリアが眉を顰めた。
「むう……分が悪いな。これでは後手に回るしかない。
だが、敵の狙いが此処ネルフ本部にあるのは間違いないはず。
チルドレンは全員、第二種戦闘待機。残りは引き続き索敵を進める事にする」
「了解!」
緊迫の中、作戦司令室の一同が声を揃えた。
「マヤちゃん、MAGIの判断結果は?」
「はい、全会一致で撤退を推奨しています」
マヤは定例に習ってかこの間までの癖か、MAGIの判断結果を傍らのミサトに報告する。
だが次に飛んできたのはイリアの冷淡な怒号だった。
「誰がMAGIの判断結果など聞いたか、余計な真似をするな!
……それとも貴様等、臆病風に吹かれたか?」
「「申し訳ありません!」」
ミサトとマヤは即座に頭を下げたが、彼女が何故MAGIをないがしろにするような事を言うのかは理解できなかった。二人にしてみれば、彼女とてMAGIが世界最高水準の判断支援システムである事くらいは承知で、その性能は信頼のおける物であると理解している……つもりであった。
当然、後方でそれを聞きつけたリツコも顔を顰めたが、ここで怒りを露にする様な愚はしない。マヤが自分に対して視線を飛ばすのに気付いたが、「言わせておきなさい」と視線を返し、しょぼくれるマヤの成すが儘にさせていた。
リツコはただ、彼女が何を基準にして指令を考案するのかだけを黙って観察し続ける。
イリアはそんなリツコの視線は介さず、暫く顎に手を寄せ考え込んでいたが、やがて決断を下す。
「カツラギ二尉、日本政府各省に通達、ネルフ権限に於ける特別宣言D−17を発令させよ。
第三新東京市の市民は隣県以遠に避難勧告を。同時にD級以下のネルフ勤務者と非戦闘員もだ」
ミサトは首を縦に振った。だがそれは、恐らく自分が作戦部長であり続けたとしても同じ手段を取っただろうからであって、決してイリアの手腕を素直に感じられたからではない。
そしてそのイリアの命令は、リツコに一つの決断をも促させた。
(あなたの構想した新システムや、MAGIより賢しいその頭脳がどの程度だか知らないけれど、
シンジ君は決して負けはしないわ。だから、私達は私達のやり方で行かせて貰う事にしましょう)
リツコは一つ決心すると、足早に作戦司令室を後にしようとする。それを見つけて自分に付いてこようとするマヤは目で制し、彼女は扉の向こうに消えていった。
イリアはその様子を横目で伺いながらも、ミサトとは違い軍属でないリツコには強くは物を言わなかったが、
(……まあ良い。あの女が多少足掻こうと知れた物だからな)
あくまで、自分の立場の不動を知るイリア。
やがて、彼女の指揮通り第三新東京市を中心とした避難勧告は促進され、地下のネルフ本部に残った僅かな職員だけが、決戦への準備に取りかかる構図が出来たのであった。
霹靂が空を駆け抜ける瞬間は、刻一刻と近付いている。
二十六章前編、公開です。
もう開き直って今後からは、第三部の70kb超の章は全て前後編にする事にしました(^^;
それ以上になると一度に読みにくいであろうという事と、私の編集の都合という事でご理解ください。
その代わり、前後編の時は次回の更新は早めに出来ると思います。
書いているうちに思う事が幾つか。
「エヴァは一体何kwの電力で動いているのだろう?」
「エヴァって二人で乗ると都合がよいのやら悪いのやら?」
「この話の時点では一体暦は何月何日なのだろう?」
「プログナイフで攻撃力2100なら、『アレ』は一体幾らになるのだろう?(笑)」
TVを見ていた時には考えもしなかった疑問が、小説を書く時になって不都合を起こすのです。
自分で勝手に数値を決めて常識外の事を書くのも恥ずかしいですし、細かいところで気を使います。
さて後編では、ようやく第十使徒と決戦します。
かつて三人掛かりでようやく倒した使徒を今度は独りで、一撃の元に沈める為に跳ぶシンジ。
叫ぶ彼の右腕に、決意を宿した稲妻が走る時、アスカとレイはそこに何を見るのでしょうか。
それでは、また次回……。
夢落ちが確約されているからこそ出来る事が、世の中にはあると思う……………………多分。