「いつもなら二分で行ける距離よ!? それがどうしてこんな羽目になるんだか……。
ここを通り過ぎれば、ジオフロントに出られるとは思うんだけどね……」
「…………」
「レーイ、なんか喋ってよ。それでなくともここは気味悪いんだからさぁ」
延々と愚痴りながら歩き続けるアスカと、やはり黙々と歩き続けるレイ。いずれにせよ、配電用のラインが棚引くこの裏小路を歩き続けるしか彼女達に道はなかった。
やがて、レイが何かに気付いたようだ。
「……! 人の足音……」
「え!? それ、ホント!?」
レイが耳を澄ましているのに続いて、アスカも手に耳を当てて音を探る。もしかしたら本部まで辿れる手掛かりを掴めるかも知れないという一縷の望みを抱いて、二人は静かに音を探っていた。
どうやら、吹き抜けのはるか上部で走っている人間がいる。足音は一対……一人だけのようだ。
「おーい! お〜〜〜〜〜〜〜〜い!!」
アスカが必死に呼び掛ける。これで本部への行き先を知る人間が捕まえられれば儲け物だ。
だが、向こうまでが遠すぎるのか、あるいは無視しているのか、その足音は無情にも止まる事なく通り過ぎていった。
「あっちゃあ。駄目か……」
「上で何か起こっているみたい。急いだ方が良さそうね」
「時間が惜しいわ。走りましょう!」
「……ここからなら一応の近道のあてがあるわ。そこから行きましょう」
「頼りになるぅ、レイ。で、その近道って何処?」
「……付いてきて」
小走りで駆け出すレイ、それに素直に続くアスカ。シンジが此処に存在していない事が、皮肉にも二人の連帯感に繋がっている。
要素は多分に絡まっている為に、どれが理由とは今は断言できる者は居ない。それでも一つだけ確実に言える事は、シンジという絆を失っている事で、逆にアスカとレイの心の間に不思議な絆が産まれはじめている事……それを、二人の遥か上部で駆けていたシンジが知れば、嬉しい事実であったのかも知れない。
だからという訳ではないが、シンジは微かに聞こえていたアスカの声を、あえて黙殺していた。
単独行動こそが、彼を彼たらしめている今のうちに限っては。
暫く歩いて進んだ先でレイが「ここよ」と言って指さしたのは、排気口であった。
「幾ら近道と言っても、これじゃ格好悪すぎるわ……。
機械油みたいな臭いはするし、煤で汚れているし……」
「我慢して。他にあてがなかったの」
「レイを責めている訳じゃあないけどさ……やりきれないじゃない」
仕方なく、膝で歩きながら排気口を彷徨い続ける二人。
ようやく排気口を抜けて、再び通路に戻ったはいいが、今度は分かれ道が二人に立ちはだかる。
右に向かう通路と左に向かう通路。ぱっと先を覗き見た限りでは、どちらとも断定しかねる。
「道が二股に分かれてる……二人でそれぞれ向かえば簡単なんだけど、」
「それは危険よ」
「なのよねぇ。となると……勘で決めるしかないっか。
……よし、あたしは右だと思」
「私は左だと思うわ」
「レーイー!」
見事に意見が擦れ違った瞬間。
「…………」
迷ったあげく、レイが道を決める為の方法として考え出したのは、
「? どうしたのレイ、腕なんか差し出して」
「……前に、葛城一尉から教わったの。『困った時はこれで決めなさい』って」
「まさか……ジャンケン!?」
アスカも、日本独特の風習「ジャンケン」は見聞きして知っている程度で、実際には学校で数度体験しただけだ。単純かつ迅速に勝敗を決める事の出来るこの決議方法は、運任せの為に実力主義のアスカにはあまり受け入れられた風習ではないが、この場合は別だ。
「なるほど……いいわレイ、その挑戦受けて立つわよ! ジャーンケーン!」
「ぽい」
…………
レイはその掌の五指を目一杯広げていたのに対し、アスカの指は二本だけ突き出されている。
「ほおら、やっぱりあたしの勝ちね!」
「……負けた」
「じゃあレイ、サクッと決まった以上右に向かうわよ!」
久々に勝ち誇り、機嫌の良い自分が嬉しいアスカ。
ところが、アスカが選んだ道は登りの勾配で、二人は道を進んでいる内に不安に駆られはじめていた。
「……やっぱりおかしいわ。道が上り坂になってる」
「やっぱりって何よ!」
アスカ自身もおかしい事には気付いていたが、今更引っ込みも付かない。
が、やがて上部に光が見えだした。
「ほら、間違いないわ、あそこからジオフロントに出られるのよ!」
希望の光が見えたアスカはその喜びに思わず駆け出して、重い扉を強引に蹴破る。
「でぇえいっ!」
ズウウウン!!
そんなアスカの思いに水を差すように、扉の向こうに突然現れたのは巨大で尖鋭な脚であった。
「きゃあっ!」
使徒の脚が道路を踏み貫いた衝撃に、アスカは足の自由を奪われ崩れ落ち、その拍子に尻餅を付いて痛がる。
だが正面に見えるビル群から姿を現した使徒の異様な風貌には、それどころでは居られない。器状の胴体に四本の細い脚、その全身には実体か擬態か計りかねる気味の悪い目の紋様が幾つも現れている。
「っ!! 何アレ!?」
「……まさか……使徒!」
「使徒ですって!?」
そうこうしている間にも、使徒はアスカとレイに気付いた様子もなく、二人から見て左側へと歩いていく。とすると、停電で防衛システムが死んでいる為に、ネルフ本部が使徒の襲来を把握しているかが疑問だ。使徒の行く先が気になるレイは、地上の景色から自分達のおおよその現在位置を素早く見いだした。
「使徒……本部の直上に向かっているわ」
「マズイ、あたし達も急がないと!」
そうと決まればとって返し、今度は先程レイが選んだ道に全速力で引き返す二人。
「て、敵を肉眼で直接確認出来たんだから、無駄な回り道じゃあなかったでしょ!?」
という事にしておきたいらしい。
「……そうね」
「…………、実は納得してないでしょ?」
「そうかも知れない」
「レーイ! それはないんじゃなぁい!?」
発令所の面々は焦燥に駆られだしていた。
何時まで経っても復旧しない電源。蒸して不快度の高い環境。暗い室内。苛立つ同僚達。
リツコやマヤを中心とした技術課員達は必死で電源の復旧とシステムの回復を図ろうとはするが、肝心のMAGIさえも最低限の機能維持しかできない程度の状況ではそれもななまらない。ゲンドウも一部の黒服と技術課員を遣いに回し、主電源部の探査に行かせるものの一向に音沙汰はない。
そんな時、発令所から地上部への荷物運搬用のゲートから、不可解な音がする事に気付いた所員が居た。
「おい、変な音が聞こえないか?」
「え? ……ホントだ、聞こえますね」
「……気味が悪いな」
その音は、タンタンタンタン……と小刻みに床面を叩くような響きだった。それが絶え間なく、遠くの方から響いてくるのである。ましてそのルートは滅多に使う事のないルート、所員達は更に不安に駆られる。
「……もしかして、人の足音かしら?」
「まさか、こんな所歩いてくる奴はいな……!?」
同僚のその言葉を否定しようとした時、彼は闇の向こうに見える人影に気付いた。
確かに、一人の人間……少年が、こちらに向かって走ってきている。
「……サードチルドレンの彼じゃないか!?」
そう、ゲートを全速力で走り続ける事4km超、シンジはようやく本部に辿り着いたのである。
息を切らし、床に崩れ落ちそうになるシンジを所員達が手を貸す。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
(体力不足が身にしみるよ。ノヴァスターさんみたいに走り込んでいれば良かったのかな……)
盛大に疲れた拍子に、そんな些細な後悔も頭をよぎる。
「シンジ君!?」
その光景が発令所の上部から見えたリツコが問いただす。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
まだ息が整わない。喉が荒れているかのように痛い。心臓が縮み上がりそうに痛い。脇腹が締め付けられたかのように痛い。
それでも、自分の目的を忘れる程ではない。シンジは開口一番、叫ぶ。
「使徒が、本部の直上まで、来ています! エヴァを用意、してください!!」
途切れ途切れに叫ぶその声と顔が、事態の深刻さを物語っているようで発令所の面々に痛々しく捉えられる。
「使徒が!? 本当なの!?」
「はい!」
その返事が随分と小気味良い。
(初めてネルフに来た頃より大分角が取れてきたようね……)
リツコはふとそんな事を考えた。何かにつけて、彼の存在が自分達の周りを巡っている……それが不思議と不快でないのは、シンジも同様なのだろうか。それとも自分だけなのだろうか。
(やっぱり、彼の影響なのね)
「冬月、後を頼む」
色眼鏡を押し上げるのもいつもの癖。
「碇!?」
「私はケージで、エヴァの発進準備を進めておく」
「まさか……手動でか!?」
「仕方あるまい、電源が無いのだからな。緊急用のディーゼルが使える」
ゲンドウはいつものように言い残しただけで、タラップを降りていってしまった。
「しかし……」
冬月の心配は一つではなかった。
「……何号機を出撃させるというのだ」
「……切羽詰まった事態だと言うのに、呆れて物も言えないとはこの事ね。
委員会直属の技術員の連中、零号機も弐号機も使えないって言ってきているわよ」
こめかみを押さえて、隠しきれない憤怒を必死に押さえようとするリツコ。隣で、その様子にやや怯えるマヤ。
「借り受けるだけ借り受けてオーバーオールが済んでないなんて笑わせてくれるわ。
私だったら今頃、出撃に耐え得るだけの改装は済ませている自信はあるのに」
おまけにリツコの腹に据えかねるのは、今日に限ってその技術員の大半が欠勤している事だ。
彼等は自分達と同じ技術員にしても、何処か陰湿で覇気がなく、生命力を感じない不気味な人間達だ。ネルフの部員達も彼等を煙たがって近寄る者はおらず、ネルフ内部では自然と所員の分断化が進んでいっている。
「構わないわ。私達の権限だけで行使できる初号機を使用します」
「先輩!? でも初号機は、まだ右腕が使用できない状態なんですよ!?」
補修途中の初号機は一応ケージに控えてはいる。使用も不可能ではない。
しかし、右腕だけが別所で改修中な為に、今の初号機には右腕そのものが欠落している状態だ。
「それでいいわね、シンジ君?」
眼下のシンジに確認を取る。シンジも黙って首を縦に振った。
「左腕一本で、戦ってもらう事になるけれど」
「構いません。行けます」
面構えのいい事だ。彼も戦士としての格を構えつつあるのだと、リツコは知る。
「これから大急ぎで発進準備に取り掛かるけど、一つだけ武装の追加があるから伝えておくわね。
左肩のラックに内蔵しているプログナイフが新型になったわ。それもノヴァスター君特注の品よ」
「覚えておきます。(あの人の仕込み技にはもう慣れたよ……)」
「それじゃ、私達もケージに向かうとしましょう」
「はい」
威勢の良い声を合わせながら、技術課員達がワイヤーを引き上げている。初号機から手動で停止信号プラグを抜き取るのである。それに引き続いて、同様にエントリープラグ挿入も手動で行われる。
「いざとなれば、人の力でもエヴァを動かせるものなのね……」
リツコが感慨深く呟く。いつもは電動で数秒で済む動作も、人の手に掛かれば数分掛かる。たったそれだけの事でも彼女にとっては、科学が世の全能にはなれないのだという事を再認識させられる貴重な瞬間だ。
「それよりシンジ君、いつも君の側にいる筈のノヴァスター君はどうしたの?」
「それが……」
「ち……俺もヤキが回ったモンだぜ……テメエみたいな若造にしてやられるんだからな……」
男は両目の光を失い血を滴らせながらも、断末魔の呟きを残そうとする。
全身を防護服に包んだ男を仕留めるには、顔を撃ち抜くしかない。一瞬の逡巡も死に繋がる以上、ノヴァスターは迷いなく男の両目を寸分違わず撃ち抜いたのである。
そして、決着はついたのだ。
「幾ら狙っても当たらねえ……一度そのコツを見習いたかったもんだぜ……」
「お前さんには到底真似はできねえよ」
その死を看取る為か或いは止めを刺す為か、ノヴァスターも男の側に歩き寄ってくる。
「なんでだ……?」
「何せ、俺には幸運の女神が付いているからな」
懐に手を添えて、今回も「彼女」の加護を受けられた事に感謝する。
「ちっ……アテにならねえ奴だ」
「だろうな」
ノヴァスターは喉で笑う。
「……お前がここにいるという事は、やはり『あの男』も此処に来ているという事だな」
「答える義理は……ねえなァ」
「聞かずとも分かるさ。一度は当たった壁だ、もう一度キッチリとけじめを付けとかないとな」
「それが……『テメエも』此処にいる……理由なのかよ」
「答える義理はない」
男の、クックッと不気味な笑い声。
「……テメエ一人で何が出来る。『あの男』は……本気で世界を変えるつもりの……クレイジーだ。
ヤツの親衛隊は俺以外にも……何十人と控えている……クレイジーにゃあ勝てる訳がねえ……」
「かつては世界七カ国を震撼させたテロリストが、随分と弱腰だな。阿附迎合の成れの果てか」
「自分の程度が把握できねえ奴が……バカなのさ。第一……あの男は……イデオロギーの塊だぞ?
東西の冷戦も……民族間の紛争さえ……セカンドインパクトで何もかも廃れちまったこのご時世によ……」
「違いないな。だがそれでも俺は戦うさ。あの馬鹿げた前時代的ファシズム思想家を、誰が看過できるものかよ」
「ケッ……折角の忠告だってのによ……つくづくバカな奴だ。
まあいいさ……俺は地獄の淵で……テメエを待ってる……せいぜい無駄に足掻」
パァン!
男は額に風穴を残して死に絶えた。
風穴から昇る一条の煙、肉の焦げる匂い、そしてマグナムを構えたノヴァスター。
「薄汚いお前と心中なんて出来るか。俺には護るべき者も、戻るべき場所もあるというのに」
男の死を確認した後、懐に手を差し込み、取り出したのは一つの証明書入れ。
それに同封されていた一枚の写真を確認すると、途端にノヴァスターの顔が綻んだ。
その光景は今し方人を殺したとは思えないほど穏やかであり、彼にとっては戦いに生き残った時の慣習だ。
「サンキュッ」
最愛の妻への感謝の言葉は、それだけで十分だった。
ノヴァスターは男の死体をその場に放り出すと、今度は横転していたワゴンに歩みを向ける。幸い中に乗っていた三人は、マコトを含めて全員死には至っていないようである。
それでも重傷者には違いない。ノヴァスターは急いで三人に応急処置を施すと、ワゴンから離れた自らの車に乗せ換えて安全を確保した。
「……どの道このワゴンはスクラップだな。とすると、」
好都合だ。ノヴァスターは今度は男の死体を掴むとズルズルとワゴンに引っ張り込み、
(……やっぱり常備していたな。物騒な奴だ)
男が懐に持っていた手榴弾の安全弁を外すと、急いでワゴンから離れる。
5秒も置くと、ワゴンは当然盛大な爆発と火炎に包まれ、黒煙を昇らせながら炎上する。
それは証拠の隠滅でもあり、同時に彼なりの手向けでもあった。
「……まだお互い身分は秘密で通さなければならないみたいだな。
なら、俺もしばらくはシンジ達のおさんどんで居る事にするか」
ノヴァスターは静かに呟くと、自らの車に戻る。
怪我人を乗せたシビックは今度は静かに発進し、ゲートの奥へと進む。
またしばらく、「本職」の出番は必要無さそうだった。
再び二人の前に現れる分岐点。アスカはいい加減苛立っていた。
「ンもう……また分かれ道。一体どっちにどれだけ進めば本部まで行けるのよ!?」
「……こっちよ」
ところが、レイは何かに吸い寄せられるように道を選び、ひたすら歩いていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
仕方なくアスカも続くが、レイが迷路のような回廊をすいすいと進んでいく事が、頭の片隅に疑問として残る。
どこまでも続くと思えるような、長くて暗い回廊。
ひたすら歩みを続ける二人の間に、言葉は無い。沈黙が苦手なアスカは、前々から疑問に思っていた事を問いただす事にした。
「ねぇ、レイ」
「……何?」
「レイは、ファーストチルドレンに選出されて以来、碇司令に特別可愛がられている、噂ではそう聞いたわよ」
「…………」
「一見冷酷で厳格なあの司令が、あなたにだけは笑いかける事もあるそうね。
それって、贔屓にされているって事なの? どうなのよ?」
「……贔屓になんかされていないわ。
それに、羨ましがるような事でもない」
「!」
今の言葉がアスカの癪にさわったのだろう。アスカはレイの前に回り込むと、機嫌の悪い表情をレイに突きつけるように立ち塞がった。
「今のは聞き捨てならないわ! まるであたしが、贔屓にされる事を嫉んでいるみたいじゃない!」
「……違うの?」
「違うわ! あたしはあたし自身が満足できるだけの成果が欲しいのよ!
だからエヴァにも乗るし、戦果も欲しいの! そうすればあたしは認められるのよ!
あたしが欲しいのは司令一人の贔屓じゃない、世界全体としての贔屓よ!」
「……どう違うの?」
「あたしはね、生まれながらのパイロットとして小さい頃から洗練されてきたのよ!
褒められる、認められる、贔屓される……それに見合うだけの努力を積み重ねてきたの!
だけど、ここにはそのあたしの努力をフイにしてくれる厭な奴がいる!
初めはレイ、司令に贔屓されているあんただと思っていた。でも違った。
初めこそノーマークだったサードチルドレンこそ、あたしの真の障壁だったのよ!!
このままだと、あいつはあたしから何もかもかっさらって行く。あたしにはそれが我慢ならないの!」
「……ならあなたは、何を願うの?」
「決まってるわ! あたしがあいつより優れた人間だという事を公に示したいだけよ!
あんなヒネた奴よりも、あたしの方が認められるべきチルドレンだという事をね!」
それがアスカの人生観とも呼ぶべき柱となっている。彼女が一人で生きる為に、不愉快な大人の手を借りずに生きようとする為には、それが不可欠だったのだ。そして、それを否定する事はアスカの母が死んでから後数年間の自らの努力と生の全てを否定する事……アスカはそれだけは何があっても出来なかった。
たとえその道程の途中で何処か違和を感じたとしても、その事で誰かに理屈じみた説教を説かれても、アスカはその生き様を変える術と、勇気を持ち合わせる事は出来なかった。
もし彼女がこの生き方を改めるには、生半可な方法では無理であろう。
それこそ、彼女の心に根ざすこの価値観を根底から覆す力が必要なのだ。
そしてシンジが罪悪を抱える部分こそが、その「覆す」力を図らずしもアスカに行使してしまった自らへの憎悪である。勿論、今の時点のアスカにもレイにも、それを知る術はないのだが。
「少なくとも、私は贔屓になんてされてないわ。……自分で分かるの。
何故なら、あの人の目には私は映っていない。代わりに私にとてもよく似た誰かを映している。
たとえ私を褒めてくれたとしても、言葉の上辺だけ。本当は別の誰かに話しかけている……そんな感じ。
自分が此処にいるのに、その自分を見て貰えない。なのにあの人の言葉と笑顔は私に安心をもたらす。
全ては欺瞞なの。自分が自分で居られる事も、その理由への拘りさえも」
「欺瞞……?」
「嘘で塗り固められたカラダとココロ……それが私。だからエヴァにも乗れる、それだけの事。
あなたが羨むような物は、私には何もないと思うわ」
「そんな……!」
何かとてもショッキングな事を聞かされたような気がする……それがアスカの正直な感想だった。
レイには使徒戦で大した戦果もなく、その割に司令に贔屓されているらしい……そんな噂がアスカの癪に障っていたが、それも何処かズレた見解であった事だけはなんとなく理解できた。
「……なんか馬鹿馬鹿しくなっちゃった。レイにあれだけ対抗心持っていたのがバカみたい。
事情はお互い似たようなものだったのね。
……でも、サードはどうなの?」
「碇君?」
「あいつこそ、使徒の再来以来華々しい戦果なのよ。司令はあいつをどう思っているの?
聞くところによると、司令とあいつは親子らしいじゃない。そこんトコどうなのよ!?」
レイに食いかかるように問い詰めるアスカ。そして答えにくそうなレイの表情。
「……司令は碇君を自分の子供としては一切扱っていないわ。
そして、碇君は司令が父親である事を忘れようとしている……いえ、その事実を捨てようとしている」
「決裂している訳ね。あの親子らしいわ」
「…………」
それでも、レイは迷っていた。
いつだかシンジが自分に向かって放った言葉をレイは思い出し、心の中で幾度も反芻していた。
(……彼は、「絆」という言葉を使った。そして、その大事さを私に説いていながら、その言葉を自ら辱めた。
彼は分かっている筈。「絆」の温もりを。それでも「忘れた」と言うのは、その感情を捨てようと思っているのは……)
「彼は……」
そんな事しなくたって、綾波さんを見てくれる人は居る。
そんな兵器に乗るだけが、君の全てじゃない筈だ』
「彼は……」
でも今までは、誰も君のそんな心に気付いてあげられなかった筈だし、君も誰の温もりも求めなかった。
だけど君は本当はとても寒がりの筈だ。誰かに見守って貰えないと、誰かが抱き締めてくれないと、
誰かの温もりを抱いていないと、生きる事に耐えられない筈なんだ』
「彼は……」
でも……その温もりも、心の絆も、エヴァを通してでしか求められないなんて、絶対嘘だ。
そんなのは幻想だ。今持っている、自分の脆い温床を守り通したいだけの、欺瞞なんだよ』
「彼は……」
エヴァでしか生きられない事が、エヴァだけが心の拠り所なのが、
いかに虚しくて寂れていて悲しい事かを、君と……彼女に、見せつけるんだ。
エヴァに阿る人生が、如何に惨いかを』
「彼は……」
君は、その絆を心の中でしっかりと『護れば』いいから。
それだけでいいから、だから無理はしないで』
「彼は……」
満月の輝く夜、戦場の張りつめた空気の中、シンジが語った真実の一端。
湧き出るようにレイの脳裏を掠めていくシンジの言葉―――決意の形。
「彼……サードがどうしたっていうのよ!?」
「碇君は……私達を知っている。でも私達と溶け合おうとして……出来なかった人」
「レイ!? 何を言ってるのか訳わかんないわ!?」
「彼は……知ってはならない真実を知ってしまったの。
そして、自分の可能性の全てに絶望してしまった人……」
「レイ!? レイ!!」
何かに取り憑かれたかのように譫言で語るレイが怖くなったのか、アスカがレイの肩を必死に揺する。
実際、レイも震えていた。何か目に見えない存在が自分にもたらす不可解な恐怖に、囚われていた。
「全てに絶望しても尚生きる……死以上の苦痛を抱えて生きる彼の決意が、私には怖い……」
「!?」
「温もりを捨ててまで戦える自信が私にはない。でも、自分の矮小さに納得できる程強くも弱くもなれない。
私は、か弱く強く生きる人間にはなれない……そう宿命付けられた魂が此処にあるから……」
「レイ……あんた……」
「……行きましょうアスカ。ここは、立ち止まるべき場所じゃないわ」
「え? う、うん」
それからは二人の間に本物の沈黙が続いた。
レイが立て続けに言い放った、意味深な言葉の羅列が頭の中で噛み砕けなくてひたすら戸惑っているアスカと、まして自分の発言の深さを確信できず、自分自身を何かに投影する事も何故か身体が恐れてしまうレイ。
互いに、自分が真実の一端を掴んでいる感覚が生半可にあった。だから余計に戸惑う。
そんな自分の全てを否定してもらえたら、いっそ楽だったろう。だがそれを二人きりでは成せる筈もない。
でもシンジには、もしかしたらその可能性があるかも知れない……刹那二人が同時に考えたのはそんな事。
レイは、第五使徒戦の時のシンジの言葉が今頃になって実感が湧く事を知る。
『絆』、『エヴァ』、そして『護るべき物』……深淵に埋まっていたその事実に爪先が触れた気がしてならないのだ。
そう、彼は何かを知っているのだ。そして、それを自分達に伝えようとしていた。
いかに虚しくて寂れていて悲しい事かを、君と……彼女に、見せつけるんだ』
あの時の「彼女」という言葉は、もしかすればアスカの事を指しているのではないか……そうも考える。
だとすれば、生来ネルフに居るレイでさえ風聞でしか知らなかった彼女を、シンジは何処まで看破していたのだろうか。
「……痛い」
今日は考え事が多すぎたのか、さっきから知恵熱と頭痛を感じるレイだった。
だがアスカの心境としては、レイほど許容的にはなれない理由が目白押しであった。
サードチルドレンは、自分が数年掛かりで築き上げたアイデンティティを崩壊させかねない天敵であり。
毎回毎回厭らしい戦果の奪い方、そして戦闘後は限って不敵に勝ち誇り自分を貶める憎き存在であり。
あれは絶対に故意であり、生来の性格ではなく別の何かを以てして自分を貶めそうとしているという思い込み。
余りに危険なのだ。サードと居ると自分が自分で居られなくなるという絶大な不安。
即ち「アスカ」という個の存亡の危機。それは本能で忌むべき物。
「……いつか絶対、あいつは排除してみせてやる。あたしの心からも、この世界からも」
アスカの心底に、人知れずどす黒い悪意が芽を吹き出し始めていた。
そしてそれはアスカの深層心理にある防衛本能が過剰に刺激された結果として、彼女をある程度以上深く知る者ならば、誰にでも容易に予想が付く結末でもあった。
そう、アスカという少女の脆い心の一面を本当に知る者ならば、誰にでも。
二人の前にまたしても障壁。
巨大な扉はセメントで塗り固められており、到底二人の細腕で何とか出来る代物ではない。
「……もう呆れて言葉も出ないわ。レイ、どうしよっか?」
「仕方ないわ。あの通風ダクトを破壊して、そこから進みましょう」
「レイって涼しい顔して結構荒技に頼るわねぇ」
「……形振り構っていられないもの。私は弱いから」
思い詰めたように語るレイ。神妙な顔で聞くアスカ。
ゲンドウは自ら技術課員数人を駆って、ワイヤーの牽引係を買って出る。
全長数メートルのエントリープラグを一本挿入する為に使われる人体の労力は甚大であったが、司令自らが率先して働いているという事が発令所の士気を高めている為にか、彼等からは先程までの困憊した表情は払拭されていた。
「これをカリスマに基づいた統制力と呼ぶべきか、庶民的な触れ合いと呼ぶべきか……」
司令席の冬月はそんなゲンドウの姿には幾分の新鮮さがあったようだった。
「プラグ、挿入準備完了しました」
ケージの様子を双眼鏡で肉視確認したマヤが伝達する。
「シンジ君、準備は出来たわ。片腕しかない不完全な状態の初号機を任せる事になるのは悔しいけれど、
あなたのその戦闘センスを見込んで頼らせて貰う事にするわ。頑張って」
「……分かりました」
張り詰めた表情のシンジは、既にプラグスーツ姿に身を包んだ万全の体制であった。
呼吸も今では落ち着いている。これから戦いに赴くとは自分でも思えない程感情も穏やかだ。
使徒が眼前に迫らなければ気が引き締まらないのか、それとも気が緩んでいるのか。シンジは怠慢になっている自分に耐えきれず、両頬を叩いて気を引き締める。
「初号機、出撃します!」
「よし、ケージ発進準備を進めろ!」
息子の気合いに合わせたかのように、ゲンドウの太い声がケージ全体を揺るがす号令となった。
緊急用ディーゼルを用意し、シンジの乗りこんだエントリープラグを挿入する。
「初号機、補助電源にて起動完了」
「第一ロックボルト、外せ」
今度は拘束具の圧力シリンダーを調整しているオイルパイプを、手斧で次々と両断していく技術課員達。
「二番から三十二番までの油圧ロックを解除」
「圧力ゼロ。状況フリー」
「構わん。初号機、実力で拘束具を強制除去!」
ゲンドウの英断で、初号機は左腕一本でミシミシと音を立てつつ拘束具を無理矢理身体から引き剥がす。
「! 初号機の左腕が!?」
それは発令所のどの位置の誰にでも肉眼で確認できる物であった。初号機の腕部の筋肉がみるみる肥大し、片腕とは思えない程の力で拘束具を簡単に引き剥がしてしまう光景。
(……シンジめ、本来白兵戦闘用ではないエヴァをよくぞここまで……)
ゲンドウは不思議な感慨に捕らわれる。戦いを好まない穏和な、悪く言えば逃げ腰な性格の筈の息子が、気が付けばエヴァをまるで手足のように、戦闘用として手慣らしてしまっている事への違和感と期待感である。
自分が息子の目的意識を強く信じていたなどという話をすれば、臍が茶を沸かすのだろう。
それでも、あれはもしかすれば強くなれたと呼べるのかも知れない。本人が望んだ形とはかけ離れているのだろうが、それでも強さは男にとって何よりの宝だ。
(強ければ護るべき物も持てる。大事な存在も側に置いておける。望む未来が開ける事もあろう。
だがお前は何故戦う。何がお前をそこまで変えたのだ……それはユイでもゼロでもあるまいに……)
自分に出来る事は出来るだけやった。後は、息子を酷使する役割しか残っていない。
「出撃しろ!」
それしか息子に掛ける言葉がない。なのに何故自分は父親になれたのだろうか……自分は強くもなく、掛け替えのない者さえ失ったというのに。
その足が床を強く踏みしめ、暗室の中エヴァはその雄姿を地にそびえ立たせる。武装ラックからはパレットライフルだけを選出し左手に携帯する。
「非常用バッテリー搭載完了!」
「よし、行けるわ! 発進!」
いつもはミサトの決め台詞も、今日は代理のリツコだ。
そのまま初号機はエヴァ用補充部品運搬用の横穴を伝って出撃する。無事に出撃させられた事に安堵する発令所の面々の中で、余裕の出来たリツコはふと思い立つ。
「そういえば……この非常時にミサトは一体何処に居るのかしら」
ゲートを塞いでいた扉は無理矢理蹴破り、初号機は縦穴に出た。
その縦穴の直上は本来都心部へ通じる筈だが、そこには既に使徒が待ち構えており、こちらは直下へと攻撃を仕掛けるべく強力な溶解液を次々と垂れ流している。
「この直下は……まずいな……」
時間が惜しい、シンジは素早く敵を倒すべく考えを巡らせた。
(初号機単機であれを倒すとなると……おまけに左腕一本のハンディ。それに『アレ』はまだ未完成……。
前例に沿ってこのパレットライフルを持ち出したはいいけど、活用法は……!)
自らATフィールドを中和して撃破する。これがライフルを一番有効に活用できる。今迄の戦闘ではATフィールド自体を攻撃に活用するのが常だったが、今回は飛び道具に頼るが幸いだと考えた。
(それと、新装備があったっけ……)
左肩のウェポンラックから静かに取り出したのは、いつもの二倍はあろうかという大型のプログナイフ。だがナイフというよりはむしろ「鎧通し」のような印象を受ける肉厚な形に仕上がっている。
(いつもの右手の代わりにはならないだろうけど、これを……)
縦穴の壁に突き刺して壁際をよじ登る事が出来る為、穴の中心部を滴下する溶解液もおかげでほとんど食らわずに済む。
(このままATフィールドを中和できる地点まで近付いて……)
やがて、使徒を射程内に捉えた。
「ターゲットロック……発射!」
パレットライフルがあらん限りの火力を直上に注ぐ。
器官部分をひたすらに蜂の巣にされた使徒が崩れ落ちるのを確認すると、シンジは静かに溜息を付いた。
「思ったより戦えるのも、僕の才じゃないな。自惚れるにはまだ少し早いのだろうけど……」
壁に突き刺した改良型のプログナイフが、まるで自分の信念さえもしっかりと支えている柱のようで不思議だった。
「ちょっとレイ!? なんかこっちは行き止まりになっているわよ!」
「……おかしいわ。この辺りの筈」
二人は通風ダクトを無尽蔵に彷徨いつつ、発令所付近を探っていた。
実際はこの時点で発令所のすぐ真上に来ていたのだが、光のないダクト内でそれに気付く筈もない。
むしろ、ダクトの直下にいたリツコとマヤが天井部の騒音に気が付く程である。
「先輩、何か人の声が聞こえますけど……」
「……まさかとは思うけど。レイ、アスカ! そこにいるの!?」
リツコに問い掛けられて初めて、二人は自分達の居場所を把握できた。
「……赤木博士」
「ビンゴォ! やったわね、レイ!」
アスカはレイと顔を見合わせ喜びを露にする。釣られてかレイも心なしか表情が穏やかだ。
二人はダクトの一部を蹴破ると発令所の床に揃って華麗な着地を見せた。
「あなた達、どうやってここまで!?」
「へへん、レイの道案内とあたしの勘の賜物よ!」
「それよりも、使徒」
「あっ、そうだった!?」
発令所に向かうべき目的がいつの間にか少しずれていた為に、アスカが思い出したように叫ぶ。
「使徒! 本部の直上で使徒を見たのよ! 出撃しなきゃ!」
「落ち着きなさい。使徒なら既に撃破しているわ、シンジ君がね」
「!」
見れば、内蔵電源に余裕を持たせ初号機がケージに自力で帰還している光景が二人に見える。
それを見たレイは何処となく安堵した表情、反面アスカは一気に機嫌が悪くなる。
(またしてもあいつなの!?)
そうなれば、煤にまみれて迷路を彷徨っていた自分達が滑稽でしかない。感情がレイを同志として抱き込む反面、シンジに対する嫌悪感だけはより増大してしまう。
瞬間、アスカはケージに向かって駆け出していた。
「……いけない」
アスカの背中に不穏な感覚を感じたレイが、後に続く。
エントリープラグから、全身に粘着質のLCLを纏ったシンジが姿を現す。回収班がシンジに駆け寄ろうとするその横を、蜂蜜色の髪を棚引かせた少女が駆け抜ける。
やっぱり来たな。シンジはそれだけ思った。
もう何度目だろう、こんな姿の彼女を見据えなければならない羽目に陥るのは。こっちの世界では出会ってからたった三ヶ月にも満たないが、彼女と軋みあう事が既に使徒襲来の度の恒例と化している。
そもそもの業は自分にある。今更責任も罪状もあった物ではない。これが自分の選んだ道なのだ、もしこれが原因で明日に呪い殺されたとして、至極粗末な命運の尽きに過ぎない……だがそれもシンジ自身の中の世界だけの話。
それら全てのシンジの感情を知る術無く、アスカはシンジに凄まじい形相で詰め寄る。
「……君に酷評されるような事をした記憶は無いんだけどな」
アスカが何を喋るよりも早く、シンジはアスカの言葉を完全に封じた。
弐号機が出撃不可能だったとか、ネルフ自体の不備の事態だとか、そんな理由にも意味はない。
今し方生じた真実は、使徒の襲来の間に合ったシンジは使徒を仕留め、遅れたアスカとレイには出番は無かった……それだけの事。アスカもそれを分からない程周囲に盲目している訳ではない。
だから何も言えなくなって、より一層シンジを強く睨み付けるだけ……アスカは敗北宣言を伝えているようなそんな自分自身が厭だった。
(これは、そのうち背中から刺されそうだな)
シンジは、興味のない株相場の下落を評価するかのようにサラリと割り切った。
その険悪な雰囲気を払い飛ばすような激しいエンジン音が、突然発令所を襲う。
シンジはその音に聞き覚えがあった。もはや市販車の面影を残さないあの哀れなシビックのエンジン音だ。
先程のシンジ同様、荷物運搬ゲートから颯爽と現れたシビックが豪快なドリフトと共に停止すると、その運転席から現れたのは勿論ノヴァスターその人だった。
「青葉さん、救急班を急いで寄越してください!
日向さんと市民二人が怪我をしているんです!」
「マコトが!? わかった!」
同僚のシゲルが、その足でいち早く医療班に伝達に向かう。先日バンドライブを手伝って貰った経緯からか、シゲルはノヴァスターに好意的だった事もある。
ややあってシゲルは医療班を収集し、急いで発令所に戻ってきた。担架を三つ用意すると、応急処置が施された三人を次々乗せていく。
「車が横転して、その拍子に頭を打っている筈です。安静に運んだ後で脳波検査を……」
「分かりました」
手短に状況と症状を説明すると、ノヴァスターは医療班に三人を引き渡した。
使徒の殲滅も職員に聞き、これで肩の荷が下りたと思ったのかノヴァスターは伸びを一つ。そしてシンジ達チルドレンの姿を確認すると、そちらに足を運ぶ。
膠着したシンジとアスカの間の空間と、アスカの後ろに寄り添う形で控えているレイ。互いの微妙な雰囲気を察しつつも、ノヴァスターはその空間に無謀にも足を踏み入れた。
「シンジ、無事だったか。頑張ったな」
「ノヴァスターさんこそ、生きてたんですか!?」
「なにをぉ!? 人が折角都合利かせてやったってぇのに、勝手に殺すなこのガキャ!」
ノヴァスターは素早くシンジの背後に回り込むと、例の「こめかみグリグリ攻撃」でシンジを激しく責め立てる。シンジがこれを食らうのは船上時以来だ。
「うわっ!? 痛たたたっ、止めてください!!」
「この悪辣小僧め、怪人サングラス男の制裁を受けよ!」
その言葉は勿論自分達をおかしく揶揄しただけの他意のない言葉だったが、それを間近で見ていたレイやアスカはその言葉とも相成って、この状況であるべき自分達を思わず見失ってしまう。
「うわっ、こいつLCLでベトベトしてやがる! 気持ちワル!」
「このおっ、いい加減止めないか! そんなにベトベトしているんならいっそ擦り付けてやるよ!」
今度はシンジが、振り返った先のノヴァスターの服目掛けて身体を擦り寄せた。その後ろでアスカやレイが見ている事も、さっきまでそのアスカと険悪な雰囲気であったことも一瞬だけ綺麗に忘れ去り、彼は無邪気な意志で反撃に出たのだ。
「汚ね、こんにゃろ! 離れろ、離れろ妖怪ベタベタ小僧!」
今度はノヴァスターがシンジを引き剥がそうと努力する番だったが、
「毎回毎回怪しい事ばかりしてくれる! たまにはいい薬さ!」
執拗に擦り寄ってくるシンジに苦戦している。
「うーっ、いいからシャワー浴びてこないか、お前はコノッ!!」
二人は激しく取っ組み合いながら足をもつれさせつつ、連れ立って回廊の闇へと消えていく。
後にはあまりの滑稽な光景に唖然とした職員達と、
(……逃げられた!)
(変な人。不思議な人。奇妙な人。可笑しな人。怪しい人。……あなた誰?)
してやられたと知ったアスカと、彼との世界観の違いを痛感するレイが残された。
「なんて彼らしいスキンシップな事っ」
唖然としている職員達の中、只一人ノヴァスターを深く知るリツコだけは微笑んでいた。
「……助かりました」
「なぁに、いいって事よ」
『意味のない事はしない主義』―――いつからかすっかり聞き慣れたノヴァスターの口癖を思い出しながら、シンジはノヴァスターに感謝の意を示した。彼は単に自分に絡んだのではなく、あの場の険悪な雰囲気から自分が抜け出しやすくなる為の小芝居なのだと察する洞察力を、シンジ自身が身につけ始めた証拠でもあった。
「最初にネタを振ったのはお前の方だろ? だいぶ話が分かってきたじゃないか」
「嫌でも慣れますよ。こんな生活続けていれば……」
「そうか、それはすまなかったな。……おっ!?」
「!」
その瞬間、天井のライトが次々と点灯していく。どうやら本部内の電源が復旧したようだ。
「これで、心配は要らなくなったか」
「……それにしても、どうして停電なんかしたんだろう?」
「気になるのか?」
「それは……そうですよ」
(前だって結局その原因は分からずじまいだったんだ。犯人の見当はついてはいるけど確証はないんだし……)
それはシンジの心の中の呟きだったのだが、神妙なその横顔が物語る物はノヴァスターにもそれとなく伝わっていた。
「さて、それじゃ二人ともサッパリする為に、風呂にでも入りに行くか!」
「こ、これからですか!?」
「そ。これから」
ネルフ本部には一応の大浴場が存在する。電源が回復さえすればここから距離も遠くない。
「風呂は命の洗濯だ! 戦いの疲労はお湯で流そうぜ、そーらレッツゴー、レッツゴッ!」
シンジの肩を抱き寄せながら、いつも通りお気楽極楽なノヴァスターがそこにいた。
だが、シンジは気付いていた。そうやってノヴァスターの成すがままに身を寄せていると、自分にこびり付いたLCLの血の臭いに混じって、ノヴァスターからかすかに硝煙の匂いがする事を。
(火薬の匂い……やっぱり、彼は……)
撃ったのか、あの男を。それだけがシンジの気掛かりだった。
この脳天気な男が人を殺してきた(筈に違いない)という事実が、まだ彼にとっては遠い認識だった為である。
「……ところで、俺達なーんか忘れてないか!?」
「?」
「ンもぉ―――っ!! なんで開かないのよぉーっ!!
非常事態なのよぉ! はぁっ、も、漏れちゃう……ううっ!!」
密閉されたエレベーター内部、停止してかれこれ二時間が過ぎた室内では、ミサトが激しい尿意を催していた。
加持の肩を借り、なんとか必死の思いで天井のハッチを開こうとするが一向に開かず、ミサトの我慢は限界に近付いていたのだ。そんなミサトを見上げる加持の視線は、百年の恋も冷めたと云わんばかりに悲しげな物であったが、だからと言って「ここで用を足せ」とも言える程には女性に絶望も出来なかった。
「コラ! もう上見ちゃ駄目って言っているでしょう!?」
肩にミサトを乗せた初めの頃は「感動的な光景だな、葛城」などとからかっていた自分も今更に小恥ずかしい。
「はいはい……おぉっ!?」
そんな時、刻を同じくしてエレベーター内でも無事に電源が復旧する。ところが突然電力を得て動き出したエレベーターにバランスを崩し、二人の人間タワーは見事に崩れてしまう。
「とっとっと、あーっいたっ!!」
「やっ、あっ、ちょっちょっとやーっ!!」
重なり合うように床に倒れ込む二人。タイミングの悪い事にその直後に開く扉。
しかもエレベーターを待ち合わせていたのはリツコとマヤ。勿論その光景は二人の視界にまざまざと入り込んでくる訳で。おまけにミサトは暑さのあまり上半身は肌着姿。
「ミサト……発令所のゴタゴタも知らずに、男と密室にランデブーとはいい根性じゃない……?」
「あ、アハハ……リツコ」
「あ、いや、そのこれは違うんだよ、リッちゃん!」
二人が必死で誤魔化そうとしても、状況証拠がどうにもならない。
「……不潔ッ」
「マヤちゃんそれは誤解なのよぉ〜〜〜〜〜〜〜〜!」
「「「!?」」」
「!」
四人が一様に振り返ると、そこには見慣れぬ白衣姿の人物達が四人、立っている。
その先頭に立っている女性が、今の発言者らしい。端正だが何処か妖艶で冷淡な顔立ち、リツコ同様白衣姿が綺麗に着こなされており、紫色の髪と不思議なマッチを示している。
歳の頃はミサトやリツコと殆ど差は無いと思えるが、惜しむらくは化粧がやや濃いところか。
「誰っ!?」
一方で急いで服装を整えながら、ミサトはその白衣姿の連中を問い質した。尤もミサト達が顔を知らないと言う事は大方委員会直属の技術部員だろう。
「説明が遅れた。私は人類補完委員会直属、E量産計画担当副主任、イリア=ラブルガード。
今回先立って此処に派遣した部下の仕事の遅鈍ぶりが看過できぬ事と、
それとは別件の辞令を委員会議長より直接承って、この度ここネルフに赴任する事となった。
赴任したはよいが、転勤早々使徒の襲来とこの停電。やっとの思いでここまでくぐってきたところだ。
早速だが、碇司令に取り次ぎ願いたい。司令は何処か」
「司令でしたら司令室です」
不躾に答えたのはリツコだ。彼女なりに溜まっていた委員会傘下の技術員に対する鬱憤が、心の中で内燃しているのか、珍しくその表情は激情に駆られかけている。側でその横顔を見ていた三人にとっても、それぞれ思いも寄らぬリツコの一面を見たといったばかりの表情である。
「……赴任早々嫌われたものだな」
「あら、私は別に何も言ってはいませんが」
イリアの方も売られた喧嘩は買うつもりなのか、眉間に皺が寄っている。
だが場が更に険悪になりかけたところで、加持が仲介として割り込んだ。
「まあまあ双方とも、ここは落ち着いた落ち着いた。
彼女は俺が司令室まで案内しよう、リッちゃんは葛城を連れて仕事に戻ってくれ」
「……分かったわ。客人の案内、頼んだわね」
リツコはそれだけ言い残すと、マヤとミサトを連れだってエレベーターへと消えた。
「復旧が思ったより早かった。もう少しでMAGI如きに捕捉されるところだったぞ」
「申し訳ありません。だいぶ手間取りましたよ、ネルフのシステムはやはり手強いですな」
「茶化すな」
電源が戻っても相変わらず暗い回廊を、加持とイリアが並列で歩いている。残り三人の白衣姿の男達も異様な雰囲気を醸し出しながら二人の後を続いている。随分と殺気立った技術員達だが、途中で擦れ違った職員にはその殺気にまで気付いた者はいなかった。
「議長が焦れていたぞ。仕事ぶりは出来ているのだろうな?」
「承った仕事は逐次遂行していますが」
「その成果だけがお前の価値の判断基準なのだ。忘れるな」
「……了解」
加持に一つ釘を差したところで、イリア達は司令室の扉が見える位置まで到着していた。
「お前はもう戻って良い。貴様達も技術員達と合流していろ」
加持と部下は散開させ、自らは一人、司令室に赴きその厚い扉を叩く。
「……入りたまえ」
「失礼する」
「君とは初めてお目にかかるのかな、ラブルガード殿?」
ゲンドウは相変わらず両手を口の前で組み、横柄な態度でイリアと対峙するが、一方のイリアもそこは似たような物で、自分のバックボーンを象徴するかのように不敵な表情であった。
「イリアで結構。早速ですが、」
イリアは懐から辞令書を取り出し、調度の上に差し出した。
それを受け取ると一通り目を通し、フンと鼻を鳴らすゲンドウ。
「つまりは君は我々ネルフのお目付役という所か。御苦労な事だな」
「監査待遇はそれほどに不服ですかな?」
「部下の不始末を見られるのは、誰でも気持ちよい物ではあるまい」
「……なるほど、その件に関してはこちらが失礼をしました。
しかし私が来た以上は部下にも性根を入れさせるので、御心配無く」
「期待している」
上辺だけの期待。だからこんな言葉が出ると途端に二人の間の空気が重くなる。冬月などはゲンドウの側に居ればこんな事は慣れている為か殆ど動じない。
「それと、その辞令書にある件、ご承諾願えますな?」
「…………」
ゲンドウはもう一度だけ辞令書に目を通す。もしこの項目を承認するとなれば……。
「……良かろう。君は現時点で三佐待遇でネルフに赴任だ。これで宜しいか?」
「結構」
イリアは艶麗な笑みを浮かべた。それはゲンドウの最も好かない類の顔だった。
「では翌日、ブリーフィングを開きます。発表はその時に」
「彼女には後で私からも伝えておこう」
やや渋ったように応じるゲンドウ。
「……これで完全にあいつのシナリオが軌道に乗った訳か」
「? 何か」
「いや、独り言だ。君は下がって宜しい」
「碇」
「分かっている。我等はあと少しで乗り遅れるところだったという事だ」
「それも彼のシナリオか。彼もなかなかどうして計算高い男だな」
「冬月、お前は何も分かっていない……」
ゲンドウは懐から煙草を取り出すと、わざわざマッチで火を付けて吸い出した。
機嫌が良いとき、或いは極度に悪いときだけ彼は煙草を口にする。冬月は今回は前者だろうと読んだ。
「あれは只のお人好しだ。そう、時代の業が遣わしたお人好しだよ」
「神に魅入られた?」
「違うな。あれこそ天賦の才能よ。天より遣わし裁定者……そんな呪縛から解き放たれた、その瞬間からな」
「ならば、我々は誰に感謝するべきなのだ。人の世を救いしその福音を」
「そんな大仰な物ではない。お前は何でも誇大に物事を取ろうとする……」
ゲンドウが何処となしに微笑みながら、吸い出して間もない煙草を揉み消した。
「所詮、人間の敵は人間だ。しかし、希望の光もまた、人の心の中にあるのだよ」
「……お前の台詞とは到底思えんな、歯が浮いて仕方がないぞ。誰の受け売りだ、ユイ君か?」
「……かもしれん。ユイの願いが真の姿で具現化した形こそ、あいつそのものなのだからな」
ならば、私は何時になればユイの幻から乳離れ出来るのだろうか……ゲンドウは今でも、自我を彷徨い続けている。
翌日。総合作戦司令部に収集されるネルフの要人達。
立ちつくしているイリアからフロアモニターを挟んで向かい合う面々は、ミサト、リツコ、マヤ、シゲル、アスカ、レイ、シンジと続く。
イリアが何やら自らのファイルを整理している間、ミサトとリツコが小声で話している。
「それで、日向君の容態は?」
「大丈夫、頭を強く打っていたけど脳波検査に異常は無し。
出血だけは激しかったから、輸血を受けて今はICUで治療を受けてるわ。見立ては全治三週間」
「そう……良かったわ」
「後でお見舞いに行ってあげると良いわ。それと、運んでくれたノヴァスター君にも感謝しておきなさい」
「……そうね、そうするわ」
マコトの負傷は業務上の過失であると処理され、炎上していたワゴンから発見された死体は武装した兵士とは判明したものの、遺体の損傷が激しく身元の判明までは到底不可能だった。
それはノヴァスターの隠蔽工作と呼べる物であったが、彼にとっては必要悪に迫った末での選択である。
その時突然イリアが振り返り、慌てて畏まる一同の前で口上を始める。
「さて、本日君達に集まって貰ったのは他でもない。
私は昨日付けでネルフ所属、イリア=ラブルガード三佐として就任した事を此処に正式に伝達する。
今後技術課の一部と作戦課を私の傘下として指導する事になった。これは碇司令の認可済みでもある。
諸君達も以後私の権限が、実質ネルフのNo.3であると承知した上で私に仕えて貰いたい」
なんとも横柄な就任挨拶である。その言葉を受けて、ミサトとリツコの顔が彫り込まれた胸像のように険しい。
「そして私が赴任した暁には、まずネルフ所属の所員と士官の大幅な人員整理を行う。
噛み砕いて言えばリストラだ。私は結果を出せない人間に用はないのでな、
使えないと判断した人材は容赦なく切り捨てるつもりでいる」
アスカの顔色が酷く悪い。「使えない人材は容赦なく切り捨てる」その言葉にわなわなと肩を震わせているのが、横に肩を並べていたレイやシンジにも明確に見て取れた。ましてアスカの正面に立っているイリアが気付かない筈がない。
「待ってください!」
「……なんだね、カツラギ一尉?」
イリアの慈悲のない言葉に思わず一歩踏み出していたミサトは、引っ込みが付かずそのままイリアに反論した。
「作戦課の接収とはどういう事ですか? 私は聞いていませんが」
「言った通りだ。うちの配下にも無能は多いが、まして此処の作戦課は目に余る。
人員整理も大半は作戦課の人事異動だと思いたまえ」
「うちの作戦課が役者不足だと、そう仰りたいのですか、あなたは!」
「……この際はっきり言っておく必要があるようだな。
人事異動に先駆けて、私が真っ先に首を切りたいと思っているのは……ミサト=カツラギ、お前だ。」
「!?」
今度はミサトの顔色が青ざめている。自らの顔から血の気が引く音を聞いたかのように、全く硬直して動けないミサト。
その隣りに控えていたリツコ達一同も驚愕の表情を浮かべる。それはこの場合シンジとて例外ではなかった。
「昨日、私は人類補完委員会直属の人間でもあるとも言っていた筈だな。
勿論使徒襲来以降のネルフの活動に関しての詳細には、一通り目を通し逐一委員会に報告している。
その結果委員会は、カツラギ一尉が職務の十分な行状を果たしていないと判断、私を交代要員として派遣した。
無論お前にはこの決定事項を拒否する権限など無い。おって碇司令から正式に降格の通達があろう」
「そ、そんな……!」
ミサトは膝を崩しそうになる自分を必死に保ってはいたが、その衝撃は余りに大きい。
自分の築き上げてきた行動理念―――「使徒に対する復讐」という不毛な目的意識―――が音を立てて崩れ去っていくようで、ミサトは自分がネルフで積んできた数年間の功績が全て吹き飛んでしまった事を思い知る。
そして、その傍らでアスカは震え続けていた。恐らく次は自分の名前が呼ばれるのではないか……と。今のアスカにとって自らが無能呼ばわりされる事は何よりの恐怖なのだ。
「心外だと言いたげな顔付きだな、カツラギ一尉。だが、お前は自らの戦歴を考えた事があるか?
第三、四使徒戦では部下の独断専行を許し、自らは大した指揮能力も発揮せず、
第五使徒戦では日本中の電力を徴発し、日本国の経済を丸半日封鎖という能率の悪い作戦立案。
第六使徒戦でも教訓は生かせず、自らが戦地に赴いていながら戦艦六隻をみすみす消失。
第七使徒戦の戦果はまあ及第点としても、第八使徒戦では大分エヴァを粗末に扱ってくれた物だ。
揚げ句今回の使徒の来襲時のザマは言うに及ばず、職務怠慢も甚だしいとはこの事だ。
その癖ネルフの職権だけは厚顔無恥で至る所で乱用。大方、届く抗議書も梨の礫にしているのだろう?
……どうだ、貴様の自己責任能力の無さに何か申し開きが出来るのならしてみるがいい」
「……あ、ありません……」
虫の鳴くようなか弱い声で、ようやくそれだけを答えた。昨日の醜態を直に見られた時点で、既にミサトには言い返せる隙など存在しなかったのだ。
「当面は、日向マコト二尉の代理として私の補佐に付け。それでも使えぬようなら貴様は免職だがな」
そんな屈辱にさえも、黙って頷くしかないミサト。呪わしい自分の身さえもなまならずに。
「どうした? 返事が聞こえないのだが?」
「は……はい……了解です……っ」
(ミサト……)
リツコは、そんなミサトの様子が見るに忍びなかった。
イバラの道を歩み続けてきた女性の、その自我が挫かれる時が訪れたのだ。
二十五章後編、公開です。
イリア=ラブルガード。この女性がこれ以降のストーリーの核心的なキャラの一人です。
年齢は(推定)29歳、出身は西欧系の富豪家の末裔であり、有能ですが結果主義で胆汁質な性格という設定です。
次章からネルフは彼女を中心とした体制で再編成され、使徒との戦いに挑む事になります。作戦指揮にも技術工学にも長けたイリア、果たして彼女の存在は今のシンジにとって吉と出るか凶と出るのか。
ちなみにミサトは、負傷して入院中の日向君の代わりに代理のオペレーターとなる予定です。階級も二尉に格下げ(爆)原作なら昇級していたはずなのに……。
次回はいよいよ対サハクィエル戦。シンジの修行の成果が問われる戦いです。
天より降ってくる驚異に対し、シンジはその右腕で一体何を成すのでしょうか。
それでは、また次回……。
エヴァにバーニアがあったなんて私は初めて知ったですよ(^^; > 壱拾壱話のワンシーン