第七使徒戦の事後処理も終わり、いくらか仕事に余裕のできた第一発令所。そこに、憔悴しきった表情のミサトが頭を抱えながら姿を現した。
「呆れた。また二日酔い?」
こんな事は今日に限った事ではないので、リツコが呆れ果てるのも毎度の事である。一応仕事が始まれば表情をキリリと締めては見せるものの、顔色の悪さは隠せない。
「……今度からビールは減らす事にするわ」
ミサトが、仕事の合間にぼそりと呟いたのを、リツコは聞き逃さない。
「また無駄な禁酒宣言? 前回は何日で解けた事やら」
「今度は本気よ。そうでなかったら部屋が腐海になるわ」
「……部屋の掃除くらいしなさい」
「暇がないのよぉ、ここんとこ。アスカも嫌だっていうし」
「まったく、あなた達何の為に同居してるのやら……」
リツコは呆れ果てた声を出しながらも、口元はいつの間にか不敵に微笑んでいた。
(成る程、予定通りだわ)
「それなら、家政婦でも雇えばいいじゃない」
「そんな余裕あーるわけないっしょ? 壊れた車のローンと家賃だけで火の車よ!
大体、あの部屋の惨状を見たら家政婦だって逃げるわ」
「自慢にしないの、そんな事!」
「ア、アハハ……」
照れ笑いなのか苦笑いなのか分かりかねる笑い方で誤魔化すミサト。
「でも、本当に何とかしないと、アスカも出て行きかねないしね……」
「だったら掃除くらい面倒がらない事ね。そんな事で家で人を養えるはずがないわ」
「そりゃあ、暇を見て一回掃除するくらいならあたしでも出来るわよ。
でもね、正直あたしは家事は苦手だし、食事もコンビニ弁当ばかりだし、
あたし一人で暮らす分にはそれでも構わないんだけれど、家族が一人でも出来ると、
こんなに苦労するものなんだなって……そう思っただけよ」
「ならなんでアスカを引き取ったりしたの」
「だって……あの年頃の子供を一人にさせとくの、我慢ならないのよ。
それがあたしの小さい頃の影響なのか、それともアスカの過去を知っているからなのか、
私にもよく分からないけれど……」
「そんな曖昧な理由なら、家族ごっこなんて止しなさい。どちらも泣きを見るだけよ」
「……そう、そうね」
ミサトが消沈したのを見計らって、リツコは一計を案じて見せた。
「でも、どうしてもあなたがアスカと同居を続けたいというのならば、私にいい考えがあるわ」
「え!?」
「要するに部屋が常に片付いていて、かつ食事が手作りの美味しい物になれば良いのよね」
「ま、まあ端的に贅沢を言えばそうなるわね」
「……ミサト、その条件に合う、腕のいい家政婦を知ってるの。良ければ紹介してあげるわ」
「で、でもあたし家政婦を雇う余裕なんかないんだって」
「無料でいいそうよ」
「だから無理だって……え?」
「だから、一切無料でいいそうよ。掃除に洗濯、炊事まで全て及第点の保証も付いているわ」
「そ、そんな美味しい話が……」
「私の紹介という事にしとくから、金銭と身元の心配は一切要らないの。あとはあなたの決断次第よ」
「……乗った!!」
こうして見れば、即断即決で決めてしまったミサト。
リツコはそんなミサトの単純さを内心少し笑いつつも、事態の展開の楽しさを覚え始めていた。
(これは、色々と面白い事になりそうね)
「フフフフフ……とても気の利く楽しい家政婦よ。きっとミサト受けすると思うわ」
「?」
要は、彼女もまた悪戯好きの性根が芽生えていたという事なのかもしれない。
誰の成果なのかはここでは割愛する事にする。
朝五時。曙も登り切らないこの時間帯に、ノヴァスターの生活は始まる。
二段ベッドの下段からむっくりと置き、欠伸とともに盛大に背伸び。トランクスだけの下にランニングパンツを履くと、おぼつかない足取りで洗面所に向かう。年頃にしては綺麗に並んだ歯を磨き、薄めの髭を剃り、顔を洗い、髪を整える。昨日取り替えたばかりの鏡には、冷水でしゃっきりした自分の顔が映る。
「よし、今日も快調快調」
そして、彼はTシャツとランニングパンツという格好で部屋の外へと駆け出していった。
それから小一時間の後、ようやくシンジが目覚める。
一応顔と歯は洗うものの、髪型などにはほとんど執着しないシンジ。ただ適当に寝癖を整えるために、櫛通りのよさそうな直毛に軽く手櫛を梳かすくらいである。
部屋を見渡すと、ノヴァスターの姿がない。元々怪しい人物なのに昨日の今日である、彼がどんな行動にでてもおかしくはない。上着の類を着ていった形跡がないのが、変に怪しい。
だがその時、バタンと開いた扉の向こうにいた人物に、シンジは閉口してしまった。
そこには、Tシャツを汗だくにしつつ肩に掛けたタオルで顔を拭いているノヴァスター。いかにも運動帰りの姿である。
「おお、起きてたのかシンジ。丁度いい、これから朝食にするからな」
「……何してたんですか?」
「見て分からないか? ランニングだよランニング。早朝ランニング」
「…………」
「そんな馬鹿にしたような目つきで見るなって。適度な運動は体にいいんだぞ。
特に、スタミナ維持には朝食前の軽いランニングだな。運動の後は朝飯もおいしく感じる事だし、一石二鳥」
「……お気楽な人ですね」
「お前さんが暗すぎるんだよ。さーてシャワーでも浴びるかー!(^o^)」
シンジの訝しがる視線も気にせず、ノヴァスターはそそくさと浴室へ消えていった。
「……変な人」
朝食には、如何にも和風と言うばかりな物がテーブルに並ぶ。
鮭の切り身焼きに目玉焼きときんぴらゴボウ。そして若芽の味噌汁に海苔に納豆。どうもノヴァスターには日本文化に対する固定的な観念があるようだ。
言い換えれば、王道的な物にこだわるとでも言うべきか。……にしては彼の手際は見事である。
「…………」
シンジの表情は相変わらず暗い面持ちのそれだが、朝食に対しては素直に食欲の欠片を見せた。
ノヴァスターはそんなシンジに軽く苦笑しながら、二杯目のご飯を装う。一杯目を海苔で食べた彼は、二杯目は納豆で行くようだ。一方のシンジは、俯き顔のままで少しずつ箸を進めているだけ。
「なぁー、朝からそうローテンションになるなって。そんなんだから女の子に逃げられるんだぞ」
「知りませんよ」
鮭の切り身をやたらに切る箸が、如何にも不機嫌そうである。
「ところで、お前さんの今日の予定は?」
「……午後からハーモニクステスト」
「それだけか?」
「……そうですけど?」
「? 学校はどうした?」
「……行ってませんよ。必要ありませんから」
途端、シンジは答えをしくじったと自覚した。レイやミサトの前ではそれでも通用するかもしれないが、今回は相手がコレである。大人しく自分の不登校を見逃すやら。
案の定それを聞いたノヴァスターは、両手をテーブルに叩き付けながら力強く立ち上がる。
「くおらっっ!! ジュニアスチューデントが、学校に行かないとは何事だ!?
いかんぞぉ、若い頃の苦労は買ってでもしろ、と日本の名文句にもあるだろう?」
「……勉学なんて僕には必要ありません。だいいち……」
「言い訳はよろしい。年頃の中学生が学生生活を満喫できないなんて、ああ情けないったらありゃしない。
勉学なんぞ知ったこっちゃない、年頃の女の子との青春するかどうかにかかっているんだろうが、
学生生活という奴は! それをまあ、若い頃からまるで不能みたいにしょぼしょぼと……
なんかこう、同年代の女の子に対するふつふつとした感情みたいなのは君にはないのか!?」
「……何言ってるんですか?」
シンジは不登校の人間に対するありがちな説教を予想していたが、それはノヴァスターという人格を甘く見すぎていたという事である。
「いかん、いかんぞ! 14にもなって女の子に興味もないなんてのは一種の病気だ!
となるとこりゃ荒療治が必要だ、今すぐ復学して、甘い学生生活を満喫してこい!
テストの点数なんて何点でもいいから、卒業までには彼女を作ること! これがノルマ、いいな!」
はっきり言って自己の欲望だけで物を言っている気がする。
「……少しは僕の都合と性格を考慮してくれないんですか?」
「しない」
にべもない即答である。
「というわけで、手続きと保護者代理は俺が一切引き受けるから、君は今日から復学すること」
「そんなのは嫌です」
「そうは行かないな」
どちらも一歩も譲らない。
暫くは、湯気を立てる味噌汁の間で睨み合いが続いていたが、やがてシンジがぼそりと呟いた。
「……僕が学校に行ったら、彼女達にも会うことになります」
「アスカと、レイか」
「はい。綾波はともかく、少なくともアスカは僕を拒絶しています。……いえ、拒絶させています。
ネルフ内部では仕方ないですけど、少なくとも学校でなら彼女達は僕に会う心配はありません。
学生生活の心配をするなら、むしろ彼女達の事を心配してあげてください」
「それが本音か。まったく、小さい手間一つに大掛かりになりやがって」
「…………」
シンジは、本音の一端を喋ってしまった自分を後悔した。自分があの二人の心配をしているなんてネルフの誰にも打ち明けていない事を、彼の前でとうとう明白にしてしまった事に対する苛立ちである。
「だけどそれは違うな。彼女達の将来とか、君の将来とか、総じて最良の選択を選ぶとするならば、
やっぱり君は学校に行くべきだ。上質の高校や大学を狙うかどうかは君の進路しだいだが、
若い頃に同年代の子供達と交流するのはやっぱり大事な事のような気がするけどね。
どうせお前さんは、自分の将来なんて観念は潰して物を考えているんだろうけど、
そういうのは全ての破綻の元だぞ。それは彼女達に対する心配になっちゃいないっていう事だ」
「これ以上、僕とアスカを近付ける要素を増やさないでほしいという事なんですよ!」
シンジも荒い声を立て始めていた。毒を食らわばなんとやら、こうなったら意地でも彼を説き伏せるしかないと腹を括ったのかも知れないが、
「君はアスカを成長させたいのか? それとも逃げ回らせたいのか?」
「……!」
「君が学校に行かなければアスカは君とは会わない。確かにそうだけど、
それは同時にアスカを、逆に弱らせる事になりかねないと思うな。
それに、君がアスカやレイにこだわる必要があるとは限らない。まったくの別な女の子を見つけて、
楽しく過ごしたっていいじゃないか。それならあの二人だってそう突っかかるまい?」
「…………」
シンジの顔は渋い。
「……ま、君が今更、あの二人以外の女の子に興味を示すハズもないか」
「!」
シンジの肩が跳ねた。同時にノヴァスターがクスクスと笑いたてる。
「分かりやすい性格してるなあ、君は」
「べっ、別にそんなんじゃないですよ!」
「その割にはどもってるぞ?」
「いいじゃないですか!」
シンジの顔が、見る見る紅潮する。
「ははははは、まあ君も年頃の健全な少年だと分かっただけでも成果だよ、まったく」
高笑いに任せ、シンジの肩を機嫌よくポンポンと叩く。
「……また担がれた」
してやられた自分を知るシンジ。
「という訳で、君は今日から復学。いいね。
アスカやレイと顔を合わせるのが不都合だっていうんなら、別のクラスになってもいいから、
とりあえずは、年相応の生活を送るんだね。二人の事は、それから考えてもいいだろ?」
「……分かりました」
「自分で認めるんだな、あの二人を心配している事を」
「…………はい」
「大変結構。それじゃ、朝食を早く食べてしまおうか」
それからは、まるで今の喧噪が嘘だったかのように静かに食事を進める二人。
その間、シンジは深い思考の闇に捕らわれていた。
―――もしかしたら、自分は遠慮なく全てを相談できる人が欲しかったのかも知れない。
強大な相手に単身挑もうとしている不安を、誰かに打ち明けたいのかも知れない。
あの少女達に対する後ろめたさを、誰かに知ってもらいたかったのかも知れない。
もしかしたら、自分は……。
それでもシンジは、今自分の目の前で鮭の骨が喉に刺さったと大騒ぎしているこの青年に全てを打ち明けるには、まだ自分の弱さに妥協したわけではなかった。
「いてててててててて!!(ToT)」
「……何やってるんですか」
相談相手として、多少不安が残るというのも否めないが。
シンジは渋々荷物をまとめ、数十日ぶりに学舎たる第壱中学校へと向かった。
後には一人、部屋に取り残されるノヴァスター。
時計はまだ八時を回っていない。とりあえず欠伸を二回するものの、それ以外は至って暇である。
彼の「仕事」は午前十時からの予定なので、あとしばらくは時間の余裕があるからだ。
と、突然ノヴァスターは自分の目の前の空間に、手で四角いマスを作ってみせる。大きさを確かめながら何度もマスを作っているところを見ると、どうやら部屋に配置するテレビの位置と大きさを考えているようだ。……が、それが自分でも暇過ぎる動作だと思い知ったのか、虚しくなって止めた。
「……やることがなくなったなぁ」
そもそも、シンジが学校に行っているとあらば、ネルフ職員としての彼の仕事はその時点でないのだ。本人自体、便宜上保安課に配備されているだけで、未だに保安課員の同僚の顔とて誰一人知っているわけでもない。今日は司令と副司令は出張しているので、サンマ(三人麻雀)をする訳にも行かない。
本当にすることのなくなってしまったノヴァスターは、その場で床に手を伏せ筋力トレーニングを始めた。最初は普通の腕立て伏せを50回、次に両手を打ち合わせる腕立て伏せを50回、次に拳立てで30回、次に指三本だけで20回、最後に片腕ずつで各50回。次にスクワット、腹筋と続く。
回数自体は決して驚くほど多いわけではない。しかし毎日続ける事に意味があるのが筋力鍛錬だ。ノヴァスターはここ数年一日たりとてこれを欠かした事はない。そして、数年がかりで仕立てた身体を生かすことになるであろう時期が近い事も、彼は勘付いていた。
一時間近くそんなトレーニングを黙々と続け、あとは時間が来るまで短い休息を取る。
時計の針が九時半を指すと、ノヴァスターは昨日のうちにまとめてあった荷物一式を肩に担ぎ、部屋を出た。
シンジは元々、第三新東京市に来た時点でミサトの手続きによって市立第壱中学校に編入の用意を済まされている。それをシンジの私的都合で今日まで不登校でいた訳だが、それも今日で年貢の納め時。
(昨日綾波にはああ言っておいて、僕も勝手だよな……)
だが、シンジは果たしてノヴァスターの言う通り前向きな目的でここに来た訳ではない。ここに来たには来たなりの理由もある。
つまり、壱の手が打てなければ弐の手を打つまでの話。
(あなたが悪いんですよ。アスカの為を考えるならば、大人しくさせとけばよかったものを……)
心の中でノヴァスターに毒突きながら、シンジは2−A組の扉を開けた。
それは、自ら選んでアスカとレイと擦り合うと決めた上での選択。
さて、二人は果たしてどんな表情で自分を迎えるのだろうか。
だが、たとえ今のシンジのあくどい企みを知っても、ノヴァスターは笑って見逃すだろう。
同時に、それがシンジなりの配慮の賜物と知るであろうから。
日が傾き始め、夕方に差し掛かろうとする午後三時。
アスカは至極不機嫌な様相を秘めて、葛城家のドアをくぐった。
玄関先に手提げ鞄を無造作に放り投げ、革靴も適当に脱ぎ捨てる。
ドスドスといういかにも不機嫌そうな足音を床に響かせ、ダイニングとリビングを抜け、自分の部屋へと引き込んだ。
そして自分のベッドに制服も脱がないまま突っ伏し、枕を抱き込む。
アスカが思うよりは、日本の中学校というのは楽しい場所であった。
勉学的なレヴェルを甘く見ていた割には復習に役立つし、国語(日本語)の学習はややこしいがやりでがある。同級生も、学級委員長の女の子を初めとして数人ほど親しい友人もできたし、少なくとも昨日までは楽しい日課の筈であった。
……しかし今日、それを台無しにする奴が現れた。それがアスカの今の不機嫌さの唯一最大の理由である。自分のささやかなテリトリーを破綻されたような苛立ちを、誰に表すことも出来ず一人悶々と憤慨しているしかないのだ。
「あーあ、バカみたい!」
一人呟くも、それが誰に対する苛立ちなのかを考えると、また腹が立ってくる。
それが、碇シンジ一人だとも限らないからだ。
喉が渇いた。などとふと別のことを考えて気を紛らわせる。
そこでようやく制服を脱ぎ、タンクトップと短パンという簡素な室内着に着替える。冷蔵庫に向かうべくダイニングまで歩み寄って、アスカはそこで初めて室内の異変に気がついた。
「……あれ?」
そこに、今朝までの腐海一歩手前の惨状は欠片も残ってはいなかった。あれだけ床に棚に散らかされていた缶瓶の類は綺麗さっぱり片付けられていたし、キッチンに積み重ねられていた使用済みの食器や調理器具も一つ残らず洗って干されている。見違えるほどさっぱりとしたダイニングの真ん中にたたずむアスカは、まるで白昼夢でも見ているかのようだった。
「ミサトは仕事で居ない筈よね? ……気前のいい泥棒でも入ったのかな?」
つまらない空想を働かせたが、しがないものである。とりあえず考えるのを後にして、帰ってきたミサトにでも事情を聞くことにしよう。とりあえずは喉を癒すべく、冷蔵庫のドアを開けた。
だがそこでもアスカは異変を知る。冷蔵庫の棚に、皿とラップで包装された総菜らしい物まで事細かに用意されていたからだ。それも、一人分ではなく二人分。
「……手際の良い事ねぇ」
この時点で、ミサトがやったのではないという確信は得た。
「キュエエ」
間の抜けた鳴き声と共に、冷蔵庫の扉を開けたままのアスカの横から、温泉ペンギンがひょっこり姿を現した。アスカの横を滑り抜けるようにして冷蔵庫の中の缶ビールを一本失敬し、自分の住処へと戻っていく。
「ペンペン、これ誰がやったの?」
「キュエエ」
やっぱり間の抜けた声と共に、ペンペンと呼ばれた彼は住処であるもう一つの冷蔵庫にすげなく引きこもっていった。
「……ドーブツに聞いたあたしがバカか」
仕方なく、自分は牛乳のパックを手に取り、そのまま口を付けて飲みだした。
「……そういえば牛乳なんて、買ってあったっけ?」
今日は謎だらけである。
夜になって、ようやくミサトが帰ってきた。アスカが事情を話すと、ミサトは納得したように話し始めた。
「へえ、さっそくやってくれたんだ」
「やってくれたって……何が!?」
「家政婦さんよ。リツコの紹介で無料で雇えることになったの」
「ホームヘルパーが無料って……そんなおいしい話あるわけ!?」
欧米的に考えれば、ホームヘルパーへの賃金というのは家賃も同然である。第一向こうとて生計としてやっている事である、無料というのは確かに虫が良すぎる話だ。
「それで、どんな家政婦さんなの?」
「……それが、私はまだ顔も名前も知らないのよ」
「うそ? そんな人間に家のパス教えたっていうの!?」
「だって、リツコが身元は保証するっていうのだもの……何かあっても大丈夫かな、と」
「呆れた」
アスカは本当に呆れきったというような表情で、ダイニングの椅子に腰掛けた。
「でも仕事の手際はいいみたいねぇ。夜食も出来ているし、ご飯まで炊いてあるし、まあ味噌汁まで。
おまけに部屋の掃除は完璧にしてあるし、良い事づくめだわ」
「そのヘルパー、今日限りなの?」
「週三日っていう契約よ。当分はお試しでやってみなさいって、リツコが」
「リツコリツコって、なんでそんなに人任せなのよ?」
「家の勝手が一番分かるのがリツコだからよ。私もそうだし、リツコもそう。
忙しくて家事なんてろくに出来ないから、リツコは家には殆ど帰ってないし、私も荒れ放題。
お互いネルフにいる時間の方が長いからねぇ」
「ふぅーん」
半分適当な返事、半分身につまされる話、といったところか。
「さぁって、じゃあ早速頂きましょうかなっと」
久方振りに部屋が片付いて気乗りのいいミサトが、トントン拍子に総菜を電子レンジで暖めていく。
「……毒味はミサトがやってよね」
「物騒な事言わないの。そんじゃ、いっただきまーす」
ご飯を装い、味噌汁を温め直し、ミサトはアスカが渋るのも構わずに自らの空腹を埋めるべく箸を進める。
「……あら、ちゃんとイケてるじゃなぁい。美味しいわよ、アスカ」
「どーだか」
アスカは渋りつつも、自分もミサトに手習って自分の食事の用意をする。味噌汁やら炊飯やらを扱うのはまだ手がおぼつかないが、日本食はヘルシーだという簡易的なイメージを持っているので、和食自体は嫌いではない。
「……ん、まあ食べられない味ではないわね」
とは言うものの、これはアスカにしては上質の賛辞であると取るべきであろう。
「味噌汁もさすがインスタントとは質が違うし、お米も甘いし、さっすがお袋の味」
ミサトの中では、まだ見知らぬ家政婦は五十代前半の伯母のようなイメージがある。
「? なにその『お袋の味』って?」
「その家その家の家庭の味って事よ。日本人はそうやって家庭独特の味を大切にするの」
「言葉だけ聞くとマザコンくさーい」
「そういう物じゃないのよ、アスカ」
味噌汁をすするミサトの顔は上機嫌に満ちあふれている。
「……食欲を満たしているミサトが、一番楽しそうよね」
「そういうものじゃないの、人間って」
ミサトらしい楽観的な考え方。だがアスカにとってはそこに説教じみた要素も含まれている気がしてならない。なぜならそこに葛城ミサトという人格の「額縁」の程度を知るからだ。
「……ふうーん……」
だから、そんな言葉には曖昧な返事しかできなくなる。
「……ねぇ、ミサト」
「何?」
食後の一服として、二人がインスタントコーヒーを飲んでいるところで、アスカが切り出した。
「今日学校にサードが来たわ」
「……らしいわね。諜報部から聞いたわ」
「あいつは学校には来ないんじゃなかったの? レイだってそう言ってたわ」
「そこのところの経緯は、私も知らないのよ。
あれだけ頑なに登校を拒んでいた彼が、どうして突然今日から復学したのやら……」
「大体、なんであいつがあたし達と同じクラスなのよ!?」
「それは仕方ないのよ。監視する側としてもその方が都合がいいし、緊急点呼するにしてもね」
「むー……」
ティースプーンをカップの中でかちゃかちゃと鳴らしながら、不服そうに拗ねるアスカ。
「……何が彼を心変わりさせたのかしら」
ミサトも習ってティースプーンを掻き混ぜる。
「さあ、あいつの事だから、また何かあたし達を出し抜く事でも考えてるんじゃない?」
「それはないんじゃない? 元々、ネルフの被験を優先する為に学業を切り捨てていたんだから。
使徒の殲滅しか頭にない彼が、それより優先して学校に行く理由が見当たらないわ」
シンジが使徒に対する過剰なまでの戦闘、排除意欲を持っている事は、第四使徒戦で苦汁を舐めさせられた事もあるミサト本人が一番知っているつもりだった。だから、ミサトにしてみればそこに疑う余地は見当たらない。
「どうだか。性根は最悪だからね、あいつ……」
そう呟くと、口当たりの苦いコーヒーがますます苦く感じる。
「もう! 居ても居なくても都合の悪い奴!!」
仕方なくコーヒーに当たるアスカだった。
「大方、学業の遅れが深刻になったとか、そんな所じゃないの?
あたしと違って大学でも出ているわけじゃないんでしょう?」
「そうかしら。彼、将来の事とか考えている様子はまるでないけど……」
「実は使徒を倒し終わった後の事なんて、なーんにも考えていないんじゃないの?」
アスカがふと呟いたその悪態が、実は一番真実に近い事を彼女は知らない。
「じゃあ、アスカは何か考えている訳?」
「あたし? 勿論、将来設計はちゃあんと出来ているわよ」
「へええ、じゃ、聞かせてよ」
テーブルから身を乗り出して興味を示すミサトに気恥ずかしくなったのか、アスカは顔を逸らす。
「べ、別にそんな事人に聞かせる事じゃないわよ!」
「あらー、恥ずかしがっちゃって」
「別にそんなんじゃないってば!」
結局その後はそれ以上シンジの話題が出ることなく、葛城家の夜は静かに更けていった。
同様に、学校から帰ってきたシンジもまた、帰宅早々気怠い様子でベッドに突っ伏していた。
故意でやった事とは言え、だからと言って心身に掛かる負担がそれで軽くなるわけでもない。シンジは明日からの気重な自分を想像して憂鬱になる。
「どうだった? 登校初日の感想は?」
何やら大きい荷物を抱えて、ノヴァスターも今し方帰宅した。
「……出掛けていたんですか?」
「ん、ちょっとリツコさんから頼まれた仕事をこなしにな」
荷物を脇に置くと、ノヴァスターもシンジに習ってベッドに突っ伏した。二段ベッドのそれぞれ上下で、それぞれが気怠い吐息を吐いている勘定だ。
「……学校ですか? 別に、何もなく至って普通の環境でしたよ」
「ただ、アスカが自分を親の仇のように睨んでいただけだ、ってな所か」
「…………、お察しの通りです」
「やっぱりな」
「……ただ学校にいるだけなのに、あんなに疲れたのは初めてですよ」
「それで、転校早々友達とかは出来たのか?」
「…………」
「聞くだけ無駄だったかな……ふぁぁ」
大きく欠伸をかき、伸びを一つ。
「俺もちょいとばかり大仕事をこなして疲れているんでな。二人揃って昼寝としゃれ込むか」
「昼寝って……もう夕方ですよ」
「じゃあ差しづめ夕寝だな」
それだけ言うと、ノヴァスターは早々と夢の中の住人と化してしまった。
「……そういう事を言いたかったんじゃないんだけど」
とだけぼそぼそと呟くと、結局シンジも習ってしばらく寝付く事にした。
その翌々日。
朝方目覚めたアスカは具合が良くなかった。大方、今学校で流行っている風邪を移されたところだろうと踏む。脇に挟んだ体温計は37度4分を指していた。これは低温気味のアスカにしては高熱の部類である。「しょうがないから今日は休みなさい」というミサトの言葉に従って、アスカはミサトの出勤後も朦朧した意識のままベッドにくるまっていた。
「……暇だなー……」
寝ていれば直るのが風邪という訳でもないが、かと言って薬剤などを効かすのもアスカは好まない。アスカの心身だけを労り、親しく看病してくれるような人が周囲にいてくれた訳でもない環境で育った為に、アスカにしてみればこれが最良の治療法でしかない。
或いは、風邪を押して学校に行っても良かったのだ。最近ではそのくらい学校が楽しくなってきたはずでもあったから。でもそんな時、限ってシンジの顔が脳裏に浮かぶ。アスカにとって、中学生としてのシンジは学校の魅力を80%削除してくれるだけの厄介な存在である。
(フン、あいつに会ってからあたしの運気は下降一直線よね)
しまいには、この風邪もシンジのせいにしたくなってきた。明日あいつの眼前に迫って、一つ盛大なくしゃみをしてやろう。そんな意地悪を糧にアスカは布団をかぶり、養生に精を出すことにした。
午前10時を過ぎたあたりで、玄関の方から人の気配と音がした。
寝付けないアスカは静かに聞き耳を立てていたが、キッチンの方でなにやらごそごそしている音が聞こえてきた時に、それがミサトではなく家政婦である事を確信した。
「……そういや、どんな人なんだろ」
ふと家政婦の素性に興味を持ったアスカは、おぼつかない足取りで部屋を出、リビングに向かう。
そこでアスカが見たのは、体躯のいい青年がヒヨコ印のエプロンとサングラスを付けている衝撃的な光景であった。
「あ……あ……あんた誰よ!?」
よもや彼が家政婦とも思えず、アスカは素っ頓狂な対応を示す。
その青年の方も、家にアスカが居残っていたとは思わなかったのだろう、アスカに声を掛けられた時に肩をビクリと震わせていた。
「おや、これは失礼。俺は赤木博士から家事の依頼を頼まれた者さ」
「あんたがぁ!?」
アスカの眼があからさまに疑っている。蛇に睨まれた蛙の喩えのように竦みながら、青年も笑って誤魔化すしかない。何も後ろめたい事はしていないはずなのだが、少なくとも、PIYOPIYOというローマ字が刺繍されたエプロンはまずかったかも知れないなどど考えているあたり、生来の天然ボケか。
「そ、それはともかく、学校はどうしたの?」
青年は無理矢理話題を切り替えた。アスカもこの怪しい雰囲気を打破すべく話題に乗る。
「風邪引いて具合が悪いのよ」
気怠さに負けて、身近な壁に擦り寄るアスカ。寝起きで頭がくらくらしていた。
「そりゃあ一大事。なら部屋で寝てな、お粥でも作ってあげるよ」
「おかゆ? ああ、あの離乳食みたいなドロドロした食い物ね。あんなの要らないわよ」
「そーゆー好き嫌い言ってると、直る物も直らないぞ。
別に変な物作って食べさせるつもりなんかないから、素直に食べてくれよ」
「……ほっといて」
だんだんアスカの態度も素っ気なくなってきた。ドイツに居た頃にもヘルパーの世話になったことはあったが、アスカは最低限以上の事をさせた試しがない。そのヘルパーとてネルフ支部からチルドレンの保護として遣わされた機械的な人間だったから、アスカも気を許す事などなかった。
「ところであんたも、ネルフの人間なの?」
「一応は、保安課所属だよ。怠慢な所員だけどな」
アスカの質問の深い意味も気に解さず、青年は買ってきた食材を冷蔵庫の中に詰めていく。
(……やっぱり)
前の奴もそうだった。どうせ自分は飼育物同然の扱いなのだ。自分が重宝されるのは嫌ではないが、こいつらはどうせ与えられた事だけをこなすだけのマニュアル人間なのだ。仕事として自分を適度に大切がるだけであろうその神経が気に入らない。アスカにとってネルフの遣わしたホームヘルパーなどその程度でしかなかった。
ポン。と突然青年が手で槌を打った。
「そうだ、手錠を忘れていた」
とだけ言うと、突然懐から鉄製の手錠を取り出す。警官御用達のような単純な奴ではない、受刑者用の三重に輪が付いた強力な物である。
無論アスカがその展開に引く。屋根の下で男と女の子が一人ずつ、まして男が手錠を取り出したとあっては、アスカが身の危険を考えたとしてもおかしくはない。
「な……!」
青年を警戒して、玄関側に背を向けいつでも逃げられるような体勢で後ずさったアスカであったが、青年が自分の腕にガチャガチャと手錠を付け始めたのを見て呆気に取られる。
自分の両腕に器用に手錠をはめた青年は、更に開錠用の鍵をかざしながら、アスカの胸元にポイと投げた。それを条件反射で思わず受け取ってしまうアスカ。
展開に付いていけないアスカが呆然と、青年の手元を見つめていた。青年はと言えば、そんなアスカの反応を楽しみながら錠前の強度を試している。
「うむ、良し」
何が良しなのか、納得したらしい青年は続けざま冷蔵庫の整理を始めた。
「ご不満なら両足分のもあるけど、如何しましょうお嬢さん」
振り返ったときの青年の顔は実に楽しそうな悪戯好きの表情であった。
「……あんた、何がしたいわけ?」
「何だろうなあ、俺にも分からないや、ハハハ……あ、いい物めっけ」
青年は持ち込んだ買い物袋の中から、現代では貴重品の林檎を見つけだした。
「リツコさんに持たされた物だ。風邪には林檎が効くんだ、これが」
林檎だけは別に棚に置くと、青年は炊飯の準備を始める。
「食事が出来たら運んであげるから、今は寝とき。あ、アイス枕用意してあげるよ」
「……お手数な事」
呆れ果てたアスカは、そのまま部屋へと引っ込んでいく。だが、ふらつく足下が戸の桟に引っかかってしまい、アスカは思わずよろめいてしまった。
「ひゃっ……!」
「よっと」
床に手を突いて転倒を防ごうとするより早く、青年に腰を抱えられてアスカは難を凌いだ。だが勿論その怪しい体勢がアスカの誤解を招く。
「ちょ、ちょっと離しなさいよ!」
「ここで離したら転んじゃうだろ?」
手錠を掛けたままなので、青年は両手だけで倒れそうな体勢のアスカの腰骨を掴み、支えている。仕方がないのでその体勢のまま部屋までアスカを運ぶ事にしたらしい。アスカが暴れるのも構わず、まるで5kgの米袋でも担いでいるかのように身軽なものである。
アスカの部屋に入るのはさすがによくないと思って、部屋の前でアスカを下ろす。憮然とした表情のアスカに、アイス枕をポンと手渡す。
「病人は静かに寝てること」
「……ふん」
鼻息荒く、アスカはドアの向こうに消えた。
今時は、炊飯器に限らず電子レンジ等でも「お粥」なる物を作るのは簡単である。気密パック入りの製品をコンビニで買うのも容易だ。青年はお粥をわざわざ土鍋で作りながら、今自分のしている作業は不毛な物であるのかも知れないと考える。
そんなに重く考える必要もないのかも知れない。学校で移された風邪など、新型の某ホンコンウイルスだなどという物でない限り、一日寝ていれば大抵は直る程度の物である。とは言え、女の子が弱っているとあらば気が引けてしょうがないのは、フェミニズムなんかじゃないんだろうなぁ……とも考える。
とどのつまり、暇である。一昨日はあれだけ荒れていた部屋の整頓に躍起になって、随分汗をかいたものだが、いざ片が付いてしまうとなんとも呆気ない物だ。あとはラップできるような食事を作って、簡単な掃除をして……あ、洗濯はどうしようか、仮にも女性の物は洗えないし……などと、考えもやや雑多になる。
青年は鍋の頃合いを見て、火から下げた。お粥用の食器を探したものの、適度なのがなかったので仕方なく土鍋ごと運ぶ事にした。あとはレンゲと小皿が一つあれば足りるだろう。
あとはアスカの部屋まで足を運び、ドアをノックする。そのドアに掲げられている「立入禁止! 入ったら殺すわよ!」の立て看板が青年の苦笑を誘う。
「殺されてみるのも、いいかな」
訳の分からないことまで口走る。
「……何よ」
不機嫌そうなアスカの声が返ってきた。
「お粥作ったんだけど」
「要らないって言ってんの」
「その我慢がどこまで持つかなー?」
アスカは強がってはいるものの、寝起きで空腹なのは確かな筈。青年はそれを見越して、わざわざ卓上電磁調理器をダイニングから運び、アスカの部屋の入り口にもっとも近いコンセントに電源を差し込んだ。
「ここで保温して置いておくから、食べたくなったら持っていきなよ」
「よけーなお世話よ!」
「素直じゃない女の子は嫁の貰い手がないぞー?」
「なんですってー!!」
「わははは、元気で大変結構。さーて掃除でもするかー!」
意気揚々と掃除機を持ち出し、アスカの部屋付近から掃除を始めた。こうすれば、アスカの我慢が切れた頃に鉢合わせることもないだろう……意外と用意周到である。
「……変な奴」
アスカの第一印象は、やはりシンジやミサトと同じ物であった。
黙っていれば結構二の線なのだが、一旦口を開くとあの三枚目ぶりである。加えて怪しいサングラスにエプロン、挙げ句手錠まで持ち出す。大道芸人も顔負けだ。
「そう言えば、どっかで聞いた事のあるような声だったわね……」
まさか、あの奇天烈な「艦内放送」の張本人だとは今のアスカには知る由もなかった。
ぼやける頭に、アイス枕が冷たくて心地良い。
掃除も30分足らずで終わり、青年は食事に取りかかり始めた。
今日も手慣れた感覚で幾つかの総菜を仕上げ、それぞれにラップを掛け冷蔵庫なり卓上なりに仕込んでおく。それでも正午頃になると暇を持て余し始めた。
電磁調理器をチラリと偵察したが、手を着けられた様子はない。青年は仕方なく先程キープしておいた林檎を手に取り、器用に剥き始めた。
八つ切りで切り揃え、薄い塩水で満たしたボールに浸しておく。容易が済むと再びアスカの部屋まで呼びに行く。
「今度は林檎なんぞ切ってみたりしたんだけど」
ところが、ノックしても一向に返事が来ない。寝ているか、そうでなければ完全に無視を決め込まれているかのどちらかだろう。埒があかないので、仕方なく青年はコソリコソリとドアを開き、中の様子を最低限だけ伺った。
少しだけ見えたアスカの寝姿から察する限りはどちらとも取れないが、青年は寝ているものだという事にして、仕方がないので今日の所はこれで葛城家を退出する事にした。
葛城家を出て、荷物を抱えて歩き出そうとしたその時になって気付く。
「……鍵、返して貰ってない……」
しかしアスカを叩き起こすわけにもいかず、哀れ青年は手錠を掛けたままやむなく帰宅する羽目になってしまった。おまけに後ろに手が届かないので、ヒヨコ印のフリル付エプロンも外せないという有様。
帰宅途中、そのあまりに怪しい風貌の為に、警邏中の警官に二回ほど職務質問を受けたとか受けないとか。
寝過ぎで頭痛がする。アスカはそんな動機で仕方なく起きた。
寝てばかりいたので、お腹は空くし喉も渇く。ところがドアを一つ開ければ、そんな欲求を充足する物が見事に取り揃えられていた。
電磁調理器の電源を切り機械ごと土鍋を部屋に持ち込み、次に食器とボールを部屋に持ち込む。
「……これあいつがやった訳?」
まあ、一昨日の手際を考えればこの位は造作ないのかも知れない。
とりあえずアスカは、土鍋の蓋を開けた。低温で保温されていたので特に冷まさずとも食べられる適温に仕上がっている。部屋の中に満たされる鰹だしの香りが心地よくて、旨く出汁の利いたお粥はいともあっさりとアスカの口に許容されていった。
「へえ、美味しいわね」
これならば昨日の味噌汁の味も納得だ。人はつくづく見掛けによらない物である。
時折冷たい物が欲しくなれば、ボールに浸してある林檎を手に取る。塩味の利いた林檎が食を進める。
なんのかんのと文句を言っていたものの、結局アスカはものの15分で全て平らげてしまった。
「うーん……いい仕事してるわ」
家政婦鑑定歴8年のアスカが思わず唸る。
気が付けば頭痛もだいぶ収まっていたので、アスカは用途を終えた食器を運ぶ為にリビングまで足を運ぶ。二日間で散らかされた室内も綺麗に収まっていたし、一昨日のように食事もきちんと出来ていた。
「疑う余地は……ないみたいねぇ」
間違いなく、あの変な青年が家政婦ならぬ「家政夫」の正体だったのだ。
「ミサトの旦那さんには丁度いいんじゃないかしら」
そんな軽口まで飛び出すほど、アスカの機嫌は良くなっていた。
「……そういえば、あいつの名前聞くのを忘れてたわね」
アスカの体調を心配してか、その日のミサトは比較的早めに帰宅した。
「アスカー、生きてる?」
「勝手に殺さないでよね! あたしなら大丈夫よ」
風邪の心配をするミサトには、大丈夫だから明日から学校に行けると伝える。
「そう、良かったわ」
「……ホントにそう思ってるんだか」
部屋に戻り上着を脱ぎ捨て、ミサトもアスカのような室内着に着替えてリビングに戻ってきた。
「さあーって、今日もお食事お食事」
不必要に機嫌がいいミサトが、アスカの目には時々わざとらしく映る。同じ戯けるにしても、先程の青年みたいなただのバカとは違って、ミサトの場合はどこか心に重みを抱えた上での反動っぽい。アスカとてそれが見抜けない程子供でもないのは確かだ。
「お食事、で思い出したけど、今日例の『家政夫』に会ったわよ」
「へえ。どんな人だった?」
電子レンジで暖めた総菜のラップを剥がしながら、ミサトが興味津々で問いかける。
「それが、すっごい変な奴なのよ! 家政夫としての手際は良いみたいだけど、人間性が怪しすぎ!」
「怪しいって……まあリツコの知り合いだからねぇ、怪しいのも有り得るか」
「……どんな知り合いよ、それって」
アスカの嘆息を余所に、ミサトは鼻歌混じりで味噌汁とご飯を装う。次にアスカの分も自分で装う。
既に二人とも、青年の食事には味を占め始めているようだ。二人ともその思惑は違ったが、この食事に口を付けることには抵抗を感じてはいない。
しかし、
「ホントに変な奴だったんだから。ヒヨコの刺繍のしてあるエプロンなんかしてるし」
「あはははは」
ミサトは笑いながらご飯を口に運ぶ。
「部屋に入ってきて突然手錠を自分にはめるし。……そういえば鍵返してないっけ、あのまま帰ったのかな?」
「手錠……って、なんでそんな物付けるの?」
「知らないわよ」
ミサトは首を傾げながら味噌汁を口に運ぶ。
「おまけに室内なのに怪しいサングラスかけているし。あれじゃ二の線が台無しよね」
「!!」
……ミサトの箸がピタリと止まった。
「……アスカ。もしかして、その家政婦って……男性?」
「そ。名前は聞かなかったけど、25,6くらいの男だったわよ。それも知らないで雇ってたの?」
ミサトはそのアスカの質問には答えず、箸とお椀を叩き付けるようにテーブルに置くと、足早に電話に駆けつけ、苛立ったように短縮ボタンを押し、直通でリツコの携帯電話へと繋ぐ。
(……何あんなに苛立ってるのかしら、ミサト)
六回のコールの後、相手が出た。
《そろそろミサトから掛かってくる頃だと思ったわ。それで『彼』のお手並みはどうだったかしら?》
リツコの口調は、ミサトの心境とはまるで正反対に穏やかな物である。
「あんたねぇ、冗談じゃないわよ!! よりによって雇ったのがあの男な訳!?」
《無料でかつ手際の良い人、というミサトの贅沢に律儀に応えた家政夫さんよ》
「私はそんな事言っているんじゃないわ! 私の居ない間にあんな奴を寄せないでよ!
今日は具合が悪いからってアスカが家に居たのよ、万一アスカの身に何かあったらどうするつもりなの!」
ミサトの荒い声が気になって仕方なく、アスカもリビングから聞き耳を立てている。
《あら、それはお門違いの抗議ってものよ、ミサト。
彼は正式なネルフ保安課員よ。チルドレンの保護だって彼の任務のうちだし、
それに、多分彼の事だからちゃんと『手錠』は付けて仕事してたんでしょう?》
「手錠……」
《あれは彼なりの誠実の現れなのよ。私も最初は何事かと思ったわ》
「あんた……いつから彼にそんなに肩入れするようになったの?」
《あなたも一度彼とじっくり話し合ってみる事ね。きっと、警戒している自分が馬鹿馬鹿しく思えてくるわ》
「結構よ!!」
怒りに任せて受話器に怒鳴りつける。きっと電話の向こうのリツコは耳を痛めていることだろう。
《……っ! それとも彼に家事を任せるのが嫌なら、あなたがしっかり家事を負担する事ね》
「そ、それは……」
《碇司令が彼を受け入れた時点で、私たちが警戒する意義はないのよ。
それに、素性の謎な人物なのは確かだけど、素性の怪しい人物でないのは私が保証するわ》
「そんな事リツコに保証されてもねぇ!」
《それで駄目ならば、あなた自身で保証を作るしかないのよ》
「そこまでして彼を受け入れなければならない理由は何?」
《そんなに深く考える事はないの。ただ、彼がこちらに溶け込む努力をしているのだから、
私達は彼の誠実さを汲んでも構わないのよ。
あのひょうきんな彼の態度を、誠実と取るか策略と取るかもあなた次第だけれど》
「……私にはあんたのような踏ん切りは付かないわ」
《あなたが何にしがらみを持っているかが予想できるから、一つだけ忠告して置くわ。
……彼は、シンジ君とは違うのよ》
「…………」
《彼には明後日の土曜にまたおさんどんして貰う事にするわ。それまでにあなたも態度を決めるのね。
彼を拒絶するのは簡単よ。でも私としては、あなたがアスカと上手く馴れ合っていくには、
彼の協力が不可欠だとも思って私は彼をあなたに推薦したの。それも良く考えて》
「……分かったわ」
退っ引きならない心境のまま、ミサトは渋々受話器を下ろした。
恐らく今の会話に聞き耳を立てていたであろうアスカに、この事を何処まで話すべきか迷う。
只の家政夫で押し通すべきか、それとも第六使徒戦の一件まで話すべきか。
だが後者は止めておくべきだろう。今はアスカにとっても大事な時期だ、迂闊にアスカの心境を荒らすような発言は慎むべきだろうと思うから。
しかし、彼を招き入れるのにも抵抗はある。彼の素性如何では、監視カメラを家に招き入れているのも同然である。ミサトはゲンドウやリツコとは違い、青年の素性には戦自や日本政府の影を睨んでいる。……もしかしたらそれは、自分達の領域に対する潔癖的な観念かも知れない。
それでも、アスカには一つくらい教えておくべきだろう。
その青年の名が「ノヴァスター=ヴァイン」だという事くらいは。
その日、ミサトは朝から何処か忙しなかった。
アスカは朝からテレビを見つつ静かに土曜の午前を送っていたが、反してミサトは室内を右往左往。
「ちょっとは落ち着いたら?」
と時々飛ぶアスカの声も、ろくに耳に入っていないようだ。
警戒している理由も話せないだけに、ミサトも弁解するわけにもいかず塞ぐしかない。
「大して気にすることないんじゃない?
何やらかした奴かは知らないけど、あたしもそんなに警戒することないと思うわ」
(まあ、自分でも始末書書かされた事の安い恨みだとは思ってはいるんだけど……)
それにしても、司令もリツコも何処かおかしい。弐号機に仕掛けを施していたような男の何処がそんなに信用に足りるのか。リツコもアスカも口を揃えて「警戒するだけ馬鹿らしい」と言う。確かに違う意味でも「怪しい」男だから、こちらの油断を誘っているのか、それともそれも只の考え過ぎなのか。
……多分、一番自分が訝しがっている部分は、青年がシンジに肩入れしているところだろう。諜報部の話では、シンジと同居まで始めたらしい。とすると、シンジが突然学校に行くようになったのも彼が焚き付けたのか。……自分には出来なかった事を成したというのか、彼は。
嫉妬まがいに、味方に肩入れする男を警戒する……つくづく因果な仕事に入れ込んだものだ。
その時、室内に間の抜けたタイミングでチャイムが鳴る。
「来た!」
アスカが玄関に急ぐ。どうも彼女には出張で芸人が来たような感覚があるのだろう。
「ちわーっす、三河屋でーす!!」
アスカに続いて玄関に駆けつけたミサトは思わず転びそうになってしまった。
「……ま、間違いないわ」
あの遥か彼方に飛躍したくだらないセンスの持ち主は間違いない、あの男だ。
残念ながら生粋の日本人でないが為にそのセンスを介せなかったアスカは、キョトンと立ちつくしていただけだが。
「開けますよー?」
住人の許可もそこそこに、玄関のオートロックが外部から解除される。そこに現れたのは、大きめの段ボールを抱えたノヴァスター。その段ボールには、エビチュビールのラベルが印刷されている。
「だから三河屋なのね……」
ミサトは変なところで納得してしまったようである。
「おや、今日はお二人ともお揃いのようで。
ちょうど良かったミサトさん、仕事がないんでしたらこいつで一杯、どうです?」
機嫌よく話を持ちかけ、抱えていた段ボールを強調してみせる。その時かざした手首には、三日前に自分ではめた手錠がそのまま残っていた。
「……あんた、あの手錠まだ取ってなかったの?」
「あ、あはははは……こいつね、鍵ぃ無くしちゃったもんで取れなくて困ってるんだよ。
町中で職務質問は受けるし、帰ったら同居人には間抜け呼ばわりされるし、ホント困ったもんさ」
苦笑いとも照れ笑いとも取れない曖昧な笑みを浮かべながら、ノヴァスターは誤魔化した。
呆れて物も言えないアスカが、ようやく一言だけ呟いた。
「……あんたバカ?」
ミサトの険しい視線の監視の中、ノヴァスターはいつも通りの家事を無難にこなしつつも、二人の許可を得た分だけ洗濯物を取り扱う。勿論女所帯の洗濯物には細心の注意を払うことは忘れない。アスカが手錠の鍵を返そうとしたのをミサトが止めた為に、ノヴァスターは洗濯機や掃除機を手錠が繋がったままの両手で器用に操ってみせなければならなかったが。
そんな立場にも関わらず、ノヴァスターがさも楽しそうに家事をこなしその手際の良さも際だっている光景を見せつけられては、ミサトも彼の立場を認めざるを得なくなってきたようである。しかし、それでは何の為に自分達の前に現れた人間なのかがますます怪しい。素性としても、素振りとしても怪しさの際立っているあの性格を見せつけられては、自分はリツコのようにはとても打ち解けられるものではない。しかし、赤木リツコ、あるいは碇ゲンドウという人格を考える限りは、自分よりもなお他人と強調するのを不得手とする種別の人間だとも思うのだが。
……ミサトはいつしか、自分達の置かれた相関的な人間関係を認識し直さなければならなくなっていた。
ミサトの家の冷蔵庫には、元々酒のつまみだけは事欠かない。それに加えてノヴァスターが手際よく唐揚げだのポテトフライだのを作っていくものだから、食卓はまるで居酒屋の様相を呈してきた。そうなるとミサトはともかく、未成年のアスカには一種の目の毒であるとも言える。
「俺達はこれから飲みに入るけど、どうする、君も加わる?
でも未成年なんだから、勿論ジュース限定だけど」
こういう時、大人はとりあえず法律に恭順する為に限ってこう問いただす。
「別に平気よ。ビールなんてあたしに言わせれば、酒のうちにはいんないって」
実際アスカはアルコールの味を知らない訳ではない。当然酒にそれほど強いわけでもないが。
「……舐めるだけだぞ?」
「わかってるって」
それで簡単に許してしまうノヴァスターもノヴァスターか。アスカにとってはノヴァスターが話の分かる男と認識される些細なきっかけでもあったが。
「……私はまだ飲むとは一言も言ってないんですけどねぇ?」
一方のミサトが憮然として語ったが、
「じゃあミサトさんは飲まないんですね?」
とノヴァスターにすげなく切り返されると、
「だ、誰も頂かないとも言ってないわ」
「そうこなくっちゃ」
アルコールを前にしては、ミサトの自制心も形無しだ。
かくして土曜の真昼間にも関わらず、ノヴァスターの強引な誘いにより葛城家は宴の渦中に巻き込まれる運びになった。
「ストックは沢山ありますから、どんどん行っちゃってくださいよ、ご両人」
機嫌よく幹事気取りを始め、酌を勧めるノヴァスター。二人はやや引きつつも、自分のコップを差し出していた。
―――それから二時間後。
「あーっはっはっはっはっはっはっはっ……!!
あーんた、酒の旨い飲ませ方って奴を心得ているじゃないのよぉ!!」
何がそんなに機嫌がよいのか、ノヴァスターの肩をばしばしと叩きながらミサトは甲高く笑っていた。それに対し、さすがのノヴァスターもミサトの豹変ぶりにはやや腰が引けているようである。先程まであれだけノヴァスターを訝しがっていた作戦部長の影と形は何処へやら、一旦多量のアルコールが入ってしまえば打ち解けてしまうのはやたらと早かった。
しかし、それはミサトの性格が単純であるからとか、それだけ飲んべであるという事ではない。元々、ミサトは他人と飲むという機会が少ない。あったとしてもそれはリツコや、直属部下のマコトを半ば無理矢理誘った状況になるのが大半である。
そうなった時、限ってミサトにとっては酒の席が面白くない状況になる。リツコはリツコで、ミサトが酒に逃げる理由を知っているからこそあえてミサトに苦言を呈するものの、それも酔ったミサトにとっては不味い酒の肴でしかないし、マコトはマコトでミサトの異常な酒量についていけず、ミサトが満足できないうちに身体を気遣われて宴席から連れ出されてしまう。
要するに、ミサトが何故容易に飲んべに成り下がるかを察しつつ、ミサトのストレスの解消の手助けをしてくれる人間が周囲にいないのだ。昔、唯一の理解者であったはずの加持は、ミサトが素面の時点で拒んでしまう。もしこんな宴の席に同席できるほどに仲が修復されれば、ミサトのストレスももう少し上手く解きほぐされるのであろうが。
会話の中身など、つまらないジョークの連発でもいい、しがない愚痴でもいいのだ。誰か自分の飲んべの立場にまで道連れになって成り下がって、自分と同じ立場を共有してくれれば……心の中ではそんな心細い願いを持っていても、それは他人にとってはあまりに弱音過ぎるのであり、都合が良すぎる。だがらミサトは誰にも何も言えず、一人で静かにビール缶を飲み干しているしかなかったのだ。
そして、ミサトの豹変ぶりに比例してアスカの視線の変化が険しくなる。アスカにしてみればミサトが弱音を吐いているを見ているのが我慢ならない。彼女もまた、ミサトが酒に逃げている事を知っている人間だ。そして、そんな逃げ方は彼女の最も毛嫌う所である。
それに対し、まるで宴会の接待役が堂に入っているかのようにおべっかを使っているノヴァスターも何げに気に入らない。ミサトがしょうもない駄洒落に笑えば調子に乗って連発するし、ミサトが愚痴をこぼせば必要以上に頷いて見せ、ミサトの機嫌を取る。
(……つまんない場に混じっちゃったな)
アスカはそんな二人を遠い視線で眺めつつ、自分のペースで少しずつ飲んでいた。
それから更に二時間もすれば、流石のミサトも酔い潰れて卓に突っ伏して熟睡してしまった。
それまでさんざんに酔い、食べ、笑い、愚痴をこぼし、そして時々無性に切ない横顔をする。隣でミサトの様子を慎重に伺っていたノヴァスターにしてみれば、この宴会を開いて正解だったと思える。
アスカはとっくにこの場に愛想を尽かして退席し、自分の部屋に引きこもっていた。アスカの部屋の方角に向かって軽く苦笑すると、酔ったミサトを抱きかかえようとする。ところが手錠がまだ掛かったままであった為に、ビールの箱ならまだしも成人女性となると、この体勢では抱きかかえるのも一苦労だ。
結局ノヴァスターは抱え方に苦労しながらもミサトを彼女の部屋まで運ぶのに成功した。ミサトに静かに毛布を掛けると、電気を消して部屋から立ち去ろうとする。
「バッカじゃないの?! 返してくれって言えばいいじゃない」
抱きかかえるのに四苦八苦していたノヴァスターを見ていたのだろう、後ろからアスカが声を掛けた。その手の指には、見せびらかすようにして手錠の鍵が挟まれていた。
「ミサトさんの許可はまだ貰ってないからさ」
それだけを言い訳にして、ノヴァスターはアスカを促しつつ部屋を出る。
「しっかし、ミサトさんは色々とストレスが溜まっているみたいだなぁ。
時々ああやって毒気を抜いてやらないと、今に潰れちゃうぞ」
ミサトのストレスになっている半分以上の理由が、誰にあるかをノヴァスターは知っている。もっとも、ミサトが愚痴任せに何度もその人物の名を呟いていたのだから当然だ。そしてその名前は、アスカの前でも迂闊に出せない人名。どっちの立場も擁立したいノヴァスターにしてみれば、悩みどころだ。
「アルコールに任せて愚痴ってたんでしょ? あたしの時も時々聞かされるのよ。
酒に溺れないと明日も生きられないなんて、ミサトも案外弱い人間よねぇ」
アスカが失望の溜息を漏らす。ミサトの立場を「利用」しようと考えていた少女の発言とすれば、妥当かもしれないではある。
「そりゃあ弱いさ。独り身の女性は特にね」
「……それって女性蔑視?」
「まさか。独り身の男だって虚しいさね。特に、生きる事に絶望したような奴はな」
それは暗喩でとある少年の事を指しているのだが、まだそれをこの少女が知るには早すぎる。
「独り身ってのは、独身っていう意味じゃあない。拠り所となる人間が居ないことだな。
恋人、親兄弟、親友、恩師……種類を挙げればキリがないはずなのに、
実際はそれだけ信用に足る人物が側にいてくれるのはごく稀のケースさ。
特にこの人は、セカンドインパクト世代だ。この世代は親兄弟とは死に別れている場合が多いし、
当時の悲惨な体験が悪夢となって、今も魘されている人間も多いそうだ。
……ミサトさんも、仕事だけじゃなくもっと大きな何かに苦しめられているのかも知れないな」
そう語るノヴァスターの顔は何処か達観者じみていたが、アスカがそれに勘付く事はなかった。
「そういうあんたも、セカンドインパクト世代じゃないの?」
「……そうだな。俺も、あの時は色々あった……」
どことなく郷愁的な物言い、それだけはアスカにも微かに聞き取れたようだ。
「人間ってのは弱いんだよ。とてもね。
だから共生する必要がある。身体が生きていくにしろ、心が生きていくにしろ。
ミサトさんがああやって泥酔している姿はとても情けなく映るかも知れないけれど、
ああやって弱いところをさらけ出してくれる人間の方が親しめるのは、俺だけなのかな」
「あんただけよ」
アスカは素っ気なく吐き捨てた。
「あたしはイヤ。あんな風に惨めに弱くなっていくのも、誰かに寄り掛かって生きていくのもイヤ。
一人で生きていけるだけ強くなる事は不可能じゃないはずよ。強い意志さえあれば。
ミサトは弱いから酒に溺れるの。意志が弱いからああなるのよ。
あたしは弱い大人にはならない。あんな大人を手本にするのは真っ平ご免よ」
「……さて、それもどうかな?」
ノヴァスターが不敵に笑ったような気がして、それがアスカの気に障る。
「何よ、あたしの生き方にケチを付ける気!?」
「俺は何も言わないさ。君の生き方は君が学ぶしかないんだから。
その生き方に納得できるのも君だけ。共生する為に、誰かを心に受け入れる事を認められるのも君だけ。
どの道他人は手伝う事しか出来ないんだよな。目の前の人達が愛し合うにしろ、傷付け合うにしろ」
「……随分と悟ったような物言いじゃない?」
皮肉で言ったその一言を、ノヴァスターは重く受け止める。
「悟った……か。そうかな、そうかもな……」
訳の分からないといったような表情をするアスカを横に保留して、ノヴァスターは帰り支度を始めた。
「今日はこれで帰ることにするよ。ミサトさんが起きたら宜しく言っといてくれよな」
ミサトに付き合って大分飲んだはずなのに堪えていないのか、ノヴァスターはいやに軽快に地面を踏みしめつつ家路につく。その背中を見送りながら、アスカは奇怪な知り合いが一人増えた事を否応なしに自覚しつつあった。
「……とことん変な奴」
今は、それ以上の言葉で彼を語るのは不可能だった。
帰宅したノヴァスターが異様に酒臭い。不審に思ったシンジが問いただすと、
「ミサトさんと飲んでいたんだ。う〜……」
と簡単に白状した。最後の「う〜」は無論、具合の悪さから来るうめき声だ。
「飲み過ぎた……ううっ、ぎもぢわるい……」
「ちょっと、吐くならトイレに行ってくださいよ」
「文句なら消化器官に直接言ってくれ……」
訳の分からない言葉で抗議されるシンジ。
「という訳で、おやすみ……」
そのままベッドに突っ伏したように眠ってしまうノヴァスター。要はミサトの飲みっぷりに意地で対抗していた「ツケ」だった。彼は酒には弱くない方だが、さすがにミサト並に飲むには少しばかり胃腸が辛い。
「……何なんだろ」
シンジはただ、その状況に追いやられたまま呆れ果てるしかなかった。
そして、先程のノヴァスター同様に今度はノヴァスター自身を介護しつつ、丁寧に床に着かせる。その不用心に眠りこけた姿が、かつてのミサトの姿に重なる。あの頃は……ミサトとアスカと三人で、家族として暮らしていたあの頃は、こんな事が日常茶飯事だった。そして、自分の人生にとって最も平穏で平和で、そして何よりも心温まる交流の出来た、短いながらも充実した時期でもあった。
アスカに憎まれ口を叩かれ、夫婦喧嘩だとばかりにミサトに囃し立てられ、恥ずかしがっていた自分。そんな自分につられてどことなしに頬を紅く染めていたアスカも、今では酷く遠い想い出の彼方。
「……どうして、今更そんな事を思い出すんだろ……。
忘れようと決めた事なのに、有り得ない現実だと認めようとしている時に……だろう、ゼロ?」
シンジの頬を、音も無く涙が伝う。
人の気も知らず目の前で眠りこけるノヴァスターが、今日だけは何故か恨めしかった。
そして、今では行方知れずの「もう一人の自分」だけを同意者だと信じる、自分の姿の惨めさも。
この一件があってから、ミサトも段々とノヴァスターという人物に対する棘を無くしていった。
結局ミサトもリツコの時とはケースが違えど、ノヴァスターを受け入れてしまったようである。その証拠に、ノヴァスターの家政は翌週からも無事続くことになった。
しかしミサトはアスカも同様、彼に対して抱く「変な奴」というイメージは払拭される事はなかった。ノヴァスター本人も相変わらずの言動っぷりなので、ミサトもアスカもそこは笑い飛ばす事で事なきを得るという、不思議な了解が成り立ってしまっていたからだ。
アスカなどは、ノヴァスターが年上であることも気に掛けず、ミサトから教わった日本語に習って「おさんどん」というあだ名まで命名してしまう。初めてそれを聞いたときのノヴァスターは、苦笑しつつも結局許したようだが。
当初は二人が居ない昼間を見計らっていた家政も、二人が寛容的になってからは夕食時に訪れるようになっていた。ミサトに言わせれば、レンジで暖められた食事ではなく調理直後の味を味わいたいとか何とか理由を付けるものの、晩酌ついでに色々と語りかける所からみて、ノヴァスターの「使い勝手」に味を占めたという所が相場だろう。
アスカはアスカで、家政夫としてのノヴァスターの使い勝手は確かに良いし、アスカに対しては必要以上の所にまで踏み込んでこないという「弁え」を知っている人間なので、特に不平は言わなかった。強いて言えば、自分の部屋に入ることと下着の洗濯だけは禁じたが。それでも二人揃って手錠を外すことを容認したあたり、ノヴァスターという青年の位置付けは進歩したのである。
ちなみにノヴァスターが家政務を週三回に限定したのは、同居人(或いは手の掛かる弟分)として既にシンジを抱えているからであって、その事は葛城家、シンジとも出来るだけに内密にしつつ、家政夫業はその後も順調に続いたのである。
そんな、つかの間の平和が続いたとある晩の事。
いつものように葛城家を訪れ、順調に献立を形作っていくノヴァスターの後ろ姿に、ミサトがふと声を掛けた。
「見事な手際よねぇ。そこいらの主婦も真っ青って感じ。
それにしても、なんでそんなに家事に精通してるのかしら!?」
「やだなぁミサトさん、また『探り』を入れているんですか?
前にも言ったでしょう、一人暮らしが長いと必要に迫ってこうなっちゃうんですよ」
ノヴァスターとて、ミサトが自分に不信感を持つのも当然だとは分かっていたのでこんな手段を取っていたわけだから、ミサトとアスカの信用を得るには正直な素行を示すしかない。
「一人暮らし?」
「小さい頃から一人暮らし同然だったんですよ。
それに兵役に就いていた時期も長いし、男ってのは基本的に不精者ですからね。
他の連中の宿舎まで面倒見ていたんです、我ながらよくやりますよ。
もっとも、そういう事は上官の見えないところでやらないと叱られますけどね」
これが彼なりの小話である、真面目とも不真面目とも取れない飄々とした人格が伺える。
ノヴァスター自身も最低限の身の上話に興じながら、フライパンを返したりおたまを忙しなく動かしたり。その手慣れた様子を見る限りは彼の言葉に嘘がないのも納得できる。もしこれで彼がどこぞの組織の間諜であったとするならば、彼の上官はそれこそ良くできた大莫迦者である。そう考えるとミサト自身の嫌疑も幾分晴れた。
食事は、ミサトとアスカは当然として、ノヴァスターもテーブルに同席して摂ることになっていた。
故に、前もってシンジの分の夕食を作っておいてくる必要が生まれる。そうなるとノヴァスターにしてみれば、どちらに住んでいるのか家政夫として就いているのか分からなくなる時があるのも無理はない。
そうやって半ば家族のような待遇を感じつつ、その日も他愛ない会話を交わしながら三人で食卓を囲む。
「しっかし、家政夫だとは言っても、今時変わりご飯まで手作りする人は希よねぇ。
市販の『五目ご飯の元』とか買ってくるのでも十分なのよ、ふつうは」
茶碗に装われた五目ご飯を香しく感じながら、ミサトが箸を進める。
口ではそう言いつつもレトルトと手作りとの違いだけは簡単に見破る、自分の舌と食生活が時々悲しい。
「ふ〜む……まあまあね」
口数少なくフォークを動かすアスカも、言葉と裏腹に手作り特製ハンバーグを堪能していた。
そんな二人の様子を伺いながら、なんのかんのと言っても二人とも「手作り」に弱いんだな、と心の中で一人ごちながらノヴァスターも自身の成果を口に運ぶ。
「『必要は発明の母』とは言うけれど、あたしも必要に迫られればこれだけ上手くなるかしら」
「無理無理、ミサトにそれだけの事が出来るなら、元々おさんどんを呼び付ける必要がないじゃない」
「それもそうだ。ミサトさんの怠けは生来の物なんだから、無理な願望言っても駄目ですよ」
「……ノヴァスターくぅん?」
「し、失言でしたぁ(^-^;」
藪蛇を炸裂させてしまったノヴァスターが、慌てて話題を変える。
「まあ、ネルフ上層部に位置するミサトさんが忙しいのはどうしようもない事ですしね。
それに、仕事を抱えた女性の帰宅後に、家事まで押しつける訳にいかないのが家庭の実状って奴ですよ。
例えばうちの家内なんかは、家事できるだけの腕前はあっても仕事の多忙な身ですからね、
実質は俺が家事を受け持たない事には日常生活が何ともなりませんし、
ホント、女性進出って言葉はなかなか難しいものですねぇ……」
「それってあたし達に対する皮肉!?」
「そんなんじゃないってば」
時々妙に突っ掛かってくるアスカを如何に宥めるかが、最近のノヴァスターの悩みの種だったりもする。
「ほ、ほら、そういうミサトさんの事情があるから、俺みたいなのが頑張ることの出来る場所があるわけで……、
ほら……ええと……まあ、家事の上手くないお二人でも、仕事面では大変結構だという事でここは一つ……」
「それって褒めてないでしょ!?」
言い訳に苦しむところに、更にアスカの具合のいい突っ込みが入ってノヴァスターを困らせる。
「あははははは……そうかも」
サングラス姿で照れ笑いする怪しい光景も、アスカは最近なんとか見慣れたものである。
がちゃん。
鈍い音を立てて、卓上に落ちたミサトのご飯茶碗が真っ二つに割れていた。
ミサト本人はと言えば、指の間から箸を力無くこぼし落とし、虚ろに見上げた瞳が宙を泳いでいる。
「……ミサトさん?」
「……ミサト?」
その時になってようやくミサトの異変に気が付き、何事かといった表情でミサトを振り返るノヴァスターとアスカ。ミサトは虚空に向かって聞き取りにくい小声で、譫言を呟いている。一見かなり危ない光景だ。
「ミサト!? 一体どうしたのよ!?」
呆然と佇むミサトを揺り動かすアスカ。幾らか強引に揺すられた衝撃で、ようやくミサトは現世に舞い戻った。
「……ノヴァスター君!?」
地の底から響いてくるような低い声で呼ばれ、ノヴァスターが引いた。
「は、はい、何か!?」
こんなミサトを見るのはアスカ共々初めてなので、ノヴァスターもリアクションに困る。
「……あなた……今さっきなんて言ったかしら……?」
「え、え!? えーと確か……
『ほ、ほら、そういうミサトさんの事情があるから、俺みたいなのが頑張ることの出来る場所があるわけで……、
ほら……ええと……まあ、家事の上手くないお二人でも、仕事面では大変結構だという事でここは一つ……』と」
もしかしてこの一言がミサトの逆鱗に触れたのか、いやミサトはそこまで狭量ではないはずなのに……とノヴァスターが理由も知らずに慌てていると、
「……その前は?」
「そ、その前ですか?
確か『ホント、女性進出って言葉はなかなか難しいものですねぇ……』と」
「……その前よ」
はっきり言って、ノヴァスターにはミサトの形相がなぜこんなに怖いのかが見当も付かない。
「その前は確か……、
『例えばうちの家内なんかは、家事できるだけの腕前はあっても仕事の多忙な身ですからね、
実質は俺が家事を受け持たない事には日常生活が何ともなりませんし』ですね」
「そこ――――――っっ!!」
いきなり勢いよく立ち上がったかと思うと、ノヴァスターの眼前にビシィッと人差し指を突き出した。
「か、か、か、か、家内って……もしかしてあんた!!」
「?『家内』がどうかしました?」
日本語に疎いアスカなどは、いまだに状況が掴めていない。
「あんた……もしかしてその身空で結婚してる訳ぇ!?」
「あれ、言ってませんでしたっけ!?」
「けっ、結婚ですってぇ―――!?」
今度こそ状況の異変を察知できたアスカが、すこぶる険しい表情で突然立ち上がった。それこそ反動で椅子が後ろに吹き飛ぶほどに。
「あんたみたいなアッパラパーな男でも、結婚できるわけ!?」
「……すっごい失礼な事言うね、君(^-^;」
ノヴァスターはただただ苦笑いするしかない。
「世の中白状だわ……こんな変な奴にも奥さんがいるってのに、一体あたしは何をしてるの……?」
ミサトは突然にして、三十路直前の女性の苦悩に捕らわれてしまったようだ。
「こんな変人と結婚する位なんだから、奥さんはさぞかし聖母マリアみたいに寛大な人でしょうねぇ……」
おそらく、この間ノヴァスターに「嫁の貰い手がない」と冷やかされた事に対する仕返しだろう、アスカはアスカで歯に衣着せない凄い言いようである。
「……あなた達が俺の事をどう思っているか、今日でよーく分かりましたよ(-_-メ」
逆ギレを起こしそうになるノヴァスターだったが、
「「だって、あんたが変なのは事実じゃない?」」
「ううう……ハモって言わんでもいいじゃないかぁ(T_T)」
哀れ、ノヴァスター撃沈。
二十三章、作者の予想以上に膨大なテキスト量になりつつも、公開です(笑)
長々と書き連ねた訳には、あまり中身の無い内容になってしまいました。
しいて言えば、ミサトが酔いつぶれていた時のシーンくらいですか、まともなのは。
結局にして、最後の場面だけが書きたかっただけの章だったのかも(笑)
さて次章の予告ですが、おそらく本年度最後の更新になるでしょう。
舞台は再び使徒襲来編に戻り、第八使徒との戦闘が繰り広げられます。
D型装備の弐号機と第八使徒との戦い、そしてアスカの「鏡」となるべく動き出したシンジの行動は如何に。
そして、史実を知るシンジさえも知らない、大きな変動と革命の予兆。
それでは、また次回……。
注・只今作者多忙により、ネット活動全般が鈍っています。
感想メールの返信などは、一週間ほどお待ちいただけるよう宜しくお願いします。
只今新婚四ヶ月。しかし現在は別居中?(笑)
そんな誰かさんが登場するようになってから、テキスト量が青天井に増えていく……(笑)