「こんな所で使徒襲来とは……ちょっと話が違いませんか?」
巡洋艦が一隻、頭部をつんのめらせて海へと沈降して行く様を、ブラインドの狭間からオペラグラスで覗き見る加持。
大方こんな事だろうと、事前に腹を据えていたのはどうやら正解だったと内心時化る。
《その為の弐号機だ。予備のパイロットも追加してある。最悪の場合、君だけでも脱出したまえ》
それはまた随分と踊りにくい掌中である。本人の気性に似ず凹凸が激しい。
「……分かってます」
加持は顔を顰めつつ携帯の電源を切った。子供達とミサトを捨て置くのが後ろ髪引かれるのは当然だが、何よりこんな厄介な代物を依託された身としては、保身が第一もやむを得ないという事か。
ベークライトで完全硬化された『アダム』をネルフ本部まで「移送」する事……それが加持の極秘任務。
横手に控えている、数日分の着替え類とごったにされた「パンドラの箱」が恨めしいのも、今に始まったことではない。加持は、この物体がこれから巻き起こす悲劇に憂うのを、片手分を越えた時にとっくに止めていた。ゲンドウがこれを納めて何とするべきか……手中にある筈の「鍵」はやはり何も語りかけてはくれない。
やはり、真実は自分の眼で確かめるしかない……か。
加持は再び腹を据えた。
だが、加持はおろか、ゲンドウさえもゼーレさえも与り知らぬ真実。
本物の「パンドラの箱」は、ベークライトなどに収まる器ではなかったという事。
「へ―――っくしょい! ぐしゅ……潮風に当たりすぎたかなぁ?
まあいいや。とりあえず、ブリッジに急ご」
パンドラの箱は今日も元気だった。
「LCL Fulling.Anfang der Bewegung.Anfang des Nerven.anschlusses……」
厳かな言霊が、エントリープラグに響く。アスカは弐号機に語りかけるような起動解除を促していた。
「An−suloses von links−kleidung.Sinklo Start……!」
搭乗者を認識し、システムが起動を開始すると、無機的な内部壁に虹色の光が走る。いつも通りの事だ。
そう、いつも通り……いつも通りに動かせば、使徒なんて敵じゃない。アスカは自らに重ねて言い聞かす。
気圧されるなんてあってたまるか、アタシはエヴァのパイロットなんだ……それがアスカの願った決意。だがそれも、その後ろで悠長に寝入っている少年のがまだ遥かに上だった。
少なくとも、思考モードの融通に気付くほど今のアスカの心に余裕はない。シンジがドイツ語を操れるか否か……そんな憂いは既に忘却の彼方であった。
もっとも、シンジにしてみてもそんなみっともない真似は出来ない。一見寝惚けているようで、内心シンジは少ないドイツ語の語彙を駆使し、思考ノイズを必死に回避せんとする涙ぐましい空回り努力に終始している。二人の思いは何処までも錯綜的なのだ。
「エヴァンゲリオン、弐号機! 起動!!」
アスカが目一杯操縦桿を引き上げる。
《各班、艦隊距離に注意の上、回避運動!》
「状況報告はどうした!?」
副長がマイクに向かい苛立たしげに吠えたてた。先程から艦内連絡に乗ってくる言葉は限って「避けろ、逃げろ、撃て」の類ばかりで、どいつもこいつも現状を認識できた者がいない。
「何が起こっているんだ!?」
艦長でさえこの認識レベルなら、取るに足りない。物陰で様子を伺っていたミサトも焦れて、意を決してブリッジに乗り込んだ。
「これは私見ですが、どう見ても使徒の攻撃です。我々ネルフ陣の対処にお任せ願いませんかね?」
艦長は白昼夢を払いのけるかのように荒声を立てた。ミサトの言葉など出来うる限り蚊帳の外に追放だ。
「全艦任意に迎撃! 水中魚雷装填!」
「……無駄なことを」
事態の深刻さをいち早く察したミサトの嘆きだった。
「しかし、何故使徒がここに……まさか弐号機!?」
ミサトがここに来た主目的は、敵襲に対する防衛義務ではなく国連軍への折り合いである……そう認識していたのはミサト自身だけだった。よもや使徒が直接ここを狙ってくるとは思いも寄らなかったし、最悪にしても、第三新東京市への侵攻途中の使徒との遭遇が有り得ると考えてのソケット移送でもあった。だがあの敵性体の様子を推し量るに、あれは初めからここを目標にしていたのではないかと思えたからだ。
やがて、敵性体を観察している内に、ミサトは一つの憶測を生んだ。
「……やっぱり、何かを探しているみたいな動きだわ」
だとすれば、ミサトが考え得る物は一つ……「弐号機」に他ならないと。
そしてそれは、加持の憶測よりは幾分真実に近かった。
「何故沈まん!?」
とりあえず、魚雷や迎撃ミサイルを当てて済む話ではないのに、横隣の艦長が耳障りだった。
《オゼローより入電! エヴァ弐号機、起動中!》
その時、ブリッジに朗報(と思ったのはミサトだけであろう)がもたらされる。
「なんだと!?」
「ナイス、アスカ!」
この時ばかりは、先走りしがちなアスカの性格に感謝した。堅い連中を口八丁で納得させるよりは、弐号機パイロットの現場判断からの済し崩しのが対応は易い。
実際隣の艦の大型天日シートが持ち上げられる光景は、ミサトを年甲斐もなく高揚させる。
「いかん、起動中止だ元に戻せ!」
一瞬で冷めさせてくれる事を言う。ミサトは居ても立ってもいられず艦長からマイクを分捕った。
「構わないわアスカ、発進して!」
「なんだと!? エヴァ及びパイロットは我々の管轄下だ! 勝手は許さん!」
「何言ってるのよこの非常時に! 段取りなんかに拘ってる場合じゃないでしょう!?」
終いには艦長とマイクを争って諍いが始まる。ミイラ取りのミイラだ。
「しかし本気ですか? 弐号機はB装備のままです!」
事態を一瞬忘れかけている二人に変わって、副長が現状を告げた。血相を変えたミサトが弐号機を振り向く。B型装備と言えば、特殊装備を何一つ行っていない「素」に等しい。水中戦対応はおろか、特殊兵器の一つたりとて装備はしていない事になる。
「アスカ!!」
「行きます!」
敵は一直線に弐号機搭載艦へと船足を変えていた。下手な高速艇よりも遥かに速いその敵襲よりもなお速く、弐号機は付近の駆逐艦へと飛び乗った。逃げること叶わなかった艦はいと哀れ使徒に両断され、飛び乗られた艦の船員はまるで生きた心地をしなかったという。
ところがアスカは、不安定な足場に気を取られている間に敵を見失った。だかどの道再度自分を狙ってくるだろう……そう割り切って、アスカは残り一分弱を指す内部電源計に視線を移した。
「ミサト! 非常用の外部電源を甲板に用意しといて!」
「分かったわ!」
ここまで繰ればあとは一蓮托生、ミサトも快諾の返事を返す。
そして、それからのアスカの行動は暴威の極みであった。直線で百数十メートル離れている「オーバー・ザ・レインボー」に向かう為に、海上の艦を軒並み一足飛びで飛び跳ね回るのだ。超重物体に飛び乗られたお陰で敵の来襲を待たずして全艦総被害である。彼女の辞書に「遠慮」という言葉はない。
一方のオーバー・ザ・レインボー側も、蜂の巣をつついたような大騒ぎで甲板上は大わらわ。
《予備電源出ました!》
《リアクターと直結完了!》
《起動甲板待避ーっ! エヴァ着艦準備よし!》
この頃になると副長以下も腹を括ったか、結局なし崩され幾分許容的になる。
「総員対ショック姿勢!」
「出鱈目だ!」
艦長だけはまだ未練を残していた。
「エヴァ弐号機、突貫しま―――っす!!」
絶大な衝撃が艦内を走る。やや着地姿勢を崩した弐号機の為に船体は傾き、甲板上の物体は軒並み海の藻屑と消え果てた。それこそ一発数億円の対迎撃ミサイルから、一機数十億円の戦闘機まで……どちらも法外な原価ではあったが。
これでまた何処かの国が一つ傾いただろう。
《目標、本艦に急速接近中! 左舷9時方向!》
人間様の財政事情なと露知らず、敵性体は再び一直線に弐号機を捕捉してきた。
アスカは素早く弐号機に外部電源を接続し、長期戦闘に備える。
「アスカ! B型装備じゃ武装がないわ!」
「プログナイフで十分よ」
ミサトの心配を余所に、事態の重さを軽視するアスカは意気揚々。
それもその筈、本来のアスカの戦闘シミュレーションは斬撃兵器に重点を置いて行われている。勿論射撃もそつなくこなすアスカだが、彼女自身が前線での戦闘を好む向こう見ずな性格なので、自然とプログナイフやソニックグレイブ系の武器が手元に残るのだ。
やがて、正面に水柱が跳ね上がった。弐号機はプログナイフを正面に構え、戦闘体制に移る。
シンジはまだ目覚めない。
海面からついに使徒が姿を現した。全長はゆうに見積もって300m以上はあるだろうか。
だが、使徒は身体中央部に位置するコアさえ破壊すれば良いと聞く。アスカがプログナイフで勝算を見積もったのもこれが起因だ。同時にミサトも、多少敵の「なり」が大きかろうと使徒には近接戦闘が最良と踏んでいた。しかも敵はラミエルとは違い生体だ。ほかの場所とて傷付ければ相応の痛手にはなるだろう……と。
だが実際、ここで敵の特性を冷静に見つめている時間はない。一念発起、リハーサル無しの戦闘を強要されるのが使徒戦である以上。
ガギエルが海面で跳ねた。戦艦級のその巨体で、甲板の弐号機に超重攻撃を仕掛けるが、弐号機はプログナイフを捨ててまでその巨体を食い止めた。
「アスカ! よく止めたわ!」
「冗談じゃない! 飛行甲板が滅茶苦茶じゃないか!」
だが、やや力押された弐号機の足が突然昇降タラップを踏み外す。そのまま雪崩のように海面に沈んでいく弐号機とガギエル。
「落ちた!?」
居ても立っても居られなくなり、マイクを握るミサトの手が強張る。一瞬後には自分がマイクを握っていた事をようやく思い出し叫ぶが、その頃にはミサトの顔面は蒼白に近かった。
「アスカ! B型装備じゃ、水中戦闘は無理よ!」
「そんなのやってみなくちゃわかんないわよ!」
余裕の無くなってきたアスカの言葉に、ミサトは心配の色を隠せない。
だが艦長達の体面上、長いこと不安な表情も見せては居られない。ミサトはミサトなりの戦いがあったのだ。
甲板に擦れて、唸りをあげながら水中に引き込まれていくアンビリカルケーブル。
シンジはいまだ目覚めない。
背びれに食い付いている弐号機を引き剥がすべく、ガギエルは海中を縦横無尽に蛇行する。時折海底に擦り付けては、旧横須賀の市街跡地を蹂躙する。
それでも弐号機は懸命に食い付いていたが、やがてそれもケーブルの長さと共に限界が訪れる。
伸張が限界になる瞬間、弐号機を衝撃が襲う。歯を食いしばって必死に耐えていたアスカも、これにはさすがに耐えきれずガギエルから手を離さざるを得ない。
「しまった……!」
《エヴァ、目標を喪失!》
「!?」
ミサトの焦燥はいよいよ本格化して来た。アスカの腕を信用していない訳ではないが、なにせ不利な条件の多い戦闘だ。武器も装備も貧相、あげくに前例のないエヴァによる水中戦闘。ミサトが進退押し迫った時、甲板上に変化が現れた。
生き残っていた昇降タラップから現れた一機のVTOL機。それが視野に入ると同時に、外部放送のスピーカーから響く加持の声。
「かぁじぃ!」
渡りに船とばかり、ミサトが驚喜した。飄々として捕らえ所のない男ではあるが、こういう時は頼りになる男なのを知っている。
だが、次に加持の口から突いて出た言葉はミサトの期待を見事に裏返した。
「届け物があるんで、俺先に行くわー」
……あきれ果ててぐぅの音も出ないミサト。
無論、戯けてはいるが加持には重大な任務がある、逃げる口実はその誤魔化しにすぎない。
「じゃよろしくー! 葛城一尉ー!」
加持は何故かミサトの階級を強調しながら、蒼空へと旅立った。
「あ……あ……あのバカ―――!!」
ミサトは勢いも空しく虚空に吠える。思えばほんの一瞬でもあんな奴に頼った自分が馬鹿だったと相当の後悔を兼ねつつ。
「まぁ、いいんじゃないですか。彼には彼の事情があるのでしょう」
茫然自失のミサトが声のする方を振り返った。
あらいい男、もとい、加持と同系統の匂いがしないでもない……油断ならないわね、などと場違いに値踏みつつ。
「ネルフ本部作戦課所属、葛城ミサト一尉ですね?」
男はやや改まって手を差し出した。
「え、ええそうだけど、あなたは?」
一方やや取り乱したままのミサトは半信半疑な視線をその青年に向けた。
だがその青年は屈託のない無邪気な笑顔を返すのみ。その黒いサングラスとは多少アンマッチだったが。
「私はネルフ第二支部作戦課所属、ノヴァスター=ヴァイン一尉です。
今回弐号機移送に関して、同時に本部への出向辞令を受けてきた者です。以後お見知り置きを」
丁寧で美麗な声で自己紹介するが、シンジとの対面時とは何故か経歴が違う。勿論ミサトがそれを知るはずはなく、状況に流されるままノヴァスターと握手を交わす。
おまけに、多少の混乱が正確な判断能力を奪った。ミサトは「渡りに船」の対象をノヴァスターに切り替えてしまっていた為か、彼の言葉を鵜呑みにしてしまっていた。
もっとも、ノヴァスターの言葉もその時だけはまんざら嘘はなかったが。
「それで、ドイツ支部の作戦課が、私に御用ですか?」
「状況が状況でしょう。立場上俺も何か手伝わせていただきますよ。まずは……」
弐号機が水没しているであろう海域に顎をしゃくる。
「あいつを何とかしましょう」
「え、ええ」
《目標、再びエヴァに接近中!》
「来たわね……今度こそ仕留めてやるわ!」
アスカは操縦桿をギリリと引き上げたが、弐号機からの反応がない。
「な、何よ、動かないじゃない!?」
操縦桿を何度もいじくるが、それでも多少首根っこが稼働する程度で、機動系に浸水したのか全身の動きがひどく鈍い。
そうこうしている間にも、使徒は眼前に迫っている。アスカはやがて自分の無力を知ると、心の底に閉じこめていた恐怖の感情が首をもたげてきた。
「ちくしょうっ、こんな肝心なときに動かないだなんて!
このおっ、動けっ、動けっ、動けぇっ!!」
半狂乱で操縦桿をがなり立てるが、弐号機の動きは相変わらず芳しくない。
やがて獲物を前にして、ガギエルの口が大きく開いた。
恐怖感覚を刺激する為に存在するような荒くれた歯並びと、何処までも飲み込まれていきそうな暗黒の喉がアスカの眼前に迫ると、アスカはいよいよ取り乱し始めた。
「い……いやあっ!! まだ何にもしていないのに、こんな所で死ぬのは嫌ぁぁっっ!!」
操縦桿から手を離し、代わりに頭を掻き抱いて身を震わせる。迫り来る死の恐怖よりむしろ、自らの無能を悔やんでいるかのような悲鳴であった。
だが現実は無情にも、弐号機を咀嚼せんとばかりガギエルの口が弐号機を捕らえた。弐号機の胸部に食い刺さる歯の痛覚が、そのままアスカの胸にキリキリと突き刺さる。
「嫌あっ、嫌ぁっ、嫌ぁっ……嫌ああああっっっっ!!」
取り乱したアスカには、痛覚よりまだ死の恐怖が勝っている。打ち震えているアスカに、もはや戦う意欲は欠片もない。
「アスカ! アスカ! アスカッッ!!」
一方、アスカの悲鳴だけを聞きつけなければならない立場のミサトは生きた心地がしない。こちらも悲鳴のような声でアスカの名を連呼するが、届いている様子がない。
「アスカ! お願いだから戦って! 今はあなただけが頼りなのよ!」
シンジの事はすっかり失念しているようだ。もっとも、シンジか弐号機に同乗しているなどとは知らぬのだから無理はないが。
「何とか……何とかならないの!?」
ミサトは言葉で自分を責め立てた。この状況を打開するには、アスカの恐怖心を取り除かないことには始まらない。ならばどうやってアスカを励ますの……? ミサトは無力な自分が歯痒かった。
その時、ミサトの手から優しくマイクを奪う男がいた。
《あーあー、ただいまマイクのテスト中。テステス、テステス。本日は快晴なり……よしっ。》
《ぴーんぽーんぱーんぽーん! あー……第三新東京市在住の碇シンジ君、碇シンジ君。そろそろ意地を張るのは止めましょう。そろそろ意地を張るのは止めましょう。 いい加減起きて、アスカの手助けをするが妥当でしょう。繰り返す、アスカの手助けをするのが妥当でしょう。 ぴーんぽーんぱーんぽーん!》
ミサトが怪奇現象でも見ているかのような目でノヴァスターを伺う。
だがノヴァスターはと言えば、食後の一仕事を終わせたかのような爽快な笑顔を見せていた。
(……なんなんだあの人は?)
流石のシンジも呆れ果てて二の句が出ない。
「そこにいるんだろー、シンジ。いい加減意地張ってないで、手助けしてやったらどうだ?
アスカを『懲らしめる』のもそのくらいでいいだろう? 俺にはその行動の根拠はわからんけどな」
ミサトの顔が、事態を把握していくにつれて紅潮する。
「シンジ君!! あなたもしかしてそこにいるの!?」
ノヴァスターの横合いからマイクに向かって叫び立てる。
そして通信機から返ってきたのは、少女の悲惨な悲鳴と、少年の抑揚のない返事であった。
「……居ますよ。それがどうか?」
「あっ……あっ……あんたって人はっっ!!」
ミサトが烈火の如き怒りを示すが、ノヴァスターが静かに諭しだした。
「まあまあミサトさん。責任言及は後にしましょう。
とりあえず今は、使徒殲滅が最優先です。冷静になって」
こう静かに窘められては、ミサトも落ち着かざるを得ない。怒りのあまり、あと一歩で作戦部長として今の状況を完全に忘れ去るところであったからだ。
「……言及に関しては保留しておきます。いいことシンジ君?
こうなったら手段は選んでられないわ。アスカに代わってあなたが弐号機を操作しなさい。
使徒は今弐号機に食い付いているのね。ならばこちらにも手段はあるわ。
今回は全面的にこちらの指示に従いなさい。今度こそ独断先行は無しよ」
「……」
「返事は!!」
「……武器がありません」
そう、B型装備の唯一の武器プログレッシブナイフも、先程ガギエルとの一悶着の時に甲板に落としたままなのだ。ミサトが甲板に視線を翻すと、甲板に突き刺さったナイフが一本、惨めに天日に映えていた。
「……大丈夫、方法はあるわ」
さらに視線を翻したミサトは、艦隊でたった二隻無事に生き残った巡洋艦に視線を向けた。
「その必要はありませんよミサトさん」
「え?」
またこまっしゃくれた事を言うのはシンジか、と思ったミサトだったが、何故か自信たっぷりに笑っているノヴァスターの表情を見たとき、発言者が彼である事を確信した。
「……どういう事です?」
「ミサトさんの作戦はおおかた察しました。確かにそれは奇抜なアイディアでかつ、有効でしょう。
でも、使徒一体に戦艦二隻の特攻じゃあ、割が食わないってモンでしょう?
ここまで荒らされたら、あとは無償で倒して見せなきゃ溜飲が下がらないってもんだ」
ノヴァスターは親指と人差し指で輪を作りながら不敵に笑う。そして再びマイクを握りしめた。
「シンジ、さっきのレッスンの続きだ。
プログナイフもない、戦艦特攻もない、この状況でいかにして使徒を殲滅する方法があるか、
五十文字以内で答えよ。配当10点満点だ」
「……一体何者なんですあなたは?」
シンジの苛立たしげな声が返ってくる。
「いいから答えるんだシンジ。それとも、ここで全てを台無しにするつもりか?」
「くっ……!」
それを言われれば返す言葉がない。そうだ、自分が弐号機に乗り込んだ本当の理由は、アスカを助けるためじゃなかったのか! と心の中で反芻するシンジ。
だが、今操縦席で打ち震えているアスカは、明らかに自分が追い込んだのだ。
その背反に苦しむシンジ。アスカを救うために、アスカの心を追いつめている自分に。
「……ガギエルの口をこじ開け、一つだけ残った武器、ATフィールドをガギエルのコアに叩き付け破壊すること」
考え込む時間も無く、シンジが答えた。先刻ノヴァスターに教わったことを少し応用して考えれば容易な事だったからだ。
「四十八文字……10点満点だ。だが、お前一人で本当に出来るのか?」
「出来る出来ないじゃないんです。その為に僕がここにいるのだから。
償うことが出来ないのなら、せめて『その時』までは全てを掛けて守り通してみせる!」
「……いい心意気だ、シンジ。朗報を期待して待ってるぞ」
ノヴァスターはそれっきり通信を一切切った。
「……どういう事です?」
ミサトの眼が怪訝さを訴える。ノヴァスターとシンジの間に朧気に見える、意味深い連帯感に向ける怪訝さだ。
「なぁに、あいつはれっきとした日本男児だ、という事ですよ」
「はぐらかさないで。真面目に答えて」
ミサトがノヴァスターを真正面に見据える。だがノヴァスターから返ってきたのは意外にも、驚くほど真摯な表情であった。
「こう見えても大真面目ですよ、俺は。
見届けてやってください、あいつが性根を据えた時の生き様をね」
ノヴァスターは水平の彼方に遠い視線を向けていた。
黒いサングラスの縁が、陽光に輝く。
操縦を忘れ、打ち震えているアスカをそっと放っておきながら、シンジは身を乗り出し操縦桿を握りしめる。だがその時分になって、ようやくアスカが現状に勘付いた。
「ア、アタシのエヴァだって言ってんでしょ! か、勝手に触らないでよ!」
「まだそんな事に拘っているのか。
自分こそ、そんなに震えている状態でまともに戦えるわけないだろう? 大人しく座ってるんだ」
「何命令ぶってんのよ! アタシが黙ってアンタに操縦を任せるとでも思ったの!?」
アスカの怒声はあくまで、弐号機と手柄を横取りせんとするシンジへの憤嫉だった。
「認識が足りないな」
あまりに冷酷な声と眼差しに、さすがのアスカもたじろいた。
「今までの戦闘で分かったよ……君は戦いに向いている性格じゃない。
見栄や体面だけでチルドレンをやっているようなら、君の似非才媛ぶりも今日限りだ。
……エヴァには二度と乗るな。次は命がないぞ」
シンジはそこまで言い放った後、左操縦桿奥にある、とある計器に手を触れた。
「なによ、人の事何でも見抜いてるみたいに! 分かったような口叩いて!
アンタにアタシの何が分かるってのよ!! 何でアンタなんかにいっっっ!!」
アスカが憎悪の余り今にもシンジに組み掛かりそうになったとき、アスカは自分の意識が急にぼやけていくのを感じた。薄れ行く視界の中、アスカが最後に見たのは、鼻と口を手で塞ぎながらも哀れんだような視線を自分に向けるシンジの姿であった。
(LCLの酸素濃…度を跳ね……上げた……わ…………ね…………)
アスカは完全に意識を失った。
一方、酸素濃度を平常に戻したシンジは、警音を鳴り立てる周囲の機器に気が付いた。
ドイツ語モードで起動しているさなか、日本語で口喧嘩の応酬をしていたのだから当然である。
「しょうがない……思考モードを日本語ベーシックに変換。
シンクロ対象を変更、パイロットをセカンドよりサードに認識変更」
気を失っているアスカを操縦席に横たえさせたまま、シンジは狭い側面部で器用に一様の操作を行っている。だがそんなシンジにも心配事はあった。
本来アスカがメインパイロットであるならばシンジが操縦する上での媒体ともなりうるが、ダメージを負った今の弐号機をアスカに委ねておくのは危険すぎる。ならばシンジ自身にシンクロを移行すれば済むかと言えばそう簡単にもいかない。エヴァは思ったよりデリケートなシステムなのだ。いくらノヴァスターが簡易的にパーソナルパターンを組み換えてくれたとは言え、それはノヴァスターの用意した「きっかけ」にすぎない。
案の定、弐号機は拒絶信号を発し、シンジの一切の干渉を受け付けなくなっている。
シンジは悩んだ。どうすれば弐号機が動くのか、どうすれば自分を操縦者だと認識してもらえるのか。
本来弐号機のコアが、シンジを守る道理はない。シンジとて守ってもらうつもりで乗り込んだのでもない。シンジはただ、今自分の横に横たえている少女だけを守るべく戦っているにしても、それを弐号機のコア……キョウコに説く術がない。「ゼロ」としての自分はもう居ないのだ。
それでもシンジは、胸が張り裂けんばかりの思いで語るのだ。あらん限りの決意を込めて。
「……僕が何を言っても許される状況じゃないのは分かってます。
ただそれでも、アスカを守りたいという意志にだけは、一点の曇りもないつもりなんです。
たった今、この瞬間だけで構いません。あなたの娘さんの為だけに、力を貸してください!」
シンジが操縦桿のリミッターを解放した。オーバードライヴを発動させることで、瞬時に劇的なパワーをもたらす代わりに、弐号機の稼動部を著しく損傷することになるだろうが、背に腹は代えられない。
「……これでもし動かなかったら、僕はアスカとこんなところで犬死にか」
もしエントリープラグを射出させたとしても、この広大な海原に投げ出されれば救助も間に合うかどうか怪しい。第一敵の侵攻をみすみす許してしまう事は出来ない、本部に残った綾波には正直荷が重い敵だ。それに、今のアスカにとって弐号機は精神的な意味ではまだまだ必要だ。アスカの大事な母親を、こんなところで失うわけにはいかない。
失敗なんか許されない。ここでこの使徒を倒せないようでは、どの道自分の計画に先はないのだ。
それがアスカの意志をも越える、シンジの絶対不動の意志。たった一年耐え抜いてもらえれば、確実に成就される悲願。
「お願いだ、あなたが自分の娘さんを大事に思ってくださっているのなら、
こんな奴に力を貸すのも、今回限りの苦行だと思って耐えてやってください!」
シンジが操縦桿を目一杯引き上げた。心の中で必死に「動け!」と念じながら、そして咆吼しながら。
弐号機は、シンジの期待に応えた。
機体の駆動圧がリミット値を記録する。シンクログラフが跳ね上がる。
頭部拘束具を解放し、弐号機は暴走同然の状態と化した。
「!? よし、行けるぞ……開けぇぇぇっっっ!!」
極度に肥大した両腕部の筋肉が、ガギエルの口をこじ開け始めた。少しずつ、少しずつガキエルの口が押し開かれ、ガギエルの喉の奥に紅球が確認できる状態になる。
だがここからがネックだ。シンジがATフィールドの刃を作り出すには、最低でも片手がフリーにならない限り攻撃は出来ない。だが今ガギエルの口をこじ開けるのには両腕で一杯だ。当然ガギエルの方とて只ではやらせない。両顎には更に万力のごとく力が加えられ、弐号機を噛み砕かんとしている。
ならばと、弐号機は両腕の代わりに背部の僧坊筋付近でガギエルの上顎を持ち上げ、シンジは歯を食いしばる。一歩息を抜けば噛み砕かれるであろう状況は変わりがないが、両手が空いただけ状況は好転した。
「ここは既にATフィールドの中和範囲内だ。ここでそれ以上にエネルギーを捻り出すには……」
弐号機は両掌を合わせ、掌の中の狭い空間に高濃縮のエネルギーを生成する。やがて蓄積したエネルギーが破壊力十分と察した瞬間、シンジはコアに叩き付けるように目一杯の力でエネルギー体を投げつけた。
「いっけぇぇぇぇっっっ!!」
海面に、絶大な高さの水柱が立った。
その光景に呆然とするミサト、そして船員一同。
ノヴァスター一人だけが全てを見抜いていたかのように、相変わらず屈託のない笑顔を見せていた。
「ごくろーさん」
エントリープラグから這い出たシンジを待っていたのは、手に缶コーヒーを二本持ったノヴァスターだった。その横では、アスカを乗せた担架を担いだ救急隊が所狭しと騒いでいる。救急隊に紛れて、青ざめているミサトの顔も垣間見えた。
「ほい。お前さんの分だ。……しかし、ちと酷いんでないかい?」
アスカが担がれていく様を見ながら、ノヴァスターが呟いた。過呼吸を起こしていたアスカの容態は一歩間違えれば命に関わる。冷静に振る舞っているようで実は気が気でないシンジだったが、医師が無事を伝えると、心のうちで人知れず安堵していた。
(ヤシマ作戦の時といい、所詮僕の手際はこんなものか。もっと安全なやり方があったはずなのにな……)
「それは、アスカを出し抜いた事ですか? それともアスカを半死半生に追いやったことですか?
そのうちこんな事は茶飯事になりますよ。使徒との戦いが熾烈になるに連れてね」
(その度にアスカは僕に対する憎悪を深めて、やがて憎悪は殺意にまで昇華するだろうから)
「……君は、彼女の手に掛かって殺されたいのか?」
シンジはまたも核心を突かれた。どうにも隠し事の出来ない人物である。
ただ今回の件では、本来イレギュラーな彼の存在にすっかり世話になってしまった。頭部に装着していたインターフェイスが正常に働いたのは確かなのだから。
気心を許したわけではないが、嘘で取り繕える相手でもないのならば、シンジは幾分の真意をも漏らす。
「まさか。彼女に人殺しの罪を着させるつもりなんかありませんよ。
僕を殺せるのは僕だけだ。それだけは……誰にも譲れない」
缶コーヒーの苦さを口に含みながら、シンジが呟いた。
「……大丈夫。最後に微笑みを勝ち取るのは彼女達だ。ならば僕はまだ、戦えるさ……」
それは、必死に自戒している姿であった。
「……とりあえず、マグナム使う羽目にならなかっただけマシか。
なんか預けておくと物騒だから、もう返してくれよな」
シンジが思ったよりすんなり銃を差し出したのに合わせて、ノヴァスターは安堵の溜息をついた。
「いざという時はこれでアスカを脅そうかと思ってたのになぁ」
「まったまた、お前さんの性格でアスカにそんな危険な事できるわきゃあないだろう?
出来ないことを無理にしようとするから無茶を起こすんだよ。ったくやんちゃ小僧め」
シンジの悪びれも何のその、ノヴァスターは一つ苦笑するだけで、見事に肩透かしを食らった。
だかそれでも、彼の言葉が嫌味とも思い切れず、シンジは彼に合わせて自然と苦笑いを返す。
いつ何処でどんな状況になろうとも笑みを絶やさない彼の性格に、シンジは既に魅され始めていたのだ。
「……なぁシンジ、使徒ってえ奴はネルフ本部を狙って来襲する筈だろ?
俺にはどう見ても今の使徒は、この船を狙っていただけのような感じがしたんだけどなあ」
損傷の激しい甲板からブリッジを見上げつつ、ノヴァスターが問いかけた。そしてそれは、意図せずミサトと同じ見解である。
傍らのシンジは一気にコーヒーの残りを飲み干すと、ぼそりと呟く。
「加持さんは上手く逃げおおせたんでしょう? なら何も問題はありませんよ」
「? どうしてそこで彼が出てくるんだ?」
「おおかたミサトさんは、使徒の狙いは弐号機だと思っているでしょうけど、
本当の狙いは加持さんの持っていた物体ですよ。……僕はそれ以上は知りません」
よもや一介の人間に、加持が『アダム』を持ち運んでいるなどと解釈する訳にも行かない。
シンジは「ゼロ」の人格が覚醒したとき、真実を知った。謎の全てを知り尽くしていた……つもりだった。
「ふうん……良く知らないけど、俺にはやっぱり、使徒は弐号機だけを狙っていただけのような気がしたけどね」
「まさか」
なのにシンジは何故か、その言葉を強く否定する事が出来なかった。
この世界は既に、自分の思惑とは大きく外れた動向を示していることに。
二十章後編、お届けいたしました。
正直言って、第八話の時点で、シンジがアスカに向かって「エヴァには二度と乗るな」などと暴言を吐く小説は見たことがありません。(少なくとも私は(^^; )シンジが「結果」に急ぐばかり、「過程」が踏み固められていないのです。
でもそれは、シンジにとっては真理なのでしょう。アスカにとってエヴァに乗って戦う事がやがて苦痛となる事を知っていれば、意地でも乗せたがらないのも一理でしょうから。
「エヴァは忌まわしいもの、でも大事な人が閉じこめられているもの」
シンジにとって、恐らくエヴァとはこういう物体です。使徒の襲来に関しては貴重な戦力でもあるし、場合によってはアスカの心的な支えでもあると知っているからこそ、無下にもしておけないというジレンマ。
いずれにせよ、シンジにとって「エヴァ」という物の意味合いが、「以前」よりも大幅に変わっているのは違いありません。
さて次回は、第七使徒の襲来です。分裂能力を有する使徒に対し、シンジは単独でどう戦うのか。
そして、出演早々シンジとの亀裂を決定的にしてしまった、アスカの運命の行方や如何に(^^;;;
それでは、また次回……。
ユニゾン攻撃? なーんの事やら(爆)