彼はシンジの隣まで歩み寄るとサングラスを外し、男性にしては意外と端正な顔を現わした。だがその顔は生憎シンジの側からは逆光となり手を翳さなければ伺えないが、シンジがその手間に応えるはずもない。
「よっ、時化た顔してどうした、少年!」
シンジはそれには答えず、何事もなかったかのように水平線へと視線を戻す。無視した事で相手を怒らせるかな、程度には考えるが、そんな事にはもう慣れていた。
だが実際彼はそんなシンジの態度に苦笑と共に溜息を一つ付くと、黙ってシンジの隣りに付き添った。今度はシンジが意表を突かれたような顔をしたが、彼はそれに気付かない振りをしたまま水平線へと視線を送り続ける。
「何か見えるのか?」
「……?」
「海の向こうばかり呆然と眺めているからさ、
てっきり何か物珍しいものでも見えるかと思ったんだけどな」
シンジが見渡していたのは南側の方角の海だった。太陽の日差しを直に浴びるため、彼はサングラスをはめ直す。
「……何の用ですか?」
シンジが初めて口を開いた。もっとも、努めて無感情に振る舞っているのは相変わらずだ。
青年はまたも一つ苦笑を浮かべたのち、「甲板でふと歌いたくなったのさ」と呟くと、再びアカペラで歌い始めた。
波飛沫の合間を抜ける潮風に、吹き流されるように飛び交う水鳥の群れ。時折水面に口を寄せては、懐中の小魚を掻い摘むのか、或いは只の水浴びの戯れか。
ノヴァスターの澄んだ歌声が、波間を泳ぐ。その歌声は、シンジの耳から潮騒を奪い、彼の脳裏の淀みをもしばし忘れさせる。
切なくも甘く歌い上げる彼の心境に吸い込まれたか、シンジ自身いつしか歌の虜となっていく。それは、所々聞き取れた英詞の意にも由来するのかも知れない。
それは……自ら望んで破滅に身を堕とさんとする少年を謳った物語。
やがてその悲歌も終わりを告げる。それを見計らったかのように、シンジがぼそりと口を開いた。
「……何という歌なんです?」
外界に興味を向けただけ、良い兆候だろうか。ノヴァスターも陽気な笑顔を返して答える。
「タイトルは忘れたなぁ。CDジャケット見れば分かるんだけど……ってあたりまえか。
まあいいや、気に入ったのならCD貸そうか?」
シンジの表情が重くなる。
「いえ、いいです。どうせCDプレイヤー持ってませんから」
「? プレイヤーも貸そうか?」
「……いいんです。一人で音楽聴くのが、嫌いなだけなんです」
「はぁ……そういうモンかね」
ふうむ、と小首を一つ捻って、ノヴァスターは水平線へと視線を投げた。
しばらくはそうして甲板の手摺に肘を伸せ気だるそうに首を支えていたが、目と口元は相変わらず小気味の良い不思議な笑みを浮かべている。まるで、シンジと二人きりでいるこの微妙な空気そのものを楽しんでいるかのように。
「海はいいねぇ。特に暑い日差しの中の海岸線は。
照りつける太陽、打ち寄せる白波、七色のビーチパラソル、そして屋台名物かき氷。
こんな日は、仕事も勉強も投げ出してパァーッと遊びたくなるのが筋だと言うのに、
遊び盛りの中学生が、こんな所で何してるんだ?」
横目でシンジの様子を伺うと、シンジはとっくに彼の戯言に都合よく愛想を尽かして、彼方へと視線を泳がせていた。心なしか、軽蔑の意を含んだ溜め息を聞き取った気さえした彼は、
「はいはい、人の言う事は聴きましょぉねぇぇ?」
突然シンジの頭をひっ捕まえ、何を考えたか両こめかみに拳骨を突き当てると、思いっきり捻りと力を加え始めた。だんまりを決め込んでいたシンジもこれには思わず面食らい、叫び声露わに暴れ始めた。
「いたっ、いたたたたっっ!!」
「どうだ、まいったかこんにゃろめ! 人の話をシカトするからだ!」
なんとかして腕の中から逃げ出そうと藻掻くシンジと、離すまじとするノヴァスターとの応酬が暫く続くが、一分弱ばかりその戯れが過ぎると、やがて息の切れたシンジが先に根を上げた。
「わ、わかった、分かりましたから、やめてくださいよっ!」
そのギブアップの一声に満足したか、ノヴァスターはようやく両手を離した。シンジはこめかみを摩りながらへたばっていたが、やがて持ち直すとノヴァスターをキッと睨み上げた。
「何をするんですか!!」
「痛み……で怒っているんじゃないだろ?
他人に、無理矢理実力で自分だけの世界に干渉される事が辛いから、
自分の弱さを逃げ口上にしてあえて鉄面皮ぶる。それさえも逃げ道なのにな」
そこにはただ、図星を突かれて狼狽する少年の顔があるだけだった。
「引っ掻き合いも馴れ合いのうちさ。傷が残るほどの掻き傷も、必ずしもマイナスとは限らない。
なのに、痛がりな気質ってのは損さね。思いやりの気持ちさえも身に浸みる毒になる。
……かつての君がそうだったように、かつてのアスカがそうだったように」
「!? あ、あなたは一体誰なんです!?」
訝るシンジの視線とは裏腹に、彼は自信に溢れた声と瞳でこう言い放った。
「俺か? 俺は……君の道しるべさ」
サングラスの縁が、陽光に輝いていた。
シンジはそんなノヴァスターの言葉を、その時だけは鼻で笑った。
「突然現れて何を言うかと思ったら、一端の説教ですか?
賢人気取りなら余所でやってくださいよ。いい迷惑だ」
「迷惑……ねぇ。出会って早々いきなり邪険にされたもんだなぁ」
シンジのつっけんどんな態度にもめげず、彼はあくまで性根根明るい。
「大人はいつもそうだ。多少長生きしている分にかこつけて、自分でも分かり切っていない事を、
子供には格下だと見下げて説教ぶる。その実自分だって何一つ出来やしない未熟者のくせに」
「説教にヒネて曲がった訳じゃあるまいし、なんでそう悲観的かね」
「……あなたに僕の何が分かるんですか」
その一言は、まさに少年らしい品性の不良さを物語るような代名詞である。
「そして、そんな言葉で他人に自分を軽視させようと考える辺りが君の賢しい部分さね」
シンジはさも容易に真相を見抜かれていた。確かに只者ではない……洞察眼とでも言おうか、他人の心理を推量するその眼力がずば抜けている事をシンジは知る。
額に、冷や汗が走った。
「やめとけやめとけ。その歳で人生悟ったような顔つきしているなぁ……老けちゃうぞ」
ノヴァスターは両手で顔の肉を寄せ、顔中に皺を作ってみせる。
「こーんな感じにしわしわーっとな。シワシワ怪人只今参上〜〜」
奇怪に変形した顔をずずいとシンジへと近付けながら、脅しにもならない脅しで迫る。能面顔を身構えていたシンジも、サングラスと面妖さとのアンバランスに思わず吹き出しそうになり慌てて視線をそらしたが、そらしたその先には奇怪な面妖が見事に先回りしていた。
「べろべろばぁ〜」
微笑みさえも捨て去った筈の少年は、涙を流すほど笑い転げたという―――。
「あ……あはは!……あはははは!! ははは……はぁ……お腹が痛い」
その笑顔がもたらした爽快感の為か、シンジの表情は先程までよりずっと生気に満ち、年相応の顔つきへと立ち戻っていた。
(まったく、こんなバカ笑いしたのはいつ以来だろう……)
自分が笑顔を忘れ去っていた事は、自分自身が一番知っていた。だが、二度と笑えない、いや笑える事はない運命を選んだ自分には迷いも後悔も微塵もない筈だったものを……。
「運命? あーんな物は道行く女の子と一緒でね、その日の気分で気紛れなのさ。
そんな物に対していちいち考え詰めてると、頭病めするぞ」
何の悩みも持ち合わせていなさそうな脳天気さが、どこまでも楽観的だった。
「はあ……あなたには負けましたよ」
シンジが初めて苦笑して見せた。それにつられてノヴァスターもまた、口元を緩ませる。
「おふざけがすぎて悪かったな。謝るよ。
おっと、自己紹介がまだだった。俺の名はノヴァスター=ヴァイン。
職業は、エヴァンゲリオン準整備士……とでも言った所かな、今のところは」
「……碇シンジ。エヴァ初号機専属操縦者、サードチルドレンです」
何とか心を許しあった二人は互いに一応の握手を交わし、再び水平線に見入った。
「……使徒がここに来るのか」
シンジが心拍を跳ね上げたのは、彼の一言に起因する。
「使徒はネルフ本部の地下に係留されている『アダム』との接触を狙い、第三新東京市に来襲する筈。
予想されうるサードインパクトを防ぐ為に配備されたエヴァンゲリオン、そして適格者。
ところが、過去三度使徒を撃退した大事な戦力たる少年を、
この時節にこんな所をうろつかせるという事は、つまりそういう事なんじゃないのか?」
「……何がいいたいんですか」
シンジは抑揚の無い声で話しかけながらも、内心はこの人物の登場に動揺していた。
何故ならば、「以前」のオーバー=ザ=レインボゥにこんな人物は搭乗していなかった筈だから。『史実』の誤差は、今の彼にとって何一つ望ましい物ではない。
「気になるか?」
ノヴァスターが穏やかな笑みと共に問いかけると、シンジは素直に頷いた。
「君の方こそ、前もって何か知っているような口振りじゃないか。
別に俺が何も教えないでも、分かっているんじゃないのか?」
「……僕はあくまで、次の使徒が近いうちに来襲するという事を見越しているだけですよ。
万一のために、今日は大事なエヴァ弐号機の移送の警護の為に来ているだけです」
「それだけの用事ならミサトさんだけで事足りる。お前さんのいる理由はないだろ?」
「!? ミサトさ……葛城さんを知っているんですか?」
「そりゃあ、顔と名前くらいはね。ドイツ支部でも彼女は有名なんだよ」
シンジは、その言葉にだけは何故か違和感を感じた。
「弐号機のパーソナルパターンはこっそり君にも順応させてある。
アスカの力が及ばないと分かったら、迷わずモードを切り替えて君が操縦すればいい」
「!?」
「今更そんな顔はなしにしようぜ。
その為にここに来たんだろ? 使徒を倒す為に。
いや……アスカやレイを護る為に……たった独りで戦い抜く為に」
シンジが恐怖のあまり後ずさった。それは、自分の『本当の目的』を見抜かれた事に対する恐怖である。
「……あなたは一体誰です? 何故その事を!」
シンジは、先刻彼の懐にホルスターを垣間見ている。その気になれば、この人物が自分を抹殺するくらい容易い、それとも裏を知りすぎている彼はゼーレの使者なのか? とまで勘ぐるが、
「!? 何おっかなびっくりしてるんだ? 何もしないって」
シンジの思惑を汲み取ったノヴァスターは、両手を掲げて無抵抗を示す。だが当然シンジの警戒心はそんな程度では緩まない。
「……どうやら、信用は自分で勝ち取るしかないみたいだな」
ノヴァスターは懐から、自分の愛銃であるコンバットマグナムをシンジに警戒されないように勤めて引き抜くと、銃砲を自分に向けてシンジへと手渡す。
「!?」
「そんなにこれが疑わしいんなら、航海の間は預けてやるよ。
ただし、変な事に使うなよ。未成年の手首で扱える代物じゃないからな」
シンジはと言うと、生まれて初めて持った拳銃の重量に驚きながらも、ひたすら手元に興味深い視線を向けていた。それは、年相応の少年らしい興味の示し方その物であった。
「こう見えても、SWAT隊員としての一面も持っているんでね。
尤も、戦場の人間はこんなデリケートな銃は扱わないんだけどな。まあ、型は単なる趣味さね」
ノヴァスターは笑った。
「……さてと、無駄話が過ぎたかな。本題に入ろうか、少年」
ノヴァスターは、弐号機が舶載されている方向を指さした。
「弐号機を君に預ける前に、君に一つ質問しよう。
エヴァの『最大の武器』はなんだと思う?」
「最大の……武器?」
「そうだ」
シンジは真剣に考え始めた。というより、いつの間にかノヴァスターの話に真剣に聞き入るようになっていた、の方が正しい。これから彼が語ろうとしている事に必死に聴き入ろうとしている意欲が、自分事ながら不思議であった。
「威力、という意味ですか?」
「威力だけじゃない。
使い勝手、実用性、汎用度合、そして防御としての一面も働く武器が望ましいのさ」
「防御? ……それってまさか、ATフィールド?」
「ご名答」
次にノヴァスターは両腕を前に付きだし、両手を広げて見せた。
「汎用人型決戦兵器、エヴァンゲリオン。
ならば何故エヴァンゲリオンが使徒の撃退に最も有効なのか、となると、
答えは『ATフィールドを中和できる存在だから』という事になる。
それだけ、ATフィールドは絶対の防御システムとして注目されている。いや、軍隊が業を煮やしている、のが正しいか。
逆を言えば、それだけの硬質的な物質ならば、逆に攻撃にも転用できるという事になる。
たとえばお前さん、経験がないか?
ATフィールドが『防御』ではなく、『攻撃』として役立った事が」
「攻撃……?」
―――シンジの脳裏に、第三使徒との戦闘が回想される。
(あの時、僕は振り下ろしたATフィールドの刃で、サキエルを両断した。
何故なら、ATフィールドの硬質さで勝っている自信があったから……)
「その様子だと、あるみたいだな、経験が。
じゃあ実践は簡単だな。後は手法次第か……」
「手法……?」
「そう。使徒の弱点を直に叩く、手法だ。例えばだな……」
ノヴァスターがその手段を示唆しようとした時、その声は聞こえた。
「サードチルドレン!! ようやく見つけたわよ!」
二人が振り返ると、甲板上に仁王立ちしているアスカが目に留まった。
その顔は、端正な眉を釣り上げつつ一心にシンジを睨み、敵対心を露にしている。流石にここで喧嘩を始めようという雰囲気ではないが、いつ取っ組み合いになってもおかしくない険悪さでもある。
「……ちょっと付き合って」
シンジはその言葉に、即座に弐号機の所へ連れていかれるのだと直感した。だが、アスカのプライドを刺激した自業自得なのだと割り切って、シンジはアスカの後に続いていこうと決める。
どの道ノヴァスターの言う通り、弐号機には自分も用があるのだ。
「少年、これを持って行け」
そのノヴァスターが後ろから声を掛けた。見れば、彼の手中には小型の機械が二個。それはシンジにも馴染み深い、インターフェースヘッドセットであった。
「弐号機対応の物でなきゃ、エヴァは動かないぞ?」
シンジはわずかに逡巡したものの、それを受け取る事にした。
「……どうやら、使徒の来襲まで時間が無さそうです。僕はそろそろ行きます。
アドバイスは参考になりました、感謝しますよ」
「感謝って顔じゃあないなぁ……そうふてくされるなって。まあいいさ、頑張りな」
ノヴァスターは苦笑でシンジを見送った。
だが、アスカの後に付いていくシンジの背中を見たとき、ノヴァスターは自分の軽率さを呪った。
シンジの小腰には、さっき彼が預けたコンバットマグナムがねじ込まれていたのだ。
「おいおい……くれぐれも変な事には使うなよ」
彼は顔に手を当て、空を仰いだ。
アスカが天日用シートを引き上げると、そこにはLCLで満たした貯水槽に浸かっている弐号機がその全容を現した。赤いカラーリングを施された世界初の実戦専用のエヴァンゲリオン、それが今のアスカの全て……シンジは改めて、その因縁の機体に再会した。
「どう? サードチルドレン。
これこそ、実戦用に造られた、世界初の本物のエヴァンゲリオンなのよ! 制式タイプのね!
所詮、開発過程のプロトタイプの零号機と、テストタイプの初号機なんてお呼びじゃないわ」
弐号機の背部に毅然と立ち、我を刮目せよとばかりに自分を誇示してみせるアスカ。
しかし、シンジの目はあくまで遠く、アスカの方を向き直ろうともしない。本来ならこの場にいる事さえはばかっている筈を、弐号機が入り用な以上この場から離れている訳にもいかないのだから。
(問題は、アスカ本人をどうするか……)
プライド高いアスカの事である、まさか自分が一人で弐号機で出撃すると言い出しても縦に頷くわけがない。かと言って、アスカ一人に任せるのも無謀ならば、今度も二人一緒の出撃……もこの険悪な雰囲気が許すまい。シンジの考えはそこで一端行き詰まってしまった。
ここでも突っぱねる自分の性格が災いしたのだ、とヤシマ作戦同様の後悔が胸中をかすむが、今ここで悔いても仕方がない、そうこうしている間にも使徒の来襲は間近に違いないのだから。
ふと、小腰に差し込んでいるコンバットマグナムの感触を思い出した。
背部にずっしりとのし掛かるこの拳銃の存在は、アスカからは死角となって気付かれてはいない。
シンジの脳裏には、その銃を以てしてアスカを脅し、一人で弐号機に乗れまいか……という危険な手段が確立されつつあった。無論、そんな事をしでかした後に、アスカが如何に心的に傷付くかも知り尽くした上で……。
だが、シンジは自らの思考に没頭しすぎて、目の前で声高らかに解説しているアスカ本人をすっかり忘れ去っていた。
「ちょっとアンタ、人の話聞いているんでしょうね!?」
彼女にとって、自分の存在を捨て置かれる事が最も屈辱であり、同時に最も恐れる事である。
他人からの良い評価だけを自らの価値の基準と錯覚する少女。故に彼女は周囲から重宝されるがためのエヴァであり、チルドレンであり、エースパイロットであると自分を評す。そんな歪んだ『しがらみ』からアスカを解放するが為に、自分はあえて不遜を決め込んでいる。最近は、それを強く意識せずして行動の端々に表している自分。その事で多少心の中で自嘲する事はあろうと、最近ではもはやそんな自分を虐げる事さえも捨て置いている。
アスカとは対極的に、彼は自分の価値をすっかり見捨て去っていたのだから。
一方、アスカは自分がすっかり無視されている事に怒りを露にして、シンジに向かって一直線に駆け寄ってくる。貯水槽の水面に用意された浮き板の上を、おぼつかない足取りで駆ける様がなんとも危なっかしい。
そして、このままアスカの接近を許せば、恐らくシンジは張り手の一発二発……でも済むまい。彼女は年頃の女の子より加減がないのだから。
それはそれで構わないが、シンジには別に、アスカを自らに近付けさせまいとする理由がある。実際シンジはアスカがあと三歩自分に近付いた時点で、威嚇のための拳銃を抜く用意があった。
(やっぱりアスカを差し置いて一人で行くのが妥当だな。アスカには後で烈火のように怒られるだろうけど)
そんなシンジの思惑をつゆとも知らず、アスカの憤怒に任せた歩みは止まらない。
だがその瞬間になって、戦艦そのものを揺さぶるような巨大な衝撃が二人を襲う。身構えていたシンジなどはともかく、足場のおぼつかない浮き板を駆け歩いていたアスカなどは、その衝撃に足を取られ大きく体勢を崩し、LCLの水槽に危うく飛び込みそうになった。
「!?」
間一髪、アスカが水浸しになる前に、シンジがアスカの左腕をうまく捕まえ引き上げた。彼女の動きに十分に気を配っていたからこそ、反射的に救いの手が出たのだ。
だが、アスカにとっては当然、シンジにとっても今の行為がアスカにとって過ぎた世話だった事を実感する。案の定、救われた筈のアスカの表情は険しい。
「何すんのよ!」
体勢を立て直したアスカはすかさずシンジを怒鳴りつける。嫌な奴には指一本触られたくもない、年頃の少女のそんな安易な嫌悪感が、荒声を一層掻き立てるのだ。
同時にアスカは空いた右手で素早く張り手を繰り出すが、アスカの気質をよく知るシンジは、彼女以上に彼女の行動を見越し、その張り手をさも平然と左腕で受け止めた。
「なっ!?」
「おふざけはここまでだ。……敵が来たよ」
その言葉に、アスカはすぐさま甲板に向かい駆け出す。アスカに背を向けないように、シンジも後を追う。海上の様子を伺える場所まで駆け付けた二人が見た物は、さながら獲物をつけ狙う鮫の如く海中を蛇行し、太平洋艦隊を縦横無尽に翻弄する物体が水面下で蠢いている惨状であった。先刻二人を襲った衝撃が、奴の仕業である事も確信した。
「敵!? あれが敵だっていうの?」
「そうさ。……第六使徒、ガギエル」
「使徒!? あれが!?」
心なしかアスカの声が震えている。加持の前で誇ってみせていた何百回ものシミュレート訓練も、実戦を目前にした緊迫感をうちほぐすにはやや心許ないらしい。だが、加持の指摘やシンジに対する好敵心の為に、その見に見栄を張りたくなるのもまた、彼女のサガ。
「これは……そう、チャンスなのよ、アスカ」
自らに一つ言い聞かせ自らの緊張を解きほぐし、いざ弐号機へと駆け付けようとした時、アスカは自分の後ろにいた筈のシンジの姿が既に居なくなっている事に気が付いた。
「逃げた……!? 違うわ、あいつはそんなタマじゃない」
そうとなれば、一も二もなく気にかかるのが弐号機。アスカは全力疾走で弐号機の元へと駆け付けた。
ところが、弐号機の横でアスカが見た物は、プラグスーツにも着替えずに他人のエヴァに勝手に乗り込まんとしてるシンジの姿であった。シンジの立場にしてみれば、使徒に気を取られたアスカを出し抜いて一人、迅速に出撃するつもりであったのだろう。
シンジの服装は、出撃前からTシャツにジーンズというラフな物であった。だがその代わり、インターフェースヘッドセットだけは肌身離さず持ち歩いているので、これがあればエヴァとの一応のシンクロは可能である。そしてそのヘッドセットは自分の愛用品ではなく、先刻ノヴァスターから受け取った物である。シンジは彼の言葉のすべてを信用した訳ではないが、今は藁にもすがる状況だった。
誰の掌中で踊ることになろうとも、今はこれでいい。それがシンジの決意。
「ちょっとぉ! 人の弐号機に何してんのよ!」
「……敵が来たのだから、出撃するのさ」
「それはともかく、それはアタシの弐号機よ! 取り違えてんじゃないわよ!」
ズズ……ン、という鈍い音と共に、艦内を再び衝撃が走る。またしても体勢を崩しかけたアスカとは対照的に、シンジはさらりとした表情でエントリープラグのハッチに取り付いていた。
「今ここには戦力はこれしかない。借り受けるよ」
「バカ言わないでよ! だからそれはアタシの弐号機だって言ってんでしょ!?
勝手に持っていかせる訳ないでしょうが!!
ハン、だいたい弐号機は凍結時の初期起動制御にドイツ語によるコード解除と起動準備が必要なのよ!
アンタみたいな学のない日本人に動かせるってんなら話は別だけどね。
ホラ、無駄と分かったらとっとと弐号機から離れなさいよ!」
アスカがどれだけ怒鳴り立てても、シンジにとっては蚊帳の外。
「……打算のない事をするつもりはないんでね。
僕が何の前準備もなしに弐号機に乗り込むとでも思ったのか?
それとももし、これで僕が無事弐号機を起動できたら、貸してくれるかい?」
「そ、そんな事出来る筈ないわ」
そこで初めて、アスカの声に動揺が走る。心理戦は明らかにアスカを気押し始めていたのだ。
「もしできたら……どうする?」
アスカの肩が、これでもかという程跳ね上がった。彼女にとって最も屈辱的な事に、彼女が甘んじる筈がないことを見越した上でのシンジの言動である。
「……も乗せなさい」
「? なんだって?」
「アタシも乗せなさいって言ったのよ! アンタみたいな奴に、弐号機を任せておける訳ないわ。
本当はアンタなんかと同じLCLに浸かるのも真っ平ご免だけど、
こうなったらそんな悠長な事も言ってらんなくなったのよっ!
そのかわり、勘違いしないでよ! 操縦するのはあくまでアタシ!
アンタは黙って後ろでアタシの勇姿を指でもくわえながら見てるといいのよ!
いい!? くれぐれも、邪魔だけはするんじゃないわよ!」
「……好きにすればいいさ」
アスカが至極高圧的に言い放ち、シンジに対してアドバンテージを取ろうとするが、シンジにしてみればそれは今のアスカに出来る精一杯の『虚勢』にしか映らず……。
だが、それは自分も同じなのかも知れないとは考える。
理屈としては、自分とはパーソナルデータの違う弐号機を、自分一人の力で動かすことが難しいから、アスカを共に乗せる事になればより確実性が増す……そんなところだ。だが実際はどうだ、むしろ二人で搭乗する事で不安を掻き消そうとしているのはアスカではなく自分の方ではないのか。
かつて、二人がかりに加え太平洋艦隊総力戦でやっと倒した使徒。今度は自分一人で倒す……? 思い上がりだ、と自分を嘲り笑うシンジ。だがそれは多岐の中から選んだ選択肢ではない、ただ一つ残った、最後の選択肢なのだ。
それも、所詮は茶番劇の域を出ない。自分がここで生きる理由を考えれば。
(……大丈夫、たった一年足らずの我慢だよ、アスカ……)
一方のアスカは、弐号機の『ナシ』をつけた途端に、自分用のプラグスーツを自室から持ち出し、物陰で着替え始めていた。もともと着ていたのがワンピース一枚の割に、覗かれてはいまいかと周囲を警戒しながらの着替えなので、必要以上に時間を掛けている。特にその監視の対象になっていたシンジだが、アスカの着替えなど皆無気にした様子もなく、ひたすら海中の使徒にばかり気を配っていた。
「……早く済ませてくれないかな」
「うっ、うるさいわね! 今終わったわよ!」
一転視線を翻せば、そこには、全身を闘争心に染め上げたような朱で彩られたプラグスーツを身にまとう、アスカの姿。それはまさに彼女自身の決意を表すかのように力強く、そして反面の脆さを垣間見せるような二面性の象徴であり、その可憐な容姿に見惚れる者に、聡明さと痛々しさを植え付けるような儚さ……そう思ったのは、果たしてシンジだけだったのだろうか。
「さんざん人をせかしておいて、自分は着替えもせずに高見の見物!?
フン、さすがネルフ本部お抱えのチルドレン様は、
わたくしのような庶民派なチルドレンとは格が違うとでも言いだけね!」
(違うよ、僕は君にそんな事を言わせたかったんじゃない)
「皮肉はいいから、出撃を急いでくれないか?」
アスカの口を突く言葉が段々と棘を含んでくる事を苦く思い知る思考と、その皮肉を冷静に受け流す神経の太い思考が、シンジの脳裏で別々に実行されていく。そして、そんな心の分裂を、素直に受け止める自分が確立されていくことが歯痒いのだ。
「ふん、敵を目の前にして随分な余裕ね。せいぜい足元をすくわれないようになさいな」
一言吐き捨ててから、アスカはシンジの横を滑り抜けてエントリープラグへと乗り込む。その動作は一見手慣れていて平常的であったが、シンジは見逃してはいなかった。
(……今、少しだけ肩が震えていたよ、アスカ。
痛ましいよ。本当は怖いんだろ……敵が。
あの時の君もそうだったのかな……あの時そこまで気が回らなかった自分が口惜しいよ。
君はいつも明るくて眩しくて、僕のずっと上の、手の届かないところにいる娘だとばかり思ってたから……)
感傷に浸っている暇ではない。シンジはアスカが乗り込んだのを確認すると、すかさず後に続いて、操縦席後部のわずかな隙間に大人しく腰を下ろす。アスカが弐号機の起動作業に勤しむ最中、シンジは両腕を枕に静かに瞑想に耽っていた。
(フン! その余裕が今に崩れ去るわ。
つい最近選出されたばかりのアンタと、この十年近く操縦訓練に馴染んできたアタシとの、
格の違いと実力の差ってのをとくと拝ませてやるのよ!
よくよく考えれば、こんな奴に負けるくらいの使徒なんか、怖くもなんともないわ!
そう……なにも怖くなんかないんだから……)
「行くわよ……アスカ」
アスカは自らに喝を一つ込め、操縦桿を目一杯引き上げ、弐号機の雄大な勇姿をいざ披露せんとばかりに気合いを込めた。そして、その後ろで只ひたすら『時』を待つがために、今は静かに目を閉じて身を横たえるシンジ。
長期間の休載、大変失礼いたしました。今章より連載、再開です。
予想以上に長くなった為に、中編を設けました。実際はほとんどシンジとアスカの心理戦に終始しましたが。
アスカの脆い心を知ってしまったシンジ、でも彼はその心を救う術を誤解したまま。
果たして、食い違った二人の心は、無事にこの戦いを乗り越えられるのか。後編はいよいよガキエル戦突入です。
それでは、また次回……。
確か壱拾九話だったような……暴走した初号機が、見えない刃でゼルエルを一刀両断にしたのが。
あれが「ATフィールドの刃」の原案です。