それを満天の星空と呼べばよいのだろうか。
だが、清々しく映える星の光の瞬きを見上げたところで、所詮風情とはなりえない。
紅色の水平線を象るのは、同じ紅の海。
ヒトが皆原始の海へと還り、擦れ違う心を融合させる事に成功した証し。
―――そう、世界は補完されたのだ。
しかし、それは同時にヒトの世界そのものの終焉と成り果てた。
ヒトがヒトの心の隙間に怯えることのないように、ヒトとしての形を失ってまでも求めた儚い絆。
だが、そんな虚しい心の安寧にさえもつま弾かれた者がいた。
少年は虚ろな瞳と共に起きあがりながら、ふと辺りを見回す。
そこには紅色の海が一面に漂うのみ。大陸というよりは、僅かな土壌が海面から顔を覗かすのみであり、また恐らくは、補完の為のエネルギーを使い果たしたエヴァシリーズの成れの果てが、禁忌に手を染めた報いであるかのように、紅の十字架に捕らわれた咎人のように括り付けられている。
水平線の彼方に、少女の変わり果てた姿があった。
綾波レイ……彼女は、少年の希望として存在する事にも絶望したのであろうか、今は只の巨大な蛋白質の固まりとして、柘榴の如く割れたその哀れな様相を晒している。その命を賭してまでも繰り広げられた補完劇は、無駄に終わってしまったのだ。それが、あるいは少女の本当の願いだったとしても……。
「綾波……」
少年は、一つの絶望を見た。
自分は、彼女に何を求めていたのだろうか。
温床……救済……理解……母性……慈愛……恋愛……安寧……。
どれも当たっている、でもどれも違う。
自分は彼女の何にもなってあげられなかったのに、何故自分は彼女に救いを求めたのか。
最後の最後に彼女にその身を委ねて怠惰する事に、拒絶を示した自分は果たして「自分」だったのか。
本当は、あの包容力に流されて凝り固まっているのが自分のあるべき姿だったはずでは、そうも考える。
何故ならば、下手な色気を出して空威勢を気張ったばかりに、見よ、この世界の惨状を。
補完、だがそれはすなわちヒトの世界の破滅……そんな事は分かっていたはず。
ならばヒトの世界の幾千年の営みは、ヒトとヒトとの無限の愛と憎しみは、全ては今日の日の為にあったのか。
否。断じて否。
ヒトは今日でその世界を終わらせる為に、ヒトの世の結末をこんな脆弱な自分の決意一つに委ねる為に、その歴史を繰り返してきたのではない。
それならば、ヒトの世の幾多の醜き戦乱も、卑しき貧富の差別も、禁忌に染まった科学さえも、今日の為の戯れ言だったというのか、ヒトがそのあるべき形を捨て去る為だけに、虚しい歴史を紡ぎ続けたというのか……。
不意に、少年は自分の横に横たわる傷だらけの少女を見た。
惣流=アスカ=ラングレー。彼女に刻まれた心の傷の爪痕は、もはや目を見張る事さえ憚られる程、その後は生々しく、無惨だった。
この少女にはかつて、儚いながらも自分を辛うじて保てる居場所があった。だが、その儚い寝床をかなぐり捨てさせ、こんな惨状に貶めたのは果たして何だ、一体誰なんだ……。
少年の追求に、時間は要らなかった。
考えるまでもない、それは自分だ……。
自分は、この少女のささやかな望みと願いさえも打ち砕いて、そして得た物は。
それは今の少年の眼前に映える全て。そう、それはヒトの世の終わり。
少年は、もう一つの絶望を見た。
ヒトの形を捨てる事さえも出来なかった少年。
それが、ヒトの未来のあるべき形と信じたからこそ、彼はこの世界にヒトとしての形を保ったまま、舞い戻ってきた筈だった。そして、もっとも逢いたいと願った少年の心と意志を汲んだ何かが、アスカという名の少女をイメージし型取り、シンジと共に元の世界へと帰還させたはずだった。
だが、見せつけられたのは二つの絶望。そこに、希望の光は無い。
やがて横たわっていた少女の瞳が、その虚ろな視線を心ばかり見上げる。
少年がその虚ろな瞳同士を重ね合わせるように、少女の瞳を覗いた。
しかし、そこに見えたのは光ではない。絶望という色を染めたような鉛色の澱み。
二人の心に、既に通いあう物は一つたりとて無かったのだ。
少年は自らの心の絶望に任せ、膝を付いた。
結局、自分は何一つ踏み出せなかった。何一つ、分かってもあげられなかった……。
急速に冷める心、そして心の隅に僅かに残っていた希望さえも。
(これで、これで僕達は、永遠にその心を通わせる事は叶わないんだ……)
皮肉とはまさにこの事。
ヒトとしての形を保ったまま生きる事を決意した少年に、世界が与えたのは「本当の終焉」だった。
淡い想いを抱いていた少女、だが少年はその少女を傷付けすぎた。
少女もまた、自らの過ちに気付ける程の強さはなかった。
だが、この二人の弱さを、この過ちを、誰が責められようか。
誰も、二人の心の支えにはなってあげられなかったというのに。
アスカは、表情に感情の色をおくびにも出さず、遥か彼方の海原へ虚ろな視線を向けていた。
膝を抱え、脆い岩盤に腰を添えうずくまるその光景、いや惨状は、とてもあの光り輝いていた頃の少女と同一視は叶わない。シンジは側から黙ってアスカの横顔を見ていたが、もはや彼女に生の気力を感じることはなかった。
彼女の瞳は、かつて光り輝いていた蒼い宝石ではなくなってしまっていたのだから。それは、もう何者も映さない、鉛色の石へと変わり果てて……。
例えシンジが視線の正面に立ちはだかっても、身体を揺さぶろうと、声を掛けようと、その身体に痛みを与えようと、或いはその未成熟な身体を無理矢理汚そうとしたとしても、もうアスカが「シンジ」という少年に、善意であれ悪意であれ何らかの意識を向ける事は永遠にあり得ない。
シンジに限らず、絶望を繰り返したアスカの心には、再び生命の息吹が吹き込めないまでに冷え切り、もう誰をも認識することはなく、少女は自らの「殻」をATフィールドによって完全無欠な物としてしまったのだ。
生きたまま、傀儡へとその身を堕してしまった少女の心に、もう二度と希望の光は差さない……。
終幕を悟ったシンジは、その言葉を最後にアスカ同様心を閉じ去り、完全な白痴と化した。
「……!! はあっ、はあっ、はあっ……!!」
シンジは堅いベッドの上で、すさまじい勢いで跳ね起きた。
寝惚け眼とは違う、異様なまでに赤く腫れ上がった眼球を左右にぎょろぎょろと動かし、周囲を見回す。
暗く、乾いた空気が支配する狭い個室であったが、それが自分の部屋であると認識するのにさほど時間は掛からなかった。
(夢……? 夢だったのか……)
現実を把握した瞬間、次に感じたのは大量の寝汗。背中にTシャツがべったりと貼りついている。
「……シャワーでも……浴びるか……」
営倉は三日前に出された。それ以来自室に戻ったシンジだが、別段生活に変化はない。
あれ以来監査部員が室外で常にシンジの監視を怠らないし、シンジ自身も営倉内の時と何も生活を変えていない。しいて言えば、入浴と外出の時間が自由になった程度だ。
(……違う。あれは夢なんかじゃない。
もしあの時、補完計画が発動したあの時、
僕の中の『ゼロ』が目覚めなければ、或いは僕が怠惰のままに補完に流されてしまっていたら、
僕達が迎えていた筈の本当の結末、それがあの……惨状なんだ。
アスカの心は永遠に閉ざされて、綾波の希望は絶たれて。
そして僕は何も出来ないままに世界の、そして二人の少女の終末を見届けてしまう、
それが本来あるべきだった結末。
ゼロが目覚めたからこそ、回避できたとでも言うのか?
ゼロが居てくれたからこそ、僕もアスカも綾波も、今を生きていられるとでも?
……ふざけるな。僕達が願ったのは、僕達二人だけの終末だ。
もう一度このくだらない生命を生かしてまで、彼が望んだのは何だ?
彼が、僕に時を遡らせたのは、何がしたかったからなんだ……)
シャワーが、当たり散らしたように彼の頭上に降り注ぐ。
だが、心持ち熱めのその液体が、彼の憤慨を沈めることはない。
(……時計の針はゼロによって戻された。だけど、その針はもう一度同じ地点を指す。
つまり、老人達の補完計画が再びみんなの驚異となる日がもう一度来る、そういう事だ。
僕に、今度こそ一人で補完計画を止めて見せろとでも言うのか?
一度は君によって取りなされた補完を、全て破綻させてまでも?
あれで何もかも良かった筈じゃないか。
アスカの意識からは「碇シンジ」という悪夢を取り去る事が出来て、
綾波とカヲル君には、人としての未来の希望が芽生えて、
みんなにはみんなの幸せの形が戻ったのに、なんで、なんで今更……)
ふと見上げたタイルの壁に、鏡が一つ。
ガラスに湯を掛けると、曇りの取れた鏡には、生気の抜け果てた表情をした少年が映っていた。
「……腐った顔してら、ミサトさんが煙たがる訳だよ。
……こんな顔してアスカに逢いに行くのか、僕は……」
次の瞬間、その鏡は放射状のヒビを散らして四散した。
「……殺してやる……!!」
拳から流れ出た血が、シャワーを伝って排水溝を静かに流れ落ちていった。
ようやく長いシャワーから出てきたシンジは、ベッドの横に置かれていた卓上時計を見る。デジタル表示の蛍光文字が「04:47」と浮き出ていた。
「……こんな時間じゃ寝るのも億劫だな。
今日はこのまま起きているか……」
だが、シンジにとって、今日ほど辛い思い出の日はない。 いつもは無愛想な表情と共に、何の感慨も恐怖感も無しに戦地に赴く筈の自分なのに、今日だけは、今日の日だけは……何処にも行きたくない。
そう、今日は、オーバー=ザ=レインボゥと共にドイツ支部から弐号機が移送されてくる日。
つまり……アスカと初めて出逢ったあの日……。
(逃げたい。アスカに逢いたくない。
何処までも逃げたい。痛みも、辛さもない世界へと逃げてしまいたい……。
……誰か、こんな臆病で脆弱な僕を否定してくれ、そして消してくれ!
もう誰も傷付かないうちに、僕の存在を殺してくれ……!)
だが、シンジのそんな末路的な願いさえも自ら叶えるしかない、彼はとっくの昔に気付いてはいたのだ。
今日もミサトの気分は最悪だった。
本来、オーバー=ザ=レインボゥへの出向にはレイを同伴させ、シンジを本部の守備へと付かせる筈が、直前になって、ゲンドウが急遽零号機の再起動テストの予定を組み込んでしまったのだ。
ならば一人で……と思ったが、当のゲンドウが何を思ったかシンジを随伴させろと半分命令口調で言う物だから、ミサトとしても断るに断れず、容認せざるを得なかったのである。
実際は、裏でシンジがゲンドウに自分を「売り込んだ」のが元なのだが。
そうとは知らず、ミサトはシンジと二人互いに黙したまま、UNのヘリで新横須賀沖海上を飛行していた。
シンジの方はおろか、最近ではミサトの方も最低限以上の口を利かない。既に彼女にとっては、こんな無愛想な子供を連れ歩く事は嫌悪に等しいのだからむしろ当然なのだが。
やがて、二人の眼下に国連海軍太平洋艦隊がその勇姿を現す。空母、戦艦合わせて九隻もの大艦隊が、エヴァ弐号機一機の護衛の為に随伴している稀代の絢爛豪華ぶりである。
「……オーバー=ザ=レインボゥ、か。
前世紀の老朽艦が、よくもまあ現役で居られる物ねぇ」
眼下を仰ぎながら、ミサトが如何にも懐古的にもらした。
一方シンジはと言えば、先刻から飽きもせずひたすらに水平線に見入っているだけであったが、その心境たるや穏やかではない。彼にとっては、着艦してからの事だけが気掛かりで景色どころではないのだから。
ただひたすら落ち着かない心境に任せて、包帯を巻いた右手をミサトに気付かれないように隠しつつさすっていた。
「……アスカ……やっぱり、君と関わらずにはいられないのか……。
あんなに……あんなに辛い目に遭わせてしまったのに、僕はまたしても君を……」
奥歯が、ギリリと軋んだ。
「フンッ、いい気なもんだ。玩具のソケットを運んできおったぞ。
ガキの使いが。」
双眼鏡向こうに覗くヘリの着挺風景を眺めながら、今回の任務に大層な不満があるのか、オーバー=ザ=レインボゥの艦長が悪態を吐いていた。もともと、栄えある太平洋艦隊ともあろう我々が何が悲しくてこんな玩具(弐号機は彼等にとって子供の玩具の域を越えないらしい。或いはエヴァが予算の大食いである事を知っているのだろうか?)を運ぶだけに酷使されなければ……という憤慨と、そこまで任に落ちぶれた自分達への憂いだろうか。
そして艦の上部甲板上には、その透き通った亜麻色の髪を風に靡かせ、黄色のワンピースを翻している可憐な少女が一人、太陽の光にその蒼い眼を煌めかせ、着挺するヘリへと一心に視線を注いでいた。
そう、その少女の名こそ、――― 惣流=アスカ=ラングレー ―――
海上に吹き荒ぶ潮風に棚引く髪が鬱陶しくて、ミサトは後ろ髪を押さえつつ甲板を歩く。
時折、サングラス姿の海兵達がミサトに下卑た声をかける。艦長同様ネルフという組織に怨恨を持つ者と、単にミサトの容姿に色気付く男の二種類がいるようだが。
だが、甲板に居座る彼等の前面に立っていた男達の一部は、ミサトの後ろを随伴する少年の顔を見て途端に声を潜めた。腐っても一兵士である彼等にとって、その少年から漂う「死の匂い」くらいは感じ取れたようだ。
実際シンジは海兵達に意を介する事もなく、ポケットに両手を突っ込んで兵隊達の間を無造作に闊歩する。その暗澹とした雰囲気に気圧され、兵隊達は若くして戦士の匂いのする少年の後ろ姿を黙って見送るしかなかった。
やがて甲板の向こうに仁王立ちしている少女が、二人の視界に映った。
自信と聡明さに満ちあふれたその顔を綻ばせながら、ミサトに声を掛ける。
「ハロ〜ォ、ミサト。元気してた?」
「まぁね〜、あなたも、背伸びたんじゃない?」
ミサトは先刻までの不機嫌さも忘れて、アスカとの二年ぶりの再会に、アスカ同様顔を綻ばせる。
「そ。他の所もちゃ〜んと女らしくなってるわよ」
ミサトに自分の身体の成長を誇示するようにその未成熟な胸を張る。
その見栄っ張りな性格は相変わらずだな、と心の中で苦笑するのは、ミサトだけではなかったが。
(……アスカ……確かにアスカだ、光に満ちていたあの頃のアスカそのままだ……!)
太陽の強い日差しに照らされて、彼女の笑顔は以前より一層の輝きを見せているように見えた。
(……アスカ……僕達が、初めて好きになった少女。
ずっと側にいて欲しいと願った女の子。
そのニュアンスは綾波とは少し違う。
綾波の事も本当に好きだったけど……綾波には……綾波には、無償さを求めすぎた。
アスカは違う。僕はアスカを分かってあげられ無さすぎた。
でも所詮同じ事。二人とも……僕の心の弱さの犠牲になってしまった少女達。
そして、僕達が永遠に触れる事の叶わなくなった存在。そうだろう、ゼロ……?)
「……それでは紹介するわ、シンジ君。
エヴァンゲリオン弐号機の専属パイロット、セカンドチルドレン。
惣流=アスカ=ラングレーよ」
うって変わって厳しい表情でシンジを振り返ったが、当のシンジはと言えばアスカの「後方」を見据えて冷たい視線を泳がすのみであった。勿論、表向きは馴れ合うつもりはシンジには微塵もないのだから、アスカを直接見つめるわけにも行かないのだから。
「……で、ミサト。まさかそいつが噂のサードチルドレン?」
アスカも、数日前から聞かされているサードチルドレンの活躍には心平穏で居られなかったのだろう、「そうよ」という半ば萎れた言葉を返すミサトの返事を聞くか聞かないかのうちにシンジの正面まで歩み寄ると、改めてシンジを値踏みするような視線を向けた。
だが、そこでアスカは気付いてしまったのだ。
冷酷な瞳の色を持つ、この荒んだ少年の端正かつ殺伐とした風貌に。
(……な、成る程ね。伊達に戦地は経験してないって訳ね)
アスカは、この時点では彼のチルドレンとしての人格に一応の及第点を付けていた。それと、僅かだがシンジの様相に恐怖感を抱き、身を引き締めたのも確かだ。
だがシンジはと言えば、やはりアスカの視線には目を合わせようともせず、斜め下に目を伏せて佇んでいるだけであり、一見まるでアスカに興味を示さない。アスカの側もその心境を嗅ぎ付けると、アスカの機嫌は途端に斜行した。
「ふん、なによ。たかが使徒三体程度倒したからって威張りくさってさ」
それは、アスカ自身の嫉妬が何処に現れているかが明白な一言として、暗にシンジの心に突き刺さった。だがそれを見事に仮面の表情に隠し、シンジは敢えて辛辣な一言を口走った。
「……実績のない君に僕の戦歴を値踏みされたくないね」
「な……なんですってぇ!!」
「やめなさい!」
即座にミサトが二人の間に割り入った。シンジの横柄な態度にアスカが突っかかるのは容易に予想できた為だ。実際はシンジがわざとアスカのプライドの琴線を弾いたのが原因だが。
「ミサト、何よこいつ!
ちょっとばかりエヴァが上手く操れたからって図に乗ってんじゃないの!?」
「……値踏みの次はやっかみか。くるくる忙しいね、君は」
「!! このおおおっっっ!」
怒りのあまりシンジの胸元に掴みかかろうとしたアスカを、身を張って必死に食い止めようとするミサト。だがその険しい目線はシンジに向いていた。
「シンジ君、言い過ぎよ、謝りなさい!」
ミサトが厳としてシンジに注意したが、勿論本人は何処吹く風。
「……エヴァもチルドレンもこれ以上必要ありませんよ。
僕一人いれば事足りる話ですけど、まあ折角遥々ドイツから来たっていうんだから、
せいぜいドイツに逃げ帰る事がないように、日本で精進するんだねお嬢さん……クククッ」
そう捨て台詞を残して、シンジは明後日の方向へと歩いていった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい! 勝手に艦内を出歩かないで! ここは軍艦なのよ!」
シンジは後ろ手をヒラヒラと振ってその警告を払いのけた。
当然、包帯をしていない左手だった。
ようやく怒りを収めてミサトの腕から離れたアスカだったが、悪態の方は止まらない。
「ミサト! 何なのよあの生意気な奴は!」
「……ああいう子なのよ。こっちだって手を焼いて困ってるのよ……」
「フン! サードチルドレンがどんなのかと思ってちょっとでも期待したアタシがバカだったわ!
あんなのと一緒に戦うなんて、こっちから願い下げよ!!」
「アスカ、取りあえず落ち着いて……!」
「ミサトがそんな風に事なかれで済ますから、ああいうのが出しゃばるのよ!
もっとガーンと言ってやればいいのよ、作戦部長なんでしょ!
しっかし、よくあんなのがネルフでチルドレンやってられるわね!?
人材不足なのは分かるけど、あんなのはとっととお払い箱にすればいいのよ!」
初対面の印象が最悪だったのと、僅かな期待が裏切られた事への憤慨は収拾が付かず、ミサトはアスカの宥めに終始する他はなかった。
そしてそのアスカの怒声は、潮風の向きに乗って他ならないシンジの耳へも届いていた。だが、アスカの自分を罵る一言一言に胸を痛めながらも、今し方の自分を後悔していない自分もいる。
シンジは、アスカの怒声の届かない所を逃げ求めるかのように、甲板の向こうへと歩みを進めていた。
(……アスカ……僕の事、少しでも期待していてくれたんだね。
本当は凄く嬉しかったはずだけど……だけど、もう僕は昔の僕じゃない。
昔以下になってしまった僕に、君を求める資格はとうにないんだから……)
そう呟いたシンジの右横に、艦の装甲板があったのが不幸だった。
鉄板のたわむ低く鈍い音がしたが、その音が喧噪さなかの二人の耳に届く筈はない。
そして、その鉄板から再び滴り流れる血にさえも。
ミサトのIDを確認してから、目の前の艦長は一通りの皮肉を始めていた。もっとも、風当たりの強いネルフなどに所属していればこの程度の口を利く輩は数知れないので、ミサト側としても慇懃無礼は手慣れているが。
「この度は、エヴァ弐号機の輸送援助、有り難うございます。
こちらが、非常用電源ソケットの使用書です」
ミサトの手渡したファイルに簡単に目を通すと、
「フン。だいたいこの海の上で、あの人形を動かす要請なんぞ聞いちゃあおらん!」
それこそ太平洋艦隊の名折れ、艦長以下クルー一同の憤慨なのはミサトとて承知。
「万一の事態に対する備え……と理解していただけますか?」
「その万一に備えて、我々太平洋艦隊が護衛しておる。
いつから国連軍は宅配屋に転職したのかな?」
「某組織が結成された後だと記憶しておりますが」
それまで艦長の隣に控えていた補佐官が示し合わせて皮肉を連ねる。無論、「某組織」が何を示すのかはここで言及する必要もない。
「玩具一つ運ぶのに大層な護衛だよ。太平洋艦隊勢揃いだからな」
「エヴァの重要度を考えると足りないくらいですが」
ミサトは一通りの皮肉を軽く流し、手元のファイルに手を添えた。
「では、この書類にサインを……」
「まだだ!」
引き渡しの書類になかなか手を着けない意地に、いい加減眉間に皺の寄り始めたミサトを後目に艦長が続ける。実際はミサトの側も大分堪忍の限界が近いようだ。
「エヴァ弐号機及び同操縦者は、ドイツの第三支部より本艦隊が預かっている!
君らの勝手は許さん!」
艦長の怒声は同時に自分の重要度の象徴でもある―――アスカは、ミサトの眉間も艦長の皮肉も何のその、自分という存在が如何に重要度が高い存在であるかを再確認するように、胸を張ってその一連の対話の横に控えていた。そして同時に、先程のサードチルドレンの不貞さに対する溜飲を下げているのも確かだが。
「では、何時引き渡しを?」
「新横須賀に陸揚げしてからになります」
「海の上は我々の管轄だ。黙って従ってもらおう」
「……分かりました!」
これ以上この二人の意固地に付き合うのにも愛想を付かし、ミサトは凛として言い放った。
「ただし、有事の際は我々ネルフの指揮権が最優先である事をお忘れなく」
どの道今までのは、法規上格下扱いにされている太平洋艦隊の愚痴でしかない。いざとなれば権限の一切は自分で操作できる。所詮彼等では、ミサトの後ろ盾には手出しは出来ないのだから。
「あーい変わらず凛々しいなぁ」
険悪な雰囲気を打ち破るような力の抜ける言葉が、操縦室に響きわたる。
ミサトは一瞬自分の思考能力を本能に近い部分で反射的に低下させ、その声が誰の声であるかを認識しないように勤めたが、それもアスカの黄色い声が耳に届くまでの悪あがきであった。
「加持先輩!」
「どもー」
「うええっ!?」
先程まで凛々しく振る舞っていたその端正な顔を歪ませてまで、ミサトは素っ頓狂な声で慌てふためいた。彼女にとって、色んな意味で苦手とする男が現れたのだから無理もないが。
加持リョウジ。エヴァ弐号機パイロットの随伴兼保護者として、ドイツ支部からアスカと共に移送されてきた人物である。容姿はと言えば、顔はそれなりに端正なのだろうが、無精髭と口元のへらへらとした笑みが相殺してぱっと見印象はあまりよろしくない。髪は無造作に伸ばして後ろで結わえているだけだし、申し訳程度にしているネクタイも、襟元がだらしなく広がっていてはまるで示しが付かない。
それが寸部違わずミサトの記憶する加持そのものの容姿だからこそ、彼女は余計辟易とした表情で彼の登場に愕然としていた。
「加持君! 君をブリッジに招待した覚えはないぞ!」
「それは失礼」
ミサト同様、加持も軽く受け流した。
「シット! 子供が世界を救うというのか!」
ミサト達が去った後も、艦長の憤りは止まらなかった。
「時代が変わったのでしょう?
議会もあのロボットに期待していると聞いています」
「あんな玩具にか!?」
艦長の世代にしてみれば、二足歩行のロボットが実戦兵器として最前線で持てはやされているという事実は受け入れがたいのだ。
「馬鹿どもめ!! そんな金があるんなら、こっちに回せばいいんだ!!」
太平洋艦隊が軍縮を受ける一方、先立つ物に糸目を付けずに開発されている弐号機の移送艦に視線を送りつつも、艦長はいまだ自分達の過去の栄光を忘れる事は出来なかったようである。
新横須賀沖に到着するまで、取りあえず時間の余るミサト達一行は食堂へと腰を据える為にエレベーターに乗っていた。だが、狭いエレベーター内にかこつけて加持の腕にまとわり付いて喜んでいるアスカとは裏腹に、ミサトの顔色は一層悪くなっていた。
「なんでアンタがここに居るのよう!」
「彼女の随伴でね、ドイツから出張さ」
「はーっ、迂闊だったわぁ……十分考えられる事態だったのにぃ……」
自分の抜けにかこつけても仕方がないのだが。
食堂のテーブルの腰を下ろした三人。加持の横にアスカがちょこんと座り、向かい側にはミサトが座る。
ミサトはふて腐れて加持とろくに目を合わせないし、一方のアスカは借りてきた猫のように大人しく振る舞っている。加持はと言えば、卓下でミサトの足にちょっかいを掛けつつ、
「今……付き合っている奴、いるの?」
「それが、アンタに関係あるわけ?」
「あれぇ? つれないなぁ」
コーヒーを口に運びながら、加持はこの微妙な雰囲気を楽しんでいた。
その隣では、アスカがヤキモキした表情を見せている。恐らく加持がミサトと痴話喧嘩を楽しんでいるのが肝に据えないのだろう。
場が持たない為に、ミサトも加持同様コーヒーを口に運んだが、加持はそれを見計らって懐刀な一言を発した。
「……その様子じゃ、寝相の悪さを指摘してくれる男は居ないようだな」
ブ――――――ッッ!!
ミサトははしたなくも、盛大に茶色の液体を吹き出してしまった。
隣では、アスカも同様に泡を食った顔をしている。加持は一泡吹かせた事にケラケラと笑って、一人平和を保っていた。
「なっ……なっ……何言ってんのよ―――!!」
照れ隠しにしても豪快に、ミサトは耳朶まで真っ赤にして、テーブルに両手を叩き付けつつ抗弁した。
「かっ、加持さん……」
一方アスカも、何に絶望したのか知らないがテーブルに突っ伏して嘆いている。
「ははは、熱くならない、熱くならない」
あんまりからかっても何なので、加持は自ら話題を変えた。
「そういや葛城。確かサードチルドレンと一緒にやって来てるって聞いたんだが、
噂の彼はどうしたんだい?」
「「知らないわよっ、あんな奴ッッッ!!」」
今度は血相を変えた二人分の力が入って、豪快に軋むテーブルの音には流石の加持も一歩引いた。
「ど、どうした、何かあったのか……」
藪蛇な一言だったかなと自覚しつつ、加持はおどけた顔と共に声を呑んだ。
凪いだ海の上を、穏やかに航行し続けるオーバー=ザ=レインボゥの甲板で、加持は潮風に当たっていた。その横には、食堂から常に加持に付いて回っていたアスカが例に漏れず付き添い、手摺りに危ない捕まり方をしながら風に棚引いていた。
「……何かあったのか? 碇シンジ君とは」
加持は出来るだけ緩やかに問い始めたのだが、アスカはその名前に一瞬聞き覚えを持たなかった。
「碇……誰?」
「サードチルドレンの彼さ。会ってみたんだろ?」
碇シンジという名の人物が、さっきの不貞不貞しい少年だと認識するや、アスカの機嫌は再び急落した。
「それがもう、サイッテー!!
あんなのとアタシが同類にされているなんて、考えただけで幻滅通り越して悪夢よ、悪夢!」
アスカが負の感情剥き出しで罵る様子を横目に、加持もまた失望していた。
アスカは確かに才児として、13にして飛び級で修士課程を終える程であるが、それは同時に彼女の周囲に同年代の親しい人物を寄せる事も一切なかったという事だった。この年頃は、同年代から学ぶ事は数多い。だが、周囲の大人に同調しようと無理に背伸びばかりを繰り返すアスカに、加持はまるで他人事では居られなかった。
だが、アスカの日本への配属を機に、折角アスカと同年代の「チルドレン」という存在と触れ合う機会が生まれたというのに、肝心の日本側のチルドレンも、どうやらこの分ではアスカの支えになってはくれないようである……加持は落胆の溜息を付いた。
しかも、その肝心のサードチルドレンは、アスカの株を奪うような記録ばかりを打ち立てていたのだ。三使徒の撃破という成果だけではなく、初搭乗でシンクロ率が80を越えたなどという話こそ前代未聞。アスカのシンクロ率もまた高く評価されている高数値だが、それでもその最高記録は60を越えない。
(……恐らく、アスカがこれを聞きつければ穏やかでは居られないだろう)
一度、アスカにファースト・サード両チルドレンのシンクロ率を訪ねられた事があったが、シンクロ率はあくまで基準の一つに過ぎないと一つ釘を差してから、レイのは出来るだけ正確に、シンジのはごく最近の事なので分からないと有耶無耶に答えていた。
アスカより数値的に二回り下のレイのシンクロ率ならともかく、二回り上のシンジの数値を正直に答えてしまえば、アスカのプライドを著しく突き崩すのは火を見るより明らかだ。
「……しかし、使徒を三度も倒した功績は確かだ。
彼が増長するのも無理はない」
取りあえずアスカを宥めるような発言に勤めるが、
「ハン! アタシはあんなガキには負けないわ!
見ててよ加持さん、向こうに付いたらこのアタシには到底及ばないって所を見せつけて、
反対に自信喪失させてお払い箱にしてやるんだから!」
かえってアスカの負けん気に火を付けてしまったようである。
「アスカはシミュレーション訓練では抜群の成績だが、実戦は未経験なんだ。
あんまり無理はしない方がいいぞ」
「加持さんまで……アタシは完璧よぉ。
この時の為に、何年も掛けて何百度と模擬訓練したんだから。
……見てなさいよ、サードチルドレン……」
刻を同じくして、三人から遠く離れたシンジも一人、甲板の手摺りに寄り掛かりつつ潮騒に身を任せ、黄昏ていた。
脳裏を掠めるのは、自分に敵意剥き出しで向かってこようとしたアスカ、そしてそうなるように挑発し向けた時の自分の醜かったであろう顔……。
ふと……蒼穹を見上げるシンジ。
脳天気に晴れ上がった空を、その鉛色の瞳に映しても、
潮の香りに湿った空気を、その澱んだ肺に取り入れても、
暢気に空を飛び交う海鳥に、その曇った視線を泳がせても、
……彼の心は既に生命の息吹を感じさせない、炭化物の成れの果てのように重く、冷たくのし掛かる想い。
「……何をやってるんだ、僕は……」
ずっと淡い想いを抱いていた少女、アスカ。
だけどもう側に居る事さえ叶わないのなら、もし、あんな風に悪態を吐いてまでも彼女への想いを振り解かなければ、きっと自分は今以上に堕落していく筈。
(……堕落か、今更何処まで堕ちようとも怖くも何ともないはずだったのに、
寸前で怖じ気付いたのか、何処までも臆病者だな僕は……)
「……でもこれでいい。アスカとは何の関係もない他人同士、それでいい。
そもそも僕がチルドレンとしての資格さえ持ち合わせていなければ、
絶対に逢う事はなかった高嶺の存在……。
まして、あの時に破滅したはずだった僕が、今こうして再び彼女に出逢ってしまった……。
こいつの目的は分かってる。
どうせもう一度、昔と同じように、いやそれ以上に彼女達を傷付け、辱めるだけだ。
それしか出来ない癖に、何がサードチルドレンだ、何がエヴァのパイロットだ!
今度こそ手遅れになる前に、必ずこの命……叩き堕としてみせてやる」
自分の胸元に深い傷を刻みつけるように、彼はその憤りそのままに上着を握りしめ、その決意を新たにする。
「……赦されるだなんて微塵も思ってもいない。赦すつもりもない。
いつか、僕が彼女達の心に刻み付けてしまった傷の分を、何十倍、何百倍、
いや何億倍としてこの身に刻み付けたとしても到底足りはしない……。
永遠に苦しみ、永遠に足掻き、永遠に悔やむといい。
あんなに繊細な少女達を悲しませた報いは、必ず、必ず……」
ふと、目頭に熱い物がこみ上げ始める。だが彼にとって、涙という物は自分が持っているに相応しい代物ではない。急いで上着の袖で二、三度目頭を擦り、見上げると……そこには既に自己の破滅を決意した悲壮な少年の様相が完成しているだけであった。
「……もう、迷ったりするもんか、僕は……!」
the one you love mean more than enything …… 』
「……!?」
ふと……シンジは自分の耳に不思議な歌声が流れてくるのに気が付いた。
波飛沫の合間を抜けて、その歌声はゆっくりと穏やかに、荒んだシンジの耳へと、そして心へと染みわたる。
feel the best thing I could do ……
is end it all,and leave forever …… 』
それはまるで、ゆっくりとシンジの心を癒していくように、彼の心に、強く呼びかけるように。
歌詞は決して陽気なそれではない。気分の昂揚するようなソウルミュージックでもない。
what once was happy now is sad ……
I’ll never love again my world is ending …… 』
その佳音なメロディは静かながらも力強く、深く大らかに甲板上に澄み渡り、シンジの心に感銘を与える。
聞き覚えのない筈の歌なのに、シンジは何か郷愁的な感覚にさえ捕らわれる。
cos now the guilt is all mine
can’t live without the trust from those you love ……
I know …… we can’t forget the past
you can’t forget love and pride
because of that, It’s kill in me inside …… 』
僅かながらの好奇心に駆られ、シンジは声のする方にちらりと顔を向けた。
ハスキーな女性の声だとばかり思っていたシンジは、シンジと同じように手摺りにもたれ掛かりながら歌っていた青年の顔を見るなり、意外な表情をした。
その青年たるや、顔にはサングラスを掛け、真夏の海上にも関わらず黒革のジャンパーを羽織り、その襟元にはホルスターが見え隠れしているという怪しいスタイルの持ち主だ。
海兵隊員……にしては格好がラフすぎる。第一雰囲気からして軍規で縛られているような人間には見えない。気の向くまま赴くまま鷹揚に生きている……そんな雰囲気だ。
歳の頃は25前後といった所か、青年は歌を止め唐突にシンジの方に顔を向けると、こちらに向かって歩み寄ってくる。シンジは一瞬だけ警戒したが、不思議と敵意は感じられなかったのであまり牙を剥く事はなかった。
(……なんだろ、この人。なんかこう……不思議な雰囲気のする人だ……)
彼はシンジの隣まで歩み寄るとサングラスを外し、男性にしては意外と端正な顔を現わした。そこから覗いた表情を綻ばせつつ、陽気な日本語でシンジに話しかける。
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―――これが、後にシンジに摩訶不思議な運命をもたらす事になる青年、
ノヴァスター=ヴァインとの運命的な出会いであった―――。
第二十章前編、事前の予想通り前後編となってお届けしてます。
歌詞の引用に関しては掲示板の過去ログなどをご参考に……。
何故この場面でこの歌詞なのかは、CD付属の和訳参照と言ったところでしょうか。
しっかし最悪の初対面よな(--; いや、我ながら予想はしてましたが(爆)
ビデオを見返していた時なんかは、アスカ登場以降のコメディに面白おかしく見入っていたのに、さぁいざこれを自作小説に書き直すか、となった時、
「……なんでこんなに暗い話に書き直さないといかんのだろ……」
と自己嫌悪しつつ、キーボードに突っ伏したくなります(^^;
トウジとケンスケは居ないし、ミサトとアスカはシンジに対する印象が最悪だし、加持はまぁともかくとして、肝心のシンジはこれがまた暗い暗い……。コメディの要素なんかある訳がなく。
ちなみに、ここで登場するアスカが「あの」アスカだと予想された方いくらかいらっしゃるでしょうが、残念ながら違います(--; 原作通りのアスカです。
はぁ……希望は一体何処にあるのだろう(爆)←作者が言うなっ
あと、あまり頂けないお知らせが一つ。
二十章後編まで進んだ段階で、しばらく連載を休止する羽目になるかもしれません。
最悪でも十月の頭には再開できますし、もしかすれば途中で一度二度程度ならUPできるかも知れません。その旨は順次めぞんの掲示板等でお知らせしようと思います。
よって、8/13以降はメールの返信も当分は不可になると思いますので、ご了承ください。
それでは、また次回……
イメージCVは辻谷耕史さんか、太田真一郎さんか、松本保典さんかって感じで。(←?)