日射し厳しき紅輪の射す季節。
その陽光に照らされて、かげろう漂う海岸線の幹線道路に立ち並ぶ戦車。
その砲塔は、黙として沖合に照準を固定されていた。
ただ一点のみに全神経を集中させる、緊迫感漂う戦車内の戦闘員の顔からは焦燥が消えず、反してその砲塔の先端には、悠長を絵に描いたような水鳥が羽を休めている。
戦車内の人間が黙々と最新型のレーダーへと目を釘付けにし、鉄を焼く陽光の熱気に汗だくを拭おうともせぬ間に、水鳥の周囲にこと涼しげな潮風が注がれ、大海原をも揺らす。
だがその甲斐無く、気配を真っ先に察したのは、皮肉にもレーダーではなく。
水鳥が、飛んだ―――
「本日12時30分、東海地方を中心とした関東中部全域に、
特別非常事態宣言が発令されました。
住民の方々は、速やかに指定のシェルターへ避難してください。
繰り返しお伝えいたします。……本日、12時30分、東海地方を中心とした……」
既に数度の避難訓練を強いられていた市民など、嫌気のさした顔のままとうの昔にそそくさと避難を完了していた。それでいて町中を極まれに彷徨く者がいたとして、火事場泥棒が関の山だ。
あるいは、今起こったあまりの衝撃の出来事を、受け入れる事を拒絶する者が一人だけ。
それは使徒の襲来に顔色を変えて防衛戦を敷いているUNの総司令官でもなく、15年ぶりの使徒襲来をここぞの機会と捉えるネルフ司令でもない。
街中に呆然と佇むその少年が、ゴーストタウンの真ん中で真っ先に行った行動。
それは至極単純であり、また誰にも知り得ない心の奥底が生む、限りない慟哭の叫びでもあった。
走馬燈か―――それにしては妙にしっかりと大地を踏む両足がある。
幻覚か―――背負った鞄の重さと、じりじりと肌を焼くこの灼熱の日射しが幻なものか。
妄想か―――そうかも知れない。だけどこれでは、僕が願った結末とはあまりに違う。
間違いはない。見間違う事などあるものか。
ここは第三新東京市。僕が全てを得、全てを失った筈の都市。
何故こうなったんだ。何故僕は此処にいる。
僕はあの時、何もかも失って、闇の狭間に消え果てた筈なのに!
「ゼロだな! アイツが、僕を転送させたんだ、そうに違いない!
どうしてだ! 僕達は消え果てなければならなかった存在なのに、
どうして僕はまだ生きている! どうして……ここにいるんだッッ!」
少年が目の前に掲げた拳から、一筋の血が滴る。
「何故だ、何故、どうして……!」
ビル群の狭間に、気紛れな涼風が吹く。棚引かされるように振り向いたその路上に、邪笑を浮かべたゼロの幻が見えた気がした。
そして、少年は再び叫ぶのだ。自らの憤りを余す所無く吐き出すように。
だが、その怨磋がコンクリートジャングルに吸い込まれ、消え果て、叶わぬ事だと暗に認めざるを得なかった時、彼の心はもう一度嘆き余す。
「僕に……生きろとでも言うのか! よりによって君が!
僕の最後の最期の頼みさえ、聞く耳持たないとでも言うのかっ!
もう僕は耐えられないんだ、何もかも見失って生きる事も、誰かを傷付ける事も!
なのに……今更こんな軟弱者に何をしろって……!」
爪が掌に食い込む感触も意にせず、少年は地面に崩れ落ち、その路面に拳を叩き付ける。
刹那、耳を劈く轟音と共に、何処からか来襲した衝撃波が少年の周囲を吹き荒れる。
「何だ!?」
少年が立ち上がり、遥か向こうに見える丘陵地帯へと視線を向ける。
そこには先程の衝撃波の発生源と思われる数機の、UNご自慢のVTOL戦闘機が姿を表した。
「この景色、どこかで……!?
デジャヴ……? ……違う、この光景は!!」
後退を余儀なくされていた戦闘機を鈍足に追いかける巨人の姿を垣間見た時、それは確信へと変わった。
「使徒……第三使徒、サキエル……そんなバカな!」
かつて見た光景―――それは確かに、昔少年が見た巨人の姿そのままであった。
いや、もうそんな回りくどい逃げ口上を思い描いている場合ではなかった。
もう認めざるを得なかったのだ、少年は。
自分が刻を遡った事を―――
「そうか。そういう事なのか、ゼロ。
……よくもやってくれたね。
そうなのか、君が全てをぶち壊してくれたんだね。
折角のみんなの未来を紡ぐ補完も、僕の魂の終焉も。
……ははっ……僕一人だけが何も知らず、道化だったって事か。
あれだけ僕が願っても、何も変わりはしなかった、だからお前は無力だ。
君はそう言いたかったのかよっ!!
……そうさ。僕は無力だった。だから君に全てを委ねた。
僕の破滅も、アスカの救済も、皆の幸せも、
僕の代わりに君が達してくれた、君が叶えてくれた、そうだとばかり信じてた。
そうだよ、僕は君を信用したから全てを任せたんじゃなくて、
只の自棄だったのかも知れないし、
君程の力の持ち主ならば願いを叶えてくれかも……と、
そう一縷の願いを託したかっただけなのかも知れない。
もうそれも無駄だと分かったよ。……そうか、そういうつもりなのか、ゼロ。
……ならば、僕は何処までも一人で生きよう。
もう誰の力も借りない、誰も受け入れはしない。
僕はもうこれで永遠に独りだ。もう孤独が痛いなんて弱音は言いはしない。
僕は僕の全てを擲って、僕は自分の願いを叶えてみせるよ。
もう……誰も哀しませはしない。
アスカも、綾波も、カヲル君も、ミサトさんも、父さんも、母さんも……もう誰も……」
そうと決まれば途端に時間と手間暇が惜しい。
少年はおもむろに背中のバッグを降ろし、傍らのボストンバッグと共に中身を空けた。
着替え、洗面用具、学習用具、書籍、ネルフ用ID……そしてSDATプレイヤー。
(くだらない物ばかり持ち込んでる……。こんな物、もう役に立ちはしないのに)
シンジは最低限の着替えと洗面用具と学習用具、そしてIDカードだけを背負い鞄に移し替えて詰め込み、その他の物は全てボストンバッグに詰め込んで、身近の側溝に躊躇無く投げ捨てた。
勿論、その中には愛用の筈だったSDATプレイヤーも含まれていた。
「正体不明の移動物体は、依然本所に対し侵攻中」
「目標を映像で確認、主モニターに回します」
この日の為に訓練させたとあって、オペレーター達の行動は迅速かつ正確だ。代わりやや緊迫感に欠けた所がある。それは、むしろ先程から第一発令所に居座って勝手に本陣営を組んでしまったUN幹部達の狼狽ぶりを見習う事なく済ますという自衛手段の現れでもあったのかも知れない。
この後方の、一段高い司令卓に居座る男が一人、口の前で組んだ手と色眼鏡で異様な風体を露にしながら、悠長に主モニターを眺めている。
その後ろに控える初老の男が呟いた。
「15年振りだねぇ」
男がのんびりと応える。上司がこれでは部下も緊迫するだけ馬鹿馬鹿しいのだろうとも勘ぐりたくなる程に。
「ああ、間違いない。
使徒だ。」
少年の頭上を一発数億円の追尾ミサイルが通り抜ける。もはや日本国憲法の尊重とやらも何処かに吹き飛んだ成れの果てかも知れない。この日の為に日本国が武装を強化していたとあらば、ガイドライン云々よりかは国民を納得させやすかったのだろうか。
だが、その真下に佇んでいた少年にとってはそんな金勘定は些末な事だ。
「ミサトさんがそのうち来てくれる筈だ。
そしたら僕はミサトさんに連れられて……戦うのか、もう一度、あの巨人と。
それが……僕の使命。今勝手にこじつけた、僕が僕である為の理由。
それだけが……僕が生きていられる資格であるかのように……」
その一発数億円が数十発叩き込まれても動じない巨人の力も、そして蠅のように飛び交う戦闘機を叩き落とした光のパイル光線をも、今の少年にとっては観察対象に過ぎない。
どの道、あれを倒せるのは自分しかいないのだ、という自負がある限りは。
「やはりATフィールドか」
「ああ。使途に対し、通常兵器では役に立たんよ」
あくまで動じないネルフ司令部の二人。
巨人に叩き落とされた戦闘機が、少年の真ん前に墜落する。
恐らく人が乗っているであろうその戦闘機が墜落するという事は、操縦者が死ぬ、という事実をも含んでいる。だがそれもまた、今の少年にとっては冷静に見据えられた対象に過ぎなかった。
巨人は続けざまその戦闘機を踏みつける。衝撃に触発されて、機体は炎上した。
その爆発の衝撃が自分を襲う、と確信できる範囲内に自分がいたとして、少年に動じる気配はない。
何故ならば、その爆風から少年を防ぐように、少年の前に立ちはだかる一体の自動車の姿を、少年は知っているからだ。
そして無論、その搭乗者も。
「ごめーん! お待たせっ」
まるでそれが只のデートの待合わせか何かのように、運転席から一人の女性が颯爽と姿を表した。
彼女の名は葛城ミサト。これから少年を導いて行く、道標の一人となる筈の女性。
だがその「再会」が少年に感慨をもたらす事は一切無かった。
二人の頭上では、相変わらず戦闘機共が税金の固まりを巨人に無駄に撃ち込んでいる。
税金のお釣りは立て続けの衝撃波だ。迅速に助手席に滑り込んだ少年を確かめると、ミサトは即座に車を前後反転させ、その危険地帯から間一髪抜け出した。
やがて、税金泥棒もといUN軍が巨人を足止め……と割り切れば出来ているのであろう状況を後目に、ミサトと少年を乗せたアルピーノは、法定速度の約二倍を以てして、郊外の幹線地帯に至った。
ミサトが助手席のフロントからおもむろに光学双眼鏡を取り出し、巨人が戦闘機を連れて第三新東京市に辿り着こうとする遥か遠方の様子を固唾を飲んで見守る。
突然、UN軍が一様に巨人から離脱する様子を認め、独自の軍事マニュアルから叩き出される一つの結論に達したミサトが、素っ頓狂な声を立てた。
「ちょっとまさか……」
「N2地雷……」
呟いたのは少年であった。ミサトは一介の少年がそんな武器名を口にした事を気に止める様子でもなく、焦りと共に少年を車体の中に匿おうとした。
だが実際は、少年が自分で屈み込む方が早かったようである。
―――閃光。
地上数千メートルまで上昇した火柱を確認した後は、数秒遅れてくるソニックブーム(音速衝撃波)。
荒野の土煙を多量に巻き込んで来襲する、ミサトの車体をゆうに吹き飛ばせる程の巨大爆風と共に、二人は数十メートルの彼方に車ごと転がされた。
(恐らく今頃はUN軍は勝ったつもりでいるでしょうよ。全く、効きもしないのにいい迷惑だわ)
ミサトは愛車の惨状に目を配りながら、愚痴を口にするのを喉の手前で精一杯我慢した。
その次は、自分と一緒に転がされた、見た目には無事のような少年の心配だ。
もしこの少年が血塗れで転がっていたというならば、彼女とて愛車よりは遥かに、出会ったばかりの少年の親身になってくれるだろう、ミサトはそういう気丈の持ち主だったからだ。
「だぁいじょぶだった?」
「……ええ」
少年が口にしたのは、素っ気ない返答。
ミサトにしてみれば、訳も分からないうちに使徒との戦闘に巻き込まれ、N2地雷の衝撃波を受ければ誰だって不機嫌になるわよ、程度にしか思っていない。
「そ。それじゃ悪いけど、手伝ってくれるかしら?」
ミサトが言いたいのは、今のとばっちりで横転した車を立て直せという事だった。
「……いいですよ」
少年は相変わらず不愛想な表情のまま、ミサト共にまだ熱を持つボンネットに背を向けて、目一杯後ろに踏み込む。数度押し込んだ成果、車は無事車体を安定せる事が出来た。
二、三度手をはたいた後、この共同作業が、自分達の親睦の和を深める機会だと感じ取ったミサトが、和やかに話しかけた。
「ふぅ〜。どうもありがと、助かったわ」
「……こちらこそ、葛城さん」
少年が見せたのは、不機嫌と言うよりは無表情に近い。
そんな少年の態度に多少の違和感はあったものの、
「ミサト、で良いわよ。改めて、宜しくね、碇シンジ君」
シンジと呼ばれた少年が、やはりその表情を何一つ変える事なく、呟くように答えた。
「……宜しく、葛城さん」
これが、葛城ミサトにとって碇シンジとの初対面であり、
「碇シンジ」にとって葛城ミサトとの悲しき再会でもあった。
無核兵器として地上最強の兵器「N2兵器」も、肝心の使徒には決定打とはならず、巨人は爆心地で自己修復の治癒作業を始めていた。
自分達の無能を知った国連軍幹部が揃って悪態を突く様子を、やはり後目らに蹴飛ばしたネルフ司令碇ゲンドウは「とっとと我々に指揮権譲渡すれば良い物を」程度の考えを持ちながらも、あのミサイル群の無駄遣いは許しても、先日の零号機の起動実験の修理費一つに煩く言う人類補完委員会の小人どもを出し抜くシナリオを、今のうちから既に脳裏で手作りしていた。
「ええ、心配ご無用。彼は最優先で保護してるわよ。
だからカートレインを用意しといて。直通のやつ。
そう、……迎えに行くのは、私の言い出した事ですもの、ちゃあんと責任持つわよ。じゃ」
シンジは黙ってミサトの横でフロントガラスの景色を眺めながら、頭の中では恐らく電話の相手は赤木リツコであろうと推測した。
こうやって過去をなぞって、よくよく一から考えてみれば、彼女は最初から自分に親身になってくれていた。その優しさも、自分は今からすべて反古にしなければいけない、この優しさに溺れる事は、何があっても許されないのだと自戒している自分が、とても虚しかった。
「……可愛い顔して、結構落ち着いているのね」
ふと気付くと、ミサトがフロントミラーを自分に向けている。
何せ、先程まで使徒の足下であれだけのドンパチを見せつけられていてこれだけ落ち着いている子がいるのかと、ミサトの方こそ今になってあの活劇が怖くなって来たのか、複雑な横顔を見せていた。
「……そうですね」
シンジは狙って言葉を濁した。
ミサトはその後しばらく口を開く機会を失ってしまった。
「ゲートが閉まります、ご注意ください。……発射」
先刻の電話通りに用意してもらったカートレインにそのまま愛車を乗せて、地下深くへと二人を誘う。
向かうは人類の遺産、ジオフロント内部。そしてそこに建設された世界再建の要であり、人類の砦と称される特務機関「Nerv」本部。
「特務機関、ネルフですか……?」
白々しく訪ねるシンジ。今更知らない名前ではないのだ。
ミサトが手渡したパンフレットに適当に目を通している振りだけを見せる小芝居までしてみせる。
ミサトの方もここである程度、白々しくシンジに向かって、ネルフという組織が何たるかを解説して見せなければならない為に、相手の白々しさにまで気を配る事はなかった。
大体にして、そんな心理の駆け引きを若干14歳の少年との対話の為にシミュレートするのは、はっきり言って暇人の勘ぐりなのだから仕方がない。
「そう、国連直属の非公開組織」
「……父のいる所ですね」
「まぁ、ね〜。お父さんの仕事、知ってる?」
ほら来た、勘ぐるとしても、この程度の心理戦があれば十分な筈なのだ。
まさかこんな子供が「ネルフ」の存在自体はおろか、人類補完計画の要綱まで知り尽くしているとはあのゲンドウとて知るまい。
「……人類を守る、大事な仕事と聞きます」
それは父が自分の周囲に流した容易な嘘だったのだろう。
だけど、もしそれが本当に叶えられたら、僕は父さんの罪悪感を取り除けるのだろうか……そう考えるシンジ。
心理戦は彼の一人相撲のようであった。
「今から本作戦の指揮権は君に移った。お手並みを見せて貰おう」
「了解です」
国連の幹部連中にしてみれは、自分達の与り知らぬ所で、自分達の数十倍の予算を秘密裏に使ってまで極秘に進められているネルフ建造が前々から眉唾物だったのだろう。だが、憎々しいながらも、上から「渡せ」と言われても尚出し惜しみする程、彼らには軍隊の指揮権などに未練はない。
「碇君。我々の所有兵器では、目標に対し有効な手段が無い事は認めよう。
……だが、君ならやれるのかね?」
出来ないなどとは言わせない、そんな彼等の暗黙の威圧もゲンドウには通じない。
「その為のネルフです」
「……期待しているよ」
半分本音を呟きながら、彼等はすごすごと撤退した。
「国連軍もお手上げか。どうするつもりだ?」
初老の老人、冬月副司令程の男でも、初の実戦には感覚の遠近感が薄いのだろうか。
「初号機を起動させる」
反して、何がそんなに彼に自信を持たせているのか、さくさくと物事を決めていくゲンドウ。
数十手先を考えるのが癖な彼にとって、たった今の会見はある意味予想範囲外の、茶番も良い所だ。
「初号機をか。パイロットがいないぞ」
「問題ない。もう一人の予備が届く」
―――「予備」それが私の息子の詐称か。
シンジには、これから何処に連れられ、誰に会い、何をさせられるか、そんな事は手に取るように分かる。
今更父親に畏怖する事もないのだから。
(不思議だな。今では自分から進んで父さんと縁を切りたがっているんだから。
そう、あの人だって本当は冷酷な人なんかじゃない、
妻と息子を何処までも不器用に愛し続けた独りの父親。
そう知ってしまった今となっては……)
「父さん……」
「あ、そうだ。お父さんから、ID貰ってない?」
「……どうぞ」
横から差し出されたIDカードと、身分証明書に目を通すミサト。
「来い ゲンドウ」の無愛想な殴り書きが印象的だ。
(……親子揃って無愛想ねー。それとも……?)
「……苦手なの? お父さんの事」
両手を頭の後ろで組んでみせ、極力リラックスした雰囲気で尋ねるミサト。
それは同時にミサト本人の古傷にも触っている事を、シンジは知っている。
「……あたしと同じね」
自嘲するように呟くミサト。シンジは昔聞いたミサトとミサトの父親との話を回想していた。
(……こうやって、僕はみんなの傷を痛めていくだけなんだ。どうして、どうしてなんだ……)
ネルフ本部内部に通されたシンジは、ミサトの慣れない誘導に付いていきながら、分岐点ではそれとなく「こっちではないか」程度に正しいルートに誘導する。地図片手にあたふたしているミサトより、既にこの本部に馴染んでしまっている自分が恨めしい。
「しっかしリツコは何処行っちゃったのかしら……。
ゴメンね、私まだここに慣れてなくて……」
「また迷ってなければいいけど、ミサト……」
ミサト達の現在位置から数百メートル離れた、LCL上層部プラント内部で作業中の、リツコの呟き。
「私が出向いた方が早いかも知れないわね……」
そうと判断したら、潜水用具を即座に脱ぎ始めた。
そのリツコがミサト達と合流したのは、エレベーターであった。
「あ、あらリツコ……」
些細な悪戯が見つかった子供のような声で対応するミサト。
リツコはそんなミサトらしいジェスチャーに笑う事もせず、ミサトを優しく押しのけて、エレベーターに乗り込んだ。
「予定より少し遅かったわね、葛城一尉。
私達には、人手もなければ、時間もないのよ」
「えへへ、ごめん!」
子供のように謝ってみせるミサトには溜息一つで取り澄ますと、つと横でパンフレットに目を通しているシンジに視線を向ける。
シンジはシンジで、今度は何を真面目に読んでいるのか、パンフレットの公式情報と館内地図を一生懸命頭に叩き込もうとしてるかのように熟読している始末。
「例の男の子ね」
「そ。マルドゥックの報告書による、サードチルドレン」
ミサトが信じているその組織の実体が、架空の組織であった事、彼女の大事な人が命懸けで調べていた事柄の一件だという事、それを知るシンジにしてみれば、ミサトの頭上に何本かのピアノ線が見えている気までしてしまう。
(所詮、みんな時代の道化だったという事か……)
「宜しくね」
その時リツコが自分に向けた瞳に、憐憫が僅かに混じっていた気がした。
そう、もう一度体験出来た事だから気付けた事。
彼女達の脆い仮面の裏を知ってしまった今ならば、分かってあげられる事。
「……はい」
声はか弱くも、とっさにしっかりとした返事が出てしまった自分を呪う。
「これまた父親にそーっくりなのよ。可愛げの無い所とかねぇ」
この二人にそう思われていれば、上等なのだろうと彼は割り切った。
「では後を頼む」
ゲンドウが息子に対面する為に自動昇降機を下って行く様を見送りながら、冬月は三年振りの対面とは言え、どの道あの男が父親ぶる事はないのだろうと半分落胆、半分苦笑してみせる。
(……まだ、会える息子がいるだけましだとは思わんかね、罰当たりめ)
既に、冬月の親類は誰一人残ってはいなかった。それが彼をこの場所に居座らせる理由でもあったのだろう。
「で? 初号機はどうなの?」
「B型装備のまま、現在冷却中」
「それ、本当に動くの? まだ一度も動いた事ないんでしょう?」
「起動確率は、0,0000……」
二人が他愛のない口論を繰り広げている横で、シンジは一人パンフレットに没頭している様子を見せながら、起動するかどうかは0か100%のどちらかである事を承知していた。幾らリツコがその天才的頭脳を以てして科学的根拠で推察して見せても、「既知の事実」の前には一歩引かざるを得ないだろう。
(「ゼロ」が抜け落ちた状態の僕に、果たしてエヴァが動かせるのか?
もし出来れば何も問題はないさ。僕が使徒を……いや、この人達に災いする全ての物を倒すだけだ。
一人で出来ないなんて言わせない。やらなきゃならないんだ。必然にしなきゃならないんだ
でも……もし「ゼロ」の抜け落ちた僕に、エヴァを操る力がなければ……
そんな無能は、殺してやる)
「ま、どの道『動きませんでした』ではもう済まされないわ……」
それはミサトの指揮官としての自戒なのだろうが、シンジにとっては何より痛烈な一言だった。
エレベーター、エスカレーター、ホバークラフト、と様々な乗り物を駆使し、ようやくシンジは初号機ケージに辿り着かされた。当初は暗闇の空間だったそこに明かりが付けられて、突然現れた初号機の頭部に驚いた振りをしてみせれば良いのだろうが、だがシンジはそんなつまらない小芝居に呆れ始めていた。
この場所こそまだ静寂が保たれている。だが、頭上ではもう使徒が再生を終えている頃だろうから。
急がなくてはならないのだ……僕は。
「そのパンフレットには探しても載ってないわ。
人の作り出した、究極の汎用人型決戦兵器。人造人間エヴァンゲリオン、その初号機。
建造は極秘裏に行われた。我々人類の、最後の切り札よ」
リツコの謳い文句は、おそらく彼女の長年の仕事の成果として褒められるべきである事を自ら暗示して見せているようにも聞こえた。
こんな、数百万人分の血税と労働力を駆使して作り上げられた大事な物も、僕にとっては只の鎧兜なのか、そう思うと、装甲一枚無駄には出来ない、そんな思いを引き起こす。
(いや、只単に、自分に背負わせている鉛の重さを楽しんでいるだけなんだね、僕は……)
「……これが、父の仕事なんですね」
「そうだ!」
頭上の実験棟から、威圧を掛けるような声が木霊する。
シンジの父ゲンドウが、三年振りに息子に出会い、扱き使う為に現れたのだ。
シンジが父親を見上げる視線は、熱くもなく冷たくもなく。
「……出撃」
「出撃!? 零号機は、凍結中ではないですか! ……まさか、初号機を使うつもりなの!?」
ゲンドウはにべもなく言い放った。恐らくはミサトではなく、シンジ自身に当てつけたつもりなのだろう。一人気負うミサトの言葉を真正面から受け止めたリツコが負けじと言い放つ。
「他に道は無いわ」
「ちょおっとぉ! レイはまだ動かせないでしょう!
パイロットが居ないわよ!」
「……パイロットならば、今し方届きましたよ」
仰天した二人がシンジを振り返る。
「何、泡を食ったような顔をしているんですか、二人とも。
僕はその為に呼ばれたんでしょう? 今更騙し合いは無しにしましょうよ。
時間と人手が無いんですからね、我々には」
先刻の台詞に対して皮肉って見せたのだろう、シンジはリツコの方を向いて言い放った。
「そ……それでいいの? シンジ君!」
あまりに無謀な発言に、途端にシンジの身の心配を始めたミサトに、
「彼には、座って貰えればそれでいいわ。それ以上の事は望まないから」
慰めにもならない事を断言して見せるリツコ。
「今は使徒撃退が最優先事項。
その為には、誰であれエヴァと僅かでもシンクロ可能と思われる人間を乗せるしか、方法がない。
この事は、分かっている筈ですよね、葛城さん」
シンジがリツコの方を向いたまま話していたので、リツコと共にシンジを挟むようにして立っていたミサトには、その小さい背中から異様なまでの威圧感を受けたかのような錯覚、そしてその言葉に愕然とする。
「そ……そうね……」
声が、震えていた。
彼女にとって、子供達が自分の復讐の道具である事が、この時期から自覚が出来ていたのだろうと、シンジは勝手に思わせて貰う事にした。
「シンジ君、あなたは一体……」
多分、ミサトに諭そうとした言葉を一言一句違わず先走られた事が信じられなかったのか、正面側のリツコも又、一介の少年から発せられる威圧感に飲まれていた。
「父さんは、必要だから僕を呼んだまでですよ。
ならば僕は、与えられた仕事を遂行するまでです。
……僕がエヴァに乗ります。準備をして貰えますか」
それは、見上げた父に向けての言葉。
彼の決心そのままであった。
「シンジ……お前、何処まで知っている?」
ゲンドウはあの、惰弱で因循な息子を呼んだ筈だった。
自分の影に怯えて生きている軟弱者を呼びつけた筈だ。
何故エヴァを知っている。お前は親の愛無く廃れた子供だからこそ、エヴァに乗れる資格を得たという物を……と。
「そんな話は後にしましょうよ。
使徒が迫っているんでしょう? 決断は早くお願いしますよ。
でも、どうせ他の人間には乗れと言っても無理な話でしょうからね」
(違う! 私の息子は、こんな不敵な顔の出来る子供ではない……!)
「見た事も聞いた事も無い兵器に、お前は覚悟無しに乗り込めるというのか!?」
「見た事も聞いた事も無い? ……これからそれに乗る人間に掛ける言葉じゃないですね」
大胆不敵とはこの事か、親に対して一つ不敵な笑みを見せたかと思えば、ポケットに手を突っ込んで空々しく語り出す始末。
あの憮然、不愛想、無慈悲の固まりのような存在のゲンドウが、たかが子供一人に飲み込まれる風景は異様であり、小気味よかったりもする。
だがシンジは本当に急いでいる。こんな所でゲンドウをいびっている場合ではないのだ。
「乗せるつもりなら早くして下さい。……でなければ勝手にやりますよ」
その時、ケージ内が強い衝撃に揺れた。
修復作業を終えた使徒が、光線で都市部に攻撃を始めたのだ。
「……使徒め、ここに気付いたか」
忌々しそうに呟くゲンドウ。そして、その衝撃を感じた後、埒があかないと判断したシンジが、初号機のエントリープラグを目敏く見つけ、向かって駆け出した。
「僕の力だけで……動いてくれ、エヴァ!」
ケージ内が、初号機起動の為の作業で俄に騒ぎ出した。
「冷却終了」
「ケージ内、全てドッキング位置」
ケージ内が全て正常に作動していることを受け、第一発令所の伊吹マヤ二尉が起動作業を順調に引き継いだ。
「停止信号プラグ、排出終了」
「了解、エントリープラグ挿入。…………プラグ固定、終了」
「第一次接続開始」
予定されていた作業は、急ピッチながらも正確に進められていた。
その間、プラグ内で佇むシンジが考えていたのは、こうして何十人もの作業員に支えられてようやく出撃できるというのに「一人で戦う」などと粋がっていた自分への嫌悪であった。
(結局、皆を巻き込んでの復讐劇か。
自分一人を追い詰めるのにもわざわざ他人の力を借りて、馬鹿馬鹿しいったらない……)
「エントリープラグ、注水」
足下からLCLが湧き出して、シンジの体を包む緩衝剤として作用する。
同時に、戦闘時の酸素補給媒体でもあるのだ。
「その液体を肺に取り込めば、直接血液に酸素を取り込んでくれるわ」
リツコの丁寧な指南も、既知とあらば言われずとも行ってしまう。
この頃になって、リツコもシンジという少年の一連の行動に、違和を感じ始めていた。
「主電源接続。電解炉、動力伝達」
「了解!」
「第二次コンタクトに入ります。A10神経接続、異常なし」
「思考形態は、日本語を基礎原則としてフィックス!
初期コンタクト、全て問題なし!」
「双方向回線、開きます。
シンクロ率……せ、先輩!!」
マヤが画面の数字に度肝を抜かれ、何事かとコンソールを覗き込んだリツコも又、情けない事に度肝を抜かれていた。
「シンクロ率、82,45%ですって……!?
訓練も受けていない子が、こんな数字を出せる物なの……!?」
「計器類に、異常は認められません!」
「あったらそれこそ困るわ!」
シンジの口元が、怪しく歪んだ。
シンクロ率は、最後に初号機に乗った時とほぼ変わらなかった、その絶対的事実が今自分の手元に転がり込んで来たのだ。ならば、口元が歪みもするという物だ。
(ゼロが居なくとも、僕一人で戦えるという事だ。
これならば……これならば、僕が戦える理由があるんだ……)
「ハーモニクス、全て正常値。暴走、ありません」
「行ける、行けるわ!」
リツコが半ば驚喜するのを受けて、ミサトが決断した。
「発進、準備!!」
「エヴァ初号機、射出口へ!
進路クリアー、オールグリーン!」
「発進準備完了!」
「了解!」
全ての射出準備を終えた所で、ミサトが後方に控えるゲンドウに問い返した。
「……構いませんね?」
「勿論だ。使徒を倒さない限り、我々に未来は無い」
傍らの冬月が口を開いた。
「碇……本当にこれで良いんだな?」
「……使徒を倒さねば我々に未来は無い。それは確かだ。だが……」
「だが?」
「……アレは既に私の息子ではなくなっている」
「なんだと!?」
「発進!!」
作戦部長、葛城一尉の号令に合わせ、数Gの加速でリニアレールを駆け上がって行くシンジと初号機。
そして都心部を徘徊する使徒サキエルの前に現れる、紫の巨人、エヴァ初号機。
「……行くよサキエル。これが『僕』の初陣、そして只の足掛かりだ」
そう、これから彼は、度重ねて襲来する使徒を全て自分一人で倒し、人類補完委員会の計画さえも挫いて見せなければならない。
それは過去の反芻であり、そして、今度こそ完璧に始末せねばならない人物が存在するのだから―――。
「今はせいぜい戦えシンジ。血反吐を吐いて藻掻き死ぬその時まで」
それは、自らへの究極の復讐に相違なかった。
第二部だいなし(核爆)
……すみません。これが「後半」の正体です。
春映画の分岐から始まった話が、途中で本編再構成になるという事です。このSSはあくまで、いわゆる「映画補完」としての構成となっていますが、映画のアフターストーリーとして、本編がもう一度繰り返される訳です。
第三部は、このままTV本編をなぞって、春映画部分直前まで進む予定です。それと私は資料等から、本編は約一年間の出来事と憶測してますので、シンジも15歳になってます。「数え年16」は間違いではないのであしからず。タイムワープした少年が歳を取っている理由は……ちょっとSF的に考えれば分かっていただけると思います。
勿論、いずれレイもアスカも、カヲルも登場します。
トウジ達も出番はあるでしょうが、本編のそれよりは遥かに少なくなると思います(^^;
あと、誤解無きように言っておきたいと思いますが、「ゼロ」と「シンジ」は似て非なる別人です。
第三部の話は、この「シンジ」一人の話であり、第一部は「ゼロ」と「シンジ」がまだ融合していた状態でのお話でしたので。
あと、只の再構成物と行かないであろう事は今章でご理解頂けたと思いますが、ストーリーを円滑に進める為に、オリジナルキャラもいずれ登場する予定です。
それでは、また次回……。
あと、ごく一部の方々の中に、この作品にも「彼女」が登場するのでは、と勘ぐる方いらっしゃると思いますが、それは絶対にないので誤解なきよう(爆)