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=悔恨と思慕の狭間で=

 




−第十章 補完抄録の片合間に−

 

 

 「どういう事かね? サードチルドレンは鈴原君ではないのかね?」

 冬月が一切の事情を知らないのも当然であろう。

 ならばと、リツコの説明は簡素に穿たれた。

 「勿論私達が認定したサードチルドレンは『鈴原トウジ』です。例えマルドゥック機関そのものが架空であったとしても、その事実になんら変化はありません。しかし、セカンドチルドレンの思考内では、彼は『フォースチルドレン』と認識されています。つまり、私達の立場からすれば、ロストナンバーともいえるチルドレンが存在する事になります」

 「それが、『碇シンジ』という少年という事か」

 冬月の眼が、含む所を以て右隣の碇夫妻を軽く見やる。

 「碇……、まさか、先日のあの受精卵と関連があるのか?」

 それは碇夫妻には軽い畏怖であろうと邪推する。

 「それは何とも言えません。しかし、セカンドの認識としては、その少年が碇司令の実子であり、誕生日、血液型、容姿、性格に加え、初対面以来の経歴の一切が記憶として残されているようです。尤も、私達がそれを確認する手段はありませんが」

 

 リツコは手元のファイルを一枚めくる。

 寡黙を通していたゲンドウもそれに習い、それをユイが覗き込む形になっていた。

 「4ページ目の二段落目になります。サードチルドレン『碇シンジ』の経歴です」

 リツコ自身、身に覚えのない事ばかりを書いたレポートに自信はない。

 「エヴァ初号機専属パイロットとしての功績は目覚ましい物を持っていたようです。

  初搭乗以来、高シンクロ、ハーモニクス数値を記録し、

  使徒撃滅の最重要戦力となっていたとあります」

 「初号機専属? レイを差し置いてかね?」

 「レイは零号機専属が本来望ましいので、ダミーシステムとの相性やパイロット不足から、

  初号機にダミーシステムを搭載した事は史実通り……とも言えます。

  但し、セカンドの報告では実戦配備されたのは一回限り……ここが異なります」

 「第三、四使徒戦の事は?」

 「サードチルドレンが撃退したとあります。ダミーシステムの実践経歴が、そのままサードチルドレンの戦績と入れ替えられているとも言えますが。そしてセカンドの語る一連の史実に、矛盾や偽証的な点は確認出来ませんでした」

 

 

 「以上の事から、私達技術部としましては、碇シンジの存在を『断定』は出来ません。

  ……しかし『断言』は出来ます」

 

 

 一同がしばし沈黙した。

 

 リツコは更にレポートをめくる。

 「問題は、第七使徒戦以降の記録です。あまりに史実と擦れ違うので、正直……」

 言葉を濁すリツコ。

 (中途半端な仕事をするはずのない彼女が戸惑うくらいの事か)

 ゲンドウは黙って了解し、黙読を続ける。

 

 リツコは、自らの草案レポートを冬月に渡し、ミサト共々熟読する三人を見守った。

 不意にミサトが耳打ちする。

 (いくら何でも、そんな話ありえないでしょう。零号機はゼーレ戦前に中古廃棄されたのよ。あのコアが自爆しようものなら、今頃第三新東京そのものが吹き飛んでいるわよ)

 (私に聞かれても困るわ。アスカの報告を真に受ければこうなるのよ)

 (どうして真に受けるのよ)

 (なら聞くわ。どうして真に受けないの?)

 (だってあまりに突拍子な話ばかりでしょう?)

 (私に言わせればアスカの記憶を支持する根拠はあるわ。

  逆に、私達が立てた仮説よりもよっぽと信憑性が高いもの)

 

 「……赤木君」

 不意にゲンドウが口を開いた。

 「あっ、はい」

 「彼女はどこまで知っている?」

 ゲンドウの声に、久しく威圧感が取り戻された。

 それはかつての冷酷なネルフ司令としてのそれである。

 傍らのユイも、今は黙って見届けるだけであった。

 「何をでしょう?」

 「補完計画、をだ」

 リツコは、三枚ほどページをめくる。

 そのページが最終頁だった。

 「補完計画発動と思われる時期、セカンドは既に昏睡状態のようでした。シナリオの一切も記憶に垣間見られない所から推測するに、セカンドは補完計画の発動には一切関わってはいないようです」

 「予備……だからな」

 ユイの視線が俄に厳しくなったが、それを感じつつゲンドウは続けた。

 「ならば、発動にサードは関わっているのか?」

 リツコが口を開くのに、一瞬間を置いた。

 その発言は技術部の恥部晒しだからだ。

 「私達には、補完計画が『発動』した以降の世界に生きているという認識しかできません。発動された計画が、おそらくは初号機のコアから放出される全地球規模のアンチATフィールドがその一端かと思われる以外に、補完計画の全容は掴めません。ゼーレのシナリオとも、碇司令のシナリオとも逸脱する現状である以上、発動者が誰なのかも一切掴めません。第三の立場の人間、という推測だけが精一杯で、その件に関する研究は停滞した状態です。しかし……」

 

 「続けてくれ」

 

 リツコはまた間を置いた。

 今度の発言は、推測に塗り固められた物―――リツコが最も不得手とする行為―――であるからだ。

 「セカンドの証言から、新事実が掴めるかも知れないという事です。ロストナンバーであるその少年が、計画に咬んでいたとすれば、新たな角度から研究の続投が可能です。その少年が計画の発動の一端に関わっていると仮定するだけで、考えられる事象の数が跳ね上がります。あるいは……」

 

 

 

      ―――「発動者」―――

 

 

 その一言に、全員が息を飲んだ。

 

 発言者であるゲンドウだけが続けて言葉を発する事が出来た。

 「ならば何故その少年の記憶が我々にないか、その点さえ掴めれば計画の大体の合点がいく」

 ゲンドウは未だ硬直したままの一同を傍目に、もう一度資料に軽く目を通す。

 そして、やおらユイの方を振り返った。

 「ユイ、もう一度惣流君と話をしてみよう。今度は私とユイとの三人きりでな」

 

 

 

 ミサトは司令室を出た後、一端自宅に戻ると自室のファイルを手に取り、再び出立準備をした。

 足下に転がったビールの空缶が、歩くのに鬱陶しい。

 「こんな部屋にアスカを連れ戻すのも何よねぇ。とは言え『妹を離さない』と大見得切った以上、これも何とかしないとね……」

 ミサトの自宅は、アスカが来訪した当初は酷い物であった。

 そこには、ネルフ作戦部長葛城ミサト一尉(当時)の威厳の微塵もない、一人暮らしの学生もかくやと言わんばかりの荒れ果てた床があった。

 八割方はビールの空き缶、残りの二割はコンビニエンスストアの弁当箱という代物である。

 「ゴミ溜め」

 かつてアスカはその惨状をそう一括したと言う。

 

 とは言え、アスカも自分の居住領域だけを最低限掃除していただけなので、ミサトの周囲はアスカと同居する事になっても大した違いは見られなかった。

 増して、アスカの精神虚脱による入院後は、ミサトが家に戻る事もめっきり減り、たまに戻れば翌朝の出勤まで味のしないビールを胃に流し込むだけの生活。

 妙齢の女性の部屋とは言えない異臭まで放ち始めていた。

 「戻ってきたら大掃除ね」

 そう言い捨てて、ミサトはネルフ本部の精神科へと引き返した。

 

 

 「復学手続きぃ?」

 アスカの素っ頓狂な声。

 「そうよ。夏休みも終わって、レイや洞木さんはとっくに学校に行っているのよ。アスカももう二週間もすれば退院出来るらしいけどね。あ〜〜あ、夏休みかぁ。私も欲しかったなぁ」

 「聞いてないわよそんな事は」

 復学手続きの事とミサトの愚痴、両方の事であろう。

 「て言うか、自称『保護者』でしょアンタ? ミサトが書くべき書類なんでしょこれ? どうしてアタシに押しつけるのよ!」

 呆れ果てたアスカが、それでも書類に目を通す。

 「それにしても、どうして日本の書類ってこうややこしいのかしら。しかも小難しい漢字ばかりだし、嫌になるわ」

 「アスカに書きなさいなんて一言も言ってないわよ。第一、アスカに書かせたって、後で私が書き直すのが落ちよ」

 今度はミサトが呆れ果てた。

 「どうしてよ?」

 「だってアスカの日本語、リツコに言わせれば『ミミズの通り道』だってさ」

 「うぬう、リツコめぇ」

 両手に握り拳を作ってまで憤慨するのに、ミサトは笑いを隠しきれなかった。

 「ミーサート!!」

 「ごっめーん」

 

 「書類は当然後であたしが書くわ。要するに、アスカの心構え次第よ」

 ミサトの顔がそれなりに険しくなった。

 「心構え?」

 「そう。国語……日本語以外の成績に問題はないから、学力面での心配はそんなにしてないけど、前みたいに惰性で学校には行ってほしくないの。高校進学の希望は結構だけど、その目的は? 将来の進路だってそろそろ考えてもいいんじゃない?」

 「ミサト。アンタ学校教師にでもなったつもりぃ?」

 「生憎とそういう話はないわよ。学校教師にも憧れた時期はあったし、大学時代に高校社会科の教職員免許だって取ったけれど。まあリツコの化学と生物学の教職試験の付き合いってのもあったけどね」

 「だから聞いてないっての」

 アスカはこの自称『保護者』にいい加減呆れ始めていた。

 最近のミサトは、つまらない話が多すぎる。

 まあ、そんな話が出来るだけ平和だというポジティブな見方もあるが。

 「それに、技術部や広報部はともかく、補完後の作戦部の仕事はつまんなくてねぇ。本気で転職考えようかしら?」

 

 

 かつて、子供達まで巻き込んだ、彼女の使徒への復讐は終わりを告げた。

 今度は、彼女が自身の幸せを掴む番なのだ。

 かつてのミサトの復讐心を知るアスカの瞳の色が変わる。

 

 「アンタが教師じゃ、世も末よね」

 「言ったわね!」

 「でも……」

 「でも、何よ?」

 「……社会科教師、葛城ミサト……ぷっ」

 「わ、笑う事ないじゃないのよ!!」

 

 所詮、じゃれ合いである。

 

 

 

 「……ねぇアスカ。一つ、断っておかなければならない事があるの」

 ミサトの顔が険しくなる。

 先程より更にだ。

 

 それは彼女の一大決心、そして最後のけじめ。

 「……私、加持の子供が出来たのよ」

 「……!? 嘘?!」

 確かに、アスカにとってはまさに青天の霹靂、驚愕の事実であった。

 「加持……いえ、リョウジが帰ってきたら、身内だけで式も挙げようと思う。……あなたにも、同席願える?」

 

 虫の良い話だとミサトは心の中で自嘲していた。

 アスカの加持に対する思いは知っていた。

 勿論そんな事は以前はおくびにも出さなかったし、出す必要もなかった。

 まさか、心の深層で、未だに加持を慕っている自分に気付かなかった時は。

 

 ―――或いは、傷の舐め合いでしかなかった間柄であったとしても。

 

 そして、そんな自分が加持と寄りを戻した事が、おそらくアスカの崩壊の一因でもあろうと、ミサトにとってはそれは確信でもあったからだ。

 だが、そんなミサトの思考とアスカのそれとは、大きく食い違っていた。

 何故なら、アスカの認識では加持は既に故人だからだ。

 「か、加持さんが生きているの!? ミサト、それ本当!?」

 

 

 ミサトは自らの失言を知った。

 先立って、リツコには「くれぐれもアスカの記憶と食い違う事は言わないように」と釘を刺された直後だからだ。

 そうだ、リツコのレポートではアスカの記憶では加持は死んだ事になっていた―――最も、消息不明になっていた事はあったが―――のだ。

 

 「そ、そうよ。てっきり死んだとばかり思っていたけれど、あいつ妙な所でしぶといから、ある日ひょっこり帰って来たのよね。それで、その……」

 見苦しい言い訳である事はミサト自身百も承知だ。

 しかも、加持との関係に話が及ぼうとすると途端に言葉が続かなくなる。

 だが、それもやはりアスカの思惑の外であった。

 「良かったぁ。バカシンジの言葉真に受けたつもりのアタシが馬鹿だったわ。やっぱり加持さん生きてたんじゃないのよ、まったく……」

 そう一人ごちて感傷に浸るアスカ。

 この際ミサトとの云々は関係ない。二人の関係などとっくにお見通しだし、平和になったこの世界でなら、婚姻まで話が進もうと驚く事だとは思えなかったからだ。

 「別に断りはいらないわよ。加持さんが生きている、それでアタシは十分」

 そのアスカの言葉には、嘘も棘も感じられない。

 「ま、良かったじゃないミサト、貰い手があってさ。ついでに言えばリツコにも勝ったってとこかしら? 最後の一人にならなくてつくづく良かったわよねぇ」

 口の減らないガキだと思いこむミサトは、余裕の出来た証拠だろう。

 「いいの? アタシ加持と結婚するのよ?」

 それはまたアスカの拠り所を奪いはしないかというミサト自身の恐怖に過ぎなかった。

 だが、その危険が薄れたからこそ、改めて口に出せる事でもあった。

 「いいのよ。世間でいう二号さんとか、愛人とか、色々手はあるわよ」

 「アースカッ!!」

 「冗談よ、冗談」

 あははと笑い飛ばすアスカだったが、ミサトはそれでも良かった。

 そんな明るいアスカが戻ってきた事が何より嬉しいし、アスカの希望は極力叶えてやりたいとも思う。

 「でもねぇ、実際問題、加持に「浮気はするな」なーんて言った所で、するんだろうなぁ。その相手がアスカなら、ま、今手を出したら犯罪だけど、……それでもアタシはいいわよ」

 「アタシが嫌よ、そんなの!」

 アスカは一喝した。

 「別に加持さんと今更どうこう、なんて思ってないわよ。所詮アタシが迫っても「子供」扱いされちゃったし、そんなアタシそのものが「子供」だったのよねぇ……」

 

 

 

  「……それに、恋愛の事は当分考えたくないわ……」

 

 

 

 アスカには、今自分が恋愛の事をしっかりと捉えられる自信がなかった。

 しかも、最も意識していた男性は、二人とも自分の手の届かない所に行ってしまった。

 片一方は眼前の女性と結ばれてしまったし、第一今更あの人と異性関係でいたいとは思えなかった。

 そして、もう一人は……。

 

 「所詮アタシが求めていたのは「理解されたい」っていう只の我が儘。アタシは加持さんの事もアイツの事も、ちっとも理解しようとしなかったのにね……」

 それがアスカの心の傷から来る物だとすれば、それを責める事は出来ないだろう。

 それに、心が補完された筈の世界で、そんな感情は有り得なかった。

 「享受するだけのアタシはもう止めるの。アタシが目指すアタシは「愛する」アタシ。「愛される」アタシじゃないもの」

 かつて無償で愛された記憶に縁遠い少女が、もっとも前に歩み出せた部分。

 理解されるだけじゃなく、理解したい。

 補完が彼女にもたらしたのは「能動」であった。

 「だから、そんなアタシが完成する日まで、そしてそれだけの相手が見つかる日まで、恋愛感情は一時お預け。今はそれでいいわ」

 「アスカ……」

 ミサトは感慨深い瞳で、そんなアスカを見つめる。

 

 「とりあえず、おめでと、ミサト」

 やがて、そんな瞳が涙で潤んだ―――。

 

 

 面会時間終了の間際、帰り支度の合間ミサトはこう言い残した。

 「それと、アスカ。今度碇夫婦がアスカとじっくりお話がしたいって」

 「司令と……ユイさん、だっけ?」

 「そう。進路の相談もその時するといいわ。それじゃ、あたしは行くわよ。身体、気を付けてね」

 アスカの身体に対する心配は今やほとんど無くなっていた。

 栄養状態も回復し始めて、痩せこけた頬も今では多少見る影も出てきた。

 それでも未だに、全身の筋力の衰退や床擦れなど未だ入院の後遺症に悩まされる事は多いが、それもリハビリ次第で難しい事ではない。

 「碇夫妻……か」

 慣れぬ言葉使いは、ミサト共々らしい。

 

 

 やがて、淡い夕焼けの光がジオフロントを満たす。

 アスカの病室にも差し込む陽光を、アスカが趣深く眺めていたが、やがて目を伏せ床に付いた。

 

  「……何よ、バカシンジの嘘つき……」

 

 その悪態は、もしかすれば本人に言いたかったのかも知れない響きである。

 そうだとアスカ自身信じたかった。

 

 

 

 一週間後―――。

 昼食が届くか否かという時間帯に、アスカの病室のドアを叩く音があった。

 「どうぞ」

 直前に連絡を受けていたから、訪問相手を確かめる必要はない。

 「惣流君、失礼するぞ」

 「おじゃまするわね、アスカちゃん」

 ゲンドウは相も変わらず司令官用の紺色の衣服であったが、ユイは水色のワンピース。

 夫婦というよりは親子の方がしっくりくるな、とアスカは心の中だけで笑った。

 実際、エヴァのコアの中で歳をとる事のなかったユイは、27歳。

 ゲンドウとは二周り近く歳が離れている計算だ。

 「いいですよ」

 不思議なもので、ネルフ司令としての威厳が垣間見られなくなれば、途端にとっつき易くなる人柄の様な気がする。自然とアスカの口調も平穏だった。

 「食事は済ませたかね?」

 「いえ、まだです」

 「外出許可は取っている。食事ついでに少々外に出てみんかね」

 「? 構いませんよ」

 「御免なさいね。歩くのも楽じゃないでしょうに、この人ったら気紛れ屋だから」

 こちらもこちらで夫婦のじゃれ合い。

 自然とアスカの頬も緩んだ。人知れず、訪問者が嬉しいのかも知れない。

 「車椅子を用意させようか?」

 「いえお構いなく。多少歩かないとリハビリになりませんから」

 「外出着はある?」

 「いいえ」

 「丁度良かった。レイの着替えで良ければ使って」

 「構わないんですか?」

 「いいのよ」

 そうして持参した紙袋を手渡すと、

 「ほらあなた、何をぼーっとしてるの。年頃の娘が着替えるのだから、外に出た外に出た」

 と、ゲンドウを背押しして病室の外に連れ出す。

 「御免なさいね。うちの人、仕事以外となると行動鈍いのよねぇ」

 微笑みを絶やさないユイ。アスカはそんなユイには好感以外の感情は今の所持ち得なかった。

 

 「……それと、他人行儀である必要はないのよ、アスカちゃん。あなたには葛城さんという保護者もいるけれど、私達も彼女と同じつもりだから、親代わりだと思って気軽に話しかけて頂戴。その方が私もあの人も嬉しいし、それに……」

 「それに?」

 「キョウコの忘れ形見の娘さんなんだもの。私も一層大事にしたいし」

 

 着替えを進めていたアスカの手が止まる。

 「ママを……知ってるんですか?」

 「知ってるも何も無二の親友だったわ。私も娘持ちだからその辺りでも気が合ってね、生前はよくお付き合いしていたの。…………事故の事は最近知ったわ」

 「…………」

 アスカは何も言えなかった。

 実際、母親の惨状が記憶から拭えたわけではない。

 だが、いつだか朧気に知った気がする。

 

 母親の愛を―――。

 

 そう、あれは……。

 

 

 「私が掛けてあげられる言葉は少ないと思うけど、一つだけ言ってあげたい事はね、「キョウコはあなたの事を何より大事にしていた」という事。母親らしく身を挺してあなたを護ろうとした、その事実は知っていてね」

 「でも、でもママはアタシの事……」

 毎夜魘された悪夢。母に裏切られた悪夢。

 「それも知ってるわ。……でもね、キョウコはずっとずっとあなたの事を愛していた、その事は確信しているの。だから、せめて思い出の中のキョウコを恨まないであげてね。私が知る限り、キョウコは理想の母親そのものだったのだから」

 「ママ……ママぁ……」

 とうとう堰を切ったように泣き崩れるアスカ。

 覚醒後すっかり涙脆くなった少女を、ユイは自分の胸でしっかと受け止めた。

 「私がキョウコの代わりになれるとは思わないけれど、せめてこれからは私達が母親代わりになってあげる。キョウコの分まであなたを護ってあげたいから、だから……今は私があなたのママよ」

 優しく、きつく抱きしめるユイ。

 親友の分までも。

 

 「ママ、ママ、ママ……!」

 ユイの胸の中で、アスカは何時までも泣き喚いていた。

 その手はユイに強く縋り付いたまま。

 ユイも、黙ってアスカをより強く抱きしめた。

 

 

 「落ち着いた?」

 泣きはらした眼をそっと拭き取りながら、ユイが尋ねた。

 「はい。すっかり取り乱したりして、すみませんでした……」

 ユイの声が少しばかり怒気を含んだ。

 「すみませんでした、じゃないでしょ。娘に他人行儀されたら悲しいわ」

 「あっ、はい……ごめんなさい」

 それを聞くと、直後微笑み出すユイ。

 「冗談よ、こっちこそごめんなさい。でもそんなに気を使わなくていいのよ。私にとってはレイもアスカ……も一緒なんだから。少しばかりはアスカの我が儘だって聞けるし、甘えてくれてもいいのよ。ううん、そうしてくれないと悲しいのは私かしら?」

 「ユイさんったら」

 「ユイさん、じゃないでしょ」

 「じゃあ、えっと……叔母さん」

 「50点」

 「えと……お義母さん」

 「80点」

 

 密かに、ユイのペースにはまりだしているアスカ。

 勿論、アスカの気持ちを解きほぐそうとしているユイの算段もある。

 

 数秒後。

 「……ま、ママ?」

 さすがに顔を赤らめてからでないと言えない一言。

 「100点、良く出来ました」

 わざとらしく、アスカの頭を撫でたりする。

 それがこそばゆいアスカだが、少なくとも不快ではないようだ。

 「呼び方はまあ拘らないけど、言葉に籠もる感情は大事にしたいのよ。アスカに慕われないようで、母親気取りは出来ないもの」

 「いいんですか? 本当に。アタシ……多分相当ご厄介かけると思いますよ」

 「厄介者なら家にもいるわ。そんな事気にしないで家族ぐるみで行きましょう」

 

 

 「おい、ユイ。まだなのか」

 

 

 間の抜けた応答にユイはアスカ共々吹き出した。

 「まったく、可愛げのある人。仕事場でもああならいいのにねぇ」

 「まったくですね」

 ミサトより若いと言ったら失礼だが、歳が近いからか比較的気の合うところが、親子に見えづらい所か。

 「はいはい、もうすぐですから、あなたは車の暖気でもしていてください」

 「わかった」

 コツコツ、と革靴でリノリウムの床を歩く音が響いてくるのが、何とも寂しげだ。

 「あの人も甘えん坊な所があるし、レイもそうだし、可愛げのある家族ばかりよ。最近、もう一人家族同然の子が増えたけど」

 「誰ですか?」

 「あなたの義兄になる予定の人よ」

 

 当然、思いついたのはあの少年の顔。

 

 「ぷっ、とうとうプロポーズでもしたんですか?」

 「違うわ、レイにさせたの」

 

 快活に笑い飛ばす声が、何とも爽やかな八月の陽気。

 

 

 (この人となら、上手くやっていけそう……)

 それが、アスカの希望―――。

 

 

 

 やがて、アスカに肩を貸しながら現れたユイを連れだって、ゲンドウは自身の愛車であるカローラを発進させた。

 ユイや冬月に言わせれば、車の選択の時点で可愛げのある話である。

 「そうだな、惣流君の体調も考えて、蕎麦などどうだ?」

 「それはあなたの嗜好でしょう。いいからアスカに決めさせなさい」

 「惣流君までもう呼び捨てなのか」

 手の込んだ事だとゲンドウは呆れた。

 「アタシも蕎麦でいいですよ」

 「だそうだ」

 「もう、あなたったら」

 

 冬月に勧められた店と前置きし、ゲンドウ達はとある蕎麦屋に辿り着いた。

 「ここの笊蕎麦のつゆがなんとも……」

 「はいはい蘊蓄はいいから入りましょう」

 

 食事時とはいえ、比較的空いた古風な店内。

 三人は足に辛い座敷を避け、テーブルに席を取った。

 結局、笊蕎麦を頼んだのはゲンドウだけで、身体の事を考えてアスカには若布入りのかけ蕎麦を注文させた。

 

 注文を待つ間に、ゲンドウはふと胸元から写真を取り出した。

 「唐突だが、この少年達に見覚えはあるかね」

 写真は20枚もあり、しかも全部が黒い髪の少年を映した物である。

 それぞれ多少顔の造形が違うものの、同一人物の連続写真にも見えなくもない。

 アスカは一瞬でその人物を察し、驚愕した。

 

 

 

 

 「……シンジ……!!」

 

 

 

 

 「やはりか」

 ゲンドウは、固まってしまったアスカの手からゆっくりと写真を取り返すと、5×4の形でテーブルに通し番号通りに並べ始めた。

 「生憎と、これは赤木君が私達夫婦の遺伝子から『碇シンジ』をシミュレートした合成写真だ。主に考えられる5種類の人物と、それぞれに性格別に用意された4種類の顔型だ」

 性別別というのは、不精者かこまめかで相貌―――主に顎と吹き出物―――が変わる事を指す。

 不精者ほど食物を噛まず、顎が細くなる。

 年頃の少年が洗顔を怠れば、吹き出物の跡が残る。

 大まかな推測の産物に過ぎない資料だったが、この場合ゲンドウの予感は的中した。

 「その中で、一番君の記憶に近いのはどれかね?」

 アスカは若干逡巡した後、一枚の写真を黙って指さす。

 5種類の中で最も母親似で、4種類の中で一番性格のまめとされる写真であった。

 「どうやら、シンジという少年は余程ユイに似たのだな」

 どこかその声は嬉しげだ。

 「でも……どうして……シンジは……シンジは……」

 その時、丁度ゲンドウの笊蕎麦はいち早く届いた。

 「話ぜば長くなるから追々話そう。とりあえず、先に頂こう」

 

 早々に食べ終えたゲンドウの反面、アスカの箸は一向に進まない。

 箸が使いづらいとか、体調が優れないとか、当然そんな事ではないが、しいて挙げれば後者であろう。

 隣に座ったユイもまた、そんなアスカが気が気でない為に箸が滞りがちだ。

 「やはり、食べ終えてからにするべきだったんですよ」

 「迂闊だったかな」

 「他人事みたいに言わないでください」

 

 「いえ、いいんです。それより、後で必ず事情を話してください」

 アスカの真剣な表情で見つめられるまでもない。

 「そうだな、仮にも碇姓を名乗る少年の話だ。話さぬ訳にはいかんだろう」

 

 

 

 

 やがて、三人は店を出た。

 


TO BE CONTINUED・・・
ver.-1.00 1998+04/02 公開
感想・質問・誤字情報などは こちらまで!

 

 第十章をお届けします。

 

 私正直に言ってしまうと、DEATH編だけは見ていません。

 (まあ大体の内容は知っていますが)

 だから、アスカの加持に対する思念に若干の邪推が入ってしまう気がしてます。

 アスカがどこまで加持を意識していたのか……やっぱり解釈は人それぞれですけどね。

 

 書いていて一つ疑問に思った事。

 ゲンドウって本編では何処に住んでいたんでしょう?

 私は普段はネルフの宿舎の一角かな、と思いますが……。

 

 それと、当然ユイとキョウコの関係は私の独断解釈です。

 世間がまだ平和だった頃、この二人の関係は学園版のような明るい物だったろうなと信じて。

 

 それでは、また来週……。

 





 彩羽さんの『悔恨と思慕の狭間で』第十章、公開です。



 なんとなーく、
 なんとなく、

 シンジの存在が−−−。


 科学の人、リツコさんが戸惑っている様子が面白いですね(^^)



 それーにー
 それに、

 復活したユイさんにしかれる−−−


 強面が剥げた、ゲンドウオヤジが可愛いですね(爆)




 良くなっていく事、
 まだまだの事

 大変ですよね・・



 さあ、訪問者の皆さん。
 感想を彩羽さんに送りましょう!



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