彼、碇シンジの眼前には、再びあの虚数空間の闇が広がっている。
ここから先は補完計画もゼーレも関係ない。彼自身の決死の贖罪、それも彼にとっては極度に独り善がりな贖罪の意志と方法なのだから。
もう戻れもしないし、そんなつもりもない。
やがて彼は自身の瞳が光を見る事さえはばかり始めた。
ふと、ふとである。
シンジはにわかな違和感に感付いた。
そうそれを例えるのならば、違和感そのものに包まれたような、さらに言えば誰か他人の思考感覚に紛れ込んだ、そんな感覚がシンジを襲う。
後ろに気配を感じて振り返った先には、案の定彼等がいた。
―――渚カヲル―――
―――綾波レイ―――
今のシンジに干渉出来る力を持ちうるのは、この二人だけだった。
「・・・・久しぶりだね、シンジ君」
カヲルのその声は、シンジの記憶そのままの彼であったが、その声のトーンは低い。
懐かしがって出た挨拶ではない。
話を切り出すに切り出せないが故の、牽制。
そんな感じだ。
「・・・・いや、初めてだよ、俺が君と会うのはね」
シンジはこの場合、意地悪く牽制仕返した。
皮肉ったと簡素に言い換えてもいい。
「そうだったね。今の君は『ゼロ』。僕と同じ、ゼーレに仕組まれたチルドレン」
「君とは違う。俺は無から造られた。君は老人共に無理矢理魂を書き換えられただけの被害者だ」
「そうだとしても、この際それは大した違いにはならない」
カヲルの悲愴な表情という物を初めて見てしまったのかも知れない。
一度彼が死んだ間際とて、彼の表情は悟りきった聖者のそれとも例えられるほど、穏やかな表情だったのだから。
「君は再び『無』へと還ろうとしているんだね」
「無から自分達の傀儡を造り上げた禁忌に、老人共は罪悪を感じるどころか狂喜さえした。そしてその罪を思い知る事もなく奴等は死んだ。だがそれでいい。造り上げた魂を闇に染め上げたのは、奴等ではなく俺自身。俺は必然に従っているだけだ」
「誰にとっての必然だい。君は君に何処までも都合よくシナリオを書き上げているだけだ」
「ならば俺も所詮ゼーレと同類と言う事か」
「そうやって誰よりも自分自身を責め咎めれば、君にとって納得がいくのかい」
「そうだ。そういう事しか出来ない奴なんだ」
レイはカヲルの右脇で、じっと二人の会話に聞き入っていた。
隙あらばシンジを言いくるめる機会を狙っているようにも見え、只成り行きに任せている感もある。
「僕が嬉しく思うのはね、君がこんな事とは言え自分自身の強い意志で動こうとした事だよ。でも逆に悲しく思うのは、その意志が君自身の純粋な罪悪感だけで構成されている事。君の行おうとしている事は、只の『悲劇』だよ」
「何でもいいのさ。自分の中にある『正義感』が納得しさえすれば、何だって」
「正義感という衣で覆われた偽悪か、なるほどそれは偽善と同義かも知れない」
カヲルの言葉の流れは流暢だが、一方で会話に光明が見えない事も彼は十分に承知している。
「・・・・生と死は等価値と君は言った。だけど俺にとっては死は快楽とは同義だとしても、贖罪とは遥か彼方に境界線を分かつんだ。生とは紙一重だけれどね」
「君は冤罪に悩まされているだけだという事を知った上で黙認するのか。無意味だよそれは」
「意味はあるさ。君達の幸福を奪い去る存在を消し去るという効果がある」
「アスカ君に対する負い目だけが先走りして、そこまで膨れ上がったのが本当のところだとしてもかい?」
「ああ」
ふと、レイが口を挟んだ。
だかそれはレイの長い口上の始まりであり、彼女の願いそのままであった。
「ゼロ。あなたがしている事が無意味なのはあなたが一番知っているはず。あなたが本当に惣流さんの心の平安を願うのならば、あなたが自身をどんなに汚れた存在だと認識していても、そのあなた自身で彼女に対峙して、お互いをもう一度傷つけあって、そして赦しあってこそ、彼女は成長できるのだから。たとえどんなに心広く優しい人でも彼女の心の傷は拭えないし、忘れさせる事は出来ないわ。彼女が自分の心の傷を認めて向き合ってこそ、彼女は前に進める。そしてその時側にいてあげられるのは私達でも加持リョウジでもない、あなただという真実。あなたがその事に向き合う勇気を持たない限り、彼女の為にどんなに自分を罰しても、彼女の歩みの助成にはならない。だけどあなたはその勇気そのものも否定してしまうのね」
「俺にそんな物、期待するだけ無駄だ」
「悪びれても惣流さんの心の傷は埋まらない。あなたが彼女との心の繋がりを否定する限りは」
シンジは愕然とした。
「そうか、君達は・・・・『希望』なのか。だからだね」
「そう。私達は、人が互いに分かり合えるかも知れないという『希望』そのもの。あなたの心の内に潜んでいた『分かり合えたい』という隠された望みを叶える存在。でもあなたは自身そのものまで否定してしまった。もう私達はあなたの心の中にはいられない」
「君が『ゼロ』として無限の力を得てしまった以上、君に力で干渉することは出来なくなってしまった」
「あなたは自身の希望を『絶望』にすり替えた。だからあなたの魂そのものまで崩れ始めている」
「君は『母胎への回帰』ではなく『消滅』を望んでしまった。なぜなら、その余りある力の矛先を全て自分に向けたのは、贖罪が理由だからじゃない、只の破壊衝動の対象を自分に向けてしまっただけだ。そうしなければ、『ゼロ』としての力は、全てを巻き込んで破壊を広げる事を知っているから」
「それも、人々を救いたいからではなく、只一人に償いたいだけという感情」
「思考は堂々巡りを繰り返し、その終結を自らの消滅で閉める・・・・哀しいやり方だね」
全てを見通したような二人の哀しい瞳。
シンジは何故か可笑くなった。
「・・・・君達には全て筒抜けか。それでもなお俺を引き留めようとする。それは優しさなのかい? それとも同情? 母の愛も父の情も知らず、存在そのものが傀儡だった俺への・・・・親近感? どれも的外れな事は分かってる。ただ自分が全てを否定して逃げ去りたいだけなのも知っている」
「・・・・全て分かった上でこの結論さ。愚かだと罵られて当然なんだ」
シンジは後ろを振り返り、自らの終焉の地―――ディラックの海が彼を待つのが見える。
「それが君の遺言なのかい?」
「違うよ。只の独白。多分・・・・誰かにこぼしたかっただけの事。君達の記憶には残らないよ。さんざん愚痴られてから、君達の記憶から取り除かれる。何処までも勝手な理屈なんだ」
そうして、シンジは闇へと還っていく。彼等の制止を省みる事なく。
「・・・・さよなら・・・・母の面影を残した少女。そして・・・・親友と呼べた少年・・・・」
「・・・・そして・・・・哀しき運命の少女、アスカ・・・・」
闇は、恨めしく思えるほど無抵抗にシンジを引きずり込み、そしてそんな二人の理不尽な思いをも薙ぎ払う。
―――そして闇は消え、静寂は取り戻された。
安息の未来はこれで約束されたのだ。
だが、二人の心には微かな痼りが永遠に残る。
レイはカヲルの胸で泣き崩れ、それを受け止めるカヲルもまた悲痛な表情のままであった。
「・・・・私、こんな哀しみを知るくらいなら、人としての生など受けるべきじゃなかった・・・・」
「もう僕達の力では彼を引き留める事は出来ない。哀しみに綴られた彼の心は、傷つき過ぎていた。もう誰の優しさも受け付けない、それが彼の最後の優しさ」
「私・・・・惣流さんにどんな顔を合わせたらいいの・・・・」
「彼女の記憶にはもう彼は存在しない。いずれ僕達の記憶からも消え去る。そして誰も彼の存在を忘れ去り、なかった事と同じ扱いになる・・・・彼の望み通りにね・・・・」
「私は、碇君の支えにはなれなかった・・・・、彼を受け止めてあげる事は出来なかった・・・・。その為の私だった筈なのに・・・・」
「彼は母の胎内の暖かさを否定した。自らを傀儡と称する事で、自分の終焉の地の冷たさだけを自らの拠り所にしてしまった。もう僕達は、どんなに力を尽くしても彼の滅びを止められはしない・・・・」
カヲルも自らの言葉の辿り着く結論に、泣き崩れそうであった。必死に自我を保ち、冷静に言葉を紡いでられたのは、レイが自分の代わりに高貴な涙を流してくれていたからであろう。
彼はしっかりと、自らの『半身』を抱きしめた。
もうこれ以上誰も哀しませたくなかったから・・・・。
「見よわがしもべは栄える。
彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
多くの人が彼に驚いたように―――
彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、
その姿は人の子と異なっていたからである―――
・・・・・・・・・・・・
彼は主の前に若木のように、
かわいた土からでる根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った。
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く子羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
彼は暴虐な裁きによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
・・・・・・・・・・・・
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」―――「イザヤ書」五二、五三章から抜粋―――
「レイ、イエス・キリストを処刑したと言われる死刑執行者の名前を知っているかい?」
「・・・・ロンギヌス」
「彼は死刑囚と死刑執行者を兼ねてしまった。自らの手で自らを弑し、全てのしがらみから僕達を解放してくれた。ゼロが神の力を得てしまった以上、彼を殺せるのは彼を於いて他にいないからね」
「そして彼は無に還る。全ての罪を自らに課して・・・・」
「偽善だと彼は言う。なぜなら、世界が救われたのも、そこに住む僕達が救われたのも彼にして見ればあくまで『結果』でしかないからだ」
「本当は、只一人の少女だけが心の枷だった」
「一つの枷を解き放つ代償に、彼は無限の枷を背負うことになる」
「哀しい神話ね・・・・」
「・・・・そう、少年は神話になった。そしてそれは悲劇と悔恨に綴られた哀しい話・・・・」
二人の周りを、光の渦が包む。
そして二人は人として再生し、凡庸で平和な未来が約束される。
哀しみが産んだ、奇跡として―――。
闇の中は、嘆きたくなるほどの寒気が覆っている。
あるいは、心の冷たさなのか。
ゼロは、もう一人の自分―――碇シンジ―――と対面していた。
『これでいいのか・・・・シンジ・・・・』
「いいんだ。もう誰も哀しませたくないのに、だけど僕達の一挙一動がみんなの心の傷となる。もうそんな世界には生きていたくない。ここで自分の弱さと醜さを精算したい、それだけなんだ」
『・・・・すまなかったな。ゼーレの傀儡は俺だけなのに、結局は触媒のお前まで全てに巻き込んでしまった。父と母から引き離し、親友をその手にかけ、挙げ句には想い慕う少女も・・・・』
「もういいんだよゼロ。その事に向き合う勇気は今更僕には残っていない。アスカの哀しみは純粋に僕達が生み出した物。だから、そのしがらみからアスカを解き放つには、もうこれしか方法はないんだ・・・・」
ゼロは再びロンギヌスの槍を構える。投擲目標は「シンジ」だ。
『せめて苦しまないようにしてやる。あとで俺も後を追うから安心しろ』
「そして二人で償おう。救われぬ罪に手を汚した者、碇シンジに断罪を」
『そしてゼロチルドレンに。・・・・これで終わりだ!』
槍は凄まじい早さで、眼前のシンジを射抜く。
シンジは光の粒子となって消え去った。
『後はシンジだけの問題だ。あいつがどこまで強くなれるかだけが・・・・』
紅の十字架を背負った彼は、おもむろに槍を九本解き放ち、遠隔操作で自らの身体を射抜いていた。
手足はそれぞれ二股の槍に拘束され、胸部には五本の槍が深々と突き刺されている。
『だがそれでいい。シンジこそ最たる被害者だ。・・・・せめてあいつだけでも救われる事を祈りたい』
『・・・・祈る? ふっ、今更誰に祈る・・・・』
胸部から流れ出る紅の血と痛覚が、彼の心を癒すことはありえない。
そして彼は悠久の刻の間、闇と孤独と悪寒が支配するこの空間の囚人となる。
歯痒いのは、まだ「消滅」というステップを踏むわけにはいかなかった事。
その為に、当分この空間に居座らなくてはならなかった事。
彼は全てを見通す瞳で、もう一人の自分を見届ける事にした。
『シンジ、お前を救うのは俺ではなく「消滅」でもない。・・・・やがて彼女がお前を救う、その衝撃の事実を受け止める勇気さえあれば・・・・お前は・・・・』
悠久の刻は、彼にとっては決して過酷ではなかったのかも知れない―――。
第六章をお送りします。
今回は、賢しくも「旧約聖書」などを引用しました。
ふと目に入った文章が、この話のシンジを連想させた、それだけなんです。
聖書の引用の下りやロンギヌス云々は、その筋に詳しい人に言わせれば「解釈がまるで違う」などと色々と文句もありましょうし、彩羽自身の考え方も否定されそうですが、今回はこれでご容赦を。
もっと理知的な引用が出来ればそれに越した事はないのですが。
突然ですが、ここまでを第一部とします。
次回からの六章分は、いくらか明るい、学園エヴァ風の展開が訪れます。
実質、本編の外伝的展開になります。
それと、この「悔恨と思慕の狭間で」は、LAS好きな人の期待に添える話になるかどうかは断言出来ませんが、LASと呼ばれる一連の小説が好かない人にはお応えできない内容になると思いますので前もってご容赦ください。
それでは、今回はここまでで。
彩羽でした。