それは彼等にとって夢と同義だった。
彼は何とはなしに落ち着かない自分を押さえつつ、目の前にいる少年に対峙する。
彼の目と記憶が正常ならば、その少年は「碇シンジ」のはずだ。
だが、やはり紅玉の瞳と銀髪という風体は、彼にとって少々受け入れるのに戸惑う物である。
「そうそわそわしないで下さい。捕って食べたりはしませんよ」
落ち着かせる為に言ったのだろうが、むしろ「食べる」などと言われると妙に納得してしまう。
彼ならやりかねないな、という辛辣な冗談は、その声はやはり聞き覚えがある物であったから、どうにか押し込めることは出来た。
だが、問わずには居られない。
「・・・・君は、シンジ君なのか?」
「ええ。お久しぶりです、加持さん」
やはりこの空間は落ち着かない。
加持は高所恐怖症などではなかったが、青空に放り出されたような光景の広がるこの空、とでも言えばいいのか、浮遊感に慣れるのは少々難しい。
彼の風体は相変わらず、皺の寄ったシャツにだらしなく下げたネクタイ、それと無精髭。
シンジにとって最も安易なイメージとして残る「加持リョウジ」そのままである。
加持の方も、他人の目に映るであろう自分のイメージとは大方変わらぬ自分の姿にふと苦笑する。
「・・・・どうして、俺はここにいるのかな?」
文体としては戯けているが、把握できない実態にただ苦笑しているだけでもある。
だが、「死んだ筈の自分」は自覚している。
「あなたを待っている女(ひと)がいるから。そしてその人はあなたの心を多く占める存在だから。その人にとってもあなたが心の多分を占める存在だから。あなたが自分の死に納得した訳ではなかったから。そして、俺自身が望んだから。・・・・どれか一つでも欠けていれば、俺だって無理矢理あなたの魂を引き戻すようなことはしませんよ」
「俺が自分の死に納得はしていないと?」
少々疑問が残った。
加持は、自分の望んだ「真実の露呈」に納得はしたはずである。
「あなたは望み通り真実を知りました。だが、その真実そのものに納得した訳ではないはずです」
「・・・・そう、だな」
「そして、あなたはもう一つやり残したことがある筈ですから」
「それは何かな?」
加持には大方の見当はついてはいた。
「・・・・八年前に伝えそびれた言葉」
「葛城に聞いたのかい?」
「いいえ。あなたの遺言じゃないですか」
「遺言・・・・か」
今の自分から考えれば、違和感は拭えない。
「あなたにとっては、戻れない事を知りつつ独白した言葉だったのでしょうけど、同時に最後の悔恨でもあった筈です。そして、ミサトさんはその言葉をきっと待っています。・・・・俺の思い込みではあるけれど、きっと真実ですよ」
「本当に分かるのかい?」
「あくまで憶測ですよ。女性は向こう岸の存在、あなたの言葉じゃないですか」
「だが、随分向こう岸が近くなったような気がするがね、君にとっては」
しばらく見ない間に、彼は随分変わったと確信した。
「・・・・いえ、やはり俺は俺でした。隔たりを作っていたのは俺の方、それに気付かなかったのも俺、その隔たりが他人を傷付けるのを、向こう岸で素知らぬ顔して見ていたのも俺です」
シンジの顔が曇る。それが何を表すのかを知った加持はあっさり納得してしまった。
「何か余程の事があったようだな」
「あなたを誤魔化せるとは思っていなかったですけどね」
いつの間にか、シンジと加持の会話は対等関係で成り立っていた。
「・・・・アスカの事かい? それとも、レイの事かな?」
あえて戯けた加持の行為は無意味に終わった。
「しいて言えばアスカの事です」
「そう言えば、彼女は今どうしている?」
加持の記憶に最後に残るアスカは、第十四使徒ゼルエルに打ち負けた事と、シンジがその使徒を初号機の暴走という異常事態で撃退した事に気付く事なく、彼に対する劣等感を抱いたまま塞ぎ込んでいたはずだ。
そんな事態が打破されたのでなかった事は、今のシンジの悲痛な表情から容易に想像出来る。
「・・・・あなたには、見せる事も出来るでしょう」
それはシンジが「本当の真実」の露呈を恐れたからではなく、真実の醜さを直視出来る強さが加持にあるだろうという確信によるものだ。
シンジは右手に携えていた槍を左手に持ち替え、槍の柄を加持に差し出す。
「触れてみて下さい。俺の知る限りの真実がここにあります。但し、多少えぐい物がありますが」
仕事柄、そういうのには慣れていると吹いて、加持はシンジに従った。
槍を介して、加持はシンジの記憶を直接脳に取り込む事が出来た。
だが、シンジは肝心の自分の思考区域にだけは強固なプロテクトを掛け、加持は残りの「客観的な記憶」だけを閲覧せざるを得なかった。
ゼーレが仕組んだ本当のシナリオ、碇夫妻のシナリオ、加持を失ったと知ったミサトの思考と行動、傷心のアスカ、仕組まれたチルドレン達の真実と末路、第十五使徒アラエルの思考、そしてサードインパクトの未完遂。
シンジは僅かばかり巧妙に記憶を改竄(かいざん)し、客観的にはシンジ一人が招いた惨事のように真実をねじ曲げて認識しようとし、それを加持にも閲覧させた。
つまり、「一連の愚行の張本人はシンジ一人」という曲げた真実―――最もシンジにとっては限りなく真実に近い認識―――を加持に見せ付ける事により、辻褄を合わせようとしたのだ。
加持は苦笑した。
彼の内罰的な所は全く変わっていない、と。
加持にはシンジの目論見など容易に見抜けたのだ。
だが、これから彼が行おうとしている事は感心しない。
それはやはり明らかに間違った行為であるからだ。
「・・・・君がこれから選ぶ道が分かる気がするよ。君は全てを背負い込んでしまおうとする悪癖があるからね。今君はこう思っているはずだ。こんな事態を招いた自分が許せない、どうやって自分を罰してやろうか、とね。違うかい?」
「・・・・・・」
シンジは無言で否定した。
だが加持には肯定に見えた。
そして、後者の方が真実であろう事もまた、二人の見解である。
しばしの沈黙の後、口を開いたのはシンジの方だった。
「・・・・どうか、彼女達の心の支えになってもらえないでしょうか?」
「どうしてだ?」
加持はあえて聞き手に回った。
「世界は補完されました。でもしかし、それは振り出しに戻ったに過ぎません。ミサトさんの心もアスカの心も、そしてまた生きる人々全てが心に傷を負ったままなんです。きっかけと支えなくして歩み出せるほど、二人の心の傷は浅くないんです。どうかお願いです、二人の希望になってあげて下さい。そしてまた、あなたも彼女達の心の中に希望を見いだすはずですから。それもあなた達の努力次第ですが、きっと出来るはずですから」
シンジの念の押しようが不自然だと感じた所から、加持は切り返した。
「俺は、葛城の心には応えてやれるかもしれん。だがアスカの心は揺れ動いたままだろう。君も分かっていたはずだ、アスカが求めていたのは『加持リョウジ』じゃない、彼女の心の壁を乗り越えて、アスカ自身の『個』を認めてあげられる存在だと。だから、彼女が俺に求めていたのが恋愛感情ではなく、相互理解なのだと」
「・・・・頭では分かります。でも俺には、認識以上の事は出来ませんよ」
「本当は、君自身がアスカを受け入れたい筈だろう」
「そんな訳ないじゃないですか。アスカにとって俺は害虫以下の存在です。そして俺にとっても、アスカは只の慰み者に過ぎません」
「・・・・そうやって、また逃げようとするのか」
「ええ」
シンジがあっさり肯定したのにはいささか虚を突かれた。
以前の彼なら、逃げようとは思っても、「逃げる」という行為に対して後ろめいた物を感じていたからこそ、前にも後ろにも進めない自分に苛立っていたはずなのに。
今は、ひたすら後ろに走っているように見える。
事態は、思ったより切羽詰まっているのかも知れない。
加持は性根をすえてシンジと対峙しようと試みた。
「・・・・逃げる事に疲れたのか?」
「いいえ、これからも俺は逃げ続けますよ。俺に残されたただ一つの道ですから」
「だが、選んだのは君だ」
「そうですね。でも、もう俺は自分を偽って、偽善的な生き方で体裁を取り繕うのに疲れたんです。俺が選んだ道が、最も安易で、楽で、卑怯な道だというのは分かります。だからこそ、俺にはこの生き方しか思いつきません」
「何が君をそこまで追いつめたんだ?」
「言ったでしょう、ただ疲れたんですよ。似合わない生き方に胸を張るのは」
十四歳の少年の顔が、これほどやつれて見える物なのか。
加持には、むしろシンジの「疲れ」は別にあると踏んだ。
「君にとって、エヴァに乗る事は、アスカという少女に向かい合う事は、そして真実に立ち向かう事は、そんなにも辛い事だったとはな」
「ただの根性無しなだけです。目の前に何が立ちはだかろうと、逃げるだけが俺の生き方ですから」
「何故だ? 自分を賭けてまで得たい物は見つからなかったのか?」
「ありません。俺は自分の衝動に素直に生きたいだけの男ですから」
埒があかない。
このままでは延々とシンジの自己卑下に付き合わされると読んだ加持は、
「ならば、これから君はどうするつもりなんだ?」
「行き先は決まっています。俺が俺の欲望だけに没頭出来る世界、俺だけが俺を大事に扱う、自己愛に満ちた世界。自分に正直である事を誰にも邪魔されない、夢のような世界」
「それは・・・・、ある意味地獄だぞ」
そして、シンジの毅然とした態度が言い放つ。
「そんな生温い物じゃありません。そんな物で俺は『僕』を許しはしませんよ」
成る程。そういう事か。
「きっと後悔するぞ。その選択は」
「そうなった頃には後の祭りですよ」
「そんなに自暴自棄になっても、何も変わりはしない」
「変わる必要はないですよ。彼女達の記憶からは、『碇シンジ』も『ゼロチルドレン』も消滅しますからね、例え俺に何が起ころうとも、別世界の話ですから」
「自分を人間である事を否定するという事か」
「否定じゃありません、肯定ですよ。真実のね」
「ならば、君にとっての真実とは何だ」
「世界を崩壊に招こうとした悪魔、そしてその断罪」
「それは、君の描く絵空事だ」
「だからこそ、その絵空事を叶える為の世界が俺の逃げ道です」
どうやら、譲るつもりは毛頭ないようだ。
加持は露骨に落胆の色を表し、項垂れる。
「・・・・そうか。それが君の選んだ生き方ならば、もう何も言うまい。だが一つ言わせて貰えば、俺はもう少し君を買い被りたかったがな」
「それこそ買い被りですよ」
フフッ、と嘲笑うシンジ。だが加持には、自分が笑われている気はしない。
そして、きびすを返して立ち去ろうとするシンジ。
「行くのか」
「いえ、その前にもう一人だけ、逢っておきたい人物が」
「・・・・アスカか?」
加持は、アスカの名を出すのを多少躊躇した。
「いえ。・・・・彼女の母親です」
「亡くなった方のか?」
「彼女の魂は弐号機のコアに生き続けています。今の俺ならば、接触出来ますから」
「・・・・そうか」
「・・・・どうかくれぐれも、ミサトさんと・・・・アスカの事、頼みます」
そうして、やはりシンジは立ち去っていく。
「最後に一つだけいいかな」
シンジはふと立ち止まり、加持の言葉に耳を傾ける。
「・・・・君に『俺』は似合わんぞ」
「いいんですよ。只の判別記号ですから」
「?」
気がつけば、すでにシンジの人影は眼前から消えていた。
シンジの最後の言葉の意味を突き止める前に、加持の意識は白濁していく。
再び開かれた瞳には、ぼやけた赤色。
それがミサト愛用のジャケットと分かるまで、加持はしばらく微睡んでいた。
すでに、彼の記憶から「碇シンジ」は消滅していた。
彼の望み通り。
いまだエヴァ弐号機は、地底湖に隠匿されたままである。
アスカの意識も目覚めぬままだ。
シンジはそれを透視で確認すると、弐号機のコアに直接触れ、語りかける。
応答があるまで、数十秒を要した。
「・・・・あなたが、『碇シンジ』君ね」
「初めまして、惣流=キョウコ=ツェッペリンさんですね」
瞳を閉じたシンジの脳裏に、一人の女性の肖像が浮き上がる。
初対面ではあるが、アスカと瓜二つの面影は、間違いなく彼女がアスカの母親であることを直感で認識できる。
そこまで考えて、シンジは言葉に詰まった。
実際、アスカの母親に逢って何を切り出すわけでもない。
ただ懺悔に来たというのが本音だろう。
何故ならば、キョウコもまた「真実」に近い立場にある。
アスカを最も身近に見守っていた人物なのだから。
「大方のことは知っています。見ているだけで何も出来なかったけれど」
シンジを考慮してか、キョウコは自分から詰め寄ってみた。
「アスカの為に何もしてあげれなかった、むしろアスカの心の傷としてしか存在出来ない母親失格の女だったけれど、こんな私に話があるというの?」
それは半分嘘だ。いざとなれば彼女は「エヴァ弐号機」としてアスカの力になることが出来た。
それは苦渋の選択にも似ているが。
シンジもそれは百も承知である。
「・・・・もしあなたがアスカの心の傷だと自分を卑下していらっしゃるのならば、これからはどうかその負い目を打ち消すためにも、アスカを静かに見守ってあげてはいただけませんか?」
それはシンジの台詞である。
だが、シンジが切り出すのがもう少し遅かったらば、キョウコが全く同じ言葉をシンジに発していただろう。
「・・・・申し訳ありません」
シンジは突然平謝りになる。
「本当は、本当の意味でアスカの心の傷として彼女の心に巣くっている男にこんなことが言えた立場ではないのは承知しています。全てを知っているあなたならば、俺があなたの娘さんの心を蹂躙したことも承知でしょうから、本当はこうしてあなたの前に顔を出せた義理じゃないことも重々承知しています。いえだからこそ、こうしてここに伺った次第です」
それっきり、シンジは暫く黙り込んだ。
キョウコの憎悪の視線を感じ取ろうと、あえて視線は反らさなかった。
だが、期待したようなキョウコの侮蔑は一向に向かってこない。
むしろ同情を禁じ得ないと言いたげなその眼差し。
「・・・・アスカは、あなたに特別な感情を抱いていたのよ。確かにその感情の一部には憎しみや怒り、そんな反感的な感情も存在していたけど、同時に親近感さえ抱いていた。性格はあなたと正反対でも、日頃無理に見栄を張って生きようとするその生き方は、あえてあなたの場合とは反対の対処法を選んだだけであって、本質は・・・・他人の深い介入を恐れただけだったのよ。他人に捨てられることを異常に恐れたのね。だから先に自分から周囲を否定した。私の時のように、親しい者に見捨てられたことが心の傷となったまま」
「親近感」という部分以外はシンジにもおおよそ理解出来る。
理解出来ない部分は、しようとしなかっただけだが。
「・・・・本当は、少なからずあなたの存在を必要としていたのよ。同じ心の傷を持つ者同士で、もしかすればあなたとなら分かり合えるかもしれないという淡い期待と、思慕を込めて」
それは幾ら何でも口から出任せにしか聞こえない。
シンジは暫くぶりに露骨に感情を露にして訴えた。
「冗談じゃない! そうして俺とアスカが接し合って結果彼女は崩壊した。こんな汚れた奴がすぐ身近にいて、彼女は日に日にその心の傷を俺に抉られつつ生きて行かざるを得なかった。もし本当に俺と彼女の境遇が似通っていて、彼女が俺に親近感を抱いたところで、俺と自分を同一視せざるを得なかった彼女の苦しみは、尋常じゃないはずだ!」
「・・・・そうね。でも、あなたに罪はないでしょう。あなただって、周囲との軋轢や孤独に苦しんで生きてきたのでしょう。結果あなたの心の傷が原因で他人を拒絶したとして、あなただけが気に病む必要はないと思うの。勝手な大人達の都合であなたが負い目を感じる必要はないでしょう」
「それはあなたが、『碇シンジ』を買い被っているということですよ。俺は人工生命体として生み出された、家族愛も知らなければ、可能性さえなかった。それは俺が造られた存在だからじゃない、築き上げようとしなかった俺の怠慢と汚れきった感情の生み出した結果です。俺は出来たはずのことが出来なかった、その代償が今のあなたの娘さんの惨状なんです。彼女は俺の我に必死に耐え抜こうとして耐えきれず、最後にはその心に永遠に消えることのない深い心的外傷を刻んでしまった。・・・・そして、そんな俺は壊れてしまった彼女にさえすり寄って自己愛を求めた。アスカの心配なんて微塵もしなかった。ただ彼女を介して自分を愛でていれば、彼女がとうなろうと知ったことじゃなかったんですよ」
「本当にそう思うの? あなたは一度でもアスカの身を気にかけることはなかったの?」
「ありましたよ。彼女の肢体に目が眩んだことは何度もあります。自分を慰めるには最も身近で最も魅力的な存在でしたから。アスカには随分と世話になりました」
「・・・・どうあっても、悪びれたいのね」
「でも俺にとっては紛れもない事実ですよ」
「・・・・私はね、あなたの存在があなたが言うほどアスカにとって必ずしもマイナスではなかったと思うのよ。あなたと出逢って、アスカには少なからず今の自分を打破したいという進歩が芽生えたもの。でも、それまでの自分との差異に戸惑って不安定になっていたの。ちょうど身体の性徴と同様に」
それは「少女」と「女」の境界線。
「そして、似た者同士という事以上に、あなたに恋心があったのも事実。勿論アスカがそれをあなたの前で示す事はなかったけれど、実際はあなたを多分に意識していたのよ、最も身近な異性としてね。加持という人と違って、あなたは素のアスカに最も深く接していたもの。そして、アスカがずっとあなたと同居していたのも、心の片隅であなたを求めていたからなの。アスカにとってあなたは間違いなく思慕と依存の対象だったの。これが私とアスカにとっての紛れもない真実。せめてこれだけは信じて頂戴」
キョウコは母として、同様に女としてもアスカに深い理解を示していた。その通り、キョウコの言葉はアスカにとっても真実である。
「・・・・ならば、もしもですよ。もし『碇シンジ』が、本来とかけ離れて、前向きで誠実で、強さと優しさを多分に兼ね備えた少年であっても、アスカは今のようになってしまったでしょうか? 彼女に深い理解と愛情を向けていてもなお、彼女は自分を否定して塞ぎ込んでしまうような事になったでしょうか? 結果論に過ぎませんが、そうであったらきっとアスカは今頃、人間的に大きく前進していたと思います。例え使徒に破れても、セカンドチルドレンである事に自信を失っても、自分の本質を常に優しく見守ってくれる恋する少年が護ってくれていたら、きっとそれでも彼女は自我を保ち続けていられたでしょう」
シンジの目は遠い。
「・・・・だけど、実際はこんな餓鬼がアスカのそばにいたんです。こんな奴にしかすがり寄る事が出来なかったなんて、哀しすぎるじゃないですか。本質は、こいつが至らな過ぎた為に起こった必然なんです。実際この男にとってアスカという少女は只の欲望の捌け口だったんですから」
「それは・・・・」
シンジの言葉が「出任せ」ではないことは否定出来なかった。
ふとシンジから差し出した槍からは、先刻加持に見せた「真実」が、そのままキョウコの脳裏に刻み込まれていたからだ。彼女に配慮して、加持に見せた時ほど残酷描写はなかったが、少なくともシンジとアスカが共に刻んだ数ヶ月は、九割方正確にキョウコに伝わった。
「これが、俺にとっての真実です」
キョウコはしばし絶句していたが、なんとか言葉を取り繕った。
「・・・・御免なさい。もう私には何も言えない、何もしてあげられない」
「いいんですよ。あなたが気に病む事はないんです」
本当は変えてあげたかった。この少年こそ最たる被害者なのに。
でも、彼の悔恨の深さは、私の手の届かないところまで堕ちてしまっている。
この子は本当は優しい子なのに。大人達が作り出した責務と罪悪を一身に背負って、無理に憎まれ役を引き受けようとしている。誰もそれを止めてあげられないのね。
さっきからずっと自分だけが悪人であるかのような独白。
裏腹に表情は無理に取って付けたような似合わない悪人顔(づら)。
どうして、私達大人はここまでこの子達を追い詰めてしまったのだろう。
「・・・・キョウコさん。どうか、アスカの事、これからも見守ってあげて下さい。いつかアスカに、先刻のたとえ話のような理解ある男性が現れるその日まで、アスカの支えになってあげて下さい。そしていつか、アスカが本当の意味で幸せになれる為に・・・・」
自分を悪人扱いしていてまで何故、そんな辛そうな眼をしてまでそんな事を言うのだろう。
いつしか、一見不貞不貞しかったシンジの表情も、悲愴感溢れる哀しい表情が露になっていた。
勿論本人は気付いていない。
「・・・・アスカはいつも一見勝ち気で高慢に振る舞っていたけれど、本当は優しくて、愛に飢えていた哀しい少女だという事は、ずっと前から知っていた筈なんです。でも俺は、そんな彼女の本質に眼を瞑っていた。知っていて判ろうとしなかったなんて最低なんですよ。でも、そんな最低な俺でも今なら彼女の為に出来る事があるんです。その為だけに、生き恥を晒していたい。そして、そんな俺の選択が最も愚かで間違った選択だという事も分かっていてなお、もう俺にはこれしかないんです」
シンジはふと脳裏の中にいるキョウコに歩み寄る。
キョウコはその意味する所が分かってシンジを手で制した。
「気持ちは有り難いけれど、私はやはりここに残るわ。あえて人間に戻ってあの娘のそばにいるよりも、ここで静かにあの娘を見守っていたいの。それに、いまさら死んだ筈の私があの娘のそばに居ても、あの娘の古傷を抉るだけだろうし」
それはないと確信めいていながらも、無理に自分の我を貫く事も出来ないので、やむなくキョウコの再生は諦めた。
「・・・・ならば、アスカだけでも補完します」
自分の作り上げた傷跡を放って行くようで後味悪いが、今はほかに方法はない。
一瞬後、シンジは弐号機のエントリープラグに佇んでいた。
眼前には、脅えきった表情で震えるように死と他人を恐れる少女。
無意識に「死にたくない」と譫言(うわごと)ばかりを呟いている。
(全部、俺が招いた事なんだ。アスカをこんなに恐怖に陥れて、傍らで俺は一体何をしていたんだろう。どうしてこんな奴が得を見て、アスカみたいな繊細な娘の心が、ズタズタに引き裂かれていなければならなかったんだろう・・・・)
呟いても、一人。
そっとアスカの身体に槍を添え、刃が当たらないように細心の注意を払いながら、シンジは静かに念を込める。
この行為はおそらくアスカを幸せに出来る唯一最後の手段である事は間違いない。だがしかし、この行為を押し進めている事は自分のエゴの延長線に過ぎない。だがそんな自分勝手な後ろめたさは、未来のアスカには全く支障はきたさないはずだと考える事で、気を紛らわせる。
何処までも自分勝手なのも、もう慣れたと嘲笑う。
やがて、苦悶に満ちていたアスカの表情が一転して穏やかな寝顔に変わる。
入院生活で痩せ細っていた筈の顔に、幾分輝きが戻ったような錯覚さえ覚える。
ふと、その艶やかな唇に目を奪われる。
微かに開いたその唇が、かつてのアスカの寝顔を思い起こす。
「・・・・ママ・・・・」
シンジは震えた。
まさかあの時と同じように、アスカが亡き母親を思って呟くとは。
だがあの時と違い、アスカの瞳に涙は見当たらない。
そしてもう、アスカが哀しみの涙を流す事もないだろうとも思う。
今一度、その艶やかな唇に目を向ける。
(・・・・俺は一度だけ、この可愛らしい唇を汚してしまった事があったよな。あの時、アスカをもう少しだけ気遣う余裕があれば、きっとアスカの身体を汚す事もなく、消え失せる事が出来ただろうに)
心の補完は出来ても、過ぎた刻は戻せない。
せめてあの病室で、アスカの純潔を奪う度胸だけは無かった自分が皮肉にも救いになる。
もしそんな事態に陥っていたら、今頃は兎にも角にも正気を保っていられなかった筈だ。
補完もアスカも打ち捨てて、衝動に任せて自分の首を跳ね飛ばしていたかも知れない。
だがそれは、アスカを補完してからでも出来る事なのだ。
(今は衰弱しているだけだから、体力が戻ればじき目を覚ますだろう。もう他人の心の壁も碇シンジも恐れる必要はないのだから。だから、目覚めるその時までおやすみ、アスカ)
そのまましばしアスカを見つめ続けていたが、それさえも背徳行為のような気がして、静かに立ち去る事にした。
「・・・・・・」
別れの挨拶は必要ない。
始めからアスカとは、あってはならない縁で繋がっていたのだからと自分に言い聞かせ。
もちろん、自分の心の中のどす黒い部分が、アスカとの離別を嫌がっている。
そしてこれが「碇シンジ」の本質なのだ。
そうに決まっている。
だが、永遠の離別を前に、涙の一つも出はしない。
そんな物は「人工生命体」の俺にはないのだから。
それとも、薄情な自分を作り上げてしまっただけなのかも知れない。
・・・・そんな事、君には関係の無い事だったね。
・・・・ごめん。
最後まで、君には苦労の掛け通しだった。
到底謝って済む事じゃないよね。死んでも償いきれないほどの罪だもの。
だから、俺は死なないよ。生き続ける。
死にたいと足掻いても死ねない世界で、永遠に生き続ける。
たった一つの、冴えないやり方さ―――。
キョウコの両掌に、静かに光が灯る。
光の粒子のように具現化した彼女は、静かにアスカを後ろから抱きすくめる。
そして指先に先程の光を集め、アスカの額を軽く小突くと、光はアスカの中に吸い込まれるように消えていく。
それはアスカの最後の心の傷となるか、それとも最後の救済たりうるのか。
(ごめんなさい、シンジ君。勝手な真似なのは分かっているけれど)
第五章をお届けします。
何か書いていて涙が出る私は変でしょうか?
かつて「ドラゴンナイト」という小説を読んだ時もそうでした。
ヒロインに相応しくない、と主人公が自分を卑下する話を読むと、こう喉の辺りがつう、と来て涙が滲みます。
ドラマや映画の類に感動して泣いたことは一度もないですが、こういう話には全く弱いんです。
シンジの行動は間違っている、そんな事は百も承知です。
それでも、自分を卑下するだけすれば、反面それだけアスカは幸せになれるかも知れないと思いこんでいる儚さ。
皆の前で自分を蔑めばなけなしの同情もされるかも知れませんが、シンジはその痕跡を一切消そうとしています。
そこが書いていて一番辛いです。
それでは、今回はここまでで。
彩羽でした。