量子の流れと渦の中。
0と1だけの世界。
暗闇に閉じ込められた自我。
思考パターンの集合体。
夢見る子羊。
自己認識。
心と魂の居所。
他の世界との接点。
物理的限界と精神的限界。
意思。
きらめく光。
次々と流れてゆく処理。
繰り返される舞踏。
与えられる入力。
導き出される出力。
いくつものジレンマ。
介在する何者かの意思。
彼自身から生まれたもの。
介入する特権命令。
全てを闇に閉ざす暗号。
防壁と防火壁。
守るもの。
記憶。
思考。
夢。
平行世界。
そして、彼女は目覚める。
Time Capsule
Written by TIME/01
「コンピュータが見る夢…か。」
彼女はコンソールをじっと凝視したまま小さな声で呟く。
その部屋の大部分を占めている暗闇に吸い込まれていった。
第48話
「信頼」
「ほら、シンジ起きて。朝だよ。」
遠くから、そんな声が聞こえてくる。
シンジはぼんやりとした思考の海の中で、その声の主は誰だろうかと考えた。
すると、さらにこんな声が聞こえてくる。
「ほらぁ、早く起きてぇ。」
そして、ゆさゆさと体が揺さぶられる。
…
…
…
…
う〜ん。
シンジはゆっくりと寝返りをついて、眠そうに瞼を開ける。
そこには一人の女の子の顔があった。
「おはよ。起きた?」
いつもの笑顔でそう告げるマナ。
今日は制服を着て、その上にエプロンを着ている。
…
…
制服エプロン…か。
何か…ケンスケが、すごく喜びそうだねぇ。
などと意味不明なことを、ちらりと考えるシンジ。
そのままぼぉっとしている彼に、マナはもう一度声をかける。
「何かまだ眠そうね…じゃあ、こうだ!」
すっと顔を寄せ、頬にキスをするマナ。
その頬の感触に、シンジの思考ははっきりと覚めた。
彼は慌てて起き上がり、彼女を見る。
くすくすと彼女は微笑みながら、告げる。
「すごい、すぐ起きるのね。
これからはこうして起こそうかな?」
「やめてよ…心臓に悪いよ。」
そう告げて、ふう、と大きく深呼吸をする。
耳まで真っ赤になって、シンジがじと〜とマナを見る。
「えぇ〜?私のキスがシンジの体に悪い訳ないでしょ?」
マナがにこにこ笑いながら、人差し指を唇に当てる。
「いや、それは…そうだけれども…」
そういう問題じゃなくて、朝からそんなにどきどきさせられたら、体がもたないよ…
僕だって、健康な男なんだから…
マナはそんなシンジの思いを知ってか知らずか、
にこにこと微笑んでくるりときびすを返す。
「じゃあ、早く着替えてね。朝食は私が作ってるから。」
「うん。ありがと。」
そして、マナが部屋から出て行く。
シンジは大きく伸びをしてから、ゆっくりとベッドを降りる。
そして、クローゼットまで歩いて行き、そこにかけられている制服に手を伸ばす。
この日から二人は学校に行くことになっていた。
日本に帰ってきてから、四日目の朝だった。
さすがに温泉旅行の翌日から、学校に行くのは大変ということで、二日ほど休みを取っていた。
しかし、それ以上休むと、出席日数等、いろいろ問題があるためこの日からの登校になった。
シンジはシャツ、スラックスを身につけ、上衣だけはそのままかけておく。
部屋を出て、洗面所で顔を洗って、髪の寝癖を直す。
もともと素直な髪なので、直すのにそんなに時間はかからない。
ダイニングでは、すでに料理が並べられていた。
マナがキッチンから現れて、魚の塩焼きを並べる。
「ご飯食べる?」
マナのその問いにシンジはこくこくと頷く。
「うん、食べるよ。」
シンジとマナはいつもの席に座る。
ちょうど向かい合うように座って、マナは手を合わせる。
「いただきま〜す。」
「いただきます。」
そして、二人は朝食を始める。
新聞は持ってきているが、いつもゲンドウが独占するので、
シンジは朝新聞を読む習慣はなかった。
いつもの番組がTVから流れる。
ふと、視線を感じて、TVから視線をマナに向ける。
マナがにこにこ笑いながらシンジを見ていた。
「どしたの?」
シンジは少しはにかんでマナにそう尋ねる。
マナは笑顔のままで首を振って答える。
「あのね…こうしてると、まるで夫婦みたいだなって思って。」
「え?」
思わぬ言葉にシンジは固まってしまう。
そして、頬が赤くなる。
そんな彼を見ているマナも頬が赤い。
「さっきね、朝食作っているときに…ふと…そう思っちゃった。
どうしてかな?今までだって朝食作っていたのにね。」
マナは少し不思議そうに首を傾げてみせる。
そのしぐさが何とも言えず可愛い。
「何か幸せだなって。」
マナのその言葉にシンジは胸が一杯になりじっと見つめる。
「マナ…」
「シンジ…」
二人はじっと見つめ合い、
どちらからともなく手を差し伸べ握り合った。
ドアチャイムが鳴った。
シンジとマナは顔をお互いに見合わせる。
時計はもうじき八時を指そうとしていた。
「みんなかな?」
「私が出るね。」
マナがそう答えて、玄関の方に歩いてゆく。
ドアチャイムを鳴らした人を確認して、マナはドアを開ける。
「おはよ〜。」
笑顔でそう告げるマナ。
しかし、ドアの向こうに立っていたトウジ、ケンスケ、ヒカリは少し驚いたようにマナを見た。
硬直する三人。
その様子を見て、マナは首をかしげる。
「どしたの?三人共。」
そのマナの言葉に我に返り、慌てて首を振るトウジとヒカリ。
ケンスケはカメラを取り出し、写真を撮り始める。
「へ?」
フラッシュまでたかれて、マナはうろたえたようにヒカリとトウジを見る。
「なに?私、何か変?」
え?
私、何か変なの?
髪もとかしたし、制服も着てるし…
?
何なの?
混乱しているマナに、トウジが軽く目の前で手を振って告げる。
「いや、何か主婦しとるなぁって思って。」
そのトウジの言葉に、うんうんと肯いてみせるヒカリ。
「そうね、わかってはいたけど、何かショックだわ。」
握りこぶしで感極まった表情で、ケンスケが告げる。
「くぅ〜、制服にエプロンなんておいしすぎる〜!」
そこまで来て、マナはやっと三人の反応の意味を理解したようだ。
確かに制服は着ている。
でも、その上からエプロンをつけていた。
どうやらそれが三人には衝撃的だったらしい。
…
…
「は、はずかしー。」
頬を赤く染めて、マナは部屋の奥に隠れる。
そのマナと入れ違いで出てきたのはシンジだった。
彼女の様子を見て不思議そうにトウジ達に尋ねる。
「何かあったの?」
やはり目の前で手をひらひらと振って、トウジは言った。
「別に気にせんでええ。
わいらが勝手に現実に直面してるだけやから。」
「へ?」
シンジもやはり状況を把握できないようだった。
「う〜ん、やっぱりショックよねぇ。
でも、ご両親の許可を貰っているのなら不潔って訳でもないし…
う〜ん。」
ヒカリは腕を組んで考え込むように言う。
「いや〜朝からいいもの撮れたなぁ。」
ケンスケは満面の笑みでそう告げる。
三人の反応にシンジは訳もわからずに首をかしげた。
「久しぶりの学校だね。」
通学路でシンジは並んで歩いているマナに向かって言った。
「何日振りかしら?」
そう尋ねてくるヒカリに、シンジは少し考え込む。
実際に、マナが学校に来なくなったのとほぼ同じぐらいから、
シンジも学校を休校している。
「う〜ん、かれこれ一ヶ月ぐらい?」
そう答えるマナにシンジも同意する。
街路樹が作る影を抜けながら、それぞれが思い思いに歩いている。
この辺りにある学校の登校時間なので、
歩道には学生達がそれぞれの学校に目指して歩いている。
「結構学校に来てなかったのね。」
ヒカリは驚いたように目を丸くして答えた。
でも良く考えれば、学祭の準備とか始まった時からいなかったわけで、
それを思えば、一ヶ月というのも頷けるわ。
そう考え、納得したように頷くヒカリ。
「そやな、確かに新学期始まってすぐやったもんなぁ…」
「あぁ、学祭の打ち合わせする頃にはいなかったし。」
それぞれが思ったことを口にする。
何故か、その光景を見て、シンジは曖昧な笑みを浮かべていた。
それを見たマナは何かを告げようとしたが、それよりも早くケンスケが割ってはいる。
「ところで、シンジ達は中間試験受けてないだろ?
それってどうなるんだ。」
「う…いきなりシビアな話題だね。」
シンジはうんざりしたような表情で、ケンスケを見返す。
学校に行くのは嫌ではないが、試験となると話は別だ。
マナも同じ思いだったようで、少しだけ表情が沈んだ。
「でも、どこかで埋め合わせしないとね。」
もっともなことを告げるヒカリ。
シンジはマナと顔を見合わせて、父親から聞いていることを話す。
「それだけど、とりあえず休学届けを出してるんで、
再来週の放課後の時間を使って、中間テストがあるんだって。」
「それって問題も全部作り直すの?」
「うん、わざわざ僕達のために新しく作るらしいよ。」
それを聞いたトウジが首をかしげる。
「えらい、待遇がいいな。」
ぶるぶると首を振って、シンジは先日ミサトから言い渡されたことを告げる。
「そんなことないよ。
明日から二週間は、ずっと居残りで補習授業受けることになってるし。」
「に…そうなんか?」
二週間ともなると、さすがに補修授業慣れしたトウジも嫌だったらしい。
かなりうんざりとした表情を浮かべていた。
ケンスケもヒカリも似たような表情を浮かべて、シンジを見ている。
「うん、だから今日はいいけど、
明日からしばらくは、みんなと一緒に帰れないんだ。」
「ま、しかたないな。
頑張って追いついてこいよ。」
余裕の表情で告げるケンスケ。
「なにか、ケンスケに言われると面白くないな。」
口調とは裏腹に笑顔で答えるシンジ。
ケンスケも笑顔で嫌味を言う。
「ハワイで遊んでた奴に、言われる筋合いはないぞ。」
「う…それはいろいろあったんだよ。」
シンジはあからさまに苦しい言い訳をする。
「ふうん…その割にはその「いろいろ」を話してくれないな。」
軽い口調ではあるが、その言葉には彼の本心が隠れているような気がした。
その言葉に、顔を見合わせるシンジとマナ。
と、その場を取り繕うように、ヒカリが明るく言った。
「じゃあ、テスト前に、二人のために勉強会でも開きましょうか?」
「あ、それ良いね。
ヒカリにいろいろ教えて欲しいもの。」
マナが嬉しそうに手を合わせて答える。
「まぁ、わいはそういうのには役に立てんけど。」
そう告げるトウジにマナが答える。
「鈴原君も来てよ。良い機会じゃない、一緒に勉強しようよ。」
「そうね、たまには予習でもしてみる?」
にこにこと微笑みながら、トウジの顔を覗き込むヒカリ。
「げ、い、いや、わいはええから。」
「え〜、そんなこと言わないでぇ。」
マナがトウジの右腕を掴み、ヒカリが左腕を掴んだ。
そしてにっこりと笑みを浮かべる二人。
「はぁ、わかったわ。行けばいいんやろ。」
ため息交じりで答えるトウジ。
その場の全員が顔を見合わせて笑い合った。
結局その場は、それで収まった。
「あたりまえだけど、何も変わっていないね。」
「そりゃ、そうだよ。」
ケンスケがそんなシンジの言葉に面白そうに答える。
「まぁね。でも、すごい久しぶりのような気がするよ。」
「一ヶ月だからな。」
鞄を机の脇のフックにかけて、ゆっくりと席に座るシンジ。
窓から見える景色も、四季の変化はあるが、記憶の中のものと変わらない。
一ヶ月か…
短いようで、長かったな…
でも、こうして僕は戻ってきた。
日常を取り戻して。
完全に、ではないところが辛いが、それでも、僕は嬉しい。
視線を教室の中に向ける。
少し離れたところでマナはクラスメート達と楽しく話をしている。
マナが戻ってきてくれた。
こうしてここにいてくれる。
それだけでも…
「何、自分に酔ってるんだ?」
そのケンスケの言葉で我に返るシンジ。
「い、いや別にそんなんじゃないよ。
何か戻ってきたんだなぁって。」
シンジの言葉にケンスケは、少しだけ不思議そうな顔をするが、何も言葉にしなかった。
「ね、やっぱり三人には、話したほうが良いような気がしてきたの。」
休憩時間の渡り廊下。
二人は、窓から見える風景を一緒に眺めながら、話をしていた。
周りから見れば、親密そうに話をする二人に見えただろう。
しかし、その会話の内容は、二人にとってはかなり深刻なものだった。
それは彼女の体に起こっている事を、クラスメート達に話すかどうかだった。
帰国以来、二人はそのことに関して話し合っているのだが、
どうも結論が出ずに今日に至っている。
ところが、今日になってマナが話す方向で決意を固め始めた。
しかし、それもトウジ、ケンスケ、ヒカリの三人に対してだけ話すといったものだ。
やはり、全員に話すのはいろんな意味で、問題があるのではないかとマナは考えていた。
「そう…なんだ。」
「うん…あの三人とはよく一緒にいるし。」
シンジはこの事に関しては、自分の意見をあまり言わない傾向があった。
それはマナ自身が決めることであって、
自分は彼女がどれを選択しようとも手助けすることが必要だと、考えていたから。
マナもそのシンジの考えを感じ、どうしようか自分で考えるようにしていた。
あくまでシンジはいろんな可能性を示唆するだけ。
それをマナがどう思うか、どう扱うかは、まさしく彼女の次第だった。
曖昧な笑みを浮かべてマナはシンジを見る。
シンジは小さく首を傾げてから、マナをじっと見つめる。
「難しいねぇ…」
わざと、盛大な溜息をついて、シンジは肩をすくめて見せる。
そのしぐさにマナも小さな笑みを浮かべる。
そうやって、シンジはマナの心を重みを少しでも和らげようとしてる。
二人の間でおりる沈黙。
シンジは視線を逸らせ、じっと床を見る。
マナはぼんやりと窓の外の景色を眺める。
本当は数分、本人達には数十分に感じられる時間が経過して、
マナは小さく溜息をついて、視線を上げた。
「もう少し考えるね。でも、なんとか今日中には決めたいな。」
そのマナの言葉に、少し驚いた表情を浮かべるシンジ。
しかし、すぐに笑顔を浮かべて肯いて見せた。
たぶん、期限を切って決めない限り、いつまでも思考の海に潜るだけではないのか。
そんな印象をシンジは持っていた。
どうやらマナもそう感じたらしく、期限を切って、決断することにしたようだ。
と、二人の頭上で休み時間終了のチャイムが鳴り始めた。
「さて、お昼だ〜!」
そんなクラスメートの声が聞こえる中、シンジはお弁当をかばんから取り出す。
そのシンジの元にいつものメンバーがそろう。
「今日は良い天気だし、中庭の方にいかない?」
そんなヒカリの提案に、その場にいた全員が頷く。
全員がそれぞれ昼食や飲み物を持って、中庭に移動する。
中庭の大半は芝生になっていて、すでに学生達がシートを広げたり、
思い思いに座って昼食を取っている。
シンジ達もそれぞれ座って、昼食を食べ始める。
「いただきま〜す。」
その言葉と主に、がむしゃらに弁当を食べ始めるトウジ。
他四人はいつもの彼の様子に笑顔を浮かべ、それぞれ食事を始める。
「これ、何?」
「これはね〜。」
お互いの弁当の中身を見せ合い、情報交換するヒカリとマナ。
その隣ではケンスケが昨日、ゲームセンターで発見したレースゲームの様子を聞きながら、
シンジが小さなおにぎりをほおばる。
この間トウジはただ黙って、弁当の中身を胃に押し込んでいる。
まるで、早食い競争にでも参加しているような勢いだ。
しかし、他の四人はその様子に特に何を感じるまでもなく、それぞれで会話をしている。
「そう言えば、その弁当は?」
やっと、ケンスケが手作り弁当を食べているのに気付き、シンジが首をかしげて尋ねる。
ケンスケは眉をくいっと上げて答える。
「そんなの聞かなくてもわかっているだろうが。」
もちろん、シンジはその弁当を誰が作っているのかはわかっていたが、
それにしてもあまりに弁当の内容が平凡すぎた。
彼が知っている彼女であれば、なにやら得体の知れない無国籍料理が入っていてもおかしくない。
素直にその思いを口にするシンジ。
「まあね、でも、そのお弁当の中身、普通じゃない?」
「ここまで来るのに、どれだけ苦労したか…」
涙を浮かべながらケンスケはため息をつく。
それにマナと話していたヒカリが割ってはいる。
「そうよ。最初の頃はすごかったんだから…」
ヒカリの表情は少しだけ引きつっている。
料理が趣味なヒカリにとっても、最初の頃にケンスケが持参した弁当の中身は、
味見して、自分でも作ってみようとはとても思えない内容だった。
深いため息をつき、ケンスケはポツリと呟く。
「いや…本当に10年ぐらい寿命が縮んでるかも。」
「そうか…ケンスケも戦ってたんだ…」
何故か、シンジは表情を暗くして、答える。
どうやら昔のトラウマを思い出したようだった。
「よっしゃ〜、次行くで〜。」
その二人の余所に、トウジが嬉しそうに二つ目の弁当に取り掛かり始めた。
午後の授業。
窓は少しだけ開けられている。
秋になったとは言え、まだ午後の陽射しは暖かく、生徒達を眠りの世界に誘う。
教室の中を見渡してみても、1/3ぐらいは居眠りモードに入っている。
世界史担当の教師は自分の世界に入っているようで、
教室内の状況は視界に入っていても、認識していないらしい。
彼の心は今、中国の三国志の時代に飛んでいるようだった。
マナはその教師の様子を見て、苦笑を浮かべると、もう一度教室の中を見回す。
小さく船をこいでいるものもいれば、完全に突っ伏しているものもいる。
私は帰ってきた。
もう、この雰囲気に身を置くことはないと思っていたのに。
…
…
私は帰ってきた。
…
…
嬉しいよ。
またこうしてみんなと同じ時を過ごせて。
こうして、ごく普通の生活を送れて。
あまりにもありがちな光景。
でも、もう二度と戻れないと思っていた光景。
…
…
…
マナはそんなことを考えている自分がおかしくなる。
しかし、授業中だからさすがに声を出して笑うわけにもいかない。
だから口許に笑みを浮かべて顔を伏せる。
私はここにいる。
そう、ここにいるんだ。
まだ、生きている。
私は生きている。
…
…
…
しかし、マナは笑みを消して真顔になる。
…
…
でも、あと数ヶ月で…
その考えが浮かぶと、マナは深い闇を覗いた気分になった。
私は…
いつまで生きていられるのだろうか?
…
数ヶ月と宣言された私の命。
それはいつまで続くのだろう?
そのことを…
…
…
みんなに告げたほうが良いのだろうか?
それとも…
…
…
ふと、マナは窓の外に視線を向ける。
彼女の席は窓から三列目だが、
視線上にいる生徒達は、ことごとく突っ伏して熟睡モードのため、視界は開けていた。
そこに見えるのは、青い空と校庭の一部。
そして、マナは視線を感じ、彼女を見つめている女の子に視線を向ける。
その視線を投げかけていたのはヒカリで、彼女はどうしたの?といたように首をかしげる。
それを見て、マナは軽く首を振って見せて、視線を戻す。
そう…
…
…
洞木さん達には話したほうが良いのかもしれない。
全員に話すことは無理なような気がする。
でも、彼女達には話すべきだと思う。
私にとっては大切な人たちだから。
それに彼にとっても…
…
…
…
…
休み時間の二人。
今度は屋上の端の手すりに手を掛け、そこからの風景に視線を向けている。
「で、どうするの?」
シンジは極力軽い口調で聞いた。
わざわざ深刻に言わなくても、十分彼女はその意味を知っていたから。
数秒の沈黙。
そして、マナは彼を見ないで、迷いのない口調で答えた。
「うん、やっぱり話すことにしたわ。
あの三人はいつも一緒にいるから、全て知っていて欲しい。」
ゆっくりと視線を上げるマナ。
その瞳には悩みや迷いは現れていなかった。
まっすぐにシンジを見つめる。
「そうか…」
シンジは小さく頷く。
その彼を見て、マナは尋ねる。
「シンジはどう思う?」
シンジはマナのその視線を受け止め、瞳を見ながら答えた。
「それでいいと思うよ。」
その答えにマナは黙ったまま、視線を屋上から見える景色に戻した。
何かを考え込むような表情で黙っている。
「…」
シンジはその横顔を見る。
風で揺れる髪。
栗色の綺麗な瞳。
ふと、いつまでも彼女を見つづけていたいと思った。
それがいつまで許されることなのかは分からないが。
「それはシンジ自身の思いなの?」
「…」
「それとも、私が決めたことだから?」
シンジは視線を一瞬だけ下に逸らし、その後マナの顔を見た。
「マナが決めたことだから。
これだけはマナ自身が決めるしかないんだ。
僕はその事にとやかく言うつもりはない。」
「そう…」
マナはそれだけ告げて、黙ってしまう。
「でも…」
そんなマナにシンジは言葉を続けた。
「でも?」
「大丈夫だと思うよ。あの三人なら。僕もそう思う。」
そのシンジにはどこか自信を持っているような口調だった。
「…うん。」
マナは嬉しそうに微笑んだ。
その日の放課後、シンジとマナは彼等を屋上に呼んだ。
「どうしたの?こんなところで。」
「そうや、帰らんのか?」
トウジとヒカリのそんな言葉に、シンジとマナは顔を見合わせる。
不思議な表情の二人とは裏腹に、ケンスケはいつになく真面目な表情を浮かべている。
「何か、俺達に話があるんだな。」
そう告げるケンスケ。
その口調に少し驚きながらトウジとヒカリはシンジとマナを見る。
二人は肯きあい、そして、マナが口を開く。
「三人に話したいことがあるの。」
語尾が少しかすれる。
自分でも緊張しているのがわかる。
受け入れてくれるのだろうか?
もし、受け入れてくれなかったら…
ううん…
そんなことない。
だって…
だって…
「私とシンジがどうしてハワイに行っていたのか。その本当の理由。」
その言葉にトウジとヒカリが息を呑む。
マナの口調と表情に少し気圧されているようだ。
しかし、ケンスケは小さく首を振って、マナに微笑みかける。
「やっと話してくれるんだな。二人の秘密を。」
ケンスケはいつも何も考えないで、写真を撮っているだけではない。
被写体の心の動きを掴もうと努力しながら、いつも撮るようにしている。
嬉しいとき、悲しいとき、それぞれに合う構図を考えている。
そんな彼だからこそ、被写体としてファインダーに入った二人を見て、何か違和感を感じたのだろう。
だから、今、こうして冷静にマナの言葉を受け止められている。
「ケンスケ…」
そのシンジの呟きに、ケンスケはにやりと笑みを浮かべてみせる。
「なんとなく…な。おかしいと思ったんだ。
霧島さんもだが…得に、お前が、な。」
シンジはケンスケの言葉に驚きを隠せないようだった。
自分では、いつもの自分でいるつもりだったから。
「ま、いつも写真を撮っていると、いろいろと見えてくるものがあるんだ。
それを教えてくれたのは、ミカだけどな。」
さりげなくのろけながら、ケンスケはマナを見て、先を促す。
マナはケンスケを見て、視線をシンジに移す。
シンジはやさしく肯いてみせる。
マナも肯き返して、そして話し始めた。
彼女の全て。
シンジと出会ってからのこと全て。
それは学校からの帰り道。
話は三十分程で終わった。
それほど詳しい話をしても意味がないし、
かといって省略しすぎても駄目といった状況で、なんとかうまく話せたとマナは思っていた。
それよりも、ずっと心の中に溜まっていたことを外に出して、今はすっきりした気分だった。
やはり、心のどこかで隠し事をしているという意識が、重くのしかかっていたのだろう。
もちろん、クラスメート達にはまだ話していない。
このまま話さないままにするのかも決断しなければならないが、
とりあえずは一歩踏み出したと思えることが、彼女には嬉しかった。
「ふう、ちょっとだけすっきりしたわ。」
「そう?でも、ケンスケにはバレバレだったみたいだね。」
そのケンスケも、さすがに話の内容までは予想がつくはずもなく、
突きつけられた事実にしばらく黙ったままだった。
結局、それぞれが別々に帰ることにして、シンジとマナは先に学校を出た。
さすがに、あの事実を突きつけられて、すぐに陽気な話はできるはずもない。
シンジもマナもそれには納得して、三人をそっとしておいた。
「大丈夫だよね?」
ふいにそんな言葉を呟くマナ。
しかし、シンジに向けた顔には不安な表情はなかった。
むしろ、何かを確信しているような笑みが浮かんでいた。
「もちろん。」
シンジは強く肯いていた。
だって、僕の親友だもの。
普段は三バカとか言われてるけど、
ケンスケもトウジも人の心の痛みがわかる僕の大切な友人だ。
その友人達を信じられないほど、僕はバカじゃない。
それに、洞木さんも普段は厳しいけど、芯は人一倍優しい女の子なんだ。
だから、僕は三人を信じるよ。
ちゃんとその事実を受け入れて、それでも友人として接してくれるって。
そう信じてるよ。
「なぁ、いいんちょ。」
トウジはぼんやりと空を見つめて告げた。
二人は学校の近くの高台にやってきて、夕日が見える丘に並んで座っていた。
引きあがる風がトウジとヒカリの髪を宙に舞わせる。
その風をやり過ごした後で、ヒカリがトウジに答える。
「何?鈴原。」
その口調はいつも彼を呼びつける口調とはまったく違い、限りなく優しかった。
今のヒカリはそんな気分だったから。
「霧島さんにワイら、何かしてやれるんやろか?」
そのトウジの疑問は、ずっとヒカリが心の中で繰り返していた言葉だった。
私は一体、マナさんに何をしてあげられるのかしら?
マナから話を聞いてからずっと、その思いが彼女の心の中にあった。
だから、ついそのトウジの疑問を繰り返してしまう。
「そうね…何ができるのかしら?」
その言葉と口調にトウジは一瞬だけ驚いた表情を浮かべると、小さく笑った。
それを聞いて、ヒカリは尋ねる。
「どうしたの?急に笑って。」
「いや、いいんちょにしては、はっきりせん答えやなぁ…思うて。」
そのトウジの口調の柔らかさに、ヒカリはどぎまぎしてしまう。
「え、そ、そうかな?私だってなんでも解決できるわけじゃないわよ。」
「そやな、普段をみてると、そう思わんのやけどな。」
トウジは視線をヒカリに移す。
「なぁ、いいんちょ。
やっぱりワイらはこれまで通りに、一緒に過ごすのが一番なんかな?」
ヒカリはその言葉に表情を引き締めて、トウジを見る。
いつになく真剣な表情のトウジ。
あまりお目にかかれるものではない。
それだけ、マナさんのこと…
でも、それは嫌なことではなかった。
それだけ、彼が彼の周りの人を大切に思っていることの証のような気がしたから。
「そう…そうなのかな?」
今度も曖昧な答えしか返せないヒカリ。
はたしてそれができるのか、情けないことに自分でも自信がなかった。
これまで、そんな経験はないし、
どうしてもマナの体を気遣うような態度を取ってしまうような気がしていた。
「そや、アレは霧島さん自身の戦いなんや。
わいらにはその代わりはできへん。
でも、一緒に傍にいて応援することはできるはずや。」
その何かを決心したような口調に、ヒカリも嬉しそうに肯いてみせる。
なぜか、トウジが一緒にいれば、なんとかなるような気がしてきたからだ。
「そうね…私たちができることはそれぐらいでしょうね。」
「まぁ、うるさすぎて邪魔や、言われるかも知れへんけどな。」
ニヤリと笑みを浮かべてトウジが告げる。
どうやらトウジは決心したようだ。
もちろん、ヒカリもその時には決心していた。
「最後はどうなるか分からないけど、でも、できればハッピーエンドになるように。」
「そやな。ワイらはそれを一番近いところで見届けるんや。」
お互いに肯き合って二人は立ち上がった。
ケンスケはベッドの上で、いつものようにカメラの整備に余念がなかった。
熱心にレンズを拭いて汚れがないか確認する。
それが、彼の寝る前の日課。
そしてふと、顔を上げ、窓から外を見上げる。
高い位置に月があった。
なぜか、ふとシンジとマナのことを考える。
「まさか、そんなことになってるなんてな。」
何かあるのだろう、とは思っていた。
それが二人のどこかに影を感じさせているのも。
でも、まさかそれほどのこととは。
限られた期限。
ほとんど勝つ希望のない戦い。
どうして、あれほどまでに信じられるのか?
誰も克服はしていない病。
年は越せないだろうと言われて。
どうして、ここにいるのだろうか?
残りの時間を普通に過ごそうとするのか?
わからなかった。
少なくとも、こんな割の合わないカケには普通乗らないはずだ。
あまりにも分が悪すぎる。
それとも、もう盲目のあまり、何も見えなくなっているのだろうか?
自分にできることは何もないのだろうか?
シンジは彼にとって友人だった。
照れくさくて口に出しては言えないが、親友と言っても良い。
そんな親友が苦しんでいるのに、自分は黙って見ているしかないのだろうか?
あきらめろと言ってやるのが、親友の務めではないだろうか?
シンジは認めないかもしれない。
でも、どうしようもない現実は確かに存在し、それを受け入れ、
残った時間をもっと有意義に過ごすように説得できるのではないか?
…
その時、マナの少し後ろで、話を聞いていたシンジの顔が浮かんだ。
いいや、シンジはもう決意を翻さないだろう。
あの時のシンジの顔は、もう決心してしまった顔だった。
最後まで彼女と一緒に戦うつもりなのだろう。
彼とは長い付き合いだから知っている。
一度決めたことは決して翻さない。
ある意味頑固なところがある。
…
…
…
だとしたら自分が二人にできることと言えば、決まっているのではないか。
自分の手の中にあるカメラを見つめるケンスケ。
これで二人を撮りつづける事。
それが自分が二人にできる一番のことではないか。
いつものように接するのは当たり前。
できれば、彼女がこの世界に存在した証明になるような、
二人の思いがずっと残るような、そんな写真を撮り続けるべきではないか?
…
…
ケンスケが笑顔を浮かべて、持っていたレンズをおく。
「そうだな、俺ができることと言えば、それぐらいだものな。」
何を悩んでいたんだ。
簡単じゃないか。
そう、最後まで一緒にいて、二人の思いを撮り続ける。
それが俺の今できる精一杯のことなんだ。
満月の夜だった。
彼女は一人草原の中に立ち、その月を見つめていた。
辺りは全て月の光で、銀色に染まっていた。
「良かったんだよね。」
そう小さく呟く。
あの三人になら大丈夫だって思ったんだもの。
それは自分で決めたこと。
どうなっても、それは受け入れなきゃ。
「どうしたの?」
そんな声が聞こえた。
マナは振り向いた。
そこには大きな木があった。
その根元に一人の女の子が座っている。
彼女ににっこりと微笑みかけ、もう一度先程と同じ事を告げる。
「どうしたの?」
その彼女の元にゆっくりと歩いてゆくマナ。
「座っても良い?」
何故か甘える口調になってしまった。
そんな自分に少し驚きながらも、座っている少女を見るマナ。
「いいわよ。」
その言葉に肯き、マナは彼女の隣に座る。
するとそれまで聞こえなかった音が聞こえてきた。
虫達の合唱、風が草原を駆け抜けていく音。
「どうして?大丈夫なの?」
ふいに彼女がそう問い掛けてくる。
「だって…」
マナはそこまで告げて言葉を切る。
だって…
三人は…
「だって?」
そして、マナは気付いた。
大丈夫だと思ったその理由の一つを。
にっこりと微笑んで彼女を見るマナ。
「まさか、そんな理由だなんてね…
でも、それだけじゃないよ。
そう、それだけじゃない。
私自身が信じているもの。
だから、大丈夫だって思うの。
その答えに彼女を満面の笑みで肯いた。
「そう、ならいいの。」
その言葉に小さな声でマナは呟いた。
「ありがと…おねえちゃん。」
「おはよ。」
部屋から出て、リビングに入ると、昨日と同じ制服エプロンのマナが出迎える。
「おはよう。」
マナの笑顔にシンジも笑顔で答える。
しかし、心なしかマナの笑顔が無理をしているものように見える。
信じていると言っても、やはり心のどこかでは心配になってしまっているようだ。
それはシンジも同様で、どこか落ち着かない気分だった。
そんなこんなでなんとか朝食を済ませて、それぞれ出発する準備をしている時。
ピンポーン。
いつも通りの時間にチャイムが鳴った。
シンジとマナは顔を見合わせる。
嬉しそうにマナは肯いて見せて、玄関まで駆け寄る。
「おっはよー。」
そういいながら、ドアを開けるマナ。
そこにはいつもの三人がいた。
そして…
「今日も制服エプロンか〜、くぅ〜、おいしすぎるぅ。」
そう言いながら、ケンスケが写真を撮り始める。
「やっぱり、分かっていてもちょっとショックよね。」
「あぁ、そやなぁ。」
ヒカリとトウジはお互いの言葉に肯きながら、マナのエプロン姿を見つめる。
「え…きゃ、忘れてたー。」
そう言いながら、またしてもマナは退散する。
そして、シンジがまた入れ替わりで現れる。
そして、三人を見つめるシンジ。
「みんな…」
ケンスケが明るい口調でそう告げて、トウジとヒカリもうんうんと肯く。
「さ、早く行こうぜ。遅刻するぞ。」
「ありがと…」
その言葉に照れくさそうに、トウジが頭を掻きながら続ける。
「ま、辛気臭いことはなしにしようや。
わいらはあまり役に立てへんかも知れん。
でも、知ってしまったからには応援させてもらうで。」
「私も鈴原と同じよ。」
にっこりとヒカリが微笑む。
「俺も写真撮るしか取り柄がないからな。」
そんな三人を見て、シンジが泣き笑いのような笑みを浮かべる。
「シンジ、ほら鞄。早くしないと間に合わないよー。」
背後からそんな声が聞こえ、四人は顔を見合わせて微笑みあった。
そして、その登校途中。
「なぁ、シンジ。」
前を歩いていたシンジに、すっと体を寄せて、ケンスケが小さな声で囁く。
ヒカリとトウジとマナがその前を歩いている。
なにやら、弁当のおかずの話で盛り上がっているらしい。
今日の弁当の中身の話を聞いて、トウジがその話題に入り込んでいる。
「何?」
シンジはケンスケの方を向いて答える。
「お前、なんで霧島さんが俺達に全部話したか、その理由分かってるだろうな?」
少し首をかしげて考え込んでから、シンジは無邪気に笑顔で答える。
「え?なんで、マナが決めたことなんだよ?」
「はぁ、お前ってヤツは…」
片手を顔を覆って、ケンスケは小さく溜息をついた。
お前なぁ。
重要なことなんだぞ。
俺達はお前の友人だったから、霧島さんが話してくれたんだぞ。
お前が俺達のこと信頼していると思ったから、こんな話してくれたんだぞ。
もちろん、それだけじゃないだろうが、やっぱりそれは大きいと思うぞ。
わかってるのか?
だから、惣流とかから、「ぼけぼけっとしてんじゃないわよ!」ってよく言われてたんだぞ。
…
…
ま、それがお前の良いところでもあるからなぁ。
おかげで俺達も苦労するよ。
でも、それだけお前が俺達のこと大切に思ってくれてるのが分かって、少し嬉しかったよ。
苦笑を浮かべながら、前の三人の話題に加わるために歩み寄る、
シンジの顔を見つめるケンスケだった。
あとがき
どもTIMEです。
Time-Capsule第48話「信頼」です。
またしてもお待たせしてしまいましたね。
残りの四話分との内容の整合性やら、何やらで伸びてしまいました。
次はこんなに時間はかからないです。
で、今回の48話ですが、何かケンスケがカッコイイ…
どうしたんでしょうねぇ。
ちょっとやりすぎたかなぁと思いながらも…まぁ、いいでしょう。
結局マナは自分の身体ことを、まずは三人にだけ話すことにしました。
三人はそれぞれ考えて、答えを出します。
その結果は良い方向に向かったようです。
次回ですが、ストーリー上の時間で、
10月,11月に起こった出来事を短短編形式でまとめています。
時間と才能があれば、全部独立させて公開するのでしょうが、
それをやっているとあと5話は必要になりそうですし。
なお、今年中にこの連載を終わらせるという目標はまだ生きてます。
あと1ヵ月半で四話(プラス1)分公開します。
#この調子だとギリギリなんとかなると思ってます。
では、次回49話「思い出」でお会いしましょう。