「で、お前達はどうするのだ?」
「私達はこちらに残って、準備を進めようと思う。」
「準備は他のメンバーに任せても良いのだぞ。」
「大丈夫だ。これは私達の我侭なのだから、私達が準備する。
それにお前も言ったじゃないか。こっちの方が何かと都合が良いと。」
「しかし、家族が離れてしまっては。」
「それは言い聞かせてある。それに今は私達よりもシンジくんの方が力になってくれるだろう。」
「…すまん、霧島。」
「何を言っているんだ、碇、謝る必要はないぞ。
これは私達が選んだ道なのだからな。
それより、マナとシンジくんのことを頼んだぞ。」
「あぁ、任しておけ。」
「こちらの準備ははやくても12月下旬まではかかる。それまでは…」
「大丈夫だ、それまでは私達がなんとしても…」
Time Capsule
Written by TIME/01
第45話
「帰るべき場所」
「私…シンジを好きになって良かった。」
そう囁くマナの言葉を聞き取ろうとしたシンジが顔を寄せる。
それを見てマナはすっと顔を寄せて、シンジにキスをした。
驚いたシンジがぱっと顔を離す。
マナは頬を赤らめ、それでもシンジににっこりと微笑みかける。
「大好きよ。シンジ。」
そのマナの言葉にシンジが何かを答えようとした時、突然大きな波が二人を襲った。
「きゃっ!」
声を上げ、慌ててシンジにしがみつくマナ。
ところが、いきなりのことで、シンジはマナを支えきれなかった。
盛大な水飛沫を上げて、二人共倒れてしまう。
その波をやり過ごしたあと、二人は呆然として、しりもちをついていた。
もちろん着ている服、髪も海水に濡れていた。
見詰め合う二人。
「ぷっ…」
「くくく…」
どちらからともなく大きな声で笑い始める。
その声はまだ人気のない海岸に響き渡った。
しばらく笑った後、ようやく立ちあがった。
「あ〜あ、濡れちゃったね。」
でも、何故かマナは嬉しそにそう告げた。
先ほど前の思いつめた表情が嘘のように、シンジにはその笑顔は輝いて見えた。
ワンピースがマナの身体にぴったりと張りついた。
それを見たシンジは、耳まで真っ赤になり、ちらりと視線を逸らす。
もちろん、マナがそんなシンジの様子を逃すはずはない。
「あれ?シンジ、どうしちゃったの?顔真っ赤だよ。」
まだ二人の足元を波が洗っているが、先ほどのような波はやってこない。
ただし、先ほどから少しづつ水位が上がっているように感じられる。
「いや、その、ほら…ね。」
意味不明の言葉を返すシンジ。
それだけ動揺しているのだが、マナにはそのシンジの様子が可笑しくて仕方がないらしい。
くすくす笑いながら、マナは首を振って答える。
「全然、意味わからないよ。」
もちろん、マナはシンジがなぜ真っ赤になっているのかはお見通しだった。
しかし、シンジの反応が楽しくて、つい意地悪を言ってしまう。
シンジは真っ赤なままマナを見ないように告げる。
「ほら、ワンピースが…濡れて…ね。」
そこでさらにからかうような表情を顔に浮かべ、シンジの顔を覗きこむマナ。
シンジはそのマナの行動に驚きながらも、やはり顔をそらせてしまう。
「私の身体、見たくない?」
そんなマナの挑発にも取れる言葉に、シンジはぶるぶると首を振る。
「い、いや、そうじゃなくって。」
マナはさらにシンジの顔を覗き込むように近づく。
シンジはそこまできてやっとマナの顔を見る。
そこまで近づかれると逆にマナの顔を見れば、視界が埋まるためだろうか。
「じゃ、見たいの?」
そのときマナが浮かべた表情は、まるですねるような、甘えるような笑顔でシンジの心を釘付けにした。
シンジはごくんと息を呑み、どもりながら答える。
しかし、視線はそのマナの笑顔からそらせることができない。
「そ、そんな、わ、わけは…な、ないよ…」
シンジのその言葉に我慢ができなくなったらしい。
マナは大きな声で笑い出す。
とシンジは降参とばかりこう告げると、ジト目でマナの顔を見る。
「…もう、遊ばないでよ。」
その言葉にもマナは更に笑みを大きくして、告げた。
今度のマナの笑みはシンジには子悪魔の笑みに見えた。
「愛してくれてるんでしょ?」
シンジの顔が耳まで真っ赤になる。
まるで音がしそうなほどな変化だ。
「だ、だから、それは…」
「え、もしかして嘘なの?」
マナは悲しそうな表情を浮かべてシンジを見つめる。
もちろん、これも演技だ。
しかし、シンジはすっかりと騙され、慌てて大きな声で答えてくる。
「そんなことない!」
すぐ答えを返してくれたシンジに少し感動しながら、マナはにっこりと微笑む。
「じゃあ、いいじゃない、少しくらい。」
くるりとマナに背を向け、大きくため息をつくシンジ。
落ちた肩と、丸まった背中が哀愁を漂わせている。
「はぁ…僕、どうしてこんな子、好きになっちゃったんだろう?」
「あの、…はっきりと聞こえてますけど。」
眉をひくひくさせながら、シンジの背中をつつくマナ。
と、シンジはそのことに触れずにこう告げた。
「で、服どうするの?乾かした方が良くない?」
「そうだね、じゃあ、シンジの部屋にお邪魔しても良い?」
いきなりのマナの提案に、シンジはびっくりしてまじまじとマナを見つめて答える。
二人はざぶざぶと海から上がりながら会話を続ける。
「へ?帰ったほうが良いんじゃない?」
「だって、ここからだと結構時間かかるし、シンジの部屋の方が近いでしょ。」
そして、マナはシンジが泊まっているホテルを指差す。
たしかに、ここからなら数分で部屋に戻れるだろう。
「そりゃ、そうだけど。」
海から上がったマナはシンジの手を取って歩き出す。
「じゃ、決まり。行きましょ。」
砂浜の真っ白な砂を足に絡ませながら二人はホテルに向かって歩き出した。
二人はエレベータに乗って、シンジの部屋の階に移動する。
中はまるでエレベータの内装とは思えないほど変わっていた。
四隅に柱があり、ゴンドラの中で小さな木製の社を形どっていた。
四方の壁は木材で覆われている。
唯一、ホテル内の施設が説明されているA3サイズの張り紙が、
今いる場所がエレベータ内であることを教えてくれる。
その中でシンジはふとマナを見て、少し昔のことを思い出した。
ちょっと前だけど、やっぱりこんなことなかったっけ?
あれから、ずいぶん時間が経ったような気がするけど、
でもまだ数ヶ月しか経っていないんだよね。
何か、変な気分だね。
時間の流れが速いような、遅いようななんとも言えない感じ。
と、マナが自分の肩を抱くように腕を組みながらじぃっとシンジを見ている。
「え、何?」
「何か、さっきから私をじぃっと見てるみたいだけど…」
シンジはマナの言いたいことを理解して、またもや真っ赤になる。
そんなつもりはなかったのだが、つい考え事をしながらずっと視線を固定していたらしい。
「う、あ、ごめん。そんなつもりじゃ…」
「シンジってもしかして濡れフェチ?」
「え?」
その言葉を聞き、固まってしまうシンジ。
塗れフェチ。
そんな単語は初めて聞いたが、あまり良い評価のようには聞こえない。
それどころかかなり感じが悪い単語である。
「もしそうだったら、私もシンジの評価を改めないと。」
「あの…濡れフェチって?」
恐る恐るシンジはマナにその単語の意味をたずねてみる。
嫌な予感はするが、確かめずにいられなかった。
マナはにこにこ微笑みながら、こう答えた。
「濡れた服を着ている女の子が好きな人のこと。」
シンジはあまりのショックに気を失いそうになる。
濡れフェチ…
そんな…
言うことに事欠いて…
そんなこと言うなんて…
僕、ホントに頑張ったんだよ。
マナのこと心配で、すっごく頑張ったのに…
…
…
それに…
前回とはうってかわったこのノリは一体何なの?
あんなに辛そうな顔していたのに…
…
…
僕、もしかして何か間違っていたのかな?
ねぇ、誰か教えてよ…
…
ねぇ…
自分の思考世界に沈みかけたシンジを見て、マナはくすりと笑みを浮かべると、シンジに身を寄せる。
シンジの左腕に何か柔らかい感触が…
それで我に返るシンジ。
そして、マナを見る。
言ってることとやっていることが違うんだけど…
瞳にその思いを乗せて、シンジはマナを見る。
「マナ…あの…」
「何?」
満面の笑みで答えるマナ。
もしかしてわざとやっているの?
もしそうだとすると、やっぱり僕はとんでもない女の子を好きになってしまったのかな?
そして心の中で叫ぶ。
神様。
どうして女の子ってこう何考えているのかわからないんですか?
…
…
と、エレベータが二人が下りる階に到着した。
開いたドアを見て、マナがぱっとシンジから離れてエレベータから出る。
てってってと小走りに歩くマナを見て、シンジは小さくため息をつくと、後に続いた。
そして、シンジの部屋に入る二人。
先に部屋に入って、きょろきょろと中を見回すマナに、シンジは言った。
「で、服どうするの?」
振り返り笑顔のままマナはにゅっと手をシンジの前に差し伸べる。
先ほどから笑顔しか浮かべていないマナ。
しかし、シンジはそんなことを考えている余裕はなかった。
それが何を意味するのか理解できず、シンジはまぬけ面でマナを見る。
「へ?」
「とりあえず、Tシャツ貸して。」
「え?」
石膏像のように固まるシンジ。
飛んだ意識を取り戻すまできっちり5秒必要だった。
マナは首を傾げて、自分のワンピースをつまんで見せる。
「だって、乾かしたいけど、その間私は裸で待つの?」
そして、シンジを見てにっこりと微笑む。
しかし、告げた言葉はかなり過激だった。
「シンジがその方が良いんだったら、そうするけど。見たい?」
少しはにかみながら首を傾げシンジを上目がちに見る。
「い、いや、貸す。貸すから。」
かなり慌てて、服を片付けてあるクローゼットから一枚のTシャツを出すシンジ。
つい、裸のマナを想像してしまい、余計に動揺する。
やはりこのあたりはシンジも一人の健康な男だった。
しかも、シンジは裸のマナを一度見ているわけで、つい、その時のことも思い出してしまう。
「これでいい?」
またしても耳まで真っ赤になりながら、そのTシャツをマナに渡す。
「うん。ありがと。」
マナはそれを受け取ると、バスルームの方に歩いていく。
そして、くるりと振り向くと告げた。
「とりあえず、シャワー借りるね。身体冷えちゃったし。」
「あ、うん。」
マナを見送りながら、シンジはそう答えた。
シンジはぼんやりと窓から見える海を見つめていた。
はぁ、まいったな。
何か妙にマナが元気なんだけど。
どうしたのかな?
さっきまであんなに…
…
でも、悪いことじゃないよね。
少なくともカラ元気って訳でもなさそうだし。
自然な感じだったし。
…
…
…
おっと、とりあえず、僕も服だけは換えないとね。
濡れている服を脱ぎ捨て、Tシャツとショートパンツに着替えるシンジ。
ふう…
一息ついた。
ベッドに座って、かなり明るくなった外の景色をぼんやりと見つめる。
でも、どうしてあんな夢見たんだろう?
あれで目を覚まさなかったら、今こうしていなかったよね。
マナ、やっぱり無理してたんだよね。
気づいて良かった。
あのまま、僕が止めなかったら、マナどうするつもりだったんだろう?
何故か身体が震える。
もしかしたら、マナを失っていたのかも。
そんな思いがふと浮かぶ。
…
いや、さすがにそんなことはないか…
…
でも、もしかしたら…
…
…
いいや、そんなことは起こらなかったんだから。
もしも、のことなんて…考える必要ないよ。
それに…
今、マナはこの部屋にいる。
それだけ十分。
それにまだ始まったばかりなんだから。
マナは生きていかなければならない。
僕もできるだけそれを助けなければならない。
まだ、奇跡を起こすような確率なのかもしれない。
でも、もしかしたら、それが半々の確率になるかもしれない。
まだ誰も分からないんだから。
だから、僕達は信じて。
信じ続けて生きる努力をしなければならないんだ。
「はぁ、一息ついた。」
マナはバスルームから出てきて、ふうとため息をついた。
もちろんTシャツ一枚で下は何も身につけていない。
髪をまとめていたリボンを解き下ろしていた。
幸い、シンジはかなり大きめのものを渡してくれたようで、ミニのワンピースを着ているように見える。
そして、右手には着ていたワンピースと下着を持っていた。
もちろん、シンジには見られないように、下着はワンピースの下に隠してある。
「おまたせ…って、あれ?」
マナはシンジが片方のベッドに横になっているのを見て首をかしげる。
「お〜い。」
声をかけながら歩み寄る。
返事がない。
どうやら、寝てしまったようだ。
ベッドサイドまで来て、シンジの顔を覗きこむ。
安らかな寝息を立ててシンジは眠っているようだった。
「寝ちゃってる…そうだよね…」
マナはとりあえず、服を乾かそうとラナイにでて、濡れ物を適当に干しておく。
「ま、こんな陽気だったら2,3時間で乾くでしょ。」
そう呟く。
部屋の中に戻り時計を見る。
もう午前6時過ぎだった。
時計を見たせいか、急に眠気がマナを襲ってきた。
「ふあ、何か眠くなってきたよ…」
マナはあくびをして、シンジを見る。
シンジは相変わらず熟睡しているようだった。
「この、幸せそうに寝ちゃって…」
マナはシンジの鼻をふにふにと押す。
と、シンジはむにゃむにゃ言いながら、反対側に寝返りを打つ。
そこに丁度マナが横になるには良いスペースができた。
どうしようか、マナは少しだけ迷ったが、倫理観よりも睡魔が勝ったようだ。
それに自分を愛してると言ってくれている男性で、
しかも自分好きな相手であれば、倫理観もさほど働かない。
まずは開け放たれていたカーテンを閉める。
と、部屋の中が程よい感じに暗くなる。
マナはもう一度小さくあくびをすると、
シンジの横に座り、足元に畳まれていたブランケットをシンジと自分にかける。
「おやすみぃ。」
そう呟くと、横になって瞳を閉じる。
マナが安らかな寝息を立て始めるに、そうは時間はかからなかった。
シンジは寝返りをうとうとする。
と、左手が何かに当たって、慌てて手を引っ込める。
「う…ん、ごめん。」
そう呟く。
とりあえず、その何かの邪魔にならない様に仰向けになって小さく息をつく。
ほんの少し覚醒した状態からすぐにまた熟睡状態に下りていく。
するとしばらくしてから、胸に何かが乗っているような感触を感じた。
何だろ?
それに足にも何かの重みを感じる。
…うん、何か動きづらいな…
…
…
…
シンジはゆっくりと左手を足元に持っていく。
何か、柔らかくてすべすべしたものが自分の足に絡みついているみたいだ。
なんだろ?
でも、何か気持ち良いな、これ。
すべすべしてて…
暖かい…
ゆっくりと手を動かし、それを触るシンジ。
手を伸ばして行くと、きゅっと段差がついていた。
…
うん、なにだろ?
よくわかんないな…
…
まだ、シンジは寝ぼけ半分らしい。
とりあえず、手を引っ込めて、今度は胸に乗っている何かに触れてみる。
こっちもすべすべしてる…
…
…う、ん…
何だろ?
…
…
…
まぁ、いいや…
…
…
すっと意識が落ちていこうとする中、小さな声が聞こえた。
「シンジ…」
その声でシンジの目がぱっと覚めた。
え?
この声は…もしかして…マナ?
そして、寝る直前のことを思い出すシンジ。
僕、マナがシャワー浴びてるうちに寝ちゃったの?
ま、まずい!
慌てて起きあがろうとするシンジ。
しかし、何かに絡みつかれて起きることができない。
もしかして…
シンジは恐る恐る自分の体を見る。
…
そして卒倒しそうになるシンジ。
胸に置かれている腕はいいとして、
足はTシャツからにゅっと真っ白な足が伸びて、それがシンジの足に絡みついいている。
どうして、こうなったんだ。
マナがどうして僕に巻き付いてるの?
それに上はTシャツだけど…
下は…
…
…
…
…
…
シンジの顔が真っ赤になる。
まさに蒸し器に掛けられたタコやカニ状態。
…
…
…
…
ちょっとこれはマズイよ。
いくら、好きな人だからって。
僕だって、僕だって…
…
…
とりあえず、シンジは雑念を振り払おうと、首を振ってマナを起こそうとする。
「ねぇ、マナ。起きてよ。マナ。」
幸い、マナも眠りが浅かったようで、すぐに目をしばたかせ起きたようだった。
小さくあくびをして、シンジを見て、満面の笑みを浮かべるマナ。
「あ、おはよ、シンジ。」
そのマナの笑顔にどきりとしながらも、シンジは答える。
「いや、おはよじゃなくて。」
「え?どうしたの?顔真っ赤よ。」
シンジはちらりと視線を下に向けて告げる。
しかし、すぐに視線を戻す。
じっと見ていたら卒倒するような気がしたから。
もしかしたら、理性が吹っ飛ぶかもしれないが。
どちらにしろ、シンジには歓迎したくない状態に陥るだろうから。
「足…」
「あし?」
と、マナはようやくシンジの告げたいことが分かったらしく。
視線を足元に向けて…
頬を赤く染めてぱっと離れる。
シンジは小さく息をついて、ゆっくりと起きあがる。
マナは腰にタオルケット巻きつけてベッドの上に座る。
上目がちにシンジを見ながら訊ねる。
「あの、見ちゃった?」
その言葉に、シンジは一瞬何を言っているのか分からなかったが、
それがわかった瞬間、ぶんぶんと大きく首を横に振った。
マナ自身も思いがけぬサービスをしてしまい、かなり動転しているようだった。
「み、見てないよ。」
「…ホントに?」
シンジは音が鳴りそうなぐらい力強く、今度は首を縦に振る。
「うん、ホントに。」
それでようやく安心したのかマナはほっと息をつく。
しかし、シンジは安心などしていられない。
どうしてこうなったかを訊ねる。
「で、なんでマナと僕が一緒に寝てるの?」
「私が出てきてたときには、シンジはもう寝てて。」
シンジは頷いて、話を促す。
「で、何か私も眠くなってきて、シンジの隣が空いてたから…」
「って、どーしてそこで一緒に寝るかなぁ。」
マナは視線を伏せて、小さく呟いた。
「だって、せっかくだし…」
「…」
「何となく、シンジと一緒に寝たくなって。」
シンジは先ほどからずっと顔を真っ赤にしているマナをまじまじと見つめる。
恥らってるのを見ると、とても可愛いんだけど…
こうやって恥ずかしがるくらいなら、最初からやめておけば良いのに…
でも、逆に開き直られても、もっと困るけど。
「ごめんなさい。」
素直に頭を下げて、謝るマナ。
こうなってくると、シンジも怒ってばかりいられない。
何といっても、自分の好きな人なのだから、つい、折れるようなことを言ってしまう。
「まぁ、何もなかったから良いんだけど…」
と、その言葉で急に、マナが顔を上げてシンジをじっと見る。
見つめ返されて、少し照れてしまうシンジ。
「どうしたの?」
「あの…」
そこで、言葉を濁してしまうマナ。
「うん?」
マナはちらりとシンジを見て訊ねる。
耳まで真っ赤になっている。
「ホントに何もしてない?」
「へ?」
「ホントにホント?」
「してないよ。」
シンジはため息をつくと、そう答える。
そのしぐさと表情を見て、どうやらマナも納得しようでふうとため息をつく。
「そうよね。シンジに、そんな甲斐性ないものね。」
「って、それ評価されてるのかな?」
慌ててマナは手を振って答える。
「悪い意味じゃないよ。良い意味でってこと。」
「まぁ、いいけど…」
シンジは苦笑しながら答える。
「で、もう服は乾いたかな?」
「うん、ちょっと見てみるね。」
マナが立ちあがって、ラナイの方に歩いてゆく。
シンジはすっと視線をそらしてうつむく。
シンジのTシャツだけのマナはまるで裾が短いワンピースを着ているように見える。
はぁ…
もう少し、自分を大切にした方が…
僕だって男なんだから…
…
…
…
そりゃ、そんな甲斐性なんてないかもしれないけど…
でも、もしかしたらってこともあるじゃない?
…
…
「うん、乾いてるみたい。」
マナのその声にシンジは顔を上げる。
「じゃあ、僕は外に出てようか?」
「ううん。大丈夫、あっちで着替えるから。」
マナはバスルームの方を指差す。
シャワー浴びるために服を脱いだときと同じように、そこで着るという事なのだろう。
シンジは頷いてみせる。
「じゃあ、着替えるね。」
服を抱えてマナがてってってと小走りに部屋を横切ってゆく。
それを見送って、シンジはまたため息をついた。
「そうか、結局身体拭いて、そのまま寝ちゃったんだな。」
自分の着ている服を見て、シンジはそう呟く。
ま、今日はこの服でいいか。
着替える必要もないよね。
Tシャツのショートパンツ姿の自分を見て、シンジはそう考える。
すると、いきなり部屋のドアがノックされる。
「シンジぃ、起きてる〜?」
アスカの声だ。
シンジは驚きながらも、返事を返そうとするが、その寸前で思いとどまる。
そして、大きく深呼吸をする。
そのまま答えを返していたら、思いっきり声が上ずっていただろう。
極力いつもと同じように、シンジは答えてみた。
「あ、うん。起きてるよ。」
それでもわずかに声がかすれる。
「?どうしたの?何か慌ててない?」
さすが付き合いが長いだけあって、
アスカはシンジの声の調子に、いつもとは違う何かを感じたようだった。
「い、いやなんでもないよ。」
やばい〜。
今、部屋の中に入ってこられたら…
…
その瞬間、シンジはあることを思い出した。
しまった〜!!
ドアに鍵かけてない〜ぃぃぃ。
ちょうど、シンジが気づいたタイミングと同じく、アスカもそれに気づいたようだった。
「あら、鍵開いてるじゃない。シンジ、入るわよ〜。」
「あ〜!ちょっと待って〜。」
しかし、そんなシンジの言葉を無視して、アスカは部屋の中に入ってきてしまう。
「あら、今日はもう着替えてるの?何かあったの?」
そうシンジに尋ねてくるアスカ。
シンジは首をぶるぶると振る。
ま、まずい、ひじょ〜にまずい。
このままアスカとマナが鉢合わせしたら。
バスルームの方にちらりと視線を向けるシンジ。
どうやら、マナは息を殺して隠れているようだ。
ど〜か、バレませんように。
「どしたの?」
アスカは不思議そうに首をかしげて、シンジが座っているベッドに歩み寄る。
「いや、何もないよ。」
勤めて冷静にそうシンジは答えるが、アスカはそんなシンジの顔をうさんくさそうに見詰める。
「やっぱり、変よ。」
そう言いきって、アスカはすとんとシンジの隣に座って、シンジの顔をまじまじと見つめる。
「顔赤いし…」
すっとアスカは手をシンジの額にあてる。
「でも、熱はなさそうね。」
「う、うん。大丈夫だよ。」
そんなシンジの表情を見て、アスカはにこりと笑って瞳を閉じる。
そして心持ち顔を上げる。
「え?」
シンジはそのアスカの行動が、何を意味するのか良く分からなかった。
アスカはくすりと笑って、告げる。
「おはようのキスは?」
「え…えぇ〜!」
「何よ。いつもしてくれてるじゃない?」
そのアスカの言葉に、バスルームの方でがたんと音がした。
「してないしてない!」
シンジは大きな声で叫ぶ。
「もう…変なシンジ。二人だけなのに遠慮しなくても…」
「アスカ、からかうのはやめてよ!」
そのシンジの言葉に、アスカはくすくす笑いながら立ちあがる。
「まぁ、いいわ。今日は朝食は、別々に取りましょ。その方がシンジも都合良さそうだし。」
ウインクをしながらそう告げるアスカ。
そのアスカの言葉に、シンジはぎょっとしてアスカの顔を見つめる。
アスカはもう一度軽くウィンクして見せて、部屋から立ち去った。
その後姿を見送って、シンジは大きなため息をつく。
はぁ、アスカにはバレちゃってるよ。
でも、どうして…
そう考えたシンジの視界に、あるものが目に入った。
…
なるほど、そりゃ気づくよね。
僕の靴に並んで、サンダルが置いてある。
どう見ても女性ものだし。
…
「シンジ!」
いきなりのその声で、シンジはびくりと体を震わせる。
マナがシンジの前に仁王立ちになる。
「な、マナ、どうしたの?」
「どうしたも、こうしたも。」
そして、マナは座っているシンジに顔を近づけて言った。
「アスカとキスしてるの?」
「はぁ?」
思いっきり間抜けな表情で、マナの顔を見つめるシンジ。
「さっき、アスカがそう言ってたじゃない?」
「違うよ。してないよ。」
「ホントに?」
「ホントだよ。」
「ホントにホント?」
「ホントにホントだよ。」
「ホントにホントにホントに?」
「…はぁ、誓ってそんなことしてないよ。」
シンジはため息を交じりにそう答えた。
マナがシンジの膝の上に座って、首に腕を回す。
それを抱きとめるシンジ。
間近でシンジの瞳を見つめながら、マナはもう一度だけ訊ねてくる。
「シンジは私だけにキスしてくれる?」
「もちろんだよ。」
「じゃあ、態度で示して。」
マナはそう告げると、瞳を閉じる。
シンジはすっと顔を寄せるとキスをした。
シンジが顔を放すと、マナは小さく笑ってシンジの肩を押す。
いきなりのことでシンジは体制を崩し、ベッドに寝転がってしまう。
そのシンジの上にマナが乗ってくる。
シンジの胸にマナの柔らかな胸の感触がする。
伸びたマナの髪が、シンジの顔に触れる。
「マナ…」
「シンジ、大好きよ。」
今度はマナからシンジにキスをした。
そのままシンジの鎖骨辺りに頭を乗せて、小さくため息をつく。
「マナ?」
しばらくマナは瞳閉じてそのままの姿勢でいた。
どれくらい時間が過ぎたのか、マナは小さな声でシンジに囁く。
「シンジ、お願い。私の傍にずっといて。これからずっと。
私が生きてゆく希望をなくさないように。
シンジやみんなと一緒に生きていけるように。」
シンジは小さく頷いて見せる。
「うん。僕はマナと一緒にいるよ。」
午後の陽射しが、部屋を明るく照らし出している。
マナはそこで椅子に座っていた。
向かいには白衣を身につけた男性。
診療室で二人は向かい合って座っている。
男性は机の上の書類に何か書き込みをしながら、マナに告げる。
「じゃあ、やはり日本に戻るんだね。」
その口調から、彼がそれを望んでいるようにマナにも思えた。
しかし、それは自分から言い出したことなので、何の抵抗もなくマナは頷く。
「はい、でも、これからも生き続けるために帰るんです。」
その言葉に、少し眉を動かし医師はマナの顔を見る。
以前とは違って、その瞳には生気があるように彼には見えた。
表情もどこかに明るく見える。
以前のような、どこか冷めたような、悟っているような表情は今の彼女にはなかった。
それを確かめ医師は頷いた。
「わかった。君がそれを望むなら、私には何もいうことはない。
日本で君を見ていてくれた医師にはすでに連絡してある。」
その言葉にマナは少し意外そうな表情を浮かべる。
どうして、日本でマナを見ていた医師を彼が知っているのか?
マナのそんな表情を見て、医師はにやりと口元に笑みを浮かべる。
「まぁ、こちらもいろいろ事情があってな。
君が言いださなくても、日本に移ってもらう予定だったんだ。」
数日前までは、そんなことを言っていなかったではないか?
マナはやはり腑に落ちない様子で、医師に尋ねた。
「どうしてですか?」
「恋人は、近くにいた方が良いだろう?」
そう告げて、ウィンクする医師。
それは本当の理由ではなかったが、今のマナに対する言い訳としては十分だったようだ。
その証拠にマナは頬を少し赤らめ、はにかんで頷いたから。
そのマナの表情を笑顔で見ていた医師だったが、すっと表情を引き締め告げた。
「正直、君の身体がいつまで持つのかわからない。
しかし、あきらめないで最後まで生きる意思をなくさないで欲しい。
そうすれば、道は開けるかもしれない。」
それはシンジから告げられた言葉と同じものだった。
少しだけ驚きの表情を浮かべながらも、マナは力強く頷いて見せた。
ドアが軽くノックされる。
シンジはドアの方に向いて、返事を返した。
シンジはやってきたのはアスカだと直感したが、
その予感どおりにドアを開けて顔を出したのはアスカだった。
「もう、マナはいない?」
アスカはきょろきょろと見まわして、そう告げた。
「アスカ…もう勘弁してよ…」
シンジは苦笑交じりにそう答えた。
そのシンジの言葉に、アスカは肩をすくめてシンジの近づく。
「勘弁して欲しいのはこっちよ。
まさか、マナを引っ張り込んでるなんて、シンジも男になったわよね。」
ベッドに座っているシンジの前に立つアスカ。
そのアスカを上目がちに見上げるシンジ。
「あの…何か勘違いしてない?」
そのシンジの言葉に、アスカはくすくす笑いながら告げる。
「え〜、我慢できなくなっちゃったんでしょ?
それで、マナを部屋に引っ張りこんだと。」
シンジは、首を左右に一杯振って答える。
「違うってば、何もしてないってば。」
それを聞いて、アスカはにやりと笑いながらシンジを見る。
「もしかして、シンジ…ダメだったの?」
我ながら、かなり大胆なことを言っているわね。
そんなことを思いながらも、アスカは笑みを浮かべてシンジを見ている。
「って、何の話してるの?」
「だって、シンジ、不能なんでしょ?」
アスカは笑みを浮かべたままシンジに顔を近づけて告げた。
シンジはがっくりと肩を落とし、小さく呟くように言った。
その様子は、まるで子供がすねているようにアスカには見える。
「はぁ、今日は朝からさんざんだよ…濡れフェチとか甲斐性なしとか不能とか…」
アスカは驚いたようにシンジに聞き返す。
「甲斐性なしはいいとして…シンジって濡れフェチだったの?」
「違う!断じて違う!」
そんな台詞を吐きシンジは思わず立ちあがる。
「ま、まぁ、そんなに怒らないで…」
慌ててアスカがなだめる。
よっぽどショックだったみたいね。
まぁ、濡れフェチなんて言われればね。
「はぁ…今日は疲れたよ…もう寝ようかな…」
「あぁん、そんなにスネないでよ。ね?」
アスカがシンジに微笑みかける。
シンジはふうとため息をつくと、ベッドに座る。
「で、どうしたの?」
アスカはすとんとシンジの隣に座って、視線少し離れた床に向ける。
すっと息を吸って、その言葉を告げる。
「私、そろそろ帰ろうと思って。」
一瞬アスカが告げた言葉の意味を理解できなかったシンジ。
しかし、理解したとたんに、驚いた表情を浮かべてアスカを見る。
「帰るって、ドイツに?」
そのシンジの言葉に、アスカは当然のことのような表情で頷いてみせる。
「うん。もう私が一緒にいなくてもいいかなって。
それにシンジ達もそろそろ日本に帰るでしょ?」
「そうだね…」
そう言ってうつむくシンジ。
確かにシンジがアスカを止める理由はない。
もともとアスカが自分の意志で、シンジに付き合っただけのことだから。
そのアスカが帰るというのなら、シンジは納得するしかない。
そんなシンジの耳元に顔を寄せ、小さく囁くアスカ。
シンジは顔を上げてアスカをまじまじと見る。
その視線を受け止め、アスカはいつもの笑みを浮かべる。
「ま、うまくやんなさい。ちゃんとマナを支えてあげなさいよ。」
「うん…」
シンジは頷き、アスカに微笑み返す。
その笑みは、何とか自分を納得させようとしてるようだった。
「ありがと。アスカがいてくれて本当に良かった。」
そのシンジの言葉に、笑顔のままでアスカは頷いた。
その日の夕方。
二人は前日も一緒に座っていたベンチにいた。
つい半時間ほど前に、シンジの部屋をマナが訪れて散歩に誘った。
歩いてゆくうちにこのベンチまでやってきた二人は、
以前と同じようにそこに座り沈んでゆく夕陽を見つめる。
「そうなの?アスカ帰っちゃうんだ。」
「うん、明日の飛行機で帰るんだって、いきなりでびっくりしたけど、アスカが決めたことだから。」
そう言うシンジの顔をマナはまじまじと見つめる。
シンジはその視線に気づき首を傾げてみせる。
「どうしたの?」
「ううん。シンジ、寂しそうだなって。」
シンジは視線を、目の前の海に向ける。
その視線と表情は、やはり寂しそうにマナの目には映った。
「そうだね、アスカがいてくれたから、僕は今こうしてここにいるのかもしれない。」
目の前の遊歩道を犬の散歩をしている老人が、ゆっくりと歩いてゆく。
その様子をぼんやりと見つめて、シンジは言葉を続けた。
「アスカは僕を助けてくれた。でも、僕には何も返せない。」
そして、顔をマナの方に向けた。
「それがすごく悲しいんだ。」
アスカは僕を見守ってくれた。
僕が自分の心の中に閉じこもった時も逃げちゃだめだって言ってくれた。
今僕がここにいるのは、アスカのおかげなのに。
僕は何も返せない。
「そう…」
マナはそう告げただけだった。
二人は黙ったまま、沈んで行く夕陽を見ている。
水平線に消えてゆく太陽。
そして、その最後の残光を二人は瞳に焼き付けた。
どちらからともなく、立ちあがり、二人は手を繋いで歩き出す。
遊歩道ぞいにかがり火が焚かれて、その炎が暗闇に包まれて行く空を焦がしていく。
先ほどまで砂浜から吹いていた風は、今は海から吹いてきていた。
シンジはラナイに出て、大きく背伸びをした。
アスカは今日の夜は、父親と一緒に過ごすことになっている。
時計は夜の9時を指している。
明日…か。
確かにもう1週間近くこっちにいるし。
僕はマナに告白したし、マナもそれを受け入れてくれた。
マナの身体のことはあるけど、それはアスカにはどうしようもないよね。
それはマナ自身の問題だし、一緒に生きて行く僕の問題でもある。
アスカには関係ない。
だから、アスカがドイツに帰るのは当然のこと。
そう…
もう二人の道は交わることはないのだから。
僕とアスカは違う道を歩き始めているのだから。
あの時…
アスカがドイツに行くと決めたとき、引き止めなかったから。
その時に、もう二人は…
…
最近までそれに気づかなかっただけ。
だから、僕はそのことを受け入れなければならない。
お隣さんだった時のような二人は、もういないんだ。
これからはアスカではなくて、マナがいる。
彼女を支えていかなければならない。
シンジは大きく息をつくと、ぼんやりと海に向けていた視線を昇って来たばかりの月に向けた。
その光が海の波を輝かせていた。
海から吹きよせる風から潮の匂いを感じる。
波が打ち寄せる音、風にざわめく木々の音。
通りぬけていく車の排気音。
シンジはもう一度大きく息をつく。
僕は…
と、隣の部屋のラナイにアスカが現れた。
視線をシンジの方に向け、意外そうに声をかけてくる。
「あら、シンジ、そこにいたんだ。」
「アスカ…」
アスカはう〜んと大きく背伸びをする。
真っ白な腕がすっと伸びている。
そして、アスカはシンジを見て言った。
「ね、そっちに行っても良い?」
「う、うん。」
「じゃ、行くね。」
それだけ告げると、アスカはラナイから消える。
ほんの少しだけ間を置いて、シンジの部屋のドアが開く。
そして、アスカがラナイに入ってくる。
「おまたせ〜。」
そう言いながら、アスカは手の持っていたグラスをラナイのテーブルに置く。
「これ、パパから貰ってきたの。シンジと一緒に飲もうと思って。」
「ワイン?」
「おいしいのわよ。」
にこにこ微笑みながら、二つのグラスにワインを注ぐアスカ。
そのアスカの表情と様子を見て、シンジは尋ねる。
「アスカ、酔ってるでしょ?」
その問いに澄ました顔で、アスカは答える。
「そんなことないわよ。一人で帰って来れたんだから。」
「呼んでくれたら迎えに行ったのに。」
二人とも連絡用に携帯を借りていた。
その気になれば、アスカはシンジの携帯に連絡できたはずだ。
しかし、アスカはそれまでの笑顔を消して首を振った。
「それはできないよ。」
そのアスカの口調に少しどきりとしながらも、シンジは気楽さを消さないで答えた。
そう…
もうそんなことをできる関係ではない。
シンジはマナを選んだのだから。
それはシンジにもわかっていた。
「…別にかまわないよ。アスカだったら。」
そのシンジの言葉にアスカの動きが止まる。
ゆっくりとアスカは息をつき、顔を上げてシンジを正面から見た。
そして、ぴしりと言った。
「それ以上言わないで。好意で言ったことでも相手を苦しめることもあるのよ。」
シンジはその言葉に何も答えられなかった。
そんなシンジから視線を逸らせて、アスカは気楽な口調を取り戻して告げる。
「さぁ、飲んでみて。」
そう言うと、アスカは自分の分のグラスを持って、椅子に座る。
シンジは意識して明るい声を出す。
おそらく二人きりの夜は、今日で最後だから。
もう二度と、こんな夜はないだろうから。
それならせめて、良い思い出になるように…
「うん、いただくよ。」
シンジはアスカに向き合うように置かれている椅子に座る。
そして、グラスを手に取り、一口飲んでみる。
「…うん、おいしいよ。」
お世辞ではなく、シンジはそのワインを気にいったようだ。
アスカもシンジの表情から、それがお世辞ではないことを理解した。
「でしょ?」
アスカは嬉しそうに頷くと、自分もワインを一口飲んだ。
ほのかな月明かりがテーブルにグラスの影を作る。
アスカは指でその影をなぞっていた。
「ね、シンジ。」
「うん?」
アスカはそのグラスの影を見つめながら、小さく呟く。
「シンジと一緒にハワイに来て、良かったと思ってるよ。」
シンジはグラスの陰をなぞるアスカの細い指に、視線を向けていた。
小さく頷くと、シンジも答えを返す。
「僕も、アスカと一緒に来て良かったと思ってるよ。」
「そう…」
「うん…」
二人はお互い見詰めあって微笑む。
「でも、もう終わりね。」
アスカとシンジの二人きりの旅行もここで終わる。
それは二人の関係が決定的に変わることも意味している。
シンジはマナを選び、アスカはそれを認めたから。
曖昧で、けれど居心地の良かった二人の関係。
なくなってしまう時に二人はそれまでの関係を本当の意味で理解した。
「うん…」
シンジはかすれるような声でそう答えた。
「…」
「…」
長い沈黙…
「ねぇ、シンジはマナのこと好き?」
ふいにアスカはシンジに尋ねる。
しかし、シンジは驚きもせずに素直に思いを口に出す。
今までのシンジなら顔を真っ赤に染めて、うろたえるところだが。
「好きだよ。」
そう告げて、シンジはにこりと微笑む。
アスカの胸がその笑みでずきりと痛む。
その笑みの全てはもう自分ではなく、彼女にむけられるものだから。
「ずっと、マナだけを思い続けられる?」
「そのつもりだよ。」
やはりシンジは素直で、まっすぐな答えを返す。
アスカはそれでも何か言いたげにつぶやく。
「もし…」
「もし?」
しかし、アスカはそこで黙ってしまう。
「…」
「…」
そして首を振って、告げる。
まるで、そのシンジの言葉に自分を納得させようとするかのように。
「ううん、なんでもない。」
「…そう…」
シンジは視線をアスカに向ける。
アスカは顔を伏せて、その表情は伺えなかった。
「アスカ…ありがと。アスカがそばにいてくれなかったら、どうなっていたか。」
「ううん。シンジは一人でもちゃんとやり遂げたよ。
私はただそばにいて見ていただけ…」
そう…
シンジとマナがどれだけお互いを思っているのか。
それを見たかったから。
だから、私はハワイに来たんだ。
自分の思いをふっきるために。
シンジのこと忘れるために。
だから、私は何もしていないんだよ。
シンジはそうは思わないかもしれないけど。
私の方こそ、シンジに感謝しているんだよ。
シンジとマナを見て、やっぱり私が入る余地はないんだって分かったから。
それを教えてくれたのは二人なんだから。
…
でも、それもちょっと変な話なのかな?
まぁ、よくわからないけど。
…
…
…
「だから、シンジは私に引け目を感じる必要はないんだよ。
私は関係ないから。自分に自信を持って。マナを支えてあげて。」
これまで、私にくれたやさしさを彼女にあげて。
そうしなければ、彼女は壊れてしまうよ。
自分が直面している現実に押しつぶされてしまうよ。
それを支えることができるのは、シンジ、あなただけなのだから。
だから…
「…」
シンジは黙ったまま、アスカを見て頷いた。
「そうか、日本に戻るか。」
コウイチのその言葉にマナは申し訳なさそうに答える。
リビングで親子3人は話し合っていた。
父親と母親が並んで座っている向かいあうようにマナが座っている。
まっすぐ父親の顔を見つめて、マナは告げる。
「ごめん、でもやっぱりここにいるよりも、日本に帰りたいの。」
マナの決意を肯定するように、大きく頷いて母親が答える。
その口調はいつもとまったく同じで優しさに包まれていた。
それは娘に対する無条件の優しさ。
「いいわよ。決めるのはマナ、あなたなのだから。」
「ありがと、お母さん。」
カオリはそっとマナを抱きしめる。
マナもカオリの胸で目を閉じる。
昨日カオリに抱きしめられた時には感じられなかった安堵を感じる。
それは、自分の本心を受け入れたためなのだろうか?
マナには自信がなかったが、そうであると信じたかった。
「しかし、悪いが私達はしばらくは日本に戻れないんだ。
だから、また碇に預かってもらうことになるな。」
その言葉に驚いた表情で、マナは父親を見つめる。
てっきり、二人共一緒に日本に帰ってくれるものだと思っていたから。
だから、素直にその思いを口にした。
「え?お父さん達一緒に帰らないの。」
「すまん、どうしてもこちらでやらなければならないことがあるんだ。」
父親の表情を見て、マナはしぶしぶ納得することにした。
どこか思いつめた、それでいて何か割り切ったような。
自分が何を言ったところで変わらないような気がしたから。
それに、何か自分に関係があることではないかと感じたから。
「そう…」
「今は詳しくは話せないけど、きっとあなたのためになることだから。」
母親も何かを決心しているような口調だった。
マナはそれが何なのかを知りたくなったが、今聞いても二人話してくれないだろう。
自分の命の事に関しても、ぎりぎりまで黙っていた二人だから。
でも、必要になったときは躊躇せずに教えてくれるだろう。
マナはそう思っていた。
家族だから。
それは無条件の信頼。
「…うん、わかった。私は先に日本に帰って待ってるね。」
そう、私たちは家族だから。
離れていても、心はいつも一つのはず。
姉さんも含めて4人はいつも一緒だから。
そのマナの思いに気づいてか、カオリはにっこりと笑顔でマナに告げた。
「どんなに離れていても、私達はマナのこと思っているから。」
「来なくても良かったのに。」
そっけない言葉。
でも、彼女が本心からそう言っているのではないことは、その表情からわかった。
彼女の顔に笑顔が浮かんでいたから。
だから、マナは微笑んでこう答えた。
「いいじゃない、今度はいつ会えるかわからないから。」
「意外と、すぐ会えるかもしれないわよ?」
くすりと笑みを浮かべて、アスカはそう答えた。
マナとアスカはしばらく黙ったまま見つめ合う。
まるで瞳で会話をしているように。
いや、実際二人は語り合っていたのだろう。
同じ男性を好きになった二人だから。
「…じゃあ。」
アスカはそれだけ告げた。
マナは頷き、彼女の背後に立っていた彼に頷いてみせる。
シンジがアスカに歩み寄る。
マナはくるりときびすを返すと、どこかに歩み去った。
おそらく気を利かせたのだろう。
滑走路を見下ろすことができる窓から、陽射しが差し込んできた。
それに合わせるように飛行機が一機、舞い降りてくる。
「今度は日本にはいつ帰ってくるの?」
「気が向いたとき。」
その答えに、シンジはくすりと笑みを漏らして答える。
「アスカらしいね。」
「そう?」
「そうだよ。」
二人とも笑顔でお互いを見つめる。
「ね…」
今度はアスカからシンジに話し掛ける。
「うん?」
「私はシンジのこと…忘れます。」
いきなりのその言葉にも、シンジは表向きは動揺にしたようには見えなかった。
あるいはその言葉を予測していたのかもしれない。
小さく頷いて見せる。
「…うん。」
「今度会った時には、他にいい人を見つけてるから。」
「うん。」
「だから、あなたも彼女のことだけ考えてあげて。」
「うん。」
そして、アスカは一歩シンジのもとに踏み出し、背を伸ばし…
その唇に軽く触れるキスをした…
ぱっと離れて、シンジを見るアスカ。
シンジもアスカをじっと見る。
そして、アスカは唇だけを動かして一言だけ告げた。
「さよなら。」
そしてアスカは、その場から立ち去る。
シンジは何も言わずに、その後姿を見送った。
「行っちゃったね…」
マナは空港のロビーでアスカが乗って降りていったエスカレーターを見つめて、
隣にいたシンジに告げる。
シンジは軽く頷いて見せた。
「そうだね…僕達もそろそろ日本に帰らないとね。」
「おじさまからそのことで何か話聞いた?」
マナはシンジの顔を覗きこみながら訊ねた。
しかし、シンジはこちらに来て、まだ父親には会ってさえもいなかった。
シンジは軽く首を振って答える。
「いや、何も聞いてないし、会ってもいないよ…」
マナはにっこりと微笑んで、シンジに告げた。
「私、またシンジの家にお世話になることになったから。」
「え?でも、おじさん達は…」
てっきり、マナと一緒に日本に戻ってくるとばかり思ってたんだけど。
だから、今まで見たいにずっと一緒いられなくなるなって。
でも、どうしてだろう?
「今年一杯はどうしても日本に帰って来れないんだって…」
「でも…」
どうしてなんだろう?
自分達の娘の命が、もう残り少ないかもしれないのに。
普通だったら一緒に暮らすはずだよね。
その疑問が顔に出たらしく、マナがにっこりと微笑んで告げる。
「大丈夫、父さん達は私のために何かしたいことがあるのよ。私はそう信じてるから。」
マナは何か確信しているらしい。
それは親子だからだろうか。
その絆を信じているからだろうか。
「そうだね…それにまだこれからいくらでも一緒に暮らしていけるよね。」
「うん。だから、またしばらくはお世話になります。」
マナは笑顔のままシンジにぺこりと頭をさげた。
あとがき
どもTIMEです。
お待たせしましたTime-Capsule第45話「帰るべき場所」です。
とゆーわけでハワイ編も今回で終了になります。
#はぁ、長かったですね。いろんな意味で。
このところ話的にかなり重かったので、ちょっと軽い目にしてみようと思いました。
ま、ずっと重い話だと書いてるほうも大変なので…
と言いながら、後半は重くなっちゃいましたが。
アスカもついにドイツに帰ってしまいます。
彼女の役目はこの連載ではほぼ終わりです。
あとは最後にちょこっと顔を出すくらいです。
いろいろあった二人ですが、結局それぞれの道を歩くことになりました。
さて次回は日本へ立つ空港からお話が始まります。
やっと日本に帰ってきた二人ですが、その二人をある集団がお迎えします。
それは…
では次回TimeCapsule第46話でお会いしましょう。