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私は笑っていないといけないの。
 
 

私が暗い顔してるとみんな心配するし、悲しそうな顔するから。
 
 

だから、私はいつも笑っていないといけないの。
 
 

そうすれば、みんなも笑ってくれるから。
 
 

私は、みんなが笑っている顔を見るのが大好きだから。
 
 

お父さんも、お母さんも、お姉さんも。
 
 

だから、私は笑わないといけないの。
 
 

どんなに辛くても、悲しくても、怖くても。
 
 

笑っていれば、みんなは安心してくれるから。
 
 

私に笑いかけてくれるから。
 
 

だから、私は…
 
 

私は…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Time Capsule
Written by TIME/01
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

少しづつ空が暗くなっていく。
先ほどまで空全体を真っ赤に染めていた太陽も、今は水平線に沈んでしまった。
その残光がまだ水平線近くを赤く染めていた。
僕は小さく息をついた。
それは何かを意図してではなく無意識の行動。
抱きしめている彼女の身体の感触。
鼻をくすぐる潮の香り。
打ち寄せる波の音。
それらが僕を包んでいた。
マナはじっと僕の胸に顔を埋め、彼女の問いに対する僕の答えを待っている。
ふと風の向きが変わって、彼女の髪の匂いがかすかに漂って来る。
これまでその匂いは、僕の心を落ち着かせてくれた。
でも、今は僕の思考をかき乱すだけだった。
僕達はどれくらいそうしていたのだろうか?
闇に包まれた空に明るい星が輝き始める頃。

「シンジ…」

マナはゆっくりと顔を上げて僕を見た。
その瞳は、いつもの彼女のそれよりも曇っているように見えた。
水銀灯が、僕達二人の周りに楕円の光の領域を作り始めている。
僕は彼女の顔を見つめながら、かすかに首を振った。
答えは決まっている。
そう…
どんなことがあろうとも、僕の答えは一つだけだった。
でも、それを今、ここでマナに告げた方が良いのか。
それがわからなかった。
自信がなかった。
少し。
そう…
少しだけ時間が欲しかった。
考える時間が。
何かを忘れているような気がしてならない僕の心を探る時間が。
それを探らなければならない。
僕の心はそう強く告げていた。
そしてそれを僕は受け入れることにした。
だから、僕はこう答えた。

「少しだけ、1日だけで良いから、時間が欲しい。」

その答えにマナは僕の顔を見つめたまま、小さくこくりと頷いた。
そして、ほっとしたような笑顔を浮かべる。
あるいは、僕がそう答えることを予想していたのだろうか?
彼女はすっと僕から離れ、両手を後ろで組んで、じっと僕の顔を見て尋ねてくる。

「1日…で、いいの?」

「うん、それで十分だよ。」

何日も答えを伸ばせることではない。
それはわかっていた。
本当は、今すぐにでも答える方が良いのかもしれない。
でも、今の僕にはそれができない。
だから、せめて1日だけは欲しい。
マナはこくりと頷いてみせる。

「わかった。」

「悪いけど、明日はずっと一人で考えたいんだ。」

僕達二人の間に風が吹き抜ける。
ふとその風は、以前の記憶を思いださせた。
マナが僕にさよならを告げた時のことを。
しかし、今はあの時とは違う。
そう思いたい。
僕とマナはお互いを理解しているはずだ。
そうでなければ…
彼女のスカートの裾が小さく舞った。
それにかまわず、彼女は僕に小さくうなずいて見せた。

「うん。」

彼女の顔を見る。
その表情には落胆は見えない。
そのことに僕は少しだけ安堵し、少しだけ不思議に思った。
でも、今は気にかけている時ではない。
それは後でゆっくり考えることができるから。

「明日の夜、連絡するよ。」

明日の夜まで。
それが僕が自分に課したタイムリミットだった。
それまでにこの気持ちの原因がわからなければ、それまで。
でも、不思議と僕はそれまでには原因がわかると思っていた。

「うん。」

僕はその彼女の表情を見て、さきほど感じた違和感をまた感じてしまう。
いったい、何なのだろう?
僕は不思議に思いながらも、なんとか表情に出さないようにした。
幸い、彼女はそれには気づかなかったようだ。

「ごめん、僕はもう少しここに残っていくよ。」

「そう…じゃあ、私は行くね。」

マナはこくりと頷いて、僕に背中を向け、歩み去ろうとする。
なぜかその背中を見て、僕は思わず声をかけてしまった。
僕の心の中に急に湧き出したもの。
それはなんとも説明できない感情だった。

「マナ!」

僕のその呼びかけに彼女は立ち止まり、振り向いて僕を見る。
振り向くときに髪がふわりと揺れる。

「ありがと。教えてくれて。」

口をついて出たのはそんな言葉。

「…うん。」

その時の彼女の表情。
嬉しそうな、悲しそうな。
それでいて、どこか思いつめたような。
僕はやはり何かの違和感を感じてしまう。
そして、彼女は立ち去った。
彼女の姿が見えなくなるまで見送った僕は、ベンチに腰掛けたまま、かすかに明るい水平線に視線を向けた。
なぜか、自分が落ち着いていることに気づき、苦笑してしまう。

「どうしてなのかな?まだ現実味がないよ。」

そう口に出してみる。
その言葉は打ち寄せる波の音に消えていった。
言葉に出してみても、あまり現実味がなかった。
そう…
あんな衝撃的な事を聞いたのに。
どうして、こんなに落ち着いているのかな?

すごくショックで、心がマヒしちゃってるのかな?
まだ、僕自身ちゃんと理解できていないのかな?
マナがこの世界から消えてしまう事に。
もうすぐ、僕の前からいなくなってしまう事に。
だから、時間が欲しかった?
結局、同じかもしれないけど、それでも、それを受け入れる時間を欲しかったのかな?


いや…
それだけじゃない…
何か、おかしいと思ったんだ。
心のどこかに引っかかるような違和感。
それが…
マナ…が、まるで…


そう…
ぼくの知らない誰かに見えたんだ。
まるでいつもの彼女じゃないみたいに…
見えたんだ…
だから、僕はそれが何を意味するのか考えなければならない。
そのための一日。
これからの一日はそのためにある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第44話
奇跡の価値は
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

まぶしい陽射しを反射して輝くビル群。
それは、この島の空の玄関口である空港のロビーだった。
この空港から世界各地に、またはハワイの他の島に多くの航空便が出ている。
その空港のロビーにいた二人は、今からどこかに出かけるのではなく、この島に到着したところだった。

「もう少し素直になれば良いのに…」

そう言うと、彼女はおかしそうにくすりと微笑んで、隣に立っている男性に視線を向ける。
その男性はハデなアロハシャツと短パンを身につけている。
さらに、オレンジのサングラスを身につけているため、怪しさ倍増である。
彼に気づいた日本人達がじろじろと視線を向けるが、彼は一向に気にしないで平然としている。

「何か言ったか?ユイ?」

その返答に、笑顔のままでその男性、ゲンドウを見るユイ。
彼女は見事に薄いグレーのスーツを着こなしていた。
そうであるから、隣にいるゲンドウが余計目立ってしまっている。

「だって、惣流さんとの打ち合わせでしょ。
いつもは日本に呼び寄せるくせに、わざわざあなたから出向くなんて、本心見え見えよ。」

彼女の言う通りである。
ゲンドウは定期的に開かれている進捗報告はいつも日本で聞いているが、今回はなぜかゲンドウ自らハワイに赴いている。
ユイが指摘する通り、ゲンドウにはかなり気になることがあった。
しかし、それを素直に認めるのは面白くない。
だから、ゲンドウはすました表情でこう答えた。

「何、今はアスカくんが傍にいるんだ、家族水入らずを邪魔するほど私は野暮ではないぞ。
それに奴の提案はこちらで相談した方が何かと都合が良いからな。」

もっともそうに聞こえるが、実は屁理屈である。
しかし、ゲンドウと付き合いの長いユイはそんなことには慣れていた。
軽くあしらって、ゲンドウの服装に文句をつけてみる。

「はいはい、そうでしたね…でも、その割にはそんな格好して。」

ゲンドウはそんなユイの指摘にも怯まず、堂々と答える。

「郷にいれば郷に従え。だ。何か問題があるのか?」

ユイはゲンドウの全身を見渡して、ため息交じりに答える。

「えぇ、かなり、ね。」

「そ、そうなのか…」

内心、かなりイケていると思っていただけに、大ショックなゲンドウだが、もちろん表情には出さない。
しかし、ユイにはバレているらしい。
このあたりも、ゲンドウと付き合いの長いユイならではである。
くすりとまた笑みを浮かべると、ゲンドウの腕をとる。

「さ、行きましょ。」

「う、うむ。」

腕を組まれただけなのに、頬を真っ赤にしてゲンドウは頷く。
この奇妙な組合わせの二人が立ち去るのを、その場にいた人達は奇異の目で見送った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「最後まで…か。」

窓際に立ち、星空を見上げるシンジは小さく呟く。
その呟きが聞こえたのか、ベッドに腰掛けていたアスカは首をかしげてシンジを見る。
部屋の中の照明は、弱々しい光を放っているベッドサイドの小さなライトだけだった。
この部屋はシンジの部屋で、夕食後、アスカはシンジに誘われてこの部屋を訪れていた。
ラナイに面した大きな窓はカーテンが開けられており、部屋の中から夜空が見えるようになっている。

「?…何か言った?」

アスカのその問いに、シンジは首を振って答える。

「なんでもない…よ。」

シンジはアスカに背中を向けており、その表情はアスカからは窺い知ることができない。
しかし、アスカには今、シンジが浮かべている表情がわかるような気がした。
この部屋にシンジが自分を誘ったのが、どうしてなのかうすうす勘付いていたから。
だから、アスカは話を自分から切り出すことにした。

「…で、何か話したいことがあるんじゃないの?」

アスカのその問いに、シンジはアスカに振り返り、手近な椅子に座った。
それはアスカが座っているベッドに向き合うように置かれている。
彼女に小さく頷いて見せて、シンジは話し始めたs。

「アスカは聞いてるよね?マナの身体のこと。」

アスカはどう答えようか迷ったが、シンジの瞳を見て、素直に話すことにした。
その瞳は、アスカがそのことを知っていると確信しているように見えたから。
シンジが知ってしまったのなら、それを否定する必要もないと、アスカは頷く。

「うん。聞いてる。」

「そう…」

そう答えて、シンジはため息をつく。
それきり二人は沈黙してしまう。
アスカはシンジが何か話を切り出すのではないかと、今度は待つことにした。
二人は向き合ったまま、しばらく時間を過ごした。
どれくらい時間がたったのだろうか、シンジがもう一度ため息をついて言葉を発する。

「正直、かなり混乱してるんだ。話を聞いてから、なるべくその事実を理解して、受け入れようとしたんだ。」

アスカは首をかしげて、シンジを見る。
シンジはアスカの髪がふわりと揺れる様子を見るともなしに見た。
ふと、アスカも髪伸びたね…とあまり意味のないことを考える。

「でも、ダメだった?」

シンジは瞳を閉じて小さく首を横に振る。

「理解はできたと思う、けど、受け入れられたかはわからない。
それは結局、僕の心のあり方次第だから。」

アスカはじっと、シンジの顔を見ていたが、にこりと微笑む。

「そうだね、それはシンジ自身の問題だから。」

そう告げたが、アスカは内心違うことを考えていた。
でもね…
シンジは分かっているよ。
ただ今はまだ…
そんな思いがふと浮かんだが、アスカはそれを言葉にはしなかった。
彼女自身どうすべきなのか迷ったから。
それは他の人から話されても、理解できるものではないから。

「確かに、それは僕自身の問題だから。」

そのアスカの答えにシンジはにっこりと微笑む。
そして、顔を上げてアスカの瞳を見る。

「でも、もう一つあるんだ…」

「何かあるの?」

「話をしていて、何か気になったんだ。」

「気になった?何を。」

アスカは怪訝そうな表情を浮かべて、シンジの次の言葉を待った。

「それが…」

そうつぶやき、シンジはうつむく。
何か適当な言葉を捜すように、考え込むがあきらめたように首を振る。

「うまく言葉にできないんだ。
それ以前に、僕自身もちゃんと分かっていない。」

「そう…シンジはマナと話していて、何か、違和感を感じたんだ。」

違和感。
それが何か、アスカには見当もつかなかった。
少なくとも、アスカはマナとこの話をした時には、特に違和感を感じなかった。
だから、それはシンジにしかわからないことだろう。
ずっとマナを見ていたシンジだけにしかわからない、ほんのわずかな違和感。
それがシンジの言っているものなのだろうとアスカは理解した。

「そう…引っかかったんだ。」

「それが、何かわからない。」

シンジは少しだけ苛立ちをその顔に浮かべて言った。
自分自身でもちゃんと理解できない違和感に対しての苛立ち。

「なんだろう?何かがおかしいと思った。でも、何に対してなのか…」

「…なるほど。」

アスカは腕を組んで頷いた。
これだけシンジが気にかけているということは、マナに何かの心の変化が現れているかもしれない。
確かに、あまりに彼女は自分の死を客観的に受け入れているような気がしたけど…
それがもしかしたら、関係するのかしら?

「マナは僕に最後までそばにいて欲しいと言ってくれた。
でも、僕は1日欲しいって答えたんだ。
自分自身まだマナの身体の事をちゃんと受け入れられていなかったし。」

その言葉をアスカが引きとる。

「その違和感が気になったから。」

「そう、それを無視してはいけないって、僕の心の中の何かが告げたんだ。」

「でも、それが何なのかわからない。」

アスカのその言葉に、シンジは首を振る。

「答えはすぐそこにあるような気がする。
でも、1日かけて分からなかったら、それ以上は時間をかけても無駄なような気がする。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

マナは自分の部屋でベッドの上に座り、壁にもたれていた。
部屋の中の明かりは落とされて、外からかすかに光が入ってくる。
ボリュームが絞られたラジオから現地放送が流れている。
ゆったりとしたアロハのメロディ。
開け放たれた窓からは、涼しげな湿った風が吹き込んでくる。
日没後にぱらぱらと降った通り雨のせいで、地面が濡れているためだった。
ドアがノックされ、母親のカオリの声が聞こえてくる。

「マナ、帰ってるの?」

「うん、帰ってるよ。」

マナは伏せていた顔を上げてドアに向かって答える。
その声の調子はいつもと変わらないもの。
それにカオリは少しだけ安心した。

「入って良い?」

「…うん。」

マナはそう答えながら、部屋の中の明かりをつける。
そして、ベッドを降りて窓を閉める。
ドアを開けてカオリが部屋に入って来た。
そして、マナの顔を見て話し掛ける。

「それで、シンジくんには話したの?」

マナは顔を上げてカオリを見た。
その表情には落胆はなかった。

「うん、話した。全部。」

「それで?」

首を傾げてカオリは訊ねる。
表情に変化はないが、内心かなり緊張していた。

「1日待って欲しいって。」

「…そう。」

答えながら、マナの表情を見る。
その表情はやはりいつもとは特に変わったように見えない。

「明日、連絡くれるって。」

「…」

カオリはそれに何も答えないで、マナに歩み寄ると、その体をやさしく抱いた。

「どうしたの?お母さん。」

マナがくすりと笑いながら、そう言った。
いとおしそうにその体を抱きしめてカオリは告げる。

「大丈夫?」

「うん、全然平気よ。なんとなくわかっていたの。すぐには返事もらえないんじゃないかって。」

そして、マナはカオリに寄り添うように体の力を抜いた。

「…だから、大丈夫。」

カオリは小さく息をつく。
それは違う。
この子はわかっているつもりになっているだけ。
本当の自分の心を知らない。
いや、それはこの子が悪いのではなく、私たちにも責任があるんだ。
その事実に向き合うことができなかった私たちにも。

アヤ…
この子を導いて。
このままでは、この子は壊れてしまう。
自分の本当の思いを隠しては生きていけない。
それを…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

アスカを見送ってからシンジは大きな背伸びをして、ベッドに倒れこむ。

「はぁ、何か疲れたな…でも、まだ考えないといけないことがあるんだけどな…」

命の期限。
定められた運命。
彼女の望み。
心の平穏を求める声。
自分の思い。
彼女の願い。
その事実を受け入れていない自分。
大切な人。
自分の全てをもって愛したい人。
隠された二人の願い。
幼なじみ。
最後の日に交わした約束。
封印された記憶。
全てから逃げ出した事実。
罪と罰。
犯した罪に対して与えられる罰。
光の道。
歩いていくべき道。
満面の笑み。
遥か昔に自分に向けられたもの。
名前を呼ぶ声。
いつでも会える親友。
心の…きずな。
 
 
 
 

彼女の存在。
 
 
 
 

シンジはいつの間にか眠っていた。
そして、聞こえる声。
聞きなれた声。
でも、ほんの少し前までは忘れていた声。
 

ねぇ、シンジちゃん…
 

ん、なんだい?
 

どうして、1日待って欲しいって言ったの?
 

うん…ちょっとね…
 

やっぱり、マナがいなくなっちゃうなんて、実感沸かないから?
 

そうだね、心のどこかで、なんとなく感じていた気はするんだけど、実際、その事実を突きつけられるとね。
何か、まだ自分の心の中で消化して納得していないし…
それは1日でどうなるものではないのかもしれないけど、それ以上待たせるのはね…
まぁ、それ以外にもちょっとあったし…ね。
 

何かあるの?
 

いや、マナ、どうして、あんなに冷静なのかなって…
まぁ、最後はちょっと泣いたけど…
 

おかしい?
 

おかしい?と聞かれると、なんとも言えないんだけど、何か、こう、違和感を感じた。
まるで、マナじゃないような…そんな感じを…ね。
 

そうね…
でも、あの子は昔からそうだったから。
 

何が?
 

あの子は昔から「死」と向き合って、生きてきたから。
マナの身体は、もともと成人するまでは持たないはずだったから。
あなたに会うまで、すぐそこに迫っている「死」をいつも見つめていたから。
でもあの子は私達を気遣って、いつも笑っていたの。
私達が悲しまないようにって。
私達も笑えるようにって。
 



そうか…


だからなのかな?

だから、僕は…
 

何か感じた?
 

うん…

 

言葉にできない?
 

そうだね…
多分…
心の壁…
とでも言えば良いのかな?
 

心の…壁?
 

そう…このことに関しては、マナは本心を、僕に見せてくれていないように感じたんだ。
だから、彼女の本心はもっと別のところにあるんじゃないかって。
そう感じたような気がする…はっきりしないんだけど…ね。
 

シンジと一緒にいたいっていうのは本当だと思うよ。
 


そうだね。
それは僕も疑っていない。
たぶん、マナ自身も気づいてないと思う。
マナは自分ではちゃんと決めた、決心したと思ってる。
でも、彼女自身が気づかない心の奥にそれは眠っているんだ。
おそらく、それが、今教えてくれたことなんじゃないかな?
ずっと死を見つめていたマナは、その心で感じていることを表に出さなかった。
そうしなければならないと思っていた。
じゃないと、みんなが悲しむから。
でも、それは自分で意識したものではなくて、だから、マナ自身はそれに気づいていないんじゃないかな?
 

そうね…そうかもしれない…
でも、他のみんなが気づかなかったことを、シンジは気づいたんだね。
 

そんなに大げさなことじゃないよ。
 

それで、シンジはどうしたいの?
 

そりゃ、彼女の本心を知りたいよ。
 

本心って、マナがあと数ヶ月の命しかないことをどう思っているか?
 

そうなるね。
 

でも、それを知ってどうするの?
その思いはマナ自身も気づいていないのかもしれない。
彼女が壊れそうな心を保つために、そうしていることなのかもしれない。
それを気づかせて、マナの心がそれに耐えられなかったら?
 

僕もそうだった。
僕も君のことを…
でも、僕は今ここにいる。
そして君と一緒にいる。
だから、マナも大丈夫だよ。
もし、万が一、マナの心がそれに耐えられない時は…
 

その時は?
 

僕が支えるよ。
ずっと、そばにいて、マナを守るよ。
 


 

マナは僕が守るから。
逃げちゃダメだって、教えてくれたのはマナとアスカなんだ。
だから、今度は僕がマナにお返しする番だと思うんだ。
 

…そうね、シンジの言う通りかもしれないわ。
逃げちゃ駄目だって…
 

ありがと、話せて良かった。
僕が何をおかしいと感じたのか、やっとわかった。
そして、僕が何をすれば良いのかもね。
 

…役に立てた?
 

うん、すごく。
 

よかった。
 

じゃあ、僕は行くね。
 

シンジ…マナを、妹をよろしくね。
 

あぁ、それじゃ、また。
 

うん…気をつけて。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

夜になってから海から拭く風が少し強くなったようで、ふいに吹き寄せた風に髪が舞った。
波が打ち寄せる砂浜に立つシンジ。
そして、夜空を見上げる。
小さな雲が、かなりの速さで夜空を横切っていく。
所々に植えられている椰子の木の葉が風でざわめいている。
シンジの背後に立つホテル群が放つ明かりで、足元はかすかに明るい。
背後を振り返ってみる。
遅い時間なのに、まだかなりの部屋の明かりが灯っている。

オーシャンビューも良いけど、マウンテンビューもそれはそれで良いみたいよ。

脳裏にそんな言葉が浮かぶ。
シンジはくすりと苦笑を浮かべて、首を振った。
どうして、そんなことが思い浮かんだのだろう?
他に思いつくべきことはたくさんあるだろうに…
ねぇ…

「元気そうね。」

その声にどきりとして、声のした方に慌てて振り向くシンジ。
視線の先には一人の女性が立っている。
シンジは首をふるふると振って、声をかける。

「母さん…だよね?」

その女性、シンジの母親である彼女はにっこりと微笑んでうなずく。

「そうよ。他の誰に見える?」

まじまじと目の前に立つユイを見て、驚きを隠さずシンジは訊ねる。

「どうしてここに?」

ユイは小さく肩をすくめて見せた。
シンジを良く知っている者なら、そのしぐさがシンジにそっくりだと思っただろう。
実際はシンジがユイのしぐさを見て自然と覚えたものだが。

「まぁ、いろいろあってね。
こっちに来たから、可愛い息子の顔を見に来たのだけれど…」

ユイはちらりとホテルに視線を向けてから、シンジに視線を戻す。

「浜辺にそのかわいい息子を見つけたから。」

「なるほど、いろいろね…」

そして、上目がちにユイを見上げる。

「父さんも…でしょ?」

「そうよ。仕事関係でこっちに来ているから。」

「仕事?」

「急に決まってね。連絡しようと思ったのだけど、時間が無くて…」

腕を組んで、考え込むようにうつむくシンジ。

「ふうん…それで?」

「別に、それだけよ。さっきも言ったでしょ?
可愛い息子の、その後の様子を知りたくてね。
あなた全然連絡してくれなかったじゃない…」

「う、それはこっちもいろいろあって…」

シンジはそう告げると視線を海に向けた。
波頭が弱々しい月の光にきらりと輝く。
シンジの口調と表情を見て、ユイは大きくため息をついた。
そして、シンジの顔を見つめて尋ねる。

「聞いたのね…」

その言葉にシンジはユイの視線を受け止めて小さく頷いた。

「うん、聞いたよ。」

探るような表情を浮かべて、ユイの表情を伺いながらシンジは告げた。

「母さん達は、そのこと全部知っていたの?」

ゲンドウもユイもマナの体のことを知った上で引き取ったという事実。
その視線、その口調で、シンジはもうそれに気づいているとユイは悟った。
もう、隠す必要はないとユイは思ったから小さくうなずいて見せる。

「ええ、知っていたわ。最初から。
もともとマナちゃんを、私たちが預かることになった理由ですから。
でもまだその当時、マナちゃん自身には話していなかったのだけど。」

シンジは小さくため息をついて、頷く。

「なるほど…そうだったんだ。」

「ごめんなさい。でも、あなたに話すわけにはいかなかったから。」

「ううん。それは仕方の無いことだと思うよ。」

確かに、その当時の僕は全てを忘れていた。
そんな状態の僕に、話してもいい事はなかっただろう。
そう考えながら、また視線を海に向けるシンジ。
ユイは黙って、シンジの横顔を見つめる。
いつのまにか、この子もこんな表情をするようになったわね…
そんな思いが心をかすめる。

「実感沸かなくてさ…
理解はしているつもりなんだけど…
まだ、納得していないのかな?
あまり悲しくないんだよ。
心が痛くないんだよ。
その事実は理解しているんだ。
でも、何か…変なんだ。」

そう告げるシンジの表情を興味深げに観察し、ユイはにっこりと微笑むと、シンジの頭に手を置いた。
先ほどの思いを撤回しながら。

「大丈夫よ。シンジはちゃんと分かっているわ。」

そして、頭をなでなでする。
それはまだシンジが小さい頃、シンジを誉める時にユイがよくしていたことだった。
シンジは顔を伏せ、されるがままにしていたが、くすりと笑みを漏らし小さく呟く。

「そうなのかな?」

「そうよ。今はちょっと混乱しているだけ。誰でもそうよ。」

「ホントに?」

また上目がちにユイを見上げるシンジ。
そのしぐさにユイは懐かしさを感じた。
シンジがこうやって私の顔を見るのって、どれくらい久しぶりかしら?
そんな思いに自然と笑みが大きくなる。

「ええ、今まで母さんが間違ったこと言ったことある?」

そう自身ありげに答えるユイを見て、シンジはふるふると首を振る。

「…ない。」

「でしょ?」

「うん…」

その答えにユイは大きく頷くと、シンジの頭に置いた手を離した。

「じゃあ、母さんは行くね。」

「…もう?」

「かわいい息子の顔も見れたしね。あまり父さんを放っておくと、スネちゃうから。」

その言葉に少しだけ緊張した表情を解き、シンジも苦笑を浮かべる。

「そうだね、父さんにちくちくいじめられるのは嫌だし。
あとひとつだけ言っておきたいことがあるんだけど。」

「なあに?」

ユイは首をかしげてシンジをみる。

「かわいい息子って言うのやめてくれないかな?
こう、何か子ども扱いされてるみたいだから。」

「あら、そんな風に聞こえる?」

「うん。なんとなく。」

「そうね、もうかわいいって言えないわね。」

ユイはそう呟くと、なんとなく寂しそうな表情を浮かべた。
シンジは黙ったまま、ユイの顔を見つめた。

「ふふふ、それじゃ、ね。」

ひらひらと手を振って立ち去ろうとするユイの背中に、もう一つ聞こうと思って忘れていたことを訊ねるシンジ。

「母さん達はいつまでこっちにいるの?」

立ち止まり、シンジに振りかえってユイは答えた。

「さぁ、まだはっきりしていないけど、3,4日はこちらにいるわ。」

「わかった。」

「じゃあ、おやすみなさい。」

「おやすみなさい。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 

しかし、一体どういう風の吹き回しだ?
 

何がだ?
 

お前自らが、出向いて来るとはな。
 

アスカくんが今こちらに来ているだろう?
それなのに貴様をこちらに呼ぶわけにはいかんよ。
たまにはお前も親らしいことをした方が良いぞ。
 

それはそれは、お気使い感謝する。
で、本当のところは何だ?
 

わかっているだろう。アレを使うのか?
 

霧島から聞いたのか?
 

あぁ、しかし、アレはまだ研究段階だ。
使うには早すぎる。
 

しかし、我々は彼らに大きな借りがある。
彼らから娘さんを奪ったという借りがな。
 

「そのもの」ではない、「思考パターン」だけだ。
アレのテストタイプには彼女が一番適合していた。
それにあれは霧島自身も願ったことだ。
例え思考パターンだけだとしても、彼女は存在してゆけるのだから。
だが、それは人格ではない。
彼女そのものではないのだ。
 

しかし、だからこそ、我々は今その借りを返さなければならない。
そうは思わないか?碇。
 

それは…
 

可能性がある限り、それにかけるべきではないのか?
今、一つの命が失われようとしているのを黙って見ているのか?
それでは、我々の研究はどうなる?
その存在意義を失ってしまうぞ。
 


 

考えて欲しい。
もう、残されているのはこれしかないんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

自分の部屋の階でエレベータを降り、シンジは大きく背伸びをする。
驚いたな、まさか母さんと父さんがこっちにきているだなんて。
でも、二人が泊まっているホテルとか聞くの忘れてた。

まぁ、いいか。
用事があれば向こうから会いに来るだろうし…
部屋の前に来て、カードロックを使って部屋の鍵を開ける。
そして、中に入ると…

「おかえりなさい。」

リビングチェアに座って本を読んでいたアスカが、顔を上げてシンジを見る。

「あれ?どうして?」

シンジのその言葉にアスカはにっこりと微笑んで答える。

「ホテルの人に頼んで開けてもらったの。
だって、電話したのに、出ないから心配になって…」

くすくす笑いながらシンジは訊ねる。

「その割にはくつろいでいるみたいだけど?」

「ラナイに出たら下の砂浜で、シンジがユイおばさまと話しているの見えたから。」

「見てたの?」

シンジは苦笑を浮かべてベッドに座る。

「うん、パパから二人が来てるって話を聞いて、シンジに教えてあげようって電話したら出なくて…」

「なるほど、それで心配になったと。」

アスカは少し頬を赤くしながら小さく頷いた。
シンジは大きく背伸びをしてそのままベッドに倒れる。

「仕事関係で急に出張になったんだって。」

アスカはその「仕事関係」が何を意味するのかを知っていたが、それをあえて教えようとはしなかった。
それはシンジ達が知る必要はないから。
できれば最後まで知らなければ良いとも思った。
ゆっくりと立ち上がり、シンジの寝ているベッドに歩み寄るアスカ。

「そう…」

その声が思ったよりも声が近かったので、シンジは目を開けた。
アスカが傍まで来ており、シンジが寝ているベッドサイドに座っていた。

「どしたの?」

何気なくそう訊ねるシンジ。
しかし、アスカは少しだけ首をかしげて、視線を窓に向ける。
シンジはそんなアスカの横顔をじっと見つめる。
と、アスカは何かを思いついたようで、シンジを見てこう告げた。

「ね、少しだけ目を閉じていてくれる?」

「へ、どしたの?」

「いいから。私が良いって言うまで目を閉じていて、ね?」

訳が分からなかったが、シンジはとりあえず、言われた通りにすることにした。

「はい、閉じたよ。」

「よろしい。」

と、シンジはわずかにベッドが沈む感触を感じた。
アスカがベッドの上を移動しているようだ。
何、やっているのだろ?

「いいわよ。」

その言葉に目を開けるシンジ。
と、自分の顔を頭上から覗きこんでいるアスカの顔があった。
そして、アスカは笑顔でこう告げた。

「膝枕してあげる。」

「へ?」

と、シンジの頭が抱えられ、後頭部に柔らかい何かを感じる。
シンジは慌てて、頭を動かそうとするが、アスカががっしりと頭を掴んで動けない。

「ちょ、ど、どうしたの?」

「なんでもないわよ。私がこうしたいだけ。」

「え?」

「いいから。ありがたく膝枕されなさい!」

そして、アスカはシンジの髪を撫でるように触れる。
抵抗を諦め、シンジはアスカの瞳をじっと見つめる。

「どうしたの?じっと見ちゃって。」

アスカがくすりと笑ってやさしくそう告げる。

「アスカ、何か変。」

そのシンジの言葉にぷっと頬を膨らませてシンジを睨むアスカ。
かなり可愛らしい。
シンジはそのしぐさにどきりとしてしまった。

「変ってことはないでしょ?」

「だって、どうして?」

「なんとなくよ。なんとなく。」

「もう…」

自分勝手なんだから。という言葉を飲みこむシンジ。
髪を撫でながらアスカはどこか嬉しそうに、口元に小さなやさしげな笑みを浮かべている。
でも、こうしてもらうとなぜか落ち着くな。
どうしてだろう?

小さいころはよく母さんにこんな風に髪を撫でてもらってたっけ。
さっきもそうだったけど…
すごく気持ち良くって、すぐ寝ちゃうんだよね。
以前母さんが、僕を寝かせるのに、全然手間がかからなかったって言ってたっけ。


はぁ…
気持ち良いな。


何か、ほっとしちゃったな。


もしかして、すごく緊張していたのかな?
何か、余計な力が抜けていく感じがする。
すごく、すごく良い気分になってきたような。

「ねぇ、シンジ。」

アスカがやさしくシンジの髪をなでながら、囁く。
シンジは顔を少しだけ上げてアスカを見る。
アスカの瞳がきらりと何かの光を映したように見えた。

「指輪。右手にしてるのね?」

「あ、そうだね…ちょっと照れくさくって。」

シンジは右手を上げると、その薬指につけている指輪を見る。
細かな彫りこみが部屋の明かりを映してきらきら光っていた。

「マナは左手につけてたよ。」

少し、からかうような口調でアスカはシンジの指輪に視線を向ける。
その言葉に、シンジの頬が少しだけ赤く染まる。

「…それで、少しでもマナの気が休まるならいいかなって。」

アスカはくすりと笑みを漏らして、視線をシンジの顔を見る。

「シンジ、やさしいね。」

「そんなこと…ないよ。」

シンジは少し苦しそうな表情を浮かべながら答える。
自分がやさしい人間なんて思ったことはない。
今まで嫌なことから逃げてきた人間だから。
自分に甘い人間だから。
しかし、アスカは首を振って告げる。

「ううん。シンジはやさしいよ。だって、シンジは心の痛みを知っているから。」

「そうかな…」

でも、君の思いを知っていながらも受け入れず、それなのに、こうして君に甘えている。
そんな人間がやさしい人間だと君は言うの?
それに、まだマナのことだって、ちゃんと受け入れられてない。

「ねぇ、マナと初めて会った時のこと、まだ覚えてる?」

ふいにアスカは話題を変えた。
シンジは不思議に思いながらも答えを返す。

「うん。覚えているよ。」

それはまだ二人が幼かった時。

「まだ、何も知らない僕は、元気な女の子だなぁって思った。
すごく明るくて、いつもにこにこ笑っていた。」

「すぐに彼女を好きになった?」

「う〜ん。友達としてはすぐに好きになったよ。」

最初は特別な感情は抱かなかった。
そういう意味ではレイもマナも同じくらい好きだった。
その感情がいつから変わったのか…

「でも、いつの間にかマナは僕にとって特別になったんだ。」

「その頃のマナって体が弱かったんだよね。」

アスカが首を傾げてみせる。
しかし、シンジにはそのしぐさは目に入っていなかった。
天井をぼんやりと見つめ、過去の記憶を探っていた。

「うん。僕はアヤちゃんから聞かされるまでは全然気づかなかったけど。
夏は調子が良いんだって。わざわざそのために、すごしやすいところに住んでいたから。」

「体が弱かったことが、今回の原因になってるの?」

アスカはその辺りの事情を知ってはいたが、あえてシンジに尋ねる。
シンジがマナのことをじっくり考えられるように。
そして、全てを受け入れられるようにするために。

「ううん。違う…とは言えないか…直接的な原因ではないけど、遠因ではあるね。」

そう。
マナが体が弱くなければ…
何も起こらなかった。
シンジの胸がきりきりと痛む。
そう…僕がマナのお見舞いに行って、アヤちゃんを失うことも。
でも、それはマナのせいじゃない。
マナだって、体が弱いことを望んでいたわけじゃない。
だから…

「体悪いって聞いて、その時どう思った?」

「どう…って…」

シンジは言いよどむ。
自分の心を探るように瞳を閉じて、息をつく。
アスカはそんなシンジの思考を邪魔しないように、髪を撫でていた手を止める。

「やっぱり…守ってあげなきゃって思った。
僕は男だし、父さんからも男は女を守らないといけないって言われてたから。」

「だから、マナがシンジにとって特別になったの?」

シンジはゆっくりと言葉をつむぐ。
その言葉を吟味するように。

「そう…なのかな?でも、それだけじゃない…と思う。」

「じゃあ、他に何かあったの?」

アスカはやさしい口調でシンジに声をかける。
先ほどから、終始アスカはその口調だった。
シンジがマナの体の事実を受け入れられるように。
アスカには今のシンジに何が必要なのかわかっていたから。
その証拠に先ほどからシンジの表情に少しづつ変化が現れていた。

「義務でもない、同情でもない。
僕はマナ自身に引かれはじめていたんだ。
だから、守らなければという義務感だけじゃないよ。」

少し恥ずかしそうにはにかみながら、シンジはそうきっぱりと告げた。
シンジ自身はまだ気づいていないようだが、はっきりとそのシンジに変化が現れた。

「そうなんだ。」

そう告げて、アスカはシンジの顔をまじまじと見つめた。
どうやら、シンジは全てを受け入れられたらしい。
アスカはそう感じ、それをシンジに告げることにした。

「辛いでしょ?」

シンジは一瞬、その言葉の意味を測り兼ねたが、すぐに何を意味しているのかわかった。
マナが自分の前からいなくなってしまうこと。
それを指しているのだと。
しかし、今のシンジにはそれがわからない。
まるで心が麻痺しているように感じた。
それは今のシンジの本心だったので、首をゆっくりと左右に振って答える。

「まだ、わからない…よ。」

そのシンジの答えを聞いて、しかし、アスカはやさしくシンジの目尻に触れる。
そして、その指についたものをシンジに見せて訊ねる。

「じゃあ、これは何?」

アスカの指先をまじまじと見つめてシンジは驚いた。
どうして、そんなところにそんなものがあるのか、心底驚いていた。

「これは…」

それは涙だった。
シンジは自分が泣いていることにまったく気がついてなかった。
そして、自分が気づいていなかったこと事態に驚いていた。
アスカをまじまじと見つめ、シンジは呟いた。

「どうして?」

「それはね、シンジが自分の心を押さえつけていたから。」

アスカの声はシンジを諭すようにやさしかった。
しかし、シンジにはどうしてもアスカの言っていることが信じられないようだった。
自分の心と体が別々に動いているように感じてしまっていたから。

「そんなことは…」

「でも、シンジの心はね泣いていたの。辛い、苦しいって。」

「でも、僕は…」

「気が張っていたのよね。
それで、何も感じないように思っただけ。
本当はシンジの心はそれを感じていたの。」

「…ぼ…く…は。」

胸が詰まり、シンジは何も言えなくなった。
僕は…
わかっていたのか?
ちゃんと自分の心で理解していたのか?
先ほどの砂浜でのユイとの会話を思い出す。

「大丈夫よ。シンジはちゃんと分かっているわ。」

そうなのかな?
僕は自分の心を抑えていたのかな?
アスカはやさしくシンジの髪をまた撫で始めた。

「何も気にしないで、自分の心に素直になって。」

「僕…は、僕は。」

シンジから嗚咽が漏れ始める。
胸が痛い。
苦しい。
まるで押さえつけられているよう。
うまく息ができないよ。
どうして?
どうして?
アスカはやさしく髪を撫でつづける。

マナ…
どうして?
どうしてなの?
僕を置いて行ってしまうの?
一人にしないで。
僕はもう一人では歩いて行けないよ。
どうすればいいの?
一人にされたら…
僕は、どう歩いていけば良いの?
君がいてくれないと、ぼくはもう…
もう…
ねぇ、もう駄目なの?
もしかしたらって思うこともダメなの?
何も起こらないの?

ひどいよ。
やっと、やっと僕の思いを伝えたのに。
全てはこれからなのに。
それなのに、君は…
僕の前からいなくなってしまうの…
 
 
 
 

「シンジ、決めるのはシンジよ。自分に命令できるのは自分だけよ。」
 
 
 

その言葉がシンジの心に染み込んでゆく。
 
 
 
 
 
 

僕は…
僕は…
認めたくない。
信じたくない。
この世界に絶対なんてことはない。
誰がどう言おうと、僕が違うと思えばそれは僕にとっての真実になるんだ。
僕は、マナがこの世界から消えてしまうなんて信じない。
何か方法があるはずだ。
世界中の皆がそう言っても、僕は認めない。
信じたい。
マナと一緒に生きる未来があることを。
だから、僕はそれを信じて生きるだけ。
マナにもそれを知って欲しい。
決めるのは自分だと。
自分が信じれば、どんなことだってかなうんだと。
そのために僕は…
 
 
 
 
 

どれくらい時間が過ぎたのだろうか、シンジがゆっくりとため息をついた。
そして、眼を隠すように添えていた腕を下げる。

「…ありがと、アスカ。」

その声にアスカは軽く首を傾げてみせる。
強引に膝枕してくれたのは、僕のこと心配してくれたからだよね。
そう思ったシンジはアスカの真意を確かめようと口を開く。

「ねぇ…」

「なあに?」

しかしアスカのその声に、シンジは何も告げられなくなった。
なぜか、胸が詰まって、何も声が出なくなった。
どうしてかな?
僕にどうしてこんなにやさしくしてくれるのかな?
だって、僕はアスカではなく、マナを選んでしまったのに。
こんなことしてもらう価値なんて無いのに。
それなのに…
シンジが浮かべている表情から、告げようとしたことを悟ったようにアスカは軽く頷いて答える。

「私はシンジを好きだから。それだけだよ。」

そして、アスカは小さな笑みを浮かべた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

そして夜は過ぎてゆく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

波の音…
 

木々のざわめき…
 

鳥たちの鳴き声…
 

車の排気音…
 

人ごみのざわめき…
 
 
 

そして…
 
 
 

あなたは何を見ているの?
 

私は真実を見つめているの。
 

あなたは真実を見つめている?
 

もちろん。
真実は変えられない。
それを受け入れるしかない。
 

あなたはあきらめていない?
しっかり生きていこうとしている?
 

あきらめずに生きていこうとしていたよ。
でも、もう遅いの…
もう、私の命は…
 

あなたの真実って何?
 

私の身体があと半年ほどしか持たないこと。
 

あなたの真実はそれなの?
 

そう…
もうどうしようもない。
変えようがない真実。
 

それは真実なの?
 

そう。それは真実なの。
 

あなたはいつまでそうしているつもり?
 

いつまで…いつまでなんだろう?
でも、それもあと半年で終わる。
 

自分の心を偽ったままで残りの時間を過ごすの?
 

偽っていない。
これが私の心。
嘘偽りない本心。
 

見えているの?
自分自身の心を。
思いを。
願いを。
望みを。
希望を。
そして、絶望を。
 

見えているわ。
だから、私は…
私は…
わたし…は…
 
 











シンジ…





誰?
 
 
 

シン…ジ…
 
 

僕を呼ぶのは…

シンジ…
 
 

誰?
 
 
 

おねがい…
 
 

そんな悲しい声で…

私を…
 
 

どうしたの?
 
 
 

私は…
 
 

ちゃんと話してよ。
 
 
 

話してくれなきゃ分からないよ。
 
 

ねぇ…
 
 
 

お願いだから…
 
 
 

ねぇ…
 
 
 

たすけて…
 
 
 
 
 

誰なの?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ふとシンジは目を覚ました。
少し頭が痛む。
その頭に響かないように、ゆっくりと体を起こす。
窓からは薄く明るくなった空が見える。
もうすぐ日の出なのだろうか?
もう一度頭を振る。
時計を見ると、5時半を指していた。
なんだろ?
誰かが僕を呼んでいたような気がする。
どこから?

シンジはふと思い立ち、ベッドを下りて、ラナイに出る。
そう…
あの声は…

ゆっくりと眼下に視線を向ける。
そこには、道路と誰もいない砂浜、そして海が広がっているはずだった。
しかし、彼の予想に反して、砂浜に人影があった。
あれは…
もしかして…
シンジはその人影が誰なのか悟ると、慌てて部屋の中に戻る。
シャツを掴み、ジーンズを身につけて、シンジは部屋から飛び出した。
 
 
 
 
 
 
 

私はいつまでこうやっていれば良いのだろう?
みんなのために平気な顔をして、笑って見せて。
一ヶ月?
一年?
十年?

そうよね。
私はあと半年で死んじゃうんだものね。
それだったら、別にもう笑っていなくても…
平気な顔しなくても…
良いんじゃないのかな?
こんな思い。

いや…
こんな絶望、いつまでも耐えられないよ。
だったら…
いっそのこと…


誰か…


誰か、助けて。


このままじゃ、私…
私…
 
 
 
 
 

明るくなってゆく空。
そこには欠けた白い月が輝いている。
もう少しで日が昇る。
まだいくつかの明るい星は輝きを放っている。
彼女はゆっくりと砂浜を歩いてゆく。
履いているサンダルを砂に埋もれさせながら。
そして、波打ち際までやって来くる彼女。
しかし立ち止まらずに、そのまま海に入っていく。
三歩ほど海に入ったところで、背後から声が降りかかった。
彼女のくるぶし辺りを波が濡らしている。
足を洗っている波は思っていたよりも冷たくなかった。

「マナ!」

彼女の耳に響いた声。
その声は彼女が良く知っている声。
ずっと聞いていたいと思っている声。

「シンジ…」

ゆっくりとシンジの方に振りかえるマナ。
マナはマリンブルーのワンピース姿だった。
同じくマリンブルーのリボンで髪を軽くまとめている。
まるで、この海の色のようだとシンジは思った。
しかし、その思いをゆっくり噛みしめている余裕はなかった。

「シンジ…」

「マナ…ごめん、気づくのが遅くて。」

マナは泣いていた。
涙が頬を伝って、海に落ちていく。
それは打ち寄せた波に混じってゆく。

「どうして?」

マナのその問いにシンジは首を傾げてみせる。

「どうしてここにいるのか?それとも、どうして僕が謝っているのか?」

「両方。」

シンジはゆっくりとマナに歩み寄る。
まだ二人の距離は10メートルほどあった。
マナのつけた足音を追うようにシンジの足跡が続いてゆく。
まるで、その時のマナの思いを追うように。

「どうしてここにいるのか。の方なんだけど、誰かが僕を呼んでいるような夢を見て、それで目がさめちゃったんだ。
で、何気なく外を見てみたら、君がいたから驚いてここに来たって訳。」

その言葉にマナは驚いたようだ。
まじまじとシンジを見つめる。
それは当然かもしれない。
ある意味、それは奇跡のようなものだったから。
まるで誰かに仕組まれていような、でも誰も仕組んでいない事実。

「で、謝った方だけど。
昨日、すごく気になったことがあったんだ。
君の表情を見て、何かおかしいって。」

マナは首をかしげてシンジを見る。
その理由を図りかねるような表情。
いつの間にかマナの瞳からこぼれていた涙は止まっている。

「おかしい?」

シンジが軽く頷いて、さらに何歩分か距離を詰める。
まだ二人の距離は数メートル以上ある。
しかし、今のシンジにはその距離はあってなきがごとく感じられていた。
それはマナの心を掴んでいると感じていたから。
マナの心を知っているから、今のシンジには物理的な距離は関係なかった。
心の距離はまったくなかったから。

「そう、何かを隠しているような、そんな気がした。
今、君を見て気づいたんだけど、あの時もそう感じたんだ。
君が僕の前からいなくなる直前に君を見た時。」

浜風がマナのスカートの裾を舞わせる。
ほんの少しだけ打ち寄せた波で裾が濡れた。
しかし、それにシンジもマナも気づかない。
お互いをしっかりを見て、そこから視線をはずさない。

「無理してたんだね。
君は納得なんてしていない。
受け入れてもいない。
ただ、心の奥底に沈めただけなんだ。
その事実を。
そして、考えないことにしたんだ。
僕たちに笑顔を見せるために。
それは、僕と同じだね。
あの時の…僕…と。
僕は笑うためにではなかったけど…」

シンジはさらに数歩詰め、波打ち際までやってきた。
マナまではあと数歩のところ。
しかし、マナは少し身構えるように少しだけシンジから離れようとする。

「何を言っているのか…私には。」

その言葉にシンジは大きく一歩足を踏み出す。
打ち寄せた波を踏みつけるような一歩。
マナはさらに離れようとするが、シンジが一瞬早く、最後の数歩の距離を詰めてマナを抱きしめる。
一つに重なった薄い影が波の上でゆらゆらと揺れていた。

「何を…」

抱きしめられて、マナは顔を上げる。
シンジはマナを見つめて告げる。
そのまっすぐな視線はマナを捕らえて放さなかった。

「僕はマナを愛してるよ。」

思わぬ言葉に目を見開きシンジを見つめるマナ。
シンジは先ほどと同じように表情を変えないでマナの視線を受け止める。

「な?」

「だから、僕には隠さないで。その心を。マナは一人じゃないんだ。
僕がそばにいるよ、ずっとそばにいるよ。」

そう告げて、シンジは涙に濡れるマナの瞳をじっと見つめる。
その奥に隠れている本当のマナの思いを探したくて。

「シン…ジ…」

マナの声が震える。
身体も震えているようだ。
シンジはこれまでよりも少しだけ強く、マナの身体を抱きしめる。
そうすると、マナの身体の震えが消えて行った。
シンジはマナの瞳を見つめたままこう告げた。

「逃げちゃダメだよ。」

その言葉を聞いたマナがまた目を見開く。
シンジはその一瞬、その瞳にマナの思いを見た。
それは途方もなく大きな悲しみであり、苦しみであり、寂しさであり、
それ以外にも多くのさまざまな感情を秘めた嵐のような彼女の思いだった。

「どうして…?」

マナが小さくそうつぶやく。
そして、今度ははっきりとシンジに言った。

「どうして…?」

シンジはやさしい表情と声で答える。

「僕もそうだったから…それに僕はずっとマナを見ていたから。」

その言葉にマナの瞳から涙がこぼれる。
ゆっくりとマナは言葉を紡ぎ出す。

「ごめん…なさい…私、すごく怖かった。
まさか、またこんな思い…を。」

マナはシンジの胸に顔を埋める。
そして、最初は小さな声で、やがて叫ぶように声を上げる。

私…まだ死にたくない。
生きていたい。
死にたくない。
死にたくないよ。
みんなとだって別れたくない。
お父さん、お母さん、おじさま、おばさま。
アスカ、洞木さん、鈴原くん、相田くん…
みんな、みんな私の大切な人達だから。
友達だから。
離れたくない。
消えたくないよ。
さよならなんて嫌だよ。
もっと一緒にいたいよ。
ヒカリちゃんと一緒にお菓子作りたいよ。
アスカと一緒にお買い物行く約束してるし。
鈴原くんと相田くん達と一緒に遊びに行く約束だってしてるし、
まだケーキがすっごくおいしいお店も連れて行ってもらってない。
見たい映画だってあるし、ドラマだってみたいのあるし、
それに…
それに…
あなたをずっと好きでいたい。
誰よりもあなたを好きでいたい。
ずっとあなたのそばにいたい。
あなたを見ていたい。
あたなとの思い出がもっともっと欲しいよ。
もっと、もっと生きていたいよ…」

それは、マナの本心。
これまで、告げたくて告げられなかった言葉。
真実の言葉。
くず折れそうになるマナの身体をしっかりと抱きとめるシンジ。
マナの耳元に顔を寄せ小さく呟く。

「まだ時間はあるよ。」

その言葉にマナはゆっくりと顔を上げる。
シンジはいつもの笑顔で、マナに微笑みかけながら告げた。
そして軽い調子で告げる。
それは、二人でちょっと散歩に行かないか?と誘いかけているように。

「一緒に帰ろう?
そしてまた始めよう。
残された時間、これまでのように過ごそうよ?
やりたいことがあるんだったら、やればいいじゃないか?
それにまだ、諦める必要はないよ。
この世界に絶対なんて事はないんだから。」

マナはまるでシンジの言葉を信じられないといったように、ふるふると首を振って答える。

「だって、お医者様も、ダメだって…
お父さんもお母さんも諦めかけてるのに…」

それでもシンジは力強く答えた。
まるで、マナに勇気を与えようとするかのように。

「僕は諦めないよ。
何があっても、くじけないよ。
誰が何と言おうと、僕は諦めない。
誰にも未来を決める権利はない。
あくまで確率でしかないのなら、1%の確率も実現するんだから。
僕達は信じて進めばいいんだよ。
だから、マナも諦めないで。」

「でも、それは奇跡を待つようなものだよ。」

くすりと笑ってシンジは告げる。

「奇跡は起こしてこそ価値があるものなんだよ…
ある人に言われた言葉だけどね。
僕もそう思うよ。
待っているんじゃなくって、自分から行動しないと。」

シンジの言葉を確かめるように口に出してみるマナ。

「起こしてこそ…価値がある?」

「そう、だから、諦めないで、僕がずっと一緒にいるから、諦めないで。」

マナは一度視線をシンジから逸らせる。
宙を舞う視線。
その間シンジは黙ったまま、そんなマナを見つめる。
結局、これを決めるのはマナ自身。
僕はマナが選んだ道を一緒に歩いていくだけ。
どちらを選ぼうとも…
しばらくして、小さく息をついた後、シンジを見るマナ。
その時浮かべていた笑顔は、その後ずっとシンジの記憶に残った。

「そうよね…誰もこれから先のことなんて分からないよね。」

「そうだよ。だから、一緒に行こう?」

ゆっくりと頷き、マナは小さな声で告げた。

「私…シンジを好きになって良かった。」

その言葉を聞き取ろうとしたシンジが顔を寄せる。
マナはすっと顔を寄せて、シンジにキスをした。
 
 
 
 
 


NEXT
ver.-1.00 2001!03/15公開
ご意見・ご感想は sugimori@muj.biglobe.ne.jp まで!!


あとがき

どもTIMEです。
TimeCapsule第44話「奇跡の価値は」です。

今回もお待たせしました。
最近同じ事ばかり言ってるような気がしますねぇ。
ただ今後、数話は間をおかずに公開できそうです。

さて、今話では前話でシンジが気にしていた、マナに感じた「何か」を突き詰めています。
またシンジ自身もマナの体のことを受け入れるために、いろいろと苦労してますね。

前回、いろいろと迷った挙句、シンジに全てを話すことにしたマナですが、
実はまだ彼女自身気づいていない思いがありました。
それがシンジが気になった「何か」に繋がってゆきます。
またこれまで、「マナがあっさりと自分の体のこと受け入れてないですか?」
的な質問をもらっていたのですが、その理由にもなります。

さて、次回は舞台は変わらず、シンジとマナの二人きりの浜辺から続きます。
その後に起こったハプニングはとんでもない状況にシンジを追い込みます。
そのとんでもない状況とは?

では次回TimeCapsule第45話でお会いしましょう。
#このところ重かったので次回はちょっとラブコメです。お楽しみに。





 TIMEさんの『Time Capsule』第44話、公開です。





 何かとは何か
 何かとは何なのか


 シンジも
 当のマナも

 −−



 次回はこの続きシリアスになりそう?!
 でも
 後書きによるとコメ?!


 どうなる
 どうすすむ

 たのしみです☆






 さあ、訪問者のみなさん。
 そろそろ加速のTIMEさんに感想メールを送りましょう!







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