大きく構えた弓の弦を、少年はゆっくりと引き絞る。
掲げた左手から十五間(27メートル)先の的の中心。
狙うのは直径わずか7センチほどの小さな円。
――ドクン
心臓の鼓動と自分の息遣いだけが聞こえる。
――静かだ
気が高まるにつれ、さっきまではうるさかったくらいの周りの音も、いつのまにか聞こえなくなっていた。
少年の一番好きな時間。
確かにこの場に身を置きながら、精神だけが別の世界に行ったような感覚。
今の彼の目には、的以外の何も見えない。
やがて的を射抜くという意志すら消え去り、何も考えなくなる。
シュッ
無意識のうちに少年は矢を放っていた。
集中力が極限まで高まっている彼には、宙を飛ぶ矢までがスローモーションのように見える。
トンッ
弓から解き放たれた矢はそのまま、吸い込まれるようにして的の中心に突き立った。
見事に的の中心に突き刺さった矢を眺めながら、緑華学園高等部の弓道部部長を務める片桐は、目の前の背の高い少年に向かって声をかけた。
碇シンジ――完璧なまでの射技を見せた少年は、今日から最高学年になる片桐よりも一学年下である。最近かなり男っぽくなってはきたが、まだまだ幼さの残る顔立ちをしている。175センチある片桐よりも指三本分ほど背が高いが、線の細い感じがするのは否めない。だがそれは服の上から見た感じの話で、実際には結構鍛え上げられた筋肉を持っている。ウェイトトレーニングで作ったわけではないので、見た目の派手さはないものの、しなやかで実用的な筋肉だ。
「あ、おはようございます、部長。また勝手にやらせてもらってます」
汗を拭きながら振り返り、やや息を弾ませたままシンジは答えた。さっきまでの鬼気迫るほどの集中力がもたらす雰囲気はすっかり霧散し、いつも通りの穏やかな表情に戻っている。この気持ちの切り替えこそが、シンジの弓の腕につながっているのだろう。必要なときに極限まで集中できるタイプの方が弓道には向いている。常日頃から張りつめているような人間は却って向かないものだ。
「どうだ碇、今年から正式にうちの部員にならんか?お前なら結構いいセンいくと思うぞ」
お世辞ではなく、片桐は本気でそう思っている。片桐自身、弓道に費やしてきた時間はかなりのものであり、そこそこのレベルに達している自信はある。その彼の目から見ても、碇シンジという少年の持つ資質には魅力的なものがある。月並みな表現をすれば、まだ磨かれていないダイヤの原石といったところだろうか。慢性的に部員が不足している弓道部には、ぜひとも欲しい存在である。
ところで、緑華学園高等部は進学校の部類に入る。そのまま緑華学園大学へエスカレーター式にあがることもできるのだが、どういうわけか外部の大学を受験――緑華学園大学も世間では一流校と呼ばれるレベルの大学であるのだが――する比率が高い。割合的には外部進学が八割、内部進学が二割といったところである。
必然的に受験勉強に割かれる時間が多くなり、部活動に精を出す生徒の数はそう多くはない。運動部ともなればなおさらで、各部は必死になって部員の獲得に奔走している状態である。弓道部もまた例にもれず、このままでは同好会に格下げというところまで来ている。
そのような状況の中で碇シンジは、正式に部に所属するでもなく、ただ数本の矢を放つという目的のためだけに、毎日のように弓道場に顔を出していた。下手をすれば正式な部員よりも熱心なくらいである。おまけに腕前もそこそこなのだから、片桐が誘いたくなるのも無理はない。
「すいません、部長。正式に所属するのは、やっぱりちょっと・・・・・・」
しかし片桐の願いに反して、シンジの答えはいつも通りのものだった。
「そうか、まあ、無理強いはしないけどな。本気でやりたくなったらいつでも言ってくれ。俺としては大歓迎だから」
と、片桐の台詞もいつも通りのものだ。最近の二人は毎日のようにこの会話を交わしている。
片桐としてはシンジがその気になってくれるまで待つしかない。シンジが弓道を気に入っていることはよくわかるが、だからこそ無理矢理に勧誘するようなことはせず、納得した上で入部してもらいたい。まあ、新学期早々から朝練に出てくるような酔狂な奴である。実質的には入部しているのと何らかわりない。後は登録する気になってくれるかどうかだけだ――片桐は結構のんきに構えていた。
新学期早々の朝練を終えてクラス替えの発表場所に向かおうとしている途中、周りの人間がびっくりするほど元気な声にシンジは呼び止められた。振り返って人込みの方に目を遣ると、制服に身を包んだ空色の髪の少女が手を振っている。ひときわ目を惹く美しい顔立ちは、探すまでもなくその居場所をシンジに教えてくれる。目下、シンジの同居人である少女だ。
「あ、レイ、おはよう。今日は早いね」
「んっふっふ。今日は新学期、クラス替えの日よ。ゆっくり寝てなんかいらんないわ」
胸を張っていばるレイだが、そうすると今朝出がけに起こそうとしてもぴくりとも反応しなかったのはいったい誰だったんだろう、とシンジは胸の中でつぶやく。
だがシンジのそんな疑問にはお構いなしに、レイは話を続ける。
「やっぱ、新学期の朝って清々しくっていいわねえ。これから一年間、また頑張ろうって気になるじゃない。ね、シンちゃんもそう思うでしょ」
レイの言うことはもっともだが、彼女が言っても全然説得力がないなとシンジは思う。早起きするのは年に数回、クラス替えのある日、体育祭の日、遊びにいく日、等々に限られている。その他の日――つまりほとんど毎日――はシンジに起こされなければ、地震があっても起きることはない。今日だってレイの枕元に目覚し時計を五つほどセットしてきたのだ。
「そうだね。でも僕としては、レイがその清々しさを毎朝味わってくれるようになると、もっと助かるんだけど・・・・・・」
自覚のないレイにもわかるようにと、シンジはせいいっぱい皮肉っぽく言ってみる。
「ん〜、無理ムリ。わたし目覚し時計くらいじゃ起きられないもん。だからシンちゃん、これからも毎朝よろしくね」
・・・・・・どうやら自覚はあるらしい。だが改善しようなどという殊勝な心がけとは、百万光年ほど離れたところにいるに違いない。泣き虫なところは直ったようだけど、何だか変なところばっかり昔のアスカに似てきたみたいだ。レイのことをジト目で眺めるシンジの脳裏を、四年前にドイツへと旅立った紅茶色の髪の少女の顔がよぎった。
・・・・・・アスカ、いつになったら日本に帰ってくるんだろう?
最近はメール書いても返事が返ってこないことが多いし、どうしちゃったのかな?
いつの間にやら自分の世界に入り込んでしまう。昔からアスカに注意されていたことなのだが、いまだにこの癖は抜けない。
四年前のアスカとの『約束』――レイはすっかり逞しくなったが、自分は全然進歩がない。変わったことといえば、昔よりも少し背が伸びたことくらいだろうか。こんなんじゃアスカにあわせる顔がないな。
いけないとは思いつつも、今日もまた思考の無限ループに入り込んでしまうシンジであった。
「ほらっ、シンちゃん、クラス発表はやく見に行こっ」
シンジがいつものごとく考え込んだ様子になっているのを察知したレイが、シンジの背中をバシバシと思いきり叩きながら急かした。
「うん」
「ねえシンちゃん、今年も同じクラスだといいね」
「そうだね、今までずっと一緒だったからね」
その日、二年A組になった女子生徒たちの大半は、大きな喜びと同時に少々の失望を味わうことになった。
碇シンジと同じクラスになれたものの、綾波レイもまた同じクラスであったから。
その日、二年A組になった男子生徒たちの大半は、大きな喜びと同時に少々の失望を味わうことになった。
綾波レイと同じクラスになれたものの、碇シンジもまた同じクラスであったから。
おひさしぶり、リョウでございます。
いやあ、実は胃に穴をあけてしまって・・・・・・ただいま静養中です(^^;
お見舞いのメッセージくださった方々、ホントにありがとうございます。m(_ _)m
肉体的にも精神的にも参っていたところなんで、とても助かりました。
作品の執筆はおろか、めぞんの作品やメールのチェックすら怠っていましたが、
少しずつ社会復帰(?)したいと思います。
それから大家さん、本作品は決してLRSではありませんよ。
でもアスカ様、いつになったら日本に帰ってこられるんだろう?
二・三話さきのことになるかもしれませんね(爆)
さて、ここで問題です。
@シンジ君とレイちゃんは学園内でどのような存在なのでしょうか?
Aなぜ二人は『同居』しているのでしょうか?
B学園には他にどんなキャラクターがいるのでしょうか?
次回はこの辺をテーマにして話を書きたいと思います。
ま、お約束通りの展開になるでしょうけどね。
ではではっ。
リョウさんの『そして僕らは恋におちて』第1話、公開です。
アスカのいな〜い学園生活〜 (;;)
シンジとレイが同居している〜
クラス決めの様子から二人の関係は半ば公認状態のようですね。
でも、
あとがきによるとLRSではないそうですし・・・
あぁ・・アスカカムバッ〜ク! (^^;
シンジの物静かな雰囲気には
弓道のような古式整然とした物が似合いますね(^^)
お茶とか生け花も似合いそう・・
さあ、訪問者の皆さん。
静養中のリョウさんにお見舞いメールを送りましょう!