TOP 】 / 【 めぞん 】 / [齊藤りゅう]の部屋 / NEXT


(承前)

「なによ、これぇ?」
 惣流アスカのなにやら気の抜けた声がケイジに響いた。平然としているのは綾波レイだけで、あとの三人は例外なく目をまん丸にしてそれを見上げていた。いや、表情が変わっていないからと云って呆れていないとは限らない。事実、よく見れば綾波レイの眸は、呆然と通りこして冷たいケーベツの光さえ浮かべていた。
「耐熱耐圧耐核防護服。局地戦用D型装備よ」事もなげに赤木リツコ博士は云った。
「服、ねぇ……」ため息のような惣流アスカの台詞。これを服と云えるのならば、中世のいかめしい甲冑ですら優雅な部屋着に見えそうな程だった。
 例えて云うなら、ビア樽。
 前時代的潜水服のフォルムを持つそれは、そう形容するのがぴったりだった。さしもの碇シンジでさえ、「は?」と間抜けな声を漏らしたくらいだ。確かに頑丈は頑丈そうだが、実際に戦闘となった場合にはおよそ運動性は期待できないだろう。鈍重をカタチにして熨斗を付けて飾ってあるようなシロモノだった。初号機の凶悪な面構えは今は丸くくり貫かれた覗き窓の向こうに納められ、むしろユーモラスな印象すら与えていた。
 しかも、武装は右足に縛りつけられたプログナイフのみ。なによりその手にくっついているのは、幼稚なマジックハンドを思わせるペンチのような二本指だった。多種多様にあるヒキョーなエヴァ専用飛び道具の類いは、とてもではないが装備出来そうにない。
 左のヒジの部分には水中銃のような銛が取りつけられていたが、武器にも使えるのかと思いきや、実は本当に只の銛だという。「ケーブルに何か問題が起きた時の予備みたいなものだから、アテにはしない方がいいわよ」とリツコは云った。
 シンジは急に不安になってきた。溶岩の中に放り込まれた揚げ句、「命綱に何か問題が起きた」などという目も当てられない状況になったら一体どうしたらいいのだろう? まさかなんとか自分で浮かんで来なさい、なんていうんじゃないんだろうな。僕は全然泳げないっていうのに!
「だいじょうぶ、ですよね?」おそるおそるのシンジの言葉に、
「設計上はね。それに、パイロットはD型装備用の専用エントリープラグで保護されるから、万が一の場合でもプラグ単体で六時間程度なら耐えられる筈よ」そして、つと眼鏡を押し上げると、「なんならパイロット用の装備もあるわよ。ほとんど気休めだけど、着る?」
 一瞬冗談かとも思ったが、その眸には真面目そのものの色が浮かんでいた。それでどういうモノか大体予想が付いてしまって、だからシンジは慌ててふるふると首を横に振った。
「賢明ね」とリツコ。だったら云うなよ、とツッコミたいところだったが、あいにくシンジにはそこまでの余裕はなかった。
 そんなシンジの様子を一瞥すると、氷の女は表情を変えずに言葉を接いだ。
「じゃあ、レクチャーを始めるわ。他の三人も、別の機会に装備することがあるかも知れないから聞いておいて」



 指定されたロープウェイのゴンドラは、客は加持一人だった。もうすぐ時間だというのに落ち合う筈の相手は未だ姿を見せない。だが加持には不安は無かった。今日の相手はちまちまと小細工をしてくるような手合いではない。だから加持は、固いゴンドラのシートに腰かけてぼんやりと外の景色を眺めていた。
「ご一緒してよろしいかしら」
 深みのある低い声に、加持は少し驚いたように乗り込んできた女に視線を向けた。だがそれも一瞬だけだ。あとはお互いに視線が交差しないよう、ゴンドラの端と端に座る。
 ロープウェイのホームに発車のベルが鳴り響いた。車掌がドアを閉めると、ゴンドラはゆっくりと山肌を降り始めた。
「これはこれは。御大自ら御越しとは思いませんでしたよ」
「そんな、人を年寄りみたいな言い方、しないで欲しいわね。まだそんな歳じゃないわ」相手の女は気を悪くしたふうもなく微笑んだ。
「四六時中護衛に付き纏われてばかりじゃ、気が滅入るわ。それがあの子たちの仕事なのは分かっているけど、たまには目を盗んで羽根を伸ばしてもいいでしょう?」相手の女は、いつもにも増して上機嫌なように見えた。
「今日は随分お喋りですね」
「あなたのことですもの、ちゃんとお掃除はしてあるんでしょう?」
 その言葉に加持は苦笑いする。だが確かに、この女と接触していることがバレれば、加持はいま通じているすべての機関から追われることになるだろう。保身のための注意は払うに越したことはない。
「ところで、今回の騒ぎはどうしたことかしら」
「殲滅でなく、捕獲、ですからね。やむを得ない処置というところですか」
「でもA−十七の発動よ。それには全資産の凍結まで含まれているわ。事実上の戒厳令と云ってもいいわね」
「さぞかし、お困りの方もいらっしゃるでしょうね」
「何故止めなかったの」女の声に少しだけ鋭さが混じる。「躊躇なく発動を申請したのは確かにあのお嬢さんらしいけど、このままだと兵隊さんたちの思う壷になるわよ」
「理由がありませんよ」加持は他人事のように云った。「それに、ウチの司令にも腹積もりがあるようですよ」
「冬月先生も、どういうつもりなのかしら。やっかいなことになれなければいいんだけど」
「ご心配には及びませんよ。帆足一佐もいることだし」
 その名前が出た途端、相手の女の顔色が曇った。
「彼はアマチュアよ。それはあなたもよく知っているでしょう?」
「でも悪くない仕事をしてますよ。内務省も時田氏経由でコナをかけていたくらいですから」
「これ以上彼に手出しをさせないようにしてちょうだい」女は押し殺した声で云った。「彼をあの組織から離れさせるのも、貴方の仕事のうちよ。忘れたわけじゃないでしょうね?」
「わかってますよ」加持は苦笑してみせる。
 邪魔ならば消せばいい。この女なら造作もなくやってのけるだろう。にもかかわらず、離脱させることにこだわるということは、自分の弱点を晒しているに等しい。
 それが加持には理解できない。あのNervの保安部にさえ自分の行方を突き止めさせなかった程の女なのだ。かつて「東洋の三賢者」に数えられた才能は、今も少しも色褪せてはいない。そんな簡単なことが分からない女でもあるまいに。
 帆足の何が、この女にそうさせるのだろう。確かにこの女とともにMAGI開発者の一人に名を連ねてはいるが、今となってはもはや時代遅れの技術屋のようにしか加持には見えない。それとも自分がまだ掴んでいない何かを、帆足は持っているのだろうか。
「とはいえ、放っておいてもご当人は自分から出て行くおつもりのようですよ。そんなに心配する必要はないんじゃないですか」
「なら、それを確実なものにすることね。途中で彼の気が変わるかもしれないでしょう?」
 だが女の口調は再び面白がるようなものに戻っていた。先刻までの真剣な調子はまるでなく、演技だったのか、とさえ思えるほどの変わり身だった。相変わらず食えない女だと、加持は思う。
 そのとき音質の悪い放送が、ゴンドラが終着に近づいたことを告げた。それを合図に、加持と女は再び口を噤んだ。やがて発進した時と同じようにゴンドラはゆっくりとプラットフォームに着いた。
 まるで何も無かったかのように立ち上がり、ゴンドラを降りようとしてふと女は微かな声で、それでもはっきりと云った。
「まぁ、せいぜい頑張りなさい。あなたの知りたがっている、真実のために」
 加持は思わず弾かれたように女の方を見た。だが女は振り返ることなく、ヒールの音を響かせゆっくりと階段へと姿を消した。
 その後ろ姿を見送って、加持はそろそろと息を吐き出した。
 やはり見透かされているのだろう、と思う。それでもなお、自分を泳がせているということは。
「まだいける、ってことか」いつもの軽い口調でつぶやくと、加持はようやく立ち上がりゴンドラを降りた。



 浅間山山頂。
 移送が完了したばかりの濃紫、真紅、そして漆黒の三体の巨人が並ぶ。
 それを見上げて、ミサトは厳しい表情を崩さなかった。
 現存するあらゆる兵器を無力化するATフィールドを持つ、かつて人が作り出した中で最強の兵器、エヴァンゲリオン。それはなんと圧倒的な力だろうか。その気になれば、世界全てを掌中に収めることさえできよう。
 だが、それだけの力をもってしても、人類は使徒に勝てるとは限らない。これまでの勝利が僥倖でなかったと誰が云えるだろうか。それほどまでにヒトの力とは弱く小さい。
 そしてこれから自分は、さらに危険な賭けに出ようとしている。もし失敗すれば十五年前の惨事を再び呼び起こすことになる。そうなれば、疲弊の底にある人類にはもはや生き残る術はないだろう。
 人類をそれほどまでの危険に晒す資格が自分にあるのか、ミサトは自問せずにはいられない。目標がまだ充分な運動能力を持たない幼体だと分かった瞬間、天啓のように脳裏に浮かんだ「捕獲」という言葉。それは唾棄すべき考えだったのかもしれない。もちろん長期的に見れば生きたサンプルが入手できるのは今後の戦闘に有利に働くことは間違いないし、その他にも捕獲の理由などいくらでも挙げることができる。だがどれもが後から付け足された言い訳にしか過ぎないことを、ミサトは自覚している。本当の理由が、自分自身の中にあることも。
 私は自分自身の復讐と人類の未来とを天秤にかけようとしているのかもしれない。
 もっとも帆足が聞いたら一笑に付すだろう。なにを気にしてやがる、それがお前の仕事だろうが、と。
(人間、動くのは目的のためだが、評価されるのはその結果だけだ)
 だからキチンと結果を出してりゃあ誰も文句を云う奴はいないさ、とかつて帆足は冗談混じりにミサトにそう云ったことがある。だがその他愛もない理屈でどれだけミサトが救われているか、帆足は知っているだろうか。
 あの宿六が知るわけがないか。ふとそんなふうに思って、ミサトは思わず唇に微笑みを浮かべた。
「ミサト」
 自分の名を呼ぶ声に振り返ると、それぞれの機体と同じ色のプラグスーツを纏った三人の子供たちの姿があった。ミサトは頷いて「ご苦労さま」と応えた。
「リツコから聞いてると思うけれど、今回の作戦は捕獲を最優先とします。まだ孵化していないとはいえ、相手は使徒よ。油断は禁物、いいわね。シンジ君?」
「はい」
「目標は溶岩内の対流にのって浮遊しています。その最頂点で電磁キャプチャにて使徒を捕獲、そのまま引き上げます。対流自体はそれほど速くはないけど、最適なランデブーポイントに留まれる時間はそう長くはないわ。チャンスは一度きりと思っていて」
「はい……」自信無げに小さく頷く。
「大丈夫、使徒が孵化するまでには計算上まだ時間があるわ。あなたは今回は捕獲に専念してくれればいいから」
「でも、もし途中で、使徒が孵化したら……」
「D型装備のまま戦闘するのは、ほぼムリだと思っていいわ。多分自分を守るだけで精一杯でしょうね。そのときは可能な限り戦闘を避けて、相手を地表までおびき出すこと。相手は弐号機と参号機に任せるわ」二人の少女に視線を移すと、緊張した面持ちがかえってきた。
 ミサトは時計を確認する。時刻はあと三分で一四〇〇(ヒトヨンマルマル)。
「作戦開始時刻は一五〇〇。搭乗は作戦開始十五分前までに。それまで、各自待機。何か質問は?」
 子供たちは口を閉ざしたままだった。これがどれほど危険な作戦なのか、子供たちには伝えてはいない。その重さを背負うのが自分たち大人の仕事なのだから。それでも周囲の空気からある程度は感じ取っているのだろう。いつもよりも固いそれぞれの緊張が伝わってくる。それを少しでも和らげるために、ミサトは明るい声で云った。
「近くにいい温泉があるの。終わったらみんなで行きましょう」
 その冗談めかした口調に、子供たちの間に、何云ってんのよ、とでも云いたげな苦笑がほんの少し漏れる。
「では、解散」
 ミサトの言葉に、惣流アスカと碇シンジはミサトに背を向けた。後に一人だけ残った漆黒のプラグスーツの少女が、ぎこちなく微笑みかけてきた。
 ミサトは表情を崩し少女に歩み寄ると、その柔らかい髪をくしゃっとかき回した。
「とうとう出撃ね。これで補欠卒業よ」
 マリエは少し恥ずかしそうに笑った。「がんばってね」というミサトの言葉にこくりと頷く。
「参号機はどう? 感覚は戻った?」
「うん…………」だがマリエは言葉を濁して俯いてしまった。
「まだ慣れないの?」
 マリエは小さく首を横に振った。
「ううん、だいぶ慣れてきた。ただ、まだちょっと、気分が悪くなるだけ」
「そう……」
 ミサトは半年前に見た米国での起動実験を思い出す。実験後にプラグから助け出されたマリエは半病人の態で、一人で立つこともままならなかった程だった。
 他の適格者たちには何の問題も出ていないのに、何故マリエだけがそれほどの消耗を見せたのか、今までのところわかってはいない。零号機、初号機に搭乗したときにはそれほど極端な状況には陥らなかったし、初めての起動実験ということもあって一時的なものだったのかもしれない。
 だが、ミサトはそれほど楽観的になれなかった。リツコから聞かされた参号機の性能のこともある。ただでさえパイロットにかかる負荷が高い機体なのだから、長時間の稼働にマリエは耐えられないかもしれない。そうなれば、作戦立案に少なからぬ制約がかかることになる。
 だからこの作戦は、この先の参号機運用の試金石になるとミサトは考えていた。ただじっと待つだけとはいえ、パイロットへの心理的な負担は通常の作戦行動と同程度か、場合によっては大きくなる。それに耐えることができれば、今後の戦力としての目処も立つ。そうでなければ、四人のパイロットのシフトを変えることも考えなければならないだろう。
 不意に頭上で轟音が響いた。見上げれば、幾筋かの飛行機雲が紺碧の空にゆるい曲線を描いていた。
「おいでなすったわね」ひとりごちるようなミサトの台詞に、
「あれは……?」雲の延びる先を目で追いながら、マリエが訊く。
「UN空軍よ。作戦が終わるまで空中待機することになってるわ」あンの臆病者共め、と吐き捨てる。忌々しげな口調に、マリエはミサトを見た。
「どうして?」
「あいつらの役目は、私達が失敗した時の後始末よ。腹の中にはN2爆雷をたっぷり抱え込んでることでしょうね」
 その言葉にマリエの表情が強張った。それに気付いて、ミサトは苦笑混じりに表情を崩してみせた。
「要は失敗しなければいいのよ。大丈夫、絶対うまくいくわ」自信たっぷりに頷いてみせる。そうだ、指揮官である自分に迷いがあってどうするのだ。今は自分自身と、この子たちを信じるしかない。
「さ、行きなさい。アスカたちが待ってるわ」ぽん、と細い肩を軽く叩くと、固かったマリエの表情が少しだけほころんだ。小さく手を振って背中を向けるのを見届けて、ミサトは再び三体の巨人へ視線を戻した。



 Nerv本部。冬月の私室。
 ぱちり、と駒が盤を叩く音が響いた。帆足はころんとした体を窮屈そうに揺らしながら、たった今駒を指した腕を戻した。ふと、視線を上げて向かいに座る冬月を見やった。いつもと変わらぬ冷静な表情は、目の前の盤の局面に集中しているように見える。だが実際にはここではない場所で進められている作戦に気を取られているのだろう。その証拠に、盤の上では、滅多にないことに帆足の方が優勢な状況だった。
 そのきれいに撫で付けられた銀髪に目をやって、帆足は、また少し老けたみたいだな、と思った。冬月の髪が全て銀髪に変わってから久しいが、ここしばらくで心なしかつやを失ってきているように見える。
 もっとも、そんなことを面と向かって指摘したところで、本人が認めるわけもないだろうが。
「加持は動いたか」盤面から目を逸らさず、冬月が問うた。帆足は頷いてみせる。
「一時間ほど前、ロープウェイで接触したようです。盗聴器はあらかた掃除されちまってて、話の内容までは分かりませんでしたが」
「望遠ではどうだった?」
「それで会話を読まれるような連中じゃあないですよ」
 それもそうだな、と冬月は頷いた。
「それで、相手は?」
「それが……」苦虫を噛みつぶした表情になって、帆足は言葉を濁した。「どうもよくわからんのです。女だったことだけは確からしいんですが」
「尾行は付けたのだろう?」
「魔法のようだったそうですよ」帆足は肩をすくめた。「一瞬見失ったと思ったら、そのまま、ひゅぅ、どろん」手のひらをぽんと広げてみせる。口調は戯けてはいたが、表情がそれを裏切っていた。帆足にしてはめずらしく、悔しさがにじむ。
「やっと尻尾を掴んだと思ったんですがねぇ」
「餌に食いついてきただけでもマシと思わんとな」
「これだけ餌がでかけりゃあ、何かしら動くでしょうよ。なんと云ってもA−十七なんですから」その分払った代償も大きかった、と帆足は思う。これで、JAの一件で付けておいた日本政府への貸しが帳消しになってしまった。そろそろ戦自からの要求も飲まねばならないだろう。もっとも、彼らが何を要求してくるのかはだいたい予想は付いている。それに対するNerv本部の対応も。
「しかし、これだけの手練れとなると、いったいどこでしょうかねぇ、加持のパトロンは。米国政府か第一支部あたりかと思ってたんですが」
「加持は碇に近過ぎる。ジェイコブならば使わんよ。本部の内情を知りたいのはやまやまだろうがな。それに米国政府は今、伍号機建造の隠蔽工作で手一杯の筈だ。それだけの人材を日本に割く余裕は無い」
「もしかして、御老人たちですか」帆足は声をひそめた。人類保管委員会。Nervのパトロンにして、全世界の支配者。しかし冬月はかぶりを振った。
「だが、理由がない。老人たちが本当に知りたがっているのはE計画の方だからな」
「じゃあどこが……」
 冬月はふと手を止めて盤から目を上げた。帆足の肩越しに見える窓の向こうのジオフロントの風景を見やった。
「あるいは……」
「あるいは?」
「老人たちも一枚板ではないのかもしれん」
 帆足は面食らった。思っても見なかった冬月の言葉だった。
「今になって委員会の内部で意見が分かれている、ということですか?」
「それはわからん。ただ、このところ碇の動きがあからさまだったからな。それで老人たちの誰かが、ここしばらくのNerv本部の行動に不審を抱いた、ということも考えられなくはない」
 考え込むように腕を組むと、ううむ、と帆足は唸った。
「だとすると、マズイですねぇ、そりゃあ……」
「まだ時期早尚だな」
「まったくで」と帆足はこめかみを押さえる。「せめて、こっちがあのご夫婦の手の内を探り当ててからにしてほしかったですねぇ」
「仕方あるまい。今の我々は、使徒に勝つことで手一杯だ」冬月は再び視線を盤に戻した。
「使徒に勝たなければ、我々に未来はない。今は使徒迎撃が我々の最優先の任務だ」
 きっぱりと言い放った冬月の言葉に、帆足は深々とため息をついた。
「なんか、どっちにしても未来はないような気がしてきましたよ、僕は」
「諦めるのなら、たった今抜けてもらってもかまわんよ。退職金は多少しわくなるがね」
 一転して面白がるような口調になった冬月に、帆足は渋い顔のまま応えた。
「ご冗談を。僕だって、金と命は惜しいですから」



”潜航開始”
 葛城ミサトの声とともに、ごうん、と重い音を立ててケーブルが繰り出され、超大型クレーンがビア樽に収められた初号機を降ろしに掛かった。
 足が地に着かなくなる感覚に思わず下を見ると、赤黒く不吉な光を放つ溶岩がふつふつと滾っているのが目に入った。あそこに放り込まれるのだと改めて思った途端、シンジは急に怖くなってきた。これはもう泳げるとか泳げないとかの問題ではない。思わず身が竦むを憶える。ありもしない地面を捉えようとして無意識のうちに足が動いてしまう。
「ミ、ミサトさん、あ、あの、」
”大丈夫よ。頑張ってね。”
 だが見事なタイミングで封殺されてしまって、口元まで出掛かった泣き言をシンジは思わず呑み込んだ。
 視線を下に向ければ血の池溶岩地獄。もはや後戻りはできない。
 緊張でカラカラになった口を少しでも湿らせようと、なんとか唾を飲み込んだ。ゆっくりとした下降感が、拷問の様相をますますかきたてる。シンジは固く目を閉じて祈るように呟いた。
 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
 ずぶり、と粘度の高い液体に脚部が触れた瞬間、シンジは悲鳴を上げそうになった。覚悟していたような熱さこそ無いが、それでも少々沸かし過ぎた風呂に片足を突っ込む程度の温度は伝わってきて、その不快感に身を震わせる。
 下半身から腹、そして胸へと液体が上がってくるのが感じられ、シンジは思わず遥か頭上の崖っぷちを見上げた。たすけて。そんな言葉が脳裏を過った瞬間その視界も溶岩に遮られ、D型装備を纏った初号機は完全に溶岩の中にその姿を消した。

 大丈夫なのかしら、あのバカ。
 惣流アスカは初号機入りビア樽の沈んだ辺りを見つめてそう思った。冷却液のパイプを兼ねた命綱が、そこから天に向かって生えている。
 溶岩の中に没する直前の碇シンジの呟きをしっかりマイクが拾ってしまっていて、それが耳から離れない。そのいかにも頼りなげな口調に、後ろめたさと後悔と不安とがアスカの脳裏を過る。
 やっぱり自分が潜った方がよかったのだろうか。
 だがその思いももう遅い。ジリジリするような焦燥を感じながら、ただじっと待つことしか、アスカにはできることがなかった。

「深度、一〇二〇。安全深度を越えます」
 数値を読み上げるオペレータの固い声だけが響く。それほど広いとはいえない司令車の中は、しかし他に口を開くものはなかった。いつもは軽口のひとつも唇に上らせる作戦部長ですら、その唇を引き結んで小さな画面を注視していた。
「深度、一三〇〇。まもなく遭遇予測地点です」
 だがD型装備から刻々と送られてくる情報は、予想した状況とは明らかに食い違っていた。
「超音波センサ、光学センサ、共に反応無し。予測地点に目標は存在しません」
「どういうこと」低く唸るような声でミサトは云った。
「溶岩対流の速度が予想よりも速くなっているわ」ディスプレイに表示された数値に目を走らせながらリツコが応えた。「どうやら、探査機を下降させたときと、マグマの状態が変化してしまったようね」
「修正は可能かしら」
「マヤ、再計算の結果はどう?」リツコはオペレータに訊く。
「修正遭遇予測地点は、現在の地点からさらに三〇〇、下降した地点です」
「D型装備の限界深度を二〇〇も越えているわ。危険よ」とリツコ。
 だが危険は最初から承知の上だ。ミサトは唇を噛む。
「目標がもう一度浮上してくる可能性は?」
「あり得ますが、正確な浮上地点を計算するのは現状のデータからは無理です。もう一度探査を行わないと……」
 だがそのための探査機は、もうない。今回のデータ採取のために廃棄覚悟で沈降させ、圧壊させてしまっている。
「どうするの、ミサト? 指揮官はあなたよ」とリツコ。
 しばし黙孝し、ミサトはマイクを取り上げた。
「シンジ君、聞こえる?」
”はい”小さなディスプレイの中で少年が不安げな表情を浮かべている。ミサトの眉がほんの少しだけ歪んだ。
「目標との遭遇地点が予測よりも深かったみたいなの。悪いけれど、もう少し頑張れるかしら」
 その言葉に、少年の表情がこわばったような気がした。
”…………わかりました”
「……すまないわね」
 無論、その一言で済まされることではないのは承知している。限界深度を越えたD型装備がどのくらい持つのか、その答えを知る者は誰もいない。それでもこの機会を逃せば次はないだろう。そして同時に、自分たちの足元に居ながらどこから出現するか分からない使徒の脅威に晒される危険を抱えこむことになる。それは何があっても避けねばならない事態だった。
 ミサトは唇を引き結び、硬い表情のまま宣言する。
「再度沈降、よろしく」



 碇シンジは不安だった。
 先刻から聞こえていた不吉な軋みは、深度を増すごとに大きくなりつつあった。時折ハンマーで鉄板を引っぱたくような破砕音が耳に届く。それが何を意味するのか想像するだに恐ろしかった。プラグ内の温度も確実に上昇していて、冷房の出力はずっと最強になっているのに、蒸し暑さはそろそろ堪えがたいレベルにまでなりつつあった。
 本当に、大丈夫なんだろうか。
 最初に作戦を聞かされた時に想像していた悪夢が、徐々に現実のものになっていくような気がしてならない。引き千切れた命綱、そして自分を乗せたまま音もなく沈んでいく初号機の姿を想像して、シンジは思わず身震いした。
”まもなく修正予測地点です”
 オペレータの声に、シンジは慌てて周囲に視線を走らせた。
 パイロットを取り囲むようにして設置されたモニタは、エヴァの視神経から送り込まれてくる映像を幾重にも鮮明化処理した光景を映し出している。だがそこには説明にあったような影はどこにもなかった。センサの反応もすべてネガティブだった。
「ミサトさん、これって……」シンジは思わず頼りない声を上げた。
”ちょっと待って。今こっちでも確認しているわ”そう云ったミサトの声は迷いは感じさせなかったが、マイクを通して周囲のざわめきと戸惑いが伝わってきた。
 その時、ひときわ大きな破砕音が耳に届いた。今までとは違うその音は、今にもひしゃげそうにD型装備を震わせた。シンジの喉の奥から声にならない悲鳴が漏れる。
「ミミミミミサトさぁん」
”落ち着いて、シンジ君。”
 そう云われたところで、そうそう落ち着けるものではない。さらに泣き言が口をついて出ようとした寸前、
”あんた、いい加減にしなさいよ!”
 惣流アスカの憤然とした声が割り込んできた。
”なにひとりでおたついてるのよ? もっとしゃきっとしなさいよ!”
「そ、そんなこと云われたって……」
”あんたは選ばれたパイロットなのよ? このくらいのことでうろたえてどうするのよ”
 云うは易し、行うは難し。惣流アスカの苛立ちは分からないでもないが、のんびり構えていられる状況でもない。惣流は上から見てるだけだからそんなことが云えるんだ、と漏らしそうになって思いとどまる。これ以上惣流アスカを激高させても何の得もない。
”なんのために私たちが上で待機してると思ってんのよ? 何かあったら、そこに飛び込んででも助けるから、少しは落ち着きなさい”
「うん……」つっけんどんな云い方だったが、いちおう安心させようとしてくれているらしいことは伝わってきて、シンジはほんの少しだけ落ち着けたような気がした。もうちょっと素直な云い方の方が分かりやすくていいんだけどなぁ、と思わなかったでもないが。
 その時だった。不意に超音波センサが弱々しい音を立てた。
「今のは……」
”マヤちゃん?!”ミサトの声に続いて、
”反応です! 現在位置から、更に深度二十、距離百五十”
”シンジ君、聞こえた?”
「あ、はい」
”接近の指示を出すわ。捕獲用キャプチャ、展開して”
「は、はい」

”初号機、遭遇位置修正。クレーン動作します”
 オペレータの声に少し遅れて、ビア樽D型装備全体が振り子のように振られる感覚。それにつれて、またしても装備全体が今にもバラバラになりそうな悲鳴を上げる。
 粘度の高い溶岩のおかげで揺り戻しは大きくはなかったが、それでも位置が安定するのに十数秒を要した。
”軸線、一致。姿勢制御、現状を維持”
”距離五十。遭遇まで、あと十秒”
 黒い楕円の影がみるみる近づいてくる。
「思ったより、速い……」シンジはインダクションレバーを握り直した。汗が目に入る。だがまばたきの間にすれ違ってしまいそうで、拭うこともできない。
”距離、のこり十”オペレータの読み上げる声だけが耳に届く。シンジは呼吸することも忘れて、ただじっと待った。
”五、四、三、二、一”
 指をかけたトリガーの感触は、思いのほか重く、硬かった。一瞬、タイミングを逃したか、と思ったものの、かきっと小さな手応えがあった。モニタの中で淡い光の檻がすっぽりと影を覆うのが見えた。
”キャプチャ、成功しました”
 シンジは息苦しさを感じて、長い長い息を吐き出した。途端に呼吸が楽になる。何度か荒い息をついて、そしてようやく汗を拭いたかったことを思い出した。
”よくやったわ、シンジ君”心なしか、ミサトの声も明るさを取り戻したようだった。
”引き上げ、急いで”その声を聞きながら、シンジは体の力を抜いてシートにもたれかかった。
 その瞬間だった。

 指令車の中に警報が響き渡った。
 相好を崩しかけていたミサトは、一瞬にして指揮官の顔を取り戻す。
「何が起こったの?」
”ミ、ミサトさん、こいつ、なんか、動いて”だがシンジの言葉が終わらぬうちに派手な衝突音がマイクから飛び出した。
「シンジ君?!」ミサトはマイクに怒鳴ったが、返ってきたのは声にならない悲鳴だけだった。
「リツコ、何があったの?」
 スクリーンに映し出されたのは、電磁キャプチャの中に捕らえられた影がのたうち回る姿だった。幼生の形態から全く別のモノへとみるみる変容していく。
「まずいわ、羽化を始めたのよ!」
 その言葉にミサトは愕然とする。
「まさか、こんなに早く?」
「キャプチャが、もう持たない!」リツコの声は悲鳴に近かった。
 内心思っていた不安が現実のものとなってしまった。だが迷っているヒマは無い。凛としたいつもの声でミサトは宣言する。
「初号機、直ちにキャプチャを破棄。弐号機、及び参号機、戦闘準備。以後、使徒殲滅を最優先。いいわね、みんな?」
”了解”一斉に返答が返る。
「初号機、引き上げにかかって。可及的速やかに溶岩溜から離脱のこと」
「了解」ミサトにつられたか、オペレータも切迫した声で応えた。
 ミサトは、もう迷っていなかった。

 指とは云えないような不格好なものが、光の檻をやすやすと切り裂いた。その一端がD型装備を掠めたような気がして、シンジは震え上がった。慌てて爆破ボルトのスイッチを入れる。鈍い衝撃とともに檻がゆっくりと離れていくのが見えた。そのまま周囲の高熱に形を歪ませていく。
 だが次の瞬間、それを突き破って黒い影が飛び出した。
 それはもう幼生とは云えなかった。ヒレとも腕ともつかぬ形をした一対の触手で溶岩流をかき分け、恐ろしい速度で初号機を掠めてすれ違った。あおりを食らって、D型装備が大きく揺らめく。どこかで響く破砕音。
”三番冷却パイプ破損!”オペレータの報告がシンジの堪え性のない根性を揺さぶった。

”初号機、目標をロストしました”
「なぁんですってぇぇぇっ」その報告に、惣流アスカの堪忍袋の緒がブチ切れた。
「なにやってんのよ、あのバカはぁっ」
”ア、アスカ、落ち着いて……”マリエの間抜け声が余計気に障る。
「これが落ち着いていられるもんですか。捕獲に失敗した挙げ句、逃げられたですってぇぇぇ?」やっぱり無理を言ってでも自分が潜ればよかった、と激しく後悔する惣流アスカ。でぶちんビア樽のD型装備を見た瞬間に、これを着るのが自分でなくてよかった、と一瞬でも思った自分が忌々しい。
 なにより、今溶岩の底に潜っているのは、よりにもよって一番経験に乏しい碇シンジなのだ。出撃回数こそ多いものの相変わらずのシロウト臭さが抜けない戦いぶりに、一番危惧を抱いていたのはアスカ自身だというのに。
「ミサトっ!」
”落ち着きなさい、アスカ”だがミサトの声はあくまで冷静だった。
「でも、シンジがっ……」
”だめよ。今のあなたたちの装備じゃ何も出来やしないわ。”
「でも……」
”シンジ君?”
”はい”不安げな少年の声に、ミサトは、
”無理に戦う必要はないわ。とにかく、自分の身を守ることに徹して。ぎりぎりまで地表まで誘導。その後、弐号機、参号機で迎撃します。いいわね?”
”はい”
”大丈夫、ちゃんと見せ場は作ってあげるわよ”スクリーンの向こうでミサトは余裕たっぷりにウィンクしてみせた。
”初号機引き上げ、急いで”

「そんなこと、云われたって……」シンジは呟く。不安が肩のずっしりとのしかかる。今にも心臓が口から飛び出そうだった。
 無理に戦う必要はないと云ったところで、それはこっちの都合というものだ。対する相手はやる気満々らしく、初号機の周囲をずっと旋回している。超高温の溶岩の中だというのに、その影響をまるで感じさせない動きだった。鮮明化処理された視覚センサと超音波センサでなんとか追尾しているが、ところどころに存在する密度の異なる溶岩流に阻まれ、ともすれば見失いがちになる。
 無限に落ちていくような下降感は先刻から上昇に転じてはいるが、地表までは絶望的な距離があるような気がしてならない。
 と、そのときだった。甲高い電子音とともにオペレータの声が響いた。
”目標位置、喪失!”
 冗談じゃない! シンジは恐慌に陥った。
”使徒接近! 背後からです!”
 どこからだって? シンジは必死に振り向こうとしたが、頭からすっぽり覆われているD型装備ではそれもままならず、じたばたと姿勢を乱しただけだった。
”バラスト、パージ!”ミサトの声に反応して、シンジは反射的に腰に取り付けられていた重りを切り離した。瞬間、浮力が増し、初号機は上昇速度を少しだけ速める。その眼下を使徒が恐ろしい速度ですり抜けていった。
 シンジは思わず安堵の息を吐き出した。だがそれも一瞬だった。
”だめです、もう一回来ます!”オペレータの声に今度は前方を見ると、先刻と変わらぬ速度を保ったまま、黒い影が猛然と眼前に迫ってきていた。
 シンジが悲鳴を上げるのと同時に、すさまじい衝撃が初号機を揺さぶった。
”四番冷却パイプ破損!”
 その切迫した声を、シンジは聞いている余裕がなかった。使徒はその不格好な触手でD型装備をがっちりと抱き込み、あまつさえその巨大な口を開いて食いつこうとしていた。丸い窓の向こう側にびっしりと生え揃った白い牙が閃き、それががりがりと装甲に食い込むのを見て、シンジは卒倒しそうになった。引き剥がそうにも二本の不器用な指では相手の身体を掴むことすらままならない。
 どこかでサイレンのように長く響く叫び声が聞こえ、それが自分の悲鳴だということに気付く。それが引き金だった。シンジは無我夢中で使徒を押しのけようと腕を振り回した。だが、勢い余って初号機の左腕を使徒の口の中に突っ込ませてしまった。
 牙に装甲の一部が引き裂かれ、そこから灼熱の溶岩が流れ込む。腕の肉が焼かれる感覚にシンジは苦鳴を上げ、思わずインダクションレバーを握り締めた。その握力でグリップに取りつけられたトリガーがかちりと音を立てた。それは左腕の銛の発射トリガーだった。
 射出装置に装填されたカートリッジが撃発され、銛が鈍い衝撃とともに撃ち出された。肉が引き裂かれる感覚がインダクションレバーを通じて生々しく伝わった。凄まじい勢いで銛は使徒の体内を完全に貫き、その先端が尾を突き破って外に飛び出した。そこからあふれ出た体液が瞬時に沸騰して溶け消える。ほんの一瞬だけ綻んだATフィールドから流れこんだ溶岩が傷口を焼けただれさせ、使徒は凄まじい悲鳴を上げた。その咆吼はD型装備の厚い装甲を通してさえ初号機を震わせた。
 身体を拘束してた圧倒的な力が緩むのを感じた瞬間、シンジは眼前の巨体を思い切り突き放した。
 使徒はそれでも生きていた。銛を体内から吐き出そうと恐ろしい力で身を震わせる。だがそれは無駄なあがきだった。かえしになった銛の先端は、もがけばもがくほどがっちりと傷口に食い込み、その裂け目を大きくしていくばかりだった。
 そののたうち回る使徒の動きが、銛の後端からのびるケーブルを伝わって初号機を激しく揺さぶる。シェーカーでかき回されるような揺れに、シンジは悲鳴を上げる余裕さえなかった。またどこかで響く破砕音。
”二番冷却パイプ破損!”

「二番ポンプ遮断。循環経路を一番からに切り替えます」
「まずいわね……」オペレータがディスプレイに表示してみせた数値を読みとって、リツコは呟いた。五本ある冷却液の循環パイプは、すでに三本まで切断されてしまっている。循環ポンプの出力には余裕を持たせてはあるものの、二本で全てをまかなえるほどではない。
「圧力が落ちてるわ。このままじゃ十分な量の冷却液を循環できなくなる」
「あとどのくらい持ちそうなの?」ミサトは切迫した声で訊いた。
「数値的にはもうぎりぎり。これ以上冷却液が漏れたら、D型装備そのものの耐熱耐圧能力が低下してしまうわ」
「くッ……」ミサトは唇を噛みしめた。
 今ならまだ銛のケーブルをパージすれば初号機は助かるかも知れない。だが、それはみすみす使徒を見逃すことになる。あの無限とも思える回復能力を持つ使徒なのだ。この程度の傷はまだ致命傷とは云えない。
「現在深度は?」
「深度約五百。上昇速度、毎秒四です」
 引き上げが終わるまでに、まだ二分以上かかる。ぐずぐずしていれば使徒にケーブルを噛み切られて同じ結果になってしまう。迷っている時間はない。ミサトは決断する。
 マイクを握り直しひとつ息をつくと、抑えた声で呼びかける。
「シンジ君」
”は、はい”

「銛のケーブルをリバース。使徒を引きつけた後、プログナイフにて攻撃、殲滅」

”え……”マイクの向こうでシンジが絶句するのが分かった。
”ちょっと、ミサト?!”抗議しようとするアスカの声を黙殺し、ミサトは続けた。
「大丈夫、今の一撃で使徒は弱っているはずよ。落ち着いてやれば一撃でコアを破壊できるわ」
”そんな……”もはや泣き出す一歩手前なシンジの声。哀願は痛いほど伝わってきたが、今はそれを許すわけにはいかなかった。ミサトはあえて無慈悲な言葉を返す。
「パイプがもう持たないの。早くしないと、使徒といっしょに溶岩溜の底まで行くことになるわよ」

 震える指が、スイッチを探り当てる。もはや泣き言をこぼす余裕すらない。心臓の鼓動はドラムと化して、体中を暴れ回っているかのようだった。
 ぎゅっと目をつぶる。もう逃げられない。
 逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。
 逃げちゃ、だめだ。
”プログナイフ、装備”ミサトの声とともに、右足に縛り付けられていた柄を引き抜いた。超振動を始めた刃が灼熱の溶岩と干渉して不吉な光を発する。
”ケーブル、リバース”
 押し込んだ指先に、それほど力を込めた覚えはなかった。だが、かちり、という硬い感触とともに、左腕が強烈に引っ張られる感覚がわき起こった。
「うわ……」
 崩れた体勢を慌てて戻そうとした時だった。したたかな衝撃とともに恐ろしいくらいの重量物がぶつかってきた。
 再び触手がD型装備に絡みついてくるのがわかった。今度はぎりぎりと締め付けてくる。十分な冷却液が供給されていないD型装備は、その許容外の圧力に屈して大きく軋んだ。
 シンジは悲鳴を上げて、闇雲にナイフを振り下ろした。刃先はATフィールドをすり抜けて、使徒の皮膚を容赦なく抉った。すさまじい悲鳴とともに拘束している力が一瞬弛む。
”シンジ君、落ち着いて! ちゃんとコアをねらうのよ!”
 だが、返事をしている余裕はなかった。シンジはもう一度ナイフを振り上げた。
 コア、こいつのコアって、どこだ!?
 だが、それらしい球体は見えない。シンジの脳裏にこれまでの戦闘の記録がよぎる。確か、第六使徒のコアは体内にあったはず。ひょっとして、こいつもそうなのか? そうだとしたら、どうすればいいんだ?!
 次の行動はほとんど反射的なものだった。シンジはプログナイフを使徒の背に突き立てると、そのまま力任せに切り裂いた。肉を引き裂く生々しい手応えに、ナイフを放り出したいような嫌悪感を覚える。体液がどっと吹き出し、溶岩と混じり合って一瞬視界を覆った。
 ついに、まだかろうじて使徒の体を保護していたATフィールドが、周囲の圧力に屈した。灼熱の溶岩が使徒の体の体の端々を焼き焦がし、その組織をぼろぼろと崩れさせていく。断末魔の悲鳴が初号機を震わせた。D型装備を締め付けていた力がみるみる弛み、そして離れていった。
 やがて使徒は二度、三度痙攣したきり、動かなくなった。ものの数秒と経たないうちに、第八使徒は跡形もなく溶岩の中に熔け消えた。



 風呂がこんなに気持ちのいいものだとは、思っても見なかった。
 生死の縁から帰還したばかりの碇シンジは、生きていることのヨロコビを、ごく日本人的な方法で味わっていた。
 ほんの数時間前まで、蒸し風呂のようなエントリープラグの中で冷や汗にまみれていた。心地よい温度の湯にのんびりとつかっていると、そんな苦労さえ少しずつ溶け消えていくような気さえしてくる。「風呂は命の洗濯」とはよく云ったものだ。
 目の前を見覚えのあるペンギンがすいすいと横切っていく。誰の好意か知らないが、お相伴に与ることができた温泉ペンギンは上機嫌そのものだった。そんな様子もシンジの心を和ませてくれる。
 見上げれば、夕暮れへと向かいつつある柔らかい色の空。もうすぐきれいな夕焼けが西の空を染めるだろう。
 明日も晴れるのかなぁ。
 そんな他愛もないことを思いながら、シンジはひとつ大きなあくびをした。

 惣流アスカは後悔していた。
 せっかく楽しみにしていた露天風呂なのに、同行したのがよりにもよってなメンツであったからだ。
 公称Eカップと云われている成熟しきった葛城ミサトの膨らみ。青さは残るがもう十分に発育している帆足マリエの果実。未だ発展途上な自分の胸元を見下ろして、惣流アスカは密かな劣等感に襲われていた。
 ママのウソツキ。ママが誇りにしなさいって云ったその日本人の血のせいで、私の胸はまだこんなじゃないのよぅ。でも、よく考えれば目の前にいるのは二人とも日本人なワケで。なんでこいつらに負けてるんだろう、私は。ミサトは年上だから仕方がないとして、マリィに負けるのはどうしても納得がいかない。湯面に半分顔を沈めて、アスカはぶくぶくと不満の息を吐き出す。
 いいわよ、いいわよ。あと十年したら、私の方がぜったいぜったいぜったいないすばでぃになってるにきまってるわよ。たぶん。きっと。そうであって。おねがいだから。
「なにカニみたいに泡吹いてんのよ、アスカは」意地悪そうなミサトの声に、こぽこぽと泡だけを残して、アスカはそのまま湯船に沈没した。聞きたくない聞きたくない、このウシちち女。なにを云いたいんだかよーく分かってるんだから。頭のてっぺんをつんつん突つかれても、肺に残った空気の限り抵抗を試みる。
「ミサトさん、そんな子供みたいな……」半分諦め気味のマリエに、ミサトはにへらっと笑ってみせる。
「あーら、ヨユーじゃないの、マリエは。そぉんなに自分のココに自信があるのかなぁ」遠慮なしに伸びた手が、マリエの胸をむにっと掴んだ。
「きゃっ、ミ、ミサトさ……」
「おう、これはなかなか。柔らかさの中にも硬いみっしりしたものが……」
「やっ、やだ、ミサトさん、やめて」
「だって、気持ちいいんだもーん」
 他の客が居ないのをいいことに、遠慮なくしぶきを上げながらじゃれつく。
 いろんなイミで我慢ができなくなった惣流アスカ、浮上。髪から水滴を滴らせながら、二人にびっと指を突きつける。
「なに恥ずかしいことしてんのよ、アンタたちは!」
「いいじゃないの。母娘のスキンシップよ、スキンシップ」
「どこがだぁ!」

 きゃあっ、と嬌声が上がった。
 とは云っても、高い高い塀に阻まれた向こう側のこと。
 断片的に耳に届く会話の内容で、なにが話題の中心なのかは分かっているけれど、それを具体的に想像するだけの基礎知識が碇シンジにはなかった。せいぜい三馬鹿の残る二人から借用したお子様には少々早いと思われる図書からの知識に限られる。ホントはちょっぴり自分でも買ってみたいのだが、保安部の適格者監視報告書には購入した本の題名まで記録される、と小耳に挟んでからは、とてもではないが購入するまでの勇気がでない。
 いや、そういえば、綾波レイの部屋に初めて(といってもあれきりなのだが)訪れたときに、図らずも彼女のオールヌードを目の当たりにしたことがあった。華奢な体つきをしているわりに、その胸元はやけに肉感的だった記憶がある。はずみで触れてしまったふわふわでぷにぷにの感覚が掌に甦ってきて……、あっ、やばい。膨張してきてしまった。
「あ、やだ。なんでアスカまで? あっ、や、やぁっ」
 塀の向こうでは、どうやらマリエが標的としてロックオンされたようだ。人間とは逆襲されないと分かったときから際限なく残忍になるものらしい。
「な、なんか、向こうは、楽しそうだよね」
「くぁ?」
 照れ隠しにペンギンに話しかけても虚しいばかり。さっきまでの生き返った気持ちはきれいさっぱり消え失せて、碇シンジはぶくぶくと湯の中に沈んでいった。



 ようやくのことで膨張が収まって、シンジは浴衣に着替えて露天風呂を後にした。下駄の音を響かせながら母屋に戻ろうとして、ふと足を止める。
 母屋から露天風呂へ向かう通路の脇に、一人の少女が暮れていく空を見上げて立っていた。
 浴衣はズンドウな日本人のための着衣だ、と誰かが云ったような気がする。でも、それはこの少女には当てはまらないのではないか、とシンジは思った。ありふれた旅館の浴衣の筈なのに、まるで少女のために誂えたもののようだった。
 ほんの少しだけ涼やかさの混じった風に、夕陽に染められた絹糸の金髪がなびく。湯上がりでほんのり上気した横顔は、可憐な花のように繊細で美しかった。
 惣流アスカ・ラングレー。
 透けるような白く細いうなじの線に、シンジは思わず見とれた。
 どのくらい見つめていたのだろうか。ようやくシンジに気付いてアスカは振り返った。
「ずいぶん長湯でしたこと」
 嫌みたっぷりの声。まったく黙ってればカワイイのになぁ、とシンジは内心嘆息した。でもその中に面白がるような色が含まれているのに気付いて、少し安心する。
「待ってて、くれたの?」
「まさか」アスカはこともなげに一蹴した。「あんまり遅いんで、ミサトに見てきてくれって頼まれただけよ」
「あ、そうなんだ……」やっぱりそうだよな、と思いながら、ほんの少し複雑な気持ちが胸をよぎる。
「まぁーったく、いつもいつもどんくさいんだから、アンタは」
 惣流アスカはくすくすと笑いながら歩み寄ってきた。手の甲で、とん、シンジの胸を叩いて、

「でも、今日はよくやったわ。ちょっと見直したわよ、アンタのこと」

 思いも掛けなかった言葉に、シンジはびっくりしてアスカの顔をまじまじと見た。
 その視線に気付くと、惣流アスカの頬がさあっと朱に染まる。
「な、なによ。私がアンタをほめるのが、そんなにおかしい?」
 その剣幕と表情につられて、シンジも思わず顔を赤くする。
「い、いや、そういうわけじゃ、なくて……」
「じゃあ、どういうワケよ!?」
「いや、その……」
 ふんっ、と惣流アスカは不服そうに鼻を鳴らした。
「あんたってホントにはっきりしないんだから」
「ご、ごめん」
「ホントに悪いと思ってるの?」
「うん……」
 惣流アスカは疑わしそうな目でシンジを睨んだ。その目つきには、ついさっきの横顔の可憐さはカケラもなかった。
「まぁ、いいわ。部屋に戻ったら夕食よ。ミサトとマリィが首を長くして待ってるわよ」
 そういって、さっさと先に立って歩き出す。
 その後ろ姿を呆然と見ていたシンジだったが、
(ほめられた、んだよね?)
 思わず口元がゆるむ。
 なんだかとても幸せな気分になって、シンジはアスカの後を歩き始めた。


The End of Episode10.


NEXT
ver.-1.00 2000/09/14公開
ご意見・ご感想は
ryu1@imasy.or.jp まで

Next Episode is "The Day Tokyo-3 Shood Still".

 Nervの専横を快く思わない人々が、第三新東京市すべての電源を止める。
 何ひとつ最新設備が動かないNerv本部に、使徒が迫る。
 暗闇をさまよう子供たちは、果たして使徒迎撃に間に合うのか。

第拾壱話、「静止した闇の中で」



Appendix of Episode10.

「じゃあ、レクチャーを始めるわ。他の三人も、別の機会に装備することがあるかも知れないから聞いておいて」

(でもプロトタイプな零号機は規格外なんだからあたしにはカンケーないわよね)と、聞く振りだけする綾波レイ。
(こんなビア樽私の弐号機に着せるもんですかえーそうよこういうのシンジがイチバンお似合いよっ)と、無関心を装おうとする惣流アスカ。
(泳げないのに。泳げないのに。泳げないのに。なんで僕がこんな目にあわなくちゃいけないんだよぅ)と、ほとんど泣きそうな碇シンジ。
(いけない、ちゃんと聞かなきゃ。でもリツコさんは今、いったい何語を喋っているんだろう)と、途方に暮れる帆足マリエ。

(……………………。)
 ミサトの苦労が、少しは分かったような気がするわ、と内心ため息をつく赤木リツコ博士であった。







 斎藤さんの『EVANGELION「M」』Episode 10.後編、公開です。







 そうだよね、怖いよね。

 ほとんど身動きできない状態で、
 灼熱の溶岩の中に、
 頼りない命綱で、
 潜っていく・・・・

 おまけに下には使徒。



 味方はいるけど、
 遙か遠くで実質一人。



 よくやったぞー
 シンジよくやったぞー


 ちゃんとお褒めの言葉もいただいたし、
 よかったよかった (^^)



 いや・・・あれだけのことしたんだ・・・・
 もちっとほしかったかもな。。

 塀を低めにしてもらうとか。






 さあ、訪問者のみなさん。
 10話目いった齊藤りゅうさんに感想メールを送りましょう!









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