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(承前)
「よぅ」
ゲートをくぐるなりいきなり声を掛けられ、シンジは少々慌てた。
振り向くと見覚えのあるころんとした体躯がゲート脇に立っていて、シンジは少し驚く。
「なんですか? 帆足、いっさ?」
言い馴れない単語に口篭もるシンジに、帆足はにっと笑ってみせて、
「階級はいらんよ。ここじゃあただの飾りだからな。本当に偉いのは司令と副司令だけ、あとはみんな平社員だ」ぽんっ、と軽くシンジの肩を叩く。
「いいものを見せてやろうと思ってな。発令所に入ったことは?」
「えっ、いえ、まだ……」突然聞かれて戸惑うシンジ。
「じゃあまだMAGIも見たこと無いんだな。よし、案内してやるから」
「えっ、でもシンクロテストがあるって、リツコさんに呼ばれてて....」
「りっちゃんなら急な仕事が入ったそうだ。テストはまたこの後日ってことでな」
当たり前のように云うと、さっさと本部へ向かうエスカレータに向かう。
どうしようか判断に迷ったものの、結局シンジは帆足の後に続くことにした。
ジオフロントを一望できるカフェテリア。
「あら、リツコ?」
珍しく暇そうにコーヒーを啜っている親友を見つけ、ミサトは声をかけた。
「今日はシンクロテストがあったんじゃないの?」
「急遽取り止め」めんどくさそうに返事をする赤木リツコ。膝においた資料をめくる手もなんとなく気だるそうだった。
「とりやめ?」ミサトはぽかんとした顔になった。マイペースな赤木リツコがそうそう簡単に予定を変えることなどないのに。
「珍しいじゃない、いったいどうしたの?」
リツコは切れ長の目元をひらめかせ、ミサトを見た。男ならイチコロ、という流し目だったが、あいにく十年来の腐れ縁が相手では効果は期待できそうにない。
「理由はこれよ」開いていた資料を無造作にミサトに示す。
「何よ、一体……」面食らったミサトはその表紙を見てさらに怪訝な表情になる。
「にほんじゅうかがくこうぎょうきょうどうたい?」
「そこが作った人型陸戦兵器、その諸元概要」
「ひとがたりくせんへいき?」鸚鵡返しに繰り返したものの、それでようやく思い当たる。「ひょっとして、前からウワサのあったアレ?」
「ええ、来週公試運転を行うそうよ。ご招待状が来てるわ。私と、あなたに」
苦い顔になるミサト。
「冗談じゃないわよ。悠長にそんなものを見物しに行っている暇があると思う?」
「いいえ。でも行く羽目になりそうよ」
どうして? と訊きかけて、ミサトは悟る。「まさか、あの宿六が?」
「ご明察」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。なんで私が、帆足一佐に指示されなきゃならないの? あっちは一佐といっても技術士官なのよ?」
「副司令の許可かも取ってあるそうよ」
ぐっと詰まるミサト。事実上の上司の名を出されてはぐぅの音も出ない。
「…………よくもまぁ、副司令が許可したものね」
「副司令のことですもの、何か思うところあってのことでしょうけど」コーヒーカップを片手に、リツコは軽く髪を掻き上げる。
「なによ、その思うところってのは?」不機嫌そうにミサト。
「さあ、そこまでは私にもわからないわ。偉い人たちの考えることなんて、私たちの想像の範囲外よ」
「宮仕えは辛いわよねぇ」
「ヒトゴトじゃないわよ。スケジュール、明けといてね」
「わかったわよ」まったくあの宿六ったら何を考えているのやら。ミサトはぶつぶつ文句を云いながら返事をした。
セカンドインパクト。
二十世紀最後の年に訪れた未曽有の大災厄を、人々はそう呼んでいた。
南極大陸を跡形もなく消滅させたそれは、世界規模の津波と海水面の上昇、そして地軸の変位をもたらした。爆発の衝撃波は音の速度で地球を一回りし、薄っぺらい大気を掻き回して気圧の勢力圏を滅茶滅茶に崩した。
そうして世界中は未だかつて想像だにしなかった荒々しい自然の顎に飲み込まれたのだった。
海沿いの都市は水面下へ失われ、数ヶ月間続いた異常気象のために食料の供給が滞り、人類のほぼ半数が死んだ。その混乱の中、各地で起った極地紛争によりさらに生き残ったうちの三分の一が失われ、滅亡の際になってようやく人類は、降り懸かった危機を乗り越えなければ自分たちに未来はないことに気付いたのだった。
セカンドインパクトの原因は長い間不明とされてきた。だが、近年になってようやく大質量隕石の直撃であるとの調査報告書が提出され、一応の説明は付けられていた。
だが、それは真実ではない。
1990年代半ば、人類は南極大陸で巨大な地下空洞と共に正体不明の人型の物体を発見した。それは以後使徒と呼称されるようになるが、巧妙に敷かれた情報管制のために、それを知るものはごくわずかに限られた。主要各国の科学者たちによる調査隊が密かに編成され、秘密裏に調査は進められた。
だが二十世紀最後の年、まだ調査中だったそれは原因不明の大爆発を起こす。
その爆発は氷の大陸を打ち砕き、世界中に恐怖と混沌とをもたらすこととなったのだ。
「じゃあ、僕たちのやってることって………」呆然としたシンジの台詞に、帆足は頷いてみせた。
「そうだ。予想され得るサードインパクトを未然に防ぐ。それがNervに与えられた至上命令。そしてそのための、エヴァンゲリオンなのさ」
帆足はにっ、とシンジに笑いかけた。
「途方もない話だろ? まぁ、にわかには信じがたいだろうが」
「えっ、いえ、そういうわけじゃ……」だが、正直なところ、話が大き過ぎてピンとこない。今まではただ怖さを押し殺して無我夢中でエヴァに乗ってきただけだったのに、いきなり「キミの役目は人類を守ることなんだよ」などと面と向かって云われても、なんだか漠然とし過ぎていてまるで想像がつかなかった。
だが帆足は気にしたふうもなく、
「いや、そう思う方がむしろ当たり前だ。俺が君の立場だったら、やっぱり信じられないと思うしな」
本部へと向かう長大なエスカレータ。幾つめかのゲートがごうん、と開き、機械油の匂いの混じった風がシンジたちを包む。
「俺達は危機がすぐそこにあることを知っている。でもそのことにあまりにも慣れすぎていて、Nervの連中はみんなイカれちまってるのさ。俺や、葛城も含めてな。そうでなきゃ、君みたいな子供を、エヴァに乗せる訳がない」
帆足は自嘲したように云った。
「誰だってこんなこたぁやりたかない。だが、誰かがやらなきゃならん。だから俺達は、ここにいるんだ」
そう云った帆足の横顔にはそれまでの飄々とした様子とは違うものが浮かんでいて、それに胸にずしりと来る重みを感じたシンジは戸惑った。だが続いて出た帆足の言葉はさらにシンジを混乱させた。
「君にはすまないと思ってる」
「え…………」
「もうすぐ弐号機と新しいパイロットが来日する。参号機も近々届く。そうすれば君が無理に乗る必要はなくなる。君が望むなら、予備役というカタチでだが、パイロットを降りても構わない。葛城も無理にとは云わないはずだ。だから、悪いがもう少しだけ付き合ってくれないか」
「そんな……」
全く予想外の言葉だった。今までムリヤリ乗せられてさんざん恐ろしい目にもあったものの、ようやく僅かながら覚悟も出来てきてなんとかやっていこうと思い始めた矢先だというのに。
だが勝手だと思う半面、シンジは漠然とした不安に襲われてもいた。何が不安なのか自分でも分からない。ただとても心細い気持ちにシンジはなっていた。
「僕が降りたら……」
それを押し殺すように、シンジは帆足に問うた。
「僕がエヴァを降りたら、綾波や帆足さん…マリエさんは、どうなるんですか?」
帆足はその言葉に小さく眉を跳ね上げる。
「なにも。今まで通りだよ。こういっちゃ悪いが、君と違ってあいつらは生え抜きのパイロットなんだ。良くも悪くもガキのころからエヴァに乗ることが当り前として育てられてきてる。今更降りろと云われたところで、途方に暮れるのがオチだ」
そのとき、エスカレータの終端に着く。
「さ、こっちだ」と、帆足は先に立って歩き始めた。
いつも小さな通信ウィンドウを通してしか見たことがなくて、初めて自分の目でみるその空間は、恐ろしく広大に感じられた。
見上げる巨大なスクリーンに、第三新東京市を中心とした芦の湖一帯の俯瞰図がワイヤフレームで描き出されている。周囲は絶え間なく続く喧騒と計算機の立てる電子音と唸りに埋めつくされ、シンジは自分がまるで別世界に来てしまったような気分になってしまった。
それらを背負って振り返れば、小さな家ほどもある三つの鋼鉄の筐体が並ぶ。その一つを拳でこんと軽く叩き、帆足は、
「こいつがMAGI。正確に言えば、ここにあるのはその中枢のを司る三台のスーパーコンピュータだ。こいつをサポートするサブシステムが、ジオフロントを中心に第三新東京市全体に配置されている。そいつらがEVAのサポートやらNerv本部の管理やら兵装ビルの制御、果ては上の街の信号から風呂場の湯沸かしまで制御してるんだ。いってみれば、MAGIシステムってのは第三新東京市そのものなのさ」
そんなスゴイものをそんなふうに気安く叩いていいんだろうか、とシンジは一瞬思ったものの、
「帆足さんが、つくったんですよね?」帆足マリエから聞きかじった知識を披露してみる。
「いや、基礎理論とOSを作ったのは赤木先生だ。俺は開発初期にハードウェアとファーム周辺を手伝わせてもらった程度さ。元が回路屋だからな。白状すると、こっちの方は未だに素人に近くてね」とキーを叩く仕種を見せる。
「赤木せんせいって、リツコさんのことですか?」
「あ? ああ、いや、違うよ。りっちゃんの母親だ」
「リツコさんの、お母さん……?」呟くように漏れた言葉に、帆足は頷いて見せた。
「そう、そして俺の研究生時代の先生だよ。赤木ナオコ博士。人格移植OSの第一人者だった人だ」
「じゃあ、リツコさんとは知り合いなんですか」
「ああ。あの子がこんなちっちゃかった頃からな」とシンジの肩くらいの高さに掌をかざす。へー、リツコさんにもそんな頃があったのかぁ、と失礼なことを考えながら、シンジはふと思いついた疑問を素直に口にした。
「じゃあ、その、リツコさんのお母さんていうのは、今は……」
だが、その問いかけに帆足の口元から笑みが消えた。
「あの、なにか……」まずいことをきいたんだろうか、と少々うろたえる。
「ああ、いや、そういうわけじゃないんだ。ただ、ちょっと、な」
帆足の言葉の意味を掴みそこねて、シンジは首を傾げた。
「赤木先生は失踪したんだ。五年前に、手がかり一つ残さずな」
「え……」
「MAGIシステムが完成した直後だった。俺も八方手を尽くして探したんだが、行方はまるで掴めなかったよ。何が理由だったのか、何処に行ったのか、今でも分かっていない。俺もりっちゃんもまだ諦めていないし、いずれは必ず探し出せると思ってはいるが、なにぶん失踪の理由が皆目見当がつかなくてなぁ。最近じゃあ、正直赤木先生が自分から姿を現すのを待った方がいいような気もし始めてるんだ。りっちゃんは少し違う意見を持ってるみたいだが」
「そう、ですか……」失踪、と聞いていてもまるで実感が沸かなかった。その堅苦しい言葉がなんだかドラマの中の話を聞いているみたいで、込み入ったオトナの世界にうっかり足を踏み入れてしまったような気がしたシンジは、自分の好奇心を少しだけ後悔した。
それが表情にでたのだろう、帆足は頭をかいた。
「いや、すまんすまん。なんだかヘンなハナシになっちまった。本部にいればいずれは耳に入る話だが、今はまだ知らなくていいことだったな」そしてにっと笑ってみせ、「葛城やりっちゃんには俺が話したことは黙っといてくれ。バレたらどやされちまう」
「は、はぁ……」不得要領な顔で頷くシンジの肩を、帆足はぽん、と叩いた。
「さて、今度は発令所へ上がってみるか。たまには葛城の代わりに偉そうに立ってみるのもいいだろ」そう云ってさっさと歩き出してしまった。
シンジはほんの数瞬MAGIを複雑な眸で見上げていたが、慌てて帆足の背を追った。
白いシーツが盛り上がると、そこから伸びた細い腕がベッドの脇のテーブルから小さな箱を取り上げた。しゅっ、という音とともに安物のライターが薄暗い室内に小さな明りを灯す。俯せの姿勢の下で豊かな胸元がベッドとの間で柔らかく歪む。
「まだ吸ってたのか」咎めるようではないものの歓迎もしていない帆足の言葉に、ミサトは笑ってみせた。
「半年ぶりよ。誰かさんが一緒に帰国できなかったせいでね」心地よい気だるさの中で、喉を鳴らす猫のような声。
「そりゃあ光栄だな」言葉ほどには光栄に思っていない口調にミサトは唇を尖らせた。悪戯っぽい笑みを浮かべ寝返りで男の胸の中に滑り込むと、指に挟んだ煙草を口元にムリヤリ押しつけてやる。
仕方なく帆足は全然旨くなさそうに煙を吹かすと、煙草を唇に咥えたまま、
「明日からちょっと松代に行ってくる」
「MAGI二号?」
「ああ。一週間程筐体の進捗を見てくるよ」
「最後の仕事場を、でしょ」
「まぁな」帆足は苦笑を押し上げる。「新MAGIシステムが立ち上がれば、俺の役目も終わる。一銭でも多く退職金を分捕れるように、精々頑張っておくさ」
「本当にNervを辞めるの?」
「そういう約束だからな」
「副司令が承知すると思う?」
「さあな。そのときになってみないと分からんよ」
「リツコに全部押しつけるつもり?」
「りっちゃんならじゅうぶん一人前だよ。俺が手を貸すことなんてもう何もないさ」
「マリエのこともあるわ」
その名に、帆足の眉間に皺がきざまれる。
「それに、私、辞めないわよ」半分ほども灰になった煙草を帆足の唇からはがすと、灰皿でもみ消した。
「…………わかってるさ」
「わかってない」その拗ねたような小さな呟きに、帆足はため息をついてその細い肩を抱き寄せる。
ミサトは帆足の胸元に頬をすり寄せると、
「ねぇ。いつになったら私のこと、見てくれるの」
「今だってちゃんと見てるさ」
ミサトは眸を閉じ、やさしい声で云った。
「うそつき」
自動ドアが開き、その途端にむっとする熱気が時田を包み込んだ。
今日も暑い。今の日本には真夏日など珍しくもないが、それにもまして今日は一段と蒸す。ただでさえここは長野盆地の中心部に近く、盆地特有の照り返しが容赦なく大地を焙る。それを煽るように響く蝉の声。じんじんと耳に染み入るそれに顔をしかめながら、強烈な陽光に手をかざして時田はビルを出た。
手を挙げると一台のタクシーが視界に滑り込む。開いたドアとともにひんやりした空気が流れ出してきた。
「どちらまで?」ぶっきらぼうな運転手の声に「内務省庁舎まで頼む」と告げる。
ドアを閉め、がちっとメータを倒すとミッションをDレンジに入れながら運転手が訊く。
「おひとりで?」
「今のところは」走り出した窓の外を伺うと、「尾行はいるかもしれませんが」
「ま、いいでしょう」目深に被った運転帽の庇を少しだけあげた。サングラスの下の眸の色は見て取れないが、口元に見覚えのある笑みが浮かんでいる。
「ずいぶん凝ったことをするものですな」呆れたような時田の言葉に、運転手は、ははっと笑った。
「いや、ここのタクシー会社に僕と良く似た体形の男がいましてねぇ、勤務態度が良くなくてよく無断で休むらしいんですよ。で、ヒマなときにはときどきその男の代わりにこうしてアルバイトをしてるってわけです。や、これは内緒ですよ。これでも国際公務員ですからアルバイトがバレるとマズいんです。それに僕は二種はおろか、免許と名のつくものなんて何にも持っていないんで」
気楽な口調に時田はため息をつく。
「だからといって、あなたがこんなスパイの真似事をすることはないでしょう?」
「いや、帰国したのはいいんですが、これがまたヒマでして。引き継ぎが終るまで何もすることがないんですよ。ま、二号の新しい筐体ができ上がれば、第三とこっちの行ったり来たりで寝る暇もなくなるんでしょうが。
それに今回は用件が用件ですから、念には念を入れ、というところですか。この次はちゃんとした格好でお目にかかりますよ。あ、運転席のシートの下、見てもらえますか」
奥のほうに大きめの封筒が押し込んであるのを認めると、時田はそれを引き出した。
「例の報告書です。日本政府に渡された奴はダミーが混じっていて、とても読めたもんじゃあありませんが、そいつは正真正銘ホンモノ。どういうふうに使うかはお任せしますが、くれぐれも入手元に付いては他言無きようにお願いします」
時田は封筒の中身に目を通し、表情を厳しくする。
「どうしてこれを私に?」
「まぁ、保険みたいなものです。人類の未来を担うのに、Nervが最良の組織とは云いかねますから」
「その最良とは云いかねる組織に、あなたは籍を置いているのではなかったですか」
「最良とは云いかねますが、正直今のところ他に存在しないというのも、また事実です」
その返答は時田には気に入らなかったが、否定のしようもない。仕方なしに封筒を鞄の中にしまい込んむ。
「それより、例の件ですが」何事もなかったのように、運転手は再び話し始めた。「彼らは公試運転の時に何かやらかすつもりです」
その言葉に時田の眉が反応する。
「予想はしていましたが……」とはいえ、謀略が行われつつあることが内部の人間の口から漏れたのは、それなりにショックだった。
「公試運転で問題が起これば、計画は遅延。最悪、計画自体の中止に追い込まれかねません。議員さんたちだって、皆が皆、反Nerv派ってワケじゃない。利権にありついている連中だって少なくないんです。
でも、それじゃあ、僕は困るんです。現状、Nervの決戦兵器とまともにやり合える可能性があるのはアレだけです。対使徒戦用、なんて云ってますけど、本当はそっちが目的なんでしょう?」
むうっと唸る時田。
「例のサンプルは、もうじきドイツから届く予定です。S2機関もあと半年もあれば実用のレベルに達するでしょう。そうすれば、アレはNervの決戦兵器とほぼ同等の力を手に入れることができる。そうなれば、彼らだけに大きな顔をさせておくこともなくなります。それがあなたたちの望みでしょう?」
目を上げるとバックミラー越しに視線がぶつかり合う。そのサングラスの下の表情は伺えなかったが。
「まぁ、一応こちらでも手は打っておきますが、万が一の時には、なんとかそちらで対応してください」
「わかりました」時田はしぶしぶと返事をする。そしてフロントシートに手をかけ身を乗り出すと、声を潜め、
「それより、前回の話は考えていただけましたか。あなたほどの人間ならば、いくらでもポストを用意できる。このままあそこでで飼い殺しにされるのは見るに忍びない」
だが運転手はもう一度笑ってみせた。
「ご冗談を。僕はこうやって自分のいる組織を裏切っている人間です。いちど裏切りを犯した人間は、自分を守るために何度でも同じことを繰り返すもの。そんな人間を信用するもんじゃあありません。それに、バレた途端に僕は消されてしまうでしょう。彼らはそんなに甘い連中じゃあないですよ」
「しかし………」
「それに、いろいろとしがらみもあってね。今はまだ、あの組織から離れる訳にはいかないんです」
「娘さん、ですか?」
その言葉に、運転手は笑みを引っ込め、眉を顰めた。
「お調べになったんですか」
「え、ええ、まぁ……」思わぬ固い声が返ってきて、時田は戸惑った。
「まぁ、別に秘密にしている訳でもないんで、いつかはバレるとは思ってましたが、でもあまりよい趣味とは思えませんがね」
「しかし……」
「ああ、娘に手を出すのは止めておいた方がいいですよ。ご存じの通り、あれでも一応正規パイロットですから。ウチの保安部と諜報部の実力、知らない訳ではないでしょう?」
その言葉に時田は慌てた。
「いや、別に私はそういうつもりでは……」
「あなたはそういうつもりでないでしょうが、あなたのお友達がそういうつもりになるかもしれない。戦自あたりがアレのパイロットの身柄を確保しようとして、しょっちゅう小競合いをやらかしてるって聞いてますよ」
その噂は時田も聞いている。結果は毎回惨澹たるものらしい。
JA計画のほかにも、いくつかNervの決戦兵器をモデルにした非公開計画が国内で進められていると聞く。だがどれも大した成果を上げていないのが実情だ。ネックはパイロットだった。極秘裏に優秀なパイロットを養成するのは並み大抵のことではない。Nervのような世界的組織であってさえ、選出されたパイロットの人数は候補をふくめてすら両手の指に満たないのだ。
「ま、二号の建造が終ればイヤでもお払い箱になるでしょうから、その時にでもまた声をかけてください」
そう云って、運転手はすいとハンドルを切ると、とあるビルの玄関に車を横付けした。
「はい、着きましたよ。二千五百三十円です。領収書、切りますか?」気のいい運転手の口調に、時田は思わず言葉を失った。
「あ、ああ、頼む」
料金メータから掃き出された紙切れにさらさらと時田の名前を書き込むと、運転手はにっと愛想笑いを浮かべて釣りとともに手渡す。リヤの自動ドアを開き、
「ご利用ありがとうございました」
どう見ても本物の運転手にしか見えないその口調に送り出されて、時田はタクシーを降りた。
Nerv本部第三実験場。
三本のシミュレーションプラグが並ぶ。モニタに映し出された子供たちの表情は、真剣な面持ちの綾波レイと碇シンジ、対して帆足マリエはまるで眠っているかのような穏やかな表情だった。
「ホントに寝てるんじゃないでしょうね」ミサトのそんな言葉に、女性オペレータがくすりと笑う。
「邪魔するんだったら、あっちにいっててちょうだい」刻々と送り込まれてくるデータから目を上げずに、リツコ。女性オペレータに「どう?」と問う。
「1stと3rdは、ハーモニクス全て正常位置。4thはやや不安定です」
「あいかわらず、か。帆足一佐が帰国して、少しは落ち着くかと思ったんだけど」
「それもあるけれど、それより今はシンジ君に影響が出ていないことを喜ぶべきじゃないかしら」
リツコの言葉に婉曲に非難されているような気がして、ミサトは眉をしかめた。それはそうなんだけど、さ。
「で、そのシンジ君は?」
「シンクロ率、前回より五ポイント上昇しています」
その報告にほぉっと声が漏れる。
「凄いわね。毎回記録を更新してるじゃない」
「そうね。レイも伸びてきてはいるけれど、それでも十ポイント以上差があるわ。マリエにいたってはシンジ君の半分にも満たないわね」
ミサトは爪を噛む。
「ままならないものね。パイロットとしてのキャリアでいえば、マリエの方が長い筈なのに」
「長ければいい成績を残せるというわけでもないわ。レイと2nd Childrenだってキャリア自体はそれほど変わらないはずでしょ」
2nd Children。天才と呼ばれている少女。確かに彼女の成績は群を抜いている。そして同時に、それを裏打ちするための血のにじむような努力がこれまでの彼女を支えてきたことも、ミサトは知っている。
「才能の差、というのかしらね。こういうのも」
「さあ、どうかしら」とリツコは手元のシートに何事かを書きこみながら気のない返事をした。
「どのみち今はまだシミュレータとシンクロさせている状況だし、実際に参号機とシンクロさせてみないとなんとも云えないわ。けど、場合によっては次の3rd
Childrenと交代することを考えた方がいいかもしれないわね」
「マリエを降ろす、ってこと?」ミサトは横目でじろりとリツコを睨んだ。
「それを決めるのはあなたよ、ミサト。技術部としては勧告を出すだけ」
でも、あなたにとってもその方がいいんじゃないの? そう言外に込められた言葉を受け取って、ミサトは口元を歪めた。意識せず固い声が出る。
「本当に配属されるかどうかも分からないパイロットをアテにしても仕方ないわ。今はなんとかマリエを使えるレベルにしてちょうだい」
「わかってるわ、葛城一尉」そしてマイクのスイッチを入れ、「ごくろうさま。三人ともあがっていいわよ」
エレベータというものは、どうも時間を持て余すものらしい。特に、なんとなく異性を意識し始めている少女たちといっしょとなれば、なおさらだった。
シンジは落ち着かなげに視線をさ迷わせた。扉の前に立つ綾波レイの無関心な背中と、壁にもたれ掛かって足元をぼんやりと見ている帆足マリエの眸。誰も言葉を発しない。アクチュエータの低い唸りとカウンタが階を刻む音だけが響く。
相変わらず沈黙は苦手だ。別に自分のせいでもないのに、なんとなく責められているような気分になってきてしまう。なにか話さなきゃ、と焦るものの空回りするばかりで何も言葉がでこない。だが、ふと先日の帆足の言葉が脳裏に浮かんだ。
(こういっちゃ悪いが、君と違ってあいつらは生え抜きのパイロットなんだ)
僕はエヴァを降りることが出来る。僕だけがエヴァを降りることが出来る。綾波や帆足さんはダメなのに。それはどういうことだろう?
その思いに押されて、シンジは口を開いた。
「あ、あのさ、帆足さん」
マリエは顔を上げると、小首を傾げた。「なに?」
そのまっすぐな視線に少し気後れしたものの、シンジはずっと心の片隅に引っかかっていた疑問を口にした。
「帆足さんは、どうして、エヴァに乗るの」
その問いに、マリエの口元がわずかに動いた。また視線を足元に戻すとほんの少しの間口を閉ざし、そして云った。
「約束だから」
「約束?」その口調にいつもと違うものを感じ取ってシンジは思わず聞き返した。
「そう、約束。とても大切なひととの」
大切なひとって? シンジがそう聞こうとしたとき軽い減速感があり、ベルの音とともに扉が開いた。制服のスカートを揺らしながら、綾波レイの横をすり抜けてマリエはエレベータを降りた。振り返ると、しかしそこに居たのはいつも通りの帆足マリエ。
「ちょっとミサトさんのところに寄ってくね。お父さん、今日松代から帰ってくるっていってたから、夕飯いるかどうか聞いてくる。上で待ってて」そしてレイに軽く手を振ると、
「じゃ綾波さん、また明日ね」
閉じられたドアがマリエの笑顔を隠した。
苛立たしげなノックの音とともに、慌ただしく会議室の扉が開いた。状況を確認しあっていた時田たちの視線が、一斉に入ってきたエンジニアに向けられる。分厚いダンプリストがどさりと机の上に投げ出された。
「報告を」
時田の言葉に頷くとエンジニアは、リストをめくり一部を指した。「ここが問題の部分です」
その部分に目を走らせた時田は呻いた。
「これは……」
「ええ、典型的な攻撃ルーチンです。ウィルスですよ、こいつは」エンジニアは吐き捨てるようにいった。「昨夜走らせた自動バックアップのログをチェックしてたんです。昨日触っていないモジュールなのにバックアップファイルのリストに入っていたから、変だと思って調べてみたんです。そしてたら案の定……」
「ファイルサイズが違っていたってわけか」
「はい」
「まさか、カーネルモジュールに感染していたとはな」
「OSが立ち上がってから三十分後に動作するようになってます。こいつが動くと分岐テーブルの大半が書き換えられてしまって、まともにOSが動かなくなります」
「発病する前に見つかったのは不幸中の幸いだったか」時田の皮肉な物言いに、エンジニアが苦い顔で頷く。開発環境のセキュリティには十二分に注意を払っていた筈なのに、こうもあっさりクラックを許してしまったのだ。ソフトウェア班の一員として、やはり内心忸怩たるものがあるのだろう。
とはいえ、ファイルサイズチェックに引っかかるなど随分杜撰なやり方だと、時田は思う。痕跡を残さず感染させる方法などいくらでもあるというのに。本格的な妨害ではなく単なる時間稼ぎか、あるいは警告か。いずれにせよ、ウィルスを送り込んできたということは、相手はこちらのOSの構造を熟知しているということだ。まだ何か裏があると考えるべきだろう。
「とにかく早急にワクチンを作成して対応しろ。それから、他にも感染しているかもしれん。全モジュールに対してスキャンを実行。不審なコードがあれば、すぐに知らせるんだ」
頷いたエンジニアが慌ただしく会議室を後にすると、時田は集まった面々に指示を出す。
「各班、担当部分の再チェックを行え。どんなに小さなことでもかまわん、気がついたら私に連絡しろ。特に動力班は慎重にな」
緊張した面持ちで部下たちが退出すると、会議室に残された時田に事務担当の部下が、
「とうとう始まりましたね」
「予想されていたことだ。この程度はまだ序の口に過ぎん。次はもっとやっかいな手でしかけてくるぞ」
「松代の方にはなんと?」
「今はまだいい。我々だけで対処できているうちは報告は不要だ。それより、な」時田はぎょろりとした目を部下に向けた。相手も頷いて見せる。
「内通者ですね」
「そうだ。今まで洗い出してきたリストを再検討してくれ」
「除きますか?」
「それは状況による。とりあえず今は特定の方が先だ。急ぐのも勿論だが、決して悟られないようにな」
「わかりました」
その部下も退出すると、時田は椅子に深々と身を沈めて天を仰いだ。目を閉じ、長い長い息を吐き出す。公試運転まであと五日。ようやくのことでここまできたんだ。
かっと目を見開くと、無機質な天井のパネルを睨み付ける。
この程度のことで負けてたまるか。必ず、必ずやり遂げてみせるからな。
第二十八放置区域。旧東京再開発臨海部。
十五世紀以来この島国の中枢を成してきたこの地域が瓦礫の野に変じたことは、過去にも数度ある。二十世紀半ばの世界大戦末期には、その大部分が焦土と化したことさえあった。だが、その度に生き残った人々は集まり、再び街を起こし、新たな復興と繁栄をもたらしてきた。
二十一世紀初頭の極地紛争の際に、この地に一発の弾頭が投下された。新型爆弾とのみ伝えられるそれは、後にN2兵器と呼ばれるようになるものの原形だった。
今もって誰が東京上空にあの爆弾を投下したのか、そもそもどこの組織があの爆弾を作り上げたのか、真実は未だ闇の中に置き去られたままだ。
だが未熟なプロトタイプがもたらした結果は、想像を絶するものだった。
東京消滅。
核兵器を遥かに越える熱量が、半径約十キロの地表を融かし沸騰させ、そこにあったすべてのものを呑み込んだ。数百万とも云われる人命が、文字どおり一瞬にして消え去ったのだ。
後に残ったものは、冷えてガラス状に固まった、不毛の大地。
もはや、復興のために集まる人々もなく、そこにはただうち捨てられた大地が茫寂と広がっているだけだった。
「なにもこんなところでやることないのに」
だから、そんな葛城ミサトのグチも頷けないものではない。憮然とした表情でVTOLの窓の外に広がる荒涼たる風景を眺めている。
当時日本にいなかったとはいえ、ミサトは消えてしまう前の東京の姿を今だ鮮明に覚えている。ミサト自身その都会を故郷として育ったのだから、それは無理もないことだった。もし自分が父について南極へ行っていなければ、彼女もここで母親や知人達とともに骨も残さず消え去っている筈だった。だから余計に、偶然だけで生き残ってしまった自分が死者達に責められているような気がするのだ。「何故あなただけが生きているの?」と。
だが一方、隣に座る赤木リツコにはそういう感慨は全く無くて、平然と携帯端末に送り込まれてくる情報をチェックしていた。元々が松代、第二新東京市の出身で、混乱はあったものの結局は他所の大惨事、という受け止め方がせいぜいだった。それはそれで分からないでもないけど、こっちに当たるのは止めてちょうだい、とその横顔が云っている。
セカンドインパクトそのもので係累を失った人間は幾らでもいるし、だから今更という思いもある。ミサトの母親のようにようやくのことで生き延びたにもかかわらず、同じ人間の手によって命を落としたとあっては、それはまた別の感情があることも理解できなくもないが、だからといってその矛先をこちらに向けるのは止めてよね、とリツコは思う。何と云われようが、人間分からないものは分からないのだ。したり顔で分かったような振りをする連中の方が、余程タチが悪いんじゃないかとも思う。
多かれ少なかれ皆エゴイストなのだ。ただそれを表に出すか出さないかだ。
どんな人間であろうと仮面を被って生きている。その仮面をべろんと引き剥がせば、およそ正視に堪えないような本音が吹き出す訳で、それを面の皮一枚で何とか押し留めているのだ。科学者のような人種の方がその本音が比較的分かりやすい部類に入る分だけ、まだマシなのではなんじゃないかしら、とリツコは真剣に思っていた。
そういうこともあって、傍らにいる親友は別の意味で仮面を剥がしてもその下からまた同じ顔が出てきそうで、だからリツコにとっての葛城ミサトは安心していられる相手だった。それはもちろん思い過ごしに過ぎないのかもしれないのだが、それでも構わない、と思えてしまうのが十年来の付き合いの長さなのだった。
だが、もっと付き合いの長い筈の帆足マサキには、少し違う印象をリツコは持っていた。笑顔の底にあるものがどうしても読み取れないのだ。
帆足と出会ったのは、リツコが十才のとき。度々訪れていた母である赤木ナオコの研究室でだった。当時帆足は、研究生としてナオコの下で従事していた。
早くに父親を亡くして母方の祖母のもとで育てられたリツコには、帆足は気さくに付き合える年の離れた兄のようであり、父親の面影を映す存在でもあった。昔ほどではないにせよ、今でも帆足に対しては葛城ミサトとは違った気安さがある。それはリツコにしては珍しい、甘い感傷でもあるが。
だが今の帆足には、その笑顔に淡いベールが掛かったように感じていた。時期で云えば、ちょうど帆足が母の下を離れて米国に渡った頃からだ。あのときに何があったのか、リツコには知る術もない。あるいはあのとき帆足に寄り添っていた女性が、その原因だったのかもしれない。
今も何を思って帆足はNervに籍を置いているのだろうか。
現在帆足が掛っている新MAGIシステムにしたところで、本来ならば彼が担当するような仕事ではないのだ。超高速ネットワークの為のハードウェアとファームウェア、そしてその上で動作する独自プロトコルの開発、実装。ちょっと頭が回る連中ならば大した苦労もなく出来るような代物だった。Nervの技術スタッフならば苦もなくやってのけるだろう。なにより構想自体古臭い上に、方法が野蛮なことこの上ない。何故帆足が直々にそのプロジェクト取り仕切らなければならないのか、リツコには理解しかねていた。そうなると、本部で流布されている思い出したくも無い噂が耳に蘇る。
飼い殺し。
本部はMAGIのノウハウを持つ技術者を手放したくない。だが、実際のところ本部で帆足でなければ勤まらないような仕事はないのだ。だから交渉力があるのをいいことに、技術部長というほとんど実権の無い閑職に帆足を置いているのだ、と。
穿ち過ぎた見方だとも思うが、それを否定する要因もない。もちろん帆足本人にその真偽を問えば、一笑に付されるのがオチだろうが。
今度のことだってそうだ。
連中は、自分達が作ったおもちゃを披露して誉めてもらいたがっている幼児と同じだ。そうでなければ、本来極秘であるはずの汎用戦闘兵器の公試運転をこれだけ賑々しく開く訳が無い。
なのに、こんな茶番劇に付き合えだなんて、帆足は何を考えているんだろう?
ミサトなら何か知っているだろうか? 帆足が選んだ女なのだから、リツコよりは多くのことを知っているのかもしれない。だが聞いたところで素直には答えないだろう。おしゃべり好きなくせに肝心なことについては貝よりも口が堅いのだ。こと彼女の今の家族に関しては特にそうだった。
それに、少なくとも公試運転の件を知らされたときのミサトの表情は嘘ではなかった。少なくともそういう腹芸の出来るような女ではない。それとも連絡ミス? いや、あの帆足がそんなヘマをやる筈もない。ミサトには何も知らせなくともよいと判断したのだろう。そして自分にも。
結局、自分は彼らにアテにされていないのだろう。リツコは自嘲を込めてそう思う。少なくとも冬月が、リツコよりも帆足を信用しているのは確かで、あの二人の間に流れる同志めいた感情に、リツコは淡い嫉妬のようなものを覚えていた。だがそれは、馬鹿正直に科学の徒としての道だけを突き進んできた自分自身のせいでもある。自分があの二人の計画に関与することなど、研究者として以外ならば許される筈も無いはずだった。
それとも私はまだ若過ぎるのかしら。帆足とは十五、冬月とは二十年もの差がある。それを乗り越えて彼らと同じ場所に立てるようになるには、あと何年の日々必要なのだろう。
そしてそのとき私は、母さんに追いつくことができるのだろうか?
「リツコ?」
ミサトの声にリツコは我に返った。親友の少々怪訝そうな顔からして、普段の彼女からすればらしからぬくらいの間、無防備に物思いにふけっていたようだ。いささかばつの悪い思いで、「なに?」と聞き返す。
ミサトは一瞬もの問いたげな顔つきになったが結局何も聞かず、窓の外を指差し、
「見えたわ」
ざわぁっ、と拍手の音がホールに響く。
壇上から見回せば、真正面にぽつりと放り出されるように置かれた一角を除いて、広大なその空間をテーブルと人々が埋めつくす。知っている顔。知らない顔。だがそこには一様に期待と計算とが渦巻いている。
その空気に少しだけ気分の昂揚を覚えて、時田は眸を細めた。
さぁて、いよいよだ。
ウィルスの一件以来、何度も厳重に繰り返しチェックを行ってきたが、結局何も問題は出なかった。妨害工作もあれきりで終わりというのも何か拍子抜けのような気もするが、とにかくここまで来れたのだ。
今日のこの公試運転で、Nervや戦自の連中に一泡吹かせてやることが出来るだろう。
軽く息を整えると、時田はマイクに向かって口を開いた。
「本日は、ご多忙のところ私ども日本重化学工業共同体の新型陸戦兵器の完成披露式典に起こし頂き、誠にありがとうございます」
ごく自然に言葉が滑り出す。政府の高官たち相手に何度も繰り返しすっかり頭に入ってしまった口上が、まるで自分のものではないような滔々とした声で響く。
「ご質問はのちほど公試運転の際にも受け付けますが、もしこの場で何かご質問のある方は、どうぞ」
挑むようなその声に応えて、すっと細い腕が上がる。
おいでなすったな。時田は緊張したが、それをおくびにも出さず、
「これはこれは、ご高名な赤木リツコ博士。お噂はかねがね伺っております」
「質問を、よろしいでしょうか」
挨拶抜きってわけか。上等だ。時田は内心にやりと笑った。
「帰るわ」
とんでもないことを葛城ミサトが云い出したのは、華やかな、だが彼女らにとっては憤懣やるかたないセレモニーが終わってすぐのことだった。
「ちょっとミサト?!」慌てるリツコにミサトは平然と言い放った。
「これ以上茶番に付き合ってる暇はないもの」
確かにさっさと帰りたいのはリツコも同じだ。零号機の修理、初号機の調整、そして近日中に配備される弐号機の受け入れの手配、ざっと上げただけでもやるべきことは山のようにある。帆足一佐が帰国したおかげで、資材調達のための対外交渉等、繁雑な事務手続きの大部分は任せられるようになるとはいえ、向こう二ヶ月はオーバーワークが続くことは保証付きなのだ。
だが、だからと云ってここで作戦部長が帰るなどという暴挙にでれば、下手をすれば尻尾を巻いて逃げ出したと受け取られかねない。
だがミサトは意にも介さなかった。
「そう思いたければ思わせておけばいいわ。こっちは別にメンツのために使徒と戦っている訳じゃないんだから。それに、ここにいる間にまた使徒が来るかもしれないのよ?」
それは確かにその通りなのだが、それで通ってしまうほど世の中甘くない。
「知らないわよ、あとで副司令からお小言くらっても」
「かまやしないわ」
「それに少しは帆足一佐の立場も考えたら?」
その名に痛いところを突かれたか、ミサトは眉間にしわを寄せた。
「それがあの宿六の仕事でしょう?」
不機嫌そうに云うミサトにリツコは思わずこめかみを抑える。
「公私混同よ、葛城一尉」
「うっさいわねぇ」むくれるミサト。大人気ない、とも思うが、それが葛城ミサトという人間でもある。
「とにかく私は帰るわ。あんたはどうするの?」
こうなったら義理も道理も通らない葛城ミサト。リツコはやれやれとため息をつく。
だが、正直あの陸戦兵器に興味もある。ほぼエヴァと同等のサイズにフレキシビリティに富んだ両腕、二足歩行。彼らが何を考えているのかは分からないが、エヴァを意識していることには間違いないところだろう。
「私は見ていくわ。せっかくの機会ですもの」
「そう」不満そうだが意外ではないようだった。あっさり判断を下す。「代わりのVTOLを回すよう連絡しとくわ。あんまり長いこと道草食うんじゃないわよ」
「ええ、わかっているわ」
ごうん、と腹に響く重々しい唸りとともに巨大な格納塔が開き始め、そこに現れた巨人のシルエットにリツコは一人眉をひそめた。
ずんぐりした機体に不釣り合いな位にひょろ長い手足。顔に当たるあたりにはセンサー類らしい格子がはめ込まれているのだが、それが歯をむき出しにした笑い猫の表情のように見えて、バランスの悪さを更に助長させていた。
不格好だこと。
リツコは一瞬でそう決めつけた。兵器にそういったデリカシーが必ずしも必要不可欠な訳ではないのは充分承知しているが、それにしてもお世辞にも誉められるようなデザインとは云い兼ねた。もし量産されることになったら、こいつがずらりと並んで使徒に対して戦線を形成するのかしら。そう考えると、なんだか勇ましさよりも滑稽さが先に立ってしまって、リツコはなんだかげんなりした気分になった。きっと全滅するまでにものの五分と掛からないだろう。
でもまぁ、見かけよりは高性能なのかもしれない。そう思い直して、リツコはもうしばらく起動を見守ることにした。
”全動力開放”ガラスで区切られた制御室から、マイクを通した起動シーケンスの声が聞こえてくる。
”圧力、正常”
”制御棒、全開へ”オペレータが命令を復唱し、それと同時に背中から制御棒らしき細長いものがするすると伸びる。
”動力、臨界点を突破”
”出力正常”
”歩行開始”
”歩行。微速前進、右足前へ”アクチュエータの唸りとともにゆっくりと右足が持ち上げられ、そして歩を踏み出した。ずしん、と重い音が管制所にまで響く。その振動に窓に鈴なりの観客たちが歓声をあげた。
”バランス正常”
”動力、異常ナシ”
”了解、引き続き左足前へ”
馬鹿馬鹿しい、と思わざる得ないような大仰さだったが、それでもやがて滑らかな歩調で動き始めたJAに、リツコは素直に感心した。
(へぇ、ちゃんと歩いてるわ)
最初の大仰な操作とは裏腹に、歩き出してしまえば思いの他洗練された動きをする。制御室の方を伺えば、時田が「どうだ」といわんばかりに大きな目を緩ませてリツコを見ていた。
どうやらさっきまでの仰々しい掛け声は、要するに観客向けのセレモニーというワケらしい。最初はそういうふうに動かしてみせただけで、おそらく今はもうJAは、ほぼ自律行動に移っているのだろう。心なしか、オペレータたちも相好を崩しているようにも見える。
ふうん、なるほど。これだったら十分くらいは持つかもしれないわねぇ。
リツコがそう思ったときだった。
「リアクター、内圧上昇しています。許容値を突破」
その報告に、時田は眉を潜める。定常歩行モードに移行しただけで、何も負荷はかけていない筈なのに。まだ制御プログラムにバグがあったか? いや、ヒートランは十分に行った筈だ。では何が原因だ?
だが、ともかく出力を下げなければならない。即座に指示を出す。
「減速材を注入しろ」
「駄目です。ポンプの出力が上がりません」
時田は目を剥いた。
「バカな。この程度の歩行シーケンスなら何度も試験した筈だぞ」
「それはそうなんですが……」報告を上げた部下も言葉を濁らせる。
「もう一度最初からチェックしろ。焦るな。確実にな」
応える部下から目を窓の外に移せば、JAの歩行速度が上がりつつあった。幸い、進行方向には障害物がないとはいえ、対応が遅れると観客たちに気付かれてしまう。
まずいな。時田は焦りを感じた。それを押え込んで、
「どうだ」
「やはり駄目です。出力を抑えられません」
「くそっ」時田は悪態をついた。「いったい何が起きたんだ?」
「わかりません。通信回線は生きているのに、こちらからの命令が全て無視されています」
「どういうことだ?」
「さあ。でも、まるでここではなくて他からの指示で動いているような……」
「バカな、通信データは暗号化されていて……」そこで時田は言葉を飲み込んで、ぎっと唇を噛み締めた。
ウィルス。一つだけ書き換えられたモジュール。そうか、そういう手があったか。
侵入者の狙いはOSそのものではなく、JAへ命令を伝える通信プロトコルとその暗号方式だったのだ。それがわかれば誘導波に割り込んで全く別の命令を与えることも可能だ。
迂闊だった。ウィルスはこちらの目を誤魔化すためのものだったのかもしれない。帆足の云うことを真に受け過ぎたか。だが今はそれを悔いている場合ではなかった。
まだ手はある。緊急用の通信回線を使えば、制御をこちらに取り戻せる筈だ。
「裏口から入れるか?!」時田の声に部下が怒鳴り返す。
「今やってます!」
慌ただしくなった制御室の動きにリツコが何事だろう、と首を傾げたとき、窓際のギャラリーたちから、おおっ、というどよめきを上がった。
窓を振り返ったリツコが見たのは、恐ろしい勢いでセンターから遠ざかっていくJAの後ろ姿だった。
「左右脚部のアクチュエータ、出力最大まで上がりました」
「オートバランサ、限界値ギリギリです。これ以上前進速度が上がると、姿勢制御に問題が出ます」
緊迫した声が飛ぶ中、時田はオペレータ席に張りついて緊急回線を開いている部下の手元を睨み付けた。
「まだか」
「もうちょっとです!」そして最後のキーを叩くと「繋がりました!」
おおっ、と管制室に歓声が走った。だが、
「なんだこりゃ?!」部下の悲鳴がその声をかき消した。
”Goodbye cruel world
I'm reaving you today
Goodbye
Goodbye
Goodbye
Goodbye all you people
There's no thing you can say
To make change
My mind
Goodbye”
「ふざけやがって……」
そう呟いた瞬間、ディスプレイが暗転した。
「通信回線、全回線切断……」
呆然とした部下の声に、時田は怒鳴った。
「再接続、急げっ!」
「ダメです、全てRefuseされました」
「諦めるな、続けるんだっ」
だが、別の報告が時田に止どめを刺す。
「設計上ではそろそろ動力炉が臨界です。炉心融解まで、推定あと十五分」
時田はぐっと唇を噛み締めた。だんっ、と制御卓を叩く。なんてことだ。なんてことだ。ここまできてっ……。
「……センター全体に避難勧告を出せ。時間はまだある。パニックを起こさせないようにしろ」時田は低い声で云った。怒りと痛恨を押し殺した低い声。「それから、松代に連絡を」
「主任……」その言葉に部下たちが息を呑む。
「云うな」
呻くように、時田はそう呟いた。
それは事実上の敗北宣言だった。
同日十六時三十五分。JA、原因不明の暴走ののち、転倒、大破。原子炉の炉心融解は起こらなかったが、反応容器の破損による水蒸気爆発が発生し、高レベルの放射性物質が大気中に放出された。
第二十八放置区域のほぼ中央部であったため、直接的な被害はなかったものの、汚染区域は周囲数キロに及び、気流による周辺地域への拡散は避けられない模様。
同日深夜、日本政府は同区域への無期限の立入禁止を決定。同時に周辺住民に対し恒久的な避難を勧告した。
Nerv本部、帆足の自室。
「やられたな」端末の画面に表示させたメールの中身を睨んで帆足はひとりごちる。何かやらかすとは思っていたが、これほど徹底的にやってくるとは想像だにしなかった。さすがに原子炉の破損までは計算外だっただろうが、それだけ彼らもあのデカブツに危機感を抱いていたということか。
JA計画存続の望みは、これで完全に潰えた。使徒迎撃は今後もNervに一任されることになるだろう。平行して戦自ではトライデント級陸上巡洋艦の計画も進められてはいるが、こちらはパイロットの不足という最大の問題を抱えたままだ。今後も日本政府は、どんなに不満があろうとNervのやり方に異論を唱えることなどできまい。
これが誰の仕業であるかは、日本政府だって分かっているはずだ。多少事情を知っていてほんの少しだけ人より多めの知恵を持っていれば、容易に想像がつくことだった。
これは警告なのだ。日本政府への。
自分たちは復旧途上の一国など歯牙にもかけていない、だから俺たちの仕事に余計な横やりを入れるな。そういう訳だ。
そうは云っても政府とて烏合の衆ではない。これだけ派手にメンツを潰されれば、それなりの報復は覚悟せねばならないだろう。どういう形でそれが行われるのかはまだわからないが、できる限りの予防策は打っておかねばなるまい。一国と事を構えるというのは、そういうことだ。例え上に立つものが無能であっても、それを支える優秀な人材はいくらでもいる。いや、むしろそうした有能な部下がいるからこそ、彼らは無能で要られるのかもしれない。
時田の失脚も免れ得まい。当分は謹慎、その後処遇を決めるというところか。まぁ、時田はまだ若いし才覚もある。それにたっぷりと野心も持ちあわせている。そういう人材が一番欠けている日本政府の中なら、いつか必ず巻き返してくるだろう。だが、しばらくは接触するわけにはいかない。せっかく作ってきた中央省庁へのパイプを失うのは痛かったがこの際やむを得まい。
それにしても見事にしてやられた、と帆足は思う。それとも自分も時田も、所詮はアマチュアだということか。認めたくはないが、やはりそういう事らしい。ひょっとすると、時田に資料を流したこともバレているのかもしれない。
まぁいいさ。なんのお咎めも無しってことは、今のところは泳がせておくつもりのようだからな。バレたらそのときはそのとき。逃亡のためのツテならいくらでもある。そのために各支部経由でコネを作っておいたのだから。
しかし、これだけの被害も厭わないとは、随分無理をしてくれる。
いや、裏でシナリオを書いている連中には、この程度は問題外ということなのか。
「人類の存亡、か」そう呟いてから、帆足は皮肉な笑みを浮かべた。
「案外、必死になってるのは、俺たちだけなのかもしれないな」
The End of Episode 7.
(作中の歌詞は、Pink Floyd "The Wall" より "Goodbye Cruel World")
NEXT
ver.-1.00 1998+11/09公開
ご意見・ご感想は ryu1@imasy.or.jp まで
Next Episode is "ASUKA STRIKES!"
独ヴェルヘルムスハーフェンを出港し、日本への海路の途上にあった国連軍艦隊を、使徒が強襲する。
なんの援護も無いもないまま、初の水中戦闘を強いられるエヴァ弐号機。
その圧倒的に不利な状況下で、ミサトは使徒に勝てるのか。
第八話、「アスカ、来日」
Appendix of Episode7.
「じゃ綾波さん、また明日ね」
閉じられたドアがマリエの笑顔を隠した。
動き始めたエレベータに残されたのは、シンジと無表情に押し黙った華奢な少女。
妙な存在感がひしと伝わってきて、なんだか急に居心地悪くなったシンジは、ムリヤリ口を開いた。
「あ、そ、そうだ。あ、綾波は、どうして、エヴァに乗るの?」
その問いに、綾波レイの頬がほんの少し動いた。ような気がした。
「………………ゴハンのためよ」
「は?」
斎藤さんの『EVANGELION「M」』Episode 7.後編、公開です。
可哀想・・時田さん。
一生懸命作ったJAが、、、
この状況では、
修理なんてもちろん無理。
部品取りさえできないよね・・・
完全に汚染されているもん・・・
あぁ可哀想時田さん。
非業の死を遂げた場所に赴くことさえ簡単じゃないし。。
”部品取り”なんてしないか(^^;
発想がビンボ臭い?(^^;;;;
こんな世界で生きる彼なら”非業の死を遂げた場所に赴く”なんて発想もないか。。
うん、じゃあ、別に可哀想じゃないや(爆)
そっち方面では。
さあ、訪問者の皆さん。
JA計画を今までにない方法で壊した齊藤さんに感想メールを送りましょう!
めぞん
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