Episode 8. ASUKA STRIKES!
月が豊満な裸身を静かに海上に映し出す。
その光を孕んだ海面を艦首が押しのけていく音。どこからか響く重い機関の唸り。さわさわと頬を撫でる潮風。
国連海軍太平洋艦隊旗艦、空母「オーヴァーザレインボウ」。
その巨体は現在紀伊半島沖にあって、既に日本領海に入って久しい。それを取り囲んで数キロおきに輪陣形となった戦艦、巡洋艦等数十隻に及ぶ大艦隊が静かに随行する。だが、今回の主役はこの老兵ではない。その後ろをひたひたとついてくる改造タンカーだった。大袈裟なまでのこの包囲は、そのタンカーの積み荷と、たった一人の少女のためのものだった。
その少女、惣流アスカ・ラングレーは、主役になり損ねた老兵のデッキで仰向けに寝転がって夜空を見上げていた。傍らに置いた短波ラジオからは、音質の悪い早口の異国の言葉が流れている。それに耳を傾けながら、この少女には珍しく、ぼんやりととめどもないことを思い付くままに考えていた。
明日はもう日本か。午後にはミサトが迎えに来るって云うし。優雅な船旅もこれでおしまい。特別快適だった訳ではないけど、それでも明日で終わりと思うと、それなりに残念な気もする。
もう三度、「使徒」と呼称される得体の知れない敵が襲来した第三新東京市。そこに自分は赴くことになっている。そして、その使徒との闘いが、彼女を待っているはずだった。
恐くない、と云えば嘘になる。
だが、五歳で適格者に選出され、苦しい訓練の日々を送ってきた。だから自分には絶対できる、という自負が惣流アスカにはある。
それに、日本ではアイツに逢える筈だ。4th Children。もう五年も繰り返してきた勝負の決着を、今度こそはっきり着けてやるわよ、レイチェル。
それからもう一つ。
訓練も無しにいきなりの実戦でエヴァとシンクロし、既に二体の使徒を殲滅したという3rd Children。あの高名な碇博士の息子。どんな少年なんだろう? きっとさぞかし優秀な人材に違いない。
そういう秀でた人間の間で自分を切磋琢磨することが、アスカにはぞくぞくするほど楽しみだった。自分はどこまで行けるんだろう。いつかはあの母親のように、周囲から尊敬される人間になれるのだろうか。いや、絶対なってみせる。だって、私はママの子供だもの。出来ない筈がない。
ママ。志し半ばでこの世を去ってしまった母親。その母が、かつて暮らしていた国。日本。
ノスタルジックな感傷はないとは思う。だが、あの母が生まれ育った国に、興味がないといえば嘘になる。自分の中に四分の一だけ流れる異国の血。それが少女の顔立ちの美しさや肌のキメの細やかさ、体の線のたおやかさを形作っているのだということを、彼女は母親から何回も聞かされていた。
(ゲルマン人と日本人の混血は、世界中で一番美しいの。だから、あなたは自分の血を誇っていいのよ)
だが、そういっていた母はその血ゆえに疎まれていた。自分の国でも、日本でも。だからこそ一度は国を捨て、偽装結婚をしてまでグリーンカードを手に入れたのだ。アスカの姓の片方は、顔も知らないその米国人男性のものだという。
「その人が私のパパなの?」
一度アスカはそう聞いたことがある。だが母はかぶりを振り、静かに笑った。そのまま真実は、ついにその唇から漏れることはなかった。
そして母は米国で、その後の自分の人生を決める人間に出会ったのだ。
その名を、帆足チエコという。
「いよう、アスカ。ここにいたのか」
渋い男の声に感傷を中断され、惣流アスカは眉をひそめた。
「部屋にいないから心配してたんだ。随分探したぞ」
嘘ばっかり。最初から知ってたって顔してるくせに。アスカは不機嫌にそう思った。アスカはこの男がキライだった。
いつもヘラヘラしていて、何を考えているのかまるで読めない。そのくせ目は少しも笑っておらず、ぞっとするほど冷たい光を宿すことさえある。おまけに束ねた長髪に無精髭、緩められたネクタイ。顔は確かに悪くないが、だらしない男は惣流アスカの趣味ではない。
でも、年上は年上だ。それなりに扱わなければならない。それに彼は自分のガードを務めてもきたのだ。
だからアスカはにっこりと作り笑いを浮かべて、応えた。
「何か御用ですか、加持先輩」
ヘリコプターの内部がこんなに狭苦しいものだなんて思ってもみなかった。あんなにでかい図体をしているくせに、実際の座席の部分は相乗りで詰め込まれたタクシーもかくや、というほどぎゅうぎゅう詰めで、固いシートで痛くなった腰をずらすたびに隣席の友人たちと肩を擦り合うハメになっている。おまけに頭上から降ってくる振動なのか音なのかすでに判別不可能なエンジンの咆哮に、隣にいる鈴原トウジとさえ怒鳴り合わなければ話が通じない。
仕方なく視線を前に向ければ、大柄な少女の青白い顔。シンジの視線に気付いていつものようににっこり微笑もうとはするものの、冷や汗の滲む額がその努力を台無しにしている。
いくら大型とはいっても、初めて軍用ヘリに乗った人間の半分は酔う。運悪く帆足マリエはそのうちの半分だったようで、飛び立ってからものの五分と立たないうちに紙のような顔色になっていた。
いちおうエヴァのパイロットなのだからこの手の乗り物も大丈夫の筈のような気もするのだが、考えてみればLCLとエントリープラグでかっちり守られているエヴァとでは、乗り心地という点では雲泥の差がある。マリエは以前にも経験があるのだろう、だから前席のミサトから見えないようにコ・パイ席の真後ろに陣取っているらしかった。
「Mil-55D輸送ヘリ。こんなことでもないと一生乗る機会なんてないよ。まったく持つべきものはトモダチだよなっ!」
そんな状況下なのに恐ろしく上機嫌、というよりはしゃぎまくってなにかと話しかけてくる相田ケンスケが信じられなくて、碇シンジの彼を見る目はすでに異星の客をみるそれだった。
「毎日山の中ばっかりじゃあ息が詰まると思ってね。たまの日曜なんだから、こうしてデートに誘ってみたんじゃないの」
ミサトの言葉に、それまでむすっと押し黙っていたジャージ少年の顔が崩れた。
「ええっ、ホンマにでぇとですか?」
んなワケないって。と、ヤニ下がった表情に口には出さずにツッコミを入れるシンジ。行き先もろくに聞かされずに朝っぱらからヘリに詰め込まれるのがデートだなんて、いくらお子様な碇シンジといえども本気で聞く気にもならない。
たまの日曜なんだから本当はウチでゴロゴロしていたかった碇シンジは、いい加減うんざりしてミサトに訊いた。
「で、どこに行くんですか?」
ミサトは悪戯っぽい笑みを口元に浮かべ、
「豪華なオフネで太平洋をクルージングよ」
見上げる陽光が眩しい。
アジア圏は年中夏だとは聞いていたが、これほど鮮烈な日差しだとは想像もしていなかった。もともとドイツはそれほど夏が厳しい地方ではないし、セカンドインパクト後はずっと早春のような気候が続いている。暑い暑いと今は肩をむき出しにしたワンピースなど着ているが、少し日焼けのことも気にしたほうがいいのかもしれない。白人種の血の方が濃いのだから、うっかり焼き過ぎれば赤く腫れ上がってしまうだろう。
だがそんなことを気にしながらも惣流アスカがブリッジのデッキで頑張っているのは、ヘリの到着を知らされたからだ。
葛城ミサトとは一年半ぶり、4th Childrenとはもう五年程もあっていないだろうか。
レイチェル・イコマ。初めて会ったときのことは今でもよく憶えている。記憶の中の少女は華奢な体つきに短い淡い色の髪、緋色の眸に利発そうな光を湛え、大人びた仕草で「よろしく」と云った。いけすかない奴、と最初は思ったけれど、話してみれば柔らかい感じのする優しい子だった。今はどんな娘になっているのだろうか。
そして3rd Children。あのウワサの少年がもうすぐ目の前に現れる。
見上げればコンテナを腹に抱えた大型ヘリが、頭上で着艦姿勢に移ろうとしていた。もうすぐ、もうすぐだ。
着陸脚が飛行甲板に触れたのを確かめると、もう待ちきれず惣流アスカは身をひるがえして甲板へと続くタラップへ駆け出した。
降り立った地面が揺れていた。
いかな豪華なオフネとはいえここは海の上、多少なりとも揺れて当たり前なのだが、それにしても揺れ方がひど過ぎた。コンクリートで固められた飛行甲板が近くなったり遠くなったりする。でもそれは本当は艦が揺れているのではなくて、自分の三半規管にヘリの振動が残っているせいだった。我慢すれば少しは落ち着くかと思っていた胃袋がまた別な感覚で締め上げられて、マリエは思わず口元を押さえた。
「大丈夫?」気づかわしげなミサトの言葉に、青い顔で頷く。ついていくと言い張ったのは自分なのだから文句は云えない。
惣流アスカ・ラングレー。彼女にはマリエ自身の口から伝えなくてはならないことがあるからだ。
元参号機パイロットのことだ。
2nd Childrenには、レイチェル・イコマの事故のことは正確には伝わっていない。碇ユイ博士が事故の詳細について箝口令を引いたためだ。理由は分からないが、特に独第三支部には内密に、と念を押したほどだったから、一年以上たった今でもおそらく詳しいことは聞いていまい。だから2nd
Childrenは、参号機パイロットは未だレイチェル・イコマだと思っている筈だった。
それにマリエは、惣流アスカが自分の姿を見たときになんと云うのか、そのことも不安だった。ドイツでの三年間は決して短い期間だったとは云えない。だからマリエは2nd
Childrenがどういう気性の持ち主か、よく知っている。なにより、惣流アスカの格闘訓練のパートナーは自分自身だったのだから。
惣流アスカになんといって切り出そうか考えるのが半分、残り半分はレイチェルのことを思い出してしまったおかげで、昨夜は一睡もできなかった。そんな体調の悪さもいっしょになって胃袋を攻めたてている。
胃の中身が喉元まで込み上げてきたような気がして、とうとうマリエは音を上げた。
「ミサトさん、わたし、ちょっと……」
無理しないでいいのよ、とでも云いたげにミサトが頷くのを確かめて、マリエはよろよろとブリッジの方へ歩きだした。
おのぼりさんの行列。とでも云いたくなるような一行に、惣流アスカは少々毒気を抜かれて唖然とした。平然としているのは葛城ミサトくらいで、あとはカメラを構えてあちこちふらふらしているのが約一名、ものめずらしげに辺りを見回しているのが約二名。場違いもいいところだ。そもそも自分と同じ年頃の少年が空母の甲板上を歩いていること自体がおかしなことなのだが。
でも、あの中の誰かが3rd Childrenなんだ。
そう思った瞬間、なんだか急に心臓がどくんと跳ね上がった。
あれっ、やだ。わたし、どうしたんだろう。
だが考えてみれば、これまで同年代の男子が半径三メートル以内にいたことなんて一度もない。いやあったかもしれないが、少なくとも惣流アスカは覚えていないし、仮に覚えていたとしてもオトコとして意識している余裕なんてその頃にはまるでなかった。
ええいっ。こんくらいで慌ててどうするのよ。私は選ばれた2nd Childrenなんだから。たかが同い年のガキンチョと顔を合わすくらい、大したことないじゃないの!
と自分で自分を鼓舞して見ても、いったん速くなった胸の鼓動はそうそうカンタンに落ち着いてくれそうにない。うろたえきったアタマで、惣流アスカは母親から伝授された最後の切り札を思い出す。
カボチャよ、カボチャ。そう、あれはみんなカボチャなのよ!
だから全然気にすることなんかないのよ!
そう自分に言い聞かせると、不敵に(見えて欲しい)笑みを押し上げ、アスカは一行の前に歩み出た。腰に手を当て胸を張ると、
「H、Hello、ミサト! 元気してた?」
ほんの少し躊躇したものの、後はなんとか合格点の声。よし、カンペキ! と思った瞬間。
一陣の海風が吹き抜け、ワンピースの裾をふわりと巻き上げた。形の良い脚が付け根まで露になる。
きゃああああああああああああああああああああああああああああああああっ
とは声に出さず、惣流アスカはアタマの中だけで悲鳴を上げた。
「紹介するわ。2nd Children、惣流アスカ・ラングレー。エヴァンゲリオン弐号機専属パイロットよ」
そ、そう、パーよね、パー。こ、こんくらいでグーを出してどうするのよ。
ミサトの紹介もろくに耳に入らぬまま、三バカトリオの頬にくっきり刻まれた手形に極力目を向けないようにして、アスカは自分にそう言い聞かせていた。
そ、そうよ。私は選ばれた2nd childrenなんだから。だからこんくらい、なんともないのよっ!
と全然理屈になっていない理屈で、ばくばくと波打つ心臓を宥めにかかる。だが、
「なにさらすんじゃい!」聞き慣れないアクセントで抗議の声が上がった。どこの俗語(スラング)かしら、と頭の片隅で思ったが、それよりそのアクセントに込められた怒気とガラの悪さにビビりつつ、惣流アスカは虚勢を張った。
「け、見物料よ。安いもんでしょう」
「んなんもん、こっちかて見せたるわイ!」憤然とジャージが引きおろされ、ついで勢い余って下着も、そんでもってその下に隠されていたモノがまる見えに、
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」
惣流アスカは、今度こそ間違いなくあられもない悲鳴を上げた。
アレはなに? アレはなに? アレはなに? アレは…………
思考が先刻の光景でループしてしまって、どうしても抜け出せない惣流アスカ。今度はグーでカンペキに撃沈したジャージ少年の方から必死で目を背けようとする。
だが、ちょっち気持ちが落ち着いてくると、見知った顔がないことに気付いた。
「ミサト、4thはどこ?」
あ、ああ、あの娘ね、とミサトが云いにくそうな顔をした。
「ちょっち、ヘリに酔っちゃって。もうすぐ来る筈よ」
「酔った? あいつが?」らしくない、と思ったものの、全くしょうがないわねぇ、とちょっとだけ優越感にひたる。
「で、3rd Childrenはどの子?」
三人の少年、ジャージ、メガネ、お子様。この内のどれかがウワサの初号機パイロットの筈。
ミサトの脇に立つひ弱そうなお子様、こいつはまず除外、気が弱そうで、もう二体の使徒を殲滅したパイロットにはとても見えない。もう一人のメガネは、うーん、なんだか落ち着きがない、それにこういうのに全然慣れていないみたいだし、こいつも除外。とすると、残りは……。
「まさか……」完全に沈黙しているジャージ少年。確かにちょっとオトコっぽいし、肝も据わってるみたいだし、でも、じゃあ、さっきのアレは……。ちょっと恐い想像になってしまった惣流アスカだったが、
「いいえ。この子よ」
ミサトの視線をたどれば、それは紛れもなく最初に除外したお子様だった。
アスカは耳を疑った。嘘。そんな筈ない。
「冗談でしょう?」この冴えない、ぼーっとしたヤツが?
だが、申し分けなさそうに「ボクでごめんなさい」とでも云いたげな自信のない愛想笑いを浮かべる碇シンジ、その様子に、冗談でも何でもなくてこのお子様が本当に3rd
Childrenなのだと悟って、アスカは愕然とした。
正直げんなりした。期待が大きかった分、落胆も激しかった。
今度こそ4th Childrenと決着を付けなければいけないっていうのに、なんでこんなヤツと張り合わなきゃならないのよ?
そう思ったときだった。
「アスカ」
不意に聞き覚えのある声が聞こえて、アスカは戸惑った。声の方に視線を移すと、編んだ長い髪を潮風になびかせる大柄な少女。
一瞬それが誰だかわからなかった。確かに見覚えがある。でもコイツは確か、今はアメリカにいる筈……。
「マリィ……?」惣流アスカは惚けたように呟いた。それに応えて、マリエがぎこちない笑みを押し上げる。
「アスカ、しばらく」
だが、それもほんの数瞬だった。怒りが戸惑いに取って代わる。目の前の少女に指を突きつけ、惣流アスカは叫んだ。
「なんであんたがここにいるのよ?!」
思わずそう云わずにはいられなかった。
弐号機引渡の書類へのサインは、あっさり拒否された。
まぁそれはいい。予想されていたことだ。一月近くかけてはるばる地球を半周して運んできた荷物を、子供の使いでもあるまいし、そうそう簡単に渡す筈がない。年配の艦隊司令官の「海の男のプライド」的台詞には少々カチンとはきたが、緊急時にはNervの権力がモノをいうし、口実を付けていつだって接収はできるのだから、そのこと自体を気にするつもりは無かった。
それよりも、目の前のチェシャ猫笑いの方がミサトの気に障る。狭苦しいエレベータの中、一メートル足らずの空間を挟んだ向こう側にある、ちょうど引っこ抜きたくなるくらいの長さの不精髭を睨み付ける。
「彼女の随伴でね」見るものが見ればなかなか男っぽい笑顔なのだろうが、葛城ミサトには苦い過去を思い出させる存在でしかない。
加持リョウジ。かつて恋人だった男。
「迂闊だったわ、充分予想されることだったのに……」
その険悪な雰囲気に、二人を見比べて落ち着かなげしている少年たち。すまないとは思うが、こればかりはどうしようもない。一方、事情を知っている筈の二人の少女は、ここにはいない。
(それにしてもどこ行っちゃったのかしら、あの子達)
顔を合わすなり、惣流アスカが帆足マリエをどこかへ引っ張っていってしまったからだ。二人の仲が決して悪いわけではないのは知ってはいるが、それでも惣流アスカのあの剣幕をみれば、どうにも穏便に済みそうにない気もする。
とはいえ、惣流アスカは決して根に持つようなタイプではない。ちょっと怒りっぽいが、納得できる理由が聞ければ素直に怒りを引っ込めることもできる、聡明な娘だ。
それにここは海の上、どこかへ行けるわけでもなし、惣流アスカの気がすめば向こうから戻ってくるでしょう。そう判断して、ミサトは不精髭を睨みつける視線にいっそう殺気を込めた。
よく晴れた空に白い雲がいくつかのんびりと漂う。さわさわと潮風が少女たちの髪を撫ぜていく。
だが、二人の表情はその空ほど晴れやかではない。
惣流アスカは改造タンカーのデッキからその雲を見るともなしに目で追っていた。傍らの帆足マリエは手摺りを背にもたれ掛かってしょんぼりとうつむいている。
「弐号機の定期点検」と称して改造タンカーまでヘリを飛ばさせるのはもう何回もやっている。普段から優等生でいたい惣流アスカには、改造タンカーは息抜きするための格好の隠れ場所だった。「オーヴァーザレインボー」では、どこから加持リョウジの目と耳がこちらを伺っているか分かったものではない。羽根を伸ばすにはあまり適当な場所とはいえなかった。
それにこれは、事情を知らない人間にはあまり聞かれたくない類いの話だった。
「しかし、まさか参号機パイロットがあんたとはねぇ。レイチェルが事故に遭ったのは知ってたけど。それであの後急に第一支部に転属になったわけね」
「………」だが帆足マリエは応えなかった。顔色が優れないのは酔いもあるのだろうが、それより何か思い詰めた眸をしている。いったいなんなのよ。訳が分からなくてアスカは少々苛立ちを憶える。
「いっとくけど、あたしのライバルはレイチェルだけよ。あんたなんて、タダの体力バカなんだから。同じ4th Childrenだからって、これでレイチェルに追いついたなんて、思わないことね」
「アスカ」それまで何も言葉を発しなかったマリエが、不意に口を開いた。
「なによ」
「あの、ね」
「だからなによ?」苛立たしげにアスカは繰り返した。
マリエは少し言い淀み、そして云った。
「レイチェルは、もう、いないの」
「いない?」アスカは一瞬その言葉を掴みそこねて戸惑った。だがその意味することを悟って愕然とする。
「まさか、死んだの? レイチェルが?!」
マリエは力なく首を振った。
「じゃあどうしたのよ、いったい」
「精神汚染」
「えっ?」
「起動実験の時に、エヴァからの精神汚染を受けたの。それで、なんとかサルベージしたんだけど……」マリエは唇を噛み締めた。
「からだだけしか、救えなかったの。だから、もう意識も、ないの。ただ、生きて、いるだけ」思わず言葉を詰まらせる。
アスカは呆然とした思いでそれを聞いた。まさか、あのレイチェルが?
精神汚染。
確かにその言葉には聞き覚えはあった。エヴァから発生するハーモニクスが何らかの原因により逆流し、パイロットの意識に干渉する現象だ。最悪の場合、重度の精神障害を起こす。機器を経由しているとはいえ、シンクロのために脳神経に回路を接続するのだから、そういう事故は起こりえることだった。
だが実際にそれが起ったのは碇ユイの時が最後だったと聞いている。最近では防護方法も確立されつつあって、そんな事故が起きる確率は恐ろしく低いと聞いていたのに。
だが、もっと詳しく聞こうとして、ようやくアスカはマリエの様子に気付いた。
マリエは血の気が引くほど唇を噛み締め、必死で涙を堪えていた。それでも抑えきれなかった滴がおおきな眸からこぼれそうなほど溢れる。
そうだった、この二人は……。ようやくアスカは二人の4th Childrenの仲を思い出した。だから、
「ああ、もう! なに泣いてるのよ、みっともない」そう云いながら、アスカは取り出した自分のハンカチをマリエに押し付けた。びっくりしている緋色の眸から目をそらし、
「分かってるわよ。あんた達、仲良かったからね。まるで姉妹みたいに」
くしゅ、と鼻をすすりながらマリエは頷いた。
「けど」と碧い眸をひらめかせて、惣流アスカは帆足マリエの顔を覗きこんだ。
「選ばれた以上、手加減はしないわよ。あんただって4th Children、そして今は参号機パイロットなんだからね」にやりと不敵な笑みを押し上げて見せる。
マリエは惚けたようにその笑みを見た。だが、その意味を悟ると慌ててごしごしと涙を拭った。そして泣き笑いの顔でこくりと頷く。
二人の間に初めて、穏やかな空気が流れた。
その時だった。
ずしん、という腹に響く振動が甲板を揺らし、二人は思わずよろめいた。
「な、なに?」
水中衝撃波。近くで爆発があった?
「アスカ、あれ!」
マリエの指差す方に目を向けると、立ち上る一筋の黒煙。護衛の巡洋艦の一隻がまだ小さな爆発を繰り返しながら炎上していた。その艦首はまるで巨大な手でもぎ取られたように荒々しい傷痕を残している。
「何があったの?!」
次の瞬間、全く別の方向で再び爆発が起った。船体を真っ二つにへし折られ沈んで行く駆逐艦、そこから物凄い速度で伸びる白い波にアスカは目を見張った。
「なによあれ?!」
見えるのは航跡だけ。しかしそれだけでも巨大な物体が恐ろしい速度で水中を移動しているのは分かる。それほどの高速にもかかわらず、そいつは狭められた艦隊の合間を易々と縫っていくのだ。少なくとも、人造物でそんな機動が出来るものなど無い。
「まさか、使徒?」
マリエの呟きに、アスカはどきりとする。
「あれが? ほんものの?」
なんてことだ、アスカは思う。こんな海の上ではバックアップも装備も万全ではない。それに電源を確保できるのか。出来たとしてもアンビリカルケーブルが持つのか。
なにより、私に勝てるだろうか?
戦闘の訓練なら幾度となくしてきた。あらゆる状況下を想定した模擬戦闘もした。緊急時の状況判断や行動は、思い出さなくても頭に浮かんでくるくらい叩き込まれもした。
だが、私はこれが最初。最初の、本物の戦闘なのだ。
戦えるのだろうか。私に。そして勝てるのだろうか。使徒に。
脚がすくんだ。水しぶきを上げる航跡から目が離せない。その下にとてつもなく大きい怪物が居るような気がした。
初めて、恐い、と思った。
すっと、誰かがアスカの手を握った。震える手。それでも優しい、手。
視線を傍らに向ければ、緋色の眸がこちらを見返している。
アスカはようやく我に返った。そうだ。忘れるところだった。
あれが使徒だとしたら、使徒であるかぎりは、戦うしかない。それがエヴァのパイロット。適格者たる資格。選択の余地など無いのだ。
やるべきことは、たったひとつだ。
小さく頷き合う。それで十分だった。自分の中のスイッチが切り替わる。今まで感じていた動揺が嘘のように引いていく。
碧い眸に意思の光を込めて、アスカは顔を上げた。
「いくわよ、マリィ」
靴音高く響かせ、葛城ミサトは猛然とブリッジへと向かっていた。
あンの石頭野郎共、海の男のプライドだかなんだか知らないが、こういう状況下ではそんなもの屁の突っ張りにもなりゃしない。絶対に指揮権を取り上げてやるから見てなさいよ。
使徒の前では通常兵器など無意味だ。それを一番よく知っている葛城ミサトからすれば、護衛艦による攻撃など税金の無駄遣いに他ならない。さっさと止めさせた方が得策だった。
なにより、可及的速やかに弐号機を起動させなければならない。エヴァなしで使徒に立ち向かうなど、愚の骨頂だ。それにはまず指揮権を奪取し、あの娘たちが何処にいるのか突き止めなければ。すぐに戻ってくるだろう、と高をくくっていたのが裏目に出てしまって、ミサトは激しく後悔していた。
だが、そんな熊でも道を開けそうな勢いのミサトに、
「よっ」
と声を掛ける命知らずの声。そのお気軽な口調がミサトの癇に障る。がんっ、と床を踏み鳴らし足を止めると、振り返り不精髭をぎっと睨みつけた。
「戦闘中よ。民間人は大人しく船室に篭ってなさい」
「それがそうもいかなくてね。届け物があるんで、俺先に行くわ」
その言葉にミサトの柳眉が逆立つ。
「尻尾を巻いて逃げ出すってわけ? 臆病者のアンタらしいわ」
だが加持は気にしたふうも無かった。にやりと笑ってみせて、
「ま、これもお役目ってわけだ。こちとらも宮仕えなもんでね。大丈夫、またすぐに会えるさ。なんといっても2nd Childrenがいるんだからな」
「子供に戦わせておいて、何が大丈夫よ」
「それを云われると耳が痛いな」そう云って苦笑いをしてみせる。男くさい笑み。「ま、とにかく誠に申し訳ないが、お暇させて頂く。生きて帰れたら一杯奢るよ。じゃあな」
その背中を見送って、ミサトは立ち尽くす。噛み締められた奥歯が、ぎりっと不吉な音を立てた。
あんちくしょう、生きて帰れたらぎったんぎったんにしてやる。
その思いを口には出さず、行き場のない怒りを勢いに変えて、葛城ミサトは再びブリッジへ向かった。
手首のスイッチを押せば、しゅっと空気の音が漏れ、プラグスーツが少女たちの体の線を浮かび上がらせた。色は鮮やかな紅。惣流アスカによく似合う華やかな色彩だ。
「ちょっとキツイかもしれないけど、ガマンしなさいよ」
ある程度収縮もきくとはいえ、やはり頭一つ分近く身長が違うのだから、ところどころがぎこちない。だが惣流アスカの、
「あんたは荷物なんだから、邪魔さえしなけりゃいいのよ」というありがたいお言葉に、しばらくの間だけガマンすることにした。
「とりあえず、電源確保が最優先ね。このタンカーの蓄電量じゃ五分と保ちやしないわ。「オーヴァーザレインボウ」まで、とぶわよ」
「とぶ?」予想外な言葉に、マリエは目を丸くした。
だが、惣流アスカは何云ってるの、と云う顔で、
「当たり前でしょう? まさか、海の上を歩いて行くつもりだった、なんて云うじゃないでしょうね?」
まぁ、それはそうだけど。でもとぶ、っていったい……?
「いいから見てなさい。私の華麗な操縦を」自信たっぷりにそう云って、スイッチを押す。
やはり紅く塗られた弐号機の背から、白く長大なエントリープラグが吐き出された。
ブリッジ制圧に要した時間、正味五分。
使用した武器は口と舌、そして何よりその無敵の気合い。使徒が絡んているとわかった途端、葛城ミサトのそれは尋常ではなくなる。
アレは紛れもなく使徒の攻撃である。その証拠に通常兵器が全く通用していないではないか。使徒殲滅はNervの仕事である。よって国連軍はNervの代表者たる葛城ミサト一尉に最大限の協力をする義務がある。以上、Q.E.D。
へん、口ほどにもないわね。鼻息荒く仁王立ちで一番見晴らしいのいい場所に陣取るミサト。もっとも、その説得の間に被った被害、撃沈二、大破一、中破三の数字の方が、艦隊司令官の心を動かしたのも事実だが。
とはいえ、通信回線を確保したことは何物にも代え難く重要だった。さっそく少女たちを呼び出そうとしたとき、当直士官の報告が飛んだ。
「エヴァ弐号機、起動中!」
ミサトは自分の耳を疑った。マイクをひっつかみ怒鳴る。
「アスカなの?!」
”あったりまえじゃん。他に誰がいるってぇのよ。ちゃんとマリィも乗ってるわよ”
思わず安堵の息が漏れた。ついでに頭の中で巡らせていたやっかいな段取りを大幅に短縮できて、ちょっと気を良くする。だから、
「子供が、ふたり……」艦隊司令官の呆然とした言葉を意識の端で聞き流し、
「よくやったわ、アスカ。飛行甲板に電源ソケットを用意させておくから」
”了解”歯切れのいい返事が返る。
「何をするつもりだ?!」抗議の声が上がるが、ミサトはにっと笑ってみせて、
「見ていれば、分かります」
「さあ、とぶわよ」
「とぶ、って、もしかして……」引きつった問いに、
「そうよ」自信たっぷりに応える。
ああ、やっぱり。聞くんじゃなかった。そういう泣き言を予想してアスカは冷たく云った。
「舌、噛むんじゃないわよ」
アンビリカルケーブルを切断、ぐっと体を沈めて跳躍姿勢をとる。息を整え、貯えた力を開放しようとした、その刹那。
「アスカっ!」
帆足マリエが耳元で悲鳴を上げた。思わず声のほうを向くと、白く巨大な影が恐ろしい速度でまっすぐこちらへ向かってきていた。その先端が開き、地獄へ一直線に続く洞穴のような口腔に鮫の如くびっしりと生え揃った牙が白く光る。
「くちぃぃぃぃぃぃ?!」
少女たちが悲鳴を上げた瞬間、弐号機の紅い機体は巨大な顎(あぎと)に一呑みにされていた。
「喰われたじゃないか!」
背後で非難の声を上げる艦隊司令官に構わず、ミサトは必死で二人を呼び続けた。
意識が遠のいていたのはほんの数秒だったか。しつこく自分の名を呼び続ける無線と、腹を這い上がってくる鈍い痛みとで、薄れそうだった意識がかろうじてはっきりした。マリエも同様だったようで、痛みに顔を歪めながらも笑みを押し上げようとする。
コイツを乗せてきて良かったのかもしれない。おかげでシンクロ率が充分でなくて、本来なら激痛であろう痛みがボヤけて伝わってくる。
とはいえ、危機であることには変わりはない。腹部の痛みは、紛れもなくあの鋭い牙に捉えられているからだ。口をこじ開けようとしたがが、伝わってくるのはずっしりと重い顎の圧力だけだった。残り時間のカウンタがみるみる減っていく。
このままじゃダメだ。なんとかしなきゃ。
焦りに身を焦がしつつ使徒の喉の奥を覗きこんだとき、惣流アスカの眸に赤く光るものが映った。あれは……?
”コア?”
マイクから漏れたその呟きに、葛城ミサトの脳裏にひらめくものがあった。
B型装備。左のアタッチメントベイにはプログナイフ、そして右のアタッチメントベイには……。
だが、果たして水中で撃てるだろうか。
仕様上は充分威力を発揮する筈だった。だがそれはきちんと整備されている場合の話だ。もう一ヶ月近くも専門スタッフのメンテナンスを受けていない兵器が、果たしてスペック通りの性能を発揮するのか、誰も保証できるものではない。
だが、アンビリカルケーブルも繋いでいない今の状態では、残り時間はあと三分もない。迷っている余裕など無かった。
ミサトは決断する。
「アスカ、マリエ。聞こえる?」
右肩のベイが弾けるように開いた。そこに鈍い光を放ってずらりと並ぶ針。短針砲。針とはいっても直径は二メートル近い。
”アスカはATフィールドを最大出力で展開、目標のATフィールドを中和。マリエは照準をしてインダクションモードで待機、合図と同時に射撃。いいわね?”
「はい」期せずして、返事が重なる。
”では、行動開始”
マリエがスロットルを握り締めるのを確かめると、アスカは意識を集中した。弐号機がATフィールドを展開し、使徒のそれとぶつかり合い真紅の光を輝かせた。干渉しあった位相空間が中和されていくのが肉眼でも確認できるほどの出力。
「すごい……」傍らの帆足マリエが息を呑んだ。だが惣流アスカにはそれに構っている余裕などない。残り少ない電源、充分でないシンクロ率で、光の壁、その中のたった一点のみをこじ開けるのに必死だった。食いしばった歯の間からくぐもった唸りが漏れる。
そして、ついにその一点が開かれる。その向こうに滑らかな光を宿した緋色の球体。
「てぇっ!」
その声に呼応して、帆足マリエが引き金を引いた。
鈍い衝撃。炸薬の熱いガスが海水を瞬間的に沸騰させる。
だが、中和できずにわずかに残った赤い光の壁が針を弾き飛ばした。勢い余ったそれらが咥内の柔らかい内壁に突き刺さる。悲鳴にも似た轟音が鈍く機体を震わせ、アスカは腕に掛かる力が弱まるのを感じた。
チャンスだ!
「次っ!」
薬莢が排出され、次弾の先端が再びベイの砲身に充填される。
アスカは再び集中する。みるみる減っていくカウンタが非情なほど残り少ない時間を知らせる。あと六秒。五、四……。
ひらけ。ひらけ。ひらけ。ひらけ。ひらけ。
ひらけ。ひらけ。ひらけ。ひらけ。ひらけ。
弐号機の四つの目に、それまでとはあきらかに違った光が燈った。
不意に体が軽くなった。シンクロの最高値をクリアしたときにも似た開放感。いける! 確信とともにアスカは腕に力を込めた。あれ程の重圧を持っていた顎をいとも簡単にこじ開け、半ば物質化したATフィールドを相手の壁のど真ん中に叩き付けた。
「マリィッ!」
数瞬違わずベイから十本あまりの短針が打ち出された。それらは海水を貫き、もはやなにものにも阻まれることなく残らず正確にコアに突き刺さった。滑らかな表面に無数の亀裂が走り、そして粉々に砕け散け、断末魔の悲鳴が弐号機の機体を激しく揺さぶった。
次の瞬間、弐号機はすさまじい衝撃に飲み込まれ、二人の少女は意識を失った。
六時間後。新横須賀軍港。
「初陣だっていうのに、またずいぶん派手にやったものね」
揶揄するようにそういうリツコの後ろを、でれんと四肢を垂れ下がらせた弐号機が特大の特設クレーンで運ばれていく。腹部の傷痕が痛々しいが、他は少々特殊装甲がささくれ立っている程度で、シルエットには大きな損傷はない。
「さすがに惣流博士が直々に建造を指揮しただけのことはあるわ。これだけの爆発に巻き込まれても、この程度の損傷で済むんですもの。頑丈さで云えば初号機以上ね」
だが傍らのミサトは答えない。運ばれていく弐号機をずっと目で追っている。リツコはタメイキをつく。
「ふたりとも無事だったんでしょう? 使徒も殲滅したんだし、もういいじゃないの」
その言葉に視線だけ動かし、ミサトはリツコを見る。
「……そうね」
その沈んだ様子に、仕方ないか、ともリツコは思う。
エヴァ弐号機が海底から引き上げられたのは三時間前。引き上げられたといっても、アンビリカルケーブルを引き綱代わりにした急ごしらえの方法で、お世辞にも丁寧なサルベージとは云い兼ねた。
エントリープラグに三時間余り閉じ込められた少女たちは無事だったが、なんでもっと早く引き上げてくれなかったんだと怒鳴る惣流アスカとは対照的に、帆足マリエはすっかり疲弊しきっていて、「オーヴァーザレインボウ」に収容されると同時に気を失った。今は碇シンジとその友人たちが付いてはいるが、未だ眠り続けたままだ。
こうなると葛城ミサトは、発令所の彼女とはまるで別人になってしまう。度を無くしてうろたえるよりはマシだが、普段威勢がいい分余計落ち込んでいるように見えて、それが鬱陶しい。
本当はミサトも様子を見に行きたいのだろうが、これから弐号機の移送を指揮を取らなくてはならない。惣流アスカだって、ミサトからの指示でなければ納得しないだろう。
本当にヘンなところで生真面目なんだから、と少々気の毒に思いながら、リツコは撤収のために手元の資料をまとめ始めた。
「そっちはどう?」弐号機から降ろした計測装置類をチェックしていた女性オペレータに声をかけた。だが彼女は接続したノートパソコンの画面を覗き込んで怪訝な顔をしている。
「マヤ、どうしたの?」
「えっ? あっ、何でもないです。ダウンロードは終りました。後は本部に戻ってからデータを分析に出すだけです」
「そう。ごくろうさま」リツコは、珍しいな、とは思ったが、他にも考えることが山のようにあって、彼女の様子のことはそれきり思い出すこともなかった。
赤木リツコの関心が逸れると、オペレータはもう一度表示された数値を見て首を振った。
そうよ。きっと計測器の誤作動だわ。彼女は思った。一ヶ月も船で移動していたから、精度に問題が出ているのね。戻ったら交換してメンテナンスに出さなくちゃ。
だって、たった〇.六五秒にせよ、内蔵電源が切れてもエヴァが動き続けていたなんて、どう考えても絶対にあり得ないことだもの。
「いやはや、なんとも波乱に満ちた船旅でしたよ」
男くさい笑みを浮かべて、彼は云った。
「2nd Childrenは僕がお好みではないようで。すっかり嫌われてしまいましてね」
だが相手はそんな軽口に乗ってくる様子はなかった。傾いた光のさし込む広大な空間、その中央に置き去られたようにある執務机。黙り込んだ口元を隠す手袋の白が色眼鏡に映り込む。傍らに立つ初老の男も厳しい表情を浮かべている。
だから加持もそれ以上無駄口は叩かず、持参した対爆トランクを無造作に机に置いた。
「ほとんどのサンプルはすでに処分済みでしたが、これは偶然残っていたものです。持ち出すのに苦労しましたよ。硬化ベークライトで固められていますが、生きてます。間違いなく」
複雑な電子ロックを解くと、中身を相手に示す。
「E計画の要、ですか」
「そうだ」碇ゲンドウは、初めて口を開いた。「かつて人類の全ての知力を結集したキメラプロジェクト。その時作り出された、神の欠片」
「同時に、人類最大の禁忌だよ、これは」吐き捨てるように冬月が呟く。
だがゲンドウは動じた様子もなく、
「その禁忌に触れなければ人類に未来はない。そのための、E計画だ」
加持が立ち去ったあと、冬月はトランクの中身をしばし見つめ、そして云った。
「俺は今でも時々思うよ。我々には本当に神が必要だったのか、とね」
だがゲンドウは、身じろぎもせずに答えた。
「冬月先生。その答えを知るのは、神そのものだけです」
The End of Episode8.