「これが僕たちの敵なのか………」
そう呟く碇シンジの目の前を、巨大な壁が視界を塞ぐ。高さ数十メートルはありそうなそれは、しかしシンジには見覚えのあるもの。
第四使徒。
急ごしらえの仮設施設にすっぽりと覆われてはいるが、真夏の暑さの中充分な空調も行き届かず、既に劣化が始まっているらしいその巨体からは、甘ったるくむっとする異臭が漂ってくる。
これを倒したのが自分の乗っていたエヴァ初号機だとはどうしても信じられず、お上りさんよろしく周囲を見回しながら、シンジは落ち着かない気分でそれを見上げていた。
もっとも、もっと落ちつかなげにきょろきょろしている大柄な少女が傍らにいて、シンジのそれはあまり目立っていない。あっちにいっては作業員から怒声を浴び、こっちにいっては葛城ミサトから注意されている。
「小学生じゃないんだから」
葛城ミサトにそう言われて「ゴメンなさい」と返事をする少女は、しかしものめずらしさからうろうろしている訳ではなく、シンジの側にいるのがどことなく落ち着かないようで、それで二人と同じペースで移動していないらしかった。
未だ、シンジと帆足マリエの関係はうまく言っているとは言い難い。お互いに変に気を遣っているものだから、それが相手に伝わってしまって、そのせいでミサトがいない時の会話は相変わらずぎこちないままだった。それでも、コミュニケーションをしようという意志があるのとないのとでは大違いで、以前のような一方通行ということはなくなっている。まぁ時間が解決するでしょう、という葛城ミサトの大雑把で希望的な見立てもあながち間違いではなく、状況は好転する兆しを見せてはいた。
だが、だからといってまだ平然と並んで歩ける程打ち解けたわけでもなく、自分の態度を決め兼ねているシンジの代わりに、帆足マリエがあたりをうろうろしているというわけだった。
そんな子供たちの様子にこめかみを押さえたくなっている葛城ミサトとは対照的に、赤木リツコ博士は新しい玩具を与えられた子供のように素晴らしく上機嫌だった。いつもしかめつらしい顔をして難解な専門用語を並べ立てている赤木博士が、これほどまで表情を緩ませているのも珍しいらしく、周囲からは珍獣を見る視線が集まっていた。だが当の本人は一向に気にした様子はなく、携帯端末を覗き込んでひとり悦にいっている。
「なるほどね。コア以外はほとんど原形を留めているわ。ホント、理想的なサンプル。有り難いわ」思いの外子供っぽい笑顔をシンジ達に向ける。普段からこういう顔してれば男どもの評判も全然違うのに、と諦め顔でミサトは思う。それで独身なのを嘆いていたって説得力ないわよ、リツコ。
だから、いささかうんざりした気分でミサトは云った。
「で、何かわかったワケ?」
コード601。
ディスプレイにそっけなく表示されたその数字。
「なにこれ?」
「解析不能を示すコードナンバ」リツコの言葉も負けずそっけない。
「つまり、ワケわかんない、ってこと?」極めて分かりやすいミサトのコメントに、リツコは頷く。
「そう。使徒は粒子と波、両方の性質を備える、光のようなもので構成されているのよ」
そういって、マリエが煎れたコーヒーを啜る。
「で、動力源はあったんでしょ?」
「らしきものはね。でもその作動原理が、まださっぱりなのよ」
「まだまだ未知の世界が広がっている訳ね」
「とかくこの世は謎だらけよ。例えば、ホラ、この使徒独自の固有波形パターン」
「どれどれ?」覗き込むミサト。だが、表示されたグラフを見て息を呑む。
「これって……」
「そう。構成素材の違いはあっても、信号の配置と座標は、人間の遺伝子と酷似しているわ。九十九.八九パーセントね。改めて私たちの知恵の、浅はかさってものを思い知らしてくれるわ」
「九十九.八九パーセントって……」言葉を濁すミサト。その時。
「エヴァと同じですね」
ミサトとリツコが同時に振り向く。声の主である帆足マリエは、その視線の厳しさにびくっとなった。
「えっ、えっ、あの……」おろおろと視線をさまよわせる。
「何故知っているの?」リツコのきつい声。
「なぜって、えーと、その、どこかで、そう、聞いた気がして……」
「帆足一佐から?」
「えっ、ど、どうだったかな」真剣な表情で思い出そうとするマリエに、リツコは小さくため息を付く。
「いいわ、無理に思い出さなくっても。ただ、今のこと、軽々しく部外者に話さない様にね」
「は、はい……」小さくなるマリエ。居たたまれなくなって視線を逸らすと、ふと三人から離れてあらぬ方向を向いている少年に気付いた。
どうしたんだろう? なんて考える前に、声、かけなきゃ。なんて考えているうちに、先にミサトの方が気付いてしまった。
「どしたの、シンジ君?」
シンジがびくっと振り返る。
「あ、いや、その、別に」その割には視線を力なげにそらす。
その態度に、ミサトは眉をひそめる。このガキャあ、また正直に吐かねぇつもりだな。
「あのねー、そういう顔で「別に」っていわれてもねぇ、気にかけてください、心配してください、っていわれてるようなもんなんですけどね」いい加減扱いを覚えてきた葛城ミサトのキツいお言葉に、あっさりビビる碇シンジ。おずおずと白状を始める。
「あの、父さん、手に火傷しているみたいなんだけど。どうしたのかな、って、思って」
「火傷? 火傷って………」心当たりのないミサト。振り返って訊ねる。「何か知ってる?」
リツコとマリエは顔を見合わせて頷いた。多分、あの時だ。
「あなたがここにくる前、起動実験中に零号機が暴走したの。聞いてるでしょ」リツコの言葉に頷くシンジ。
「その時、パイロットが中に閉じ込められてね」
「パイロットって、綾波ですよね」
「ええ。碇司令があの娘を助け出したの。加熱したハッチを、素手で無理矢理こじ開けてね」
「とうさんが……?!」
「掌の火傷は、おそらくその時のものじゃないかしら」
とうさんが………、綾波を?
シンジは驚きを隠せなかった。
いつも不遜な表情で、人を人とも思わぬ冷酷さを纏っている碇ゲンドウ。自分を捨てた父親。それが、ただのパイロットに過ぎない少女を、そうまでして助けたなんて。
1st Children、綾波レイ。
シンジは、その包帯で飾られた孤独な横顔を思い出す。
大地を蹴って、ほっそりした体が舞った。
白鳥の舞とも見える優雅な動きで、その手のバスケットボールをそのままリングの中に押し込む。ダンクシュート。
きゃあっとコートサイドが沸く。ホイッスル。
とびきりの笑顔でぐっとガッツポーズを決める帆足マリエに、黄色い声援だけでなく、何故かグラウンド脇のプールからも野太い歓声が上がった。
「ホンマ、帆足の奴、ええ体しとんなぁ」フェンスに張り付いた鈴原トウジのヤニ下がった声。
「スポーツ万能、プロポーション抜群。可愛くて性格もいい。おまけにエヴァのパイロットときた。もうサイコウだよな」と相田ケンスケ。例の家出の一件以来、すっかりファンになってしまったらしい。今が水泳授業でなければ、間違いなくカメラを構えている筈だ。
確かに帆足マリエの評判はなかなか悪くない。いつも笑みを絶やさず、誰に対しても親切で面倒見も良い。男子に変に媚びないところも、女子の間では好意的に受け止められている。顔立ちは美人というよりも可愛らしいといったところか。対照的に日本人離れした大人びた体つき。
しかも、日本の常識に疎いこともあって、常識人の洞木ヒカリ、チェックの厳しい山岸マユミを並べると、天然ボケとツッコミ、もう立派な漫才トリオ。本人達は大いに不本意だろうが、そういう定評すら上がりつつある。そんなにくめないところもあって、帆足マリエはその目立つ容姿と素性にもかかわらず、第一中学校にすっかり馴染んでいた。
だが碇シンジは、その姿を皆とは違う気持ちで見ていた。
同じエヴァのパイロットということで、学校でも言葉を交わすぐらいならば以前ほど奇異の目では見られなくなった。でも、だからといって、あの娘と一緒に住んでるなんて、とても話せるワケないよなぁ。
友人に隠し事をしたくないのは山々だったが、ただでさえエヴァのパイロットということで「学校中の女子生徒の憧れの的」、その上に「第一中で彼女にしたいオンナのコNo.1」の帆足マリエの手料理を朝昼晩頂いているなどと知れた日には、月のない夜道を一人で歩けなくなってしまうだろう。多分にやっかみと憧れとシュミが入っている相田ケンスケのハナシを信用するならば、の話だが。
とはいうものの、いつまでも隠し通せるとも思えないしなぁ。などと考えていたシンジは、ふと歓声を上げている少女達から一人離れて座っている体操服姿に目を留めた。
自分を捨てた父親。その父親が助けたという少女。
華奢な体つき。寂しげな横顔。孤独な肩。緋色の眸はグラウンドの方に向けられることなく、ただ自分の足元のあたりをじっと見つめつづけている。
シンジはその姿から目が離せなくなった。どこか見覚えのある横顔。あれを見たのはどこだっただろうか?
「おっ、センセ。なに熱心な目で見てんのや」鈴原トウジが目敏く、ぐわばっ、と身を乗り出して暑苦しい顔を寄せてきた。
「い、いや、別に」
「綾波きゃぁ? ひょっとしてぇ?」とケンスケ。
「ちっ、違うよっ」慌てて否定するが、彼らが納得する筈もない。
「またまたぁ。あ、や、し、い、なぁ?」
「あ、あやなみのむね、あやなみのふともも、あやなみのふくらはぎ……」
「だ、だから、そんなんじゃないって」
「だったら、なに見てたんだよ」
「ワシの目ぇは誤魔化されへん」
容赦ない追求に、シンジはしぶしぶ答える。
「どうしてあいつ、いつもひとりなんだろうって思ってさ」
「はぁ?」拍子抜けした二人の声。
「まぁ、そないゆうたら、一年のときに転校してきてから、ずぅっとトモダチいてないなぁ」
「なんとなく、近寄りがたいんだよ。あいつにまともに話し掛けるのって、帆足くらいだし」
「ホンマは性格悪いんとちゃうか?」
トウジの冗談めかした言葉にも、シンジは乗ってくるふうもなかった。
背後で集合の笛が鳴り、三人は立ち上げる。
「エヴァのパイロットどうしだろ。シンジの方が、良く知ってるんじゃないの?」
「そらそうや」
だがシンジは戸惑いがちに応える。
「でも、ほとんど口、きかないから……」
「なによ、これぇ?」
「カレーよ」
親友の不満そうな声に、ミサトはにべもない返事をする。大きめの鍋からスパイスの芳香が漂ってくるが、リツコにはそれすら不満らしかった。
「せっかくマリエの料理を期待してきたっていうのに、これなの?」
「お呼ばれされといて文句言わないの。それに、これだっていちおうマリエが作っていってくれたのよ」
「元は、でしょう? あなた、「ちょっと物足りない」って、また何か足したんじゃなくって?」
どきっ。
ミサトは内心冷や汗をかく。伊達に十年来トモダチやってるわけじゃないわね。
「そ、そんなことするわけないでしょ。この間のときだって、散々マリエに怒られたんだから」
「そう?」
「そうよ」
リツコはきゅっと眉をひそめ、
「あやしいわね」
救いを求めてシンジを見ると、シンジは戸惑ったような表情を浮かべている。
「あのー、僕はブイヤベースだって聞いてたんですけど」
ぴきっ。
ミサトのこめかみに一瞬青筋が立つ。
やっぱり、と言う顔でリツコはミサトを睨む。ミサト、絶体絶命。
「な、何いってんのよ、やーねぇ。食べてみればすぐ分かることじゃない」
愛想笑いで誤魔化そうとしても、返ってくるのは二対の冷たい視線ばかり。
疑念を逸らすべく、止む終えずミサトは自らスプーンを口に運んだ。
うん、味は悪くない。やっぱり元々が良かったせいか。ただ、同じ内容をカップ麺にぶちまけて食していたあの頃からすると、やはり物足りない気もする。もっともそれを要求しているのは、すでに習慣ではなく記憶だったが。
見守っていた二人は、ミサトの様子に顔を見合わせたが、恐る恐るそれを口にした。
「う。」
それは確かにリツコの舌にも不快ではなかったものの、絶妙の調和であったであろう本来の味わいは望むべくもない。レトルトと入り交じったそれは、もはや単なるフツーのシーフードカレーであった。
(これじゃ、いつもの食事と変わらないじゃないの)
望むと望まざるとに関わらず、朝昼晩を掛けて本部の食堂のメニューを片端から制覇しているリツコとしては、毒づきたくもなるというものだ。だが、視線を変えてシンジをみれば、覚悟していたよりはマシな味であった様で、安堵の表情を浮かべていた。
(まぁでも、たまにはこんなのもいいかしらね)
そう自分に言い聞かせ、リツコはようやくこの歓迎を享受する気になった。
とはいえ、なにかひとこと言わずには気が済まないリツコ。
「この程度で済んだのは、むしろ幸運と言えるわね」
「あによ、それぇ」
すでに十数本の缶ビールを開けて呂律の回らなくなりつつあるミサトは、その言葉に不満の声を上げる。
「シンジ君、やっぱり引っ越しなさい。ガサツな同居人の影響で、一生台無しにすることないわよ」
「もう慣れましたから。それに、いつもは帆足さんが見ててくれるし、もう少しは………」
「あら、シンちゃん。もう少しは、なにかしらぁ?」とにこやかにミサト。もちろん眸は笑っていない。
「よしなさいよ、大人げない」とリツコ。「シンジ君、悪いけどもう一本持ってきてくれる?」空きかけた缶を振ってみせる。
素直な返事と共にシンジが席を立つと、獲物を失ったミサトは不服そうに舌打ちした。
「相変わらず、家のことはマリエに任せっぱなし? まったく、どっちが母親かわからないわね」
「うっさいわねぇ」むくれるミサト。マリエとは、もう五年近くこういう生活を続けてきたのだ。今更変えようと思ったところで、そうそうできるわけもない。
「そういえば、今日はマリエはどうしたの?」数本のビールを抱え戻ってきたシンジに、リツコは聞いた。
「今日は綾波のところです。月曜日だから」
そういえばリツコにも思い当たることがあった。
「そう……、まだ続けているのね……」
毎週月曜日、マリエは綾波レイの部屋へ通っている。その日は一晩泊まり、翌朝レイと共に登校してくるのが常だった。
何をする訳でもない。ただ、洗濯と部屋の掃除をし、食事を作り夕食を共にする。それだけだ。別に誰かに言われた訳ではなく、マリエが自分から始めたことだった。
本来ならば、あの二人の無用の接触は避けるべきなのだろう。だが、何故かリツコはそれを止めさせる気になれなかった。マリエが通うになってから、レイは少し変わったように見える。それが好ましいことなのかどうか、リツコは判断が付けられずにいた。
ふと、ミサトが怪訝な顔で自分を見ているのに気付く。どうやら意識せぬまま表情に出ていたようだ。悟られないために話題を変えようとした途端、リツコは重要な用件を思い出した。
「あ、いけない。忘れるところだったわ。シンジ君、頼みがあるの」
「なんですか」
「再起動実験の準備に紛れて渡しそびれたままになってたの。悪いけど、明日本部に行く前に、これをレイのところへ届けておいてくれないかしら」
シンジに手渡されたのは、レイの顔写真が貼られたセキュリティカードだった。
綾波レイ。
そのどこか見覚えのある容貌に、シンジはしばし写真に見入った。
「どうしちゃったのぉ? レイの写真をじぃぃっと見ちゃったりして」ミサトのからかいの言葉に、シンジはようやく自分のしていたことに気付き、思わず顔を赤くする。
「あ、ひょっとして、シンちゃ?ん」
「ち、違うよっ」
「ま?たまたっ、照れちゃったりしてさぁ」
「そんなじゃないってば」
「レイの家に行く、オヒシャルな口実ができてチャンスじゃない」
「からかわないでよ、もう」
その反応に、ミサトはころころと笑った。
「す?ぐ、ムキになっちゃって。からかいがいのある奴ぅ」
「ミサトと同じね」
ぐはぁっ。ミサト、自爆。
「僕はただ、同じパイロットなのに、綾波のこと、良く分からなくて」
「いい娘よ、とても。ただ少し不器用だけど」
「不器用って、何がですか」
リツコは優しい眸で言った。
「生きることが」
細い指先が、白い肌の上を這う。
マリエの指が、綾波レイの素肌をそっとなぞっていく。
ふと敏感な部分に触れたのか、レイがぴくりと体を震わせる。だがそれだけ。
無骨なパイプベッドに横たわり、二人とも素裸のまま、マリエが背中からレイを抱きしめている。エロティックな気持ちなどない。ただそうやって、お互いの素肌の感触を確かめているだけだ。レイはいつも通りの無表情。マリエは穏やかな顔。
この部屋に通うようになった今でさえ、レイはマリエともほとんど口を利かない。声を掛けても、最小限の言葉が返ってくるだけだ。だがそんな少女にも、人のぬくもりは必要だったのかもしれない。
初めてこうやって寝たときも、レイは拒否しなかった。ごく自然にマリエの腕の中に入り、しばらくすると穏やかな寝息を立て始めた。大柄なマリエに抱かれると、華奢なレイの体はまるで母親に抱かれている子供のようだった。
どうしてこんなふうにしようと思ったのか、マリエ自身にもよく分からない。ただ、この暖かみのない殺風景な部屋の中に、レイがぽつりと取り残されたような、そんな気がしたせいなのかもしれなかった。
それに、ここはあまりにもあの部屋に似ている。それがマリエにはとても嫌だった。
壁紙もない、コンクリートがむき出しの、薄汚れた部屋。パイプベッド。ユニットバス。小さな調理台。背の低い冷蔵庫。窓を覆うカーテン。
記憶にあるあの部屋は、こことは比べ物にならないくらい清潔だったが、その空虚さがよく似ている、とマリエは思う。それが嫌でレイに何度か転居を勧めてみたが、いつも無表情な沈黙が返ってくるばかりだった。
わたしがこうしているのは、本当はこの部屋の空気にわたしが脅えているだけなのかもしれない。
そんなことを思い、マリエは自嘲を込めてくすっと笑った。
ふと、レイが緋い眸だけ動かしてこちらを見ているに気付く。
「あ、ごめんね。なんでもない」
その言葉に一度眸がそれるが、瞬き一つすると、またこちらを見る。
ああ、そうか。なにか話して欲しいのね。
最近少しずつだが、ようやくレイの眸の色を見分けられるようになってきた。こういうときは別に何か聞きたいことがあるわけではなく、ただ人が喋っている声を聞きたいらしかった。
だからマリエは、静かな声で話し出す。
「あのね、今日はリツコさんがミサトさんの家にくることになってるの。だから夕飯つくって置いたんだけど、ミサトさん、いつもレトルトとか入れて全然別なものにしちゃうのよ。最初のうちは怒ってたんだけど、もう最近はいい加減慣れてきて、何か入れても大丈夫なようなものを作っておくようにしてるんだ。でも才能よね、あれだけ完全に別物にしちゃうなんて。わたしにはまねできないなぁ………」
そうしてひとしきり話を続けていると、腕の中で小さな寝息が聞こえてきた。
マリエは優しく微笑むと、
「おやすみ」
遠く聞こえる工事の音。鉄筋を叩く音が長く響き渡る。
巨大な廃虚の群れ。うち捨てられたコンクリートの墓標が立ち並ぶ。
第三新東京市の、消えようとしている記憶の一部。再開発地域。
その一角に、碇シンジは足を踏み入れていた。
綾波レイに更新されたセキュリティカードを渡すためだ。本当は学校で渡そうと思っていたのだが、結局綾波レイは登校してこなかった。帆足マリエを掴まえて聞いてみたところ、
「んー、今日は多分こないと思うよ」
と実に他人事な返事が返ってきた。「案内してあげようか」という有り難い申し出にしどろもどろにお断りを入れ、家の場所だけ聞いてここまで来たのだった。
「オンナノコの一人暮らし」というと、若い男は何の根拠もなく可愛らしい生活を期待するものだが、それを見るからに裏切る建物の外見に、碇シンジは唖然を通り越してむしろ感心してしまっていた。
人間、住もうと思えばこんなところにも住めるんだなぁ。
確かに綾波レイは「変わり者」で通っている。普段から無口な上に、服装や髪型にもまるで無頓着なようで、ヨレヨレの制服、シャワーを浴びて無造作に拭いただけというボサボサ頭でも、平然と学校にやって来る。その度、帆足マリエがどこかへ連れて行き、なんとか見れる姿になって戻ってくるのが常だった。顔立ちが綺麗なだけに、その無頓着さを嘆く男子生徒も少なくない。そういう彼女だからこういうところでも住めるのだろうか。などと脈絡のないことを考えながら、剥がれ落ちた漆喰が散らばる階段を登る。
それにしても、と碇シンジは思う。火傷してまで助けたくせに、なんでこんなところに住まわせているんだろう、父さんは。そんなに大切なら、もっとキレイな部屋に住まわせてあげればいいのに。
自分より気にして貰える、というやっかみも入ってはいるが、どちらかというと義憤の方が強い。葛城ミサトの愛情と帆足マリエの手料理、なにより人の暖かさという蜜を味わってしまった最近の碇シンジには、ようやくそういう余裕も出てきた。衣食住足りて礼節を知る、だ。
もっとも、本人とは全く無関係のことに関してこういうふうに真剣に憤りを感じられるのは、碇シンジの元々持つ美徳ではあり、同時に子供らしい傲慢でもある。綾波レイが好き好んでここに住んでいるかもしれない、ということは、この際頭に浮かばない。
部屋番号を確かめながら、薄汚れた廊下を歩く。四○二、四○二、と。「綾波」と掛かれた表札を掲げた部屋の前で立ち止まった。
ダイレクトメールで溢れかえった新聞受けを横目に見ながら、とりあえず呼び鈴を押す。だが何も手応えがない。壊れてるのかな、と思いつつさらに数度押し続けてみたが、チャイムがなった様子はなかった。玄関先でカードを渡して早々に退散する、という頭の中で描いていた完璧なシナリオが初っ端から崩れ去り、碇シンジは途方に暮れた。
このまま帰ろうか、という持ち前の及び腰が顔をもたげる。だが、そうすると綾波レイは本部に入れないわけで、今日の零号機の再起動実験は行えなくなる。そうなると、ここ数週間不眠不休で準備を進めてきた赤木リツコ博士と技術部の面々の努力は水泡と帰す。
さしもの碇シンジも、赤木リツコ博士の不興を買うのは怖かった。
ただでさえ、いつも一部の隙もないほどの理論で武装し、冗談など言おうものなら冷たい視線が返ってきそうな赤木リツコ博士が、シンジはあまり得意ではない。弱みとかスキとか、要するに安心できるところが少ないのだ。
なにより、エヴァの運用は赤木博士の掌中にある。彼女がほんの気まぐれを起こせば、シンジの命は風前の灯火となる。そんなのはゴメンだ。
たびたび帆足マリエが発する大ボケな質問にも辛抱強く応えているし、意地の悪いひとではないのだろう。昨日の一件で、気さくなところもあるのは分かっている。だが、刷り込みされた印象は、そうそう変わるものでもない。
だからその影に押されて、シンジはやむを得ず、次善の策をこうじることにした。
どんどんどん。鉄の扉を叩く。
「あやなみ、いないの?」
やはり応答はない。
ひょっとして、もう本部へ向かってしまったのではないか? ふと、そんな考えが浮かんだ。
そうすると綾波レイは本部に入れないわけで、今日の零号機の再起動実験は行えなくなって………。あわれ、碇シンジの命は風前の灯火。
そんなのないよぅ。
自分の想像に泣きそうになる碇シンジ。三十分近く迷ってしまったせいで行き違いになってしまったのだろうか。やっぱり案内役を帆足マリエに頼んだ方がよかったか、と思ったが、ここに来るまでの気まずい時間を考え、思い直す。
ドアノブに手を伸ばすと、鍵は掛かっていない様で抵抗なく開いた。数瞬迷ったが、決心して女性の部屋のドアを無断で開く、という暴挙に出る。
「ごめんください」重い扉を少しだけ開け、いまどきの若いモンなら誰も使わないような美しい日本語で、碇シンジは云った。
「ごめんください。碇だけど、綾波、入るよ」
自分が通れるくらいの隙間を作り、そこから中に体を滑り込ませる。玄関脇にマリエが置いていったらしいサイズ大き目の可愛らしいスリッパがあって、まだ真新しいそれを履いてシンジはぺたぺたと部屋の中に入り込んだ。
室内は妙に薄暗かった。さすがにキレイ好きな帆足マリエが訪問したあとだけあって、ピカピカとはいかないまでも、埃っぽくないくらいには掃除がされている。とはいえ、建物の老朽化はそれ以上に進んでいるようで、お世辞にもキレイな部屋とは言い難い。くすんだ灰色の壁を見ながら、ひょっとして牢屋ってこんな感じなのかしらん、と碇シンジは思った。それほどこの部屋は殺伐として見える。調理台の上に置かれた小さな水切りの柔らかな色合いが、なんとも不釣り合いだ。部屋の奥では、やはりパステル調のシンプルなカーテンが、窓から入り込む風にゆらゆらと揺れている。少しは彩りを、というおそらく帆足マリエの差し金だろうが、何か浮いてしまっていて、あまり効果的とは言い難い。
いや、そんなことはどうでもいい。問題はこの部屋の主なのだが。
カラッポのパイプベッド。半開きで白い中身の覗く衣装棚。背の低い冷蔵庫。どう見ても隠れる場所はない。だいたいなんで隠れなきゃならんのだ。やはり主は不在のようであった。
やっぱり風前の灯火かなぁ。
それでもベランダで洗濯物でも干しているのでは、というわずかな期待を込めて窓際に近寄ろうとしたとき、碇シンジの眸が、衣装棚のところで止まった。
思わずその中身の白い布に目が……、ではなくて、その上に置かれた見るからに女物の眼鏡。
部屋の主のものだろうか? でも、綾波が眼鏡を掛けているのなんて見たことないぞ。それとも、普段はコンタクトなのかな、などと考えつつ、ほんの好奇心でそれを手に取った。
だが、つるに彫られた名前を見て、心臓が跳ね上がった。
YUI.IKARI.
それは自分を捨てた母親の名。きれいな口元に浮かんだ悪魔のように冷たい笑みが、シンジの脳裏をよぎる。母さん。もう顔も覚えていないのに、その微笑みだけは今でも鮮明に思い出せる。
(そう。なら、出て行きなさい)
その唇がそんな言葉を漏らして以来、シンジは碇ユイと会ったことはない。年に一度だけ、保護者の義務としてゲンドウが住まいを訪れることはあったが、そのときもそこにはユイの姿はなかった。
シンジが本当に恐れているのは、父親ではなく母親である碇ユイだった。
優しかった母。幼心にもそれは憶えている。それが、ある日を境にまるで変わってしまった。きっかけはなんだったのか、シンジは憶えてはいない。だが、投げつけられた冷酷な言葉だけは心の奥に突き刺さったままだった。
だから、シンジは母親が怖かった。ユイが米国に長期駐在中だと聞いて、密かに胸をなで下ろしていたというのに。
なぜこれが綾波のところに?
父親が助けたという少女。その少女が持っている母親の眼鏡。
シンジは混乱した。だから、背後のユニットバスの扉が空く音に気付くのに、数瞬遅れた。
綾波レイは眉をひそめた。
シャワーを終わらせ、髪を拭きながらバスから出ると、思いもよらぬ人物がそこにいたからだ。
初号機パイロット。何故彼がここにいるのだろう、とは思ったが、それよりも振り返った彼が手にしているものの方が、彼女の関心を引いた。
不快だった。あれは碇博士が米国に行く前に私にくれたものなのに。だから、つかつかと歩み寄ると、その手から眼鏡を奪い取った。
少年が顔を引き攣らせて視線をさ迷わせながら、何かいい訳をしようとしている。だが、レイは興味がなかった。服を着るために彼に背を向ける。その瞬間、思いのほか重い体がレイにのしかかってきた。少年が逃げ出そうとして足をもつれさせたのだと気付く間もなく、レイはリノリウムむき出しの床に押し倒されていた。
少年の腕が細い体を抱きしめている。それはほんの偶然なのだが、レイは昨夜ここに泊まっていった少女の抱擁を思い出していた。
あの白い腕は心地よかったのに、これは不快なだけだ。だからレイは少年を押しのけて立ち上がろうとした。
そのときだった。
「なにしてるの、ふたりとも」
帆足マリエがぽかんとした顔で、床の上で絡み合う少年少女を見下ろしていた。
帆足マリエは悩んでいた。
案内を断った少年のことが心配で後を追ってきたものの、部屋に入るなり床の上で碇シンジと綾波レイが抱き合っているのを目撃したからだ。しかも、綾波レイは素裸で。
おろおろと言い訳を並べようとするシンジを「女の子が着替えるんだから」といって強引に外に連れ出し、奇跡的に動作していた自販機で買った烏龍茶を押し付けて、なんとか落ち着かせたところだった。
まさか碇君にあんな甲斐性があったなんて。気が弱そうだからてっきりオクテなんだとばっかり思ってたのに。でも綾波さん嫌がってたみたいだし、やっぱり合意の上じゃなかったのかも。
そこまで考えて、マリエは慌てて否定する。だめだめ。これじゃまるでミサトさんじゃない。そのきりりとした美貌に似合わず、彼女の保護者は下品な冗談が好きだった。
傍らのベンチで居心地悪そうにもじもじしている少年を見る。とてもそんな度胸があるように見えない。でも人は見かけによらないっていうし。あ、それともひょっとして碇君、本当は綾波さんのこと好きなのかしら。そういえば、この間もじぃーっと綾波さんのこと見てたよね。
だんだん焦点がズれていくマリエの思考。それは階段を降りてくるレイの姿を認めた碇シンジの態度で決定的なものになった。つまり、彼は顔を赤くしてレイから視線を逸らせたのだ。
ちょっと考えればすぐ分かることなのだが、目に焼き付いた光景の印象が強烈だっただけに、あいにく帆足マリエには自分のカン違いを裏付ける証拠にしか見えない。もっとも、ちゃんと事情を説明できない碇シンジにも責任はあるのだが。
一方、綾波レイはそんなことにはお構い無しに、いつも通り無表情に二人の前を通り過ぎていく。一瞬こちらに眸を向けたが、その色からは彼女が何を思っているのかは読み取ることは出来なかった。
歩き去っていくレイの背中をボーゼンと見送った碇シンジの背中を、マリエはぺしぺしと叩く。
「だめじゃない、ちゃんと声かけなきゃ」つい先日、碇シンジに声を掛けそびれた自分を棚に上げ、マリエは云った。「ちゃんと謝らないと、嫌われちゃうよ」
嫌われちゃう、という単語に、基本的にエエカッコしいな碇シンジの自尊心が反応した。やにわに立ち上がり、綾波レイの後を追う。その後ろ姿に、天然大ボケ娘は自分のカン違いに気付くことなく、満足げな微笑みを浮かべる。
五年間の付き合いは伊達ではない。なんだかんだで、やはり保護者に影響されている帆足マリエなのだった。
嗚呼。
後ろから誰かがついてくる。いや誰かではない。あの初号機パイロットだ。
綾波レイはそのことに気付きつつも、振り返ることはしなかった。
はっきり云えば、関心がないのだ。
これが見知らぬ人間ならばある程度警戒もするし、場合によってはレイを監視している筈の諜報部のエージェントに合図もする。そうなれば、その尾行者は速やかに第三新東京市から放り出されるか、場合によっては数日中に新横須賀あたりの海の底で魚につつかれていることになる筈だった。
だが、さすがに身内を放り出してもらうわけにも行かない。それに実害もないので、綾波レイは気にしないことにした。あっさりその存在を意識の外に追い出す。
そういえば、なぜ彼が自分の部屋にいたんだろう、とほんの数秒考えて、しかし理由が思い当たらず、レイはそれ以上考えることを放棄した。
もともと、一つのことを考えるのは得意ではない。何も考えずにぼーっとしているのが好きなのだ。それに、今は集中して歩いていないと、転ぶ。転ぶのは痛い。痛いのはキライだ。
レイの体は華奢で、まるで体重がないかようにも見える。だが、当の綾波レイにとっては、この体を動かすのはかなりの重労働だった。そもそも体力も筋力もないくせに偏食が激しくて、ちっとも体が元気にならないのだ。おまけに血圧が低くていつもぼーっとしている。幸いなことに、暑いとか寒いとかはあまり苦にならないので、炎天下を歩き回って貧血で倒れると云うようなことはないのだが。滅多には。
そういうレイだから、誰かに話し掛けられても、どうしても反応が遅れる。しかもぼーっとしたまま表情も変わらない。返事をしても肺活量が少ないので声も小さいし抑揚もない。無愛想ねぇ、と云われても、はぁそうですか、どうしてかしら、くらいにしか思わない。それに会話をすること自体、体力のないレイにとっては一仕事なので、自分から口を開くことも希だった。
ことほど左様に、綾波レイは周囲に対する関心が薄かった。要するに、面倒なので黙殺しているだけのことなのだが。
そういうレイに今まで辛抱強く話し掛けたのは、碇ユイ博士と赤木リツコ博士、それに帆足マリエくらいだった。
最近は特に、帆足マリエが綾波レイにとって大きな存在だった。毎週一回ではあるものの、レイの面倒を見てくれるからだ。「好き嫌いはだめだよ」とはいうものの、ちゃんと肉が嫌いなレイの好み通りの食事を作ってくれるし、寝冷えしがちなレイに添い寝もしてくれる。おかげで少しは体が丈夫になったような気がする。元気が出てきたせいか、最近は赤木博士とも以前よりも多く言葉を交わせるようにもなってきた。
毎日来てくれればいいのに、とは思わないでもないが、マリエはマリエで、普段は葛城一尉や初号機パイロットの世話までしなくてはいけないらしい。昨夜のハナシでは、赤木博士の食事まで作ることもあるようだ。赤木博士、ずるい。
何回か転居を勧められたが、あの部屋にいる方がちゃんと通ってきてくれそうなので、レイはいつも黙っているようにしていた。もっとも、移りたいと思ったところで、碇博士の許可無しにはどこへも行けないのだが。
碇ユイ博士。レイは「親」というものを知らないが、もしいるとすれば碇博士のような存在なのだろうと思う。いつもレイを見守り、育ててくれた女性。赤木博士や帆足マリエのように自由にはさせてはくれないが、それでも綾波レイにとって彼女は、やはり大きな存在だった。
でも、今は帆足さんの次くらいかしら。だって、ゴハン食べさせてくれないもの。
確かに、碇ユイ博士がレイに手料理を振る舞ったことはない。そもそも彼女が料理が出来るのかどうかも、レイは知らなかった。それに今ユイは、遠い遠い異国のお空の下。週に何度か電話をくれるくらいだ。けっしてうれしくないわけではないのだが、なにぶん電話ではお腹は膨れない。
それに引き換え、食事を作り掃除をし洗濯をしてくれるのが母親だとすれば、今のレイにとって帆足マリエがまさしくそれに当たる。見掛けによらず食い意地の張ったレイにとって、序列が入れ替わるのにそう時間は掛からなかった。
こんなことなら、初対面で帆足さんが「仲良くしましょう」と云ったときに、
「命令があればそうするわ」
なんて応えて、泣かせてしまうんじゃなかったわ。
ジャージ少年の軽口は、期せずして正鵠を射ていたのかもしれない。
1st Children、綾波レイ。彼女は性格が悪かった。
スリットにカードを通す。
いつもなら重たい音を立ててゲートが開くのだが、今日は代わりに柔らかな電子音がレイの行く手を阻んだ。何事だろうと小首を傾げ、もう一度カードを通そうとしたとき、隣のゲートから伸びた手が真新しいカードを差し出してきた。
「これ、綾波の新しいセキュリティカード。リツコさんに頼まれて」
なぜ初号機パイロットがこれを? 赤木博士も意外と気が利かない。あとで会ったらニラんでおこう。文句をいうのは疲れるから。
少年の手からカードをかっさらうと、レイはさっさとゲートをくぐり、本部へ降りる長大なエスカレータへ向かった。だが、相変わらず少年は後をついてくる。意外と鬱陶しいやつだな。レイは思った。
「さっきは、ゴメン」エスカレータの途中で、不意に少年が声を掛けてきた。
レイは内心眉を潜める。部屋に勝手に入ったこと? 碇博士の眼鏡にさわったこと? あたしを押し倒したこと? それともそれ全部? 心当たりはありすぎるほどある。だからどれのことか良く分からなくて、レイは聞き返した。
「なにが」
だが、少年は気まずそうに黙り込む。
なぜ黙る? レイは思った。人が聞いてるんだから応えて欲しいもんだわ。
だが、何を思ったのか少年は全然違う話を始めた。
「き、今日、零号機の、再起動実験だよね。今度は、うまく行くと、いいね」
当たり前だ。レイは思った。そうそう失敗してたまるものか。またあんな痛い目にあうのはゴメンだ。体中包帯だらけでひとりで着替えも出来なかったくらい。もっともそのおかげで帆足マリエがレイの部屋に通って来てくれるようになったのだから、痛しかゆしなのだが。
それにしても、何が云いたいんだろう、彼は。さっきからずっとついてきているが、何か用事でもあるのだろうか。さっぱり分からない。余り気が長くないレイは、いい加減面倒になってきて、だからいつも通り黙殺することにした。
案の定、居心地の悪そうな沈黙が流れる。レイにとってはそれは慣れ親しんだものだが、この気の弱そうな少年には居たたまれないだろう。
ふっ。撃退したわね。そうレイが確信したとき、
「綾波は恐くないの。またアレに乗るのが」
ヤなことを聞くやつだ。レイは思った。せっかく人が思い出さない様にしてるっていうのに。恐くない筈がないだろう。あれだけの大怪我をして、しかもエントリープラグに閉じ込められたりしたのだ。でも、恐いからと云って乗らないわけにはいかない。そのための適格者なのだから。それが無くなってしまったら、自分は何の取り柄もないただの偏食病弱性悪無愛想娘になってしまう。それは、自分自身の唯一の価値を、自ら捨てることだ。そんなことが出来るわけがない。だからあたしは、エヴァに乗るしかないのだ。
それにしても、碇博士の息子だと聞いていたのに、ずいぶんニブいのね、この子。
だからちょっと興味が出てきて、レイは珍しく自分から口を開いた。
「あなた、碇博士の子供でしょ」
「う、うん……」
「信じられないの、ご両親の仕事が」
そうはいうものの、レイだって信じてはいない。前回あんな目にあっておいて「信じてますぅ」なんて、口が裂けても言えるものか。そんな奴がいたら顔を拝んでやりたいものだ。
とはいっても、それでも乗るしかないのがパイロットと云うお仕事。立場ヨワイのよね、あたしたちって。
だが、
「当たり前だよ、あんな両親なんてっ」
思いのほか強い言葉が返ってきて、レイはちょっとびっくりする。
なんだ、ちゃんと分かってるんじゃないの。なのになんであんなことを聞くのよ?
その無神経さに実験前の緊張をかき乱された気がして、レイは急にむかっ腹が立ってきた。
きっ、と振り返ると、間抜け面を睨み付ける。
「あ、あの………」
何か云う暇を与えず、綾波レイはその頬を思い切り叩いた。
女性に殴られるとどうしてこうも痛みが長引くのだろう、と碇シンジは思う。
鈴原トウジの拳は確かに痛かったし腫れも残ったが、それは痛いのは当たり前だった。なのに同じ殴られたのでも、帆足マリエの時には腫れはすぐに引いたのに、いつまでも痛かった覚えがある。
もっとも帆足マリエの場合は特別だったらしい。
「パーで良かったわね」とミサトは云ったものだ。「グーだったら歯の一本や二本は折れてるところだったわよ」
聞けば、マリエは幼少のころからみっちり格闘を仕込まれてきたのだそうだ。
「保安部の連中でも、サシでやったらまともに勝てないんじゃないかしら」
にっこり笑って台所を飛び回っているマリエしか知らないシンジとしては、にわかには信じがたいことだったが、しれっとしたミサトの台詞はあながち冗談のようでもなく、どうやら事実であるらしかった。
だが綾波レイにはそんな特技もないし、あの華奢な手が大した力を持っているとも思えない。
なのに、やはり何故か未だにじんじんとしびれるような気がする。どうしてだろうと思って一度はミサトに聞こうとしたが、「修行が足りないわね」とかなんとか、からかわれるのは目に見えているので、口を噤んでいることにした。それに、オンナノコに殴られた、などと口にするのは、いくらお子様な碇シンジでもあまり格好のいいハナシではない。
その綾波レイは今、眼下に見下ろすケイジに括り付けられたエヴァ零号機の中にいる。
メカニカルな頭部にうつろな単眼。初号機の凶悪そうな面構えとは違って、それはなんとも大人しそうで、どうせ乗るんだったらこっちの方がよかったなぁ、と碇シンジは思った。とはいうものの、前回コイツが大暴れしたために哀れ綾波レイは全治三週間の包帯娘になってしまったわけで、同じ暴走でも使徒を倒してパイロットを一躍英雄にしてしまった初号機とは雲泥の差だった。何事も見かけで判断しちゃイカンといういい見本である。
それに、こんなことを口にしたら、今度こそ本当に綾波レイに嫌われてしまうかもしれない。今だって好かれているとは言い難いけど。いや、その前に帆足さんのグーがとんでくるかも。この歳で差し歯なんてヤだなぁ。
窓にぺったり張り付いて熱心に零号機を見ている碇シンジが、そんなことを考えているとは露知らず、葛城ミサトはのんびりと紙コップのコーヒーを啜っていた。
(うんうん。熱心なのはいいことよね)
知らぬがホトケとはこのことか。だが、神ならぬ葛城ミサトにそれを求めるのは酷というものだ。それに今のミサトは全然別のことに気を取られていた。
(にしても不味いわねー、これ)
普段からマリエが入れてくれる煎れたての味に慣れてしまっていて、自販機のコーヒーなんぞ飲めなくなっているミサト。舌が肥えているのはいいが、こういう時は不便だ。いつもなら脇にくっついているマリエに別なのを煎れてきてもらうのだが、あいにく今はここにはいない。前回のときと同じく、管制室で再起動実験を見守っている。
作戦担当の自分でさえケイジを見下ろす廊下の一角にいるというのに、碇司令も赤木リツコもよく見学を許したものだと、ミサトは思う。見ると、管制室の窓越しに、隅の方でじっと零号機を見詰めている大柄な少女の姿があった。真剣、というより何か祈るような表情。
「でも、再起動の準備に、なんでこんなに時間がかかったんですか」
ミサトは少年に視線を移して苦笑した。なにも知らない、この少年らしい素朴な疑問。
「あなたには分からないかもしれないけど、エヴァにシンクロするというのは大変なことなの。綾波レイは七ヶ月。マリエは一年近くかかったわ」
目をぱちくりさせる碇シンジ。自分の立場が良く分かっていない様だ。
「これまでたった一回の起動試験でシンクロに成功したのは、シンジ君以外では一人だけ。4th
Childrenのひとり、レイチェル・イコマだけよ」
この場にマリエがいなくて良かったと思う。あの泣き虫がいたら、その名が出た途端またぽろぽろ泣き始めているところだから。
「第四次選抜計画で選出された4th Childrenはふたり。ひとりはマリエ、そしてもうひとりがレイチェル・イコマ。本来のエヴァ参号機専属パイロットよ」
「本来って………」
「彼女は事故に遭ってね。もうエヴァには乗れないの。それで、今はマリエが参号機のパイロットをしているのよ」
本人が望むと望まざるとにかかわらずね。その言葉を、ミサトはコーヒーと共に飲み下す。それは碇シンジも同じだからだ。
「レイチェルは2nd Childrenと並んで天才の呼び声が高かったし、マリエはあのとおりの成績でしょう? だから本当のことを云えば、マリエのパイロットとしての資質を疑問視する声が多くてね。四号機以降が建造されるまでは予備役の筈だったのよ。それがレイチェルが事故に遭ったために、急遽マリエがパイロットとして復帰することになったの」
あの事故さえなければ、とミサトは思う。あの事故さえなければ、弐号機と参号機の実戦配備が一年以上も伸びることもなく、テストタイプのエヴァに未経験の少年を載せて出撃させることもなかったのに。その上、有能なパイロットを失ったこと、それは何よりも痛い。
元来、マリエこそパイロットには向いていないのだ。気が優しくて泣き虫で、人と争うことを嫌う。確かに予備役とは云え格闘戦の訓練だけは続けていたため、シンクロ率さえ十分ならば碇シンジよりは役に立つだろう。だが、少なくとも米国での最後のシンクロテストでは、シンジよりも十ポイント以上低い数値しか残していない。確かに参号機は強力だが、パイロットがあの調子では、使い物になるかどうかはまるで未知数だった。
だから、今回の再起動実験は是が非でも成功してもらわないと、葛城ミサトは大変困るのだった。
まがりなりにも、綾波レイは幼少のころから1st Childrenとして適格者たる訓練は受けてきている。射撃の成績もなかなかだし、か弱いなりにも一応格闘戦の心得もある。体力的な不安はあるものの、後方からの援護射撃ならば容易にやってのけるだろう。最悪でも、碇シンジが再び命令無視を試みようとしたときに「背中からズドンといくわよ」くらいの脅しには使える。
なにより、綾波レイは大変聞き分けのいい部下だった。第一次直上会戦のときなど、今にも死にそうな大怪我だったくせに、命令通り初号機に乗ろうとしたくらいだ。命令を無視しておきながら「ごめんなさい」の一言で済ませようとした碇シンジとは心構えが違う。
期待の星、とまではいかないが、充分計算できる戦力として、今の葛城ミサトには喉から手が出るほど欲しい存在だった。
”これより零号機の再起動実験を始める”碇ゲンドウの声がケイジに響き渡る。
さぁて、いよいよね。ミサトは結局飲み干した紙コップを握り潰し、ケイジの巨人に視線を移した。
”レイ、用意はいいか”
「はい」
しかめつらしいゲンドウの声に応えるレイ。
さっきは余計なことで体力を使ってしまったが、それでも夜朝とうまい食事をがっちり食べてきたのだから、もういつでもおっけぃっすよ。ぶい。
まさか前回は朝食を抜いたせいで集中が乱れた、などとは口が裂けても言えない綾波レイ。再起動実験が帆足マリエの訪問した次の日で良かった、と密かに思っていたりする。
それにしても、今日も偉そうよね、あのヒゲのオジサン。あのときの慌て振りは何だったのかしら。助けてもらっておきながら、そんなことを考えるレイ。碇ユイ博士は確かに母親代わりだが、碇ゲンドウについてはそれほど関心がないのだ。
司令、という役職がどれほど偉いのかぴんとこないレイには、父親代わりとはいえ、ユイの尻に引かれているところしか見たことのないゲンドウが、それほど偉い様には見えないのだった。
ひょっとして私を助けたのも、私に何かあったら碇博士が黙っていないからだったりして。そんなに奥さんがコワイのかしら。などと不倫しているOLのようなことを考えるレイ。
ま、どうでもいいけど。
結局レイはそれ以上考えることを放棄し、起動に集中することにした。今ここで違うことを考えていたら、また包帯娘になってしまう。
目を閉じて、四方に呼びかけるイメージを作る。やがて、その声に応える感覚があり、レイはそちらに意識を集中した。
専門用語の飛び交う中、マリエはひとり零号機を見つめていた。
居心地は決していいわけではない。冬月副司令の厚意で管制室に入れてもらってはいるが、ここは技術部の城、単なるパイロットに過ぎないマリエは部外者であることには変わりはないのだ。
だがそれよりも、マリエには綾波レイのことが心配だった。エヴァとシンクロすることの難しさは、同じパイロットであるマリエが一番良く知っている。あの2nd
Childrenだって半年近く掛かっているのだ。レイチェル・イコマや碇シンジのような才能は得難いものだと聞いている。
綾波レイはシンクロ率もマリエのそれを上回っているし、既に数度起動に成功もしている。にもかかわらず、前回のような事故は常に起こりうるのだった。そう、レイチェル・イコマのときのように。
それはマリエにとって自分自身の不安にも繋がるものだ。急遽パイロットに復帰して一年、なんとか起動にはこぎつけたものの、安定度にはまるで自信が無い。そのうえ、前回の零号機、そして第一次直上会戦での初号機の暴走を目の当たりにしてしまったときては、不安は募る一方だった。
だからこそ成功して欲しいとも思う。同時にそれが、綾波レイが零号機で実戦に臨むことになるのと同義であっても、だ。
「起動開始」碇司令の低い声が管制室に響いた。それに赤木博士が応じる。
「第一次接続開始」
「主電源、全回路接続」
「主電源接続完了。起動システム、作動開始」
ぼう、と単眼に光が点る。顔の造作がないぶん、それが余計に生命の灯のように見える。
「システムフェーズ2、開始」
「シナプス挿入、結合開始」
「パルス送信」
モニタに写されたエントリープラグ内が、虹色の光に包まれる。同時にLCLが電化し、その色を減じていく。
「パルス及びハーモニクス、正常」
「初期コンタクト、異常なし」
「左右上腕筋まで、動力伝達」
両腕に仕込まれたマーカーが点灯する。
「オールナーブリンク、問題なし」
「第三次接続準備」赤木博士の声。その言葉に、マリエの表情が硬くなる。
「チェック2580まで、リストクリア」
「絶対境界線まで、あと2.5、1.7、1.2、1.0、0.8」
オペレータの声が堅い。
「0.6、0.5、0.4、0.3、0.2」
そこに居合わせた皆が、祈るような気持ちでその声を聞く。
「0.1、突破」
「ボーダーライン、クリア」
「零号機、起動しました」
その報告に、管制室の空気がほぅっと緩む。
”了解。引き続き、連動試験に入ります”
そのレイの言葉で、今までほどではないものの新しい緊張が生まれる。だがそれは、不意の電話の音で遮られた。
「碇、未確認飛行物体が接近中だ。おそらく、第五の使徒だな」応対した冬月が告げる。
「実験中止。総員第一種警戒体制」とゲンドウ。赤木リツコ博士に「初号機は?」
「三百八十秒で、用意できます」即答する赤木博士。
「よし。出撃だ」
「零号機はこのまま使わないのか」と冬月。マリエも同じ気持ちでゲンドウの横顔を見た。初号機の実力では依然として荷が重すぎることは、これまで戦いが証明している。二機とも出撃させた方が有利なのは目に見えているというのに。
「まだ戦闘には耐えんよ」
ゲンドウの言葉に冬月は不審の目を向ける。だが、そんな冬月の視線も気にせず、ゲンドウはマイクに向かって、
「レイ。再起動は成功した。戻れ」
虹色の光が周囲を流れ、それが消え去った後には非常灯だけがプラグの内部を照らし出した。液体に戻ったLCL、その血に良く似た匂いが鼻を突く。
その中で、綾波レイは思わず安堵の息を吐き出した。
肺に残っていた空気と共に、それは小さな気泡となって赤い液体の中をたゆとうていった。
それは中空を滑るように進んでいた。
第四使徒と同様な光景。だがあのときと違うのは、それがおよそ生物的なフォルムを持っていないことだった。空の青さを映しこむほどに滑らかな平面で構成されたそれは、正八面体、平たく言えばピラミッドを上下張り合わせたようなカタチをしていた。大きさはこれまでの使徒よりも一回りもふた回りも巨大。それが、実際にはかなりの速度なのだが、遠目にみればのんびりと中空を移動して行く様は、悪夢というより冗談のようだった。
どのような計測によって得たのかはミサトの知るところではないが、紛れもなくブラッドパターン青。
第五の使徒。
立場が立場ならぽかんとした顔でそれを見上げていたであろう葛城ミサトは、しかしすでに戦闘指揮官の顔で発令所に立っていた。眼光鋭くスクリーンの三角野郎をねめつける。外見が間抜けそうだろうが冗談のようだろうが、使徒は使徒。どのような能力を持っているのか見当も付かない。その恐ろしさを一番身に染みて知っているのは、他ならぬ葛城ミサトなのだ。
「目標は最終防衛線を突破しました」
「初号機パイロットは?」ミサトは問う。
「現在4th Childrenと共にケイジに向かって移動中です。到着し次第、エントリーに入ります」
ケイジへ上がるエレベータ。メッシュの保護柵の向こうに、初号機の巨体が見える。
固い顔つきで傍らに立つ青のプラグスーツ姿の少年。その表情は未だ不安そうで、だからマリエは口を開いていいものか迷っていた。自分なら声を掛けられたくないだろう、出撃までの僅かな時間。
でも、せめて自分が出撃できないのならば、少しでも不安を和らげてあげたかった。今のマリエに出来るのはそのくらいなのだから。だからこそ何か云わなければならない気がする。
ええい、ままよ。
マリエは思い切って口を開く。
「碇君」
驚いた表情のシンジに、マリエは真っ直ぐな眸を向けた。
「がんばってね」
シンジは数瞬呆けたようにマリエを見たが、ぎこちない、だが確かな微笑みを返し、頷く。
だからマリエも、とびきりの笑顔で応えた。
「目標は芦ノ湖上空に侵入」
「エヴァ初号機、発進準備よろし」
その報告に、ミサトは頷く。
「エヴァンゲリオン初号機、発進」
だがその声に応えるかのように、オペレータの切迫した声がミサトの耳朶を打った。
「目標内部に高エネルギー反応!」
「なんですって?!」
「円周部を加速、収束していきます」
「まさか………」
加粒子砲?!
そう思った瞬間、初号機が地上に射出される。
「だめっ、よけてっ!!」
まだリフトオフしていない。だから動けるはずもない。だが、ミサトは思わず叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。
使徒の錐の底辺がギラリと光った。
初号機との間にあったビルが飴のように溶けた。それを貫いて一条の光束が初号機の胸部で弾ける。赤熱する胸部装甲板。
プラグの中のLCLが一瞬にして液体に戻り、そして沸騰した。
鳴り響く警報。
「プラグ内、圧力上昇!」
「LCL加熱! 危険な状態ですっ!」
シンジが叫んでいる。それは液体の中で声にならず、ごぼごぼと泡となって消えていく。
だが、その悲鳴を、確かにミサトは聞いた。
「シンジ君!!」
The End of Episode5.
シンジは助かった。だがそれは彼の体に大きな傷を残す。
一方ミサトは、難攻不落の目標に対し、一点突破を試みる。
日本中のエネルギーとミサトの思いをのせ、放たれるポジトロンライフル。
その光は果たして使徒を貫けるのか。
第六話、「決戦、第三新東京市」
Appendix of Episode5.
「えっ。シンちゃんがレイを押し倒してたって? やぁだ、可愛い顔してるくせに、やっぱりオトコノコ、やる時はやるのねぇ。すみにおけないわね、もうっ、このこのこのっ」
「碇君、ちゃんとヒニンはしてあげてね」
「……………ひどいや、ふたりとも」