目覚まし時計の電子音が耳障りな音で起床を促す。
布団からにゅっと白い脚が伸び、その脚がナゼか枕元で鳴り続けるそれをげしっと踏みつけると、時計は完全に沈黙した。かのように見えた。
だが、つかの間に自己修復を終えたそれは、再び単調な電子音を奏で始める。布団の主がうぅぅぅぅっと唸り、今度は手を伸ばして時計を黙らせると、ぜんぜん色っぽくない声を上げつつ、もそもそと身を起こした。しっかり寝癖の付いた頭をがしゃがしゃかき回しながら、大あくびを一つ。
眠い。
昨夜も良く寝られなかったせいだ。先の戦いが終わってからもう一週間近く。ずっと寝不足が続いている。問題山積みなのはいつものことだが、その中でも特に困難な課題が最近の葛城ミサトを悩ませていた。
窓の外を見れば、追い討ちをかけるように鬱陶しく降り続く、雨。この数日間、降り通しだ。
襖を開けて「おはよう」と云うと、リビングの食卓にしょんぼりと座っていたマリエが顔を上げ、弱々しく微笑んで「おはよう」と挨拶を返した。食卓の上には、手の付けられていない三人分の朝食。それでこちらの問題も状況が好転していないことが分かる。
「今日も起きてこないの、あの子?」
こくん、とマリエ。
はーっ、と大きくため息を付くと、ミサトはとりあえず洗面所に向かった。のろのろと歯を磨きながら何と云って声を掛けようかを考え、寝癖をとりあえず見苦しくないくらいに直してから、シンジの部屋の前に立つ。
ひとつ小さな深呼吸をしてから、いつもの張りのある声を出した。
「シンジ君、起きなさい。いつまで学校休む気? もう五日目よ。初号機はもう完全に直ってるのよ。パイロットのあなたがそんなことでどうするの」
反応なし。だが、今日はなにかいつもと違う。
「シンジ君?」
反応がないんじゃない。気配が、ないんだ。そう気付くと、ミサトはほんの少しだけ襖を開き、そして目を見張った。
空っぽのベッド。机の上の書き置きとIDカード。
部屋に入って見回すと、身の回りのものが消えているのが分かった。
「ミサトさん、これ………」
気が付くと、マリエが部屋の様子に呆然とした表情で立っていた。
ミサトは軽く肩をすくめてみせて、
「家出か。ムリないわね」
年中夏といっても、木陰はそれなりに涼しい。
というわけで、ここしばらくの雨が小休止したその日、洞木ヒカリは久しぶりに中庭の葉を茂らせた大きな木の下で昼食をとっていた。イインチョなんて呼ばれて堅苦しいイメージのある彼女だったが、実際のところ四六時中生真面目にしているわけではなく、昼休みくらいはクラスの連中の目の届かないところでのんびりしたい、という本音もある。
だがこのところ、そののんびりした時間も、友人の心配に消えることが多い。傍らでぽそぽそと弁当を食す帆足マリエに、気遣わしげな視線を向ける。自分のものと比べても見るからに食欲をそそるメニューを、しかしマリエはちっとも美味しくなさそうに口に運んでいた。ときおり箸を止めては、気の抜けたため息を付く。
「マリエ、どうしたの?」
すると、マリエは思い出したようににっこりと笑い、「ううん、なんでもない」
そして手元に視線を落とすと、またぽそぽそと弁当を食べ始める。どう見ても、なんでもない様子には見えない。なまじ大柄なだけに、しょんぼりと肩を落としていると余計落ち込んでいるように見えてしまう。
ヒカリは困惑して、隣に座るもう一人の友人、山岸マユミと顔を見合わせた。マユミも「処置無し」といったふうにヒカリの視線に応える。
「ねぇ、何か心配事があるんだったら相談にのるよ?」とヒカリ。マユミもこくこくと頷いてみせる。
「うん、ありがと。でも、ホントに何でもないの」
「でも、とてもそうは見えませんけど」とマユミ。普段無口なくせに、云うときには云う。
確かに、心優しきこの友人たちに今の自分の心配事を話せれば、どんなに気持ちが楽になることか。しかしだからといって、非公開の特務機関の内情をそう軽々しく口にするわけにもいかない。
大体、現状唯一稼動可能なエヴァのパイロットであるところの碇シンジがここしばらく学校を休んでいるのは、訓練施設に行っているから、ということになっているのだ。まさか、
「実は、わたしがひっぱたいたら家出しちゃって」
などと正直に打ち明けた日には、学校はおろか、国連軍まで巻き込んでの大騒ぎになるに違いない。
その原因の一部、いや一部どころか大部分が自分にあると思い込んでいるマリエとしては、余計責任を感じていて、だからこそ誰にも喋れないのだった。
「心配してくれてありがと。でも、ホントにだいじょぶだから」
ぴきーん。マユミのメガネが光る。今マリエさんは確かに「だいじょぶ」と云いましたわね。
「だいじょぶ」というからには、普通ならば「だいじょぶ」でない何らかの事情がある、ということ。その事情とは何か? マユミの明晰な頭脳が最も高い可能性を導き出す。
「Nervに関係があることですね?」
ちょうどカニさんウィンナーを口にしていたマリエは、思わずそのまま飲み込んでしまい、ぐっ、と喉に詰まらせた。慌ててヒカリが差し出したお茶でなんとか飲み下し、涙目でマユミを睨んだが、マユミは澄まし顔でサンドイッチを口に運んでいる。
「図星ですか」
うーっ、と唸ってみたものの、マリエがエヴァのパイロットであることは、相田ケンスケからの情報で既に学校中に知れわたっていた。あの碇シンジに白昼の屋上で守秘義務に付いてお説教をしていたのだから、否定のしようもない。「ネタは上がってんだぜ」というやつだ。迂闊だった、と悔やんでみても後の祭りだった。
まぁ、思ったより全然周囲が好意的なのが救いだった。いきなり体育館の裏に呼び出されて袋叩き、ということもなく、無邪気に「スゴイひと」として受け入れられてしまっている。多大な迷惑を被った連中はさっさと疎開してしまったのか、それともNerv関連の研究所勤めの家庭が多いせいか。この際、Nervの強権がモノを云ったという想像は、あえて除外する。それが一番ありえる笑えないハナシだからだ。
とはいえ、あっさり見抜かれてしまうのも考えものだった。笑顔と涙で嘘を隠すのがマリエのいつもの手だが、マユミのようにそれが通用しない人間には誤魔化したところで丸分かりなのだった。
「マユミちゃん、性格悪い」マリエはささやかな反撃を試みるが、
「ちゃんと話してくれないからです」と、あっさりと受け流される。「マリエさんは嘘をつくのがヘタなんですから」
そんなことを云われても、ちっともうれしくないわよぉ。ぷんぷん。
「で、でもさ、私たちに出来ることがあるなら、遠慮なく言ってよ。ね?」ハラハラしながらやり取りを見守っていたヒカリがとりなしに入った。
ふたりの気持ちはとってもよく分かるし、だから甘えてしまいたいとも思う。でも……。
「ごめんね。でも、今はまだ何も云えないの」
彼女たちを巻き込むわけにはいかなかった。友人であるからこそ。
「………そう。わかったわ」残念そうにヒカリ。「でも、いつかはちゃんと話してくれるんでしょ?」マユミもこくこくと頷いている。
それが、とてもうれしかった。だから、
「うん。約束する」
マリエはいつもの笑顔でそういった。
とはいうものの、それで当の心配事が消えたわけでもなく、友人たちに一つ借りを作ってしまっただけで、マリエの気持ちはちっとも楽にはならなかった。
おまけにこういう時に限って、厄介ごとは向こうからやってくる。教室に戻ったマリエに、背後からどすどすと足音を立てて、その厄介ごとはやってきた。アメリカやドイツで習った日本語とはちょっち違ったイントネーションで、
「おい、帆足」
「なに、鈴原君?」愛想笑いが引きつっていないか心配しながら、マリエはジャージ少年を振り返る。
「転校生は何時になったら出てくんのや。今日でもう一週間やで」意識はしていないのだろうが、不機嫌がありありとにじみ出ていて、気の小さい者ならすくみ上がりそうな雰囲気だった。話題の中心であるところの碇シンジなら、一発でビビっているだろう。
だが、あいにく帆足マリエの神経はそれほど細くなかった。できるだけ済まなさそうな顔をして大嘘をつく。
「ごめんね。わたしもくわしくは聞いてないの」
「おんどれ、同じパイロットやないのか。おんどれが知らんで誰が知っとるっちゅうんじゃ」
無茶苦茶な理屈を吐くジャージ少年。だが一理はある。パイロット同士、可能な限り他のパイロットの動向を知っておくように義務づけられているからだ。例えば、この場にいない綾波レイの今日のスケジュールを、マリエは知っている。
今日は午後から赤木博士のところで定期検診。その後、零号機の再起動実験準備。再起動についてのレクチャーを受けることになっている。こういう日にはレイは学校に来ない。レクチャー自体が技術部の検討会も兼ねていて、場合によっては深夜まで続くこともある。そのため、午前中睡眠をとってから本部へ行くことにしているからだ。
だが、当の碇シンジの動向についてはNerv諜報部でさえまだ掴んでおらず、マリエの方が知りたいくらいだった。なんで知らんのや、と云われても、へぇすんません、と応えるしかない。
だからマリエは、「本当にごめんなさい」と素直に頭を下げた。
うっ、とジャージ少年の顔が渋面になる。これじゃまるでわいがいじめとるみたいやないか。周囲の、特に女子の視線が痛い。「サイテー」という声が聞こえてくるようだった。
「もうええわ。そんかわり、なんか分かったらすぐに知らせぇや」
「うん、わかった」というマリエの返事も聞かず、その場からそそくさと逃げ出すその後ろ姿に、マリエは胸の中でもう一度「ごめんなさい」と呟く。
彼は彼なりにシンジのことを心配もしているし、反省もしているのだ。ミサトから聞いたところでは、マリエが居ないときにミサトの部屋を訪れたこともあるという。きっと、ちゃんと謝りたいんだろうな、とマリエは思う。その謝る機会を失わせてしまったのが自分だということも、よく分かっている。だからそれを含めての「ごめんなさい」だった。
ジャージ少年が去ると、女子生徒たちがわらわらとマリエの周りに集まってきた。ねぇ、どうしたの、とか、ひどいこと云ってなかった?、とか、許せないよねー、とか。口々に勝手な感想を並べ始めた彼女たちに事情を説明しつつ、相田ケンスケのところに戻って何やら密談を始めたジャージ少年を横目で見て、何か分かったら知らせてあげなきゃ、と思うマリエだった。
「ただいま」
だが返事はどこからもない。当たり前だ。ここは父親が帰国するまで、マリエひとりの部屋なのだから。
でも、さみしいとか、ひとりはイヤとかは思ったことはない。どうせここは、着替えと寝に帰るだけの部屋だ。生活のほとんどはミサトの部屋にある。マリエの感覚からすればミサトの部屋の方が家で、こちらはその延長にしか過ぎない。同居しなかったのも、今までの習慣がそうさせなかっただけで特に理由があった訳でもなく、いずれは父親を含めた三人で暮らすようになる筈だった。
ざっとシャワーで汗を流した後、大き目のTシャツに膝丈のスパッツといういつもの部屋着になったマリエは、キッチンで夕食の準備を始める。
キッチンといっても、こちらはミサトの部屋のそれに比べればごく普通に見えた。但し、壁際に置かれた巨大な業務用冷蔵庫を除いてだが。実際、こちらのキッチンではしてもせいぜい下拵えくらいで、後は実質は食料庫のようなものだった。
こうなった理由は実はカンタンで、ミサトが入居するときに無理を言ってキッチンを改造してもらったのだが、この冷蔵庫だけ置く場所がなくなってしまったのだ。アメリカやドイツの官舎にいたころには何とか収まっていたものの、日本のマンションでは、それは望むべくもない。ミサトはミサトで、自分のインスタントな食料やらビールやらを収納しておく冷蔵庫を欲しがっていたし、結局冷蔵庫と収まりきらなかった調理器具をこちらの部屋に置くことで妥協したのだった。
その冷蔵庫を開け、在庫を確認しながら帰宅途中のスーパーで買ってきた野菜やらの生鮮品を手際良く詰めていく。ついでに、明日のお買い物リストを頭の中で組み立てる。コーヒーを煎れる時間でリストをメモにし、そのコーヒーを飲みながら夕飯の献立の検討に取り掛かった。
さて、今日は何にしようか。
ここのところミサトは夜遅いことが多いので、余り量は多くなくていい。それと胃をやられているのか、昨日は油ものはあまりいい顔をしなかったから、できるだけさっぱりしたのにしよう。でも、肉がないとさみしそうな顔するからなぁ。
少し考えて、マリエは決める。
生野菜サラダ。ドレッシングはオリーブオイルと蜂蜜をちょっと混ぜてさっぱりめ。裏ごししたジャガイモの冷たいスープ。主食はパスタ。バジリコとサーモンのスパゲティ、いやマカロニの方がいいかな? 肉料理は、この間洞木ヒカリから聞いたのにしよう。フィレのかたまりを強火のフライパンで焼き色を付けてから、冷やす。薄く切って、お醤油と白ワサビ。タタキっていってたっけ。ローストビーフみたいだけど、ちょっと違う。
でも、どうしても作り慣れたのになっちゃうな。早く日本のお料理も覚えなくっちゃ。そうそう、一度だけヒカリちゃんの家で味見させてもらったおみそ汁。あれはおいしかったなぁ。あれから何回か自分で作ってみたけど、全部失敗。どうしてもあの味にならない。なにがいけないのかな。
そんなこともを考えながら、冷蔵庫から必要な材料を取り出す。野菜にジャガイモ、サーモンはちょっと手抜きだけど瓶詰のでいいかな。それから、ペンペンのお魚。ええっと、作り置いてあるブイヨンは、あ、もう残りひとビンか。また日曜日にでも作っておかなきゃ。あと、フィレ。三人分だから500gじゃちょっと多いか………。
「あ」
そうか。二人分でいいんだっけ。
つい三日ほど前までいたもうひとりの同居人。朝、作り過ぎる弁当。気がつくと一人分多い朝食の皿。夕食の献立。三週間分の習慣は、まだマリエの中に確かに残っていた。
どうしよう、と考え込んだものの、今日は帰ってくるかもしれない、そう思い直して三人分の材料を揃える。
でも、多分帰ってこないだろうな。
自分が彼の立場だったら、やはり戻りたくないだろうと思う。戻ったとしても気まずい思いをするのは、分かりきっているから。
確かに、叩いたのはやり過ぎだったと思う。でもキミもいけないんだぞ。自分のことしか考えてないんだから。
でも、やっぱりできることならこの家に帰ってきて欲しい。いちどはいっしょに暮らそうと決心したのだから。
どこにいっちゃったの、碇君? ミサトさんも心配してるのに。
ところが当の葛城ミサトは、碇シンジのことはそれほど心配していなかった。
別に、薄情だからだとか顔も見たくないからとか、そういう問題ではない。ミサトだって、自分が心配すれば帰ってくるものなら、いくらでも心配するつもりでいる。
しかし現実問題として、碇シンジの捜索は今は諜報部の仕事になっているし、ミサトに出来ることは、彼が戻ってきた時に聞かせるお説教の内容を考えておくことくらいだった。そのうえ、それ以上の心配事が葛城ミサトに降りかかっていて、今彼女はそれどころではないのだった。
自分のクビ、というヤツである。
敗軍の将になることだけはなんとか免れたものの、初号機は破損するわ、エントリープラグに無関係の民間人を入れることになるわ、パイロットはいうことを聞かないわ、もう最悪の勝ち方だった。
特に一番最後のがタチが悪かった。他の問題は戦闘中の裁量の範疇ということで誤魔化しもきくが、上官反抗だけは目こぼしがきかない。例え相手が十四歳の少年であっても、だ。それが組織というものだ。
そもそも指揮官の仕事というのは、戦闘時に偉そうに指示を出すだけではない。いざというときに部下がおとなしく云うことを聞くように、普段から飼い慣らしておくこともまた給料のうちなのだ。だから、部下に裏切られた指揮官の信用は、気の毒なくらい速やかに失墜する。今回の場合には、期間がたった三週間しかなかったとか、相手がまだコドモだとか、いろいろ言い訳はあるとはいえ、葛城ミサトの部下管理能力に大きなハテナマークが点灯してしまったのは無理からぬことだった。
しかも、ここNerv本部の主である碇ゲンドウは、このテの失態にひどく狭量だった。
「一度失敗をしたヤツは、必ずまた同じ失敗をする」というのが彼の持論である、という噂がまことしやかに本部で囁かれていた。それを真に受ければ、碇司令は「学習」という生物に不可欠な能力を否定していることになるのだが、単純なミスが司令の耳に入ったばかりに同僚たちがナサケ容赦なくクビになっていくのをみていれば、そんな噂にも頷けてしまう。
ゲンドウが首を切れない人間は本部には片手の指しかいない、と云われていて、それは副司令の冬月コウゾウ、技術部長の帆足マサキ一佐、E計画担当の碇ユイ、赤木リツコ両博士、そして作戦部長の葛城ミサト一尉である、ということになっていた。
だがそれが大嘘であることは、今ミサト自身が身を持って体験しているところだった。実際、ありのままの報告書を提出したところ、まず冬月コウゾウに呼び出される羽目になったのだ。
知的な顔立ちに苦悩の色を浮かべ、冬月は云ったものだった。
「いいかね、葛城君。このままでは君はお払い箱になるぞ」
「覚悟はしています」それは嘘ではない。碇シンジが最後の撤退命令を無視した段階で、ミサトは腹を決めている。
「君はそれでいいかもしれんが、私は困る。使徒に勝つためには君の力が必要だ。少なくとも私はそう思ってるのだがね」
ずいぶん買いかぶられたものね、とミサトは自嘲する。子供ひとり手懐けられなくて、なにが作戦部長よ。
「とりあえず、報告書の書き直しを命じる。少なくとも私の見る限り、あの会戦で君が犯したミスはごく些細なことだ。3rd
Childrenの命令違反に関しては、彼の経験不足と幼さが成したものであって、君に責任はない」
なんとか丸く収めたい訳ね。ご苦労様なこと。
「ありがとうございます」まるでありがたがっていない、堅い声で返事をする。
その返事に、冬月は額を抑えてむつかしい顔になった。
「そういわんでくれ。正直なところを云えば、私が碇に掛け合ってもいい。帆足もユイ君も力になってくれるだろう。だが、それでは本部が一枚板でないという印象を支部に与えてしまうことになる。できればそれは避けたいのだ」
政治的配慮、か。ミサトは皮肉な思いでそれを聞く。
副司令などという中途半端な役職名が付いてはいるが、実のところ冬月の権限はE計画以外のほとんどすべてに渡っている。それらの決定権を司令である筈の碇ゲンドウはほぼ放棄し、冬月に任せっぱなしというのが現実だった。それには関係各省やNerv各支部との折衝も含まれる。対外的に見れば、冬月は実質的な最高責任者といっていい。
但し、それは本部に限った話だ。Nerv全体となると、また話しは違ってくる。
特務機関Nerv。一口にそうは言うものの、実態は寄合い所帯である。日本にある本部を初め、米第一、第二支部、独第三支部、仏第四支部、英第五支部等々、世界各国に十の支部が存在し、その前身はそれぞれマチマチである。
例えば、本部及び第三支部、第五支部等、約半数がNervの前身である研究機関Gehirnのものであり、さらにさかのぼれば、それらはセカンドインパクトの調査に当たった一連の学術系研究機関に端を発している。一方、第二支部、第四支部等は各国の軍関係の研究組織が母体であり、Nerv発足の際に統合された経緯を持つ。第一支部に至っては、政治的にも軍事的にもまるで無関係であった一介の民間研究所を発祥としている。
各支部にはそれぞれ最高責任者としての司令がおり、Nerv全体の意志はSEELEと呼ばれる評議会でこれら支部司令の総意で決める。議長は国連から派遣されているキール・ローレンツ氏が勤める。第三者であるためSEELEでの議決権はないが、パトロンであり最終的な決定権を持つ人類補完委員会の委員長も兼任しているため、事実上実権を握っているといっていい。
碇ゲンドウ率いるNerv本部にとって、最も頭が痛いのがこのSEELEである。胡散臭い特務機関の司令に成り上がるだけあって、どいつもこいつも一筋縄では行かない。そのうえ、当然のことながら出自が違えば考え方も異なる。お定まりの主導権争いも起こる。
カネを動かせるという点で、委員会と太いパイプを持っている碇ゲンドウの力は確かに大きい。だが、支部間の力関係からすると最も発言力を持っているのは、本部ではなく米第一支部だった。研究機関的な色合いを強く残すNervにあって最も技術力を持ち、現在進められているE計画の実質的な推進を担当しているからだ。そのためE計画責任者である碇ユイ博士をして技術交流のために第一支部に長期駐在せざるを得ないほどで、本部としてはこれ以上の権威の失墜を食い止めたいというのが正直なところだった。
葛城ミサトはこれまで二度使徒殲滅に成功した指揮官であるし、何より軍出身の支部や国連軍の反対を押し切ってまで据えた作戦部長でもある。その彼女が、子供のダダに振り回されているとあっては、それ見たことか、と云われるのは目に見えている。
葛城ミサトは最高最適な人材ではあるが、唯一無二と言う訳ではない。代わりはいくらでも居る。他に代わりのいないChildrenと比べれば、どちらを処分するかは言わずもがなだ。そうなれば本部のメンツは丸つぶれなワケで、冬月はそれを懸念しているのだった。
リツコならこんな苦労はないでしょうねぇ、とミサトは親友の才能を思い出す。赤木リツコ博士が居なくなれば、エヴァの運用は事実上不可能になる。それが何を意味しているのかは考えるまでもない。本人は「碇博士や惣流博士のマニュアルどおりにやってるだけよ」とおっしゃるが、ミサトからすれば韜晦しているとしか思えない。片手間に、帆足一佐の代理としてMAGIの面倒まで見ているのだから、弐号機と参号機の世話が増えても余裕でやってのけるだろう。彼女の代わりは居ない。まさしく唯一無二の存在だった。
まぁ、副司令は自分の実績も惜しんでくださってるんだから、と自分を慰めることにして、ミサトは報告書の再提出を承諾し、その場を辞してきたのだった。
というわけで、ここのところの葛城ミサトは、Nerv本部内にある自室でディスプレイとキーボードとマウスとをおトモダチにしつつ、自分の報告書のアラ探しをする毎日を送っていた。
(こんなのどう書けってのよ)
ぶちぶち文句をいいながらも、ポチっ、ポチっ、とキーを叩く。
そもそも冬月の言った事自体が公文書偽造のススメであって、そんなことを勧める上司など言語道断なのだが、ミサトとて今の職を手放したい訳でもない。いたしかたない、そんな思いで今日も日がな一日、キーを叩く。残された日にちも、もうない。
だから、碇シンジが保護された、という知らせを聞いた時、胸の中にわだかまっていた不安が消えていくのを感じつつも、
(なんであと一日待ってくれなかったのよぅ)
などとマジで思ってしまった葛城ミサトなのだった。
碇シンジ保護の知らせを、帆足マリエはミサトより先に相田ケンスケから聞いていた。
「ホントなの、相田君?!」身を乗り出すマリエ。意識せず豊かな胸元が強調される姿勢になるが、それに気付く余裕もない。
普段のケンスケなら飛び上がらんばかりに喜色を浮かべるはずなのだが、しかし今日ばかりは気のない声で「んー。」と返事をするだけ。
頭の回転が早過ぎて、いつも必要以上に短く話をまとめてしまう相田ケンスケの、珍しくぼそぼそと要領の得ないハナシを要約すると、
「昨夜、山中を徘徊していた碇シンジを見つけ一晩テントに泊めたが、今朝未明コワいオジサンたちがきて連れていかれちゃった」
ということらしい。
「そんでお前、黙って見てただけやっちゅうんかい?!」熱血してみせるジャージ少年。だがその熱意も、呆けた軍事オタクには届かない。
「んなこといったって、向こうはNervの保安諜報部、プロなんだよ」
何も出来なかった自分。いくら知識として知っているつもりでも所詮は子供の遊びなのだ、という事実が彼を打ちのめす。
「それがどないしたんや。お前それでもマタンキついとんのか?」背後で女子生徒たちが眉をひそめるのも気付かず、大声で言い放つ。哀れ鈴原トウジ、好感度パラメータ十ポイント低下。もっとも、すでに低下するだけのポイントも残っていないかもしれないが
「勝てないケンカする奴はバカなの。マタンキは関係ないの」気の抜けた声。いつも狡賢くわるだくみに目を輝かせている相田ケンスケも、今日ばかりは己の無力さを噛み締めるばかりだった。
「おい、帆足。これはいったいどういうことや?」ジャージ少年は、一向に立ち直る様子のない相方に見切りを付け、矛先をマリエに向ける。
「わからない。こっちが聞きたいくらいだもの」半分本当、半分嘘。だが戸惑った表情をしているのは演技ではない。
諜報部が動いているのは聞いていた。だがそれよりも、碇シンジが箱根の山の中などにいたことの方が驚きだった。諜報部が動く前ならさっさと第三新東京市を出て行けたはずなのに、何故そんなところでぐずぐずしていたのだろうか。
どうして、碇君?
「戻りたくないんじゃ、なかったの?」
目の前に、鋼鉄の扉。この向こうに3rd Childrenは拘束されている。
ミサトは複雑な気分でその前に立つ。報告書の片手間に、会ったら何から言い出そうか、いろいろ考えていたはずなのに、その場になると何も思い付かない。
しばし迷ったが、腹を決めて扉の傍らに立つ守衛に合図する。耳障りな軋みを響かせ、分厚い扉が開かれる。
部屋の隅の置かれたベッドに腰掛ける少年。その細い頼りなげな肩に、改めて彼がまだほんの子供だということに気付かされる。
「しばらくね」
「すみません………、でした」
「マリエ、反省してたわ。殴ったこと、謝りたいそうよ。会う?」
シンジは応えない。
ミサトは小さく息をつく。もうシンジを責めるつもりはない。彼をむりやりエヴァに乗せたのは、自分達なのだから。だから、ひとつだけ用意していた問いを口にした。
「一つだけ教えて。もう一度、エヴァに乗ってみる気はある?」
やはり返事はない。
「ないのなら、引き止めたりしないわ。元居たところへ帰りなさい。あなたにとってエヴァに乗ることが苦痛でしかないのなら、それが一番いいわ。ここにいても、辛いだけだもの」
もう一度だけ、ミサトは問う。
「もうエヴァに乗る気は、ないのね?」
「叱らないんですね、家出のこと」
唐突にシンジが口を開いた。ミサトは少し面食らう。
「当然ですよね。ミサトさんは他人なんだから」
何を言っているんだろう、この子は。家族になることを拒否したのは彼自身ではないか。
「もし僕が乗らないって云ったら、初号機はどうするんですか?」
「レイが、乗るでしょうね」だが、まだ質問の答はもらっていない。「乗らないの?」
「そんなことできる訳ないじゃないですか。彼女に全部押し付けるなんて。大丈夫ですよ。乗りますよ」
まただ。ミサトは抑えていた苛立ちが膨れ上がってくるのを感じる。
「乗りたくないの?」
「そりゃそうでしょ。だいいち僕には向いてませんよ、そういうの。でも綾波やミサトさんやリツコさんや……」
「いい加減にしなさいよ!」ミサトはシンジの言葉を遮った。これ以上、この甘ったれたボウヤの言葉など聞く義理などない。一時でも彼を許そうとした自分が情けなかった。
「人のことなんか関係ないでしょう?! 嫌ならここから出て行きなさい! エヴァや私たちのことは全部忘れて、元の生活に戻りなさい! あんたみたいな気持ちで乗られるのは、迷惑よっ」
吐き捨てるように言い残し、ミサトは独房を後にする。重い音を立てて、背後で扉が閉じられたが、ミサトは振り返らなかった。
突きつけた最後通牒。後は彼が決めることだ。それがどう出ようと、どうなろうと、ミサトの知ったことではなかった。
「3rd Childrenは、明日第三新東京市を離れるそうです」
葛城ミサトがそう聞かされたのは、それからたった一時間後のことだった。
何を期待していたんだろう、彼に。
ビールの缶を傾けながら、ミサトはぼんやり思った。
もう一度、エヴァに乗ってくれること? 私たちを家族として認めてくれること? それとも、逃げずに自分自身と向き合ってくれること?
バイエルン・アロマホップの香りも、キッチンから流れてくる匂いも、今日だけはどうもいつも通りのくつろぎを与えてくれない。なにかぽっかり足りない気がする。
マリエの様子もヘン。しょんぼりしていたのは、ここのところずっとだったけど、今日は一段と落ち込んでるみたいだ。それにぼーっとしている。
食卓に出された肴を口に含んで、ミサトは思わずヘンな顔になる。
「マリエ」キッチンに呼びかける。
「はっ、はいっ」またぼーっとしていたのかしら。そう思いながら、ミサトは告げる。
「しょっぱい」
「えっ?」
そんな筈は、という顔でぱたぱたとキッチンから出てくると、ミサトの皿から一口摘み上げ、口に運ぶ。
「う。」
慌てて、皿を取り上げ、誤魔化し笑いを浮かべる。
「ご、ごめんなさい。すぐ作り直すね」
ミサトはため息をつく。この調子じゃ何を食べさせられるか、分からないわね。
「いいわ。今日は何かデバりましょ」
「え」
「いいじゃない、たまには。報告書も書き終わったことだし、ぱーっとやりましょ。ね?」
「でも……」マリエは不満そうだ。台所を預かる者としてのプライドか。構わずミサトはトドメをさす。
「じゃあ聞くけど、夕飯、何を作るつもりだったの?」
その問いに、マリエは絶句した。少し考え、
「な、なんだったっけ。あは、あははははは、は」引きつった笑い。
あはは、じゃないわよ、まったく。
でも、こんなマリエは見たことがない。やはりショックだったのだろうか。
そうは思ったものの、ミサトは気付かない振りをする。マリエが言い出さない限りは、ミサトから何か云うべきではない。それが五年間暮らしてきた、二人のルールなのだから。
「まだ時間は早いわね。何がいい? ピザ? お寿司?」
だから、ミサトは努めて明るい声を出した。
あの少年はもう、ここには戻ってこないのだから。
「ミサトさぁん」いい加減酔っ払ったマリエの声。テーブルに突っ伏して、そろそろおねむの時間か。
よく話し、よく笑い、よく食べ、よく呑んだ。
今日くらいは、と特別に許したものの、マリエがこんなに呑むとは思わなかった。半ダースあまり積み上げられたビールの空缶。そういうミサトも、いつもよりちょっちだけ多い空缶の城を築いている。テーブルの上にはピザの箱がいくつも積み上げられ、二人の食欲の後を窺わせる。
しかし、よくもまぁ、あんなくだらない話題で盛り上がったもんだわ。あんまりくだらなすぎて、何を話したのかも覚えてないくらい。この娘の父親が「二人揃うと、うるさくてかなわん」てよく言うのが分かる気がするわね。でも、そういや、しばらくこんなに笑ったことって、なかったかもしれない。
食べ差しの一切れをかじりながら、今夜の大騒ぎもそろそろお開きかな、ミサトが思ったとき、
「ミサトさぁん」もう一度、マリエが呼ぶ。
「なぁに、マリエ?」
「なにが、いけなかったのかなぁ」
どきん。
ようやくマリエの口から漏れた、その言葉。待っていたはずなのに、それはミサトの胸を締め付ける。
「ミサトさん、あのとき、私たちにできることをしてあげるだけ、っていったけど、わたし、碇君に何もしてあげられなかった」
「そんなことないわよ」
「でも、碇君、出ていっちゃったもん」
「マリエはちゃんとがんばったじゃない。ただ、シンジ君には、それが伝わらなかっただけよ」
「そうかなぁ」
「そうよ」
うーん、と唸ったまま、マリエは静かになる。寝てしまったのか、と思ったときもう一度口を開いた。
「でも、碇君、ホントに戻りたくなかったのかなぁ」
ミサトは驚く。
「どうして?」
「だって、戻りたくないなら、なんで山の中なんかにいたのかなぁ。もっと遠くにだって、どこにだって、いけた筈なのに」
それは確かにそうなのだが。
なにか引っ掛かっている。独房で彼の細い肩を見たときから。
それを形にしたくて、ミサトは問うた。
「じゃあ、マリエはどう思うの?」
だが返事はない。かわりに穏やかな寝息が聞こえてきて、ミサトは苦笑する。
しょうがないなぁ、もう。
客間のベッドに運ぶべく、優しい表情でミサトは少女を抱き上げた。
翌朝。
ぢごくのようなふつかよい。ではなくて、昨夜思い切り笑ったせいか、ここ数週間なかったほどぐっすり眠れて、ミサトはさわやかに目覚めた。鳴り出す前の目覚ましをやんわりと止める。
襖を開けると、いつもの朝食の匂い。
「おはよう、ミサトさん」こちらもさわやかなマリエの笑顔。いつの間に着替えたのか、制服にエプロン。着替えに戻ったついでにしっかりシャワーまで浴びたらしく、豊かな髪はまだ少し濡れている。昨夜のアルコールのカケラも残っていない。うーむ、今から仕込めば結構イケるかも、などと保護者にあるまじきことを考えつつ、ミサトは食卓につく。
「マリエちゃん、エビチュ」
はかない希望を込めてとりあえず言ってみるが、めっ、と子供を叱るようなマリエの怖い顔に、差し出した手が行き場を失う。
「だーめ。これから仕事でしょ?」
「あによぉ。けち」
「煎れたてのコーヒーでガマンして。ね?」
ホントに煎れたてのコーヒーがなみなみと注がれたマグカップ。
それをブラックのまま啜りつつ、ミサトはちょっと安心する。
よしよし。ようやく平常運転ね。
ここしばらくなかった朝食の風景。碇シンジがここにくるまでは、当たり前のようにあった朝。皿の数が一人分さみしいのは仕方がないけれど、そのうちまた慣れるだろう。それがいつになるかは、まだ分からないけれど。
「ミサトさん」トーストをがっつきはじめたミサトに、マリエ。
「あに?」もぐもぐしながらミサト。行儀が悪い。
「碇君は、いつここを発つんですか?」
もぐもぐが止まる。ちょっと考え、コーヒーで飲み下すと、軍人の顔になる。
「イチイチサンマル、新箱根湯元発政府専用特別列車で厚木に発つわ。厚木から先のルートに関しては、私たちにも知らされていないの。諜報部がもっとも安全と思われるルートを選択して、彼を元の場所に送り届けるはずよ」
「わかりました」
「見送りに行くの?」表情を崩さず、ミサトが訊ねる。
マリエは首を振った。
「わたしじゃありません。いまさら、どんな顔して会えばいいかも分からないし」
「じゃあ、どうして?」
「知らせてあげなきゃいけないひとが居るんです。きっと、ちゃんと謝りたいだろうから」
「なんやて?!」
ジャージ少年の雄叫びが、人気のない屋上に響く。
「今まで黙っていてごめんなさい」
「それで済む思うとるんか、われ」頭を下げるマリエに、鈴原トウジは拳を握り締める。
「落ち着けよ、トウジ。帆足にだって事情ってものがあるさ。な?」マリエに器用にウィンクしてみせる相田ケンスケ。
「それよりどうするんだよ。十一時半っていったら、あと一時間もないぜ」
むぅっ、と不機嫌そうに唸ると、ジャージ少年は無造作にマリエの腕を掴む。
「行くで」
「い、いくって、どこに?」とマリエ。
「アホ。見送りに決まっとる」
「で、でも、わたしは……」
「なにいうとんねん。謝りたい思うとるのは、わいだけやあらへんやろ」
その言葉に、はっ、と息を呑むマリエ。
「そうそう。これを逃したら一生後悔するぞ、きっと」分かっているのかいないのか、相田ケンスケがマリエの背を押す。
「え、あ、ちょっと、やだ」
「いいからいいから」
「ちっともよくないぃぃっ」
Nerv本部。第七ケイジ。
初号機の恐ろしげな容貌を見上げるアンビリカル・ブリッジの上。
ここで碇シンジは己に課された過酷な運命を、一度は選択した。
だが、今彼はここにはいない。
「いっちゃったわね」と赤木リツコ博士。「これでよかったの?」
だが、葛城ミサトは応えない。碇シンジが残した言葉の数々を反芻している。
何を言いたかったのか。何を伝えたかったのか。
「ヤマアラシのジレンマ、か」
言葉の痛み。人との距離。
甘えた言葉。孤独な横顔。
ミサトの中で、何かがかちり、と音を立てた。最後の一ピースがはまった気がした。
「そういうことか」
初号機の顔を見上げる。
あの子、ああいう言い方でしか、自分の気持ちを伝えられないんだわ。
黒塗りのリムジンが止まる。外を見ると、そこはもう新箱根湯本駅だった。
無言で促され、ドアを出る。二日ぶりの夏の空気。どっと汗がふきだす。
あの日と同じ街並み。ほんの一ヶ月前にここに立ったときと、何も変わっていないように見える。聞こえるのはただ、蝉の声だけ。
すべてが幻だったような気がする。
でも、それももう終わり。
今日の夕方には元の家に戻る。そこでは一ヶ月前の生活が自分を待っているはずだ。
何もない、穏やかな日々。そして、一人だけの食卓。
「楽しいでしょ?」
「え?」
「こうやって他のひとと食事するのって」
不意に何かが喉元に込み上げてくる。唇を噛み締め、それに耐える。
自分で選んだことだろ? だめだ。忘れろ。忘れろ。忘れろ。忘れろ。
気を取り直して一歩踏み出したとき、
「碇、忘れもんや」
投げられる鞄。少年は驚いて、声の方を見た。
マリエはうつむいたままだった。
二人の少年が碇シンジと言葉を交わすのを、ぼんやりと停留所の隅で聞いていた。
何も云えなかった。云えるわけがなかった。
もう整理はついたと思っていたのに、こうやって会うとあの時の碇シンジの声が蘇ってきてしまう。
「どうして」むきだしの憎悪。
憎まれているんだ、きっと。
(頬を殴られて、見上げる脅えた眸)
嫌われているんだ、きっと。
だから、いかりくんは、ここからいなくなってしまうんだ。
「どうしてここに?」
「カンてヤツだよ。といいたいところだけど」とケンスケは振り向く。「あいつが教えてくれたんだ」
その視線の先に目を移し、シンジははっとした。
停留所のすみっこで、制服姿の少女がうつむいて立っていた。
「帆足、そんなとこにいないでこっちこいよ」
その声に、前髪に隠れていた隠れていた眸が現われる。あふれそうな涙。震える肩。
数瞬、視線が合う。だが先に視線を逸らしたのは、シンジではなく、少女の方だった。
「やっぱり駄目か」ケンスケがため息を付く。「碇に合わせる顔がない、っていって利かないのを、無理矢理引っ張ってきたんだけどな」
鈴原トウジがなにか喋っている。
気配で碇シンジが連れて行かれようとしているのが分かる。
連れて行かれてしまう。
まだ謝っていないのに!
「碇君!」
二人の少年たちを押しのけるように、マリエはシンジの前に立つ。
「ごめんなさい!」思い切り頭を下げる。
「叩いたこと、ごめんなさい。それから、代わりにエヴァに乗ってあげられなくてごめんね。碇君の気持ちも考えないであんなこと云ってごめんね。それから……」喉が詰まって、声が出てこない。
えい、しっかりしろ、帆足マリエ。まだ全然謝り足りていないのに!
「時間がない。行くぞ」だが、ほんの少し苛立ちの混じった声が、それを遮る。シンジの両脇を押え、階段へと導いていく。
階段を昇っていく足音。少年たちが後を追う。自分も追いたいのに、脚が動かない。
ああ、シンジが何か叫んでいる。思わず耳を塞ぐ。聞きたくない。聞くのがこわい。
ぽたぽたと、涙が足元に小さなしみを作っていくのを、マリエはじっと見つめていた。
よわむしなのは、わたしのほうだよ。
爆音。
二.六リッターV型六気筒がレブリミットぎりぎりの咆哮を絞り出す。ただでさえテールが流れやすいRRのトリッキーな挙動を、カウンターでムリヤリ押え込む。
間に合え、間に合え、間に合え、間に合え。
その一心でミサトはアルピーヌを駆る。
(速く走りたいと思うんなら、アクセルじゃない、ブレーキを遅らせるんだ)
ミサトにテクニックを仕込んでくれた男の言葉。それを思い出しつつも、つい余計に右足に力が入る。時間は、あと数分もない。
信号無視で突っ込んだ交差点で、クラクションが抗議の声を上げるのも構わず、ミサトはいっそう深くアクセルを踏みこんだ。
ホームに列車が滑り込んでくる。鈴原トウジと相田ケンスケが見守る中、それは碇シンジの姿を隠して停車する。
帆足マリエは、停留所のベンチに腰掛けてうなだれたままだった。彼が自分を許してくれたのかどうかも分からない。その答を聞く勇気のない自分が、ただ情けなかった。
その時だった。
派手なスキール音と共に、蒼い弾丸が駅のロータリーに突っ込んできた。
マリエは、はっとして顔を上げる。「ミサトさん?」
アルピーヌがタイヤをロックさせるほどの急ブレーキで止まるのと同時に、発車のベルが鳴り響く。
飛び降りるようにドアを開けたミサトだったが、動き始めた列車に天を仰いだ。諦めたように肩を落とす。間に合わなかったか。
駆け寄ってきたマリエに口元だけで微笑みかけると、見上げる涙一杯の眸に優しく、
「ちゃんと謝れた?」
弱々しく首を振るマリエ。
「そう……」
でもそれは自分も同じだ。
今更悔やんでも遅い。少年は行ってしまった。
列車が走り去る。それをミサトはただ見送ることしか出来なかった。
「ミサトさん」
不意に袖を引かれ振り返ると、マリエはホームを呆然と見上げていた。
ミサトははっとして視線の先を辿る。
柵で囲まれた乗車スペース。うつむいてそこに佇む、線の細い少年の姿。
少年の顔が上がる。ミサトたちを認めた瞬間、その眸が驚きに見開かれた。
マリエはまた逃げ出したくなる。
その唇から拒否の言葉が出てくるかもしれない。
また憎悪の目をむけられるかもしれない。
でも、もう逃げちゃだめ。
ミサトのジャケットの裾をぎゅっと握り締め、自分に言い聞かせる。
こんどこそ、こんどこそちゃんときかなくちゃ。
少年の表情が動く。戸惑ったような、笑っているような、今にも泣き出しそうな。
そして、少年の唇が言葉を紡ぎ出す。遠すぎて、声は聞こえない。でもはっきりと分かった。
た・だ・い・ま。
それは何の誤魔化しもない、いちばんすなおな言葉。
だから、ミサトも泣きそうな笑顔で応える。
「おかえりなさい」
The end of Episode4.
1st Children、綾波レイ。他人との接点を最小限に抑え生きていく少女。
その孤独な横顔に、不思議な懐かしさをシンジは憶える。
一方、零号機の再起動実験中に第五の使徒が来襲する。
使徒の放つ光が初号機の胸を灼く。シンジの絶叫がミサトを貫く。
第五話、「レイ、心の向こうに」
Appendix of Episode4.
「バカねぇ。オンナってのはね、悲しくなくても生理的に泣けるものなのよ。「涙はオンナの武器」とは良く言ったものだわ。まだまだ修行が足りないわね、シンちゃん」
「ええっ。ホントですか、ミサトさん。
ひどいや、帆足さん。僕の気持ちを裏切ったんだねっ」
「…………………………、ふたりとも、晩御飯ぬき。」