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ザザザザザッ…………………。

寄せ打ち合う波の音。

赤いLCLの海。

浜辺に横たわる黒髪の少年と赤い髪の少女。

交わらない二人の手。

少年が波打ち際を見ると、空色の髪の少女が赤い海の上に浮いている。

次の瞬間、少女の姿は幻のように消えた。

 

少年は、チラリと自分の隣に横たわっている少女を見る。

少女は左目と右腕に包帯を巻かれている。

「………………………………………………………。」

少年は何を思ったのか、少女に馬乗りになって跨ると、少女の首を絞め始めた。

 

少女の細い首に少年の両手の指先が食い込んでいく。

少女のか細い生命の鼓動が今、少年の手によって潰えんとしている。

 

ねえ、どうしてアスカの首を絞めるの?
…………勿論、アスカを殺すために決まってるじゃないか。

なぜ、アスカを殺さなきゃいけないの?
………アスカはこの世界に生きていてはいけないんだ。だから、殺すんだ。

どうして、アスカは生きていちゃいけないの?僕はアスカが必要なんじゃなかったの?
……アスカは僕が犯した罪なんだ。だから、アスカを消さなきゃいけないんだ。この僕自身の手で…。

 

少女は包帯の巻かれた右手をそろそろと動かすと、少年の頬を撫で始める。

どうやら包帯の下に怪我はないみたいだ。

その少女の手の平の温もりに少年はハッとする。

少女の顔に、ポタポタと涙の滴が零れ落ちる。

少年は夢から覚めたような表情で、慌てて少女の首から手を離した。

 

少年はそのまま鳴咽を漏らす。

少女は蒼い瞳を動かして、少年の姿を凝視する。 

 

ねぇ、罪って何なの?

どうしてアスカが生きてることが僕の罪なの?

アスカは一体何をしたの?

アスカは本当にこの世界に生きていてはいけないの?

僕はアスカが必要なんじゃなかったの?

 

やがて、少女の唇が微かに動いた。

 

 

「気持ち悪い……。」

 

 

 

「二人の補完」

 

 

  第二十四話 「アスカでなければいけない理由」

 

 

 

……………………………!?

シンジは目を覚ました。

「また、あの夢か…。」

左手で軽く髪を掻きあげて、額の汗を拭う。

ここ一週間の間、連続して見る夢。

サードインパクト後、アスカの首を絞めてしまったあの光景。

忘れたくても恐らく一生忘れられない、シンジの抱えているトラウマの一つだ。

「けど、本当に何で僕はアスカの首を絞めて、アスカを殺そうとしてしまったんだろう?」

あの時、アスカに感じた喩ようのない恐怖は何だったのか?

「アスカが僕の犯した罪?どういう意味なんだ?さっぱり、分からないや…。」

シンジは軽く首を傾げる。

だが、“罪”という言葉に、あの時アスカに感じた不可解な恐怖と、なぜアスカを殺そうとしたのかというヒントが隠されているような気がする。

と同時に、その謎を解くことが、自分にとってアスカがいかなる存在なのかという答えでもあるはずだ。

「結局、あそこから全て始まったんだよな。僕とアスカの歪んだ関係は…。」

シンジはチラリと壁に掛けられたカレンダーの日付を見る。

今日は金曜日。

アスカがドイツへ帰国するまで、三日余りを残すところとなった。

 

 

 

 

「おはよう、碇君。」

「………………………………………………。」

トウジと並んだヒカリはシンジに声を掛けるが、シンジからの返事はない。

完全に自分の殻の中に閉じこもっているみたいだ。

「碇君。返事ぐらいしなさいよ…。」

だが、シンジはヒカリを無視して校舎の方に歩いていった。

「ちょっと、碇君。もう後三日しかないのよ。あなた、本当にこのまま……」

「止めとけ、ヒカリ!」

トウジがヒカリの肩を掴んで制止する。

「け…けど、トウジ…。」

ヒカリはどうしても、このまま指を咥えて見ていることが出来なかった。

アスカはヒカリの家へ居候して以後、一見立ち直ったように見えた。

寝る時もヒカリが隣にいる為、悪夢に脅えることもなくなったみたいだ。

けど、アスカがヒカリの部屋で一人になった時、シンジの写真を見つめながら泣いていたのを、ヒカリは部屋の外から偶然見てしまった。

アスカは『もう、シンジの事は完全に吹っ切った。』と笑いながらヒカリに語っていたが、未だにアスカの心がシンジに縛られているのは、疑いようがなかった。

『やっぱり、悲しすぎる。アスカは本当に碇君のことを愛しているのに…。罪を犯した人間は一生その罪に縛られて自分を罰しながら生きていかなければいけないの?』

平凡だが善良な人生を歩んできたヒカリにはそうは思えなかった。

とはいえ、この問題は第三者が介入出来るようなコトではなく、当事者であるアスカとシンジの二人だけで解決しなければいけないコトなのは、ヒカリも十分理解していた。

だからこそ『アスカは本当に碇君のことが好きなのよ!』とシンジに向かって叫びたい衝動を、ヒカリは辛うじて抑えているのだ。

トウジに諭されるまでもなく、確かにその言葉だけは、アスカが自分の口からシンジに伝えなければならないコトだったからだ。

それに…

ヒカリはチラリと茶色のショートカットの少女の姿を見る。

マナは鳶色の瞳に憂いをこめてシンジの後ろ姿を見つめている。

霧島マナ。

ヒカリの親友であり、シンジを好いている、もう一人の少女の存在。

マナのことを考えると、ヒカリの立場からは、これ以上アスカに一方的に肩入れするのは不自然だ。

結局、ヒカリは何度も心の中で葛藤を繰り返しながらも、この件に関して傍観する以上の手出しは出来なかった。

 

 

 

 

「なあに、シンジ?わざわざ呼び出したりして?」

昼休み、シンジに屋上に呼び出されたマナは軽く微笑みながらシンジに声を掛ける。

「…………………………………………。」

シンジはやや後ろめたそうな表情で、マナを見下ろしている。

そのシンジの様子にマナは表情を少し曇らせながらも

「………どうしたの、シンジ?何かあたしに言いたいことがあるんじゃないの?」

そのマナの言葉にシンジは一瞬躊躇った後、

「マ…マナ…。そ…その…本当に申し訳ないんだけど……ぼ…僕と……わ……わか………」

シンジは口篭もりながら、何かを言いかけたが、マナの鳶色の瞳に悲しみに似た色が浮かび上がるのを見て、その先の言葉を言えなくなってしまった。

「どうしたの、シンジ?」

「な…なんでもないよ!ごめんね、マナ!」

シンジは逃げるように校舎の中へ戻っていった。

 

「やっぱり、言えないよな。今更マナと別れてくれだなんて…。」

階段を降りながら、シンジは軽く溜息を吐いた。

『どう考えたって、アスカと関係を持った地点で、そのコトをマナに告げて別れるべきだったんだ。なのに僕はここまでずるずると引き伸ばしてしまった。それどころか…』

シンジはアスカの関係を黙った上で、今度はマナと付き合おうとしていた。

どう考えても、それは誠実な男性のやるコトとは思えなかった。

『僕は今、マナをどう思っているんだろう?』

シンジは自問したが答えは出てこない。

『はじめて出会った時は、間違いなく僕はアスカよりマナに夢中になっていたと思う。けど、今は違うような気がする…。何ていうかアスカの対比としてしかマナを見れていないような…。』

シンジがアスカへの想いを疑いはじめたのも、ちょうどマナと再会した頃からだった。

「いずれにしても受け入れもせず、拒絶もしないで、マナをずっと縛り続けてきたんだ。最低だな、僕って…。」

シンジは強い自己嫌悪に陥った。

自分を憎んでいて、シンジを受け入れてくれないアスカと、自分を好いていて、シンジを受け入れてくれるマナ。

この対極に位置する二人の少女の存在が、今のシンジの強いジレンマになっていた。

 

 

「シンジ…。もうシンジの心の中には、あたしの居場所は存在しないのね。」

マナは鳶色の瞳に深い悲しみを込めてシンジの後ろ姿をずっと見つめていた。

あの時シンジが何を言いたいのかすぐに分かった。

なまじ、女の勘が働くのが辛かった。

マナは三日前にトウジから告げられた言葉を思い出す。

 

「霧島。ケンスケから霧島に伝言があるから伝えておくで。」

「相田君があたしに?」

意外そうな顔でマナはトウジに尋ねる。

ケンスケはシンジを教室で殴った件で、再び謹慎を食らっていたので教室にはいなかった。

「『すまない、霧島。俺は霧島にとっては余計なことをしてしまった。』それがケンスケからの伝言や。確かに伝えたで。まあ、その件に関してはワイも同罪やけどな。」

トウジはそう言って、軽く頭を掻いた。

「そう……。」

マナの俯いた様子を見て、トウジは慌てて

「そ…そんなに落ち込むな、霧島。この先どうなるかはワイにも分からんしな。と…とにかく、このままシンジがこの件をウヤムヤにしおったら、ワイがシンジの奴にパチキかましてやるさかい…。」

トウジはそう言いながらも逃げるようにマナの側から離れていった。

 

「シンジ………。」

マナは憂いを帯びた表情で

『どうしてアスカさんなの……。』

一度シンジを不幸にしたアスカが、一心にシンジを想い続けてきた自分以上に、シンジの心を捉えているのが、マナには悔しくてならなかった。

「悔しい…。やっぱり、このままじゃ終われない。終わりたくない…。」

マナは何かを決意するようにそう呟いた。

 

 

 

 

「ただいま……。」

バイトから戻ってきたシンジはシャワーを浴びて着替えると、すぐにゴロンと横になった。

机の上に立て掛けられているアスカの写真を見た後、「ふうっ…」と軽く溜息を吐いた。

「結局、僕にとってアスカは何なんだろう?」

ケンスケと遣り合ってから一週間が経過した。

その間、シンジはもう一度アスカに対する自分の気持ちを見詰め直したが、答えは出てこない。

アスカが自分にとって、特別な存在であることは、シンジにも分かっている。

ただ、どういう意味で特別なのか、その方向性が分からないのだ。

 

三年前、初めてオーヴァー・ザ・レインボウでアスカと出会った時は、自分と同じエヴァのチルドレンとして以上の認識はなかった。

ユニゾンの特訓を機に一緒に住み始めて以後、ようやくお互いを認め合える仲になったが、あくまでミサト同様、それは家族としてであった。

アスカが寝ている時に黙ってキスしそうになったコトや、アスカに挑発されてファースト・キスを交したコトもあったが、それを切っ掛けにアスカを女として意識したかというと、そうではない。

その当時、シンジが異性として意識していたのは、はじめて自分から心を開いた少女である綾波レイであり、目に見える好意でシンジに接してくれた霧島マナであったからだ。

その後、霧島マナは死に(実は生きていたのだが)、綾波レイの正体を知って以後、渚カヲルの事件を切っ掛けに、形はどうあれ、ようやくシンジの方からアスカを求めだした。

さらに、病室でアスカの裸を見た時、はじめてシンジはアスカを女として意識した。

自慰という卑屈なやり方ではあったが…。

それを境に、以後シンジは強くアスカを求め続けたが、それすら今にして思うとレイ・マナ・ミサトといったシンジに近かった女性が、自分の側から消えたが故の消去法に思えてならなかった。

少なくとも、サードインパクト前後のシンジは、アスカを異性としてより、逃げ場として見ていたところがあったのは確かだった。

 

では、今はどうなのだろう?

自分は本当にアスカが好きなのか?

アスカを支えられるような強い男になろうと決意した、三年前の純粋(ピュア)な想いをシンジはもう一度思い出すことが出来たが、それでも今のアスカへの気持ちが分からなかった。

アスカは自分にとって何なのか?

元エヴァのパイロットである仲間。

ミサトの元で一緒に住んでいた大切な家族。

だが、偽りの家族関係が崩壊して以後、シンジとアスカはお互いの醜い感情を余すことなく見せ合って、心の底から憎しみあい、お互いの心を壊し合った。

シンジとアスカは永遠に分かり合えない悲しい存在でしかないのだろうか?

 

「分からない…。考えれば考えるほど、出口のない迷宮の奥へと彷徨っていくみたいだ。アスカでなければいけない理由なんて、どう考えても思い付かないや。」

シンジは、今の自分の気持ちが分からなかった。

それは、シンジが自分のアスカへの想いを、理屈で割り切ろうとしていたからだ。

最近のシンジはカウンセリングの勉強の成果の為か、ややステロタイプ的に人間の感情を論理に当てはめる傾向が強くなっていた。

勿論、他の人間に対してはいくらでも柔軟に応用が効くのだが、ことアスカが絡むと途端にシンジは弱く臆病になってしまい、尚更、論理に逃げる傾向が強くなってしまう。

だが、ヒトを好きになるということは、理屈ではなく感情に属する分野である。

だから、今は考えるコトよりも感じるコトの方を大切にすべきなのに、その優先順位が完全に逆転しているのだ。

だから、焦れば焦るほど思考が空回りして、かえってシンジは真実から遠のいていくという悪循環が続いている。

いずれにしてもアスカは、この三年間でシンジがたった一つ解くことが出来なかった、心のパズルの最後のワンピースだった。

 

 

 

 

翌日の土曜日、学校から帰ったシンジは、何時ものように委員会の本部に顔を出すと、地下のトレーニング施設で青葉の下で護身術の訓練で汗を流した。

常人よりは、ずば抜けて強いが、決して特別ではない。

それが青葉の目から見たシンジの格闘レベルの限界であり、これ以上伸びることはないと思ったので、何時でも訓練を止めてよいと言い渡していたが、シンジは『大切なモノを守る為なら、自分の手を血で汚せるだけの覚悟だけは残しておきたい。』と迷いのない瞳で訴えたので、今日まで毎週かかさず射撃訓練と護身訓練を受けていた。

もっとも、シンジは『戦わずに済むなら、一生戦わないに越したコトはないですけどね。』とも、はにかみながら語っており、青葉も今の暴力を無条件に拒まなくなったシンジが、決して、昔持っていた優しさを失ってはいなかったコトに心から安堵した。

 

この日、シンジは、なぜかいつもより早めに訓練を切り上げた。

シンジのバックの中に、数本の花が入っているのを目敏く見つけた青葉は

「シンジ君。この花はどうしたんだい?」

と尋ねると、シンジはやや寂しそうに笑いながら

「今日は久しぶりにミサトさん達を尋ねようと思っているんです。ここのところ私生活で色々あってご無沙汰してたから…。」

「そうか…。」

青葉はシンミリした顔でそう呟いた。

 

 

 

シンジは霊園の門をくぐった。

膨大な数の墓標が並んでいる。

サードインパクト時に命を落とした旧ネルフ職員のお墓である。

無論、墓は飾りであって、その下に遺体はない。

碇ゲンドウ

碇ユイ

葛城ミサト

加持リョウジ

赤木リツコ

綾波レイ

シンジは一つ一つの墓に花を添え、丁重に手を合わせ続ける。

 

『そういえば、マヤさんが言ってたな。ここにミサトさん達のお墓が立てられるのも冬月さんが、委員会の基盤を築き上げたからだって…。冬月さんは命懸けの政府との交渉でミサトさん達の死後の名誉を守ったんだよな。』

もし、冬月達旧ネルフの大人達が生き残っていなければ、ネルフが一方的な悪役にされただけでなく、今頃シンジもアスカもこの世にいなかっただろう。

エヴァが永遠に存在しなくなった今、サードインパクト当時のズタズタに心を壊されてしまった14歳のひ弱な少年少女に、政府という巨大な組織を相手に自分の身を守る術など何一つない。

当時の日本政府から見れば、チルドレンであったシンジとアスカは、サードインパクトの責任を押し付け、民衆の目を自分達から逸らさせるのに格好のスケープゴートだったからだ。

今現在でもシンジの身の上は決して安全というわけではない。

シンジ自身は一応すでに政府のマークは外れているが、委員会と政府の関係次第でそれはどう転ぶか分かったものではない。

『マヤさんはMAGIがあるから政府は委員会に手を出せないって言ってた。僕の立場は三年前と変わっていないんだ。』

シンジの護身術も、結局はその道のプロから自分の身を守れるほどのレベルには達しなかった。

冬月達は、シンジをプロのエージェントとして育てるつもりはなく、14歳の少年相応の真っ当な人生を歩んで欲しいと願っていた為、普通の日常生活に支障をきたさない程度の訓練しかさせなかったからだ。

だが、シンジは今ではそれでいいと思っている。

何も物理的に強くなり、暴力のプロになることだけが大人達の好意に報いる道ではない。

シンジは自分なりの考えで、自分の進むべき道を模索し、外面より内面の強さを鍛える道を、自分の意志で選び取ったのだ。

将来、カウンセラーになって、ヒトの心の闇の部分に積極的に踏み込んでいけるだけの精神的な心の強さを手に入れることが、何よりも大人達の好意に報いる道だとシンジは信じていた。

そのシンジの選択は今では“サードインパクトを起こして十億の人間を失った”という一生消えない自身のトラウマとも正面から戦える強力な武器となっていた。

 

最後にシンジはミサトの墓の前で手を合わた後、胸にぶら下がった十字架のペンダントを撫でながら、軽く微笑んでミサトに語り掛ける。

「長らくご無沙汰してすいませんでした。ミサトさん達は元気にしてますか?」

ここへ来る度に、シンジは三年前精神崩壊を起こした時、夢の中で出会ったミサト達の言葉とあの時の決意を思い出すことが出来た。

勿論、シンジ自身は、あの出来事は現実だったと心から信じている。

それが“事実”かどうかは別して、シンジにとっての“真実”であることだけは確かだ。

とはいえ、あの夢(自己啓発セミナー)は、ただの切っ掛けにすぎなかった。

あの時、悟ったと信じていた正論を、一体どれほど現実の世界にそのまま適用出来たのだろうか?

ヒトは何度でも同じ過ちを繰り返してしまう。

実際シンジも、この三年間、何度もぬか喜びと自己嫌悪を繰り返しながら、それでも手探りで試行錯誤しながら、今日まで懸命に生きてきたのだ。

何より現実として、シンジはミサトの忠言通り、自分の存在意義について再び何度も悩んでしまったし、未だにアスカへの想いさえも疑い続けているのだ。

だから、シンジは自己啓発セミナーにより瞬間的に生まれ変わったわけではなく、現実へ戻ってからの一日一日の積み重ねが今現在の前向きなシンジを作り上げたのである。

 

シンジは、三年前の夢の中の出来事を反芻しながら、再びアスカへの想いを再確認しようとしたが、ここでも答えを見つけることは出来なかった。

「駄目か。ここへ来れば何かヒントが見つかるかなと思ったんだけど…。」

シンジはチラリと腕時計を見る。

そろそろ日が落ちる時刻だ。

「帰ろうか…。」

シンジは再びミサトの墓へ手を合わせると

『ごめん、ミサトさん。三年前の約束、果たせないかも知れない…。』

と心の中で呟いた後、墓地から背を向けて霊園から出て行こうとした。

 

『碇君…。』

「!?」

自分を呼ぶ声が頭に響いたシンジは慌てて振り返る。

『えっ!?』

目の前に、第三中学の制服を着た、空色の髪の少女が佇んでいる。

だが、シンジが軽く瞬きした次の瞬間、すでに少女の姿はなく、“綾波レイ”と墓碑銘が刻まれたお墓が目の前に存在するだけだった。

「疲れているのかな?」

シンジは腕で軽く目を擦った後、今度こそ霊園から出ていった。

 

 

 

 

シンジがマンションに到着した頃、闇が辺りを完全に支配し、夜空には月が出ていた。

シンジはシャワーを浴びて着替えた後、チラリとカレンダーを見る。

明日は日曜日。アスカがドイツへ帰国する日だ。

「このまま、終わるしかないのかな、僕とアスカは…。」

そう呟いてシンジは大きく溜息を吐き出した。

アスカがドイツへ帰ると知ってからも、シンジは一度もヒカリの家を尋ねなかった。

アスカと会っても、アスカを止める理由がない。

何より今のシンジはアスカに会うことが恐くて仕方がない。

この期に及んで、シンジはアスカの自分に対する気持ちだけでなく、自分のアスカに対する気持ちさえも分からなかった。

時計の針が零時を指し、カレンダーの日付が変わったが、今夜は眠れそうにない。

仕方なくシンジはリビングのソファに腰を下ろすと、ワインの小瓶を戸棚から取り出してグラスに注ぎはじめる。

一杯軽くやった後、チラリと窓の方を見ると、見事な満月が夜空に浮かんでいる。

「たまには気分を出すのもいいかな…。』

そう考えたシンジは椅子とテーブルをベランダの外に持ち出した。

 

雲一つない澄み切った夜空に星の光がキラキラと輝いている。

ヒンヤリとした夜風がほろ酔い加減に気持ち良い…。

シンジは椅子に腰掛けて星空を見上げながら、テーブルの上に置かれたワインをチビチビと飲み始める。

 

天頂近くに、美しい半円型を描いた七つの星を、目敏く見つけたシンジは

「冠座か…。今日は雲がないから、星座がよく見えるよな。」

シンジは意外に星座に詳しかった。

ほとんどの星座の由来はギリシャ神話を起源(ルーツ)としているからである。

シンジはギリシャ神話が好きだった。

ギリシャ神話には、絶対なる万物の支配者は存在せず、複数の人間臭い性格をした神々がいて、また人間の中には時に神をも凌駕する英雄が現れるからだ。

それは一神教に対する反発かもしれなかった。

シンジは絶対にして全能なる万物の支配者である“神”が嫌いだった。

『さあ、僕を殺してくれ。でなければ君たちが死ぬことになる。滅びの時を免れ未来を与えられる生命体は一つしか選ばれないんだ。そして君は死すべき存在ではない。』

三年前のあの戦いは、渚カヲルの言葉を信じるなら“神”という絶対者によって仕組まれた人間と使徒との生き残りゲームであり、其れ故シンジは、自分の手で親友である渚カヲルを殺す羽目になったのだ。

結局、ヒトも使徒も、“神”によってその存在(生命)を弄ばれるだけのチェスの駒に過ぎなかった。

「不愉快だ。神が僕達…いや、人類も十八番目の使徒だから、使徒かな…の創造主だからって、ひとたび授かった生命を弄ぶ権利なんてないはずだ!」

何より同じヒトでありながら、その神の思想に迎合し、裏死海文書に基づいて神のシナリオを推し進めようとしたゼーレの狂信者達に憤りを感じざるえない。

「人類補完計画か…。」

この三年間、シンジは忙しい日常に身を任せながらも、自分なりに三年前のあの戦いについて整理しようとしていた。

最近になってようやく自分なりの結論に近いモノが出ようとしているところだった。

   

二本目のワインの小瓶が空になった時、シンジはウトウトしはじめる。

「さすがに、酔いがまわってきたみたいだな…。」

アルコールが身体の中を走りまわり、ようやくヒュプノスの囁きがシンジを眠りの園へと導こうとしている。

シンジは酔いで頬を赤く染めながら、夜空に浮かんだ満月を見上げる。

『……………………………………。』

不思議な感慨が身体中に広がっていく。

シンジは古い追憶の中から、月をバックに神秘的な雰囲気を醸し出した、白いプラグスーツに身を包んだ空色の髪の少女の姿をイメージした。

「月か…。満月を見ていると綾波のコトを思い出すな…。」

ファーストチルドレン綾波レイ。

今はシンジの思い出の中だけに存在する少女。

シンジがはじめて自分から心を開いた他人であり、人類補完計画の要であるリリスの魂を持つ者でもある。

レイはシンジと共に人類補完計画の触媒として利用され、人類を補完する“神”としての役割を無理矢理背負わされた。

その後、レイは消え、シンジはアスカと共に生き残った。

それでも、シンジとレイの間に存在した絆は、ある意味シンジとアスカの間にある絆よりも強かったかもしれない。

いずれにしてもシンジもレイも自身を取り巻く数奇な運命から死ぬまで解放されることはなかった。

「あ…や……な……み…。」

シンジはレイの名前を呟くと、テーブルの上に崩れ落ち、そのまま深い眠りに落ちていった。

 

 

 





 

 

 

「……君。」

誰かが呼ぶ声がする。

「碇君…。」

シンジを呼ぶ声がする。

「…………誰だよ?」

シンジは面倒臭そうに応える。

シンジは寝ぼけた眼を擦りながら顔を上げたが、一瞬で眠気を吹き飛ばした。

短めの空色の髪。

透き通るような白い肌。

そして宝玉のような赤い瞳。

第三中学の制服に身を包んだ少女は、月の光にその姿を浮かび上がらせながら、満月をバックに神々しい雰囲気を醸し出していた。

「あ……あ……あや……」

シンジの瞳孔は極端まで見開かれ、舌がもつれて声が出ない。

「………………………………………。」

赤い瞳の少女は無表情にシンジの狂態を見ていたが、微かに表情を和らげると

「久しぶりね、碇君。」

と挨拶して軽く微笑んだ。

シンジは慌てて椅子から立ち上がる。

少女は三年前と同じ十四歳の姿のままで、今のシンジとは頭一つ以上の差があった。

シンジも軽く少女に向かって微笑むと

「久しぶりだね、綾波…。」

と言って少女に握手を求めた。

『暖かい…。』

交わった少女の手の平の感触に、なぜかシンジは人肌の温もりを感じることが出来た。

「………………………………………。」

しばらくの間、二人の間に言葉はいらなかった。

シンジはかつてこの街で数奇な運命を共にした目の前の少女と、三年ぶりの再会を懐かしんだ。

しばらくして、シンジはレイから手を離すと、ややはにかみながら

「あ…綾波。み…みんなは元気にしてるかな?」

「ええ。碇司令も葛城三佐も、碇君の成長を喜んでいたわよ。」

そのレイの言葉にシンジはやや自嘲するように

「僕は、まだまだ未熟だよ。一時期強くなったと信じていたけど、それが見せ掛けだって最近分かったんだ。未だにアスカ一人のコトすら解決出来ないんだから…。」

レイは赤い瞳に思慮深い光を称えながら

「そうね。セカンドチルドレンは、生涯あなたの弱点であり続けると思う。けど、そのコトを恥じる必要はないわ。それはヒトである以上、誰でも持ち合わせているものだし、むしろ、その弱さはヒトとして、とっても大切なものだから…。」

シンジはポカンとレイの顔を見つめた後、軽く吹き出して

「サキちゃんと似たようなコトを言うんだね、綾波も……。」

「………………………………………。」

「でも、結局誰も僕に答えを教えてはくれないんだね。」

シンジのその言葉にレイは無言だった。

 

シンジは急に真面目な表情をすると

「あ…綾波……。」

「なあに、碇君?」

「そ…その、ごめん……。」

「……………………………………。」

シンジは後ろめたそうに顔を背けると

「あ…綾波は最後まで自分の意志で戦ったのに、僕は途中で逃げ出してしまった。その結果、アスカは壊れて、世界もあんな風にメチャクチャになってしまったんだ。僕さえ逃げなければ綾波もミサトさんも誰も死なずに済んだかもしれないのに…。なのに、僕だけがオメオメと生き残って…。」

シンジの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。

アスカの前と違い、なぜかシンジはレイに脆弱な自分を見せることに恥らいを感じなかった。

シンジは自ら心の甲冑を脱ぎ捨て、目の前の少女に自分の想いの全てを曝け出した。

レイは慈愛に満ちた表情で軽く涙で濡れたシンジの頬を撫でながら

「碇君。どんなに悔やんでも、過去は変えられないのよ。死者も決して蘇ることはない。分かっているわよね?」

「う…うん。だけど……。」

「私は自分の選択を後悔していない。短い間だったけど、碇君に出会えたコトを嬉しく思う。碇君の心と触れ合えて、はじめて私はヒトとしての感情を知ることが出来たから。私は感情のない人形として永遠の時を生きるより、心を持ったヒトとして死ねたことを誇りに思っている。」

「あ…綾波…。」

「だから、碇君。あなたはこれからも前を向いて強く生きていって欲しいと思う。私たちは皆、そのコトを碇君に望んでいるから。」

「…………そ…そうだよね。ありがとう、綾波。」

シンジは涙を拭くとにっこりと微笑んだ。

そのシンジの笑顔に釣られるようにレイも微かに微笑んだ。

 

シンジは再び自嘲するような表情で

「けど、本当に僕は駄目だよな。何度悟ったと思い込んでも、ふとした切っ掛けでまた悩んでしまうんだ。これはやっぱり僕が弱いって証拠なのかな?」

レイは表情を引き締めると

「碇君。私はあなたは本当に強くなったと思う。あなたは過去の罪に押し潰されることも、自己否定の憐憫に浸ることもなく、自分の罪を認めた上でそこから償いをはじめようとしているから。けど、まだあなたのように過去を乗り越えていないヒトもいるのよ。彼女は辛い過去に押し潰され、自分で自分を罰っして自分の未来を放棄しようとしている。」

「彼女……?」

「………………………………………。」

シンジは訴えるような目でレイを見つめると

「ね…ねぇ、綾波。教えてよ。僕は本当にアスカが好きなの?僕には自分の気持ちが分からないんだ。綾波なら分かるんだろう?教えてよ、綾波?」

「……確かに私はその答えを知っている。けど、それは私が言ってはいけないことだわ。碇君が自分で気がつかなければいけないことなのよ。それは自分でも分かっているでしょう?」

「で…でも。」

「それじゃ、一つヒントをあげるわ。答えは既に出ているのよ。三年前のあの時にね…。」

「………三年前?」

シンジはキョトンとした顔でレイを見つめる。

「碇君。あなたは本当に強くなったけど、一つだけ大切なコトを忘れているわ。人を好きになるのにそんなに理由が必要なの?」

「えっ…!?」

「それはヒトではなく機械の思考でしかないわ。ロジックでしか物事を判断することが出来なかった、かつての人形だった私のね。」

「………………………………………………。」

レイは軽くシンジの胸に自分の手の平を当てながら

「だから、時には“考える”ことよりも、“感じる”ことの方を大切にした方がいいわよ。」

「綾波……。」

レイは僅かに頬を赤らめると

「私は碇君が好き。けど、碇君を好きなことに理由なんてないの。それは碇君から見たら可笑しなことかしら?」

シンジはそのレイの言葉に、真剣な表情をすると

「そ…そんなことはないと思う。」

シンジもやや頬を赤らめると

「ありがとう。僕も本当に綾波のことが好きだったよ。」

そのシンジの言葉にレイは最高の笑顔で微笑みながら

「そう、ありがとう。碇君。」

少女の赤い瞳がどんどんシンジの顔に近づいていく。

『えっ!?』

次の瞬間、レイとシンジの距離はゼロになった。

『綾波……。』

月明かりの下、二人の重なったシルエットが窓ガラスに映し出されていた。

 

 

 





 

 

 

チュン、チュン、チュン、チュン、チュン

雀のさえずる音と、眩しい日の光にシンジは目を覚ました。

シンジは慌てて、テーブルにうつ伏していた顔をあげるとキョロキョロと辺りを見回す。

何時の間にか夜は明けて、朝になっている。

どうやら、ベランダで一晩明かしてしまったみたいだ。

「……………夢だったのか……。」

シンジは指を軽く自分の唇に当ててみる。

微かに人肌に触れた温もりを感じるのは気のせいだろうか…。

「綾波……。」

シンジは軽く溜息を吐き出した。

今日は日曜日。

とうとうアスカが帰国する当日になってしまった。

 

 

 

 

「皆さん、お世話になりました。」

早朝、ヒカリの家の門の前で、アスカは一ヶ月以上世話になったヒカリの家族に一人一人丁重に頭を下げた。

「また、何時でも遊びに来てくださいね。」

「アスカちゃん。今度来るときは彼氏も紹介してね。」

「アスカお姉ちゃん、またね!」

「クエクエ!!」

最後アスカはヒカリと軽く握手を交すと、やや申し訳なさそうな顔をしながら

「本当に世話になったわね、ヒカリ。ごめんね、何時も都合の良い時だけ利用しているみたいで…。」

「気にしないで、アスカ。あたし達、親友でしょう。」

「ヒカリ…。」

ヒカリは一瞬躊躇った後、

「ねぇ、アスカ。もう一度だけ聞くけど本当にいいの?」

その言葉にアスカは一瞬蒼い瞳を曇らせたが、すぐに気を取り直したように笑顔を取り繕って

「平気よ。ヒカリ。あたしを誰だと思っているのよ!?天才美少女惣流・アスカ・ラングレー様よ。いつまでも失恋ぐらいで挫けてられないって!シンジ一人がオトコじゃないのよ。世界中の半分は男なんだし、探せばシンジ以上の男性なんかいくらでも見つかるって!」

「そ…そう。」

『嘘よ、ヒカリ。あたしにとってはシンジの代わりなんてどこにもいないのよ。けど、本当に心配しなくて平気よ。あたし見つけたから…。シンジを失っても、ママが死んだ後でも、この先ずっと生きていける心の支えを見つけたから…。』

アスカはやや頬を赤らめながら、無意識の内にお腹の辺りを擦りはじめた。

「………………………………………………。」

『………なにかしら?何となくアスカの雰囲気に違和感あるのよね。今まで以上に柔らかくなったというか…。』

ヒカリは首を傾げたが、その理由は思い当たらなかった。

 

アスカはタクシーのトランクに荷物を放り込むと、助手席に乗り込んだ。

「ねぇ、アスカ。本当に空港まで見送らなくていいの?」

「うん、別れるのが辛くなっちゃうから…。」

ヒカリは涙ぐむと

「…………元気でね。アスカ…。」

「ヒカリも元気でね。」

「何時かドイツに遊びにいくからね。」

アスカは悪戯っぽく笑うと

「鈴原と一緒にでしょう?」

その一言にヒカリは顔を真っ赤にして

「ア…アスカ…。」

「冗談よ、冗談。けど、待ってるから。ドイツに来たらきっと驚くモノが見られると思うわよ。」

「驚くモノ?」

「内緒。それは来てからのお楽しみよ…。」

「……………………………………。」

アスカは急に真顔になると

「けど、シンジだけは絶対に連れてきちゃ駄目よ。それだけは絶対に守ってね。」

「アスカ、どうし………!!」

ヒカリは、アスカの悲痛なまでの真剣な表情を見て、その先の言葉を言えなくなってしまった。

『もう、あたしは二度とシンジには会わないって決めたの。それが一度シンジを不幸にしたあたしに与えられた罰だから…。』

「それじゃね、ヒカリ。」

アスカが最後の別れの挨拶を告げると、タクシーはヒカリの家から離れていった。

無言のままタクシーを見送り続けるヒカリに姉のコダマが声を掛ける。

「ねぇ、やっぱりヒカリは空港まで見送ってあげた方がよかったんじゃないの?頼めばアスカちゃんも拒まなかったと思うけど…。」

その姉の言葉にヒカリは軽く首を横に振ると

「いいの…。邪魔すると悪いから…。」

「邪魔!?」

コダマは首を傾げる。

『ドイツに戻ったら、もうアスカは絶対に碇君に会わないと思う。けど、アスカが日本を発つまで、まだ最後の可能性が残されているわよね。そうでしょ、碇君?』

 

 

 

 

「アスカ……。」

シンジはアスカの名前をポツリと呟いた。

アスカはすでに空港へ向かっており、タイムリミットは刻一刻と近づいている。

なのに、昨晩の出来事が強くシンジの頭を霞めていて、アスカのコトに思考を集中させることが出来なかった。

シンジは、再び赤い瞳の少女と語った昨夜の出来事を反芻する。

「人類補完計画…。」

シンジの口調には、その言葉自体を忌避する忌々しげな響きが篭っている。

「あんな馬鹿げた計画の為に綾波は消えなければいけなかったのか!それどころか世界中の半分の人間も……。」

そこでシンジは言葉を飲み込んだ。

シンジ自身にも、その計画に対する少なからぬ責任があったからだ。今更言っても詮のないことだったが。

 

シンジはやや思考を変化させると

「もし、あの狂った補完計画にも何らかの意味があったとしたら、それは生きる意志を持った者だけが生き残ったという事だろうか。ミサトさんがいつか言っていたっけ…。生き残るのは生きる意志を持った者だけだって…。つまり、それは新しい人類の新生で…。ははっ…。何言ってるんだ、僕は。詭弁だよな。サードインパクトを起こした張本人がこんなコトをいうなんて…。」

そう考えてシンジは自嘲する。

あの時補完を肯定し、現実の世界から逃避した者でも、生き残ってさえいれば、いずれ考え改めて現実に適応できた者も数多くいただろう。

それとは逆にサードインパクトを生き延びて、傷付け合う現実の世界で生きるコトを受け入れた者の中にも、その後、かつてのマナブのように心を壊してしまった人間は数多く存在する。

死んで人間に対しては、もはや神の力を失ったシンジにはどうすることも出来ない。

だが、生き残った人間に対しては、只の人間であるシンジにも何か出来ることがあるはずだ。

だからこそ、シンジは将来カウンセラーとなって、サードインパクトを切っ掛けに心を壊した人間と積極的に関わっていくことを決意したのだ。

それが、シンジが自分自身に課した、恐らく生涯続くであろう自身の罪に対する償いだからだ。

 

「!?」

その時、シンジの思考の縁に何かが引っ掛かった。

「そういえば…。」

補完計画のコトを考えている内に無視し得ない疑問が生まれた。

「どうして、アスカは今、生きているんだろう?」

補完を肯定し、現実への帰化を自らの意志で拒んだ者は、みんな還ってこなかった。

それとは別に補完計画前に死んだ人間も同様だ。

当然であろう。

一度死んだ者は二度と生き返らない。

だから、ミサトやリツコのように僅かなタイミングでも補完計画前に生命を落とした者は、誰一人としてLCLから戻ってこれなかったのだ。

ミサトなど誰よりも強靭な生きる意志を持ち合わせていたはずなのに…。

では、なぜアスカは今生きているのか? 

シンジは、はじめてその矛盾に気がついた。

 

シンジはアスカが弐号機ごとエヴァシリーズにズタズタに惨殺された時の光景を思い出す。

アスカが生きているはずはなかった。

あの時、アスカの精神は弐号機と異常シンクロしており、弐号機のダメージは100%アスカの肉体に伝わっていたからだ。

恐らくエントリープラグの中のアスカの身体は見るも無残な姿になっていたはずだ。

だが、最後アスカは生きてシンジの隣にいた。

それも無傷のままで…。

包帯の下に、一切怪我はなかった。貫かれたはずの左目も、引き裂かれたはずの右腕もそのまま残っていた。

トウジのように肉体の一部を損傷した者は、再びヒトの姿を取り戻した時も、同じ損傷した姿で戻ってきた。

そのコトから考えてもアスカの身体に何の損傷もなかったことは極めて不自然だ。

 

「どうして、あの時一度死んだはずのアスカが今生きているんだろう?」

シンジはここに来て三年前の事件の最大の謎にぶつかった。

 

『………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。』

シンジはそれから腕を組んでその事に頭を悩ませていたが、

「そうか…。そういうことだったのか!」

何か閃いたようだ。

「それは僕がアスカの復活を願ったからなんだ!」

補完計画失敗時のLCLからの帰還条件を考えれば、それ以外の結論は有り得なかった。

シンジが、特別に一度死んだアスカを生き返らせたのだ。あの時、手に入れた神の力を使うことによって…。

そう考えればアスカの身体に傷一つなかったことにも合点がいく。

その事実にシンジはまるで憑き物が落ちたような錯覚を覚えた。

 

死者は決して生き返ってはならない。

それは、宇宙に生命が誕生した時から一度として破られたコトがない、森羅万象の法則である。

かつてシンジの父親であるゲンドウは狂気の計画に世界を巻き込むことで、一度死んだ最愛の妻である碇ユイを生き返らせようとしたが、結局それは叶わず失敗し、ゲンドウの方がユイのいる世界へ引き込まれてしまった。

だが、シンジは一度として破られたコトがない森羅万象の法則を破って、アスカを生き返らせてしまった。神の力を自分の願いに利用することによって…。

だとしたら、アスカはまさしく神の力を悪用したシンジの犯した罪そのものだった。

 

ようやく、シンジはあの時アスカから感じた喩ようのない恐怖の源が何だったのかを理解できた。

シンジは恐れたのだ。自らの罪の証であるアスカの存在そのものを…。

だからこそ、シンジは無意識にそのコトを恐れて、無我夢中でアスカの首を絞めてしまったのだろう。

そう、アスカを殺すことによって…自分の生きた罪の証を消すことにより、自分の罪を帳消しにしようとしたのだ。

とすれば、あの時シンジの頬を撫でたアスカの行為の意図は『あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ!』というアスカの意思表示なのだろう。

当然である。

アスカの生命が、シンジの手によって生き返らせられたものであっても、一度与えられた生命を奪う権利はもはやシンジにはないのだから。

ヒトと使徒が神によって生み出されたとしても、お互いを争わせその生命を弄ぶ権利はもはや神には存在しないのと同じように…。

 

シンジは三年前の事件の最大の謎を解くことが出来た。

それはアスカが自分にとっていかなる存在なのかを再確認することにも繋がった。

あの時、もし誰か一人を望めるのなら、シンジはレイでもマナでもミサトでもなく、アスカに自分の隣にいて欲しいと切に願ったのだ。

つまりシンジにとってアスカとは、神の力を悪用し森羅万象の法則を汚してでも、自分の側にいて欲しいと願うほど特別な存在だったのだ。

 

その事に、はじめて気づいたシンジは、興奮で身体を震わせた。

シンジの心のジグソーパズルを構築するのに欠けていた“アスカ”という名の最後のワンピースが、ようやくあるべき位置に埋め込まれ、本来の姿を取り戻したからだ。

 

「そうか。綾波の言う通り答えは三年前からとっくに出ていたんだ!」

シンジはようやく三年前の真実に気づいた。

だが、その真実は、只の切っ掛けに過ぎなかった。

シンジがアスカに対する自分の本当の想いに気がつくための…。

シンジは捜し続けた“理由”を手に入れることによって、今まで理性がクラッキングを掛けていた、抑えられた感情の解放を促すことに成功した。

思えばシンジがこれほど他人のことで悩み苦しんだ経験が他にあっただろうか?

そのアスカに対するシンジの態度は、他人から見ればまさに“好き”と完全に同義語である。

今ならサキやマナブなど、他人の未知の心に積極的に踏み込めたシンジが、アスカにだけは弱く臆病になってしまうのも理解できる。

それはシンジにとって、アスカの存在がそれ以外の他人と比べて、あまりにも特別すぎたからに他ならない。

誰でも意中の異性を前にすれば、普段の自分を保つことは出来なくなる。

シンジの場合はそれがかなり極端な形で出てしまっていたのだろう。

自分の本当の想いが分からなかった故、尚更に…。

 

知っていると思っていた事がある日、突然、全身全霊で納得出来る体験があるとしたら、今がまさにその瞬間だった。

この瞬間、シンジははじめて、今まで逃げ続け、騙し続けた、アスカに対する自分の本当の想いに正直になることが出来た。

 

 

「僕はアスカが好きだ…。」

シンジは頬を赤く染め、興奮した口調で自分の気持ちを言葉で表現した。

先程から心臓が強く脈打ち、ドキドキが止らない。

身体全体から熱いパトスが迸るような錯覚すら覚える。

「なんてことだ!アスカが僕を必要としてくれるかという以前に、僕の方がよっぽど強くアスカを必要としていたんだ。僕は馬鹿だ!本当にバカシンジだ!こんな大事なコトにここまで追いつめられなければ気がつかないなんて…。」

 

シンジはチラリと時計を見る。

時計の針は午前九時を指していた。

「危うくまた総てを失った後で、三年前みたいに死ぬほど後悔するところだった。けど、まだ間に合うはずだよな。」

シンジは慌てて顔を洗って着替え始める。

 

私服に着替え外に出たシンジは、バイクに跨ってエンジンを掛けようとした時、急に何か思い当たったように動作を停止した。

『………………………………………………。』

シンジは数瞬ほど考えこんだ後、

「けど、その前に絶対にしなければいけないことがあるよな…。」

シンジは、自分を慕っているもう一人の少女のことを思い浮かべる。

「マナ……。」

偽善かも知れないが、これから自分がマナにしなければならないことを考えて、シンジの心がチクリと痛んだ。

だが、シンジは二回ほど自分の頬を叩いて気合を入れ直すと

「ケジメをつけなきゃ。僕が自分で蒔いた種なんだから…。」

シンジはヘルメットを被ると、なぜか空港ではなく、マナの社宅に向けてバイクを走らせていった。

 

 

 

 

「どうしたの、シンジ。こんなに朝早くから?」

自宅の玄関でシンジを出迎えたマナは軽く微笑んだ。

「……………………………………………。」

シンジは無言のまま真剣な表情でマナを見下ろしている。

『なにかしら、嫌な予感がする。』

シンジの黒い瞳の中には深い悲しみが宿っている。

それは、誰に対する悲しみなのだろうか?

すでに失われた者?

自分!?

マナは沸き上がる不安を必死に抑えながら、何とか表情を笑顔で取り繕うと

「い…今、お父さんとお母さんは出かけていていないんだ。とりあえず、上がって…」

「マナッ…!!」

シンジは大声でマナの名前を叫んだ。

「な…なあに、シンジ?」

マナの鳶色の瞳に不安の波が漂っている。

シンジはマナの脅えた表情を見て一瞬怖じ気づいたが、血が出るほど強く自分の唇を噛みしめた後、

「僕と別れて欲しい…。」

自分でも意外なほど淡々とした口調で別れの言葉を囁いた。

「…………………………!?」

そのシンジの言葉の意味を理解した時、マナの脳裏を過ぎったのは、『まさか…』ではなく『やっぱり』という想いだった。

マナには当のシンジ以上に、シンジの気持ちが誰に向けられていたか知っていたからだ。

とはいえ、その言葉をマナが正面から受け入れるには、それ相応のシンジの覚悟を見せてもらう必要があった。

 

マナは訴えるような目でシンジを見上げると

「シンジ、どうして今になってそういうコトを言うの?」

「………ごめん。」

シンジは俯いたまま謝罪したが、目だけは決してマナから逸らさなかった。

「アスカさんなのね?」

シンジは、黙ってコクリと肯いた。

「シンジ。あたし何か悪いコトした?」

「マ…マナには何の問題もないよ。マナは本当に素敵な女の子だと思う。ただ、僕が我が侭で卑怯なだけなんだ。」

「卑怯?」

シンジはさすがに後ろめたそうな表情をすると

「そ…その…、ぼ…僕はアスカに拒絶されるのが恐かったんだと思う…。現実の世界ではお互いに傷つけあわずに生きていくのは不可能なのは分かっている。けど、それでもアスカにだけは拒絶されるのが恐かったんだ。それは、アスカが特別だったから…、僕にとってアスカが他の誰よりも極めて特別な存在だったから…。」

シンジは言いづらそうに何度か口篭もった後、

「だ…だから、ほ…本当に失礼な言い方なんだけど、ぼ…僕はマナに逃げてしまったんだと思う。マ…マナがアスカと違って、僕を受け入れてくれるって分かっていたから……。本当に済まない、マナ!僕が弱くて馬鹿だったからマナを傷つけてしまったんだ!」

そう言ってシンジは手をついてマナに頭を下げた。

分かっていた…。

今自分が言っていることが、目の前の少女にとってどれほど残酷なことなのか、シンジは分かっているつもりだった。

だが、シンジの気持ちがもはや目の前の少女にないと気付いた以上、これはもう避けては通れない道だった。

その場凌ぎの中途半端な優しさなど、最終的にはその人間をトコトンまで傷つけるだけの行為でしかない。

サキに忠告されるまでもなく、シンジは三年前のアスカとの体験から嫌というほどそのことを思い知らされていたからだ。

とはいえ、このマナとの破局は決して不可避のモノではなかった。

シンジがもっと早く自分の想いに気がついていれば、ここまでお互いが傷つかないで済む段階でケリを着けることも可能だったからだ。

シンジは、自分のアスカに対する心の弱さに、マナを巻き込んでしまったコトを心から後悔した。

 

「シンジ……。」

マナは青ざめた表情で土下座したシンジの姿を見つめる。

シンジの予想通りその言葉はマナの心を深く傷付けた。

だが、それ以上にシンジの心がもう自分に向けられるコトがないという現実が悲しかった。

『もう身を引くしかないのね。シンジが自分で自分の気持ちに気がついた以上は…。』

だが、最後にマナはどうしてもシンジの想いで確認しておかなければならないことがあった。

「シンジ、どうしてあたしじゃ駄目なの?」

そのマナの言葉にシンジは下げていた頭を上げて立ち上がった。

再びシンジはマナを上から見下ろす形となる。

マナはシンジの襟首を掴むと

「あたしは本当にシンジが好きなの。シンジを愛しているの…。けど、アスカさんはどうなの?いまだにシンジを憎んでいるかもしれないんでしょう?なのに、どうしてあたしじゃ駄目なの?どうしてアスカさんじゃなきゃ駄目なのよ?」

マナは最後に、再び自分の正直な想いを正面からシンジに訴えた。

そのマナの言葉にシンジは寂しそうに笑うと

「そうだね。マナの想いは分かる。それとは逆にアスカの気持ちは全然分からないんだ。確かにマナが言う通り、いまだに僕のコトを憎んでいるかもしれないね。」

「だったら、どうして?」

シンジは今までにない真剣な表情で、マナの鳶色の瞳を正面から見つめながら

「好きだから…。たとえどれほどアスカに嫌われていても…、憎まれていても、それでも僕はアスカが好きだから…。それが僕にとって、アスカでなければいけない理由なんだ!」

 

その言葉を聞いてマナはガックリと肩を落とした。 

好きだから…。

理由のない好意。

それは小学生でも言える稚拙な理論であったが、と同時に恋愛における至高の哲学でもあったからだ。

勿論、シンジは後者の意味として、その言葉を使ったのである。

マナはアスカに対する自分の完全な敗北を悟った。

 

マナの落ち込んだ様子を見て、シンジは慌てて

「ご…誤解しないで欲しい…。僕は最初からマナを逃げ場として見ていたわけじゃないんだ。三年前、はじめてマナと会った時は、間違いなく僕はアスカよりマナに夢中になっていたんだ。けど、今ではもう……。」

「……………………………………………。」

「僕も自分が馬鹿じゃないかと思う。マナみたいな優しい素敵な女の子より、自分を精神崩壊まで追いつめた今でも自分を憎んでいる女がいいなんてさ…。けど、それが嘘偽りのない今の僕の心からの本当の気持ちなんだ。」

「………シンジ。本当にいいのね?」

「えっ!?」

マナは俯いていた顔を上げて、鳶色の瞳に真剣な光を称えてシンジを睨むと

「シンジがどれほどアスカさんを想っても、アスカさんがシンジを受け入れてくれるとは限らないのよ!あたしにだって女の矜持があるんだから、シンジがアスカさんに拒絶された後で、再びあたしを求めても、もう絶対にシンジを受け入れたりしないからね。本当にそれでいいのね、シンジ!?」

「……………かまわない…。もう、二度とマナの想いを侮辱したりしない。」

シンジは真剣は表情で躊躇うことなく答えた。

 

それから、しばらく無言の時が続いたが

「シンジ、あたしは悪くないよね?」

「うん。マナは悪くない。今回の件は僕が全面的に悪いんだ。」

「一発、叩かせて…。」

「えっ!?」

意外そうな顔のシンジに、マナは真剣な表情をすると

「一発でいいからシンジを引っ叩かせて…。そうさせてくれたら、それで今までのことを全部チャラにしてあげる…。」

そのマナの言葉にシンジは軽く安堵すると

「いいよ。本当にそんなコトでよければ……。」

「………………………………………。」

マナはシンジの鼻先まで近づくと

「歯を食いしばって…。」

シンジは言われた通り歯を食いしばる。

「目を瞑って…。」

シンジは、どうして目を瞑る必要があるのだろう…と思いながらも、馬鹿正直にマナの言う通り目を瞑った。

シンジは頬を叩かれる衝撃を待っていたが

『えっ!?』

突然、マナの両腕でシンジは自分の頭の位置を下げらると、頬ではなく唇に衝撃を受けた。

唇に何か柔らかい感触を感じたシンジは、慌てて目を開けると目の前にマナの顔がある。

それはマナとシンジのはじめてのキスだった。

「マ…マナ…?」

シンジは慌てて、マナから身体を離した。

マナは無表情にシンジを睨むと

「シンジ…。あたしはそこまで物分かりの良い女じゃないよ。自分の気持ちを馬鹿にされて、それで黙って身を引けるほどね。」

「ど…どうして…。」

「別に、サヨナラのキスなんて言うつもりはないわ…。殴られるより、こうした方がシンジには堪えると思ったからよ…。それはそうよね。これからアスカさんに想いを告げに行こうって前に、別な女とキスしたわけなんだから…。」

「…………………………………………。」

「………乗り越えてみなさいよ。本当にアスカさんのことが好きだっていうのなら…。」

マナは再び憂いを帯びた表情で俯くと

「心配しないでいいよ、シンジ。約束通りこれで全てチャラにしてあげるから…。別にこれを理由にシンジを縛るつもりはないから…。」

「マ…マナ……。」

「……シンジ。三年前、最後シンジと別れた時のことを覚えている?そう、あのロボット事件で、あたしはシンジでなくムサシを選んだ時に言ったあの言葉を?」

「えっ!?」

マナは瞳を潤ませながらも、必死に泣くのを堪えながら

「その時、あたし言ったよね?シンジを楽にしてあげるって…、シンジをあたしから解放してあげるって確かに言ったよね?だから一度だけシンジの我が侭を許してあげる。」

「マナ……。」

 

 

「ちょっと、割り込んでもいいかな?」

その時、玄関の奥から男の声が聞こえてきた。

「お…お父さん!?」

マナは驚いた顔で、メガネを掛けた中年男性の姿を見詰める。

「今日はお母さんと一緒に出かけていたはずじゃ…。」

「予定が変わって寝室で今までずっと寝ていたんだよ。気がつかなかったのかね?それより玄関で大声が聞こえたので目を覚ましてしまったよ。」

マナの父親は、スタスタとシンジの方に近づくと

「はじめまして、君が碇シンジ君だね?娘から何度か君の話は聞いているよ…。」

「は…はじめまして…。」

シンジは後ろめたそうに頭を下げる。

マナの父親は、メガネの奥に真剣な光を称えながらシンジを見ると

「話は一応聞かせてもらったよ。碇シンジ君。客観的に見れば、男女間の別れ話しとしては、まあ君の態度は誠実な方だったと思う。だが、私はマナの父親だ。これは完全に私情だが、娘の想いを傷つけた君を私は許せない。私の言いたいことが分かるね?」

「はい……。」

 

バキッ! !ドコッ!! ベキッ!!

次の瞬間、玄関に鈍い擬音が響き渡った。

シンジは一切抵抗せずに、壁際に崩れ落ちた。

「お父さん。止めて!もういいの!だから止めて!」

マナは父親にしがみ付いて必死に叫ぶ。

マナの父親は無表情にシンジを見下ろして

「碇シンジ君。二度と娘に近づかないと、約束してくれるね?」

「は…はい。本当にすいませんでした…。」

シンジは立ち上がるとフラフラと扉の方へ向かっていく。

シンジは最後に再びマナの方を見ると

「さようなら、マナ…。」

そう別れの挨拶をして、扉の外へ消えていった。

「さよなら、シンジ…。」

マナは最後まで涙を見せずに、シンジの相対した。

 

「もういいんだよ、マナ…。」

そう言うと父親はマナを引き寄せて抱きしめた。

父親の胸の中でマナは今まで抑えていた感情を爆発させて、激しく泣きじゃくった。

「うっ…ひっく…。ううぅ…。シンジ…。シンジィ……!」

父親は優しい瞳で娘を見下ろしながら

「本当に彼のことが好きだったんだね…。」

マナは鳶色の瞳を涙で濡らしながらも、コクンと肯いた。

「マナ。実は委員会の仕事で、今度私は松代の方へ行くことになったんだ。かなり長期に渡りそうだから単身赴任する予定だったんだが、一緒にくるかね?」

「………………………………………。」

マナはしばらく黙っていたが、やがてコクリと肯いた。

この瞬間、少女の一つの恋が終わりを告げた。

 

 

 

 

「ふうっ…。やっぱり殴られなきゃ嘘だよな。僕を一身に慕ってくれた女の子にあんな酷いことをしたんだから…。」

シンジはハンカチで顔を拭いた後、バイクのミラーで自分の顔を確認してみたが、

「やっぱり腫れているか。とても、これから女の子に会いに行く面じゃないよな。」

ハンカチで血は拭ったが、シンジの顔には殴られた跡がそのまま残っていた。

「それにしても今日は本当にとんでもない日だよな。これからアスカに想いを告げに行こうって前に二度も別な女の子とキスしたんだから…。」

そう、考えてシンジは自嘲する。

シンジはチラリと腕時計を見ると、すでに時計の針は十時をオーバしていた。

「いけない…。早くしないと間に合わなくなる。」

シンジは慌ててバイクに跨ろうとしたが、

「!?」

急にシンジは金縛りに遭ったように動かなくなった。

バイクのスロットルに指を掛けようとしたが、なぜか指先が震えて動かない。

「な…なんだ!?この身体の芯から込み上げてくるような震えは…。」

 

次の瞬間、なぜかマナの最後の言葉がシンジの脳裏に浮かび上がってきた。

『本当にそれでいいのね、シンジ!?シンジがどれほどアスカさんを想っても、アスカさんがシンジを受け入れてくれるとは限らないのよ!』

「そうだった…。僕は自分の本当の想いに気がついたけど、それとアスカが僕を受け入れてくれるかは、まったく別な話しだったんだ。」

シンジは自分の想いに夢中になって、迂闊にもマナから指摘されるまでそのコトに気がつかなかった。

あの時のマナの言葉がボディーブローの効果を現し、今ごろになってシンジの臓腑を抉りはじめたのだ。

 

シンジはこの後に及んで再び恐れだした。

アスカに拒絶されることを…。

「アスカに会いに行って、もし拒絶されたら………………。」

その疑惑にシンジは心の底から寒気を覚える。

“相手にされていない”というケンスケの境遇の方がはるかにマシに思える。

自分は無視されているどころか、アスカに心の底から憎まれているのだ。

シンジには、『愛情の正反対は実は憎悪ではなく無関心』というレイの言葉が未だに信じられなかった。

とすると自分はこれから、自分を世界中の誰よりも憎んでいる少女を相手に、自分の想いを伝えにいくつもりなのだ。

その事実にシンジは目眩に似た絶望を覚えた。

 

「こ…こんなに他人を恐いと思ったのは、生まれてはじめてだ…。僕には、アスカの気持ちが分からない…。あれだけ身体を重ねたのにアスカの心がまるで見えない…。」

シンジは身体全体を震わせながら、胸にぶら下げた十字架のペンダントを強く握り締めて

「父さん…。今なら、自分の野望に世界を巻き込むことも、死ぬことさえも恐れなかった父さんが、僕みたいなひ弱な子供を本気で恐がったのも心から理解できるよ。僕も今アスカが恐くて仕方がないんだ。これが本当に人を好きになるっていうことなんだね。」

土壇場にきてシンジはアスカに会うことを恐れ始めた。

それは、アスカの気持ちが分からない故の、アスカに対する恐怖心だった。

 

「父さん…。僕は一体どうしたらいいんだろう?」

シンジは再び自分の行動を迷いはじめたが、今のシンジに熟考する猶予は許されていなかった。

アスカが日本から飛び立つタイムリミットは刻一刻と近づいているからだ。

時は容赦なく過ぎ去っていき、シンジはさらなる焦慮にかられる。

シンジは否応無しにアスカに対する決断を迫られれた。

「ま…まだ、僕にはアスカの全てを受け止めるなんて無理なのかもしれない…。いつか、もっと自分に自信が持てるようになった時にアスカに会いにいけば…。」

一瞬、シンジの脳裏に弱気な思考が翳めた。

最後の最後に、シンジがこの三年間でたった一つ乗り越えられなかった“アスカ”という壁が再びシンジの前に立ち塞がった。

 

 

その時、啓示のようにシンジの頭の中に何かが響いた。 

『シンジ、強く生きろ!そして本当に大切なモノがあるのなら絶対に死んでも手放すな!でないと一生後悔することになるぞ…、かつての俺のようにな…』

シンジはハッとする。

それは夢の中で、シンジの父親であるゲンドウが最期にシンジに語った想いだった。

「父さん……。」

シンジは十字架のペンダントを見つめながら、

「ははっ…。また、逃げ出すところだった…。それも最後の土壇場になって…。」

先程まで絶望の色に染まっていたシンジの黒い瞳が、少しずつ希望の光に彩られていく。

「そうだよね…。父さんは母さんを失ったことを死ぬほど後悔して、もう一度母さんを取り戻す為に全てを犠牲にしたんだよね。僕は本当に馬鹿だ。危うく父さんと同じ悲劇をまた繰り返すところだった!」

シンジは再び十字架のペンダントを強く握り閉めると

「父さん、約束したよね?僕はもう一度アスカを取り戻してみせるって…。けど、僕は父さんみたいに、死んでからアスカに会うなんてのは御免だよ。僕は父さん達がやろうとしていた補完計画を否定したんだから! だから僕は父さんとは違ったやり方で、もう一度アスカを取り戻すんだ。」

 

「逃げちゃ駄目だ!」

シンジはその言葉と共に、心の底から勇気振り絞って、アスカに対する恐怖心を力ずくでねじ伏せた。

その瞬間、シンジはこの三年間で克服できなかった最後の壁を、自らの力で乗り越えることに成功した。

 

シンジは気がついていなかった。

悩んだのは本当に僅かな時間だったが、シンジのこの決断は、彼の今後の運命を左右する人生のターニング・ポイントであったという事実を…。

なぜなら、もしシンジが自分の心に負けてしまいアスカに会いにいかなかったら、シンジは二度と再びアスカを取り戻すことは叶わなかったのだから…。

 

 

シンジはバイクに跨るとスロットルを回して、空港へ向けてバイクを発進させる。

この時のシンジの黒い瞳に迷いや戸惑いは欠片も存在しなかった。

『アスカ…、今いくよ。三年前、君が絶望の底から必死に助けを求めていたのに、僕は君に救いの手を差しのべられなかった。けど、今なら…憎しみも悲しみも君の全てを受け止めてあげられると思う…いや、絶対に受け止めてみせるよ。今度こそ必ず!」

  

つづく…。

 

 

 

 

 

 


NEXT
ver.-1.00 1998+11/09公開
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けびんです。

ラスト三部作のトップは、シンジの三年前の戦いから今に至るまでのアスカへの想いを、もう一度見つ直した総まとめのような回だったので、文章全体がやや論調っぽくなったような気がします。

(なんか、最後の辺りはシンジの独り芝居という気がしないでもないでしたし…)

今回(そして多分次回も)心理描写やナレーションに若干ノイズが入り混じっていますが、それは極めて作者の個人的な事情(トラウマともいう)から混入されたモノなので、あまり深く気にしないでください。

 

今回の展開で、他のことは何でも前向きにうまくこなせるシンジが、たった一つアスカに対して極端に後ろ向きで臆病になってしまう原因がハッキリしましたね。

EOEを皮切りに前章でのアスカとの地獄の共同生活から十話の自己啓発セミナーへと続く一連の流れは、真っ当な少年の成長物語というよりは、むしろ劇薬を使った荒治療に近いものがあったので、後章で一見立ち直ったように見えるシンジにとんでもない副作用が潜んでいたというわけです。

つまりは劇薬治療の効果により、シンジは“自己肯定出来ない”という病を治癒出来ましたが、劇薬故に“アスカが恐い”という副作用が生じてしまったわけです。シンジはアスカがいない場所で成長を続けていたので、アスカに出会うまでその副作用に気が付かなかったわけですが…。

 

アスカでなければいけない理由…

最も単純な解答に落ち着きました。

『第十一話の後書きで偉そうな事を言っておいて、結局、見つかった答えはそれかい!』と言う人もいるかもしれませんが、私的には『アスカでなければいけない理由』でこれ以上説得力のある理由は他にないと思います。

むしろ、『ヒトを好きになるのに理由はいらない』が僕の本来の持論なので、ヒトを好きな理由を明確な理屈で説明出来る方がよっぽど怪しいかな…と個人的には思っている次第です。

ようは、シンジが「理由なんかないけどアスカが好きだ!」と自信を持って宣言してくれさえすればそれでよかったわけです。(本編・鋼鉄・EOEのシンジはどうしてもそう見えなかったもので…。(涙))

これに関しては色々な考え方があると思うのでご意見お待ちしております。

 

そしてマナちゃん。結局、当て馬で終わってしまいました。

マナリアンの方には本当に申し訳ないことをしたと思っています。

自分なりに頑張ってはみたのですが、外伝まで書いておきながら、どうも僕は最後まで、一人の個性ある女の子としてより、アスカの対比としてしか、“霧島マナ”というキャラクターを見れなかったような気がします。(これは十分反省すべき課題だと思います。)

その結果、最後にもっとも辛い役目をマナちゃんに背負わせてしまいました。

マナ派の人にとっては、或いは余計なお世話かも知れませんが、マナに対しては、一応外伝(というより続編か)補完を考えているので、マナの行く末をしばらく見守ってもらえたら幸いです。(自分は余りモノの発想はあまり好きではないので、本編補完はまず無理ですので…。んっ…。そういえば十話で何の脈略もなく、レイとカヲルをくっつけてしまったような…。(死後の話だったけど。))

 

最後に、夢だか現実だか分からない、かなり曖昧な形ではありましたが、今回久しぶりにエヴァのもう一人のヒロインである綾波レイちゃんに登場してもらいました。

彼方此方で囁かれていたことですが、“綾波レイ”って本当にエヴァで一番描くのが難しいキャラクターですね。

自分はシンジに対するレイの想いと、レイに対するシンジの想いを可能な限り正当に評価しているつもりですが、それでもアヤナミストの人から見て満足する“綾波レイ”が描けたとは到底思えませんし…。

綾波な方から意見を聞かせてもらえたら嬉しいです。

 

何はともあれ、長い間続いたシンジとアスカの二人の心の補完も次回いよいよクライマックス。

第二十五話「I need You」でお会いしましょう。

では。

 


 


 けびんさんの『二人の補完』第二十四話、公開です。







 おぉぉぉおっっっ


 ついに、
 ついに、

 シンジがいけたぁ

 ついに。



 いやぁ

 この時をどれほど待ちわびたか(^^)



 バイクのスロットルを捻れないとなった時には
 心の中で「背中プッシュ音頭」を歌っていました   ←作詞作曲:神田


 ゲンドウオヤジ!
 うぅぅ親だな。。。!




 よしよし、これで、これで。


 ・・・・・・まだ波乱はあるのかな?





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