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午前十一時。

第三新東京都市国際空港。

『イミグレーションをくぐったら、そこから先はもう日本じゃなくなるのよね…。』

カウンターで搭乗手続きを済ませたアスカは、空港のラウンジでコーヒーを啜りながら、日本での最後の感慨に耽っている。

アスカは脇に置いてあるボストンバッグから一枚の写真を取り出すと

「シンジ……。」

蒼い瞳にやや憂いを帯びて、黒髪の少年の写った写真を見つめる。

結局、捨てられなかった。

シンジへの想いは…。

だが、今ではアスカはそれでもいいと思っている。

そう、捨てられるはずなどないのだ。

自分の心からの本当の想いを封じることなど、誰にも出来るはずがなかったのだ。

たとえ、もう自分にその資格がないとしても…。

 

チラリと腕時計を見たアスカは

「もう、こんな時間か…。そろそろ、行かないと…。」

アスカは席を立ち上がると会計を済ませてラウンジから出ていった。

イミグレーションの前に着いたアスカはタイムテーブルを見上げる。

正午発のベルリン国際空港行きの飛行機は予定通り搭乗を開始している。

 

「いよいよ、これで日本ともお別れか…。」

日本を離れるアスカの心は意外に落ち着いた境地に辿り着いていた。

 

アスカはやや頬を赤らめて、左手で軽くお腹の辺りを撫で始めると

「子供…、出来てるといいな……。」

ハッキリ確かめたわけではないが、アスカの中には確信に近いものがあった。

ここ最近、自分の身体に何度かその兆候が現れていたからだ…。

「本当に不思議よね…。三年前は子供なんか絶対にいらないって思い込んでいたのにね。」

恐らくはサエコのお陰であろう。

女であることを否定されながらそれでも強く健気に生き抜いたサエコが、女であることそのものを嫌悪していたアスカの、その後の生き方に与えた影響力の大きさは計り知れなかった。

「ママが、子供を産めるのは女性にとって本当に大切な権利だってあたしに身を以って教えてくれたから、きっとあたしは女である自分とこの子を受け入れることが出来たんだろうな…。」

この時のアスカの表情は、今までにない母性的な暖かさとやわらかさに満ちていた。

『もし、この身体にシンジの子供が宿っていたら、あたしはその子を支えにして、これから一生生きていくことが出来る。』

あえて病院で調べたりはしなかった。

妊娠が確かなものだと分かったら、それを理由にシンジを縛ってしまいそうな気がしたから…。

『もうあたしはどんな形でもシンジを縛ったり苦しめたりしないって決めたの…。』

アスカはシンジに対する微かな未練を振り払うように、そう自分自身に言い聞かせた。

もう二度とシンジには近づかない。

それが、一度シンジを不幸にした“罪”を背負ったアスカが、自分自身に課した“罰”だった。

 

アスカが再びタイムテーブルを見上げると、ベルリン行きの便の搭乗ランプが点灯していた。

「そろそろ時間ね。」

もう再び日本に戻ってくることはないだろう。

これでシンジとは終生の別れとなるはずだった。

アスカは再びシンジの写真を見つめながら

『さようなら、シンジ…。あたしの最初で最後の男性(ヒト)。せめて一生シンジを想って生きていくことぐらいは許してくれるよね?』

アスカは写真をボストンバッグにしまうと、後ろ髪を引かれるような想いを振り払いながら、イミグレーションのゲートに向かっていった。

 

その時、

『!?』

突然アスカはその場に立ち止まった。

一瞬、自分を呼ぶ声が聞こえたような気がしたからだ。

アスカは、キョロキョロと周りを見回した後、

「……………気のせいよね。今日は見送りは誰もいないはずだし…。」

 

「アスカ〜!」

『!!』

再び声が聞こえる。

自分を呼ぶ男性の声が…。

「確かに聞こえたわ。それも、シン…!」

アスカは慌ててその先の言葉を飲み込むと

「そんなわけないか…。今更あいつがあたしを…。」

自分の心の未練が生み出した幻聴だろう。

そう考えたアスカは、やや自嘲しながら軽く溜息を吐き出した。

 

「アスカァ〜!!」

「!?」

今度はハッキリと聞こえた。

アスカの良く知る懐かしい男性の声が…。

「う…嘘!空耳じゃないの!?」

ドックン! ドックン! ドックン!

アスカの心臓の鼓動がどんどん高鳴っていく。

そ…そんなはずない…。そんなこと絶対に有り得るはずないんだ。そんな虫の良いこと…。

そう思いながらも、アスカは一縷の未練に引っ張られるように恐る恐る後ろを振り返る。

その瞬間、アスカの蒼い瞳に映ったものは…

 

シンジ!?

 

 

 

「二人の補完」

 

 

  第二十五話 「I need You」

 

 

 

「アスカ!そこにいたんだね!」

アスカの姿を見つけたシンジは人垣を掻き分けながら真っ直ぐアスカの方へ向かってくる。

 

う…嘘でしょう。どうしてシンジがここに?

シンジの姿を視界に捕えたアスカは、両手で口を抑えながら、信じられないモノでも見るような目でシンジを凝視し続ける。

ただ、見送りにきただけ?

それとも、あたしを引き止めにきてくれたの?

だが、アスカはハッとすると

に…逃げなきゃ!

 

『クスクス。どうして、逃げるの?』

『何も悪いコトしていないんでしょう?』

 

う…うるさいわね!とにかく逃げなきゃいけないのよ!

アスカは心の内から聞こえてくる声を振り払うと、クルリと踵を返してシンジから逃げようとした。

「ま…待ってよ!アスカ!」

シンジが必死に自分を呼び止める声がする。

ごめん、シンジ。あたしはシンジと一緒にはいられないのよ!

アスカは心の中で少年に謝罪しながら、イミグレーションに飛び込もうとしたが

な…なに!?あ…足が震えて動かない!?

アスカの身体はアスカの脳からの命令を無視してその場で停止した。

な…なんで動かないのよ!?このままじゃシンジに捕まっちゃうじゃないの!

ふと、アスカは気づいた。

自分は心の奥底で、そのコトを望んでいたのだ。

 

「アスカァ!!」

シンジは後ろからアスカの左手を捕まえた。

その瞬間、アスカの身体に稲妻のような痺れが走った。

「い…いやあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

シンジに腕を捕まれたアスカは甲高い悲鳴を上げる。

「ア…アスカ!?」

「いやあぁぁぁぁぁぁぁ!!!! 嫌! 嫌! 嫌! 嫌! いやあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

シンジ再会という予期せぬ事態に、心の準備がまったく出来ていなかったアスカは、半端パニックに陥った。

「ちょ…ちょっと…どうしたんだよ、アスカ!?」

突然悲鳴を上げたアスカにシンジは狼狽しながらも、アスカの両腕を掴んで必死にアスカを宥めようとするが

「うるさい!うるさい!」

だが、アスカはシンジの中で激しく暴れまわる。

「と…とにかく、落ち着いてよ!アスカ!」

「うるさいわね!さっさと離してよ、このスケベ!」

「そ…そんな、僕はただ話しをしに…」

「今更、何よ!?あたしはもうあんたなんかと話すことはないわよ!」

「ちょ…ちょっと、アスカ…」

「離せ!離せ!離せぇ〜!!」

アスカのヒステリーは一向に収まる気配を見せなかった。

シンジがチラリと周りを見回すと、周りの旅行客が瞳に好奇心を称えてジロジロと二人の狂態を見つめている。

さらにアスカの悲鳴を聞きつけたらしい空港の警備員がこちらに近づいているのが目に入った。

 

まずい!

そう思ったシンジは反射的に強硬手段に訴えた。

『えっ!?』

アスカがそう思う間もなく、シンジは突然アスカを自分の胸元に引き寄せると、そのまま強引にアスカの唇を奪った。

「ん…んぐぅ!?」

シンジはアスカの唇を塞いだまま、今度はアスカの細いウエストに両腕をまわすと、背骨が折れるような強い力で、強く強くアスカを抱きしめた。

『シ…シンジィ…。』

アスカの蒼い瞳が潤み始める。

シンジに抱き留められているうちに、先程まで暴走していたアスカの抵抗力が少しずつ減少していく。

やがてアスカはシンジの中でグッタリと動かなくなった。

「ぷっ…はぁ……!」

アスカの活動が完全に停止したのを確認して、シンジはアスカから唇を外すと、抱きしめていた両腕を離す。

するとアスカは全身の力が抜けたように、へなへなとその場に崩れ落ちてしまった。

 

周りのヒュー、ヒューという冷やかしの声にシンジは我に返った。

そして咄嗟の判断とはいえ、衆人環視の中で大胆な真似をしでかした自分自身に赤面する。

「そ…その、い…いきなりこんなことして、ご…ごめん。」

シンジは頬を林檎のように真っ赤に染めながら、アスカに謝罪する。

「……………………………………。」

アスカはへたり込んだまま惚けた表情でじっとシンジを見詰めている。

だが次にシンジはこれ以上なく真剣な表情をすると

「けど、もう嫌なんだ!自分の本当の気持ちも伝えられずに、アスカの真意も分からずにこのまま終わるのだけは絶対に嫌なんだ!だから、お願いだから話しを聞いて欲しいんだ、アスカ!」

シンジは軽くアスカの両肩を掴むと、真摯に自分の想いをアスカに訴える。

「………………………………………。」

そのシンジの言葉を聞いて、アスカの蒼い瞳にみるみる理性の光が回復しはじめた。

 

「君、ちょっと来てもらおうか!」

「空港内で堂々と痴漢行為とは、最近のガキは良い度胸してるな!」

シンジは後ろから現れた二人のガードマンに羽交い締めされる。

「ち…違います!僕はただアスカに…。」

「言い訳は事務室で聞くからとにかく来てもらおうか!」

「離してください!僕はまだアスカに何も伝えていないんです!今、アスカから離されたら困るんです!」

ガードマンは聞く耳もたずに二人掛かりでシンジを引きずっていこうとする。

「アスカァ〜!!」

シンジはアスカに向かって手を伸ばすが届かなかった。

 

「君、大丈夫かね?何かあの男に乱暴されなかったかい?」

ガードマンの一人がしゃがみこんでいるアスカに声を掛ける。

「……………………てください。」

「えっ?」

「シンジを…あの男の人を離してあげてください。あの人は私の知り合いです。」

「何だって!?」

「さっきは錯乱して大声を出してすいませんでした。シンジは確かにあたしの知り合いなんです。だから離してください。お願いします。」

そう言ってアスカは慌てて立ち上がると、ガードマンに頭を下げた。

 

「……………………………………………。」

男は少しアスカの言葉を吟味した後、アスカの側を離れてシンジの方に近づくと

「君、名前はなんというんだね?」

「い…碇シンジといいます。現在、高校生です。」

「ふむ。確かに彼女が言った名前と一致しているな。」

男は他の二人に軽く事情を説明して、この件をどう扱うか思案しはじめる。

「ふ〜ん。とすると痴話喧嘩か何かか?」

「とにかくこの兄ちゃんが、彼女の知り合いであることだけは確かみたいだ。」

「で、どうする?」

「拘束して詳しく事情を聞きたいところだが、それが原因で飛行機に乗り遅れてしまう可能性もあるしな…。」

「まあ、どうやら、ただの痴情の縺れみたいだしな…。」

「う〜む。」

三人はその後2〜3分ほど軽く話し合った後、シンジを離すと

「とりあえず今回は見逃すけど、二度と騒ぎを起こさないようにな!」

「はい、本当にスイマセンでした。」

シンジは持ち場に戻っていく警備員に深々と頭を下げた。

 

シンジはアスカに近づくと、照れくさそうに軽く頭を掻きながら

「そ…その……ありがとう。助けてくれて…。」

「……………………………………………。」

アスカは頬を染めて俯いたまま何も答えない。

ふと気付くと周りがやたらざわめいているような気がする。

シンジがチラリと周りを見渡すと、先の捕物騒ぎも重なって二人は完全に衆人の注目の的になっていた。

「ア…アスカ。話しがしたいんだけど、とりあえず場所を変えてもいいかな?」

「……………………。」

シンジは軽く頬を染めながらアスカに尋ねると、アスカは無言のままコクンと肯いた。

そのアスカの態度にシンジは軽く安堵すると、刺すような好奇の視線の中を、アスカの手を取って移動し始める。

今度はアスカは抵抗しなかった。

 

 

 

 

「ここらへんでいいかな?」

二人は別フロアの比較的人通りの少ない場所に腰を落ち着ける。

「ふうっ…。」

アスカはボストンバッグを脇に置くと、左手で軽く髪を掻き上げる。

その、さり気無いアスカの仕種にシンジはドキリとする。

アスカの腰まで届く豪奢なブロンドの髪が揺れるつど、キラキラ光輝く粒子があたりに振りまかれるような錯覚すら覚えた。

『こうして見るとアスカって本当に奇麗なんだな…。』

シンジは頬を軽く染め、ドキドキ心臓を鳴らしながら、柄にもなくアスカの姿に見惚れはじめた。

「…………………!?」

シンジの視線に気付いたアスカは、頬を真っ赤に染めると

「な…何、ジロジロ見てるのよ!?」

「ご…ごめん。」

「…………………………………。」

アスカはチラリと腕時計を見た後、

「……で、話しって何よ?時間がないんだからさっさと済ませてよ!」

アスカはあえてそっけない態度でシンジに尋ねる。

 

そのアスカの言葉にシンジは両目を瞑ると、気持ちを落ち着かせるように軽く深呼吸をする。

シンジの右手は無意識のうちにゆっくりと閉じたり開いたりを繰り返している。

そうしているうちに真っ暗な瞼の裏に、今日ここまで歩んできた自分の人生の軌跡が思い浮かんできた。

 

三歳の時、エヴァの起動実験の失敗を契機に母親と父親を同時に失った時のこと…

それ以来父親に捨てられたと思い込んで、何もしなかった14歳までの生活のこと…

父親に呼ばれて第三新東京都市に来てからの使徒との戦いのこと…

自分の心の弱さからサードインパクトを起こしてしまった時のこと…

サードインパクト後、狂気に陥ったアスカの復讐の的になり、心が壊れるまでアスカと過ごした地獄のような共同生活のこと…

大切なモノを見つけて、もう一度自分の意志で現実へ戻った瞬間(とき)のこと…

アスカを失って泣きながら、強くなって再びアスカを取り戻そうと決意した三年前の誓いのこと…

それ以来、前向きに自分自身を高めようと努力してきた三年間の生活のこと…

そして、ようやくアスカへの本当の想いを素直に認められるようになった今の自分のこと…

 

ほんの数秒の刹那にシンジの魂は、まるで走馬灯のように過去の世界を彷徨い、自分の十七年間の人生をトレースする。

それに伴い、自身の歩んできた確かな人生の重みを肌で感じることによって、先程まで乱れていた心が少しずつ落ち着いていく。

心を過去から現実へ引き戻した時、シンジは完全に自分自身を取り戻した。

ようやく全ての覚悟が完了した。

 

シンジがゆっくりと瞼を開けると、再びアスカの全身の姿が視界に飛び込んでくる。

何時の間にかシンジは閉じたり開いたりを繰り返していた右手の拳を強く握り締めている。

シンジは今までにない真摯な表情でアスカを見つめながら

「アスカ…。僕は本当に馬鹿だから、未だにアスカの気持ちが全然分からないんだ。だから、まず最初に僕の気持ちを言うね。」

「…………………………………………。」

アスカは黙って上目遣いでシンジを見つめている。

ドックン! ドックン! ドックン! ドックン! ドックン! ドックン!

アスカはさり気なさを装っていたが、心臓が破裂しそうなぐらい高鳴っていた。

 

「アスカ、愛してる。
たとえアスカがどれほど僕を嫌っていても、憎んでいたとしても、その想いだけは絶対に変わらない。」

 

『!?』

その言葉を聞いた瞬間、アスカはハンマーで心臓を直撃されたような衝撃を受けて二・三歩よろめいた。

『シ…シンジィ…。』

アスカの蒼い瞳が一瞬潤み始める。

だがアスカは崩れ落ちそうになる自分の心を必死に支えながら

「あ…あんた、本当に馬鹿〜!?今でも自分を憎んでいるかも知れない女に向かって何言ってるのよ!?ましてや、あんた、あたしに殺されかけたのよ!本当にそれが分かってて言ってるの!?」

内心の動揺を隠すために、アスカは可能な限り不遜な態度を装ってシンジに詰め寄った。

シンジは表情を崩して軽く微笑みながら

「うん、分かってるよ。本当に三年前のコトを怨んでなんかいないんだ。むしろ、今では感謝しているぐらいだよ…。」

「か…感謝!?あんた、自分を殺しかけた女に何言ってるのよ!?」

アスカは心底驚いた表情でシンジを見る。

シンジはやや自嘲するような表情をすると

「……三年前、精神が壊れていたのは決してアスカ一人だけじゃなかったんだ。あの時の惰弱な僕には自分で自分を肯定することが…、自分の足で立って現実の世界を生きていくことが出来なかったんだ。だから、その逃げ場として僕はアスカを求めたんだ。」

「……………………………………………。」

「だから、もしあの時アスカが僕を受け入れてくれてたら、きっと僕は今頃アスカに依存することでしか生きられなかった本当に情けない男になってしまっていたと思う。
いつかはアスカはそんな僕に愛想を尽かして僕から離れていったんじゃないかな?
そして、その時こそ僕は間違いなく死ぬか狂うかして二度と立ち直れなかっただろうね。
そう考えれば、一度僕が壊れたのは早いか遅いかの差でしかなかったんだ。」

「シ…シンジ…。」

「むしろ、アスカが極めて早い段階で僕の性根を根本から叩き直してくれたから、僕は今では自分の足で立って現実の世界を生きていけるようになったんだ。だから、アスカには本当に感謝してるよ。」

そう言ってシンジは悪戯っぽく微笑んだ。

「……………………………………。」

アスカは毒気を抜かれたような唖然とした表情でシンジを見つめている。

 

シンジは再び真剣な表情をすると、軽くアスカの両肩を掴んで、

「アスカ。三年前、君が苦しんでいた時に助けてあげられなくて本当にゴメンね。
あの時の君の憎悪を正面から受け切れずに逃げてしまって本当に済まなかった。
つい最近も、つまらないコトでアスカを責めたりして本当に申し訳ない。」

シンジは三度、男としての自分の未熟さをアスカに謝罪する。

「……………………………………。」

アスカはややシンジから顔を背けたまま何も答えない。

「こんなコトばかりしてたらアスカに憎まれるのも無理はないと思う…。けど、無理を承知でお願いするけど、これからも僕の側にいてくれないかな?僕は本当にアスカが好きなんだ。アスカの奇麗な心も醜い感情も全てを含めて惣流・アスカ・ラングレーという女の子が大好きなんだ。」

『シ…シンジィ……。』

アスカの瞳が潤みはじめる。

シンジの純粋(ピュア)な想いに、アスカの心が再び揺れ動きだした。

「だから、一緒にいてよ、アスカ。僕が憎ければ、いくらでも憎んでいいから…。三年前みたいに復讐しても全然かまわない…。今度こそ、憎悪も含めたアスカの全てを正面から受け切って、いつかは僕のことを好きにさせてみせるから…。」

シンジは軽く微笑みながら、迷いのない瞳で真摯に今の自分の気持ちをアスカに訴えた。

 

パリーン!

アスカの中で何かガラスが砕け散るような音がした。

それはシンジの言葉が、アスカのATフィールドを粉々に粉砕した瞬間だった。

『こ…こいつ馬鹿だ!本当にバカシンジだ…。あたしの気持ちも知らずに勝手なことばかり言って……。どこまで鈍感なら気が済むのよ!?』

アスカは突然シンジのシャツの襟首を強く掴むと

「………………………てる。」

「今、何て言ったの、アスカ?」

「愛してる…。」

「えっ!?」

アスカは蒼い瞳からぽろぽろと涙を流しながら訴えるよう目でシンジを見つめる。

もう限界だった。

これ以上“自分がシンジを憎んでいる”とシンジに思われていることにアスカは耐えられなかった。

アスカは今まで抑え込んできた感情の全てを爆発させた。

「愛してる!本当に愛しているの!あたしは三年前からずっとシンジのことが好きだったの!」

「ア…アスカ……。」

アスカはそのままシンジの胸に顔を埋めると

「お願い!信じて、シンジ…。何度もシンジを裏切り続けてきたあたしが今更こんなコト言っても説得力がないのは分かってる!けど、この気持ちだけは本当なの。シンジへの想いだけは偽りじゃないの…。それだけは……。」

アスカは何度も鳴咽を漏らしながら強くシンジに取り縋った。

 

「…………………………………………。」

シンジは瞳に思慮深い光を称えてアスカを見詰めていたが、ふと表情を和ませると

「信じるよ…。」

「えっ!?」

アスカは涙に濡れ細った顔を上げてシンジを見る。

「ほ…本当に信じてくれるの?何度もシンジを騙したあたしを?」

「うん!」

シンジは優しい笑顔でアスカに微笑みながら力強く肯いた。

短い返答だがシンジの言葉には誠意と暖かみが篭っている。

そしてシンジは両手をアスカの背中にまわすと、軽くアスカを抱きしめる。

「シ…シンジィ…。」

シンジに抱き留められ、逞しいシンジの胸板に顔を埋めたアスカの蒼い瞳が潤んだ。

まどろみのような心地よさにアスカの思考が麻痺しはじめる。

『ずっと、シンジとこうしていたい…。』

だがアスカはハッと気がつくと、理性を総動員してその甘美な誘惑を必死に跳ね除ける。

このままその身をシンジにまかせることが出来たらどれほどいいことか…。

だが、それは今のアスカには決して許されないことだった。

 

 

アスカは歯を食いしばって自分を鞭打つと、あえて自分からシンジの腕を振り解いてシンジから離れた。

「ア…アスカ?」

シンジは意外そうな顔で自分から距離を置いたアスカを見る。

アスカは一瞬顔を背けた後、辛そうな表情でシンジを見ながら…

「シンジ、ごめんなさい。」

「えっ!?」

アスカは本当に申し訳なさそうな表情で

「シンジがあたしのことを愛している…と言ってくれた時は本当に嬉しかった。けど、やっぱり駄目なの…。だから、このままドイツに帰るね。」

「アスカ、どうして!?」

そのシンジの言葉にアスカは再びぽろぽろと涙を零すと

「あたしもシンジと一緒にいたい。けど、そんなこと絶対に許されないのよ!あたしはシンジと一緒にいちゃいけないのよ!」

「許されない!?」

アスカはシンジの前で、自分の両手を広げると

「あたしはこの手で多くの人間を殺したの!多くの人間を不幸にしたの!そう、あたしのこの手は血で真っ赤に染まっているのよ!だから、あたしには最初っから幸せになれる権利なんて何もなかったのよ!」

「アスカ………。」

アスカは憂いを帯びた表情で俯くと

「再びシンジと一緒にいられた時は本当に楽しかった…。けど、それを失った時、あたしははじめて気付いたの。これは一度シンジを不幸にしたあたしに与えられた罰なんだって…。」

「罰!?」

「そう、罰よ!だからあたしはシンジと一緒にいられないのよ!シンジと一緒にいることそのものがあたしにとっては罪なんだから……。」

「……………………………………………。」

アスカはシンジのシャツの襟首を掴むと

「シンジ…、本当に立派になったね…。
けど、あたしはそんなシンジから一度全てを奪ったの。
それも知らない間にシンジを不幸にしていたなんて次元じゃない。あたしはシンジを傷つけようと…シンジを不幸にしてやろうという明確な悪意を抱いて、シンジを奈落の底に突き落としたのよ!
だから、たとえシンジがあたしを許してくれたとしても、あたしは自分が許せないのよ!自分が………」

そう言ってアスカは、シンジのシャツを強く掴んだまま、鳴咽を漏らした。

 

 

『そうか、アスカ。君は今その場所にいるんだね。』 

シンジは今までにない強い親近感をアスカから感じていた。

“罪と罰”というテーゼに悩み苦しんでいる今のアスカの姿は、確かにかつての自分自身の姿でもあったからだ。

そう、三年前自分が通った道を、今まさにアスカが歩んでいるようにシンジには思えてならなかった。

この時シンジは、分かり合えない他人だと思いこんでいたアスカを、はじめて身近な存在として感じることが出来た。

 

『それにしても…。』

正直シンジは心底驚いていた。

かつては『内省』という言葉とまるで無縁だったアスカが、自身の幸福に負い目を感じられるほど、精神的に成長していたという現実にである。

きっと、シンジの知らない三年の間に、アスカにもシンジとは違った苦労と葛藤があったのだろう。

だが、アスカの悩みの種類がそういう類のものであれば、今度こそ自分の今日までの体験がアスカの為に役立つかもしれない。

いや、きっとアスカと離れたシンジの三年間は、この為に存在したのだろう。

シンジは心からそう信じた。

いずれにしても、シンジがこの三年の間に自分で見つけた答えが紛い物であるか否かは、これからアスカを通じて試されることになるはずだった。

 

シンジはわざとおちゃらけた表情をすると

「な〜んだ、そいつは残念だな。アスカが僕を愛しているって言ったのは嘘だったのか…。」

「えっ!?」

そのシンジの声にアスカは驚いて顔を上げる。

「嘘ってどうしてよ!?あたしは本当にシンジが……」

「だって、アスカは僕と一緒にいるより、自分を罰する方を選ぶわけだろう?」

「そ…そうよ。だって…」

シンジはその先をアスカに言わせないように先手を取って

「アスカ。愛情の定義や形は色々あると思うけど、僕は本当の愛情は相手の幸福を願えることだと信じている。僕も何度かアスカのことを諦めかけたことがあったけど、それはその方がアスカが幸せになれると思ったからなんだ。だったら、お互いの気持ちが分かった今なら、アスカが本当に僕を愛しているのなら、尚更僕の為に僕の側にいてくれる…そう思っていたんだけど、どうやらアスカの考えは違うみたいだね。」

「シ…シンジ…。」

「それともアスカの想いはそんなモノなの!?僕を愛している…と言ってくれたアスカの僕への想いは“罰”なんていう自己満足に負ける程度のちっぽけなモノでしかなかったの!?」

そのシンジの言葉にアスカは辛そうに顔を背けると両耳を塞ぐ。

『ははっ…。何言っているんだろう、僕は…。つい最近までアスカへの想いすら分からなかった奴が偉そうに愛情について講釈するなんてな…。』

そう考えてシンジは自嘲する。

何より、このような言い方をした自分自身にシンジは自己嫌悪を感じた。

だが、これはまず最初に確認しておかねばならないことだった。

 

シンジは項垂れたアスカを申し訳なさそうな表情で見下ろしながら

「ごめん、アスカ。今の言い方はかなり卑怯だったよね…。」

「…………ううん。そんなことない…。たぶん、シンジの言っていることは正しいと思う…。けど……」

そこでアスカは辛そうに口篭もった。

「そう、どうあってもアスカは自分が許せないんだね?」

「…………………………………………。」

「アスカ。もう一度言うけど、“罰”なんてのは本当に只の自己満足だと思う。けど、それとは別に“罪”に縛られているアスカの気持ちも僕には分かるんだ…。」

「えっ!?」

シンジはやや自嘲するような表情をすると

「僕もアスカと同じ“罪”を背負った人間だからね。」

「あっ!」

その言葉にアスカは口元を抑えた。

アスカにはシンジの言葉が何を指しているのか、すぐに分かった。

サードインパクト。

それにより永遠に帰らない十億の人々。

自身の抱えている“戦自殺戮により数千人を殺した”という罪とは、比較にならない大きな罪をシンジが背負っているという事実をアスカは思い出した。

そして、アスカの胸がズキリと痛んだ。

それすら三年前アスカが無理やりシンジに背負わせようとした、アスカの抱えている罪の一つだからだ。

そのことに気付いたアスカは、かえって後ろめたそうな表情でシンジから顔を背けた。

 

シンジはアスカの今の心境を察すると、

「ねぇ、アスカ。この間、三春学園で出会ったサキちゃんとマナブ君という昔の僕たちに似た子供たちのことを覚えているかい?」

「…………………………………………。」

アスカは黙ってコクリと肯いた。

シンジは一呼吸置いた後、意を決して

「実はサキちゃんもマナブ君も、ううん、三春学園の子供たちは皆、サードインパクトで両親を失った孤児なんだ。」

「……………!?」

そのシンジの言葉にアスカは心底驚いた表情でシンジを見る。

『あの二人がサードインパクトの直接の被害者なの!?』

アスカは三春学園でのシンジと子供たちの交流を思い浮かべる。

サキもマナブもその他の子供たちも皆、シンジを実の兄のように慕い完全に心を開いていた。

それだけなら納得出来ないこともない。

シンジの子供たちに対する態度がアスカには不可解なのだ。

シンジ自身も一切負い目を感じることなく、まるで実の兄弟のようにサキやマナブに接していたように思える。

サードインパクトの被害者である三春学園の子供たちに対する自分の立場が分からないシンジでもあるまいに…。

 

シンジは再び真剣な表情でアスカを見つめながら

「アスカが嫌っていた“内罰的”はやめたよ。それが自分でなく実は他人を傷つける行為でしかないコトに気がついてから、三年掛かりでその癖を直したんだ。」

そう言ってシンジは三春学園でのサキやマナブとの交流について話した。

 

サードインパクトで両親を失った子供たちのことを知って以後、自分もまたアスカと同じように自身の罪に思い悩み、三春学園で奉仕することを自分の罰として受け入れたこと…

孤児院での生活の中、子供たちが本質的に自分に似ていることに気付いて以来、手を差し伸べたいけど、自分にはその資格はないと激しいジレンマに悩み苦しんだこと…

自身の心を縛っていた楔を自らの意思で乗り越えて、生まれてはじめてサキという他人の存在を肯定してあげられた瞬間(とき)のこと…

その公園での出来事を切っ掛けに、積極的に子供たちに手を差し伸べられるようになった生まれ変わった自分のこと…

洞窟での遭難を機に、心を閉ざしていたマナブの心を開かせた時のこと…

 

「…というわけでさ、普通に考えれば僕にはサキちゃんやマナブ君の支えになれる資格なんてないんだと思う。
けど、決して己惚れるわけじゃないけど、もしあの時僕が自身の罪に囚われたまま手を差し伸べなかったら、きっとサキちゃんは今ごろ無理しすぎて昔のアスカみたいになっていたと思う。マナブ君も今でもずっと心を閉ざしたままだっただろうね。
その時、僕は気付いたんだ。偽善かも知れないけど、本当に大切なのはどんなことでも子供たちの為になることを積極的にすることなんだってね。きっと、それにくらべれば僕の抱えている罪の意識なんて本当にちっぽけなものなんだろうね。」

「………………………………………。」

「なにより内罰的というのは、本当に自分にとって大切な人を傷付ける行為でしかないんだ。アスカがこの先自分を罰しながら生きていくことになったら、きっとアスカを大切に思っている人はそのコトを悲しむだろうね。」

『!?』

そのシンジの言葉がズキリとアスカの胸に突き刺さった。

『ママ……。』

アスカの脳裏に自分を本気で心配している、サエコの表情が思い浮かんだ。

 

さらに、シンジはこの時はじめて自分が将来カウンセラーを目指す本当の動機を話した。

三春学園での体験を切っ掛けに、シンジは、自身を罰するよりも、償いに身を投じたほうがはるかに前向きで有益な生き方だと気付いたこと…

それ以来、その償いの手段としてシンジはカウンセリングを選択し、明確な人生の目標を設定して、着々とその準備を進めてきたことを…

「だから、僕は将来カウンセラーになって、サードインパクトを切っ掛けに心を壊した人間に積極的に関わっていこうと決意したんだ。
もちろん、それだって“償い”という自己満足に過ぎないと思う。けど、同じ自己満足でも、ただ自分を苛めて何もしない“罰”という自己満足に比べれば、はるかに前向きで有益で意味のある生き方じゃないかな…なんて偉そうなことを思っていたりするんだ。
サードインパクトを生き延びた人は皆傷付け合う現実の世界で生きていこうと決意した人達だから、マナブ君のように切っ掛けさえあれば必ず立ち直れると信じているから…。
もっとも、今現在は一緒に住んでいたアスカの悩みや苦しみさえ分かってあげられなかった、大変未熟なカウンセラーだけどね。」

そう言ってシンジは苦笑するように頭を掻いた。

 

『………………………………………………。』

アスカは蒼い瞳に驚きを込めて、信じられないものでも見るような目でシンジを見つめる。

一体この差は何なのだろう?

シンジは自身の罪の重さに押し潰されたのでもなく、罰という自己満足に逃げたのでもない。

自分の罪を罪と認めた上で、それを正面切って乗り越えてみせたのだ。

そう、アスカがサエコという温床でヌクヌクと過ごしていた時には、シンジは自分の足で立って自分の定めた目標に向かって自分の意志で歩み始めていたのだ。

『あ……あたしは、この三年間一体何をやっていたのよ!?十四歳で大学を卒業して博士号を取ったって、MAGIの管理責任者になれる社会的な能力を身に付けたって、自分で自分を肯定出来る強さを手に入れられなかったら何の意味もないのに…。』

アスカは先程まで“罰”という憐憫に浸っていた自分自身が、えらくちっぽけな存在に思えてならなかった。

 

シンジはアスカに近づくと

「……というわけで、アスカ。僕は三年前アスカが僕にしたことなんて何とも思っていない。
けど、それでもアスカが自分を許せないというのなら、尚更僕の側にいて欲しいんだ。アスカが遠くで自分を罰っして傷つけながら生きていくより、その方がはるかに嬉しいから。
とにかく僕には…僕にはアスカが必要なんだ!」

そう言ってシンジは、アスカの細いウエストに両腕をまわすと、強く強くアスカを抱きしめた。

『シンジィ……。』

再びアスカの蒼い瞳が潤み始める。

シンジに強く抱き留められるにつれ、アスカの思考がどんどん鈍っていく。

もう二度と手に入れることは叶わないと思っていた、シンジの温もりに全身を包まれているのだ。

どうして抗うことなど出来るだろうか?

『もう、何でもいい…。シンジがあたしを引き留めてくれるのなら……。これからもシンジと一緒にいられるのなら…。』

アスカはゆっくりと両目を閉じて、その身をシンジにまかせはじめる。

心地よいシンジの温もりの中でアスカは半端思考を停止しかけた。

 

 

 

『…………………………………………。』

アスカの中から抵抗する力がなくなったのを感じ取ったシンジは、あえて突き放すようにアスカを離した。

「シ…シンジ?」

アスカは意外そうな顔でシンジを見る。

シンジの顔からは未だに緊張感が解かれていない。

まだ全てが終わったわけではない。

乗り越えるべき最後の壁が残っていたからだ。

 

「アスカ。僕が言えることは全て言ったよ。だから、今度はアスカが選択する番だね。」

「えっ?」

アスカはシンジの言っている意味が分からずに軽く首を傾げる。

「アスカ。僕は絶対に自分が正しいなんて思ってはいない。僕が今言ったのは、あくまで僕個人の意見でしかないんだ。だから、もしかしたらアスカの言っていることの方が正しくて、僕もアスカも決して許されてはならない永遠の罪人なのかも知れないね。だからね、アスカ。ここから先の行動は自分の意志で選ぶんだ!」

「………………………!?」

アスカはシンジの言葉の意味を把握するとやや顔を青ざめさせる。

シンジはアスカに選べと言っているのだ。

このまま一緒に自分と残るか、それともドイツへ戻るのかを…

『なんでよ!?どうしてここまできて…今になってそういうことを言うのよ!?』

「シン…」

アスカは縋る目でシンジを見ながら、何か言いかけたが、シンジはそれよりも早く

「アスカ!自分の人生を自分以外のモノに預けちゃ駄目だ!かつて、エヴァに自身の存在意義を預けた僕たちが、それを失った時どんな目に遭ったかもう忘れたの!?」

そのシンジの言葉にアスカばビクッとする。

シンジは再び真剣な表情でアスカを見下ろすと

「ねぇ、アスカ。自分で言うのもなんだけど、僕はこの三年の間、決して自分を偽るコトなく本当に強く生きてこれたと思う。たった一つアスカへの想いを除いてはね…。」

「………………………………………………。」

「それは多分自分で決めたコトだからだと思う。他の誰に強要されたわけでない、自分の意志で決めたことだから、僕は最後までやり遂げることが出来たんだと思う。だから、最終的には自分の人生は自分で選択しなければならないんだ!」

シンジはそれだけ言い切ると、アスカを突き放すように顔を背けた。

 

 

どうしてよ、シンジ!?

どうして、ここまで来てあたしを突き放すのよ?

シンジがあたしを引き留めてくれれば、あたしはシンジと一緒にいられるのに…。

あたしに自分からシンジの側にいさせて欲しいって言えっていうの?

そんな図々しいこと言えるはずがない…。

あたしにもシンジのように自分の罪を認めた上で正面切って乗り越えてみせろっていうの?

無理よ。

そんなこと出来るはずない。

あたしは本当に自分一人支えられない弱い女なのよ…。

あたしはシンジほど強くない…。

アスカは縋る目でシンジを見続けるが、シンジはあえて超然とアスカの視線を無視し続けていた。

 

 

やっぱり、アスカにはまだ無理なのかもしれない…。

外面の超然とした態度とは裏腹に、実はシンジはアスカの一挙一動にビクビクしていた…。

さっきから心臓が破裂しそうなほど高鳴っている。

膝もガタガタと震えている。

シンジとて簡単に今の境地に辿り着いたわけではない。

アスカに語った結論を導き出したのには、それ相応の時間と苦労を必要としたのだ。

それをこの場でアスカに乗り越えろというのは無理があるのかもしれない。

 

僕が強引にアスカを引き留めれば、たぶんアスカは抵抗しないと思う。

けど、そんな形で一緒になっても、僕たちは絶対に長続きしない。

アスカが自分の明確な意思で選ばなければ意味がないんだ…。

そう、アスカが自分の力で乗り越えなければ…。

シンジが、アスカという壁を自らの意志で乗り越え、空港へアスカに会いにきた時のように…。

 

いずれにしても、もはやシンジに出来ることは何もなかった。

自らの意志で二人の未来の選択権をアスカの手に委ねてしまったのだから。

最後の最後になって、二人の未来はアスカに手によって決められることになった。

  

 

それからしばらく凍りついたような時が二人の間に流れる。

シンジは決してアスカから目を逸らすことなく無言のままアスカの姿を凝視し続ける。

アスカはそのシンジの視線に耐えられずに、俯いてしまった。

 

駄目だ、やっぱり言えない…。

『シンジと一緒にいたい。』

そのたった一言がどうしても今のアスカには言えなかった。

ごめん、シンジ…。やっぱりあたしはシンジやママのように強くなれない…。

アスカは、蒼い瞳に軽い絶望を宿したまま、ゆっくりと俯いていた顔を上げ始める。

 

その時、アスカの視界にシンジの膝元が映った。

えっ!?何なの、震えてるの!?

ポーカーフェイズとは裏腹に、シンジの膝は無意識のうちに微かに震えていた。

なんで震えてるの?

どうして?

もしかしてシンジも恐いの?

あたしのこれからの答えが?

その結果あたしを失うことが?

今の強いシンジにも、こんな弱さがあったんだ。

その事にアスカは何となく安堵する。

 

『!?』

次の瞬間、アスカの中で何かが引っかかった。

強い!?シンジが…!?

アスカは自分が何かを見誤っていたことに気がついた。

 

あたしは何を勘違いしていたんだろう。

シンジはそんなに強い人間だった!?

ママは本当に強い女だった!?

違う!

シンジはあたしの目から見ても、自分自身すら肯定出来ない、あたしに縋らないと生きていけないような情けないガキだった。

ママだって、入院していた当初は何度も自殺未遂を繰り返すほど弱い女だった。

そう、強くなったんだ…。

二人とも自分の弱さを認めて、そこから歯を食いしばって這い上がってきたんだ。

あたし、本当に馬鹿だ。

最初から強い人間なんてどこにもいないんだ。

みんな、心の奥から勇気を振り絞って、弱い自分を乗り越えていったんだ。

 

シンジはあたしに勇気を出して会いにきてくれた!

だとしたらきっと今度はあたしの番なんだ!

バカシンジに出来たことが、あたしに出来ないはずはない!

逃げちゃ駄目よ!

勇気を出すのよ、アスカ!

 

 

 





 

 

 

それから、どれだけ時が経っただろう。

ようやく俯いていたアスカがその顔を上げた。

「アスカ……。」

シンジはアスカに声をかけた後、チラリと腕時計を見る。

ドイツへ帰る道を選択するのなら、そろそろリミットだった。

シンジが再びアスカの姿を見つめると、アスカの蒼い瞳には先程までない悲壮な覚悟のようなモノが宿っているように感じる。

その時、アスカの形の良い唇が動いた。

「ごめん、シンジ。やっぱり、あたしは自分が許せない。あたしは罰せられるべきだと思う。」

そのアスカの言葉にシンジは一瞬心臓が停止したような錯覚を覚えた。

ショックでシンジの顔を青ざめる。

 

だが、アスカは一呼吸置いた後

「けど、だからこそ、あたしはシンジの側にいたいと思う…。ドイツに帰れば簡単。もう誰もあたしを責めないと思う。けど、あたしがシンジの近くにいれば、皆あたしがシンジを傷つけたことを知っているから、色々言われると思う。その方が罰になると思うから……。」

アスカは顔を真っ赤にしながら、そう呟いた。

それはアスカの最後の意地だった。

 

「アスカ!」

そのアスカの言葉にシンジはパッと表情を輝かせる。

アスカはぽろぽろと涙を零しながら、再びシンジに抱き着くと

「側にいさせて、シンジィ〜!!
償うから…。一生掛けてシンジに償うから!
シンジに夢があるのなら、あたしが一生懸命応援してあげる!あたしの心も身体も時間も全てシンジにあげる。
だから、側にいさせて…。あたしは本当はシンジと一緒にいたいの!ずっと、ずっとシンジと一緒に生きていたいの!」

アスカはシンジの中で震えながら鳴咽を漏らす。

「アスカ……。」

シンジは軽く肯きながら、強くアスカを抱きしめた。

 

乗り越えた!

シンジとアスカが乗り越えるべき最後の壁を二人の力で乗り越えることに成功した。

シンジは今度こそ、そう強く確信することが出来た。

 

 

2人はそれからしばらくの間抱き合ったまま、お互いのぬくもりと鼓動を感じ至福の時を過ごしていたが

「!?」

妙に周りが騒がしいことに気がついた。

よく見ると何時の間にか二人の周りに人垣が出来ていた。

当然である。

空港のど真ん中で堂々とラブシーンを演じていたのだ。

注目を浴びない方がおかしかった。

二人は途中からお互いの姿しか見えていなかったので、まったく周りのコトに気がつかなかったが…。

 

「いや〜。何かいいものを見させてもらったな。」

「若いというのは実にいいことだな。」

周りの冷やかしの声にシンジとアスカは真っ赤になる。

「アスカ…」

シンジはアスカの手を掴むと、慌ててその場所から駆け出した。

後ろからドッと笑い声が聞こえてきて、二人はますます赤くなってしまった。

 

 

 

「はあ…、はあ…。ここまで来れば大丈夫よね…。」

人垣を振り切ったアスカは軽く息咳ながら、じっとシンジの顔を見上げた後、急に吹き出して

「あははっ…。シンジったら酷い顔〜!」

今はじめてアスカはシンジの顔に殴られた跡があることに気づいたらしく、腹を抱えて笑い出した。

「そ…それはないんじゃないかな、アスカ?」

シンジは苦笑しながら軽く頭を掻いた。

アスカは、涙目になりながらも

「嘘よ。嘘。今のシンジの顔は今まで見た中で一番カッコ良かったと思う。冗談抜きでね。」

そう呟いた時のアスカの蒼い瞳には真剣な光が篭っていた。

「そ…そうかな?」 

「そうよ…。」

 

二人は再びお互いの顔を見詰め合った後、プッ…と吹き出して

「はっはっはっ……。」

「あははははっ………。」

それからしばらくの間、二人は心から笑いあった。

それは以前の共同生活ですら得られなかった、お互いの心からの本当の笑顔だった。

 

ようやく笑いを収めたアスカは、真剣な表情でシンジを見ながら

「シンジ。会いにきてくれてありがとう…。本当に嬉しかった。あたしね、本当はシンジにはもう二度と会わないって決めていたんだ…。それが一度シンジを不幸にした、あたしに与えられた罰なんだってね。」

「アスカ…。」

「本当に馬鹿みたいな考えだったわ。そんなコトしたって誰一人救われるわけじゃないのに。かえってあたしだけじゃなく、シンジやママのようなあたしにとって大切な人をも、一緒に苦しめるだけなのにね。」

アスカは完全に吹っ切った笑顔でそう呟いた。

その後、アスカは憂いを帯びた表情で俯くと

「ねぇ、シンジ。あたし達本当に馬鹿みたいね。こうして腹を割って話し合ってみれば、意外に簡単に分かり合えたことなのに、お互いの過去の姿に脅えてずっと逃げていたんだもんね。」

シンジも軽くアスカの言葉に肯くと

「そうだね。僕たちに必要なのは、過去の業から逃げないで、乗り越える“ほんの少しの勇気”だけだったのかもしれないね。」

その“ほんの少しの勇気”さえ出せなかったら、お互いに愛し合っていながらも、一生すれ違っていたかもしれない。

なぜか、シンジにはそんな気がしてならなかった。

 

 

 

シンジは軽く微笑んでアスカに手を差し伸べると

「いこう、アスカ!いつまでも一緒に生きていこうよ!」

「うん、シンジ!」

アスカも最高の笑顔で微笑みながら、シンジの手を握ろうとした。

その時、

「うっぷ……!」

突然アスカは口元を押さえる。

「き…………気持ち悪い〜!」

その言葉に、一瞬シンジはビクッとする。

「ど……どうしたのアスカ?」

シンジは嫌な思い出のある、そのアスカの言葉に不安そうにアスカを見上げる。

アスカはあわてて笑顔を取り繕って

「な……何でもないわよ。いきましょう、シンジ。」

と言ってシンジの手を強く握った。

「う…うん。」

二人は手をつないだまま、そのまま空港から駆け出していった。

 

『そういえば、アレがこなくなったのはいつからだっけ…。』

アスカはシンジに引っ張られながらも、軽く顎に手を当てて思案する。

 

まさかね…。

 

神様がアスカのささやかな希望を適えてくれたのを、二人が知るのはこの後すぐだった。

  

つづく…。

 

 

 

 

 

 


NEXT
ver.-1.00 1998+11/24公開
ご意見・ご感想・誤字情報などは itirokai@gol.com まで!!

 

けびんです。(^^;

とうとう、ここまできました。

今現在の自分の気持ちを言うなら、本当に“感無量”です。

僕はこの「I need You」が書きたくて「二人の補完」を書き続けてきたようなものですから。

EOEという作品をマトモに解釈すると、シンジもアスカも十四歳の年齢では背負いきれないほど大きな罪を、無理矢理背負わされてしまいました。

罪を背負った人間は一生その罪に縛られれて自分を罰しながら生きていかなければならないのでしょうか?

僕個人は決してそのようなことはないと思っています。

 

だから、「二人の補完」には実は純粋なシンジとアスカの関係の修復というテーマと同時に、“罰か償いか?”という“罪”に対する隠れたテーゼが存在していたわけです。

(純粋に二人の関係だけを楽しみたかった読者の方には作品を重くしてしまうこの隠れたテーゼは余分なものだったと思いますが…。)

そして、EOEで“罪”を背負わされた二人のその後の生き方に対する、僕なりに考えた上で出した結論が、作中でシンジとアスカの二人が苦労しながらようやく見つけだした答えでもあるわけです。(これに関しても本当に色んな考え方や価値観があると思うので、ご意見を聞かせてもらえたら嬉しいです。)

 

あと、人によっては「二人の補完」といいながら、シンジとアスカの成長に差があるように感じるかもしれませんが、これはスタート地点の差でしかありません。

EOEで、残酷な狂気の死を与えられただけで、何ら内省しうる根拠を与えられないまま無理矢理現実へ引きずり戻されたアスカと、自己啓発セミナーもどきを経て、一応まかりなりにも自分の意思で現実へ戻ってきたシンジのスタート地点の差がそっくりそのまま出ただけの話しです。

なにより、二人がまったく同じ道(体験)を歩む必要は全然ないわけです。

シンジが先行して歩んだ道(体験)をアスカに伝えることによって、本来アスカが遠回りしなければたどり着けなかった境地(結論)に早期にたどり着くことが出来るわけですから。

このお互いの体験を伝えて補うことこそがまさに二人の補完なのではないでしょうか…。

(そうすることによって、シンジとアスカの成長格差は極めて縮まったと思います。)

 

とにかく、僕はシンジとアスカの二人に神にも英雄にもなってほしくなかった。

世界を背負って苦しんでほしくはなかったし、神話の世界まで昇華するような偉人になってほしくなかった。

ただ、十四歳の少年少女相応の人並みに幸福な人生を歩んでほしかった。

途中、作品の方向性を誤解された読者もいられたみたいですが、その二人の幸福を願う想いだけには嘘偽りはありません。

 

そして、やっぱり最後にはこれが見たかったんだと思います。

EOEそして前章「AIR」編では、決して見る事が出来なかった、明確な意思を以って、アスカに救いの手を差し伸べるシンジの姿をです。

前時代的と言われても一向にかまいませんが、やっぱり僕はそれこそ本来あるべき二人の姿だと信じています。

僕が本当に理想としていた“強いシンジ”とは、世界を背負えるような強さではなく、自分の好きな女の子を守ってあげられる…そう、幸せにしてあげられる…本当にその程度の強さで十分だったのですから…。

 

ここまで大変心臓に悪い物語につきあっていただき、本当にありがとうございました。

断言しますが、もうどんでん返しは何も起こりません。

最後はオーソドックスなラブラブハッピーエンドで本編の幕を閉じたいと思っています。

それでは次回、二人の補完最終話「希望」で御会いしましょう。

 

ではであ。(^^;

 





 けびんさんの『二人の補完』第二十五話、公開です。






 ついに、
 ついに、

 よっしっ
 うっしっっ


 来たよね(^^)



 回って
 迷って

 そして、今。


 良かったよね(^^)



 時間がかかったけど、
 それは
 けびんさんの後書きにあるように、
 きっと
 必要なことだったのでしょう。
 そして
 シンジの言葉にあるように
 そう
 必要なことだったのでしょう。

 うんうん。



 自分たちで選んだんですよね。

 うんうん。

 もう大丈夫V!




 さあ、訪問者のみなさん。
 ここまできたけびんさんに感想メールを送りましょう!



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