少年は少女の前で嗚咽を漏らす。
「自分には何もないなんて…そんなこと…言うなよ。」
「別れ際に「さよなら」なんて…そんな悲しいこと言うなよ……。」
空色の髪の少女は赤い瞳に困惑の色を称えて少年を見つめる。
「何、泣いているの……?」
「ご……ごめん………。」
少年は俯いたまま謝るがそれでも涙は止まらない……。
少女はそんな少年を見て本当に申し訳なさそうな顔をして
「ごめんなさい。こういう時にどんな顔をすればいいかわからないの。」
それを聞いて少年ははじめて顔をあげて少女を見上げた。その目は涙に濡れ細っていた。
「笑えばいいと思うよ…。」
その言葉を聞いてしばらくして少女は微笑んだ。
少年が知る少女のはじめての笑顔。
少年の胸の中は暖かい想いで満たされていった。
『綾波……。』
第八話「破局」
シンジは目を覚ました。
やや呆然としていたがやがて自分の現実を認識してぼそっと呟いた。
「夢か…。けど何でいまさら綾波の夢なんか見たんだろう……?」
シンジは顔を洗うと洗面所の鏡で自分の顔を見てみる。
鏡の中には目に隈ができ頬がごっそりとそげ落ちた、とても14歳の年齢とは思えないやつれた少年が住んでいた。
それが今の自分の顔だと認識してシンジは深くため息をついた。
シンジとアスカが再び共同生活を始めてからすでに一月近く経過した。
アスカの陰湿な復讐は今も続いていた。
アスカはシンジを罵り、時には暴力というスパイスを混ぜシンジの繊細な心をまるでやすりで削るように少しずつ…しかし着実に切り崩していった。
一時はかつてのアスカを取り戻そうとしたシンジの決意も、今では虚しく四散してしまった。
シンジは自分がアスカを取り戻そうと決意した夜の事を再び邂逅する。
『あの時アスカは僕に肉体関係を迫った。けど僕はそれを拒絶した。アスカを抱きたいという気持ちがなかったわけじゃないけど、それ以上に僕はアスカの心が欲しかったんだ。本当に欲しいのはアスカの明るい笑顔だけだったんだ。だから僕はただ単にアスカの事を性欲の対象として見ているわけじゃないって事をアスカに分かってほしかった。けど、その結果どうなった…。』
自分が良かれと思ってしたことが、結果として再びアスカを傷つけたことがシンジの心に大きな重みとなってのしかかっていた。
『結局また傷つけてしまった。けどだからといってあの時アスカを抱いていたらどうなったというんだ。それでアスカの心は救われたのか?』
シンジにはそうは思えなかった。それは結局アスカをシンジの人形にしてしまうというだけの事。そうなればアスカは永遠にシンジに対して心を閉ざしてしまっていただろう。
シンジの誠実だが未成熟な男女間の貞操観念からすれば肉体関係から愛が芽生えるなどとは到底信じられなかった。
ましてかつてシンジが病室で昏睡したアスカにした悪行を思い起こせばそれは尚更のことだった。
シンジは自分を自嘲するように力なく笑った。
「ははっ… 、結局どっちに転んでもアスカを傷つけるだけか。しょせん僕にはアスカを傷つけることしか出来ないんだ。…というよりもきっと僕の存在自体がアスカを傷つけるものでしかなかったんだ。アスカを救おうだなんてしょせん僕には無理な話だったんだ。」
かつてのアスカを取り戻そういうシンジの決意はすでにシンジの中から完全に消滅していた。
これは事態が自分の思った通りにうまくいかないとすぐに総てを投げ出して自分の殻の中に閉じこもってしまうシンジの悪癖だった。
いつの間にかシンジの目には涙が溜まっていた。
シンジは鏡の中の自分の情けない顔を見るのを拒絶するかのように俯いて、ぼそぼそっと呟いた。
「つらいよ。 逃げたいよ。 畜生、もういいじゃないか。 何で僕だけがこんな目に合うんだよ。 そうだよ、確かに僕はアスカを傷つけたよ。 けど僕だってやりたくてやったわけじゃないんだ。 これでもアスカを救おうと精一杯努力したんだ。 なのに…何で…何で…アスカは僕を許してくれないんだよ……。」
シンジはすでに二度ほどアスカから逃げようとしたがそれをアスカは決して許さなかった。
これ以上アスカの露骨な悪意にさらされるのにシンジの心が耐えらなくなり家出を試みたが、どうやって探し出すのかアスカはシンジの前に現れると嫌がるシンジを無理矢理引きずって二人の家へシンジを連れ戻した。
そしてその後にはアスカのきつい制裁がシンジに下された。
シンジの周りにいる大人達も、今は仕事がもっとも忙しい時期なのであまりシンジとアスカにかまう事が出来ずにいた。
というよりも二人の真実を知っているマヤ以外はシンジとアスカが二人でいる事に完全に安心していた。表面的な二人の微笑ましいリハビリ生活だけを見せられた彼らには、水面下でこれほど壮絶な修羅場が展開されているなど想像もつかないことだった。
「うう……、もうやだ、もういやだ、助けて…、誰か助けてよ。」
ふと顔を上げたシンジの表情が恐怖に凍りついた。
いつの間にか鏡の中の住人が二人に増えていた。
やつれた少年の後ろで赤い髪と蒼い瞳をした美少女が微笑んでいた。ただシンジを嘲笑するようなその笑みは明らかに好意からきたものではなかった。
アスカはそっとシンジの顎を自分の指でしゃくると
「随分といい顔になったわね、シンジ…。この分だとあんたが壊れるのもそう遠い日じゃないわね。」
アスカは笑った。その目は明らかにシンジをヒトとして見ていなかった。自分だけの人形…。お気に入りのおもちゃ…。もうじき壊れる…。ううん、あたしがこの手で壊してやる。そうそれは気に入ったおもちゃを自分自身で壊してみたくなるという歪んだ幼児の願望と一緒のものだった。
シンジはアスカを怯えの目で見ていたが
「ア…アスカ、もう許してよ。 いい加減僕を解放してよ。 もう十分だろ? もうこれ以上は無理だよ。 本当に壊れちゃうよ。 お願いだよ、もう僕を許してよ。」
シンジは手をついて頭を下げてアスカに哀願した。もう意地もプライドもない。今のシンジにとってアスカは恐怖の対象でしかなかった。
アスカはシンジを満足そうに見下ろしていたが嗜虐性の高い表情でシンジに微笑むと
「駄目よ、シンジ…。 絶対に許してなんかあげないわよ。 言ったでしょ、あんたを壊すって! どんなにつらくても壊れるまではあたしと一緒にいてもらうわよ。 それにこれはあんたも望んだことなのよ。 いつまでも僕の側にいてほしいってあたしにいった事を忘れた訳じゃないでしょう? 男だったら一旦自分の言ったことには最後まで責任を持つことね。」
アスカはシンジを嘲笑するとクルリと向きをかえ洗面所から出ていった。だからアスカは気がつかなかった。その時アスカを見上げるシンジの目にアスカに対する激しい憎悪がこもっていたということを…。
マヤはあせっていた。日向も青葉もさすがにシンジの様子がおかしい事ぐらいには気がついたが、それでもそれほど深く心配してはいなかった。
だがマヤは違う。
シンジがこうなることはすでに一月前からマヤの予測の中にあったのだ。
だが二人の真実を知りながら結局何も出来ずにいる自分自身がもどかしかった。
何よりマヤ自身も忙しい身だったのでなかなかシンジとアスカに関わることが出来なかったが、それでも日に日にやせ衰えていくシンジの顔を見てシンジに限界が近づいているのは理解できた。
結局喫茶店での一件以来マヤはシンジと話すことができなかった。
忙しい仕事を調節して何とか時間を作ってシンジに話しかけようとしてみたが、シンジはマヤの顔を見ると怯えたような目をしてすぐに逃げ出した。
恐らくマヤにはかかわらないようにアスカがきつくシンジに言い渡しているのだろう…。
その事からアスカのシンジに対する調教の深さを見て取る事ができた。
『なんとかしなければ…このままじゃ本当に取り返しのつかないことになるわ。』
マヤはシンジを助けることを自分の使命として受け入れた。
だがその方法にマヤは困惑した。
肝心のシンジ自身はアスカに対する恐怖からかマヤをさけている。
冬月に総てを話して相談するのもすでにその時期を逸っしてしまったような気がする。
何よりそんな悠長なことしている時間がないのは今のシンジを見れば十分理解できた。
『こうなったら直接元凶に当たって砕けてみるしかないわね。』
マヤはアスカと直接交渉する決意をした。
アスカさえ以前のようなまともな精神状態に戻ればそれで全てが解決するはずである。
マヤはその決意に一縷の望みを託した。
結果としてそのマヤの行動が最悪の破局を引き起こすことになるとは、この時のマヤには想像もできなかった…。
「何よ、話って…?」
喫茶店「BIG CAT」でアスカはフルーツパフェを頬張りながら、興味なさそうな目で向かいの席に座っているマヤを睨み付けた。
マヤはアスカとは目線を合わせず目の前の置かれたコーヒーカップを見つめて何も答えない。
それを見てアスカは蒼い瞳に蔑むような彩りを浮かべると
「あんたまさかあたしにシンジと別れてくれとか頼み込むつもりじゃないでしょうね? 残念ね。 シンジはあたしのモノなのよ。絶対に誰にもあげない。 あいつはあたしが一生かわいがってあげるのよ。」
マヤはアスカの顔を見上げる。その表情には狂気にも似た異常な独占欲が存在していた。
しばらく躊躇っていたがマヤは猛然と決意するといきなり核心をついた質問をアスカにした。
「ねぇ、アスカ。もうシンジ君を許してあげることは出来ないの?」
その言葉にアスカは一瞬パフェをすくうスプーンの動きを止めたが、すぐに動きを再開してりんごの切り身を口の中に放り込むと
「や〜ねぇ、マヤったら何言ってるのよ。あたしに嫉妬してるわけ〜?あたしとシンジは愛し合っているのよ。許すも許さないもないでしょう?」
とケラケラと笑ってマヤの質問をいなそうとした。
だがマヤは乗ってこなかった。マヤは一段と表情を引き締めると
「わかっているのよ、アスカ。あなたが本当はシンジ君の事を憎んでいることは…。あの病室であなたの膝元に眠り込んだシンジ君を見つめるあなたの表情を見た時からずっとね。」
そういって正面からアスカの瞳を見つめた。
アスカはまた冗談でごまかそうとしたがマヤの瞳に宿るものを見てそれが通用しないと悟ると、さっきまで見せていた偽りの笑顔を脱ぎ捨て激しい敵意のこもった視線でマヤを睨み付けた。
「ふんっ!てっきりショタ心からシンジに手をだそうとしているのかと思ったら、最初からあたし達の事に感づいていたというわけね!」
そう言ってアスカは笑った。今までシンジにだけ見せていた陰惨な笑顔で…。
それを見てマヤの表情が曇った。
本来絶世の美少女であるはずのアスカのこの笑顔は同性であるマヤの目から見ても醜かった。
そしてマヤの心が痛んだ。
本来多感であるはずの14歳の少女にこれほどの負の感情を植え付けてしまったのは、間違いなくアスカを取り囲む無理解な大人達の責任だった。
アスカがこうなってしまった事は決してアスカ一人の責任ではない。
そして同時にこのようなアスカの悪意の標的にさらされたシンジの事を思い胸が痛んだ。
マヤは訴えるような目でアスカを見つめると
「ねぇ、アスカ。シンジ君をもう許してあげて。確かにシンジ君はアスカの事を傷つけたかもしれない。 けど彼だって悪気があったわけじゃないのよ。それにもう十分でしょう? シンジ君はもう十分傷ついたわ。今更シンジ君の事を好きになってあげてなんて言うつもりはないわ。 けどそろそろシンジ君を解放してあげて、お願いよ、アスカ!」
といってマヤはアスカに対して頭を下げた。
アスカは頭を下げたマヤを冷たい目で見ていたが
「分かってないわね、マヤ…。 確かにシンジはあたしに酷い事をした。あたしの事をおかずにして汚したり…、首を絞めて殺そうとしたり…、色々とね。 けど本当に許せないのはそんな事じゃない! 本当に許せないのはシンジが何もしなかったって事よ!」
マヤは顔を上げる。アスカの瞳には激しい憎悪と同時に深い悲しみが宿っていた。
「シンジはあたしが使徒に心を犯された時も助けにきてくれなかった。あんな人形女を助ける為に出撃したっていうのに…。それだけじゃない、あたしが傷ついて家出した時も探そうともしてくれなかった。あたしがどれだけ傷ついていたか分かっていたはずなのに、それに…それに……」
アスカのスプーンを持つ手が震えている。マヤはハッと息を飲む。アスカの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「シンジはあたしが一人で白いエヴァと戦っている時も結局最後まで助けにきてくれなかった。 シンジにはあたしを助ける事ができたはずなのよ! だってシンジには無敵の初号機がついていたんだから…。 なのにシンジはあたしが白いエヴァに蹂躙されあんな酷い目にあっていたっていうのに、最期まであたしの事を見殺しにしたのよ! 畜生! 信じていたのに! たとえ全てのヒトがあたしのこと見捨てたって、シンジだけは最後にはあたしを助けにきてくれるって信じていたのに! 畜生! 畜生! 畜生!」
アスカは肩をわなわなと奮わして激しく慟哭する。
他の席にいる客達が何事が起こったのかとマヤとアスカのいるテーブルを見つめている。
マヤは何も言えなかった。
信じていた人間に裏切られたと思いこんだ時のショックは大きい…。
ましてやアスカのように一途で思い込みの激しい、多感な14歳の少女ならそれはなおさらの事だ。
愛情の正反対は憎悪である。
マヤはアスカは本当は未だにシンジを求めていたことを思い知らされた。
マヤには目の前で泣いている少女がシンジを苦しめている加害者だとは思えなかった。
アスカこそがあの一連の忌まわしい事件の真の被害者だということを改めて強く認識した。
気がつくとアスカは顔を上げていた。すでに涙は止まっていたがその頬には涙の流れた後がクッキリと残っていた。そしてその瞳の奥には激しい狂気の炎が揺れていた。
「それからよ、あたしが無限地獄に陥ったのは…。あたしは底の見えない深い闇の中で何度も何度もあのハゲタカ達に陵辱され続けたのよ。マヤ、潔癖性のあんたに分かる?何度も心も体も汚され続けたあたしの地獄の苦しみが…?そんなあたしがどんな想いで現実へ還ってきたかあんたに分かるの? マヤ…。」
アスカは再び笑った。マヤはアスカの氷のような笑顔に寒気を覚えた。
「シンジがいたからよ。あたしの味わった地獄の苦しみをシンジにも味合わせることだけが今のあたしのたった一つの生きる支えだったからよ。そうよ、他には何もいらないのよ! シンジだっていらない! シンジの全てがあたしのものにならないのならあたしはシンジなんていらない! だから壊してやるのよ。あたしのものにならないのならシンジなんて壊してやるのよ! そうすればもう誰にも奪われる心配はないからね!」
アスカの瞳の中に宿る歪んだ独占欲を見てマヤは身を引き裂かれる思いだった。
アスカは一連のシンジに対する不信感からもうシンジを信じることができなくなっている。
もうシンジの心を手に入れることは出来ないと思いこんでいる。
そうなれば確かにアスカにはもうシンジを壊すしか自分を保つ手段は残されていないのだろう。
“オール オア ナッシング!”
いかにもプライドの高かったアスカらしい考え方だとマヤは思った。
だがそれではシンジはどうなるのか?
シンジだってあの悪夢のような事件の一番の被害者だったはずだ。
心が壊れるようなつらい思いをしたのは決してアスカだけではなかったのだ。
マヤはその事をアスカにわかって欲しかった。
シンジにだってつらい事情があった事を分かって欲しかった。
そう決意するとマヤは
「アスカ、あなたの気持ちは良く分かったわ。 私にはあなたの想いを否定する事は出来ない…。 だって私はあなた達子供達に総てを押しつけてあなた達をこんな風に追い込んでしまった張本人だから。 けど分かって!、確かにシンジ君はあなたを見殺しにしてしまったかもしれないけど、シンジ君にはシンジ君の事情があったのよ! つらい思いをしていたのは決してあなた一人じゃなかったのよ!」
アスカはその“シンジの事情”という言葉に過剰に反応した。
蒼い瞳の中に激しい怒りが渦巻いている。
自分が死ぬよりもつらい目にあっていたというのに、シンジにそれより優先されるべき事情があるなどアスカには絶対に許せないことだった。
マヤはそんなアスカの想いには気づかずに自分の知る限りの総てを事を話した。
綾波レイが普通の人間ではなく実は複数の体を持つクーロン人間であった事。
そしてそれを知ってしまったらしいシンジがそれをきっかけに精神的に追いつめられていったという事を…。
さらにマヤはフィフスチルドレンであった渚カヲルの事についても話した。
彼が初めてシンジの事を好きだといったシンジに安らぎを与えた少年だった事。
そして実は彼がネルフ本部へ侵攻してきた最後の使徒であり、シンジは人類の未来を守るため自分を好きだと言ってくれた友人を自分自身の手で殺してしまい、それがシンジの心を決定的に打ち砕いてしまったという事を…。
アスカは黙って神妙な顔つきでマヤの話を聞いていた。
「……と言うわけでシンジ君はあの時あなたと同じく…ううん…恐らくはあなた以上に心を壊して他人の為に何か出来る状態じゃなかったのよ。 勿論そんな事が免罪符になるなんて思ってはいないわ。 けどこれだけは分かってあげて。 シンジ君は決して好んであなたを見捨てたわけじゃなかったってことを…。」
マヤは不審に思うべきだった。
これだけショッキングな内容を並べてもアスカの顔にまったく驚きの表情が浮かばなかった事を…。
アスカは明らかに感受性の一部が麻痺していた。
今のアスカには他人の事情など考慮できる心の余裕は欠片も存在しなかった。
あくまで自分はシンジに対する一方的な被害者であり、シンジは自分から総てを奪った憎むべき加害者でしかなかった。
その事実こそがアスカにとっての総てであり、加害者の側の一方的な事情などアスカの知ったことではなかった。
マヤは気がつかなかった。
結果としてこのマヤの告白は、アスカとシンジの関係を決定的に引き裂く破局を引き出すための引き金となってしまった事を…。
「そう、そんなことがあったの…」
アスカの呟きを聞いてマヤは心の中にかすかな希望を抱いたが、その想いは半瞬ほどで打ち砕かれてしまった。
アスカは笑っていた。今までとは違った屈託のない笑顔で…。その目はまるで新しいおもちゃを買い与えられた幼児のような無邪気な好奇心に満ちていた。
だがその笑顔にマヤは今までにない恐怖を感じた。
マヤは知っていた。もっとも無邪気に笑える者こそ一切罪の意識を感じることなく最も残酷に振る舞えるということを…。
マヤは自分が取り返しのつかない間違いをおかしたような気がして膝が震えだした。
突然アスカは立ち上がると
「ごちそうさま。今日は色々面白い話を聞かせてくれて感謝してるわよ、マヤ…」
とマヤに向かって謝辞を述べた。
マヤは青ざめた顔でアスカを見上げる。
「ア…アスカ、あなた一体なにをする気なの…?」
マヤの問いにアスカはクスリと笑うと
「決まってるでしょ。そんな酷い目にあってかわいそうなシンジをあたしが慰めてあげるのよ。やさしくね…。」
アスカはにっこりと微笑んだがマヤにはアスカの笑顔がとても不吉なものに思えた。
「あ…あなた…まさか…」
アスカはその問いには答えずに身を翻すと駆け足で喫茶店から出ていった。
マヤは自分の想像が当たっていたことを確信すると
「ま…待ちなさい! アスカ!」
といってあわててアスカの後を追おうとしたが、入り口の所でレジの者に腕を捕まれてしまい料金を請求された。
マヤは「釣りはいらない!」と叫んで万札をカウンターに投げ出すと急いで店の外に出たが、その時にはアスカの姿は完全に視界から消えていた。
マヤは青ざめた顔で
「どうしよう、まさかこんな結果になるなんて…。 アスカ、お願いだから早まった事をしないで! シンジ君、お願いだから無事でいて!」
そう祈るように呟くと二人のいる宿舎に向かって走りだした。
シンジは自分の部屋の角で頭を抱えてうずくまったまま震えていた。今朝見た夢の中での綾波レイの笑顔を思い出して「綾波、助けてよ…」と呟いた。
もうシンジには何が現実で何が夢なのかわからなかった。
いや、こんな酷い世界が現実などとは信じたくなかった。
自分を罵るアスカの顔がシンジの脳裏に浮かびあがる。
「畜生! 畜生!」
シンジの瞳に憎悪が浮かび上がった。
その時突然シンジの部屋の扉が開きアスカがシンジの目の前に現れた。
その途端シンジの瞳の中の憎悪は恐怖に取って代わられた。
シンジのアスカに対する感情は憎悪よりも恐怖心の方がはるかに根強かった。
「ア…アスカ…。」
シンジは怯えた目でアスカを見上げる。
アスカはそんなシンジを満足そうに見下ろしていたが突然ため息をつくと
「やれやれ、あんたが何であたしに手をださないか謎だったけどようやく得心がいったわ。まさかあんたがホモだったとはね。」
そう言って軽蔑した視線でシンジを睨み付けた。
「!?」
突然何を言われているのかシンジにはわからなかった。
だが次に放たれた言葉がシンジの心にロンギヌスの槍のごとく突き刺さった。
「渚カヲル…。」
シンジの顔が青ざめる。膝がガタガタと震えだした。
「マヤから聞いたわよ。あたしの代わりにゼーレから送られてきたフィフスチルドレンで、実は最後の使徒だったんですってね。そして何よりあんたの事を好きだっていった物好きなんだってね。」
シンジは何も答えない。彼の黒い瞳はアスカに焦点が合わされてはいなかった。
「あんたって人間には嫌われてるのに使徒だか物の怪だかには好かれる質みたいね。ファーストの奴も実は使徒もどきの化物だって話だし…。」
「や…やめろよ!」
シンジははじめてアスカに声をかけた。
だが一旦加速したアスカの舌は止まらなかった。
「あんたってつくづく最低なヤツね! よりによって自分の事を好きだといってくれる人間を殺しちゃうなんてね。そうよ、フィフスだけじゃないわ! 鈴原のことを不具者にしたのもあんただし、ミサトだってファーストだってあんたが殺したようなもんだし、何よりサードインパクトを発生させて十億人も殺しちゃうなんて絶対発想が普通じゃないわ。ねえ楽しい? ヒトを殺すのってそんなに楽しいの? ヒトを傷つけて何がそんなに嬉しいの? ねぇ、教えてよ? シンジ…。」
アスカは恍惚とした表情でシンジに尋ねる。
「もうやめてよ! もう許してよ! アスカ〜!!」
シンジは泣き叫んだ。
アスカは陰惨な笑みでシンジを見下ろすとゆっくりと止めを刺そうとした。
「いいえ、許さないわ! だいたい人類の半数を死滅させておいて一人だけ何もなかったような顔をしてのうのうと生きようっていうのが甘いのよ! 誰もあんたの事を責めないならあたしがあんたに教えてあげるわ。 あんたは自分に好意を抱いてくれる人間を喜んで傷つけようとする最低の殺人マニアなのよ! そうよ、あんたなんか初めっから生まれてこなければよかったのよ! そうすれば誰も傷つかずにすんだのよ! 死んじまえ! この変態ホモ野郎! 自分勝手な幻想を抱いて勝手に一人で地獄へ落ちればいいんだわ!」
プッツン!!
その時シンジの中で何かが切れた…。
アスカは蒼い瞳に狂気を浮かべてシンジを攻撃していたが、シンジの様子がおかしい事に気がついて沈黙した。
突然ユラリとシンジは立ち上がった。
ゆっくりとシンジは顔をあげる。その黒い瞳にはアスカがはじめて見るもの…、憎悪が宿っていた。
アスカははじめてシンジから感じる異様な感覚に戸惑った。
アスカは気がつかなかったがそれは恐怖と呼ばれる感情だった。
アスカは自分が猛獣の尾を踏みつけた事に気がついていなかった。
シンジがフラリとアスカにむかって一歩を踏み出した。
その途端アスカは無意識に二歩下がったが、それを意識すると虚勢を張って前へ踏みだそうとした。
自分がシンジを怖がっているなど…、ましてやシンジに追いつめられているなどアスカにとっては決してあってはならない事だった。
アスカは何とか踏みとどまり体を元の位置に戻して叫んだ。
「な…何よ!? そんな顔したって怖くなんかないわよ!」
アスカの声はうわずっている。
シンジは何も答えずに再び一歩を踏み出した。
アスカの第六感はしきりに「逃げろ!!」と警告を送っていたがアスカはそれを無視した。シンジごときに背を見せるなどアスカのプライドが許さなかった。
「………してやる。」
突然シンジは何か呟いた。
「な…何言ってるのよ…? あんたは…。」
「殺してやる。」
今度はハッキリとそう聞こえた。その途端アスカの心臓の鼓動は早くなった。
「シ…シンジ…。」
そう言って再びアスカはシンジの顔を見た。その時にはシンジの瞳には憎悪の他にも狂気と殺意が混在していた。
「殺してやる!」
さらに音量をあげてそう呟き、また一歩シンジは前に踏み出した。
アスカは動かなかったが今度は先ほどとは事情が違った…。シンジの殺気に金縛りにあい足がすくんで動けないのだ。
そしてさらに一歩踏みだしシンジはいよいよアスカを射程距離に納めると
「殺してやる〜!!!」
と叫び狂ったような雄叫びをあげて猛然とアスカに襲いかかった。
「うわあああああああぁぁぁぁぁ…………!!!!!!」
とうとうシンジが切れた。
シンジの心は完全に追いつめられていた。
アスカの一押しによってシンジの理性は崩壊しとうとう奥底に眠っていた獣が解き放たれた。
今まで押さえに押さえていたものがついに爆発した。
シンジの狂気に支配された顔を見てアスカははじめてシンジを恐れた。
いままではアスカがシンジを支配していた。
アスカが一方的にシンジを傷つけるだけだった。
シンジが反撃するなどアスカの予測の内にはなかった。
その構図が初めて逆転したのだ。
「ちょ……と…シン…ぐ!!」
シンジの両腕がアスカの首を締め上げる。
「くっ…く…る…………し……ぃ……………!!」
狂気の表情で自分の首を締めるシンジを見てアスカの脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。まだ幼い子供の時に精神崩壊を起こした母親に首を絞められたイメージ…、そしてサードインパクト直後シンジに首を絞められたイメージ…。いみじくもアスカは自分が愛情を求めた相手から二度も殺されかけたのだ…。
『い…いや…シンジ…死ぬのはいや…。 殺さないで…。 もう酷い事言わない…。 だから…ゆ…る……し………て……』
涙目になりながら初めてシンジに哀願するアスカ…。
だがその想いは声にはならなかった。
アスカの視界が歪みはじめた時…。
ジリリリリ……………………ン!!!!!!!!!!
突然けたましく電話のベルが鳴り出した。そしてそのまま10秒ほど鳴り続けた…。
間違い電話だったのかその音はすぐに押し黙ってしまった。 だがその音にシンジは現実にかえった。今まで熱くこみ上げていたものが冷えきっていく…。
「あ……あ……あ……!!」
シンジはあわててアスカの首を離した。
「けほ…! げぼ…! けほ……!」
気管をむせ返すアスカ。
「ぼ……僕は………僕は………………!!」
日頃の運動不足がたたってマヤは宿舎まであと少しという所で完全に息切れしてしまった。仕方なくバックから自分の携帯を取り出しシンジ達の宿舎へ電話してみたが誰も出なかった。あせったマヤはほんの10コールほどで携帯をオフにすると
「出ない…。やっぱり直接行くしかないみたいね!」
と悟り再びのろのろとした勢いで走り出した。
とりあえずこの行為が二人の最悪の結果だけは回避した事にマヤは気がつかなかった。
青ざめた表情で両方の手の平をじっと見つめるシンジ…。両手の中にはさっきまでアスカの首を絞めていた暖かみが残っていた。
アスカは恐る恐るシンジを見上げたがシンジの中から獣性が消失しているのを確認すると急に勢いを取り戻し
「はっ!! とうとう本性を現したわね! このけだものが!!」
と勝ち誇った表情でシンジを指さして弾劾した。
「さ〜てと、今度はどんな言い訳をするのかしらね? けだものしんちゃん!!」
アスカの表情には五割の怒りと三割の虚勢と二割の恐怖が混在していた。
シンジのこの行動が極めて衝動によるものだということはアスカも理解していた。
そしてそこまでシンジを追いつめたのも自分だということも…。
だがだからといってそれでシンジを許すようなアスカではない。
一旦余裕を取り戻すと先ほど心の中でシンジに許しを乞うたことも忘れて再びアスカはシンジを追いつめはじめた。
「わあああああぁぁぁぁぁ………………!!!!!!!!!」
シンジは発狂したように叫ぶとその場から逃げだした。
「こら…待て! 逃げるんじゃないわよ! 絶対にうやむやになんかさせないわよ! 後でたっぷりと追求してやるからね!」
アスカの叫びもシンジには届かなかった。
「もうやだ…!! もうやだ…!! 助けて!! 誰か助けて!!」
シンジは破滅へむかって突っ走っていった。
ようやくマヤが宿舎のシンジ達の部屋の前にたどり着いた時、突然ドアが開いてシンジが飛び出してきた。
「シ…シンジ君!!」
マヤがシンジの前に立ちはだかる…。
だがシンジの目にはマヤは写っていなかった。
シンジはマヤを吹き飛ばしてそのまますごい勢いで外へ駆け出していった。
「きゃあ…!!」
マヤは軽く悲鳴をあげて尻餅をついた。
だがすぐに起きあがるとシンジの異常な様子を心配して
「シ…シンジ君! 待って! シンジ君!!」
と声を掛けて必死になってシンジに追いつこうと駆け出した。
だがすぐにシンジはマヤの視界からいなくなり、マヤ自身も先ほどからの全力疾走の影響で膝が震えて立てなくなりその場にへたりこんでしまった。
「シンジ君……。」
マヤの声はシンジに届かなかった。
「ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…。」
どこをどう走ったのだろう。シンジは完全に息が潰れるまで走り続け肺がこれ以上走るのを拒絶しはじめた頃ようやくその活動を停止した。
先ほど自分がアスカにした行為を思い出してシンジは顔を青ざめる。
「もうおしまいだ。アスカは絶対に僕を許しはしない。逃げたってきっとアスカは僕をどこまでも追いかけてくる。今のアスカは僕を苦しめることだけが生き甲斐なんだから…。」
その瞳には深い絶望が宿っていた。
「助けて…、誰か助けてよ。もう嫌だよ。何でこんな苦しい思いをしてまで生き続けなきゃならないんだよ。もう楽になりたい…。いっそのこと死んだ方が楽になれるのかな…。」
シンジは暗い考えに捕らわれつつあった。
ようやく呼吸が落ち着いてくるとシンジは今自分がどこにいるのか確認する為に周りを見回してみた。奇妙な既視感(デジャブー)がそこにはあった。
「ここは確か…」
そう、ここはかつてシンジが父に呼ばれた初めて第三新東京都市を訪れた時、使徒に襲われた場所だった。
「そうだ、そこでミサトさんに出会って……………!!」
その時シンジは突然幻影のように現れそして一瞬で消えた少女の事を思い出した。
「そうだ、あれは綾波だった。あの時見た少女は確かに綾波だったんだ。そう、確かあの道路の向こう側に…」
と言ってその方向を振り向いたシンジの表情が凍り付いた。
シンジが振り向いた先には、第三中学の制服を着た14歳くらいの少女が立っていた。髪は短めの空色で、宝石のように透き通った赤い瞳でじっとシンジの事を見つめていた。
信じられないものをみたような目つきでシンジの瞳孔は極限まで押し広げられた。
「あ……あ……あ……」
シンジの想いは声にならなかった。
その時、空色の髪の少女が微笑んだ。シンジが夢の中で見た少女と同じ笑顔で…。
その途端シンジの目から涙がこぼれ落ちた。
そしてそれ以外のものが総てシンジの視界から消え失せた。
だから左手からトラックが近づいていることになど気がつかなかった。
「あ…綾波〜!!」
シンジはそう叫ぶと道路をまっすぐに突っ切って、空色の髪の少女めがけて駆け出した。
その時トラックの運転手は突然道路に飛び出した少年に驚いて、慌ててブレーキを踏み、可能な限りハンドルを切ろうとした。
まるで爪でガラスを擦るようなブレーキの鈍い音が辺りに響き渡る。
まわりにいる通行人が悲鳴をあげた。
「危ない!!!!!」
つづく……。
けびんです。
もう何も言いません。いつも口酸っぱく後書きで自身がLAS人である事を宣言していましたがその宣言はしばらく凍結する事にします。恐らくは今の僕がLAS人だと主張するのは連続強盗殺人犯が自分は生命尊重主義者だと主張するようなものでしょうから…。
自分がLAS人であることはいずれ作品の実績をもって証明させてもらうこととします。
何はともあれ「二人の補完」前章AIR編も残すところあと二話となりました。いずれにしてもこんな所で話をちょん切っては読者様の精神衛生上大変よろしくないと思いますので第九話は可能な限り(遅くとも一月以内には(笑)嘘です…。本当は一週間です。)早めにアップさせて頂きます。
では次は第九話でお会いしましょう。次回だけはなぜかサブタイトルがすでに決まっているので一応紹介しておきます。サブタイトルは「終わるシンジ…」です。(おい!)
けびんさんの『二人の補完』第八話、公開です。
厳しさ、とどまるところを知らない状態ですね・・
酷くなるアスカのシンジ攻撃。
切れたシンジ。
戻ったシンジの自己否定。
そして・・・
飛び出したシンジを襲う−−
とどまりませんよ〜
さあ、訪問者の皆さん。
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