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「ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…、ハア…。」

マヤはシンジを探して当てもなく第三新東京都市を彷徨った。

さっきから心臓が悲鳴をあげている。

両足は痺れて歩くのさえ億劫になっている。

マヤの体力はすでに限界を越えていた。

だがそれでもマヤはシンジの名を呼びながら、懸命に動かない足を引きずってシンジを探し続けた。

マヤは宿舎の扉の前で自分を突き飛ばした時のシンジの形相を思い浮かべる。

シンジはまるでこの世の総てに絶望したような狂気の表情を浮かべていた。

『私のせいだ…。』

マヤの胸が痛む。

自分が良かれと思ってした事が、二人をさらに追いつめる結果になってしまったことは疑いようがなかった。

その時突然マヤの携帯が鳴り出し、マヤはビクッとした。

いやな予感がする。

なぜかマヤにはこの携帯のコール音が不吉な音色に思えてならなかった。

マヤは恐る恐るバックから携帯を取り出て受信ボタンを押した。

「はい、伊吹です…。」

「俺だ、青葉だ!」

その声にマヤはホッとため息をついた。

だが次の瞬間マヤの瞳孔が極限まで見開かれ、マヤの指から携帯が滑り落ちた。

「もしもし…? 聞いているかい? マヤちゃん?」

地面に落ちた携帯から青葉の声が聞こえてくる。だがその叫びはもうマヤの耳には届かなかった。

マヤの顔が青ざめている…。目の焦点があっていない…。膝がガクガクと震えだした…。

 

「シンジ君が………トラックに…………跳ねられた…………」

マヤはまるで夢遊病患者のような口調でそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「二人の補完」

 

  第九話「終わるシンジ・・・」

 

 

 

マヤはタクシーから降りると急いで第三中央病院に駆け込んだ。

そして一階のロビーに青葉の姿を見つけるとすぐに青葉の両肩をゆらして青葉に問いかけた。

「青葉君!! シンジ君はどうなったの!? 生きてるの? それともまさか…、ねえ、答えてよ! 早く教えてよ! お願いよ!!」

マヤは目に涙を溜めながら必死の形相で青葉に詰め寄った。

青葉はマヤの剣幕に一瞬気圧されたが、すぐに表情を引き締めると

「落ち着いて! マヤちゃん! シンジ君は死んだわけじゃない! いや、それどころか体には傷一つないんだ!! さっきは混乱させるような事をいってすまなかった! あの時は俺も病院から連絡を受けたばかりで表面的な事柄しか知らなかったんだ! だから安心してくれ! 正確にはシンジ君は決してトラックに跳ねられたわけじゃないんだ!」

それを聞いてようやくマヤの瞳に理性が戻ってきた。

それを見て青葉はホッとため息をついた…。

「どういうことだか話してくれる?」

青葉はこくっと肯いた。

 

「………と言うわけで病院の精密検査ではまったく外傷はないって話なんだ。 それと目撃者の証言を合わせるとこんな所らしい…。 どうやらシンジ君はトラックに身を投げて投身自殺を図ろうとしたらしいんだ。 だが、あまりにシンジ君の勢いがつきすぎていたのと、幸いにもトラックの運転手がそれとは逆方向にハンドルを切ったからシンジ君とトラックはすれ違っただけですんだんだ。 ただその後シンジ君が倒れたまままったく動かなくなったから、てっきりトラックに跳ねられたものと思って近くにいた人が救急車を呼んでくれた…というわけさ…。」

「それじゃシンジ君は無事なのね?」

マヤは瞳に希望を灯らせてそう尋ねた。

だがその言葉に青葉はなぜか暗い顔をして俯いた。

「ど…どうしたのよ…!」

その青葉の態度に不安を感じたマヤは再び顔を曇らせた。

「かつてアスカちゃんが入院していた303号病室に今シンジ君がいる。 会ってみるかい? マヤちゃん…。」

脳内神経外科? なぜ外傷がないシンジ君がそんな所に運ばれるの?

マヤはそう疑問に思ったが青葉はそれ以上何も答えなかった。

『自分の目で確かめるしかないみたいね。』

そう決意するとマヤは303号病室へ向かって駆け出した。

 

 

303号病室に入ったマヤはシンジと対面した。

「シンジ君…。」

マヤの声が上擦っている。

シンジはベッドの上で横になって寝ている。

青葉が言ったように体には傷一つなかった。

きれいな顔をして一見熟睡しているように見えるシンジ…。

だが何か違和感がある。

漠然とした不安を抱えながらマヤはシンジの顔を覗き込みその表情が凍りついた。

シンジの目はずっと見開いたままだった。

だがシンジの瞳は明らかにこの世界を見ていなかった。

虚ろな瞳でまるで人形のように横たわるシンジ…。それはまるでかつてのアスカを彷彿させる姿だった。

マヤは一瞬呆然としていたがすぐに気を取り直しもう一度シンジの名を呼んでみた。

「シンジ君…。」

だが返事はない。

「眠っているわけじゃないぜ。 分かっていると思うがな。」

マヤの後ろにいる青葉がつらそうな顔をしてそう呟いた。

「シンジ君! ねえ、シンジ君! 返事をしてよ! シンジ君!!」

マヤはシンジを揺さぶって泣きながら何度もシンジの名を叫んだが何の反応も返ってこなかった。

それを見て青葉はマヤの肩に手を置くと

「無駄だよ! 医者の話じゃ脳にもまったく外傷はないってことなんだ。 だから今のシンジ君の症状はこっちの問題なのさ、かつてのアスカちゃんと同じようにね。」

といって青葉は自分の心臓の位置に手をあてた。

マヤは初めてアスカが目覚めた時のシンジの屈託のない笑顔を思い出す。

そして今の変わり果てたシンジの姿を見て耐えられなくなり一気に感情を爆発させた。

「どうして!? どうしてシンジ君がこんな目に会わなきゃならないのよ!? 一体シンジ君が何をしたっていうのよ!? もうエヴァはないのよ! どうしてシンジ君一人がこんな辛い目に合い続けなきゃいけないのよ!? どうして…?、どうして……………」

マヤの瞳が震えている。

「私のせいだわ…。私がもう少ししっかりしていればこんなことには…。」

それを聞いて青葉はマヤの両肩をつかむと感情を露わにしてマヤに訴えた。

「なあ、マヤちゃん! 教えてくれよ! 何でシンジ君がこんなになるんだよ!? シンジ君達はもう立ち直ったんじゃなかったのかよ? 二人で支え合ってつらい過去を乗り切ったんじゃなかったのかよ!? 教えてくれよ! マヤちゃん!」

マヤは何も答えない。青葉の視線から顔を背けて俯いていた…。

青葉はそれを見てマヤの両肩から手を離すと

「興奮してすまなかったな、それとアスカちゃんにはまだ連絡してないんだ。 かなりショッキングな内容だからな。 けどだからっていつまでも黙っているわけにもいかないよな。 いつアスカちゃんにこの事を知らせたらいいと思う? マヤちゃ………。」

青葉は途中で言葉を飲み込んだ。

「アスカ…………、あの娘が…あの娘がシンジ君を……!!」

マヤの瞳のなかにはアスカに対する激しい憎悪がこもっていた。

 

 

 

翌日、人類支援委員会の本部ビルの冬月の執務室で冬月とマヤの二人が会話を交わしていた。

「なるほど、そういう理由だったのか…。」

事の子細を総てマヤから聞いた冬月は溜息を吐いた。

そしてチルドレン達に監視をつけておかなかった事を後悔した。

冬月があえてシンジとアスカに監視をつけなかったのは二人のプライバシーの保護という事もあったが、何より二人を特別扱いして日本政府からいらぬ疑いを招きたくなかったからだ。だから冬月は第三新東京都市のセキュリティーを強化すれば安全は確保出来るだろうと判断し、都市警備に力を入れただけで二人に護衛をつけたりしなかったが、それが今回裏目に出てしまった。

「すいません。 私がもう少し早く冬月さんに話していればこんなことには…」

うな垂れたマヤを見て冬月は

「いや、長い間一人で問題を抱えて辛かっただろうに…。 気づいてやれなくてすまなかった。」

とマヤの負担をいくらかでも和らげようと暖かみのある笑顔でマヤを慰めた。

それを見てマヤは顔をあげた。マヤの目には涙が溜まっていた。

「私のせいなんです! シンジ君がこんなになったのは私のせいなんです! 私は二人の関係に早くから気づいていたのに、結局何にも出来なかった! それどころか私はシンジ君を追いつめるきっかけさえ作ってしまった! 私が…! 私が…!」

と言ってマヤは嗚咽を漏らした。

冬月は思慮深い目でマヤを見ていたがそっとマヤの肩に手を置くと

「伊吹君、この件は決して君一人の責任ではない! というよりもむしろ私の責任だよ…。 私は口では子供達を守るといいながら、結局シンジ君達に何もしてやらなかった。 傷ついたシンジ君達の心に触れるのが怖かったからだ! その為に仕事の忙しさを理由に物質的なモノを与えるだけで、肝心の子供達のメンタルケアを怠っていた。 だからアスカ君がシンジ君と一緒に住みたいと言った時、私は一も二もなく賛成した。 子供達がお互いを支え合って生きていってくれさえすれば…、そう思っていた。 虫のいい話だな…。 考えてみれば支えられるはずなどないのだ。 自分自身すら支えられないひ弱な子供達がどうして他人を支えることなどできるのだろうか。 私は自分の罪から逃れたいばかりにその事実から目を逸らし続けてきた。 シンジ君達は自分自身さえ支えられない雛鳥のように脆い存在だということをだ…。 その結果がこれだ! シンジ君とアスカ君の虚弱な自我はお互いの重みに耐えきれず砕けてしまったのだ。 結局、私も子供達の心から逃げていただけなのだな。 碇の奴と同じように…。」

冬月は自嘲するような口振りでそう独白した。

「冬月さん…。」

マヤは冬月を見上げる。

「分かっている。 もうこれ以上子供達だけに負担を押しつけたりはせんよ。 今からでも出来ることをするとしよう。 シンジ君に関してはもう手遅れかもしれないが、何とかアスカ君だけでもこの一件を今後に引きずらせないように手配しないとな……。」

苦い顔をしてそう言うと冬月は、デスク上の受話器を取り上げて国際電話を掛けた。

そして、やはり旧ネルフドイツ支部のメンバーで構成された人類支援委員会のドイツ支部の旧知の者に連絡した。

「あぁ、私だ、冬月だ。 実は一つ頼みたいことがあってね。 一人そちらの国に送還したい娘がいるので君の方で便宜を図ってほしいのだが……、大丈夫だ、日本政府の方はすでにマークははずれている。 一般人扱いで出国できると思う。 だからそちらの国で彼女の扱いがどうなっているか調べてもらいたいのだが……、彼女のパーソナリティーは………」

マヤはそれを聞いて黙って執務室から出ていった。

 

 

 

それから三日後、アスカはマヤから連絡を受けて第三中央病院へやってきた。

マヤは一言「シンジ君に会いたかったら第三中央病院の303号病室に来なさい。」とだけ言って電話を切った。

アスカはさすがにこれだけじゃなにが起こったか分からなかったが、どうやらシンジが怪我をしたらしいという辺りで見当をつけた。

アスカはかつて自分が世話になった303号病室の扉を乱暴に開けた。

そして中央のベッドで寝そべっているシンジを発見し、部屋の中には他には人がいないのを確認すると、シンジの襟首をつかんで無理矢理上半身を起こして大声で怒鳴りつけた。

「バカシンジ!! 怪我したくらいであたしから逃げられると思ったら大間違いよ!  よくも三日もあたしをほったらかしにしてくれたわね! あんたには言いたいことが山ほどあるのよ! まずはあたしの首を締めた事について納得のいく説明をしてもらいましょうか!」

アスカはシンジを激しい憎悪の視線で睨み付けたがシンジからの返答はなかった…。

「な…なにシカトかましているのよ! 何時までも寝た振りしてるんじゃないわよ! さっさと答えなさいよ! バカシン……ジ…………」

アスカはシンジを掴んで言いたい放題言っていたが、ようやく舌を停止させた。

シンジの様子がおかしいことに気づいたからだ。

シンジの目は見開いていたが明らかにアスカに焦点があわされていない。

不審に思ったアスカがシンジの目を覗きこんだ。

だがシンジの虚ろな瞳の中にはアスカは写っていなかった。

「シンジ………………」

アスカはもう一度シンジの名前を呼んでみるが返事はない。

その顔からはまったく生命力が感じられなかった。

アスカはそのシンジの様子に一抹の不安を感じた。

「あ…あんた……、なに死んだ振りしてるのよ。あ…あたしを騙そうたってそうはいかないわよ!」

アスカの声が上擦ってくる。

アスカはシンジの胸に耳を当ててみる。規則正しい心臓の鼓動が聞こえる。アスカはその音に安堵すると同時に微かな不安を覚えた。

「ちょ……ちょっと…シンジ……、どうしたっていうのよ。 あんたまさかもう壊れちゃったっていうんじゃないでしょうね?」

シンジは何も答えなかったが、それはアスカの問いを肯定するものであった。

その事を確信すると、アスカは心の奥底からたとえようのない不安がこみ上がってきた。

そしてアスカは自分の心に亀裂が生じるのを感じた。

アスカの心臓の鼓動が早くなる。

なぜだろう?

アスカはシンジがこうなるのを望んでいたはずなのに、どういうわけか取り返しのつかない過ちを犯してしまったような気がしてならなかった。

アスカは血走った目でシンジを睨み、シンジの肩をつかみ無理矢理上半身を抱き起こすと

「いつまで眠っているのよ、バカシンジ!! 起きなさいよ! あんたにはまだやるべきことがたくさんあるのよ!! あんたがいなきゃ誰があたしの面倒を見るのよ!? まだ早いわよ! まだ全然憎み足りないわよ! あんた、あたしの首を締めておいてそのまま逃げられるとでも思っているの!? 答えなさいよ!! バカシンジ!!」

そう言って大声でシンジを罵りながらシンジを揺らしはじめた。

シンジはまるで壊れた人形のようにアスカのなすがままにグラグラと揺らされている。

「ちょっと!! 答えなさいよ!!」

アスカは既に涙目になっている。

「答えてよ! お願いだから…」

だが返事はない。

「シンジ……。」

アスカはやや呆然としてシンジから手を離した…。

するとシンジは糸が切れたマリオネットのように前のめりに倒れ込んだ。

勿論、シンジの空洞のような瞳は何も写していない…。

その人形のような様にアスカは強い嫌悪を感じると同時に、シンジは本当に壊れてしまったことを改めて確信した。

 

『本当にシンジは壊れたんだ。かつてのあたしみたいに……。』

こうなることをアスカはずっと望んでいたはずなのに…、そしてその為に長い時間をかけてシンジを追いつめてきたというのに、なぜかアスカの心に達成感はなかった。

今アスカの心の中に残ったものは深い…深い…底の見えない喪失感だけだった。

アスカは今までずっと自分を支えてきた熱く煮えたぎるようなシンジに対する激しい憎悪が急速に冷え切っていくのを感じた。

そしてそれとは逆にシンジに対する復讐心で自分の心をつつみこんでいた氷の壁がみるみる溶かされていくのを感じた。

冷え切った氷の壁がボロボロと崩れ落ち、今まで押さえ込まれていたシンジに対する熱い想いが表面に現れかけた時、アスカは自分が取り返しのつかない過ちを犯した事を本能的に感じ取った。

 

だがアスカはまだその自分の本当の想いを認めるのを躊躇った。

そしてアスカはそんな自分を誤魔化すように、無理矢理にいつも通りの不敵な笑顔をつくりあげると、蒼い瞳に蔑む色を浮かべて

「あっはははは……!! 本当に壊れちゃったのね、バカシンジ!! いいわよ! もう自由にしてあげるわよ! もうあんたなんかいらないのよ! 壊れたおもちゃに用はないのよ…!! 不様ね!! 本当に無様ね!! あっはははは……!!」

と大声でシンジを嘲笑した。

しばらく病室内にアスカの笑い声が響き渡った。

だがアスカの虚勢は長くは続かなかった…。

偽りの笑顔はすぐに消失し、長い間アスカを捕らえて離さなかった瞳の中の狂気の色はみるみる薄れていった…。

そしてアスカは今まで見せたことがない憂いの表情を浮かべると、自分自身に問いかけた。

「とうとうシンジは壊れてしまった。あたしの望みのままに…。

今あたしの復讐は終わったのね。

これであたしの心はシンジから解放されるのかしら…

今度こそ本当の幸せをつかむことができるのかしら…

なのになんでよ!」

アスカはわなわなと体を震わした。

「なんで嬉しくないのよ! なんで心が痛いのよ!」

アスカは泣いていた。

アスカの蒼い瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「あいつはこうなって当然の最低の人間の屑なのよ!

あたしに酷いことして…、あたしを傷つけて…、あたしの心を壊して…

あいつは当然の報いを受けただけなのよ!

あたしは正当な復讐を果たしたのよ。

なのになんでよ! 誰か教えてよ!!」

アスカは再びシンジの顔を覗きこむ。虚ろなシンジの瞳を見て激しい絶望がアスカに襲いかかった。

「どうしてよ!? どうしてこんなことになってしまったのよ!? 教えてよ! 誰か教えてよ!! シンジィ! シンジィ…!! シンジィ………!!!」

アスカはシンジの胸に顔をうずめて激しく慟哭した…。

 

「これで気が済んだ?」

「!?」

気がつくといつの間にか戸口にはマヤが腕を組んで立っていた。

「マ…マヤ…」

マヤがあたしを見ている。その瞳は冷たかった。

 

マヤはあたしの前まで来ると正面からあたしを冷たい目で睨んだ。そして

「おめでとう、アスカ。これであなたの望み通りの結果になったわね。シンジ君は壊れてもう誰も彼の心に触れることは出来なくなってしまった。勿論、あなたも含めてね…」

マヤは彼女らしくない嫌みな口調でアスカを攻撃した。

アスカはマヤの言葉を激しく心の中で否定した。

『望んだ? これがあたしが望んでいたことだっていうの? 違う! 違う! 絶対に違うわ! あたしが欲しかったのは…欲しかったのは………』

マヤは感情を抑制した声で

「自殺未遂なんだって。 シンジ君はトラックの前に身を投げ出して死のうとしたらしいのよ。 幸いそれは失敗したけど、その時シンジ君は自分の心を殺してしまったみたいなの…。」

正確にはシンジはトラックに身を投げるつもりはなかった。だから真実は今マヤが言ったこととは若干違ったが、表面的な事実だけを符号させればシンジが投身自殺を図ったように見えてもしかたなかっただろう…。

『自殺未遂…? シンジが…? あたしがそこまでシンジを追いつめたの? あたしが…………』

「お医者様もさじを投げたわ。 シンジ君はあなたの時よりも数段酷いケースらしいのよ。 何をやってもまったく外界の刺激に脳波が反応しないんだから…。 ここまで心を閉ざしてしまうだなんて本当に辛い目にあったのね。 お医者様が言うには後はもう本人の生きる意志に期待するしかないって言っていたわ。 それこそ奇跡を待つようなものだわ。 だってシンジ君は生きることに絶望して心を閉ざしたのだから…。」

アスカは顔を青ざめさせて震えている…。

その蒼い瞳には深い絶望が宿っていた。

「けど私はあきらめないわよ。 何年かかるか分からないけど必ずシンジ君を元の状態に戻してみせるわ。 あなたがどう思っているかは知らないけど、シンジ君はこんな酷い終わり方をしなければいけないほどの罪を犯したとは私には到底思えない。 必ずシンジ君をもう一度心から笑えるようにしてみせる。 必ず…!」

そう宣言したマヤの瞳には何人にも侵されない強い意志がこもっていた…。

『そ…そうだわ。 シンジはまだ死んではいないんだ。 こんな状態でもまだ生きているんだ。 だからまだ終わったわけじゃないんだ。 もう一度やり直せるかもしれないんだ。』

アスカの瞳にわずかな希望の火が灯りはじめた…。

そしてアスカは恐る恐るマヤに尋ねる。

「あ…あのね…マヤ…」

だがアスカは最後まで言い終えることが出来なかった。

マヤはアスカを蔑むような目で睨みつけ

「なあに、アスカ? もしかして今更シンジ君を看病したいとか言い出すつもりなの? シンジ君をこんな目に会わせたあなたが?」

棘のある口調でマヤはアスカに尋ねる。

「…………………………………。」

アスカは何も言えない。 言えなかった…。

そんなアスカの様子を見て、マヤは顔から表情を消して呟いた。

「そうね、確かにあなたにならシンジ君も私たちよりは心を開いてくれるかもしれないわね…。」

その言葉に一瞬アスカはかすかな希望を胸に灯らせたが、次にマヤから放たれた言葉が鋭い刃となってアスカの心に突き刺さった。

「あなたを憎むことによってシンジ君はもう一度現実へ還る気になるかもしれないわね。かつてのあなたがそうしたようにね。」

「!!」

アスカは再び顔を青ざめさせた…。

マヤはアスカを冷たい視線で睨みながら

「そうして今度はシンジ君があなたを憎んで再びあなたを壊すわけ?」

『や…やめて…!!』

「そうやって永遠に憎しみあうわけ? 傷つけあうわけ? 壊しあうわけ?」

『もう、やめてよ!!』

アスカは耳をふさいだ。

「そうやって無限地獄を繰り返すわけ?」

『もう、許してよ!!』

とうとうアスカは膝から崩れ落ちた。

そんなアスカを正面から見下ろしてマヤはゆっくりと止めを刺した。

「いずれにしてももうあなたにはシンジ君を介抱する資格がない事だけは確かだわ…」

アスカの瞳に再び深い絶望が宿った。

『そうだ……。確かにマヤのいう通りだ。 あたしにはシンジを見舞う資格なんて…ない……。』

ガックリと肩を落とすアスカ……。

 

すでにアスカの中からシンジに対する憎悪は完全に消滅していた。

今アスカの心の中に残ったモノは深い喪失感と罪悪感だけだった。

アスカは長い間アスカ自身を支配していた狂気から完全に解放されていた。

その事を敏感に感じ取ったマヤは、今までとは違ったやや憐れむような目でアスカを見下ろすと

「哀れね。 失ってみてはじめて自分が何をしていたかに気がつくなんてね…。」

「……………………………………。」

「あなた一人が悪かったなんて言うつもりはないわよ、アスカ。 けど、本当にあなたとシンジ君って不幸な関係なのね…。 誰よりも強くお互いを求め合っていたはずなのにこんな形でしかお互いの愛情を確認する事ができないんだから…」

「……………………………………。」

アスカは頭を垂れたまま何も答えない…。

マヤは感情のこもらない声でアスカに宣告した。

「そう、あなた達は出会うべきではなかったのよ。

だって、あなた達お互いを傷つけあうことしか出来ないのだから…」

アスカはマヤの言葉を否定する術を持たなかった。

 

マヤは急に事務的な口調になるとあたしにこう伝えた。

「惣流・アスカ・ラングレーさん。 あなたに強制送還を命じます。」

「!!」

「お帰りなさい。あなたの国へ…」

『い…いきなり何いってるのよ!?』

「そして忘れなさい。シンジ君のことは」

『忘れる!? シンジのことを忘れる…? そんなこと… そんなこと……』

「もうあなたの復讐は終わったんでしょう?」

『ち…違う!』

「あなたの心はシンジ君から解放されたんでしょう?」

『違う! 違う! 解放されてなんかいない! だってあたしの心は……』

「だったら今度は自分の生まれた場所に還ってもう一度あなた自身の幸せを捜しなさい」

『幸せ!? ここから離れてどんな幸せが見つけられというのよ!? だって、あたしの幸せはシンジと……………』

「シンジ君がこうなった今ならそれが可能なはずよ…」

『マヤ!、お願いだからそんな事言わないでよ! あたしはシンジと…、シンジと……』

だがアスカはその先を言うことは出来なかった。

そうなれる可能性は確かに存在した。

だがその可能性をアスカは自分自身の手で打ち砕いてしまったのだから…。

 

マヤの顔がどんどん紅潮していく。 涙が流れはじめた…。 そしてとうとう耐えきれなくなって押さえに押さえていた感情を爆発させた。

「早く私の前から消えてよ! さっさとこの町から出てってよ! わかってるわよ! あんたが本当は被害者だってことは…。 理性ではわかっているのよ! けど感情が納得できないのよ! せっかくあんなに屈託のない笑顔で笑っていられたシンジ君をこんな風にしたあなたを許せないのよ!」

「マ…マヤ…」

「これ以上あなたの顔を見ていると私はあなたに何をするかわからない。 だからさっさと遠くで勝手に幸せになってちょうだいよ!」

そう言うとマヤは大声を上げてその場に泣き崩れた。

そしてそれを見てアスカはいたたまれなくなってその場から逃げ出した…。

 

 

 

一週間後第三新東京都市から人類支援委員会御用達の特別機がベルリンへ向かって飛び立っていった。20人乗りの広い座席には中央にアスカがぽつりと一人で座っているだけだった…。

アスカを強制送還するという委員会の決定に対してアスカに拒否権はなかった。アスカは未だに自分が大人達に庇護されていた無力な子供であることを思い知らされていた。

 

 

「……というわけでシンジ君の心はサードインパクトを起こして人類の半数を死滅させたという重みに耐えられなかったのよ。 あと付け加えるならまだシンジ君とアスカは二人で暮らすのには少し早すぎたってことかしら…。 あくまで結果としてアスカはシンジ君の心を追いつけるのに一役買ってしまったみたいなのよ。」

マヤは日向と青葉にシンジの自殺未遂の真相に関してそう説明した。

冬月はアスカの真意に関しては誰にも口外しないようマヤに提案し、マヤ自身もそれを良しとした。 だからアスカがいかに悪意をもってシンジに接していたかについては日向達には伏せられたままだった。

「なるほどね…。 だけどだったらなぜ今アスカちゃんをドイツへ返す必要があるんだよ? 今こそシンジ君にはアスカちゃんが必要なんじゃないのか?」

その説明に日向は納得したが、それでもこの時期にアスカがシンジの元を離れることには異論を唱えた。

「残念だけど今のアスカは他人を支えられるような精神状態じゃないのよ。 シンジ君がああなった事についてアスカは誰よりも責任を感じているわ。 だからこのままシンジ君の側にアスカを置いておくと、下手をしたらアスカ自身が再び精神崩壊を引き起こしてしまう可能性があるのよ。 だからここはアスカを一旦親元へ送り返してアスカ自身の精神安定に努めてもらうつもりなの…。 そしていずれアスカの精神がちゃんと自分を支えられるぐらい安定した時、まだシンジ君が今の状態のままだったら、その時こそアスカにシンジ君の力になってもらうつもりなのよ。」

マヤは感情を抑制した声でアスカの送還の理由についてそう説明した。

二人はこの説明に何か釈然としないものを感じていたが、とりあえず引き下がることにした…。

 

 

アスカは客席で俯いたままシンジの写真を覗き込んでいる。それはミサトの遺品としてわずかに残されていた3人の記念写真だった。突然写真の上に涙がこぼれ落ちた。

「シンジィ……! シンジィ……! シンジィ……! シンジィ……! シンジィ……!」

アスカは写真を抱きしめて激しく号泣した。

失ってみてはじめていかに大切なモノを自分自身の手で壊してしまったのか、アスカは思い知らされていた。

 

こうして特別機はアスカを乗せて第三新東京都市から離れていった。

 

 

 

「悪いがそいつを受理することは出来ないな。」

自分の執務室で冬月は目の前にいるマヤに声をかけた。

「ど……どうしてですか?」

冬月のデスクの上にはマヤの辞表が置かれていた。

マヤはこれから自分が精神崩壊を起こしたシンジを看護するためにMAGIの管理責任者を辞退したいと申し出たが冬月はそれを許さなかった。

マヤは感情的になると

「私にはそうしなければならない責任があるんです! シンジ君をあんな風にしてしまったのは私なんです! たとえ一生かかってもかまいません! 私にシンジ君の面倒を見させて下さい!」

マヤは熱意のこもった目で冬月に頭を下げた。

だがマヤが熱くなればなるほど冬月は冷めた声でマヤの熱意に水を差した。

「酷な言い方をするようだが君が総てを投げ出してシンジ君を看護したとしても恐らくは無駄だろう。 シンジ君がアスカ君以上に君に心を許していたとは到底思えない…」

冬月の言葉はマヤの痛いところを直撃した…。

「それに本当にシンジ君の為を思うのなら今君はMAGIの管理責任者を辞めるべきではない。 理由は言わなくてもわかるだろう?」

マヤはその問いに黙って肯いた。

 

今、旧ネルフのメンバーでMAGIを扱えるのはマヤしかいない。 マヤが今の職を辞任すれば当然そのポストは政府から送られてくる技術者で埋められるだろう。

生き残ったネルフの旧職員だけでは絶対数が足りないので政府側から多くの人材が委員会に送られてきたが、冬月がいかに人事に頭を悩ませているのかマヤは知っていた。

冬月やマヤなどの人材は政府から見れば有為ではあっても決して必要不可欠なモノではない。

むしろ政府は、かつてゼーレの偽情報に躍らされて無実のネルフ職員を大量殺戮したという日本政府の暗部の生き証人である冬月らを機会さえあれば粛正したいとさえ目論んでいた。

それが出来ないのは冬月達がMAGIを押え込んでいたからだ。 日本政府がいかにMAGIに固執しているかは、かつて戦時がネルフ本部を占拠しようとした時を思い返せばわかるだろう。

ましてや今の壊滅的な日本を復興させるのにはMAGIは絶対に必要不可欠な存在であり、それを失えば復興計画が根底から瓦解するのは火を見るより明らかだった。

政府が旧ネルフの職員に対して力技ででれないのは、冬月らが有事の際にはMAGIと心中する覚悟で政府に臨んでいるからだ。

極端な話をすれば冬月はMAGIを人質に取ることによって、ようやく日本政府と渡り合っているのだ。

それゆえ政府は子飼いの人材を次々に送り込んで合法的に委員会を乗っ取ろうと企んでいた。

その為に冬月は委員会内部での人事権を最大限に駆使して政府と癒着の強い人材を重要なポストに就かせないよう腐心していた。

このようにおおよそ一般市民の知り得ぬ所で政府と委員会の暗闘は続いているのだ。

今マヤが委員会から退けば遠からずしてMAGIの所有権は政府の手に落ちるだろう…。そうなれば政府が粛正を躊躇うべき理由はなくなり、冬月達の立場も決して安泰とはいかなくなる。

そしてそうなれば今シンジを守っている保護力が一切消滅して、再び政治的な悪意がシンジを傷つけることは疑いようがなかった。

マヤはその事に思いを馳せて唇を噛んだ。

 

「わかっただろう。 人にはそれぞれに役割というものがあるのだよ。 私や君の役割は子供達を取り囲む外的な悪意から子供達を守ること…それだけだ…。 残念だがそれ以上のことは今は出来ない。」

冬月はまるで自分自身を納得させるようにそう呟いた。

マヤは冬月の理論を理性では受け入れたが、感情が納得しなかった。

「それでは…それでは…シンジ君はどうなるのですか?」

「勿論放置しておくつもりはない。 シンジ君には最高の医療設備とその道の一流の人材をつけるつもりだ。 だがそれでも最終的にはシンジ君の生きようとする意志次第という事になるだろうな…。 所詮、人は自分以外の他人の心を救うことなど出来はしないのだ。 それはアスカ君の例を見てもよく分かった。 結局シンジ君が現実へ還えるべき理由を自分で見つけない限りシンジ君は永遠にあのままの状態だろう。」

冬月はつらそうな顔をしてそう答えた。

それを聞いてマヤの瞳に絶望が宿った。

 

こんなことならアスカを残しておけばよかったのだろうか?

たとえ今度はシンジがアスカを憎むような結果になってでも、シンジをこちらの世界へ引き戻す為に最善の手段を取るべきではなかったのか?

マヤはアスカをドイツに送還してしまったことを後悔した。

 

『ごめんなさい。 シンジ君…。』

マヤは心の中で何もしてやれない少年にそう許しを乞うた…。

 

 

 

つづく……。

 

 

 

 

 

 


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ver.-1.00 1997-1/22公開
ご意見・ご感想・誤字情報などは itirokai@gol.com まで!!

 

けびんです。

今回が実質的に二人の補完の前章「AIR」編のエンディングに該当します。

酷い話ですよね…。ようやくアスカが凶行状態から開放されたと思えば、今度はシンジが心を閉ざし、そして大人達の思惑で二人は離れ離れになる…。

自分でも本当にそう思います…。

けどこれが僕なりに達した前章「AIR」編の結末です。

だから二人の関係の修復は後章である「まごころを君に」編に委ねたいと思います。

勿論シンジをこのままにしておくつもりはありません。

だから最終話である第十話では少し変わった形式を用いて前章を締めてみたいと思います。

それでは次は「二人の補完」の前章「AIR」編の最終話である第十話でお会いしましょう。

では。

 

 

 


 けびんさんの『二人の補完』第九話、公開です。
 

 

 遂に壊れたシンジ、
 シンジが壊れたことで狂気を脱したアスカ、

 壊れたシンジ・・。
 

 何もできない大人達・・・

 掛け違う思い。
 行き違う心・・。
 

 

 −Air−編、
 次で締められる−Air−編

 アスカとシンジに−−
 アスカとシンジが−−
 

 明るい笑顔を−−
 

 

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。
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