悲鳴さえ上げる間もなく、少女の体は空高く放り上げられた。
暗い夜道。
人通りはなく、ただ虫の鳴き声がこだまする。
少女がその道を通りかかったのも単なる偶然でしかなかった。
学校を休んだ友人の家にプリントを届ける。
本当にそれだけだった。
その為だけに、彼女は普段通い慣れた通学路をはずれ、人も自動車もあまり通らないこの道を歩いていたのだった・・・。
ドスッ・・・
こういう事を人は「不運」と呼ぶのだろう。
鈍い音を立てて華奢な、だが美しいプロポ−ションの少女の体は冷たいアスファルトの上に落ちた。
だらり、と崩れるように傾く首。
ぱたり、と力を失い崩れ落ちる腕。
ぐにゃり、とおかしな方向に曲がり、重なる両足。
彼女の体から、温もりが徐々に失われていく。
青ざめながら車から降りてきた若い男が、それを見るなり逃げるように車に飛び乗り、元来た方へと走り去る。
後には少女の体、いや、少女だったモノだけが残っていた。
サァ・・・
少し強くなってきた夜風に、綺麗な茶色の髪が揺れる。
少女の澄んだ蒼い瞳は決して閉じることなく、星の綺麗な空を見つめ続けていた。
唐突に目が覚める。
そして気付く。
今、自分がいる場所に。
見知らぬ天井。
記憶にない場所。
(ここは・・・?)
ぼんやりとしていた意識が急速に研ぎ澄まされていく。
周囲を見回す彼女の目には、見慣れないものばかりが映る。
目の前にあるのはガラスか何かだろうか、透明な板が覆い被さっている。
と言うより、ケースのような物の中に自分が入っている様だ、ということにやっと気が付く。
なぜ、と思うより早く右の方でなにか動く物が見えた。。
振り向く・・・いや、振り向こうとする。
陸上部に所属する彼女の鍛え上げられた体は、生まれて初めて彼女の意志に背いた。
体が動かない。
どうして、と考えるより早く、唯一動いた視線だけがそちらを見ていた。
そこには白衣を着た科学者風の男性・女性があわせて5人ほどいる。
「ををっ!!動いとる、動いとる。」
5人の中で一番高齢と思われる人物が初めておもちゃを与えられた子供の様にはしゃぐ。
その隣で30歳前後の背の高い男が表情を変えずに呟く。
「ふむ、成功ですね、所長。」
「あら、それは分からないわよ、友野?。これから失敗が見つかる可能性だってあるのよ?」
「いいじゃないの、今は素直に喜ばせておきなさいよ。みんな苦労したんだもの、嬉しくて当然なんだから・・・。」
横から茶々を入れた化粧の濃い派手な感じの女性を、おとなしそうな女性がおっとりとした口調でたしなめる。
見た感じは対照的な二人だが、仲は良さそうである。
「そうそう、水無月の言うとおり。神坂はそういうとこ現実的すぎるんだよね。あまりきつい事ばっか言うから男ができないんだよ?」
一番後ろの方に控えていたどことなく暗い感じの青年が茶化す。
「お−きなお世話よ!!大体垣内、彼女いないでしょ!?彼女のいないあんたに言われたかないわよ。」
「あ−−−−っっっ!!!言ったね?彼女いないって言ったね?彼女いないって言った奴ほど付き合ってる奴いないんだからなぁ!!」
垣内の言葉に憤慨した神坂は売り言葉に買い言葉、といった感じで言い返す。
だが、垣内も負けてはいない。
激戦は早くも泥沼の様相を呈してきた。
「なぁに馬鹿なこと言ってるのよ!あんたはそんな事ばかり言ってるからもてないのよ!所内でも評判よ?垣内は学生時代は優秀だったらしいけど、どこか馬鹿っぽいから何となく嫌だって。」
「ば、ば、馬鹿って言ったな!?馬鹿って言った方が馬鹿なんだぞぉ!!・・・・・バカァッッ!!」
どちらが馬鹿だかわかりゃしない。
「あ−、うるさい。痴話喧嘩なら外でやってくれ。実験も成功してせっかく気分良く余韻を味わおうと思ったのに、これじゃ台無しだよ。」
普段はあまり表情を変えない友野も、これにはいささかうんざりしたらしい。『迷惑だ』という感情を思いっきり面に出してそう吐き捨てた。
だが、ここの所長・長坂はそうは思わなかったらしい。むしろ状況を面白がっている様だ。
全く困ったじ−さんである。
「ま−、え−じゃないの友野君。君は堅物だからな、こういうのを見てちっとは男と女の関係というもんを知ったらどうかね?」
「結構です。興味ないですよ。」
「そうは言っても、もう32になるんだったか?そろそろ身を固めるという事も・・・。なぁ、水無月君?」
突然話を振られた水無月はどう答えて良いか分からず、硬直してしまった。なぜか頬が赤らんでいる。
そんな水無月を不思議そうに見つめる友野。
横でまだ口喧嘩している垣内と神坂。
彼らを見つめる長坂の表情が一瞬曇る。
だが、すぐ思い直す。
(これで良いのだ。これで・・・。)
しばらく彼らの様子を見ていたが、自分が何をされる訳でもなかった。
なにやら科学者達が議論しているようだ。話し声は全く聞こえないが、盛んに口が動いている。きっと自分には欠片ほども理解できないような学術用語の固まりの会話なのだろう。そんな物に興味はない。
だが。
自分がさらし物になっているような感覚。
どうしてか分からないが、そんな感覚が胸の底から沸き上がってくる。
(アタシはいったい・・・?)
今の自分が置かれている状況が掴めなくて手がかりを探そうとしたが、今分かるのは自分が変な箱の中にいることと、体の自由がきかないこと、それだけだった。
そして。
いったいどうなっているのか、と思うより早く再び意識が遠のいていった。
「そうか、わかった。」
カチャ・・・
インターホンの受話器が静かに置かれる。
髪が完全に白くなるまでにはまだ間があるその男は、真剣な、だが嬉しそうな表情で頷く。
「例の実験、うまくいったそうだ。まだ頭部の起動実験の段階だが、神経系の伝達システムに問題はないようだから次の各システム連動実験もほぼ成功するだろう、とのことだ。」
「そうか・・・。」
白髪の男がもう一人の男に話の内容を報告する。眼鏡の奥には強い意志を湛えた瞳が座っている。その男が視線を動かさずに白髪の男に問いかける。
「事後処理は済ませたのか?冬月。」
「ああ、それも問題ない。彼女は既に事故死したことになっている。」
「そうか、ならばいい。」
「この研究にどれほど力を注いできたことか。もっと早くに完成していればユイくんもあんな事にはならなかったのだがな、碇?」
「今更悔やんでも詮無いことだ。今はあれを完成させることだけ考えていればいい。」
その言葉に二人の表情は一瞬曇る。
「そうだな・・・完成させること、それが最優先だな・・・。」
冬月、と呼ばれた男が呟いた。
碇、と呼ばれた男が押し黙ったまま頷いた。
目が覚めると、そこは白い部屋だった。
壁も、ベッドも、シ−ツも、きれいな白色をしていた。
カーテンだけは薄い緑色をしていた。
それが、ありふれたデザインの病室であることに気が付くのに、そう時間はかからなかった。
(病院・・・?アタシ、何でこんな所にいるのかしら・・・?)
彼女は思い出せなかった。
消毒臭い部屋も、飾り気のないベッドも、やけに高い天井も、全て自分には無縁の物だったはず・・・。
それなのに今、ここにこうしてベッドに横になっている。
という事は何かが自分の身に起こったはずなのだ。
なら、一体何が・・・。
カチャリ
彼女の思考はそこで中断された。
音のしたドアの方を振り向くと、そこには白衣に身を包んだ人間−−−おそらくここの医師なのだろう−−−が立っていた。その後ろには看護婦が一人控えている。
「ご気分はいかがですか?惣流さん。」
「・・・。」
その声が自分に向けられている物だと認識するのに、医師たちが困った顔をするくらいの時間を要した。
「惣流さん、大丈夫ですか?まだ意識がはっきりとしていないのかなぁ?」
呆けた様子の−−−いや、実際には混乱して硬直しているだけなのだが−−−彼女を見て看護婦が心配そうに顔をのぞき込む。
「かなり強いショックを受けて一時的に記憶が飛んでいるかもしれないな。そちらの方もチェックしないといかんな、これは。」
やはり彼女の様子を見て取った医師は独り言のように、そう呟く。
彼女は混乱していた。
このような場所にいる事に、ではない。
自分が『惣流』という名で呼ばれた事。
身に覚えのない名で呼ばれた事に、である。
すぐさま自分の記憶に惣流という名を求める。
だが自分が知る限り、惣流などという名には聞き覚えがない。
ましてや自分がその名で呼ばれるいわれはない。
なら何故そのような名で自分が呼ばれる?
だいたいアタシには立派に・・・・という名が・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
そして得た結論。
惣流って・・・誰?
いえ、そもそも・・・アタシは誰!?