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不器用な僕
   Written by おち・まお




 1. 死というもの


生きる存在に平等に訪れる死というもの。
死者は永遠に苦しみから解放されるという。


本当だろうか?


死ほど安らかなものはないという。
死ほど静かなものはないという。


本当だろうか?


考えてもわからなかった。考えることもできなかった。
頭の中に何の脈絡もない小さな考えが浮かんでは消えて行く。

僕は今まで『死』というものを真剣に考えた事はなかった。
覚えている限り、僕の周りでは誰も死んだことがなかったから。
消えてしまった事はある。でも、それは記憶にほとんど残らない過去の出来事。
そして『消える』ことは『死ぬ』こととは似ていて違うものなのだ。
だから『人が死ぬ』という当たり前の事を、僕は深く考えた事はなかった。


何で…なんで…ナンデ…


だから突然『死』というものを目の当たりにして、僕は心が乱れていた。
同じ言葉が何度も何度も繰り返して頭に浮かんでくる。
無限のループ。答えのでない、悲しい思考のループ。


こんな悲しい事にであうなんて…


時間が流れ、少し冷静になりかけた僕の思考はいつもそこで止まってしまう。
直面した事実をなかなか受け入れることが出来ない。
そしてまた僕の心は千々に乱れ、思考は無限のループに陥っていく。

死というもの。

それは永遠の別れを意味するのだろうか?
それは永遠の苦しみの始まりを意味するのだろうか?




 2. 取り残された僕たち


世界の命運を決める戦い。それは終りを迎えた。
でもその結末は喜びに満ちたものではなかった。
それは関わった人々に大きな傷痕を残していたからだ。
そして戦闘が激しかった分、終った後の静寂は逆に人々を不安にさせたからだ。

警報の鳴らなくなった街で新しい生活が始まる。
大多数の人々にとっては、正体不明の生命体の襲撃は過去の出来事になり始める。
『真実』なんて関係はない。平和という『事実』が目の前にあればそれでよかったのだ。

静かな、そして平凡な時間が流れていく。

ひとつの建物が復旧する。街からひとつ傷痕がなくなる。
その度に人々の心の中から、過去に抱いた恐怖が消えて行く。
新しい建物が完成する。街が少しだけ広くなる。
その度に人々の心の中に、明日への新しい希望が増えて行く。

大きな傷を抱えてしまった僕たちを取り残して。

僕は新しく平和な世界の中で『特別な存在』と言っていい状態になっていた。
平和を満喫することも、信じる気にもなれなかった。
心の平穏を求めることも、傷ついた心を癒すこともできないでいた。

『特別な存在』。平和な時間の流れに取り残された存在だ。

僕は使徒の襲撃のあった時にも、他の人とは違う『特別な存在』であった。
サードチルドレン。でも別に自慢する気にはなれなかった。
あの時、自分が『特別な存在』であるが故に、今、僕は取り残されているのだから。
後悔。その気持ちが一番強かったのだから。

あの時の僕の近くには、同じように『特別な存在』と言える人々がいた。。
綾波レイ。そして惣流・アスカ・ラングレー。
チルドレンと呼ばれた存在だ。彼女らも他の人とは違う『特別な存在』であった。

そしてこの平和な世界でも、彼女たちは僕と同じ『特別な存在』と言ってよかった。
彼女たちも平和な時間の流れに取り残されてしまっているのだから。
彼女たちも、それぞれに大きく深い傷を背負って。

綾波は存在自体、他の人間たちとは違っていた。
その事実に誰よりも傷つき、苦しんでいたのは彼女自身だっただろう。
彼女はチルドレンという存在が不要となると同時に、どこかに消えてしまった。

アスカは自分を見失い、そしてずっと苦しんでいた。
今までの自分の存在価値の喪失。自我の崩壊。
少しは回復したものの、心の不安定さをいつも抱えていた。

そして僕もまた苦しみ続けていた。




 3. 他人の影響


人は成長していくうちに、必ず他人から強い影響を受けて成長する。
それは父親であったりする。母親であったりする。
本の中の登場人物であったりもする。人それぞれに違ってくる。

影響の受け方も違う。
自分の人生を決定してしまうくらいに強い影響を受ける人もいる。
自分の心が縛り付けられてしまうくらいの強い衝撃を受ける人もいる。


僕の場合はどうだろう?


今までに出会った人々の中から、幾人かの顔が浮かんでくる。
どの顔もそれぞれ、違う場面で違う影響を僕に与えた人々の顔だ。

そして最近の事。

この街に来てから出会った人たちの顔が浮かんでくる。
僕が『特別な存在』となるきっかけを作った人々だ。
複雑な思いを抱きながら、僕は色々な影響を受けていった。

それは僕の人生が変わるほどの影響だった。


そして…


自分でも理由も分からない、それでも強い影響を自分の心に与えた人がいる。
僕はその事に戸惑いながらも気が付いていた。




 4. 変わらない僕


ある一時期、僕は色々な事を一日中考えていた事があった。
自分が今も悲しい意味で『特別な存在』であるとに気づいた頃だ。

自分の事。他人の事。色々な事を考え続けた。
考えても分からない事だらけだったが、考えずにはいられなかった。
僕はあの戦いの中で、何度も僕自身の心の中に直面させられたからだ。


僕はアスカの事をどう思っているのだろうか?


そんな事を考えたこともあった。
そして決まってその応えはすぐに返ってきた。
僕はアスカに、決して小さくはない『好意』を抱いている事を知っていた。


何故だろう?


でもこの疑問が浮かんでくると、途端に反応はなくなってしまう。
それでもこの『好意』を否定する材料にはならなかった。

過去の戦いの中で垣間見た僕とアスカの姿。
すれ違い、くい違い、傷つけあっていたその姿。
確かに僕の本心が、あそこにあったのだろう。

心と心の触れ合い。
それは嘘偽りのない世界なのだから。

だからアスカの本心もあそこにあったのだろう。

過去の僕とアスカの関係を振り返って見てもいい。
少しだけ分かり合えた時もあった。楽しい時を過ごした時もあった。
でもそれはほんの少しの時間だけだった。

後にあるのは心の傷つけあいでしかなかった。
そんな相手に対して、普通抱く感情といえば決まっているように思える。
嫌悪感?憎悪?人それぞれ、持つ感情も変ってくるだろう。
もちろん相手をどれくらい想っていたかによっても、また変わるだろう。


…でも…


ならば今、この胸にある重苦しい痛みは何だろう?
この否定のしようもないアスカに対する『好意』の気持ちは何だろう?

変わらない僕。

矛盾するアスカに対する気持ち。
僕は自分の心を把握することができなかった。




 5. 初恋


心の不安定さに悩みながらも、僕はアスカの事を気にしていた。
決して小さくはない『好意』。
それは僕が思っているよりもずっと大きな『好意』なのかもしれない。


バカだな…


そんな自分の気持ちに気がつく時、僕は決まってそう思う。
この気持ちがアスカに届く事なんてないと半ば諦めていたからだ。

僕は『好き』という感情がわからなかった。
他人を好きになった事もなかった。
当たり前だ。僕は自分さえ好きになった事はないのだから。

初恋。そんな恥ずかしい言葉が浮かんでくる。
でも僕はアスカに対して、そんな言葉を使うことが出来るのだろう。


『初恋って実らないんだよ』


ずっと以前に誰かが話していた言葉を思い出す。
その時の僕は、そんな言葉をただ聞き流していただけだった。
でも今なら分かる気がする。

初めて人を好きになって、どうやって相手に自分の気持ちを伝えることができるのか。
どうやって相手の気持ちを理解することができるのか。
わからないことばかりだ。上手く行くはずもない。

もちろん、最初から出来る人もいるだろう。でも僕には出来ない。
僕はものすごく不器用なのだから。

そんな人間は、他人との付き合いの中でそれを少しずつ学びとっていくのだろう。
時には他人を傷付けたりして。時には他人に傷つけられたりして。
難しく考えなくてもいい。普通に生活を送っていれば、ある程度は自ずと身につく事だ。

でも僕はそんな事さえできなかった。普通に他人と付き合うこともできなかった。
僕は他人との付き合いの中で、傷付けられることを極端に恐れていたからだ。
他人を傷付けてしまうことにを極端に恐れていたからだ。

傷ついた時の事を考える。そうするだけで、僕は苦しくなってしまう。
だから傷つかないように他人との交流を極力行なおうとしなかったのだ。

でもその時の僕は、本当の苦しみに気が付かなかったのだ。
相手に自分の気持ちを伝えられないこと。
相手の気持ちを少しも察してやれないこと。
その事がどれだけ自分を苦しめるのかを知らなかったのだ。

自分の心の弱さ故に招く心の苦しみ。
僕はその事にずっと気が付かないままだったのだ。

僕は自分の心の弱さに、泣きたいほどの後悔の念を感じた。




 6. 生活


そんな頃、アスカが長い入院生活を終えて帰ってきたのだった。
不思議なことに彼女は自分の故郷に帰ろうとしなかった。
以前と同様、ミサトさんのマンションで生活を始めたのだった。


でも、なぜ?


この疑問は頭の中に浮かんだけれど、聞く事ができなかった。
聞く余裕さえ僕は少しずつ失っていったのだ。


「………」


僕とアスカとの間には、ほとんど会話らしいものは存在しなかった。
それはアスカが入院していた頃の、病室での二人とあまり変わりがなかった。
アスカへの『好意』をはっきりと認識している分、今の方がもっと苦しかったが。


僕は馬鹿だ…


アスカの態度ははっきりとしている。拒絶だ。
それなのに僕はまだ彼女への気持ちを変える事ができないでいた。


「気分はどう?」
「…ほっといてよ」


僕はその時に出来る精一杯の気持ちをアスカに向けていた。
でも彼女のから返ってくる反応は大抵同じだった。
少し違うのは、以前とは全く違う疲れの色が濃くでた声で返事をすることだ。

アスカとのやり取りは少しずつ僕の心を削り取りとっていく。
そんな僕をその場に取り残して、彼女は立ち上がる。


「………」


居間から出て行こうとするアスカ。
僕はいつものようにその後ろ姿を見送る。


「………」


部屋を出て行く最後の一瞬、アスカは立ち止まる。
少しだけ顔を傾けて、僕の様子を伺う様子。
ドアのノブに置いた右手が微かに震えている。

それは僕の見間違いだったのだろうか。


「………」


とてつもなく長い時間のように感じる、一瞬の沈黙。
アスカは何かを振り切るようにして僕の視界から消えて行く。


アスカは何故、僕の前から姿を消さないのだろうか?


僕と同じ空間、同じ時間を過ごす中で、アスカは何を感じているのだろうか。
僕を苦しめている快感だろうか。それとも僕の知らない何かだろうか。


僕は何故、アスカの前から姿を消さないのだろうか?


分からない。分からないことだらけだった。
自分の事も。アスカの事も。全部。全て。
今の僕の心に重くのしかかっていく。

それでも僕はできる限りの事をアスカにしてやった。
苦痛に心壊されながら。見えない不安に脅えながら。

変わらない僕。いや、変われない僕がここにもいた。


いや、違う。


僕は少しだけ過去を振り返り、そして考えた事があった。
僕は変ったのかも知れない。
少し前の僕なら、この苦痛の生活からすぐに逃げ出していたかもしれないから。

しかしそんな生活は長くは続かなかった。




 7. 病室


僕は病室の隅に立って、アスカをずっと見守っていた。
彼女の周りにいる医者連中の事は、視界に入っていても見えていなかった。
彼女が入院してからというもの、彼らに慌てた様子は見られなかった。
その様子に気が付いてから、僕も薄々と何かの予感に気が付いていた。

僕は心の中でその予感を必死に否定しようとしていた。

後になってから聞いた話だが、アスカの様態はすでに予想された事であったという。
いつそれが起きるか?それだけが問題だったようだ。
故郷に帰らなかったのも、本当は帰れなかったからだという。
故郷までの長い移動時間。その時間にも耐えられるかどうか分からなかったという。
それほどにアスカの体が弱っていたということだ。

そんなアスカの状態だから手術なんてできるものではなかった。
もちろん手術を施したからといって、助かったとはいえないのだが。


何も知らなかったのは……
結局、僕とアスカだけだったのかな?


多分アスカ自身にも、彼女の体に起こり得る状況について知らされていなかったのだろう。
でも彼女自身の体の事だ。彼女は薄々と気が付いていたのかも知れない。

ある日の朝の事だった。いつもと変わらない、天気のいい日だった。
声をかけてもアスカの部屋からは何の反応も感じられない。
僕は心配になって彼女の部屋に入っていった。
その時にはすでに彼女の意識はなかった。
僕はすぐにミサトさんに連絡をして病院の手配をしてもらった。

昏睡状態。アスカは全く目を覚まさない。
僕は不安な二日間を過ごす事となった。

そして三日目。アスカは意識を回復したのだった。
医者が言うには、それは『奇跡的に』という事らしい。

能面のように表情を殺した医者たちが引き上げて行く。
僕も彼らを無視した。僕はただ、アスカだけを見ていた。

清潔なベッドに横たわったアスカ。呼吸を助けるマスクと、腕には点滴。
他には何の機具も機械も取り付けられてはいなかった。

いや、もう外されたのだ。

僕はともすると腰が抜けそうになる下半身に力を入れて、アスカに歩み寄る。
アスカも僕の方に視線を向ける。

うっすらと汗を浮かべたアスカ。微熱と、そして痛みの為だろうか。
彼女の瞳はいつもとは違った輝きを灯していた。
熱に犯された少しうつろな、でも僕には心に残る美しさをやどす瞳の輝き。

最期の時が間近なのだ。

誰にいわれたわけでもない。でもその事ははっきりとしていた。
そしてアスカもその事を十分に理解していたようだ。

僕の心に色々な感情が溢れ出す。
でもそれは言葉にならなくて、小さく僕の唇を震わせるだけだった。

そんな僕の様子を見ていたアスカが、途切れ途切れの小さな声で語り掛けてくれた。




 8. 告白


「ゴメンね…シンジ」


点滴のうたれていない自由な方の腕を動かして、僕に手を差し伸べる。
力のない不安定な動き。それはアスカが必死に腕を動かしている証拠だ。
僕は両手でアスカの手を包み込むように握る。


小さ…い


アスカの手はこんなにも小さかったのだろうか。
僕は痛む心の中でそんな事を考えた。

僕はアスカを見る。アスカも僕を見る。
しばし見詰め合った後、彼女は出来る限りのはっきりした声で言ったのだった。

僕のことが好きだった事を。


「でもね…」


アスカは苦しそうに続けた。
僕の手の中の、彼女の手が震える。

アスカの口元を覆う透明なマスクが何度も短く白く曇る。
苦しそうな呼吸。それでも彼女は言葉を続けた。


「怖かったの…どうしようもなく怖かったの…

 与えられた、シンジの気持ちが…とっても嬉しかったのに…
 本当に気持ちが分かり合えたら…そんな事を考えて…
 とっても…

 でも…どうしようもなく…
 怖かったの…

 失う事が…怖かった…

 与えられて…嬉しさが大きかった分だけ…

 失ったとき…どれだけ、悲しむか…
 どれだけ、苦しむか…

 アタシ、知ってるから…

 シンジの気持ちが…
 他に向いたら…怖かった…

 ひとり…取り残されそうで…
 怖かった…の…」


そんな事ない。
僕は何度も、そう言ってアスカの言葉を遮ろうとした。

でも出来なかった。
アスカの残された時間も、力も、もう後わずかのはずだから。

僕もアスカも、その事を知っていたから。


「だから…跳ね除けたの…
 跳ね飛ばして…振り切って…知らん振りして…

 シンジを傷つけて…
 シンジに…たくさん、たくさん…ヒドイ事して…」


涙がアスカの瞳から流れ落ちていく。


「それでも、自分だけに向けてくれる…そんな…
 そんな、気持ちを…見せて欲しかったの…

 どんな事があっても…
 消えることのない…そんな気持ち…そんな証拠を…

 見せて…欲しかった…の…」


僕は何も言えなかった。
僕は力を少しだけ強めて、アスカの手を握り締めた。


「馬鹿…だよね…

 こんな形でしか…人のこと…
 シンジのこと…
 信じられないなんて…

 ホントにアタシ…
 馬鹿…だ…よね」


ほっと小さな溜息を漏らすアスカ。
そして小さな言葉がそれに続く。


「馬鹿だよね…アタシ…」




 9. 少しの理解


僕に何が言えただろう。

恨みの言葉だろうか?アスカの身勝手さを貶す言葉だろうか?
でも僕はそんな言葉を心に浮かべることすら出来なかったのだった。

僕はアスカの過去を少しだけ知っている。
ミサトさんから教えてもらったのだ。
アスカの事を語る前にミサトさんが言った言葉を思い出す。


『その事を知ったら、シンジ君…多分、もっと辛くなるよ』


そうして知ったアスカの過去は、僕の心に重くのしかかっていった。
全く違う過去を持つアスカと僕。
悲しくも似通っている過去を持つアスカと僕。

もちろんそれでアスカの全てを知ったわけではない。
僕は僕なりに、少しだけアスカの事を理解したに過ぎない。

それでも僕は、アスカのこの気持ちだけは痛いほどによくわかった。


『失うことが怖い』


それは僕も経験し、そして知っている事だからだ。




 10. 僕の気持ち


急にアスカが咳き込んだ。苦しそうな短い咳を何度も吐き出す。
僕は慌ててナースコールのボタンを押そうとする。
でもその動きを止めたのは、他でもないアスカ自身だった。


「もういいよ…シンジ」


そのアスカの言葉に。そのアスカの態度に。
僕はどうしようもなく悲しい気持ちになった。
アスカは半ば生きることを放棄している。
その気持ちに、僕は気が付いてしまったのだ。


アスカに生きて欲しい


その気持ちだけが大きくなっていく。
僕は必死になって心の中にあったものを吐き出していた。
ありのままの、アスカへの気持ちを。


「愛してる…
 愛してるんだよ、アスカ…

 世界中で…誰よりも…
 アスカ…ねぇ、アスカ…

 どうしようもないくらいに…
 自分でもわかんないくらいに…

 アスカのこと…愛してるんだよ…」


アスカの命の灯火が消える間際にこんな事を言っていいのだろうか?
僕のこんな気持ちが彼女を苦しめたりはしないだろうか?
そんな微かな考えも、僕のこの告白を止めることはできなかった。

僕は出来る限りの気持ちを乗せて、はっきりとアスカに告白をした。
僕のこの気持ちが少しでも彼女に伝わるように願いながら。


「だから…だから…」


『生きて欲しい』と言いたかった。でも結局、言葉を続けることができなかった。
アスカの呼吸が段々と弱くなっていくのが分かったからだ。

だから何も言葉にならなくなった。
言いたい事はいくらでもあったかも知れない。
でもこの時の僕には、もう何も言う事ができなかった。




 11. 別れ


僕はもう何も言わなかった。


アスカの方を見て。
両手の中にある彼女の小さな手を握り締めて。


アスカも何も言わなかった。


僕の方を見て。
その瞳からは涙が流れて。


僕たちは見詰め合っていた。


そして短い時間が流れて。
アスカは静かに息をひきとったのだった。




 12. 涙


僕は知らなかった。知らずに生きてきた。
この世界でこんなに悲しい出来事があるということを。


僕はこんな悲しみに出会うために、
今まで生きてきたのだろうか?
僕はこんな悲しみに出会うために、
あの戦いを生き残ったのだろうか?


僕たちは本当に少しだけの時間を共に過ごしただけだった。
心から分かり合えた時間。それは最期のあの瞬間だけだった。

無くしてから気が付く気持ちがある。
それならば、無くす寸前に気が付く気持ちもあるだろう。

僕は無くしてしまう、まさにその寸前に気が付いてしまったのだ。

僕はアスカの事を愛していたのだ、と。
それは『好意』なんていう言葉では収まらない気持ちだったんだ、と。

僕はその事に気が付いてしまったのだ。

最期の瞬間。そこにアスカの本当の素顔があったと思う。
僕はその素顔を見て、そして最期の瞬間を見届けたのだった。

矛盾した気持ちがひとつの心に宿っていたアスカ。
僕を傷つけ、僕に傷つけられたアスカ。
僕の心の中に幾つもの思いが込み上げて、そして過ぎ去っていった。

時間の流れが無意味に感じ始めていた。

僕は呆然とその場所に立っていた。
静かに葬儀が行なわれる中、僕は一人でその場所に立っていた。
心ここにあらず。そういった状態だった。

空は晴れていた。真っ青な空の色。眩しい太陽の光。
それはいつもと変わらない、いつもと同じ空だった。

僕がアスカと出会った頃の空と同じだった。
戦いが続いた時に垣間見る、あの頃の空と同じだった。
戦いが終っても苦しんでいた頃の空と同じだった。

いつもと変わらない、いつもと同じ空。


何も変わっていないように感じるのに…


僕は棺の中のアスカの顔を見た。
最後の別れだ。

僕の目の中に写る、アスカの顔。
血の通っていない肌の色。
表情の全くないその奇麗な顔。


…ああ…


僕は唐突に理解した。
これが人の『死』というものなんだ、と。

僕は初めてその事を知ったのだった。
考え得る限り、最悪の事態を体験してその事を知ったのだった。


…これが…


そしてまた理解した事がある。


これが…最後の…
永遠の別れなんだ…


僕は心の底からそう感じていた。

視界がぼやけていく。
それなのに僕の脳裏にはアスカの顔が焼き付いて離れない。


もう…アスカは…いないんだ…


もう周りの音も声も聞こえてこなかった。
僕は涙を流していた。
拭っても拭い切れない涙を流し続けた。




 13. 絶望感


僕の心には巨大な、とても巨大な空白な空間が存在する。
アスカがいなくなったことで出来てしまった空間だ。
その巨大さは、如何に僕が彼女の事を想っていたのか示すものだ。

そしてその空白な存在が、今は僕に絶望感を与える。
その存在が巨大な分だけ僕に与える絶望感も大きくなる。


いっそ何もかも忘れることができたなら…


出来るはずもないことを考える。
アスカの記憶も、アスカへの気持ちも、確かに僕の中にあったものだから。


いっそ狂ってしまえるなら…


でもそんな事も出来ない事を誰よりも自分自身が知っている。
心の中の絶望感は苦痛となって僕の心に存在しているのだ。
その苦痛が、逆にこの現実へと僕を無理矢理に引き止めているのだ。

僕は失ってしまったのだ。
ただひとつのものを。大切なものを。


ウシナッテ…シマッタンダ…


僕はそうして何日間も、死んだようにベットの中で時間を過ごしていた。




 14. 赤い色


心が朽ち始めれば体も無事ではすまない。
僕の心は死に始め、それを追うかの様に体も壊れ始めた。
どちらが先に活動を止めるか。時間の問題だったかもしれない。

でも僕の心の苦痛は変わる事なく続いていた。
苦痛を感じる感覚だけが、弱まる事もなく僕を責め続ける。


ボクハ…ココハ…


僕はどこに居るのか分からなかった。
でもそれでも良かった。


ココニハ…あすかハ…イナイノダカラ…


体が揺れる。視界もそれにつられて揺れる。
壊れ始めた体は食物を体内に入れることさえ拒否し始めていた。
少しずつ痩せていく体。それでも僕は何も感じなかった。


……?


揺れ続ける視界の中で、光輝くものを見つける。
僕は体を引きずってその光る物体に近づく。


………


僕は手に持ったその物体を無感動に見つめていた
改めて『死のう』なんて考える事もしなかった。
でも僕の意識とは関係なく、体が勝手に動いていた。
僕の心のどこかにあった、自分自身でも気が付かなかった願望をかなえるために。

微かな痛みが手首から這い上がってくる。
でもその痛みは、心の中に存在する苦痛の前には些細なものでしかなかった。
僕はほとんど痛みを感じないまま、それを見ていた。


アカイ…


少しずつ、少しずつ、その赤い色が視界を覆って行く。
そして僕の意識もかすれていく。


…アア…


半分は諦めの、半分は喜びの溜息をつく。
これでやっと解放されるのだと、僕はやっと気が付いたのだ。

僕はそっと目を閉じて、その瞬間を待っていた。
そして何もない暗闇が僕の意識を覆っていき…




 15. もうひとつの涙


太陽の光が眩しくて僕は目を開ける。
眩しさに目を細め、次第にはっきりしてくる光景を見ていた。

白い天井。質素な照明器具。
少し視線を横に向ける。
薄いカーテンのかかった窓。白い壁。

微かに漂う、独特の薬品の匂い。
僕は自分がどこに居るのかを知る。


でも…なぜ?


僕は死のうとしていたのに。
微かな記憶が頭を過ぎる。赤い血の色だ。

僕は自分が何故病室に居るのかが分からなかった。
それよりも何故自分が助かったのかも分からなかった。

答えが現れたのは、それから30分くらいしてからだった。


「本当に、本当に心配したんだから!」


ミサトさんは怒っているような声で僕に言った。
僕が助かった喜びもあるのだろう。
でもそれ以上に、僕がした事に対する怒りの方が大きいのかも知れない。


「自殺なんて、馬鹿な事を…」


ミサトさんが僕を発見した時にはかなり危険な状態だったらしい。
左手首の傷痕。右手に持ったナイフ。流れ出た大量の血。
何があったのかは一目瞭然だった。
もうあと少しだけ発見が遅れていたら、僕はここにはいなかったそうだ。


そうしてくれれば…よかったのに…


ミサトさんの話を聞きながら、僕は心の底でそう考えていた。
死んでいればどれだけ楽になったかを考えながら。

もしかしたらその考えが僕の表情に表れていたのかも知れない。
気が付いた時には僕はミサトさんに思いっきり殴られていた。

その痛みは、手首を切った時の痛みよりもすごく痛かった。

僕は痛む頬を押さえながら、やっとのことでミサトさんの方に目を向ける。
僕の目と、ミサトさんの目が真正面からぶつかりあう。


「シンジ君が死んだら…アタシはどうすればいいの…」


ミサトさんの目から涙が流れて行く。
それは怒りのあまり感情が高ぶって流れた涙だったのか。
それとも僕が死んでしまった時の事を想像して流した涙だったのか。
多分彼女自身にも分かっていなかっただろう。

でもその涙は、僕の死にかけていた心に強い衝撃を与えていた。


…なみだ…


僕はミサトさんの涙を見ていた。
そして僕自身も知らないうちに涙を流していた。
もう枯れ果てたと思っていた涙を。


「シンジ君が死んじゃったら…シンジ君も死んじゃったら…
 悲しむ人がいるの…
 悲しくて、悲しくて…泣き出しちゃう人がいるの…」


ミサトさんの言葉が僕の耳に入ってくる。
そして僕は理解したのだった。

ミサトさんは僕のために涙を流しているのだ、と。
僕はひとりではないのだ、と。




 16. 墓前


空白の時間がどれくらい過ぎたのだろうか。
でも確実に時間は流れていた。
そしてその苦しい時間が流れた後、僕はこの場所に立っていた。

小高い丘の一角を占める共同墓地。


アスカ…
見晴らしのいい場所で…よかったね


僕はアスカの墓前に一人立っていた。


長い時間がかかったけど…
やっと気持ちの整理がついた…気がするよ


僕は墓前の前で、心の中でそう報告する。
もちろん奇麗さっぱりと自分の心の整理がつくわけがなかった。
それはもう少し時間のかかる事だったからだ。
だから今は少し曖昧な表現を使ってアスカに報告する。


僕は僕なりに…
精一杯生きて行くよ


それが結論だった。

空白の時間はもう戻らないけど、少しずつ僕も現実の時間の経過の中に戻って行こう。
時間がかかったけど、僕はそう自分自身で決めたのだ。

それをアスカに伝えたかったのだ。

死ぬ事でもいい。全てを拒否する事でもいい。
全てを諦めてしまえば、僕は少しは楽になれたかもしれない。

でも僕は生きる事を選んだのだった。
それが一番ツライ道である事は承知していたけれど。

僕は歩き始めた。




 17. 消さないために


僕の中のアスカへの気持ちはなくなったわけではない。
その気持ちが大きかった分、無くしたときは本当に苦しんでいた。
死にそうになるくらい。そう表現したとしても、それは大袈裟なものではなかった。
事実、無意識に自分の命を絶とうとした事もあったのだった。

今生きているのは、ミサトさんが密かに見守っていてくれたからだろう。

そしてその時になって僕は気が付いたのだった。
僕はひとりではない事に。
僕はその時になってやっと他人の存在を受け入れる事ができたのだった。

そして時間は流れて…

僕は生きていこうと決心したのだった。

アスカへの気持ち。それは本当に僕の心にあったものだ。
その事実を消さないように、僕は必死になって行きていこうと考えたのだ。

そしてもうひとつ。

最期の瞬間、短い時間とはいえ、僕はアスカの本当の顔を見たのだった。
嘘偽りのない本当のアスカの顔だ。
そしてアスカの気持ちも、確かに僕は僕の心に刻み込んだのだ。


そんな僕が死んでしまったら…
この世界から消えてしまったら…


僕が消えたら、アスカの気持ちも何もかも消えてしまう。
『アスカ』という女性が、本当に消えてなくなってしまう。
『アスカ』という誰も知らない彼女の素顔が、この世から消えてなくなってしまう。

だから僕だけではない、アスカの為にも生きていこうと考えたのだ。

長い時間がたち、この苦しみも心の傷痕も受け入れられるようになるかもしれない。
『未来の僕』は『今の僕』のこの気持ちをも受け入れられるようになるかもしれない。
新しい出会いがあり、その中で他の誰かに新しい気持ちも抱くかもしれない。

でもそれは長い長い未来の話だ。

今の僕は、精一杯に生きていこうと思う。
アスカへの気持ちを忘れないように。
アスカへの気持ちを消さないように。

生きていこうと思う。




 18. 不器用な僕


結局、僕は僕のままだった。
不器用な僕。昔のままだ。
アスカが僕の前から消えてしまっても、僕は彼女への気持ちを変わることがなかったのだ。

それでもいいと思う。
それが僕らしいと思う。

もしアスカが生きていたとしたら…
もっと違う結末になっていたかもしれない。
この気持ちをすっぱりと諦められたかもしれない。

そんな事を考えなかったわけでもなかった。
でも現実は残酷で、そして今の僕がいるのだ。

不器用で、あまりにも不器用で。

僕はアスカへの気持ちを忘れなかった。




 19. 思い出


過去を振り返る時は結構決まっていると思う。
過去を懐かしむ時。過去を後悔する時。
それがほとんどだろう。

そして後悔する事の方が遥かに多いだろう。
過去を振り返るのは、後悔をするため。
そんな悲しい気持ちまでしてくる。

僕の場合、振り向けば後悔ばかりのような気がする。

あの時もう少しうまく動いていたら。
あの時もう少し勇気を出していたら。
その連続だった。

だから僕はもう振り返る事はしなかった。
そうしなければ生きていけないから。
僕は前を向いて必死に生きていった。
道は僕の後ろにではなく、前にしかないのだから。

でも確かにあった僕の過去の記憶。
そして確かにあったアスカの記憶。
アスカへの気持ち。そして思い出。

それを確かに僕の奥にしまって。
僕は生き続けた。




 20. 夢


…それは夢…


…幻のように儚い…


…でも確かに見た…


…でも、それは夢…





「久しぶりだね、アスカ」
「……」


「チョットは自慢してもいいかな?
 僕はアスカへの気持ちを、決して忘れなかったよ」





…それは夢…


…僕は少年の姿をしていた…


…そして目の前にはアスカがいる…


…あの頃のアスカが…


…でも、それは夢…





「知ってるわよ」
「…なんで?」


「だってずっと見てたもの。
 相変わらず不器用で、馬鹿な生き方してるなって…」
「…うん」

「忘れてしまえば、もうちょっと楽に生きられるのにって…」
「…うん」





…それは夢…


…確かにあった彼女の笑顔…


…素直で素敵な彼女の笑顔…


…アスカの笑顔…


…でも、それは夢…





「でもね…」
「うん?」


「…ありがとう…
 …シンジ…


 とっても…
 言いあらわせないくらいに…
 嬉しい…


 嬉しいよ、シンジ…」





…それは夢…


…永遠にも思えるような、でも短い僕の人生…


…その中を必死に駆け抜けた後に見た…


…それは最後の夢…






NEXT
ver.-1.00 1999_11/13公開
ご意見・感想・誤字情報などは ochimao@ops.dti.ne.jp まで。





 おち・まおさんの『不器用な僕』、公開です。






 失って
 潰れて、

 辛いね。


 その時までも、
 そのときも、
 そのあとも、

 ・・・。


 いやでもしかし、
 少しずつ前になっていって・・・


 前になっているのでホ。
 それが少しずつなので更にホ。

 そんな気持ちです(^^)



 チョットずつ、
 少しずつ、

 ネ。






 さあ、訪問者の皆さん。
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