砂塵舞う、荒涼の大地…大陸の中央に広がるこの砂漠も、間もなく途切れ、前方にそびえる、雪を頂く山脈を越えれば、緑の草原が広がるだろう…
男の視界に、小さな緑の染みが映る…オアシスだ。砂漠のほとり、地下を伝い時に地表に現れ、人々の暮らしを潤す、山々の雪解け水。周りには、恐らく集落がある…
「…此所からは、帝国領か…辺境ゆえ、司直の手は回ってはいるまいが…」
少なくとも、水と食料にありつけるのは、有り難い事ではある。一部の例外を除き、禁欲的な生活習慣…彼もまた、東方の兵法者であると言う事か…を持つ彼にとっても、2000クビトに及ぶ砂漠の旅の終わりを意味する其れは、その心に某かの安らぎを与える物ではあった。馬を買える懐具合では無いための、徒歩による長旅…やがて、西域風の日干し煉瓦を用いた家屋の並ぶ集落に入る。程なくして、目当ての建物…大陸の西一帯をその版図とする、「獣」の帝国と、東方を往来する商人達を目当てにした安宿を見つけ、戸口をくぐる。集落において、二番目に大きい二階家の其処は、やはり、酒場として行商人、辺境の小競り合いで食いつなぐ流れの剣士や傭兵達で賑わっている…連中の甲冑に記された紋章からして、一帯の領主は、「獣」に対する忠義は薄いと見ていいだろう。空席に腰を下ろし、外套の頭巾をはぐる…現れたのは、髭面…目付きの鋭い、東方風の色眼鏡をかけた、黄色人…おそらくは、彼等が「ソムラーイ」と呼ぶ、東方の剣士。注文を取りに現れた親父の顔に、緊張が走る…外套を脱ぐ。その下から現れた「具足」と呼ばれる軽い動甲冑には、「獣」の軍勢の刻印はなかった…「獣」、皇帝の抱える数少ない人間のみより成る騎士団、「黒旋風」の、黒い山犬の紋章は、何処にも無い。
「…し、失礼しやした、旦那。東方のお客さんを見かけやすと、つい…何にしやしょう?」
露骨に安心の表情を浮かべた主を、無愛想に一瞥する。
「酒だ…この辺りは、胡酒の名所だそうだな?それを一つ頼む…」
やがて、親父が素焼きの大きな杯に、赤紫に濁った液体を満たして運んでくる
「問題ない…気にするな、馴れている。」
未だ、何処か恐縮しているらしい親父に声を掛け、杯を受け取った…この男、人相の割に、案外温和なのかもしれない…そう思わせる言葉。その声はあくまで無愛想ではあったが。この辺りの住人達は、砂漠の民特有の彫りの深い顔立ちと、褐色の膚を持っている…訛り、容貌から彼が目立つのも、当然の事かもしれなかった。商人ならばともかく、剣士である以上は。腰に帯びた反りのある長剣、その、周囲に与える、無言の「気」の圧力…先ほどの詫びのつもりか、小皿にのった瓜の塩漬けが運ばれてくる。無言のまま、くつろいだ表情一つ見せず、杯を口に運ぶ…しかし、無愛想な男だね、「獣」共の手先じゃないのは助かったが…そんな、周囲の客達の視線なと、何ら気にせぬまま。
「…おっさん!おい、おめえだよ、黄色いの!…ソムラーイなんだろ、え?恰好付けた甲冑着やがってよ…」
したたかに酔っているらしい、上腕に筋肉を盛り上がらせた、大柄な白色人。酒場の一角を占領し、先ほどからしきりに怒声や耳障りな笑い声を上げている、傭兵の一団の一人らしいが…酒肴を運ぶ娘にしきりにちょっかいを出していた…わざわざテーブルの側までやって来る…
「サムライだ、正しい発音は…これは具足と言う…私に、用か。」
アルデヒドの臭いのする鼻息…テーブルに付き、口元で手を組む男の顔をわざわざ覗き込む…いきなり、テーブルの上の飲み差しの杯を取り、男の頭上で傾ける…細い筋になった酒が、男の頭に当たって飛沫を上げる、しかし…男は手を組んだまま動かない。まるで石造の様に…すっかり空になる杯。凍り付く辺りの客達…はやし声をあげる西方から来た傭兵達、店の奥に隠れて、震えながら様子をうかがう親父…動かない男。
「!…なめてんのかよ、このゴート様をよ…何とか言ったらどうなんだよ、ええ!?サムラーイ様よ!…ふん、腰抜けが…手前等黄色人は一人じゃ何にも出来ねえんだよな、ああ?」
男の胸座を掴み、椅子ごと床に叩き付ける。ゆっくりと起き上がり、椅子を立てると何事も無かったかのように席に付く男。馴れている…彼等が自分に喧嘩を売りたがる理由も、知っている。或る意味では、其れが自分の責任と言える事も…恐らくは、家族や多くの友を帝国によって失ったのだ、彼等も…其れで気が済むのなら、良いだろう…鼻息を鳴らして、席に戻る大男…
「親父、済まんがもう一杯たのむ。流れてしまったのでな…」
慌てて、杯を手に飛んでくる親父…男に何やら詫びながら、布切れで頭を拭こうとする…微かに苦笑を浮かべ、布切れを受け取って、自分の頭を拭う男…
「ちょっと!やめなさいよあんた達!…放せっ!何考えてんのよっ!?」
陶器の割れる音、叫び声…少女の物だ。先ほどの傭兵連中の居る一角…女給の、長い栗色の髪の、まだ14、5位の娘か…白色人、西方の生まれらしい訛り。毛深い男達の手から、なにかを奪い返している…生き物?リザードマンの幼児の様だ…
「…良いじゃねえかよ?おめえだって気にいらねえだろ…気色の悪い化け物に、部屋んなかをちょろちょろされたんじゃよ…」
「馬鹿言ってんじゃないわよ!パムは…亜人間は化け物なんかじゃ無いのよ!?あたしの弟に汚い手でさわんじゃないわよ、この馬鹿!!」
その、青い双眸を傭兵達に向ける少女…射る様な、澄んだ猫科の獣を思わせる瞳…
「おとうと、だぁ!?…いかれてるぜ、この餓鬼。てめえも西方の人間だろうが!こいつ等ぁ、獣の手先の化け物だろうがよ!!…はん、そうかよ。おめぇも、そのかわいいお顔の下にゃ、青い血が流れてんのかよ…おい、確かめてやろうぜ!」
「おっ、お客さん!…アスカに、うちの娘に乱暴は!」
「いやっ!放せ、この馬鹿変態!!…あっ!?ちょっと!パムをどうする気よ!!」
暴れる少女の手足を押えにかかる男達…彼女の衣服を剥ぎ取ろうとする、傭兵達を止めに入った親父も、結局は、難なく弾き飛ばされてしまう…相手は傭兵だ。闘奴か剣士でもなければ、歯が立つ筈も無い…先ほどの、ゴートと名乗った男が、まだ3歳くらいの、布切れ一枚の小さな衣をまとった、リザードマンの子供の襟首を鷲づかみにして、高く掲げる…その手首に噛み付こうとする子供。
「ネエチャンヲ、ハナセ!サモナイト…」
「おお!?喋るぜ、この玩具はよ!…中を調べてみようぜ。首をもがねえとな!」
「やめておけ…」
静かな、低い声。部屋の隅…何時の間にか、外套を纏い、テーブルを立つ男。
「…リザードマンは誇り高い戦士の種族だ。例え幼子と言えども、礼をもって対するのが戦人の作法と言う物だろう。」
軽蔑しきった眼差しを、黄色人の剣士に向けるゴート…微かに、男が笑う…激昂する傭兵。
「…笑ったな!!てめえ、この俺を!腰抜けの黄色野郎が!」
テーブルに立てかけてあった、北方蛮族風の幅広の剣をいきなり抜き放つ…尚も動かない男。
「…ぶっ殺す!…!?どうしたよ!抜け!…びびってんのか!?インポ野郎!」
慌てて周りの客達が避難する…口を開く男。
「…此所は手狭だ。表に行け…恥を知るなら、一人でな。それから…」
勘定をテーブルの上に置き、見事な曲線を描く長剣を携えて戸口に立つ。
「私の名はゲンドウ。ゲンドウ・ウル・ロクブンギ…覚えておけ。」
その名を知らぬようであれば、この世界に生きる資格も、無いだろう…
ノートゥリアス・トゥーリスト・フロム・イースト
「…急々如律令…雷!」
「!?」
野太い、聞き苦しい絶叫…戸口から漏れる、青白く明滅する、激しい閃光。ドサリ…重い、湿った砂袋を地面に放り出したような音…
「?…どうしたよ!?おい、ゴート!!」
只ならぬ、異様な気配…怒号も、気合や刃を交える金属の跳ねる音も…表からは何一つ聞こえてこない。席を立つ男達…今まで慰み者にせんと押さえつけていた少女や振り回して遊んでいたリザードマンの子供を放り出し、自分達の得物を引っ掴むなり戸口に殺到する…視界に入る、黒焦げの、ぼろ布と、半身に甲冑を纏った、牛か豚の丸焼きのような物…薄笑いを浮かべて立つ、黄色人…
「!?このエテ公が!…!?」
「…怨、摩利支鋭娑婆可…石化(ゴルゴネイオン)!!」
彼等が、それ以上動く事…指一つ動かす事は、出来なかった…地面に転がる、程よくローストされた男を含めた、傭兵達全員が、石英質の、見苦しい石像に変わっていたのだから…鎧や衣服を纏ったままの、黒光りする光沢を持つ、蛮人の立像…
「…こいつ等、見かけほど羽振りが良い訳では無いのか…ちっ、しけている、つまらん…」
なぜか、石像達の懐を探る…いや、漁るサムラーイ…
「…こうやって、また追いはぎの片棒を担がせるわけね。ゲンドウ、そろそろ好い加減にしないと更に友達をなくすわよ…」
通りの向かい、淡い褐色の日干し煉瓦建ての屋根に腰掛けた、白いローブを纏う、金髪の女…風体からして魔導士らしいが。
「…遅かったな、リツコ。心配せんでも、ちゃんと分け前はある…」
「…そう言う事では無いのよ…貴方に言うだけ無駄…?…!……」
こめかみを押さえている女魔導士は、ゲンドウの怪しいローアングルな視線に気付く…慌ててローブの裾をなおし、其処から覗いていた見事な脚線美を隠してしまう…
「…貴方ね…」
怒りに震えるリツコを尻目に、収入の回収を再開する髭男。少なくとも元手分だけは回収しなければな。リツコの奴、ぼったくりおって…雷撃呪符一枚プラス石化呪法…彼女はいつも現金払いを要求する。ゲンドウに関しては特に…当然の事ではあるが。しかし、
「…白は止めておいた方がいいぞ。汚れが目だ…どわあぁぁあっ!!」
「怨、唖毘羅ウン妍…炎!!」
印を結ぶ、詠唱…ゲンドウを取り囲む炎の輪…助平中年に天誅が下る。何を怒っている?自慢のローブが汚れるのを心配してやっていると言うのに…疑問を抱いたまま、尻に付いた火を消すべく走り回っているゲンドウ。
「…無様ね…炎術の代金は、ツケておいてあげるわ、感謝しなさい。」
「なっ、何故だ、リツコ?…」
軽い身のこなしで屋根から舞い下り、代金を取りたてると、戸口をくぐり、二階に上がっていくリツコ。彼女もこの宿に泊まっているらしい。ひるがえる純白のローブの裾を、恨みがましい視線で見送るゲンドウ…
「…信じられれないでしょうね、誰も…あれが『雷挺王』のなれの果ての姿とは…でも…」
薄暗い木造の階段を上りながら、呟くリツコ。…出来る事なら、今のままの姿でいて欲しい。過去を、帝国も、あのひとの事も、全て忘れて…それが無理である事は、他ならぬ彼女が最も良く知っている。現実なのだ、其れは…想い出などではありはしない。彼が、息子だった男と、彼の全てだった妻を斬らなければならない事は…
「最期の誇りなの?それとも…愛しているから?今でも…」
幾度となく、繰り返した問いを一人、呟いた…
「しっかし、卑怯なおっさんよね…」
御者台に座ってたずなを握っている少女…宿屋の女給をしていた、アスカと言う娘である。横に腰掛けている幼いリザードマン、パムが答える。
「…アノヒト、ツヨイヨ。テガごつごつニナッテタンダ。指ノマタニモ、瘤ガアッタ。ソンナテヲシタ人間ハツヨイ剣士ダッテ、トウチャンガイッテタ…」
「…納得いかないわね、ガル伯父さんが言ってるのは、本当なんだろうけどさ。結局全部ハッタリだったじゃない!あーあ、感動したあたしが馬鹿みたいじゃないのよっ!」
腹立ち紛れに鞭を入れ、馬の速度を上げさせる…葡萄畑のなかを走る街道、野良仕事の帰りか、行き来する村人達が、馬車の音の方を見て、たずなを取っているのが宿屋のお転婆娘である事に気付く…慌てて、道の脇を沿う畑の畦に飛び移る…あの暴走癖と、喧嘩っ早いのが無ければ、いい娘なんだけどねえ…と言うのが村人達の間でのアスカの評判だった…可哀相な娘なのよ、身寄りもなくって…旅のリザードマンの剣士が、連れてきたんだって?…西方から逃げてきたんだってね、なんでも帝国の役人に追われてるとか…関わり合いに成らない方が、身のためだよな…ハッサンもお人好しだよな、病で死んじまった泊まり客の子供と一緒に引き取るなんざよ…子無し夫婦だからなぁ。それにしても、亜人間と、お尋ね者の白色人の養子とはね…つまらない噂話なんて、もう沢山よ!面白がってあたし達にちょっかいを出す、村の餓鬼共も、へらへらあたしにすりよってくる、下心むき出しの軟弱野郎も!!また、旅がしたいな、ガル伯父さんは、もういないけど…今のパパは良い人なんだけど、やっぱりこの村はつまんないわよ…
「…早く大人になりたいな…ねえ、パム。そうしたら、又旅にでよっか?あんたも、伯父さんみたいな強い剣士になりたいんでしょ?武者修業よっ!」
「やめておけ…師と仰ぎ、或いは剣を交えるに値する兵法者など、今は数えるほどしかおらん。いかに世界が広くともな…此処は良い土地だ。宿の主も義に厚い男のようだ…地道な生活ほど尊いものは無い…」
荷台からかかる、声。6体の、身包み剥がれた黒い石像…やたらと筋肉質なむさ苦しい野郎共の裸体像が転がっている、その上に腰掛け、長剣を抱いて干し草の山に持たれて寝そべっている、髭の剣士。振り向かないまま、常識を代表した怒りに肩を震わせるアスカ。
「あんたにそんな事言われる覚えはないわよっ!!このイカサマ親爺!聞いたわよ、あの金髪魔導士にっ…あんた、帝国中でお尋ね者の詐欺師だそうじゃない!このまま、領主様の館へ突き出してやろうかしらねっ!!」
「そんな真似をすれば、困るのはお前も同じではないのか?追われているのだろう…何をやったかは知らんが…土地の領主、ヒューガ公爵は「獣」に対し批判的とも聞くしな。どちらにせよ、お前が私を官吏共に引っ立てる事は出来んと言う事だ。」
「ぐっ…憶えてなさいよ、くそ親爺…」
歯噛みするアスカ。この中年は…嗚呼、ほんの一瞬でも、なんて渋いオジサマ…なんて思ったあたしが馬鹿だったわよ!…あの後解った、ゲンドウの仕掛けたイカサマの数々…戸口に立った時に仕組んだ、雷撃呪符…挑発し、外へおびき出した瞬間に作動して感電、黒焦げにするつもりだったのだ、初めから。ポケットの中の、精霊石でリツコに言霊を飛ばして連絡をつけながら…その時に、抱えている御大層な長剣が、実は竹光である事も知った…なんてとんでもない親爺!!ゲンドウに言わせれば、名乗った時に気が付かない方が悪い、と言う事になるらしいが…ゲンドウ・ウル・ロクブンギ…帝国の裏稼業にその名を知らぬ者の無いペテン師…最っ低!!
「あの森の奥か。さっさと終わらせて、飯にしたいものだな…」
道の先端が深い森に入っている…目的地は、その奥にある深い淵。リツコの石化呪法の効き目は約200年…本来は、不老不死を求めた賢者達の研究の副産物なのだ。領主の雇った傭兵達を石にしてしまった以上は、目に付かない所に捨ててこなければならない。ならば、森の淵の底に沈めてしまおう、と言うわけである。此れが美女か美少年、そうでなくてももっと美しいものであれば、名のある匠の作と偽って、売り払ってしまえるのだが…口惜しがるゲンドウ。むさ苦しい野郎の像など、砕いて漬物石にしてくれる、と言い出すゲンドウを流石に宿の親父、アスカの養父が止め、この淵を教えたのだった…森の木々の隙間から、時折見える巨大な構築物…闘技場の様にも見えるが、都から遠い、この辺境、しかもわざわざ、大して広くはない森の中心を切り開いてそんな物を建てるだろうか…しかも、それは、工事半ばで放置されているらしく、櫓や足場はそのままにしながら、人夫や職人達の姿は見られない…
「奇妙な物だな…領主一族の墓でもあるまい…」
「…領主様の物じゃないわ。造らせてるのよ、獣が…うちに飲みに来る土方連中や職人さん達は、『魔法陣』とか、『転移の法』とか良くわかんない事言ってたけどね…」
答えたアスカは前方を…森の道は足場が悪く、注意しないと車輪を捕られるのだ…注視していたため、気付かなかった。その言葉を耳にした時の、このイカサマ中年の顔が、自分を育ててくれたリザードマンの様な、兵法者…血と刃に生きる者のそれになっていた事を。
「…遂に、始める気か、シンジ…世界を、人々を…ユイを…お前はどうするつもりなのだ…」
既に感情さえ消えてしまった、その呟きは少女達の耳に届く事はなかった。苦悩の果てに、失われていく人の心…やるべき事は、やらねばならん、いずれ…鬱蒼とした樫の茂みに隠れ、其れは再び彼の視界から消えた…
「御館様、陛下より、報告を求める書状が…」
一帯を潤す伏流水の水源に程近い扇状地の中央に立つ、ささやかな規模の城郭都市、その楼の一角…帝国、人々が「獣」の、と言う冠詞を密かに付ける、エンジェリア・リリムラント帝国の辺境に位置するサキエリアの領主は、緑に潤う、彼の拝領しているこの土地と、其処に生きる人々の生活を眺めると言う、日課の一つを邪魔される事になった…よりによって、彼の最も嫌悪している人物からの督促の手紙によって。
「解っている…火にくべてしまいたい物だな…失言だ。聞かなかった事にしてくれ。」
マコト・ライ・ヒューガ、若干23歳の若き領主は未だ十代の内に、病に倒れた前領主である父より、その家督を受け継いだ…ゆえに、時に「青い」理想に燃える彼は潔癖な気性も手伝い、治水システムの大改革等の事業を次々と断行し、今の所概ね良好な成果を収めていた。民衆の人気もそこそこに在る…其処までなら、彼の人生は順風満帆と言って差し支えはなかろう…たが、今彼はその「青さ」ゆえに余りに危険な賭けに出ようとしている…
「どうなさいましたの、マコト様…怖い顔…似合いませんわ、そのような御様子は…」
背後にそっと寄る、気配…艶やかな、微かに湿りを含んだ、女の声。振り向く。其処に立つ女…豊かな長い髪、正に、香い立つが如き色香を纏う美女…時に少女の様な表情さえ見せるが、彼よりはずっと年上の筈だ…そそくさと消える従者。小さく、口中で舌打ちをしつつ…
「女狐が…」
「貴女が気にとめる様な事では無い…案ずる事はありません、ミサト殿。」
この年にして、邪気の無さ過ぎる笑顔…ある意味、彼の為政者としての致命的弱点。微笑む、ミサトと呼ばれた女…何処か仇っぽいその仕種と、相反する気品…二重に重なる「聖女」と「娼婦」…纏っているドレスはこの地方には、舘のうちにおいてさえ希な、遠い都の雅な品…帝国の女官としてこの地に訪れた彼女は、任期を終えた後もサキエリアに留まっている…それは、マコトの強い要望によるものでもあった。
「舘の内に、兵達が集まっておりますわ…西方の蛮族達や、大きな弩、戦車…戦が始まりますの?いずこからか賊が…」
おびえた様子のミサト…彼は知らない、集まった兵士達など、彼女がその気になれば、たちどころに唯の肉塊に過ぎなくなる事を…武芸をたしなむ、と言った所で精々が巻き狩りや馬上試合程度の物に過ぎないマコトに、ミサトの足の運び、振る舞いが並みの武芸者の物ではない事を、見抜ける筈が無かったのだ…エンジェリアの貴族の家に生まれた、学問に秀でた深窓の令嬢…その程度の認識でしかない。そんなマコトが、志を同じくする者達以外には、たとえ肉親といえども口にしてはならない秘密に至るまで、洗いざらいミサトに打ち明けてしまった所で、何の不思議があろうか…いや、既に親族や同志以上の存在だったのだが…それが、マコトの側のみの認識であったとしても…
「近いのです、時が…獣の暴政から、人々が解放される…約定は既に、シャムシェラント、ラミエリア、ガキエリア…辺境諸国の諸侯全ての間で交されているのですよ。獣の、暴君シンジ・ウル・イカリによる暗黒の時代は終わるのです!!その暁には、ミサト殿、私の…」
「私には…父も、母もエンジェリアに居ります…サキエリアが謀反を起こすのならば、両親が陛下の御怒りを買う事は免れません…でも、よいのです。私は、マコト様とともに…」
うつむくミサト…そっとその肩に手を置くマコト。表情は、見えない…
「いずれ、必ずカツラギ伯爵を我々の手で救い出します!貴女の御両親をなんで私が捨て置けましょうか…」
…どーやって助けるってのよ、良くまあ口からぽんぽんと好い加減な事が言えるもんねー。幸い、あたしは天涯孤独だけど…その、余りの軽さについ、地が出てしまいそうになるのをぐっとこらえる…マコトが領主として失格なら、彼女もまた、間者には向かないのかも知れない…潮時ね、残る問題は…
「マコト様、陛下より建立を命ぜられた魔法陣…先ほどの書状、その催促ではありませんの?…エンジェリアは既に気取っているのではないのですか?」
笑いながら答えるマコト…
「大丈夫です、それは…三月前の視察、あの時までは、図面どうりに築かれているのです。彼等も作動を確かめて帰った筈…その後は、全く手を付けておりませんが…」
「そう…ですの。それはようございましたわ。」
…ばっかねー、壊しちまえばアンタの勝ちかもしれないのに。三ヶ月前の侭か、送還は無理でも一方通行なら可能…いけるわね…後は…
「ならば…例の娘の件も…ソウリュウ侯の御落胤、亡きアイカ姫の妹君についても、報告なされたのですか?」
「まさか…確かにこのサキエリアでは、白色人の娘は目立ちますが…何で幼い娘を、獣の生け贄の儀式になど差し出せましょうか…アイカ姫は心臓をえぐられたと聞き及んでおります、獣自らの手で…あの外道に、人身御供を差し出すなど!!」
…話が大袈裟、でも、ないか…陛下ならそのくらいはやりそうね、ま、あの娘にも責任はあったわけだし。幾らなんでもやりすぎとは思うけどね。レイ様のためとなったら、手段選ばないもんねー…その娘には、罪は無いんだろうけど、アタシも命は惜しいからね…捜索、捕獲は実施されてない、か。後は鎮圧が終わってからね…
「マコト様…御武運を…」
軽くスカートの端をつまんで一礼し、高楼を去るミサト。エンジェリアは遠い。言霊の届く距離ではない。魔法陣を用いた、本格的な通信魔法が必要だ…御免ねー、アンタ、ボンボンだけど結構気に入ってたのよ。だから最期は、あたしの手で仕留めてあげる…それが、彼女なりの、ささやかな愛情表現の一つなのだった…
「陛下、カツラギより報告が入っております…」
辺りは、闇…石造りの壁に燃える炎は、松明の様な熱を放つそれではない。青白く揺れる、温度を持たない、凍てつくような冥府の炎…甲冑をその痩身に着け、その上から、黒いマントを羽織る男…若い、まだ少年の様にさえ見える。端正な、女性的な顔立ちは優しげにさえ見える…造型だけを見るならば。だが、現実に其処に立つ彼は、あたかも氷で掘られた神像の様だ。見るものを凍てつかせる、美しさ…人が彼を魔王、神に刃向かう地獄の獣と恐れる理由が、それだけで納得出来るほどに。
「わかってる、サキエリアの件だね…反意在り、そうなんだろ?」
彼、エンジェリア・リリムラント神聖帝国第13代皇帝、シンジ・ウル・イカリは、宙を舞い、彼の手に止まった蝙蝠を指先で撫でながら答える…澄んだ、中性的な声。闇の中に控えていた、大型の黒犬が進み出て、瞬時に人の姿を取る…ローブを纏った魔導士…髪を後ろに束ねた男。宰相リョウ・カジ、数多の家臣の内、最もシンジが信を置く男…
「ご覧になりますか、陛下…又、御気分を害されるのでは?」
笑うシンジ。手の甲の上の蝙蝠に耳を近づけている…
「今更、彼女の振る舞いで気分を害したりはしないよ。古い付き合いだから…詳しい報告は、彼から直接聞く事にするよ…頼んだよ、ペンペン…」
小さなナップザック様の魔道具を背負った蝙蝠、主の元を離れて報告に帰ったミサトの使い魔に囁くシンジ。転送魔法を用いてここまで飛ばす、乱暴なやり方がいかにもミサトらしい…ご苦労だったね…一礼し、闇の中に溶け込むカジ。内心安心しているのだ…以前など、目の前にいないのを好い事に、シンちゃん呼ばわりだもんな、陛下を…相変わらず傍若無人を売りにしている連れ合いに頭を抱える。最も、シンジはミサトのそう言った処を気に入っている様だが…シンジはペンペンを肩に乗せると、分厚いカーテンをかき分けて、隣室に入って行く…明るい。白く柔らかな光に、しばらくして目がなじむ…光に驚いたペンペンは慌ててシンジの甲冑の開いた懐に逃げ込んでしまう…ごめんごめん、ペンペンは光は嫌いだったよね…其処は、高楼、城の一角に立つ塔…このイェルサレム城塞で最も高い、東の塔の最上階。辺りには瀟洒な調度品…広大な版図を誇る彼の帝国における最高の品々が配されている。しかしながら、それらには決して華美な派手さは見られない…繊細かつ上品、この部屋の主にふさわしい品…この世界に、これらに勝るものが在る事を、シンジは許さなかった。彼女の好み、繊細な美意識は知り尽くしている…僕達は、一心同体なのだから…窓辺に歩み寄る。針葉樹に覆われた山並みを流れる乳白色の霧、春には花の咲き乱れる、谷間に広がる野原、田園…この無骨な要塞の備えは殆ど見えない。まるで、雲上にいる様だ。此所からの眺めは、美しい…恐らくは帝国で最も。その為にこの塔を建てさせたのだから…入ってくる、人の気配…シンジとこの部屋の主以外に、此処に入る事を許される者は、二人しかいない…宰相であるカジさえ、許されぬ特権…
「…レイが、眠ってるんだ。起こさないように頼むよ…」
「…すまんな、そんなら、執務室へ…」
「わたしは、起きているわ…」
シンジと、入ってきた…黒い動甲冑を来た、顔に斜めの傷の走った若い男が同時に振り向く、シルクの天蓋のあるベッドの上…この部屋の主が、その上体を起こす…余りに繊細で、静かな…神秘的?当然の事だ…彼女は肉体こそ持っているが、紛れも無い女神なのだから…青く、柔らかな光を照り返す銀髪、静かな光をたたえる紅い双眸。シンジがその側へ歩み寄る…彼女の白い手を取り、その甲に口付ける…その頬を女神の両手がそっと挟む…そのまま、唇を重ね…離れ、お互いの瞳を再び交すまでに、随分と時があった様だ。
「…許しを、請う必要は無いのに…わたし達の魂は、いつも繋がっているのだから…」
目覚めのキス…何時もシンジは、先ずレイに許しを請う…幾つかの例外を除き、全て彼女の意志に従う…彼にとっての、それは掟であった。
「レイさん、御目覚め…なにやってるのよスズハラ!あれほど淑女の部屋に勝手に入るなって言ってるのに、しかも、よりによって帝国で一番高貴なレディの部屋へ!!」
「かまわないわ、ヒカリさん…今はシンジ君も来ているから…」
慌てて振り向く、入ってきた、そばかすに幼さを残した愛らしい女官…
「陛下!?…御無礼を!!知らぬ事とは言え、つい…」
苦笑いする、シンジ、レイも微笑んでいる。憮然とする、傷の男…
「いいよ、ホラキさん…僕達四人の間では、身分なんて関係ないんだから…まだトウジの事を、スズハラって呼んでるの?」
「…一応、ホラキやのうて、ヒカリ・リン・スズハラっちゅー事になっとんのやがな…」
「呼び方なんて、急に帰られないわよ!あんただって、いまだにあたしの事をイインチョって呼ぶくせに…」
どういう意味だったかな、彼女の母国語だった筈だけど…小集団をまとめる長を表す称号なのだと、以前レイが教えてくれた事を思い出す。妻は夫を姓で、夫は仇名で呼びつづける…良いんじゃないかな、彼等らしくて…そうね…瞳で話す二人…
「そう言えば、僕に用事じゃなかったの、トウジは…」
表情が、鋭い物を帯びる男達…トウジ・スズハラ、シンジの親友であると同時に、傭兵騎士団「黒旋風」を率いる、「咆哮する狼」と仇名される帝国屈指の剣士。シンジの行ってきた数多の、余りに苛烈な侵略の先鋒を常に勤めてきた屈強の戦士…亜人間、魔獣、魔導兵器を中心に編成された帝国軍において、唯一人間のみから成り、生まれつき高い戦闘能力を持つ彼等をも凌ぐと言う猛者達は、精鋭部隊として、帝国軍の象徴にさえなっていた…彼の妻であるヒカリは、レイ付きの女官であり、同時に宮廷の全ての女官達を実質的に統括する立場にもある。
「…サキエリア攻略の件や。カジの旦那から聞いたが、魔法陣を使うそうやな。」
トウジの不機嫌の理由を理解したシンジは、微かに笑い、答える…
「それなら、大丈夫だよ。黒旋風はもちろん、全ての部隊の移動は、従来どうり空輸で行うつもりだから…人を運ぶには、まだまだ危険だからね…」
「そんなら、あれは…」
「そう、エヴァを使う…辺境12個所に配した魔法陣によって、大陸の何処であろうと、エヴァによる侵攻が可能になるんだ…世界の全てを焼き尽くす事だって出来るんだよ。」
うつむくレイ…その側に寄り添うヒカリ。窓辺にもたれ、手の中で小ぶりな、縞目模様のダマスカス・ダガーを弄びながら、外を眺めるトウジ…見たくはなかった…あの、心優しく、決して自ら争う事の無かった貴公子が、その一途さから、世界を滅ぼそうとしている…しかし、裏切る事は出来ない。この夫婦は、その理由を痛いほど知っていた…その企みに荷担せずにはいられぬほどに。そして…女神には、止められなかった。責任の半分は彼女自身に在り、全ては、シンジの彼女への想いから来る事を、知っているから…流された数多の血は、全て彼女に捧げられたもの…それは、望んだ物ではなかったが、ある意味、確かに彼女にとって必要なものだったのだから…契約は、全て彼女のために為されたのだから…誓ったのだ。彼の魂が、あの堕天使によって買い取られた時、共に繋がれた彼女のそれもまた、いずれ、一つの鎖によって戒めを受け、共に煉獄の炎で永久に焼かれつづける事を…
『君を苦しめ、傷付けたすべての人間達に、その血と魂で償わせるんだ。君を犠牲にして生き延びようとした、この世界を焼き滅ぼし、神を撃ち落としてやる!』
そう、シンジが彼女に誓った時に…
「もうすぐだよ、レイ。君をこの窮屈な、封印から解き放ってみせる…世界中の人間の血を絞り集めて…」
…母様の、封印…瞳を伏せるレイ。シンジの母であり、彼女にとっても養母であり、皇后としての先代でもある、偉大な魔導士、ユイ・イカリ…女神であるレイに、人の肉体を与えてみせる力までも持っていた彼女にして初めて可能な高等魔術。解き放てば、人間の世界は滅びてしまう…
『知っているよ、そんな事は…それがどうしたって言うんだ。』
シンジは、そう言った。
『母さんは…自分達の都合で勝手に、生命と豊饒の女神である君を天から攫っておいて…身のほど知らずな魔道を乱用して、冥府の蓋を開けてしまったのは自分達なのに、その為に…自分達が助かりたいが為に、君を生け贄にしようとしたんだ!!』
…わたしは、人を幸福に導くための…
『違う!!君は、道具なんかじゃない!レイが、あんな奴等の道具なんかで、善い訳が無いじゃないか…許さない、僕は絶対に許さない!!』
…母様は、案じておられたの…この世界の人達の事を…
『その結果は、どうだった?優しい君が、育ての両親の非道な望みにさえ、その慈愛に満ちた心で答えようとした時…君が、僕の腕の中で、融け崩れてしまったあの時…』
何処でだって、たとえ、演壇で民衆に話し掛ける時、或いは前線で兵達を率いている時でさえ、今の事の様に目に浮かぶよ、あの日の事は…
当時、彼は未だ二十歳に満たない若者だった…緑の麦の穂が豊かに揺れる季節、エンジェリアの王都の外れ、国家守護を司る神々の神殿。白亜の列柱の並ぶ回廊に囲まれた中庭を全力で走り抜けた…直ぐに問いたださねばならない事が在る…視界に入る祭壇…いた!白い衣をまとい、母の側に立つ、青銀色の髪の少女…
「レイ!!」
「成りません、殿下!」
「はなせよっ!…手加減出来ないんだ、今はっ!!」
警護の兵士達の喉首に手にした長剣の鞘を打ち付け、甲冑の隙間、鳩尾に柄を叩き込んで振りほどく…階段を駆け上がる…立ちふさがる、影…
「シンジ、何をしている…」
「どういう事だよ、父さんっ!?何でレイが生け贄にならなくちゃいけないんだよ!?」
逆光…父の表情は見えない…
「罪を犯したのは、お前だ…禁忌を犯し、レイに触れた…兄妹として育てた本当の意味を教えなかった我々にも責任はあるがな…」
眼を見開くシンジ…いぶかしげに眉を潜める…
「僕達は、血の繋がった兄妹じゃない…レイを妻にして、何の問題が在るんだよ!?」
「本当の兄妹であったのなら…それが、人の道に外れる事だったとしても貴方達を許す事は出来る…御聞きなさい、シンジ。神と人が契ると言う事は、大きな危険を伴うものなのよ…」
「母さん!?」
祭壇の上に立つユイ…その腕の中には、レイがいる。悲しげで、慈愛の光に溢れる眼差し…
「レイが、貴方の子を身ごもった時…この子は、生命を司る女神、魔道によって人の肉体を持った…胎内の新しい神はうまれ出るために、全ての人の魂を糧として望んだのよ…神であるレイには、望んでも堕胎は不可能…レイがみずからその体を捨てない限りは…」
「人が…滅びるって言うのか、僕達の子供によって…体を失った後、レイはどうなるの?天や冥府に…」
「それは…出来ないわ。人と、貴方と契ってしまったレイは、人の世界以外では、存在する事が出来ない…その魂が滅するまで、闇に封じられる事になるでしょうね…」
「駄目だ!!生け贄が必要なら、僕の首をはねてその血を捧げればいい!」
「そんな事には、何の意味も無い…お前如きの命など、何程の価値もないのだ、神々にとってはな…悔いても始まる物ではない…」
その時…祭壇の中央に進み出るレイ…纏っていた衣が足下に落ちる…その白くか細い肢体を晒す…両親に向かい、微笑む…
「父様、母様…ほんとうに、ありがとうございました…」
「レイ…すまん…」
そして…シンジを見詰めるレイ…余りに優しく、儚げなその笑み…
「駄目だ!レイ!!」
その叫びは、彼女の耳に届いたのか…淡く、白い光がレイを包む。静かに抜け落ちる腕、その背に開く、真っ白な…翼。泡立つ白い膚に現れては消える、無数の生き物の、触手、繊毛、眼球や内臓器官…不思議と、おぞましさは感じない…シンジには、それがレイが活きとし活けるもの全てを慈しむ慈愛の女神である事の証にしか見えなかった…その白い喉首に走る、一乗の赤い筋、迸る真紅の血…たまらず、駆け寄ろうとするシンジ…父の剣の柄が、容赦なくその鳩尾に叩き込まれる…
「これ以上、レイを困らせるな…」
そのまま、尚ももがき、暴れるシンジの腕をとり、ねじ伏せて押さえこんだ…それでも…レイの首が落ちようとしたその瞬間、歴戦のつわものたる父王すら、予想できなかった力を発して、跳ね飛ばし、駆寄る…正にもげ落ちようとしていたレイの首を受け、両腕に、抱きしめた…微かに動く、その唇…耳を近づける…
「なに?レイ…」
…ヒトツニ、ナリタカッタ…アナタト…
絶叫、いや、それは咆哮か…
更に、腕の中で、融け崩れ、肉泥と化していく、この世界で最も大切だったもの…
「レイ…レイ!レイっっ!!…
うおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
「獣」が目覚めたのは、その瞬間だったのかも知れない…
…君がその身を呈して世界を救ったにも関わらず、奴等の態度は、どうだった?あの、恩知らずな愚か者共は…
…聞いたか、おい…レイ姫様の話…生け贄だろ、エンジェリア中その話で持ち切りよ…何でも、化け物の子を身ごもったって話でよ…それどころか、本人も化け物だったって話じゃねえか…体中に人面疽があったらしいぜ…嘘、あんなに王妃様そっくりだったのに…でもよ、普通いねえよ、銀色の毛が生えてて、目玉が赤いなんてよ、化け物だな、やっぱり…人形かなんかみたいに無口で無愛想でよ…評判悪いらしいよな、都の若い娘連中にゃ…あったりまえでしょ、あんなすかした嫌みな人形女…化け物だったとはね、御笑いだわ…その癖、妹面して、殿下の周りをいつもちょろちょろして、目障りだったのよ!…それじゃあ、あの噂も…畜生道でも、少し違う奴って事よ…やだ、下品ね…
…何故、こんな下衆共を救うために、君が消えなければならないんだ!?…挙げ句の果てに、母さん達までが…
「貴方には、王位継承者として果たすべき義務があるはずよ…しっかりしなさい!…そろそろ、伴侶となるべき人を選ぶ時期かしらね…」
…レイが融けてしまってから、僅か三ヶ月後だって言うのに…それで立ち直らせようとでも言うつもりなのか?…
「…アイカ・ユウ・ソウリュウさん…北方の血を引く由緒在る家柄の御令嬢、亜麻色の髪と緑の瞳をした、美しい方だと聞いているわ。良かったわね、シンジ…」
…見え透いていたな、あれは…次期皇后の座に対する、あの執着。つねに自分が中心でなければ気の済まない、自己顕示欲の強さ、北方貴族らしい、傲慢なプライドの高さ…権力が欲しければ、そんな物は幾らでも持っていけば良かったのに…皇太子妃なんて椅子にこだわったりするから、あんな事になるんだ…
「やっぱり、貴女を妻に迎える事は出来ません…しかし、貴女にも立場があるでしょうし…僕は、生涯一人で過ごすつもりですから。形式的な物だけなら、貴女の御好きな様に…」
「…馬鹿にするにも程があるわ!成り上がりの黄色人の癖に!!それが初夜の床で花嫁に言う台詞だって言うの!?…噂は本当みたいね。人間の女じゃ、駄目だって…妹の皮を被った、あの化け物でしか、役に立たないんじゃない…最低ね」
「…訂正しろ…レイは、化け物じゃない…」
「!何睨んでるのよ、腰抜け殿下の癖に…人間が駄目なら、トカゲでも犬でも、あの汚らしい亜人間の雌とでもやってりゃいいのよ!はん、黄色いのには御似合いだわ!!…化け物を化け物って言って何が悪いの、…!?」
何時の間に、抜いたのかは自分でも憶えていない…亜麻色の髪の白色人の姫の左胸、肋骨の間に深々と、鍔の辺りまで食い込んだ、鈍色の短剣…我に帰り、その、勝ち気そうな顔を見る…苦痛に歪みながらも、尚も動くその唇が、亡き最愛のものへの更なる冒涜であると知った時、シンジは容赦なく、肋骨の間でその短剣を捻った…口と胸、双方から吐き出される、赤黒い液体…ぬめる感触。手首を返して引き抜く…床に転がる、姫君であった肉塊…立ち尽くしたまま、無表情に見下ろす。
「だから、言ったんだ、止めて置けって…こんな、くだらない奴等を救うために、君は消えてしまったって言うのか?」
余りに感慨の無い、最初の殺人…あっけないもんだな、非現実的だ…馬鹿馬鹿しくさえなって来る…気配?…見られたのか!?…いいよ、もう、小細工をしても仕方が無い…
「決心は、付いたのかい…シンジ・ウル・イカリ殿下…」
庭園に面した東屋…月光に照らし出される白い列柱の影からかかる、声…
「どう言う事…君は誰?」
応えの代わり、現れたその影は、その背に見事な鳶色の翼を持つ、銀髪の、少年?人では無いことは、一見して解る…月明かりだけではない、彼を照らして…いや、みずから光を放っているのだ…噂に聞く、天使なのか…それとも、死神?
「裁きを司るもの…そう言う事になっているらしいね。本来なら、僕の属性は『自由意志』のはずなんだけれどね。」
不可思議な、答え…魔物なのだろうか…しかし、それにしては余りに美しい…
「僕を、罰するために来たの?…何故…かまわない。希望なんて何一つ残ってないんだ…死んでいるのと同じ…地獄の方が、まだましかも知れない…」
おや、と言う顔をする天使…笑っている。僅かに肩を竦めて。
「どうも、君は思い違いをしているようだね…裁かれるべきは、君一人では無いんだよ…人間一人の犯せる罪では、決して天上まで届く事は出来ないからね。その事を問うているわけじゃない…」
…司祭達の言う、「審判」と言うものの事なんだろうか、神の怒りに触れた、傲慢な人間達全てを裁く…古の栄華を極めた大陸が、一夜にして海原に沈んだと言う伝説のように…それも、いいかも知れない。でも、ならば僕に何の用が在るんだろう…人を「裁く」と言いながら、その言葉に、何ら傲慢なものを感じる事はない。むしろ、実に穏やかで謙虚…その立ち居振る舞いからは、好ましいものさえ感じる。シンジが耐えられなくなりつつあった、「人の愚かさ、卑しさ」を持ち合わせないものの持つ魅力なのか?その疑問を、口にしようとした時…
「希望…か。君達の心は常に悲しみに満ちていると言うのに…それでも縋ろうとするのが、業と言うものなんだろうね…君はもう、いいのかい?」
「もう、何も無いんだ…一番大事だったものを、失ってしまったから…」
僅かに、首を傾け、手を額にやる天使…少し、難しい顔をしているようにも見えるが、随分と可笑しそうに笑ってもいる。そんな事で悩んでいるなんてね、とでも言いたげに…にもかかわらず、何故か、憤りは感じない…悪意の無い嘲笑と言うものは、在りうるのか?或いは、哀れみか…
「潔さ、と言うものは、君達の間では美徳とされているようだね…時にそれが、諦めのための自己欺瞞だとしても…全てを賭ける前に、立ち向かわずに逃げてしまう…」
「そんな!!今更何が出来るって言うんだよ!?…レイはもう…」
生傷に触れる、言葉…出来る事があるなら、全てやっているよ…でも、死を超える事は…
「何も出来ない、と考える事自体が一つの傲慢なんだよ。…本当に、全てやってみたのかい?」
…!!そうか…今までなぜ、気が付かなかったんだろう…簡単な事じゃないか…
「…反魂の禁呪…そうなんだね!?可能なんだろ!?冥府に囚われてしまったものを呼び戻す…」
感じていた筈の、未知なるものへの畏怖も忘れ、天使に詰め寄る…破顔する天使…違和感、ざらつく様な…何故だ?この笑みは、さっきまでとは違うような気がする…
「良いのかい?…他の、全てを代償にする事になるかも知れないよ。」
…ほんの一瞬、微かな躊躇。瞬時に押し流す、想い…
「かまわない…かまうもんか!他になにがあるって言うんだ!」
銀色に輝く庭園の木々、東屋や、彫刻…満ちる、月の光。鳶色の翼を広げ、笑う天使。
「僕は自由意志を司るもの…君の信じるままに、それを行おう…」
そして、契約は為された…
月が中天に差し掛かろうとしている、刻は、良い様だ…神殿に人気はない。大理石の柱、回廊を照らし出す、銀色の光…静かだ。
「ここ…この場所だ…ほんの、少しだけ、染みが残ってる…」
何時の間にか、頬を伝う、月光を照り返す濡れた筋。祭壇の上…あの場所、大理石のタイルの上に微かに残る、まるで、涙の跡の様な染み…柔らかに滑る、生暖かい液体になってしまった彼女の体だったものを、必死でかき集めた、あの時。それが、降り出した雨に流れていってしまう事が、悲しくて、耐え切れなかったあの日。…口付ける、そっと、その染みに。愛おしさを押さえ切れずに…もうすぐだよ。
「申し訳ないが、時間は余り無いんだ。始めようか、シンジ君。」
側に立ち、催促する天使。うなづいて、放り出された、儀式に不可欠な祭具…北方の姫の骸の、衣服の胸をはだける。ここまで、人目に付かずに運ぶのは、なかなか大変な作業だった…人気の無い厩から、気性の大人しい愛馬を連れて東屋に回り、アイカの死体を、それと解らぬように、カーテンで梱包した。生き物の死骸に馴れていない馬をなだめながらの、都の外れにある、この神殿までの道のり。生まれて始めて、数々の冒涜的な罪を犯しているというのに、脅えや、後悔はまるで感じない、いや、感じていられる状態ではない…興奮している。喜び、不安、愛しさで、もう気が触れてしまったのかもしれない、と思う。
「…肋骨が、邪魔だな…全部剥いでしまわないと…」
その、心臓の動きを止めるのに用いた物より、一回り大きい大振りの小刀…はだけた、青白くなり始めた乳房の間に突き立てる…既に気温と同じくらいに冷えているのか、冷やりとした、屍肉の感触…気色の良い物ではないが、異議を唱えられる立場ではない。切り開いていく、左胸の肉を外し、肋骨を外側に開く…慎重に、なるべく原形を保ったまま取り出さなければならない。繋がっている肉の管、その動きを止めている動脈を一気に切断し、肝心の物…赤黒い塊を取り上げた。うなづく天使。
「絞りながら、図形、魔法陣を描くんだよ…僕の、指示どうりにやってくれればいい。血の量はかぎられているから、気を付けるんだよ。」
天使の指導のもと、祭壇の上、慎重に準備を進める。神官達が見れば、それこそ腰を抜かす光景だろう…この国で最も神聖な場所の一つで、皇太子の手によって行われる、死の汚れに満ちた、外道の邪法…月が傾く前に、全てを終わらせなければならない。
「出来た…これでいいんだね?」
大理石のタイルの上、シンジにとって、最も神聖な場所を中心に描かれた、すでにどす黒く変色し始めた液体による六芳星と同心円、古代語の書き込みよりなる図形…まるで、色彩のない、銀色の光だけが満ちる、静寂…
「始めよう…教えた通りに。」
天使の言葉に肯くシンジ。陣の中心、その場所に進み出る…教えられた通りの詠唱、古の、人間よりも古い民の言葉…あらかじめ清めた、小振りの銀の短剣を静かに腕にあて、軽く引く…そこに滴る鮮血。…レイ、あいたいんだ、もう一度…血に込める、想い、いや、込められるのならば、この命を注いでも、かまわない…レイ…
「!!」
微かに、触れるもの…身体、胸の奥に直接…君…シンジ君…ドコニ…ドコニイルノ…ワタシハ…
「!!…レイ!?レイなんだね!!僕は、ここにいるよ!!」
…!…シンジ君!?…イケナイ、コレニ…ワタシニフレテハ、ダメ…
「どうして!?やっと会えるんだよ!?…駄目なもんか!!もう、どうなったっていい!!君さえ、君さえいれば…動けないの?なら、僕がそこへ…」
…!!ダメ!…ソレダケハ…ココハ、クライノ…クルシミダケガ、ミチテイル世界…キテハ、ダメ…
「そんな所に、君を一人にしておけるもんか!!直ぐに行くよ!待ってて、そっちへ!」
…!!ダメ!…アイタイ、ワタシモ…モウイチドダケ…ソチラヘ、イクワ、タダ…ヒトツダケ、ヤクソクシテ…
「なに!?どうすればいいの!?」
…ワタシニ、フレテハダメ…ソウシタラ…ダカラ、オネガイ…
「!!…何故…でも…わかったよ。触れない、君がそう望むのなら…だから、…」
…!、眼を見張る。魔法陣の中心に、沸き立つ、淡く白い光…身体に走る、止め様の無い、震え。恐怖に限りなく近い、不安。胸の張り裂けそうな期待、喜び…そして…ゆっくりと形作られる、人の姿…
「レイ!?レイなんだね!?」
濃くなって行く、光、その中に浮び上がる…紛れも無い、その姿!!か細く、華奢な白い肢体…この上なく、愛しかった紅い瞳、月光に映える、青銀の髪…会いたかった…もう、この世界全てをその代償にしてもいい…
「レイ!!」
ゆっくりと、引いていく光…露になる、その輪郭…はっきりと、再び実体をもって…軽く、閉じられた、その瞳が開く。その瞬間、交される、視線…お互いに映り会う、紅と黒の瞳…
「!!」
…あろうことか…先に、動いたのは、他ならぬレイだった…触れてはならない、その言葉を口にした筈の…驚き。胸に当たる、温もり…間違い様も無い、柔らかで優しいその髪の匂い。胸にまわされた、その細い腕の感触…躊躇、恐怖。このまま抱きしめたら、彼女が消えてしまうのではないか!?見上げる瞳。濡れている、溢れている、涙…
「レイ…いいの?…」
紡がれる言葉、静かな、澄んだ懐かしい声…
「…だめだったの…また、罪を犯してしまった。逢ってしまったら、こうなることは、わかっていたのに…」
瞬間、抱きしめる。その言葉の意味を理解し…もう、二度とはなすもんか…
「レイ…逢いたかった、レイ…」
月光だけが、二人を照らし出す…涙が、止まらなかった…
「しくんだのね、タブリス。あなたが…わたし達に、罪を犯させるために…」
永い、どれほど経ったか解らない抱擁の後。シンジの胸から、顔を離すと、その腕の中から天使を睨むレイ。驚くシンジ…だが、理解した、いや、解っていたのだ、多分。ただ、気付かない振りをしていただけなのだ。後ろめたさを、追い払うために…
「心外だな…君達自身が選んだ事だよ…そうだろう、リリス。責任転嫁と言う物だよ、それは…」
やれやれ、と肩を竦め、首を振る天使。それでも、彼を睨んでいたレイだったが、やがて、うな垂れて、再びシンジの胸に縋りつく…さらに、抱きしめる。包み込む様に、しっかりと…
「もう、もどれない…もどれないの。ひとりでは…次は、我慢できずに、あなたを引き込んでしまう…ごめんなさい…でも、止められない、押さえる事ができないの…」
涙を流しながら、シンジの腕の中、訴える…その髪をそっと撫でながら、答える。
「連れていってくれるの?ありがとう、レイ…何処だってかまわないよ。無限に続く苦しみだって、君の側に居られないよりは、ずっと良い…」
確かめるまでもない、その成果を確信したらしい、天使。月を眺め、誰に言うともなく、口を開く。
「彼等の魂は、繋がれてしまった…生きているだけで、人の世を滅ぼす事に成ると、知っていながらね…リリスは死を、恐れるようになってしまった。これからも、人の、彼の温もりを失う事を恐れ、罪を犯しつづけるんだね、君は…無数の、人の命を食らいながら…」
自らの使命を果たした事に、満足しているのか、それとも、彼等を、或いは人間達を哀れんででもいるのだろうか…天使は、月を眺め続ける…
「コノアタリノ街ハ、役人モ入ッテハキマセン。王都デ最大ノ、亜人間ノ居留地デスカラ…」
石造りの壁の、粗末な棚の上、ランプとは名ばかりの、安油を小皿に満たし、そこへ芯を浸けただけの物に、灯が点される。薄暗いカビ、埃の匂いの篭る地下室…
「ありがとう…急に無理をいって、申し訳在りません…」
案内してくれた高齢のリザードマンに礼を述べ、壁に造りつけられた、木製のベッドの埃を払う…大丈夫?随分と大き目の外套をすっぽりと被ったレイの顔を覗き込む。愛らしいその頬や鼻の頭は、砂や埃にまみれていた…可愛い…砂遊びをしてる、小さな子供みたいだな…そんな場合じゃないのに、何を考えてるんだ、僕は…こく、と肯くレイの頬を、そっと指先で拭う。そう言うシンジの風体も、路上にたむろして、馬車の窓拭きや靴磨きで日銭を稼ぐ人々のそれと代わり無い…持ち運びに目立つ得物は、巻いたむしろの中に箒だの角材だのと一緒に包んで、麻縄で縛って携行している。逃亡を繰り返して、もう半年…エンジェリア国内及び近隣諸国を転々としたが、行く先々に手配書は回っている、尾鰭の付いた噂とともに…険悪な外交関係にあるはずの地域においても、事態ゆえ協力的態度で捜索を行っている様だ。「雷挺王」の異名を持つ父の手腕を、改めて思い知ることになろうとは…役人の追手よりも、遥かに質の悪かったのは、「若い娘の姿をした、人食いの妖怪」の噂である。ろくでもないことに、レイの身体的特徴の部分だけは、殆ど歪曲されずに伝わっているのだ…エンジェリア国内で広まっていた、レイに関する噂は、その復活と、皇太子による花嫁惨殺と言う刺激的材料によって、原形をとどめない、凄まじいものと化していると言うのに…世間の、異物と見なしたものに対する悪意の凄まじさ、容赦無さは、シンジが思っていたものとは、比較にならなかった…暴力なら、馴れた。斬った人の数も両手の指では数え切れなくなった。その事に、後悔は無い。連中が、レイに対してやろうとした事への、ささやかな返事に過ぎない。そう言った類の事からなら、なんとかレイを守っていける位には、成長したつもりだ…耐え難かったのは、むしろ、悪意そのものだ…彼女の身体なら、無け無しの剣技で何とか守っていける。衣食に関しても、時に追いはぎまがいの事をやりながらでも、なんとか食い繋いで来た、しかし、心は…決して人を害しようとしなかった彼女に対する、理不尽な憎悪…どれほどレイが傷ついたか…口惜しかった。レイが何をしたって言うんだよ!この報いは、何時か受けさせてやる、必ず…
しかし、追いつめられた時と言うものはまた、人の情けが身にしみる時でもある。エンジェリア国内における政務の見習いの一環として、異民族、特に亜人間の生活向上に関し、元をただせば、立場の弱い者に対するレイの慈悲深さに感化されての事なのだが、色々と便宜を図った事のあるシンジは、そこそこの人気を彼等から得ており、逃亡者となった後も、人間達とは裏腹に同情的対応を受ける事が多かった。又、レイの本質である地母神リリスが、彼等の最大の信仰の対象である事から、復活とその正体に関する噂は、結果的に彼等のレイに対する崇拝を促す事にもなっていた…今日までなんとか逃げ延びてこられたのも、彼等の国境を越えた人脈を頼って来たお陰とも言える。それでも、一つ所に留まる事も出来ず、結局、このエンジェリアに舞い戻ってしまったが…
「疲れた?…しばらくは、ここの世話になれる様だから、少しはゆっくり出来るね。」
荷物を狭い部屋の隅にまとめると、煤けた藁布団を軽くはたいて、レイが休める様にベッドの準備をする。外套を脱いで、床に就くレイ…シンジは、もう一度上の様子を観に行こうとドアに向かう…その裾を握り、引っ張るレイ。振り返り、その顔を覗き込む…
「…心配なの?大丈夫だよ。都でも、一番安全な場所なんだよ、此処は…」
そう言いながらも、ドアを開く手を止め、錠を下ろすと荷物の中、麻袋の一つから調達した食べ物、黒ずんだパンやチーズ、水筒を取り出し、自分もベッドに腰掛ける。レイは上体を起こし、シンジの身体にもたれるように寄り添う…膝の上に食事を広げると、パンを食べやすい大きさに千切って、レイに渡す。やっと、安心したらしい彼女は食事を口に運ぶと、眼を細めてシンジの胸に頬を摺り寄せた。その肩にそっと手を回す。
「…ごめんなさい…でも、しばらく、側にいてほしい…」
少し、困ったような眼をして、シンジの顔を見上げる。微笑んで、その額に口付け、きゅっと頭を抱いて短めの髪を撫でた。…大丈夫だよ。ずっと側にいるから…彼女が食事を終え、やがてシンジの膝を枕にして眠りにつくまで、そっとその髪を撫でつづけた…
「…ねむっちゃったな…さて、と…」
天使の様な?余りに月並みな連想。だが、他にこの愛らしい寝顔をどういったらいいんだろう…そんな事を考えながら、起こさない様にそっとベッドを立つ。入り口脇に放り出してある、巻いた筵から得物、緩やかな曲線を持つ長剣を引きぬくなり、携えてドアを開け、石造りの狭い階段を昇る。一階は店舗…この居留地の住人達相手の雑貨屋になっている。もう夕刻か…店を仕舞おうとしている店主、先ほどの老人。会釈し、表の様子を伺うべく間口に近づく…
「御気ヲ付ケクダサイ、殿下…街ニ、不審ナ人間共ガ入ッテオリマス…モシヤ、役人ノ間諜ガ…恩人デ在ルアナタヲ、金デ売ルトハ…ワガ一族ノ信義モ地ニ落チタモノダ…」
辺りを警戒しながらも、軽く笑うシンジ。老人に答える…
「…世の常ですよ、それは…人間…我が同胞、東方人やあの北方蛮族共に比べれば、貴方達の信義は、高潔なものだ…」
確かに、気配が妙だ…明朝には、発った方が良いかも知れない…今度は、南の方へでも行ってみるか…所詮、時間稼ぎに過ぎない事は解っている。何処へ逃げようと。でも、他に何が出来るって言うんだ…二度とレイを失う訳には行かないんだ…
しかし…シンジの読みは、彼の両親にとっては、余りに甘いものだった。襲撃は、夜半、速やかに行われた…着のみ着の侭で逃走する事しか出来ない程…斬った。刃に捕縛吏達の脂が廻って切れなくなり、刃こぼれを起こし、その柄が血でぬめって握れなくなるまで…それでも、深夜の貧民窟、既に二人は、二十重に取り囲まれていた…蹲るレイ。息が上がっているのだ…苦しそうに上下する肩…左手でその背中をさすり、肩を抱く。見上げる、涙の浮かんだ紅い瞳。精一杯の努力で微笑み、肯く…シンジの胸に縋るレイ。その肩をしっかりと左手で抱き寄せる…三叉路、石造りの建物の狭間、路地の合間。既にどちらも官吏達に塞がれている事は解っている…目の前、闇、建物の陰から月光の中に進み出る、人影…長身の男。レイを後ろ手に庇い、右半身、右手一本で長剣、既に斬れなくなったそれを構える。まったく身構えず、進み出る男…この、威圧感!?
「父さん!!」
きゅっ、とシンジの肩に縋るレイ。震えている…父様…声にならない、微かな呟き。押される…何を躊躇してるんだ!?斬るしか、ないじゃないか!…勝ち目が無い、この状態では…そんな事を考えている余裕など、無い。
「国法を破る…人を殺め、邪法を行う、これらは全て極刑に値する犯罪だ…もう、レイを苦しめるな、シンジ…どうした。此方から行くぞ…」
…何を勝手な!?そうだ!逃げちゃ駄目だ!行くよ、レイ。振り返り、その瞳を見る。見開かれ、揺れる紅い瞳…肯くシンジ。
「疾っ!!」
跳ねた、一気に間合いを詰める…重心を右前足に移しざま、其の侭上体を右に開く、開きざま、左下方から跳ね上がる切っ先、逆袈裟、右斬撃…空を切る刃、躱された!…難なく、後足のみで体転し、その、渾身の一撃を右に捌く父…
「お前の無法に、付き合っている暇は無い。」
衝撃、首の、左後ろ。激痛…麻痺、痺れる身体…息が出来ない!?…レイ、逃げて…動く部分を総動員して、父の足首を掴む…他愛も無く、振りほどかれる。
「…レイ…行こう。ユイが待っている。」
駄目だ!!行ってしまったら、もう…レイの傍らに進み、その肩に手を置く父…
「…父様…」
父を見上げ、そしてシンジの方を向く、レイの瞳…恐怖、そして悲しみの色…うなだれて、そして、顔を上げる。
「わたしは、行きます…だから…シンジ君を、殺さないで…」
…わかっていたの、いつか、こうなることは…駄目だ!!その時は、一緒に逝こうって、約束したじゃないか!レイ…行っちゃ駄目だ…突然、鳩尾に打ち込まれる衝撃。真っ赤になる視界…薄れていく意識。…レイ…そして、何も解らなくなった…
「取りあえず、結界…封印だけはしておいたわ。結局は、時間稼ぎに過ぎないけれど…」
王都の西、平原を主体とするエンジェリア全域を見渡せる残丘、イェルサレム山地にある城塞…有事の際には、田園の直中にある、都の無防備な王宮からここへ中枢を遷し、防戦、反撃の指揮を取る…そのために建てられた山城は、王宮には劣るものの、一城郭としては破格の設備を備えている、その一室。
「封印か…身動きは、とれるものなのか?これ以上、レイを…」
夫の、心配気な様子…彼女にしか見せる事の無い一面に、つい、笑ってしまうユイ。
「その心配はないわ…結界と言っても、範囲はこのイェルサレム城塞全域を覆っているのよ。生活するには十分。」
そう言って笑った王妃の表情も、やがて、暗く沈んで行く。
「…でも、ここから一歩でも外へ出れば、あの娘の身体は又、溶けてしまう…それに、時が経てば、結界の範囲は徐々に狭まっていくわ。最期に、閉じてしまったら、もう…」
「広げたり、張り直したりは、出来ない物なのか…あの娘が禍津神になってしまったと言うのは、一体…」
「…シンジは、知っていたのかしら…忌まわしい反魂の邪法、召喚されたものが唯の人間であったのなら、たちどころにおぞましい妖魔に成り果てていた所よ。でも…レイの場合はもっと悪いかもしれない…あの娘はもう、豊饒をもたらす生命の女神ではないの。邪な者達の力を借りて蘇った今のレイは、人の血と命を糧とする滅びの女神…何れは覚醒するわ、あの娘…レイ自身は気付いていない様だけれど、この半年、あの娘はシンジが斬った人達の魂を取り込んで栄養にして生きて来たのよ…供犠を欠かせばあの娘は餓える…あのまま、目覚めの時を迎えればその時こそ人は滅びるわ…」
「…ならば、レイはもう…」
…ユイが彼女を召喚して以来、十九年の間、娘として実の息子以上の想いを注いで育ててきた…気高く、無垢で慈愛に満ちた娘だ、あれは…もう一度、失えと言うのか…ユイの視線から、背を向け、表情を隠す…何時の間にか、その背後に立つ王妃。
「…ごめんなさい。こんな事になる、可能性は理解していたのに…こんなに、あなたを苦しめる事になるとは思わなかった…」
振り返り…眼鏡を外す。こんな笑みを浮かべた彼を知っている者は、彼女とレイ以外には、いない。そのまま、うつむいた妻の肩に手を回す…
「君は、悪くはない…全ては私の我が侭だ。しかし…封印があの娘を消してしまうのを、座して見送らねばならんとはな…」
柔らかな、妻の短い褐色の髪を撫でる…眼は宙の一点に向けた侭…彼の胸に頬を寄せたまま、うつむいて呟くユイ。
「それまで、待てないかも知れない…もし、何かの原因でレイが力を貯え、覚醒してしまえば、もう封印など何の意味も持たなくなるわ…普通なら、誰かが栄養、人間の血や命を捧げないかぎり、起こらない事だけれど、でも…」
見上げた、妻の瞳。微笑んで覗き込み…
「…私から、言おう。余りに虫の良い願いだが…レイは君の娘だ。解ってくれる。」
「…あの娘は、許してくれるのでしょうね、それでも…永久に闇に封じられてしまうと言うのに…」
…神々の前には、余りに人は無力だな。何が「雷挺王」だ、妻一人を悲しみから救う事すら出来ないではないか、俺は…運命、己の非力を呪った所で、どうなる物でもない、解っている。そんな事はな…所詮、人は原罪を償う為に生き続けねばならない、そう言う生き物なのだから…やがて時は来る。為すべき事は、やらねばならない。レイ、咎は全てこの俺にある。呪うのならば、この俺を呪ってくれ…窓の外、山々の稜線を朝焼けが、何時もと変わらぬ薔薇色に染め始めていた…
山々の陰から覗く朝日が照らし出す、高楼の屋上。石畳の上には種々の薬草、呪物を溶かした薬水で描き出された、人の眼には見えない図形が広がっている。その中央に、白いドレスを纏った少女が一人。その美しい眉を伏せて…唇を開く、紡がれる、静かな澄んだ声。微かに、震えをはらんだ…
「…母様、シンジ君は…」
向けられた紅い双眸、思わず視線を伏せそうになる…なんて眼をしているの、レイ…以前のあなたが、そんな弱々しい姿を見せる事は、なかったのに…ここで、眼をそらすなり、抱きしめてしまうなりすれば、出来なくなってしまうかもしれない…しかし、幸か不幸か、非情になる術を彼女は良く知っていた。その瞳を静かに見返し…
「シンジは、罪を償わなければいけないのよ…解るわね、レイ。あの子を獄から出す事は出来ないの…!、泣いているの?レイ…」
薔薇色の光を照り返しながら、その白い頬を伝う、透明な筋…
「御願いです、母様…」
「約束ね。大丈夫、解っているわ…シンジには、生きて償いを果たさせるつもり。」
肯くレイ…ほんの少しだけ、安心した様にも見える…
「…始めるわ。」
迷いを払い、詠唱を始めるユイ。高楼にたたずむ、二つの人影を照らす、余りに穏やかな朝の光…
突如、響き渡る轟音。朝焼けに染まる石造りの無骨な城郭、イェルサレム城塞内、西の塔…
「爆裂呪符!?何だってそんなものが…調べたんだろう、殿下の体は!?」
「飲み込んでたんだ、恐らく…羊皮紙の呪符に耐水魔術を掛けてな。うかつだったよ、腹の中までは気が付かなかった…!?」
轟音の残響に混じって、彼等の耳に届く、怒号、絶叫…驚愕を露にする衛士長…
「押されているのか、一人相手に…一体殿下は…」
警護の増援に駆けつけた近衛隊長は、顔色を変えぬまま言葉を放つ。
「…留められなければ、斬れ。陛下の勅命だ。彼等だけでは無理な様だな…行かせてもらうぞ。」
机に立てかけた剣を取り、間口へ向かう彼の背を見る…これが最期の姿であるとは夢にも思わぬ侭…
「シンジ君…」
既に朝日は山並みの上に昇り、光は柔らかな白色のそれへと変わりつつある。その中に照らし出された、彼の姿…その全身を濡らす赤黒い滑りは、一人や二人と言った量ではあるまい。荒い麻で編まれた囚人服も、ひたすらに、黒い…無造作に、右手に下げた長剣の刃を伝い、切っ先から止めど無く滴る、赤い流れ。左手に掴んでいた塊…つい先ほどまで近衛隊長の首だったものを、石畳の上に放り出す。
「駄目だよ、レイ…一人では行かせないって、言ったよね。」
微笑むシンジ。眼を見開いて、その様子を見詰めている、レイ…眉を伏せる。しかし…どうして?悲しいのに、悲しい筈なのに、何故、こんなに嬉しいの…シンジ君がまた、手を汚してしまったと言うのに…
「シンジ…あなたは…解っているの?自分が何をしているのか…」
向き直るシンジ。浮かぶ、薄笑いにユイの背を何故か悪寒が走る…この子は、もう…
「…封印を解いてよ、母さん。よくもこれだけ酷い事が出来るよね、レイは母さんの娘だったのに…」
…知っている!?もしかしたら、既に供犠の事まで…
「出来ないなんて、言わせないからね。よくも、よくもこんな…自分が何をやってるか!?母さん達だろ、それは!!許さない…レイを苦しめた事、消そうとした事、償ってもらうよ。うんと苦しんで欲しいんだ、母さん達には。」
…ごめんなさいね、レイ…約束は、守れそうにないわ。代わりに、あなたと同じ所へ行けるようにしてみるから…それが、私に出来る唯一つの罪滅ぼし…
「母様は、悪くないわ…だから…でも、わたしは…」
「大丈夫、絶対に、君を一人になんか、しないから…!?」
背後の、気配…振り向くシンジ。そこに立つ、予想していた通りの人影。
「遅かったね、父さん…丁度良いな。見せたい物があったんだ…」
懐から、紙のような物に包まれた何かを取り出すシンジ。呪符か?包まれているのは、褐色の、髪?…シンジの知る限り、無表情でありつづけた父の顔色が、変わる…
「シンジ…貴様…」
「もう一度だけ言うよ、母さん。レイの封印を解いて欲しい…駄目なら、最期の手段を使うだけだけどね…」
剣の鯉口を切る…斬るしか、あるまい。もはや許す事はできん。己の母に対してこのようなおぞましい仕打ちを働こうとは…
「本気なのね、シンジ…そこまで、私達が憎かったの…愚かな母親ね、私は…」
…あなた…すまん、ユイ…鞘走る剣、右上方から襲いかかる斬撃を哄うシンジ…
「なに!?」
弾かれる刃。剣を阻む、赤い、八角形の、光?これは…
「絶対領域!?シンジ、あなた、それを何処で…」
人がこの世界に現れる前に栄えたものたちの呪法…伝える者は既に絶えて久しいと言うのに…
「教わったんだ、天使に…人の世界を滅ぼす代償の一つにね…今までは、上手くつかえなかったのに。でも、レイが呼んでくれたから…」
レイの傍らに寄り、その血まみれの手を一瞬、躊躇した後、そっと肩に回す。シンジにその頭を抱かれ、胸に頬を寄せたレイは、しばし愛しげに身を預けていたが…シンジの顔を見上げる。
「…ごめんね、レイ…でも、…」
「駄目なのね、もう…ごめんなさい、父様、母様。でも…わたしは、シンジ君の意志とともにありたい…」
向けられた、レイの視線…脅えているのね、この娘は…でも、それが貴方達の選んだ運命なのね。シンジの口から漏れる、詠唱…古代語か、人の喉から発するには、かなりの困難を伴う古の詩…青白い光に包まれる、シンジの手にした呪符の中のユイの髪、時を同じくして発光を始めるユイの体…
「ユイ!?」
再度、息子に向けて放った渾身の刺突を光の壁に阻まれる。折れる、その切っ先…攻撃の無意味を悟らされる…
「そう、そんなに貴方達は苦しんでいたのね…ごめんなさいね、レイ、シンジ…こんな、悪い母親で…」
光に包まれたまま、静かに、子供達の側へ歩み寄る…シンジとレイをその腕に抱く…
「ごめんなさい、母様…わたしは…」
…いいのよ、レイ…その紅い瞳から涙を零すレイの頭を優しく撫でる…シンジは…そう、やはり許してはくれないのね…
泡立つ光。青白く…揺らぐ、燐光。やがてゆっくりとその明滅の間隔は早まって行く…彼女の子供達のこうべをそっと抱いたまま、ゆっくりと閉じられる王妃の瞳…
「ユイ!?」
「ごめんなさい、あなた…宜しく、お願いしますね…」
振り向いた彼女の瞳に浮かぶ、あの不思議な笑み…僅かに切なげな光りを宿して…強まる、脈動。その細く優美な肢体を包む閃光。
その日…エンジェリア平原全域を嘗め尽くしたその爆風と閃光…国境からさえ見る事が出来た、天を突く四枚の光の翼…轟いた咆哮は誰のものだったのだろうか…
彼女の肉体をもう一度滅ぼそうと両親が目論んだ時、彼は、父を斬り、母に呪いをかけた…その肉体を呪われたゴーレムに変えてみせたのだ…彼の切り札、魔導兵器エヴァ…息子のかけた呪いによって、変わり果てた王妃ユイの姿…
王権を速やかに簒奪し、死体ごと行方不明…下手をすれば、生きているかも知れないが…になった前王の意志に従おうとする、老いた家臣達を尽く斬る…彼、天使タブリスの仲介により、魔界と契約を結び、新体制を打ち立てる…容赦なく人間を排するが、亜人間達には実に寛大で、慈悲深い若き王の元、人間以外の多くの兵士達が集う。人間社会からあぶれた連中も、ひとときの安住の地を求めて流れ込む…魔界からもたらされる高度技術、そしてエヴァ。それまで、控えめな性格ゆえ、侮られる事の多かった若き皇帝は、その情けを捨てた時、恐るべき実力を示し始めた。至短時間で強力な軍事国家としてエンジェリアを再編成し、強大この上ないエヴァの力を駆使して、瞬く間に周辺諸国を併合、容赦無き圧政を敷く…神を滅ぼすと豪語する若き皇帝を、人々は「獣」の名でよび、恐れおののいた…
「出撃は、2日後の払暁、第7ワイバーン中隊支援下における、『黒旋風』一個連隊による空挺攻撃。第113炎術部隊と第34魔弩砲連隊を半時先行させて展開させておく…エヴァ転送の時期は、攻撃開始と同時に。現地での誘導は、カツラギ間諜長が行うので、指示に従うように…以上、こんなとこかな。」
何時もながらのよどみ無い指示…舌を巻くトウジ…やっぱりこいつにはかなわんわ…
「で、どうすんのや、例の…」
「アイカ姫の、妹…どうしても必要なんだ、その娘の心臓…タブリスと、約束してしまったからね…」
耳元で交す会話、愛しい妻達には、聞かせたくはない…血塗られた道、引き返す事は出来ない…悲しげな、レイの瞳…
「ケイジに、いってくるよ。兵達の士気も知りたいからね…」
「ワシも行くわ…一時程で帰るさかい…」
カーテンをくぐり、出ていく男達…見送る、レイとヒカリ…ふと、気配を感じる、宙の一点に、鋭い眼差しを向けるレイ…
「ヒカリさん、下がって…いるのね、タブリス。」
白く、淡い光に満たされた部屋の、空間の一角…色調が湾曲する…浮び上がる、少年の姿をした、自称「天使」。
「やあ、リリス…シンジ君は、いない様だね…おや、随分と怖い顔をしているじゃないか…」
楽しそうにおどけてみせる天使…レイは…此処まで彼女が他者に対して不快の念を露にする事は、珍しい…
「…シンジ君に、何を求めたの…もう、やめて…わたし達を、苦しめるのは…」
宙の一点を睨んだまま、言葉を紡ぐレイ…おや、と言う顔をしてみせる天使…
「覚悟は出来ているんじゃなかったのかい?承知の上で、君は禁を破った…女神と人が契る…共に、永久に罪と業を背負って、苦しみつづける事を選んだのは、他でもない君だよ…『天にも、冥府にも受け入れられず、さ迷い、或いは煉獄の炎で焼かれつづけるとしても、永久に側にいられるのならば、そのほうがいい…』そして、彼も喜んでそれを受け入れた…地獄に落ちてさえ、君と共に居られる事をね。契約は既に為された…君達の魂は、既にあそこに繋がれているんだよ…」
「そう…全てを共にしたかった…痛みも、苦しみも、憎しみさえも…だから、わたしの望みは彼の望みでもあるわ…あなたは、これ以上何をのぞむの…」
「僕が望んでいるわけではないよ…契約を忘れてもらっては困るな。君達が最初の契約に用いたソウリュウ一族の血、なかなか貴重なものでね。魔界の蓋を開くには、どうしても必要になってくるんだよ、契約の始まりと同じ性質を持つ供犠がね。僕に与えられた目的の成就は、同時に君達の願いをかなえる事にもなる…協力してもらうよ、同じ堕天使としてね。シンジ君を、喜ばせたくはないのかい?」
「苦しんでいるわ、あのひとは…貴方にはわからないのね、人の心は…」
「それを知ってしまったから、君は堕ちたのだろう…人の温もりは天使にとっては麻薬…その味を知ってしまえば、忘れられずに次々と罪を犯す…今の君だね…人と同じ弱い存在…僕は、逆だったけれどね。」
「神に逆らい、その座を奪おうとして、追放された…だから、冥府に棲んでいるのね…」
「あそこは、なかなか居心地が良くてね…君達が来るのを、待たせてもらうことにするよ。」
肩を竦め、掻き消える天使。立ち尽くすレイ…その手を、そっと握るヒカリ。
「…ごめんなさい、あなた達にまで、罪を犯させてしまった…」
首を振るヒカリ…紅い瞳を覗き込む、穏やかな眼差し…
「全部、解っているの、わたしも、スズハラもね…行きましょ、一緒に。行き先が何処だろうと。」
「…わたし達を、許してくれるのね…ヒカリさん…」
ヒカリが答える。言葉ではなく、微笑みで…抱擁…この、「獣」の城塞の中で、ここだけが、柔らかな光に満ちていた…
西風が吹いている。僅かに生暖かい湿りを孕んで…遠い都や緑豊かな異郷の国々を隔てる白い山並みの上…微かに瞬き始める星達が一つ、二つ…ひなびた、慎ましやかな集落、西の山脈に宿る神々の恵み…ささやかなる緑と水に依って生きる者達の土地…
既に日は銀を頂く壁の向うに沈んでいる。日干し煉瓦の二階家の窓から星々を見上げる赤毛とうろこの小さな頭が二つ。家々に明かりが灯り始める…
「…風が…エーテルがフロギストンを孕んでいるわ。動いているわよ、彼等…」
窓辺にその白い手を掛け、宵の明星に視線を向けたまま呟く…応えは最初から期待してはいない。名残陽…既に濃紺に染まった天の縁、斜めに差し込む紫を孕んだ薔薇色の光がやがて薄らと弱まっていく。闇に溶け込む部屋の奥、サイドテーブルに肘を突いたままベッドにもたれる、長身の影…動かない。
振り向く…真白なローブが起てる、微かな衣擦れの音…視界に入るその姿、同時に…僅かにうな垂れるリツコ。しかし…
…人は、忘れる事で生きていけるのよ…でも、貴方は…
微かに西風が熱を帯び始めていた…