コツ、コツ、コツ・・・・・・・・。 静かな廊下を、足音が響いた。 白い壁、白い床、白い天井と灯り。 汚れ一つない周囲のそれが、どこか非現実的な雰囲気を醸し出している。 殺風景・・・・だな。 渚カヲルはこの廊下を通る度にそう思う。 こんな長い廊下なのだ。 少しくらい目を楽しませるものがあっても良かろうに。 見る者を男女問わず陶然とさせる美貌の持ち主、渚カヲルは そんな廊下を黙々と歩いていた。 一人きり。 奇妙な孤独感に囚われつつ、歩み続ける彼の目が、人影を捕らえた。 前方から人が一人こちらへ歩いて来る。 一本道の廊下であり、このまま行けば間違いなく両者はすれ違う事に なる筈だった。 カヲルはそれを悟り、更にその人物が何者であるか知ると、すぐさま 踵を返した。 もと来た道を再び辿り始める。 「ちょっとちょっと、渚さん。」 後方の人物が声をかけてきた。 幾分呆れた響きである。 こんなあからさまに避けるそぶりを見せられれば当然であろう。 急ぎ足でカヲルに追いついて来る。 「・・・・・・。」 その気配を知り、カヲルもまた急ぎ足になった。 縮まりかけた両者の距離が再び開く。 それを受けて今度は軽く駆け足になる背後の人物。 負けじとカヲルも駆け足になった。 たったったったった・・・・・・・・。 両者のペースはみるみるあがり、静かな廊下はいつしか陸上のトラックと 化していた。 「な・ぎ・さ・さ・ん。」 ふっ、と後方から迫る気配が途絶え、代わりに前方に”そいつ”が現れた。 「はあ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」 カヲルは溜め息を吐いた。 不快さを隠そうともしないその仕草に、男は苦笑する。 「嫌だなあ、渚さん。いくら俺の事嫌いだからって、わざわざ来た道を 引き返す事ないじゃないですか。」 「何の用だね。」 カヲルは男と視線も合わそうともせずに、ただそれだけ言った。 カヲルはこの男が嫌いだった。 その男は、大体二十代の中盤。 背の低いカヲルからすると、見上げる様な形になる。 真ん中から左右に分けられた長髪に、なかなかに甘いマスク。 もっともカヲルの美貌には遠く及ばず、俗っぽいものではあったが。 にやついた笑みを浮かべて、男は渚を見下げていた。 この男も、これはこれで女子職員達に人気があるようだが、どうもその辺が 理解出来ない。 この笑みがカヲルは嫌いなのである。 と、言うよりもカヲルとこの男とは敵対関係なのである。 「何の用だね、とは情れませんね。 同僚なんですから挨拶ぐらいいいじゃないですか。」 「挨拶をするためだけで全力疾走で僕を追いかけたのかい。」 「挨拶が嫌なだけで全力疾走で俺から逃げたんですか?」 「・・・・・まあ、いいさ。」 カヲルは上目遣いに睨んだ。 常人ならばたじろぐに違いないだろうが、男はそれを軽くいなした。 「渚さん。」 「なんだね。」 「・・・・・最近、妙な動きをしてらっしゃる様で。」 「・・・・何の事かな?」 「相変わらず、おとぼけがお上手で。」 「いつも言ってる事だがね、人を非難したりする時には、それなりの証拠を 手に入れてからにして欲しいね。」 男は再びにやにやと笑う。 「まあ、おっしゃる通りで。しかし、忘れないで下さいよ。 俺達の上司は、碇ゲンドウ氏である事を。」 「それはこちらの台詞だな。」 「何の事で?」 「君は碇氏よりも、”あの女”に使われている様じゃないか。」 男は肩をすくめた。 「ま、お互いに忙しい身です。 腹の探り合いは時間のある時にでも。 素直にすれ違っていれば『こんにちは』の一言で済んでいたのに、 渚さんが逃げるものだから妙に長くなってしまったじゃないですか。」 「ま、大した話もないのなら、僕はこれで失礼させてもらおう。」 カヲルは再び踵を返す。 男が背後から、変わらず笑みを浮かべながら彼を見送っているのが分かる。 カヲルは落ち着いた歩みで遠ざかって行く。 ・・・・ふん、もうすぐだ。 カヲルは思う。 日向マコトが、きっちりと仕事を終えてしまえば、全てがうまく行く。 その時になって吠え面をかくなよ。・・・・・・青葉。 カヲルは、きゅう、と唇の端を吊り上げて笑った。
僕のために、泣いてくれますか(第弐拾壱話)
葛城ミサト・日向マコト・完結編
「ふー。これでほとんどの荷物は運び終わった訳ね。」 アスカが、ほおっ、という感じで溜め息を吐く。 ここは、ミサトさんの部屋の中だ。 アスカの家具の類を運んで来た引越し業者の人達は、既に仕事を終えて 帰ってしまった。 「良かったね、アスカ。引越し、何事もなく済んで。」 「ま、ね。でも、まだ衣類とか、小物の整理なんかも必要なのよねえ。 あーめんどくさい。・・・・ね、今何時?」 「えっと・・・・・。」 僕は壁の時計を見た。 「四時をちょっとまわったとこ。」 「もうそんな時間?・・・・細かい事は明日にでもしとこうかな。 別段あせってやる事でもないしね。」 「そうだね。・・・・・・それにしても、ミサトさん、どうしたのかな? 今日は朝からどこか行っちゃって・・・・・。 仕事ってわけじゃないよね?」 「んー。どうもミサトってば、変よねえ。 考えてみればあたしと同居する事を許可した時も様子が変だったし。 妙な事言ったりして・・・・・・確か・・・・・・・。」 「・・・・・心の整理が・・・・・ついた・・・・・とか・・・・・。」 「うん、そうよ、そう。 何なのかしらね。心の整理、何てしおらしい表現使ったりして。」 「・・・・さあ・・・・・・。」 まだ、たかだか14年間しか生きていない僕には、ミサトさんの心の中など 読み取る事は不可能だった。 彼女の、ふ、っという寂しい横顔だけが印象に残っている。 「まあ、夕飯時には帰って来るって言ってたし。 ひょっとしたらただ単に引越しの手伝いするのが面倒なだけだったりして。」 「それは・・・・・ないと思うけど・・・・・。 あ、そろそろ夕飯の準備しようかな。 とりあえず今日はアスカの引越し祝いのパーティーだからね。」 「ね、そんな事よりさ、シンジ。」 「何?」 アスカが、にま、という感じで笑いながら僕に顔を寄せて来た。 どれだけ近付いて観察しても、けして粗の見えない肌理細かな肌が 僕の目を眩しく射た。 心臓が早鐘を打ち始める。 「・・・嬉しい?」 「は?」 「嬉しいかって、聞いてんの。」 「う、嬉しいって、何がさ。」 「だ・か・ら。このあたしと、今迄以上に近くで暮せる様になって、よ。 これからはすぐお隣で寝泊まりするんだもんねえ。 一緒に居られる時間も長くなるし。 どう?嬉しいでしょう。」 「あ、い、いや、その・・・・・。」 「ほらほらあ。どうなのよお。」 「ん・・・・・。」 「そんな困った顔したって駄目よお。素直に言いなさいよ。」 さらに近付いて来る可愛らしい顔。 僕はそれに負けて・・・・・言ってしまった。 「う・・・・・嬉しい・・・・よ・・・・・・。」 僕は真っ赤になりつつ、俯いて言った。 「・・・・・・!」 期待していた言葉であったろうが、いざ言われてしまうとそれなりに 感じるものがあったのか、アスカは頬を染めた。 「ば・・・・馬鹿・・・・・。」 「アスカ・・・・・。」 僕は彼女の細い腰を左手で軽く抱き寄せた。 僕の”臆病”という名の堤はアスカの攻勢に容易く破れ、なみなみと たたえられた感情はあっという間に溢れた。 僕は滅多にない程の強い意志を込めて行動していた。 「あ・・・・・・。」 アスカが切なげに僕を見つめた。 長い睫毛が震えている。 「アスカ・・・・・。」 「シ・・・・・シンジ・・・・・・。」 「アスカ・・・・・、キス、しよう・・・・・・・。」 「え・・・・・?」 「キス・・・・・だよ・・・・・・・・。」 「な・・・なな、な、なんでよお・・・・・。」 アスカが消え入りそうなか細い声で抵抗を試みた。 しかしその声の中に隠し切れぬ期待の響きを捕らえ、僕は自信を得る。 「・・・駄目・・・・?」 「だ、だだ、駄目とかそういう事以前に、あたしとあんたとは恋人とか そういう関係じゃないでしょお?」 彼女の返答は予想通りのものだった。 だから僕は用意していた言葉で彼女を攻撃する。 「・・・恋人同士じゃなくちゃ、キスしちゃいけないわけじゃないでしょ・・・・・。 」 「そ、そそ、それはそうだけど・・・・・。」 「アスカ・・・・・。」 「あ、だ、駄目だったら・・・・・シンジ・・・・・。」 「じゃあ・・・・この間・・・・キス、してくれたのは・・・・?」 「あああああの・・・・・。 それはいいいいいい一時の気の迷いとかいうやつよ。 うん、そそそそうなのよ。」 「・・・・・・・。」 僕は無言で更に彼女を抱き寄せた。 「あ、だ、だから・・・・・・。」 「アスカ・・・・。」 僕は右手をアスカの左手に絡めた。 ぎゅっ・・・・・・。 避けるそぶりと口調とは裏腹に、アスカの左手は強く僕に応えた。 「シ、シンジい・・・・・・・・・・んっ・・・・・・・!」 僕は多少強引に彼女の唇を奪った。 甘い感触が僕の唇を包み込む。 そうだよ・・・・・。 これで、いいんだ・・・・・。 まだ、アスカに僕の秘密を明かす必要なんてない・・・・。 もうしばらくは、このままで・・・・。 『それで、いいのかしら?』 リツコさんの声がどこからともなく響く。 いいんですよ、これで。 そう・・・・・・。 いいんだ・・・・・これで・・・・・・。 『マヤは、どうするの? あなたは、マヤも好きなんでしょう? なのにアスカと・・・・・・。』 僕は別に、アスカに好きだとは一言も言ってない。 僕はただ、アスカにキスを求めて、アスカもそれを受けただけだ。 僕はこれ以上のものをアスカに求めたりはしていない。 ・・・・・気持ちいいんだ。 今の、この状態が、とても気持ちいいんだ。 アスカとの、この微妙な位置が、とても気持ちいいんだ。 ・・・・それで、いいじゃないか。 『でも、それは逃げでしかないわね。』 黙ってよ! 僕を、責めるのは、やめてよ! 僕は、そっとアスカから唇を離した。 「ん・・・・・・シンジい・・・・・・・。」 アスカが瞳を潤ませて見つめて来る。 僕はそれを正面から受けた。 「シンジの・・・・・シンジの、ばかあ・・・・・・・・。」 アスカが幸せそうに、僕の悪口を呟いた。 安永ショウイチは、浮浪者である。 若い頃、彼は都内の某銀行に勤務、一線で精力的に働いていた。 念願のマイホームを埼玉県に購入して、貞淑な妻と幼い息子、娘に 囲まれ、彼は幸せの絶頂にあった。 ところが運命の日、彼は今迄積み上げて来た全てを失った。 ”震災”である。 彼の運命と心とはその日より一気に奈落に突き落とされ、紆余曲折を経て 今ではここ第三新東京市においてその日暮らしの生活を送っていた。 浮浪者仲間の間では、彼は”インテリ”などと呼ばれていた。 そしてその響きを聞く度に自嘲の想いを噛み締める。 ぴしりと着こなしたスーツは今ではどこから拾って来たのやら分からぬ 薄汚いズボンやコートに替わっている。 全身は常に垢だらけであり、つん、とどこか饐えた匂いが漂う。 もっとも、食生活は意外と豊かであった。 第三新東京市。 この都会において、食料の供給は需要を下回る事はけしてない。 繁華街の裏道を通れば、レストランの余り物が豊富に手に入る。 時にはびっくりするほど高級で、美味な食べ物をほとんどまっさらに近い 状態で食する事も出来るのである。 ともかく安永は、この都会の底辺を、一種気ままに生活していたのである。 その安永が最近のねぐらにしているのが、とある廃工場であった。 この土地が第三新東京市として新たな日本の中心都市となる以前から あったものである。 某企業の下請け工場であり、以前はそれなりの従業員と設備とを抱えて 活動していたのであろうが、”震災”時の影響をもろに食って工場は 閉鎖に追い込まれた。 地価の値上がりを期待した人物が新たに買い取ったらしいが、予想以上に 値上がりが激しく、売り捌く事も出来ずにほったらかしになっているらしい。 鉄筋コンクリートの建物は、長い歳月を雨風に耐え、ぼろぼろになりながら 佇んでいた。 安永は、こんな廃工場に、どこか自分を重ね合わせていたのかも知れない。 そして。 その夜。 段ボールとぼろぼろの毛布に包まり、一人寝息をたてていた安永は、 突然何者かに揺り起こされた。 安永の就寝時間は早い。 大抵午後七時頃には横になってしまう。 その自分がさほどの不快も覚えずに起きた所からすると、まだ寝始めてから 時間は経っていないようだ。 午後八時頃であろうか。 安永はそんな風に判断し、そして濁った目で自分を夢から引き戻した者の 正体を捕らえた。 それは、一人の男であった。 まだ、若い。 二十代である事は間違いなく、均整のとれた身体付きを灰色のスーツが 包んでいる。 なかなかに見栄えのする容姿であった。 静かな佇まいに、安永はどこか若い頃の自分を重ねた。 男が、言った。 「・・・・あ、すいません。起こしてしまって・・・・・。」 「・・・・いや、いいよ。・・・・それより、何の用だい。 君みたいな若い男が来る場所じゃないだろうに。」 「その・・・・まことに申し上げ辛い事なんですが・・・・・。 ちょっと、この工場の中から、出て欲しいんですが・・・・・。」 ああ、そういう事か。 安永は理解した。 ぼりぼりとフケだらけの頭を掻く。 「いや、謝られても困るな。 勝手に入り込んでいたのは私の方だからね。 ・・・・そうか。この工場も、取り壊されて新しく何かに生まれ変わる時が 来たのかな。」 「あ、いや、そういう事ではないんですよ。」 男が、少し慌てた感じで言った。 「僕は別にこの工場の持ち主とは何の関係もありませんから。 ただ、ちょっと今夜一晩だけここをお借りしたいな、と思いまして。 今夜だけでいいんです。 出来れば他の場所に移って頂けないでしょうか・・・・・?」 「ほお。こんな所、何に使うんだい?」 「いえ、それは、ちょっと・・・・・。」 「ひょっとして、女でも連れ込もうってのかい?大人しそうな顔して、意外と やるもんだねえ。」 「は、はは・・・・・・。」 困った感じで笑う男。 何となくその笑顔に惹かれるものを感じて、安永は言った。 「・・・まあ、いいさ。 何に使うかは知らないが、今夜は他にねぐらを探すさ。」 「・・・・本当にすいません。」 「いやいや、いいって事だよ。」 安永は手を振ると、のそのそと歩いた。 やがて工場の敷地内から出てしまうと、彼は振り返って廃工場を 見渡した。 「・・・・・・・・。」 安永は、男の目を見た時、何かを感じていた。 何かを決意した男の目。 それが何であるのかは分からなかったが、安永にはそれを邪魔する事は 出来なかった。 安永にはその権利は無かった。 「・・・・・・・・。」 ・・・・・・死ぬなよ。 ふと、そんな想いが唐突に浮かぶ。 そして安永は、今夜一晩のねぐらを求めて、夜道を歩き出した。 「・・・・・さて、と。」 浮浪者をとりあえず工場から外に出した男は、手を腰に当ててぐるりと 周囲を見回した。 がらん、とした広い空間の中、彼は一人佇む。 男は、日向マコトであった。 いつもの眼鏡を外し、髪も上げずに下ろしてある。 月明かりがぼんやりとマコトの姿を浮かび上がらせていた。 あの渚カヲルなどとは比べ物になるまいが、見る者の目を否応無しに 釘付けにする何かがあった。 「・・・・・そろそろ、ランデブーの時間かな?」 マコトは手首の腕時計を見る。 そして、それに応えるかの様に。 微かな足音が、工場の中を漂い始めた。 タシ、タシ、タシ、タシ・・・・・・・・。 徐々にこちらへ近付いて来るその響き。 マコトの鋭敏な知覚はそれを間違いなく捕らえ、彼は僅かに笑みを浮かべる。 ・・・・待ち人、来たる。 ふわっ・・・・・・・。 割れた窓ガラスの隙間から夜風が吹き込み、やがてそれが去った後。 そこに、一人の少女が現れた。 ・・・・美しい。 マコトは素直に感嘆した。 写真であらかじめ知ってはいたが、実際に見るとその魅力は数百倍に 跳ね上がった。 或いは外界から差し込む月光の魔術でもあったろうか。 美の女神の寵愛を受けた・・・・と言うよりは、彼女こそまさしく美の女神 そのもの。 無造作としか思えぬ程にいい加減に切り揃えられたその髪も、 仮面かと思わせる程の、感情を顕さぬその無表情も、 さらに言えば彼女のその、女としてはまだまだ未成熟な体つきすらも。 全てが”美”という只一語のためにのみ作られたかの如き完璧さを 誇っていた。 彼女にその瞳で見つめられる事が出来るなら、人は自らの全ての財を 擲ったであろう。 彼女と口づけを交わす事が出来るなら、白き妖女の伝承さながらに、 肉体も魂も凍り付く事さえ人は厭わないであろう。 雪片を思わせるたおやかな唇が、動いた。 「・・・・あなたが・・・・・・?」 ただ、一言だけ。 神の啓示とはこの様な響きを伴うものであろうか、などと感じつつ、 マコトはその言葉を受けた。 「・・・・・うん・・・・・僕だ。 今晩、君をここへ呼び寄せたのは、ね。 はじめまして・・・・・・綾波、レイ。」 「そして・・・・私に、毎晩”呪殺の法”を掛けて来たのも・・・・あなたね?」 「その通りさ。」 マコトは微笑う。 「僕は呪いはあまり得意ではないのだけどね・・・・・。 こうして、僕の呼び出しに応じてくれた所からすると、 なかなかにこたえてくれていた様だね。」 「別に・・・・。 何ともありはしなかったわ・・・・・。」 「なら、何故わざわざ来てくれたのかな?」 「うるさい蝿を追うのに、特別理由があるの?」 「これは一本取られたかな? いや、やっぱり丑三つ時に藁人形と五寸釘なんて、いささか古典的過ぎる かな、なんて思ってはいたんだけどね・・・・・。」 「・・・・・・。」 「・・・・・今のは、笑ってもいい所だったんだよ。冗談だからね。」 「そう。気付かなかったわ。」 僅かな沈黙が訪れる。 しじまを破ったのは、綾波レイであった。 「・・・・何故、私を?」 「・・・・言わなくても、分かるんじゃないかな? ・・・・殺すため、さ。」 「それなら、何故ろくに使えもしない”呪い”を用いてまで、私をここへ 呼び寄せたの? 暗殺なら、こんな決闘まがいの真似をしなくても、”暗殺らしく”行えば 良かったのではないの?」 「・・・・・話が、したくてね。」 「?」 「僕はこれを最後に、もう二度と人殺しに手を染めるつもりは無い。 最後に殺した人間が、どんな人間だったかぐらいは知っておきたくてね。」 「・・・・・そう。もう一つ、聞いていい?」 「何かな?」 「あなたにこの仕事を依頼した人物は、誰?」 「忘れてしまったよ。 僕は記憶力が鈍くてね。」 「・・・・・なら、もうこれ以上話を続ける必要も無い。」 レイの真紅の瞳が、炯炯と輝き出した。 「・・・・時が、うつるわ。 始めましょう。」 そして・・・・・。 闘いが、始まった。 最初に動いたのは、レイであった。 肩口から、だらりと下げられた両腕。 その繊手の指先が、一つの明確な意思を持って動き出した。 それは例えて言うならば、美しき旋律を紡ぎ出すピアノ奏者のそれ。 マコトがその動きに反応するより早く、彼女の魔術の効果は現れた。 少女の足元を中心に、突如半径5メートル程度の蒼く光り輝く魔法陣が 床にその姿を現わし、そしてその輝きはみるまに強くなって行く。 そして輝きの強さがその頂点に達した時。 唐突に眩い光は失せた。 魔法陣は消え失せ、その替わりに。 そこに、異形の者共の集団がその姿を現わしていた。 逞しすぎる人間の肉体に、獅子の頭部を備えた者。 丸く膨れ上がった胴体に、八本の節足をつけた、奇ッ怪な巨大蜘蛛の姿。 あちこちが異様にひき歪んだ、見る者に吐き気をもよおさせる鳥のオブジェ。 エトセトラ。エトセトラ。 二十体に及ぼうかと言う戦慄の”悪魔”達であった。 美というものの対極に位置するそいつらの中、綾波レイの姿は意外な程に ぴったりとその光景にはまっていた。 「・・・・・・。」 つつ、と汗が流れるのをマコトは感じた。 綾波レイは、悪魔召喚師である。 その事は、渚カヲルから与えられた資料の中にも、明確に記された一項 であった。 しかしその力量は、マコトの想像をいささか超えるものであった。 通常悪魔を呼び出す際には、魔術師はその下準備に一週間、一ヶ月、 それぐらいの時間を費やすのは当然である。 そして魔界より、悪魔を呼び出す事に成功したからと言って、それで 終わりではない。 悪魔に魔術師の力量を認めさせ、従属する事を、或いは協力する事を 約束させねばならぬ。 これもまた苦労を伴う作業であり、呼び出した悪魔の機嫌をそこねて 殺されてしまった魔術師の例は幾らでも転がっている。 ともかく、悪魔をその支配下に置くには、並々ならぬ厄介な手順が 待ち構えているのである。 しかし一旦支配下に置いてしまえば、悪魔はいつでも即座に召喚師の 召喚に応ずる。(時たまそうでない場合もあるのだが。) 綾波レイもまた、一見した限りにはその様にして、あらかじめ支配していた 悪魔達を呼び出しただけに見えるが、さにあらず。 彼女は、今の一瞬で、召喚、そして魔界の住人達を従属させる迄の作業を 全て終えてしまったのである。 簡単に表現してしまえば、道を歩いている見ず知らずの他人に、いきなり 『私に従え』と命令し、そしてその命令を受けさせてしまったに等しい。 更に言うならば、彼女が呼び出した悪魔達は、一流の召喚師であっても 自らの命を削り取る程の苦しい業を用いなければ召喚出来ぬ、凄まじい 力の持ち主ばかりであった。 綾波レイの力量が常識を超えるものである事をマコトは悟った。 そして。 微笑った。 コツ、コツ、コツ・・・・・・。 マコトは、足音を響かせつつ、無造作とも言える足取りでレイへと 近付いて行った。 それを見る者がいれば、この男は白痴ではないかと疑ったかも知れぬ。 それほどに無防備であった。 常人が野良犬と対峙した時でさえ、もう少し身構えているであろう。 異形の集団は、暫しそれに呆気にとられたかに見え、そして動き出した。 「$#@**¥&$#@%・・・・・・・・・!!」 悪魔達は、人間にはけして発音不能の雄叫びをあげつつ、マコトに迫った。 ある者はどすどすとその両の足で走り、ある者は羽音を響かせつつ、 ある者はべたり、べたりと触手らしき物で身体を引き摺りつつ。 マコトの命は万に一つも助かる術はないかに見えた。 その・・・・時。 フッ・・・・・・・。 唐突に、マコトの周囲に”それら”は現れた。 それらが、何であるか、と問われても、人には明確な答えを導き出す事は 不可能であったろう。 しかし、その姿を何かに例えて表現してみよ、と言われれば、人は 恐らくこう表現したかも知れない。 ・・・・・シャボン玉である、と。 ぴくり。 レイの表情が、僅かに動いた。 そう。 それらはまさしくシャボン玉と酷似していた。 空中にふわり、ふわりと浮かび漂う半透明の球体。 二十個近いそれらが、マコトの周囲を包み込む。 一つ一つの大きさは、直径一メートルはあったろうか。 月明かりを反射し、幻想的な美しさを感じさせた。 それに虚をつかれたか、それとも美しさに魅了されたか、怒涛の進撃を 続けんとしていた悪魔達はその歩みを止めた。 そしてそれを逃さぬかの様に、シャボン玉は動き出した。 ゆらり、ゆらり、とやはりシャボン玉の如くゆったりとした動きで、 それらは悪魔達へと漂い近付いて行く。 悪魔共は、動かない。 そして、先頭に立ってマコトへと迫って来ていた牛頭人身の悪魔の元へ、 シャボン玉の一つが辿り着いた。 シャボン玉が、その身体に触れた。 本物のシャボン玉であれば、間違いなく弾け消えたであろう。 しかしそれは、割れる事無くその球形を歪めた。 さながら何かに押し付けられたゴムボールの如く。 シャボン玉と悪魔との接触面は次第に増え、そして・・・・・・。 すぽっ。 そんな音が聞こえてきそうな感じで、・・・・・何と、悪魔の肉体は突如大きく 広がったシャボン玉の中に、すっぽりと入り込んでいたのである。 「・・・・・・・・!?」 当惑した様子を見せ、そいつは自らを閉じ込める柔な球体を破壊せんと 中から殴り付けるが、シャボン玉はその形を歪めるばかりで、けして 割れる事はなかった。 そして、あちこちで同様の光景が現れる事となった。 「・・・・・・・・・。」 マコトは笑みを深めた。 いつしか二十体に及ぶ悪魔達は、全てその体をシャボン玉の内部に 閉じ込められていたのである。 口から吐き出される炎も、体から噴出される強力な酸も、それを破壊する事は 敵わなかった。 そしてマコトは、仕上げにかかった。 マコトは、優美、とさえ言える滑らかな仕草でその右腕を一閃させた。 次の瞬間。 パアアン! シャボン玉は、まさしくシャボン玉の如く弾けて消し飛んだ。 ・・・・・二十個のそれらは、跡形も無く消えていた。 ・・・・・その中に閉じ込めた悪魔達と共に。 ・・・・・・・・。 廃工場の中は、再びがらん、と寂寥感を漂わせる空間に戻った。 最初に対峙した時と同じく、そこには綾波レイの姿と日向マコトの姿しか 存在しなかった。 すっ・・・・・・。 レイが、動きを見せた。 しかし、今度のマコトの動きは、それを上回った。 パシイイーン! 空気を引き裂く鮮烈な響きと共に、綾波レイの両手は、鈍く光る 二つの輪によって固定されていた。 まるで、手錠の様に。 「・・・・・・・!」 レイはそれを外さんと動いたが、強固なそれは揺らぐ気配すら見えぬ。 「・・・・僕の持ち得る最高の束縛の魔術さ。」 マコトが、言った。 心なしかその表情は青ざめているかに見える。 「君の魔力を封じさせてもらった。 すでに、君に勝ち目はないよ。」 「・・・・・・・・。」 レイは、無言でマコトを睨んだ。 と、いきなり凄まじい突風がマコトめがけて吹き出した。 常人ならば吹き飛ばされて勢い良く工場の壁に叩き付けられていたかも 知れぬ。 しかしマコトの目前で、その風は跡形も無く消え失せる。 「・・・・それだけの束縛を受けてなお、これほどの力を振るうか。 まさしく、化け物だね。綾波、レイ。 本当に人間かい?」 「くっ・・・・・。」 レイの全身が、僅かに緊張した。 後方へ跳躍するつもり、と見、マコトは新たな魔術を仕掛ける。 ドッ・・・・・・・。 不可視の”手”に足首を掴まれ、レイは転倒した。 「・・・・・・。」 仰向けに床に倒れ込んだレイの足元にマコトは立ち、そして見下ろした。 既に眼下の少女が自らの掌中にある事を彼は確信する。 そして。 これからであった。 ・・・・・殺せるか? マコトは自問する。 マコトの手は、汚れていた。 最早取り返しがつかぬ程に。 しかしこの様に、少なくとも外見は無垢な少女を、殺める事が出来る だろうか。 依頼を受けてより、何度も、何度も自問した事であった。 しかし。 殺す他はない事もまた、マコトは知っていた。 故に、マコトは口を開く。 「・・・・・許して、欲しい。」 血を吐く言葉だった。 「・・・・やめて・・・・・。」 ? レイが、言った。 マコトは僅かに驚きを見せる。 「・・・・やめて・・・・・。」 もう一度。 ・・・・まさか、この少女が敵に対して哀願の言葉を吐こうとは。 感情などと無縁に見えながらも、やはり彼女も人間であったのか。 やはり彼女も死を恐れる心を持ち合わせていたのか。 「・・・悪いが、無理だ。 僕は、君を・・・・・・・殺さなければ、いけない。」 そしてマコトは、これから手にかける少女の顔をじっと見詰めた。 あくまで、無表情に。 数秒後、少女の身体は時を刻む事を止め、冷たい骸と化す筈であった。 しかし。 次にレイが放った言葉が、マコトの精神を凍り付かせた。 「やめて・・・・・・お兄様・・・・・・・。」 !! 「・・・・・ミサキ・・・・・・・!?」 彼女の声の響きに、十年間片時も忘れる事のなかった妹を見出し、 マコトの動きは止まった。 次の瞬間。 「がはあっ・・・・・・・!」 いきなり身体に叩き付けられた衝撃波をまともに食らい、マコトは十メートルも 吹き飛ばされて、もんどりうって倒れた。 「ぐ・・・・・・・っ!はっ・・・・・・・・!」 口から溢れ出す大量の血。 いつのまにか、綾波レイは立ち上がっていた。 真紅の瞳が無表情にマコトを見据える。 その両手に掛けられた束縛は、・・・・・・・消えていた。 取り返しのつかない隙を与えてしまった事をマコトは絶望と共に悟った。 立場は一瞬の内に逆転していた。 「まさか・・・・・まさか、君は・・・・・・。」 マコトの頭脳は一瞬で、一つの結論を導き出していた。 レイが、そのしなやかな右手を彼に向けて突き出した。 「君は・・・・・。」 レイの右手に魔力が集中し、そして・・・・・・。 「”ネクロマンサー”か・・・・・・・・・!」 マコトの精神は、暗黒に包まれた。 ・・・・・・ぽたり。 ミサトは自宅のマンションに辿り着いた。 日曜日の今日、彼女は一日中街をさまよっていた。 別に、欲しい服があったわけでもなく、男に声を掛けられたかった訳でも 無い。 ただ、自分の部屋に居たくはなかったから。 今日は、アスカが自分の部屋に引越しの荷物を運び込む日だった。 ミサトにはそれを目の当たりにする事はあまりに辛すぎた。 自分の思い出が消えて行くのを見たくはなかった。 かつて自分が最も愛した人の部屋が、別の人のものになるのは。 ・・・・・ぽたり。 ミサトはエレベーターに乗り込んだ。 乗客が自分一人である事を確認すると、さほど気が長いというわけでもない 彼女は、『閉』を押してすぐにドアを閉めてしまう。 鈍い駆動音と共に、エレベーターは上昇を始めた。 「・・・・・・。」 暫し無為な時間を過ごし、エレベーターは六階を示して止まった。 ちん、という音。 ドアは開き、ミサトはエレベーターを降りた。 ・・・・・ぽたり。 カツ、カツ、カツ、・・・・・。 ミサトはヒールの音を響かせ、廊下を歩む。 夜景が左手に輝いた。 やがて自分の部屋に辿り着くと、彼女はドアを開けた。 鍵は開いていた。 シンジ君とアスカが中にいるのだろう。 玄関にあがってヒールを脱いでいると、それを証明するかの様に ぱたぱた、というスリッパの音と共に赤毛の少女が現れた。 「お帰り、ミサト。」 「ええ。ただいま。アスカ。」 「ね、ミサト。やっと引越し終わったわよ。 部屋、見てみる?」 「ええ。見せてもらうわ・・・・・。どうしたの?アスカ?」 ミサトは、アスカが自分をきょとん、として見詰めているのに気付き、 彼女に問いを放った。 アスカは戸惑いを見せながらそれに応えた。 「ミサト・・・・・なに、泣いてるの?」 「・・・・・え?」 ・・・・・・・ぽたり。 ・・・アスカの、言う通りであった。 ミサトの両の目からは、絶え間無く涙が溢れていた。 「え・・・・・?なに、これ・・・・・?」 ミサトの意志とは関係無く、涙は流れ続ける。 ごしごし、と袖で顔を拭き、アスカに笑いかけようとするが、自分の顔は 自分のものではないかの様に言う事を聞かなかった。 「あれ・・・・?ど、どうしたのかしらね・・・・?」 ・・・・・ミサトは。 更に訝しげな表情を見せるアスカと、そして遅れて奥から出て来た シンジの前で、止まらぬ涙を拭い続けた。 ・・・・・いつまでも、いつまでも。
河井さんの『僕のために、泣いてくれますか』第弐拾壱話、公開です。
マコトの最後の戦い。
自分に区切りを付けるつもりで挑んだ戦いでしたが、
本当に最後になってしまいましたね。
余裕を見せていたマコト、
その流れをあっさり逆転してしまったレイの一言。
初めから
”いつでも殺れた”のはレイの方だったんですね。
”殺す相手を見たかった”のもレイの方だったんですね。
少女に殺された(?)ことでマコトは終わり。
ミサトの思いは 区切りがついたかな。
シンジは踏み込めなくて、
アスカは幸せな気持ちで。
ああ、もう、早く続きが読みた〜い!!
さあ、訪問者の皆さん。
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