TOP 】 / 【 めぞん 】 / [河井継一]の部屋に戻る/ NEXT











『お兄様。』

声が、響く。
少女の声が。

『お兄様。私、今日はとても具合が良いみたいです。』

儚げな声である。
そして、美しい声でもある。

『お兄様、見て下さい。
 ほら、こんな所にたんぽぽの綿毛が。
 ふふ。とても奇麗ですね。』

静かに、慎ましやかに、響く声。
しかし、その響きの芯には、どこかぴんと張り詰めた、凛とした所がある。

『お兄様。また、学校のお話を聞かせて下さい。
 お兄様のお話、私いつもとても楽しみにしてるんですよ。』

どこか、幼さも感じさせる声である。
声の中に、ふと無邪気で、可愛らしい響きが混じる事がある。

『お兄様。今夜は何だか蒸しますね。
 ・・・・・え?あ、そんな、いいですよ。
 私、そんなつもりで言った訳じゃ・・・・。』

この様な声を出せる女性など、滅多にいるものではないだろう。
俗世間の汚れ、というものを一切経験させずに、それこそ真綿に包んだ様に
大切に、大切に育てられていなければ到底こんな響きを紡ぐ事は出来まい。
舞い下りたばかりの雪の如く清らかであり、またそれを受け止める大地の
如く豊潤な温かさを秘めていた。

『お兄様、最近ほんとに背が伸びてらっしゃるのね。
 ・・・・何だか、大きくなって行くお兄様を見ていると、私が置いていかれて
 しまう様で、時々怖くなる事があるんです・・・・・。』

少女の声は、更に、更に、続いて行く。

『お兄様・・・・。私、お兄様がいなくなってしまったら、・・・・・・・。
 ・・・・・・生きて、行かれないかも・・・・・知れません・・・・・・。』

『好きです・・・・・・お兄様・・・・・。
 許されぬ事だと分かってはおりますけど・・・・・・。
 ・・・・・好き・・・・・です・・・・・・。』

『ずうっと・・・・・私と・・・・・・一緒に・・・・・・・。』

『ずう・・・・・・・っと・・・・・・・。』

『お兄様・・・・・・。』

『お兄様・・・・・・。』

『お兄様・・・・・・。』





『・・・・・・・・マコト・・・・・・お兄様・・・・・・・。』










僕のために、泣いてくれますか(第弐拾話)

    葛城ミサト・日向マコト・その3


 

コンコン。 入り口のドアがノックされた。 「はい、勝手に入っていいわよ。」 白衣の女性、赤木リツコはぞんざいな返事をする。 ここは学院内の、彼女の研究室である。 相も変わらず怪しげな雰囲気を漂わせた部屋だ。 机上の無数のビーカーが、試験管が、得体の知れぬ液体(らしきもの) をなみなみとたたえている。 その”何か”はひっきりなしに煙を吐き出したり、沸点に達している訳でも ないのにごぼごぼと気泡を生じたり、或いは・・・・・”蠢いたり”していた。 さながら狂気に囚われた科学者の部屋か、それとも中世の魔女の部屋か。 いずれにせよあまり気持ちの良い印象を持たせる場所ではない。 ガチャリ。 ドアが開かれ、ノックの主が姿を見せた。 その正体を見て、厳しさを貼り付けていたリツコの表情が柔らかいものへと 変わる。 「いらっしゃい。シンジ君。」 線の細い少年が、入り口でぺこりと頭を下げた。 「え?シンジ君?」 明るい声がしたかと思うと、傍の壁を”通り抜けて”、部屋の中に3人目の 人物が現れる。 シンジは笑みを漏らした。 温かい笑みを。 「こんにちは。リツコさん。マヤさん。」 「ね、どうしたの、シンジ君? シンジ君が学院に来るなんて珍しいじゃない。」 「あ、今日は、リツコさんに呼ばれて・・・。」 シンジはちら、と金髪の魔術師に視線を送る。 リツコは軽く肯いた。 「・・・・・あの話なんですか?」 マヤは繊細な眉をひそめた。 「ええ、まあね。だから、ちょっとマヤは席を外して・・・・・。」 「いいえ。ここに残ります。」 マヤはむくれた表情で言い放つ。 椅子の一つにしっかりと腰掛けてしまった。 ・・・・無論、精霊である彼女のこと、本当に椅子に座っているわけでもなく、 形だけのものだ。 「ちょっと、マヤ・・・・・。」 「わたしだって、シンジ君の秘密を知っている数少ない内の一人なんですよ。 協力させてくれてもいいじゃないですか。」 「あの・・・・マヤさん・・・・・・。」 「ね、シンジ君、いいでしょ?」 「で、でも・・・・その・・・・・。」 「・・・・・・。」 「う・・・・・・。」 マヤはシンジをじっと見つめていた。 涙を目の縁に一杯に溜めている。 只でさえ気が弱い上に優しい、と来てるシンジの事である。 「わ、分かりましたよ。マヤさん。一緒に話を聞いて下さい。」 折れるのは早かった。 「ありがとう!シンジ君!」 マヤは極上の笑顔を見せた。 「しょうがないわね。その代わり、静かにしているのよ、マヤ?」 「はい!赤木さん!」 「・・・・それにしても・・・・?」 「なにかしら?シンジ君?」 「リツコさんとマヤさん・・・・随分仲良いみたいですね。 何か・・・・・・意外・・・・・と言うか・・・・・。」 「そ、そうかしら?」 「・・・・・ひょっとしてリツコさん、マヤさんの事、研究対象として 変な実験とか・・・・・させてません?」 「そ、そんな事は・・・・・ない・・・・・・かしら・・・・。」 「あ、シンジ君。そうなのよ。この間から何度か・・・・・。」 「ちょ、ちょっとマヤ!それは内緒だって言ったでしょ!?」 「・・・・やっぱり、やってたんですね・・・・・。」 「ちょ、ちょっとだけよ。健康診断程度の事をやっただけ。」 シンジはジト目でリツコを見つめた。 冷や汗を流すリツコ。 「そ、そんな事より、早く本題に入りましょう。」 「赤木さんったらね。物理的に構成する事が不可能な合金の開発を この間どこかの企業から依頼されてね。 わたしも無理矢理その手伝いをさせられて・・・・・。」 「マヤ!」 「・・・・・まあ、いいですけどね。 あまりマヤさんにひどい事はしないで下さいよ。」 「んー・・・・・・・。ごほん。」 リツコは咳払いを一つ吐いた。 「とりあえず・・・・・以前からシンジ君が言っていた事について、 結論から言わせてもらうわ。」 「はい。」 「私は、シンジ君に協力を約束します。」 「いい・・・・・んですか?」 「何よ。少しは嬉しそうな顔をしなさい。」 「いえ、嬉しい・・・・事は嬉しいんですけど・・・・・。大丈夫なんですか? 調査のかなりの部分で違法行為が混じると思うんですが・・・・。 特に旧東京に関しては・・・・・・。」 「別に構う事はないわ。法に触れるから悪い事だ、なんて短絡的よ。」 「でも、善悪はともかくとしても、ばれたら刑罰はまぬがれませんよ。」 「ばれなければいいのよ。」 「・・・・どこかで聴いた様な台詞ですね・・・・・。 まあ、考えてみればリツコさんにしてみれば、違法行為なんて 日常的な事なのかも知れませんけど・・・・。」 「ちょっと、変な事を言わないでくれるかしら?」 「・・・・だって、僕の正体を知った時も、あちこちのデータを 覗き見たりして・・・・・。」 「だ、だからって、年中そんな事ばかりしてるわけじゃないのよ。 ・・・・・まあいいわ。あまりそんな事の方にばかり話を持って行くと いつまでたっても終わらないから・・・・・。 ちょっと、シンジ君の話をまとめてみましょうか。」 「はい。」 リツコは真剣な表情に移る。 さすがに気を呑まれてシンジもマヤも姿勢を正した。 「まず・・・・・話の発端は、シンジ君が街中で、一本の路地を見つけた事から 始まったわけね。」 「そう・・・・ですね。」 「そこの路地を通り抜けた先には・・・・・・何故か”旧東京”があった・・・・・。 15年前の震災によって、完膚無きまでに崩壊した、かつての首都が。 シンジ君が教えてくれたその路地へ私も行ってみたのだけど・・・・・。 全く、なんの変哲もない路地に過ぎなかったわ。 旧東京など影も形もない。 これが、疑問の第一ね。」 「そう・・・・ですね。」 「そしてその次。 シンジ君はそこで、”悪魔”と遭遇する事になった。 しかも後から分かった事からすると、旧東京全域に、無数の悪魔達が 闊歩している・・・・・。 私達のこの世界の中で、まるで魔界の中の如く自由に、ね。 15年前の悲劇が、公式発表の通りに単なる地震に過ぎないとすれば、 どう考えてもおかしい、としか言い様がないわ。 これが疑問の第二。」 「・・・・・・・。」 「さらにシンジ君は、悪魔と遭遇した際に、・・・・”魔法使い”として目覚めた。 ざっと調べた限りでは、シンジ君は出生時に魔法使いの”鑑定”を きちんと受けている・・・・・・・。 そして、魔法使いではない、と認められているわ。 魔法使いではない筈のシンジ君が、何故魔法使いであったのか。 これが、第三の疑問点。」 マヤがぞくり、と身を震わせた。 異様な雰囲気が部屋を満たしつつあった。 「はい。・・・・・それから、もう少し付け加えてもいいですか?」 「・・・・・・渚カヲル、という人物の事ね? 彼は監査員として何度も学院に来ているし、結構あちこちで 顔を合わせた事もあるわ。」 「はい。それから・・・・・。」 「・・・・綾波、レイ。」 「・・・・・・・。」 「・・・・・・シンジ君のクラスメートが巻き込まれた事件の事は聴いたけどね。 ただ、この際そちらの方は無視しても構わないんじゃないかしら? 聴いた限りでは、”キッド”という悪魔による事件、そして渚カヲルとの関わり、 いずれにも特別不可解な点はないわ。 悪魔がシンジ君のクラスメートを狙った事は単なる偶然でしょうし、 渚カヲルがその事件を処理しようと動いた事も不自然ではないわ。」 「しかし・・・・・・。」 「・・・・・まあ、そうね。何と言うか・・・・・・・。 その事件の中で・・・・・”綾波レイ”の存在だけが、どこか浮いているわ。 事件の登場人物、洞木ヒカリ−−−で、良かったかしら?−−−と、 アスカ、シンジ君、渚カヲル・・・・・。 この4人は、いわば”居るべくして”そこに居たわ。 ところが何故そこに、綾波レイ・・・・・・シンジ君の義妹が現れたのか。 何が何やら、分からないわ。 単純な事件の筈なのに、たった一人、彼女が介入したせいで、 とてもこんがらがっている・・・・・・。 綾波レイ、という人物についてはまだ調べもしていないし、さっぱり 分からないのだけど、・・・・・間違いなく、何か、あるに違いないわね。」 「・・・・まあ、この事に関しては、僕も渚カヲルから話を聞いただけ なんですけどね。ですから、あくまで彼の言を信用すれば、なんですが。」 「だけど、彼がわざわざそんな嘘を吐く必然性もない。 ・・・・・考えてみると、よくシンジ君もアスカも無事だったわね。 アスカは勝手に魔術を使っているし、シンジ君に至っては・・・・・ 傷害で訴えられても文句は言えないわね。」 「・・・・・はい。まあ、何でか僕は彼に気に入られちゃったみたいで。 この事は秘密にしておいてくれる、と言ってくれましたけど。」 「でも、逆に言えばこれで一つ彼に弱みを握られてしまった事になるわね。」 「うっ・・・・・・。そういう考え方も、ありますね・・・・・。」 「普通、そう考えるわ。 ま、さっきも言ったけど、こちらの事件は何にしても調べるのは後回しね。 最優先で調べる必要があるのは・・・・・・・やっぱり、シンジ君自身の事ね。 何故、シンジ君が魔法使いであったのか・・・・・。 実はこれについては、既に調べを始めているの。 近いうちに、ある人物と会って、話をするつもりよ。」 「・・・・ひょっとして、・・・・・父さん・・・・・・とか・・・・・?」 「いいえ。違うわ。 まあ、彼に会ってみても色々と面白い事が聞けそうな気もするけどね。 そう簡単には会えないだろうし、会うにしてもある程度情報収集して おかないと、先方さんに失礼だしね。 これは私の勘だけど・・・・・。 何か、あるわね。 君のお父さん・・・・・碇ゲンドウ氏には。」 「・・・・・・・・。」 「・・・・・・まあ、とりあえずこんな所で話は終わりかしらね。 あまり派手に動く訳にもいかないから、時間はかかると思うけど、 それなりに調査に進展があったら伝えるから。」 「はい。・・・ほんとに、ありがとうございます。迷惑かけて・・・・・。」 「いいのよ。毎日お弁当作ってもらってるし。 それにもう少しして余裕が出来たら、ゆっくりとシンジ君の 身体の方を調べさせてもらうから・・・・・・。ふふ、楽しみね。」 「お、お手柔らかに・・・・・。」 「わたしも、赤木さんの調査の手伝いするつもりだから。 待っててね。シンジ君。」 「あ、ありがとう、マヤさん。」 「・・・・・ところで、シンジ君。話は変わるんだけど・・・・・。」 「はい?」 「あなた・・・・いつになったら、周りの皆に、自分が魔法使いである事を 明かすつもり?」 シンジの表情が、翳った。 その質問は、されたくなかった、という風に。 マヤも、複雑な表情でシンジを見つめた。 「・・・・・・・。」 シンジは、僅かに息を吸い、言葉を吐き出す。 「・・・・・まあ・・・・・もう、少し・・・・・してから・・・・・・。」 「もう少し、というのはどれくらいの事を言うのかしら?」 「・・・・・・・・・。」 「気持ちは分かるけど、でも、後回しにすればするほど辛くなるわよ。 人と付き合う、という事は自分を晒す、という事なの。 表層的な付き合いなら自分を隠していてもいいけれど、 深く付き合うなら付き合うだけ自分を覆っているものを剥がして、 相手に近付かなければならないの。 自分の秘密を他人に見せる、という事はとても苦痛を伴う事よ。 だけどその苦痛を経験しなければいつまでたっても より深い関係は望めないわ。 そして万が一にも、自分が意図しない内に自分の秘密が相手に 明かされてしまった時には、余計に辛い想いをする事になる。 自分もそうだけど、相手もより、ね。」 「・・・・・分かってますよ。それぐらいは。」 「いいえ。分かっていないわ。 分かっていないから、あなたは逃げているの。」 「だって・・・・・だって、しょうがないじゃないですか!怖いんですよ!」 シンジは激情を吐き出した。 リツコは動かなかったが、マヤはおろおろした様子を見せる。 マヤには二人の間に入る事が出来なかった。 「やっと・・・・・やっと、”一緒に居てもいい人”達が出来たんです! ずっと、居場所がなくて・・・・やっと僕の居場所が出来たんです! 今、僕が魔法使い・・・・・・それも、桁外れの魔力を持った魔法使い だなんて明かしたら、きっと・・・・きっと、目茶苦茶になっちゃうんです!」 「全ての人に明かす必要なんてないのよ。 自分が大切に想っている人達、家族や、親友にだけ、明かせばいいの。」 「・・・・・・同じ事ですよ。 特にアスカは・・・・・プライドが高いから、こんな僕の力なんて見たら・・・・。」 「・・・・・・。」 「ともかく、これは僕自身の問題です・・・・・。 悪いですけど、こっちの事にはあまり口を出さないで下さい・・・・。」 「・・・・・分かったわ。 結局こういう事は君自身結論を出さなければいけない事ですからね。」 「はい・・・・・・。 ・・・・・じゃあ、そろそろ、失礼します。 夕飯の支度もしなくちゃいけないし・・・・・・。 ・・・・マヤさん、いつでも来て下さいね。」 「う、うん・・・。ありがとう、シンジ君。」 バタン。 暗い影をその顔に落とした少年を飲み込んで、ドアは閉じた。 張り詰めた空気が僅かに弛緩する。 リツコは溜め息を吐いた。 「シンジ君も・・・・・魔術師としてはあれほど優秀なのに・・・・・。 心の方は、まるっきり子供・・・・・・。 いつか大変な事にならなければいいけど・・・・・。」 マヤがおずおずと口を挟んだ。 「で・・・・・でも、その・・・・・・・。 赤木さんの言う事も、確かに正しいとは思いますけど、別に焦って 全てを明かす必要はないんじゃないですか? もうしばらくは、今のままでも・・・・・・。」 「・・・・・あなたには、それを言う権利はないわね。」 「・・・・・・え?」 「あなたは、”シンジ君の秘密を知る、数少ない内の一人”ですものね。 シンジ君と秘密を共有する事が出来る・・・・・・。 少なくともその一点において、あなたはアスカに勝っている。 だからあなたはそんな事を言うのじゃないかしら?」 「・・・・・・・。」 リツコはふと、表情を動かした。 「・・・・・・似ているわ。」 「え?」 自分の心の内を見透かされ、苦しそうな表情をしていたマヤが、 その言葉に反応する。 「似ているって・・・・・・何がですか?」 「・・・・いえ、ね。私の知り合いと、今のシンジ君が、良く似ているな、 と思ったものだから。」 「はあ・・・・・・。」 「”彼”もやっぱり・・・・・シンジ君と同じ。 魔術師としては力ある人だったけど、心はとても弱かった。」 「どういう、知り合いなんですか?」 「昔ね。ミサトが付き合っていた男なのよ。 そして、別れたわ。 あれほどお互いに惹き合っていたのに・・・・。」 「・・・・どうして別れちゃったんですか?」 「・・・・彼は他人に対してひた隠しにしていた、ある秘密を持っていたわ。 そして、彼はその秘密を、自分の過去を、ミサトに明かす事は出来なかった。 ・・・・・怖かったんでしょうね。 そしてミサトはその秘密をある日知ってしまったわ。 その後は・・・・・・・。」 「・・・・・・・・・。」 「私がシンジ君にあれだけ言ってしまったのも、そのせいなのかも 知れないわね。もう、見たくはないのよ。あんな事は。」 「・・・・・辛い、ですね・・・・・・。」 「今は・・・・・どうしているのかしらね・・・・・・・彼は・・・・・・・。」 リツコは天井を見上げた。 「日向、マコト君・・・・・・か・・・・・・・。」 日向マコトはS県神崎市に、日向家の長男として生を受けた。 神崎市は小さい町ではあったものの、歴史を感じさせる静かな場所である。 時代の流れには逆らえず、最近では駅周辺を中心に道路の拡充、 建物の高層化が始まってはいるが、道の一本奥に入れば そこには旧き良き町並みが訪れた者を包み込む。 庭師によって丁寧に作り上げられた広い庭を有した屋敷が並び、 昔ながらの”御用聞き”もここにおいては多い。 静謐で、そして平和な町であった。 日向家は、そんな神崎市の中でも、旧家として強い立場を持った家である。 道行く人にそれと尋ねれば、ああ、あの日向さんね、と手際良くそこへ 至る道筋を教えてくれるだろう。 それだけの名家であり、そしてマコトの父親は町の名士であった。 父親は厳格ではあったがマコトにとっては非常に良い父親を演じていた。 そして母親は常にマコトを温かく包み込む。 祖父母は共にマコトが物心付く前に他界していたが、優しい両親と 昔から仕える使用人に囲まれ、彼は幸せであった。 そして。 マコトの家族を説明する段において、欠かす事の出来ぬ人物がそこに居る。 その人物こそマコトの人生を歪め、狂わせた人である。 それは・・・・・マコトの、実の妹であった。 名は、日向ミサキ。 マコトの一つ年下である。 ・・・説明が遅れたが、マコトはその出生時、魔法使いである事が 明らかにされていた。 魔法使いの家系ではない日向家に、これは珍しい事ではあったが、 忌むべき事では無論なく、両親はこれを非常に喜んだ。 ところがマコトの妹、ミサキが産まれた時、両親は一つの哀しみを 経験する事となる。 ミサキは、病弱であった。 兄であるマコトが順調に、大きく育ってゆくのに対し、ミサキは普通の 生活を営むにはあまりにも身体が弱く、一日の内のほとんどを 床に伏せっていなければならぬほどであった。 当然齢を重ねても学校へ行く事は出来ず、ミサキの勉強を見るのは マコトの役目であった。 たった一つ年上でしかない彼に、勉強を教える事が出来るのか、という 疑問は浮かぶかも知れないが、マコトは魔法使いであると同時に、 非凡な頭脳の持ち主であった。 学校の勉強も、彼は常に4、5年先取りして学ぶほど。 日本に飛び級制度は存在しないが、もしあれば即座に彼はその対象と なったであろう。 そんな兄妹を見、二人が小さい内は町の人々は口々にこう言ったものだった。 『日向さんは、お兄さんの方にばかり才能が行って、妹さんの方は 割を食ったみたいな形だね。』 そんな風に囁かれるのも当然の事であったかも知れない。 事実二人の両親さえもその様に思っていた節がある。 マコトはそんな周囲の言葉に関係無く、ミサキの良き兄としての役割を しっかりと果たし続けていた。 ところがミサキが病弱ながらも成長を遂げるにしたがって、いつしか そんな囁きは影を潜めた。 ミサキが、八つを数えた頃から、その片鱗は見え始めていた。 そして十を数えた時、周囲の人々はすでにそれをはっきりと認め、 中傷の言葉は感嘆の言葉へと変わってゆくのである。 ミサキは、神より天性の美貌を与えられた女性であったのだ。 長くつややかな黒髪に、伏し目がちな瞳。 陽に当たる事のほとんどない肌は白く、しかしそこから受ける印象は 不健康さよりも圧倒的な美。 両親は共に整った顔立ちであり、マコトもまたそれを受け継いで 賞賛に値する容貌ではあったが、しかしミサキはどこかそんなものを 超越した所があった。 そしてさらに。 彼女がマコトに優るとも劣らぬ程聡明な女性であった事もまた 徐々に明らかになっていった。 病弱さゆえか物静か。 しかしその口から漏れる言葉、そしてさりげない挙動の端々に、それが うかがえる。 この歳でさえこれほどの玲瓏さを備えているのでは、この先五年、十年の 時を刻む事を許されるとすればどれほどまでの美を見せ付けられることに なるであろうか。 人々はそう噂した。 家に引き篭もっているために彼女の姿を直に見る機会は人々にほとんど ありはしなかったのだが、病弱、という薄幸なイメージともあいまって、 ただ一度ちらりと見かけただけで彼女の虜となる男が続出した。 昔からずっとそうであったのだが、妹はマコトにとって矜持であった。 妹の事に話が及ぶ度に、マコトは我が事の様に喜んだ。 兄として、マコトはミサキの事をこれ以上ない程に愛していた。 ある意味マコトが彼女に対して注いでいた愛は、両親のそれよりさえ 大きかったかも知れぬ。 ミサキがさらに歳を経て、11となり、12となると、さらにその美しさは あでやかに華開いた。 変わらず寝たり起きたりの生活ではあったものの、マコトは彼女の 世話を使用人だけに任せず、時間の許す限り彼女の面倒を見続けた。 夜になれば勉強を見、そしてミサキが滅多に見れぬ様々な外の世界の事を 語った。 ミサキもまたマコトの事をお兄様、と呼んで慕った。 ・・・・・ところが。 この頃より、悲劇はゆっくりと、着実に、進行していたのである。 マコトも、ミサキも、幼いながらもあまりに異性にとっては魅力的過ぎる 存在であった。 そして、あまりに近しい存在であった。 兄妹は互いのあらん限りの愛情を与え合い、やがて。 その愛情が、あにいもうと、のそれではなく、男と女、のそれへといつしか 変わって行った事も、必然であったろう。 最初にその想いを口にしたのは、妹であった。 一途な、その秘めた想いを初めて告げられた時、マコトは動揺した。 とんでもない。 彼にはそうとしか言えなかった。 思春期においては、男性は女性よりも身体の、心の発達は遅い。 ミサキが自身の想いに気付いてしまった事に比して、一つ年上の マコトには、その時未だ自分の妹に対する感情を本当には理解出来ては いなかった。 しかし。 それをきっかけとして、マコトの目はミサキを妹、ではなく女、として 見るようになる。 そして自分が無意識の内に心の奥に封じていた想いに気付き。 マコトもまたミサキに対してそれを明らかにした。 ミサキは泣いた。 泣きながら、嬉しい、と万感の想いを吐いた。 泣きながら、マコトにその身体を寄せた。 ・・・・・許されぬ関係であった。 男同士、女同士の関係でさえ認められつつあったその時代においても、 兄妹がその様な関係に陥る事は、世界のどこでも認められはしていない。 二人とも、これが禁じられた果実である事は重々承知していた。 しかしその果実はあまりに甘く兄妹を誘惑した。 あってはならぬ事であるが故にその恋は燃え上がったのである。 二人は隠れて抱擁を交わす様になり、くちづけを交わす様になり、 ・・・・・・そして、最後の線を越えてしまう事となった。 如何に大人びてはいようとも、やはりまだ幼い二人。 一つたがが外れてしまうと、溺れるのも早かった。 ミサキの身体の調子が良く、そして家族に知られる恐れのない時には、 二人は必ず互いを求め合った。 ミサキは、抱かれる時もまた、いつもの様にお兄様、と呼んだ。 そしてその響きがさらに二人を狂わせる。 二人の秘め事は誰にも知られる事無く続き、いつしかマコトは 高校生になっていた。 そして。 間もなくミサキが15の誕生日を迎えんとする、ある日。 二人はそれまでの報いを受ける。 ミサキはある日、これまでにない種類の体の不調を訴えた。 もしやと思ったマコトは、彼女に検査薬を与え、そして。 マコトは、自分の不安が現実のものであった事を知った。 ミサキの体内には、もう一つの命が息づいていたのである。 情欲に溺れた二人は、避妊の処置も完璧ではなかったのだ。 ・・・・呪われた子であった。 けして祝福されない子供。 マコトは絶望と共にそれを受け止め、ミサキに告げた。 堕ろせ、と。 少女は、かぶりを振る事もなかったが、肯く事もなく、ただ黙って、 堪える様な表情で自分の腹を見つめた。 今迄全く二人の関係に気付いていなかった両親も、さすがに兄妹の 様子がおかしい事に気が付く。 厳しく問い詰められ、マコトはついに全てを明かした。 父親は、激怒した。 父親は、マコトを激しく殴打した。 身体中に痣が出来、そこかしこから血が滲んだ。 それを、マコトはただ黙って耐えていた。 母親は、ただただ泣き崩れるのみ。 そして。 悲劇はその最後の扉を開く。 泣きながら自らにとりすがる母親と、鬼の形相で敬愛する兄を殴り続ける 父親。 ミサキの繊細過ぎる心と身体とは、その修羅場に耐える事が出来なかった。 ・・・・・ミサキは。 少女は。 その余りのショックから、 ・・・・・・流産してしまったのである。 さらに、打ちひしがれた少女の体調は急変し、・・・・・・。 ・・・・・・そして・・・・・・・。 他界した。 ことり。 マコトは、写真立てを元の場所に戻した。 透明なプラスチックの板の向こう側で、兄妹が・・・・・・、 いや。 恋人である二人が、微笑んでいた。 身体の弱いミサキが、珍しく我が侭を言って、二人きりで遠出をした事が あった。 その時の写真であった。 「ミサキ・・・・・。」 マコトは・・・・・・二十歳を大きく越えたマコトは、十年前の”恋人”の 名を呼んだ。 ・・・・・・まだ、捨て切れない。 マコトはそう思う。 日向家の兄妹の忌むべき関係は、ミサキの葬儀がしめやかに 執り行われた後、いつか町中に知れ渡る事となった。 どこから、漏れたのか。 ひょっとしたら、あまりに仲睦まじい兄妹を見た心無い人の、単なる 憶測に過ぎなかったのかも知れぬ。 どちらにしても、マコトはすでに町にはいられなかった。 逃げる様にして生まれ育った町を、ミサキの亡骸が眠る町を、 飛び出してから十年。 以来、様々な女性が彼の中を通り過ぎて行った。 そのそれぞれの女性をマコトは愛した。 ・・・・・しかし。 マコトの中の、”男”の部分は、既に癒しきれぬほどの深い傷を負っていた。 マコトは、女性の身体に満足する事が出来なくなっていたのである。 そして、マコトが唯一満足出来るのは。 かつて自らが最も愛した妹。 その妹と同じ年頃の幼い少女達に対してのみであった。 「・・・・・ミサキ・・・・・・。」 再びマコトは呟く。 「・・・・・・ミサキ・・・・・・。」 再び、呟く。 しかしその呼びかけに応える声は・・・・・・。 すでに、ない。 「ミサキ・・・・・・・・・・・・・!」 悲痛な呼び声が、響いた。


NEXT
ver.-1.00 1997-11/26公開
ご意見・感想・誤字情報などは kawai@mtf.biglobe.ne.jp まで。

 河井さんの『僕のために、泣いてくれますか』第弐拾話 、公開です。
 

 秘密を明かすきっかけ、
 つかめないままズルズル行ってしまうのはやっぱりまずいかな・・
 

 シンジはアスカとの今の関係が壊れることを怖れ、
 マヤさんは秘密を知っている自分を−−
 リツコさんは隠し続ける危険を−−
 

 シンジと彼の秘密を知る者達の気待ちが微妙です・・。
 

 マコトの深い傷とそこから生まれた部分。
 

 周りを巻き込んでまたひとつ、物語が生まれていくんですね。

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。
 感じたこと思ったことを河井さんに届けましょう!


TOP 】 / 【 めぞん 】 / [河井継一]の部屋