今日の夕飯は、トンカツだった。 アスカも、ミサトさんもさっぱりしたものよりは油っこいものを好むので、 必然的に食事は肉料理が多くなる。 ちなみに僕はさっぱりしたものの方が好きなのだが、だからと言って自分に 合わせた料理を作ったりすると、 『ちょっとシンジ!このあたしにこんな精進料理みたいなもので 我慢しろって言うの!?』 『シ、シンちゃん。これはあたしに対する嫌がらせ? ひ、ひどいわ。いくらあたしがほんのちょっと人よりお酒の量が多いからって、 お食事の方を質素にする事ないじゃない?』 などと烈火の如く、涙ながらに、文句を言って来るので、僕は毎回 カロリー豊富な献立を作る羽目になる。 「ね、ミサト。 『空間解析U』の、あの臨時の教師、なんかあたし、気に入らないわ。」 「あらそおお?あたしは、別に嫌いじゃないけどねえ。 結構教え方も巧いし、少なくとも悪い娘じゃないと思うけど。」 「そんな事ないわ。もし本気でミサトがそんな風に思ってるなら、 絶対あいつ、あんたの前ではネコ被ってんのよ。 あたしを前にすると、親の敵を見るみたいな目で睨むのよ。 あたしの才能に、嫉妬してんのね。」 「そうかしらあ?」 「そうよ。何さ。ちょっと講義の間違いを指摘したぐらいで怒ってさ。 大人気ないにも程があるわ。」 ・・・きっとアスカの事だから、相当きついやり方だったんだろうな。 そう考えれば、その人がアスカを嫌うのも無理ないんじゃなかろうか。 そうは思っても、それを口に出せばどういう事になるかは 分かりきっているので、保身のために黙っている。 「ん・・・・・。」 アスカが口を止めて、僅かに目を食卓の上に流した。 ぴんと来る僕。 ソースかな。 アスカの求めているものを理解して、僕は代わりに取ってあげようと 調味料に手を伸ばした。 「「あっ・・・・・・・。」」 二人の声が、重なった。 僕と、そしてアスカの手が、ソースの上で触れ合っていた。 二人で同時に手を伸ばしたので、そうなってしまったのだ。 「「・・・・・・・・・。」」 僕等は思わず互いに顔を見合わせる。 アスカの、少し驚いた顔が、緩やかに赤に染まった。 僕の顔も、熱を帯び始めていた。 そのまま、しばらく僕等は動かない・・・・いや動けなかった。 先日の雨夜の情景が、僕の脳裏に浮かぶ。 抱き合い、温もりを与え合った時の、そしてキスを交わした時の。 アスカの目が、潤んでいた。 アスカの顔が視界一杯に広がり、そして・・・・。 「ごほん。」 テーブルの向かいから聞こえた咳払いに、僕等は我に帰った。 慌てて触れ合った手を離し、互いに顔を背けた。 ミサトさんが、にんまりと笑う。 「あらああ?どうしたのかしら? シンちゃんはともかく、アスカまでそんな顔赤くして? ひょっとして、ついにお互いに意識し始めちゃったかしら?」 からかいモード、発動。 「ち、違うわよ!ななな何いいいい言ってんのミサト! ばばバッカじゃない!?」 「そ、そうですよミサトさん!別に何でもないですって!」 「ふううん?そうなんだ?ごめんねえ、勘違いして。」 ミサトさんがちっとも信じてない顔で応えた。 「も、もう!」 アスカが照れを誤魔化す様に、御飯を口に詰め込み始めた。 ミサトさんはにやにやしながらそれを見ている。 「ねえアスカ?」 「何よミサト?」 わざと不機嫌そうに応えるアスカ。 「あなたさあ、やっぱりこっちに引っ越したら? 向こうのマンションとこっちと、毎日行ったり来たりするの、 めんどくさいでしょ?」 「あたしだってそうしたいわよ。 でも、こっちのマンション、全部埋まってて空き部屋が無いし。 どうにもなんないわよ。」 「だから、さ。あたしの部屋に、同居したらいいんじゃない?」 「「え・・・・・・・。」」 僕とアスカは、同時に声をあげる。 「え・・・・で、でも、いいの?」 「いいわよ、アスカ。」 「どういう、心境の変化? これまで何回頼んでも、同居は駄目って言ってたのに?」 「・・・・・・。」 ミサトさんの瞳が、揺れた。 ・・・・・・・・? そこに現れた彼女の心の内を、僕は微かに感じ取った。 「・・・・整理が、ついたから。」 「・・・・整理?」 「ええ。」 「整理って・・・何の?」 「・・・・・心の、整理よ。」
僕のために、泣いてくれますか(第拾八話)
葛城ミサト・日向マコト・その1
西暦2015年。 新世紀を迎えてから15年が過ぎようとしている現在でも、未だに 文部省は子供たちの教育方針を旧世紀のそれから変えようとはしない。 いわゆる、”詰め込み教育”・・・・大学においても、高校においても、 場合によっては中学校、小学校、さらには幼稚園までも、受験制度は 厳然として残されており、教育の場で子供たちが学ばされる事は その戦いにいかにして勝ち残るか、というものが大半であった。 そして当然その事に対する批判を唱える者は多いのだが、それでも 一向にこの傾向が改められないのは、やはりこの受験制度、 そしてそれを受けた学歴社会、というシステムに変わる物を見つけられない からであろう。 そしてその受験戦争に落ちこぼれる事の無いように、或いはさらに上を 目指すために、という目的で、子供達に勉強の場を与える非公的な 学習機関が当然ながら存在する。 いわゆる、学習塾というものである。 そしてここ、第三新東京市にも、学習塾は無数に存在する。 講師陣を揃え、教材を揃え、受験データを分析し、生徒をなんとか 一人でも多く獲得しようと、しのぎを削っているのだ。 そんな数ある学習塾の一つに、『清新義塾』という名のものがある。 対象となる生徒は、小学生、中学生、高校生。 小さい、全国的にも有名とは言えぬ塾ではあったが、一流大学への 合格率はけして低くはない。 そして、第三新東京駅から徒歩10分。 三階建ての奇麗な雰囲気のビルが、その清新義塾の中学生対象の 建物である。 その清新義塾の、二階。 『202講義室』へと目を向けてみる。 長方形の、広いとも狭いとも言えない部屋。 白い壁に、蛍光燈の光が映える。 入り口は、二個所。 正面の壁には一面に板書用のボードが据えられ、そして長机と椅子とが 部屋を埋める。 そしてその椅子の半分位が、学校の制服を着た、或いは私服の、 少年少女達によって埋められていた。 講義の最中なのである。 「・・・じゃあ、この一文の文型を答えてもらおうかな。えーっと・・・・・・・・。 」 ボードの前に立つ講師が部屋をぐるっと見渡す。 生徒達は全員僅かに緊張する。 「じゃあ、高木君、答えてくれるかな?」 「・・・はい。第四文型です。」 「うん、正解だ。 ここで重要なのは、”her”と、”a book”とが、共に目的語だという事だね。 今回はきちんと予習して来た様だね。どういう風の吹き回しかな?高木君?」 生徒達が、どっと笑った。 答えた少年は、困った顔をして頭を掻く。 「では、次へ行こう・・・・・・・。」 その講師は、およそ二十代の中盤ぐらいであろうか。 長身である。 身長は180センチは下らない。 適度に肉の付いた、太過ぎも痩せ過ぎもしない身体を、グレーの背広が 包んでいる。 髪は、オールバック。 黒縁の眼鏡をかけた顔が、人をほっとさせる優しい表情を浮かべていた。 日向マコト。 ここ清新義塾の中でも、最も人気のある講師の一人だった。 その飾らないきさくな性格と、講義の合間合間に挟んで来る冗談が、 生徒達との仲を深めている。 そして生徒一人一人に対しての親身な姿勢によって父兄の信頼も厚い。 彼の講義を受講すれば偏差値10点アップも珍しい事ではないと、 最近ではかなりの評判になっていた。 「よし、ちょっと早いけど、今日はこの辺で終わりにしよう。」 マコトは、テキストを閉じて宣言した。 生徒達から歓声が上がる。 すぐに荷物をまとめて帰る者も、友人と会話を始める者もいる。 数人の生徒がマコトの傍へ、テキストを手にやって来る。 「先生、ここの所、もう少し詳しく教えて欲しいんですけど・・・。」 「ああ、ここだね。これは必ずしも覚える必要はないんだけど、 陵誠高校の入学試験では何度か出題された事があるかな?」 マコトは質問された個所を懇切丁寧に教え始めた。 この辺りも生徒に好かれる理由であろう。 そして。 質問に来た数人の生徒の中に、一人の少女の姿があった。 ここは中学一年生のクラスなので、当然彼女もそうであろう。 儚い、という印象を受ける少女だ。 身体はその年齢を加味して考えても細い。 長身のマコトと比べると、背の高さにかなりの差がある。 奇麗な黒髪が肩の上で揃えられていた。 可愛らしい女の子である。 ただ、その表情はどこかおどおどした所がある。 自分に自信が無い子供特有の雰囲気だ。 見る者に嗜虐心を起こさせる。 一言で言ってしまえば、いじめられやすい感じ、という事であろう。 マコトは一人一人質問に来た生徒を片付け、ついに最後、 その少女の番になった。 マコトは、他の生徒と変わらぬ笑顔を彼女に与える。 「やあ、サヤちゃん。君も、何か質問かな?」 「は、はい、あ、あの・・・・。」 サヤと呼ばれた少女が、か細い声を出す。 「そ、その・・・・。」 気の短い人間でなくとも苛ついてしまいそうな程はっきりしない口調である。 しかしマコトは優しい顔を崩さない。 「・・・ここを・・・・教えて・・・下さい・・・・。」 やっと、それだけ言った。 マコトはテキスト上の、サヤが指差した個所を見る。 と、僅かにその眉がひそめられた。 「・・・サヤちゃん。ここが、分からないの?」 「・・・・は、はい・・・。」 「困ったな。ここは正直に言って、とても基本的な所なんだ。 ・・・サヤちゃん。きちんと、予習復習してるかな?」 「・・・・・・・・・はい・・・・・。」 ・・・もしも。 ここにもう一人人物がいて、少女が教えを請うた部分を一緒に 見ていたとすれば、マコトの言ってる事に首を傾げたであろう。 サヤの質問個所はこの歳としてはかなり高度なものであった。 高校生でも分からないと言う者は少なくない。 「仕方ないな。後でゆっくり教えてあげよう。 今日は僕はちょっと忙しいから、明日辺りにね。それで、いいかな?」 「は、はい。」 「うん。それじゃ。”復習、しっかりね”。」 サヤの身体が、ぴくりと震えた。 マコトはぽん、と彼女の肩を叩く。 「さあ、皆も、いつまでもだらだらしてないで、早く帰りなさい。」 「えー。なあ先生、今日もラーメン奢ってくんない?」 「ダ、メ、だ。」 「せんせえー。ちょっと課題が多いよお。も、ちょっと減らして?」 「ダ、メ、だ。ほらほら帰った帰った。」 マコトは苦笑しながら、愚痴る生徒達を追い立てる。 そんな講師の後ろ姿を、サヤはじっと見つめていた。 清新義塾裏手の、職員用駐車場。 人気のない、暗い閑散としたアスファルトの平地。 街のざわめきが、遠く響く。 マコトは革製の鞄を手に、そこを一人で歩いていた。 彼の車は2010年式、T・・・社製の高級セダン。 スマートなスタイルと白のボディが彼のイメージにうまく合っている。 キーをちゃら、と鳴らしながらそこへ向かうマコトの目に、人影が映る。 車の傍らに、その人物は立っているのだ。 それが誰であるか見届け、マコトは笑みを浮かべた。 「やあ、来てくれたね、サヤちゃん。」 「・・・・・・。」 少女は飾り気の無い、くすんだ赤の鞄を両手で提げてじっと立つ。 俯いていた。 「・・・じゃあ、行こうか。乗って。」 マコトはドアロックを外し、サヤを促した。 少し躊躇いながらも、黙って従う少女。 マコトは運転席に乗り込むと、エンジンを始動させた。 パシュウン。 マコトは、玄関のドアを開けた。 ちら、と視線を向けると、傍らに立つ少女は、ゆっくりと部屋の中に入った。 それを満足そうに見つめ、彼はそのすぐ後ろについて中に入る。 清潔感を漂わせる、フローリングのワンルーム。 ここがマコトの住居だった。 ソファやテーブルなど、趣味の良い調度品を置かれ、AV機器も一般的な レベルには揃えられていた。 部屋の隅には観葉植物がある。 ここまで言えばまるで一昔前のドラマで二枚目の主人公が暮していそうな 部屋を想像するかもしれないが、しかしそんな印象はとても受けない。 何故なら・・・・相当に散らかっているからである。 足の踏み場が無い、とまではいかないまでも、かなりの量の、 本、本、本。 どうやらこの部屋の主は相当な読書魔の様だ。 普通所有している本を見れば、その人間の趣味があらかた分かると 言われるが、しかしそのセオリーはここでは通用しない。 何故なら、その大量の本の種類が、あまりに脈絡が無さ過ぎる。 隅の方にファッション雑誌や漫画雑誌が山と積まれているかと思えば、 一般人には到底縁の無さそうな、かなり高度な専門書もある。 その専門書にしても、科学関係のものや歴史関係、政治関係、 金融関係と、多岐に渡り過ぎていた。 『日本の名山100』と『アメリカ海軍訓練マニュアル』とが 一緒になっているのだ。 「サヤちゃん。僕はちょっとシャワーを浴びて来るよ。 適当にくつろいでいて。冷蔵庫にジュースもあるから。」 「は・・・・はい・・・・・。」 やはりおどおどして返事をするサヤ。 マコトはバスルームに消えた。 「・・・・・・。」 それを見届けると、サヤはしばらく躊躇う様子を見せた挙げ句、 近くの本を片付け始めた。 ごちゃごちゃに置かれたそれらを出来るだけジャンル別、サイズ別に 分類して、床に積む。 甲斐甲斐しい、と見えた。 しばらくその作業を静かに続ける。 と、少女の目が、あるものを捕らえる。 AV機器を整理している、黒いラック。 その上には様々な小物の類が置かれているのだが、その内の一つに 少女の目は釘付けになる。 それは、写真立てであった。 高校生ぐらいの少年と、中学生ぐらいの少女の写真。 どこかハイキングにでも出掛けた時のものであろうか。 足元の野草、そして澄み切った青空。 二人のその浮かべている表情に、サヤの瞳が揺れた。 「・・・あれ?くつろいでてって、言ったじゃない。 そんな気使わなくって、いいんだよ。」 「あ・・・・・。」 マコトがバスルームから姿を現した。 腰にバスタオルを巻き付け、上半身は裸。 それを見たサヤは、その白い肌を紅潮させる。 眼鏡を外し、髪を下ろしたマコトは、意外なほどに整った顔だった。 塾の中での彼は、優しく、真面目である、という印象を持たせるが、 今の彼にはそれに繊細さが加わる。 スーツにタイを身につけて、社交の場に放り込んでみれば、 貴婦人達をその微笑みで魅了する事も容易いだろう。 「あ・・・・あの、ご、ごめんなさい。ごめんなさい。」 「だから、そんな風に言わないでって。ありがとうね、サヤちゃん。」 サヤの頬がさらに紅潮する。 「・・・・ね・・・・サヤちゃん・・・・。」 マコトが、サヤの小さい身体を後ろから抱いた。 少女の頭はマコトの腹の辺りまでしかないため、抱く、というよりも すっぽりと包み込んでいる、と表現した方が適当だろうか。 「・・・せ・・・・・先生・・・・・。」 サヤが、泣きそうな声を出す。 首を捻じ曲げて、一所懸命遥か上にあるマコトの顔を見ようとする。 「サヤちゃん?二人の時は名前で呼んでって、言わなかったかな?」 「・・・マ・・・・マコト・・・・さん・・・・・。」 「なに?」 「あの・・・・あ・・・あの・・・・。」 「ん?」 「・・・す・・・・す、すき・・・・です・・・・・。」 「うん。・・・嬉しいよ。サヤちゃん?」 マコトは優しく囁くと、身体を曲げてそっと顔を少女の顔に近づけた。 「ん・・・・・・。」 そして、くちづける。 触れ合うだけの、キス。 しかし少女はそれだけで夢の世界に入り込んでいた。 つぶらな瞳の焦点は、合っていない。 はあ・・・という温かな溜め息が小さな口から漏れた。 「サヤ・・・ちゃん・・・・。」 少女を抱くマコトの右手が、そっと下へ伸ばされた。 サヤは学校の制服であり、当然下半身に身につけている物はスカート。 マコトの手は、少し長めのスカートを僅かに捲り上げ、その中へと進む。 「あっ・・・・・・!」 陶然としていた少女が、自分の太股に彼の熱い手が触れるのを感じ、 声を上げた。 「い・・・・・いや・・・・・。」 その目に涙を浮かべて身をよじるが、それはあまりに弱々しい。 「・・・大丈夫だよ・・・今度は、もう痛くないから・・・・。」 耳元で囁き、そっと桜色に染まったサヤの耳たぶを噛むマコト。 湿った音が聞こえ始め、やがてか細い喘ぎが、二人きりの部屋を 支配した。 マコトは車を停めた。 閑静な住宅街。 ブルジョア階級の家族が生活しているのだろう。 重役クラスでなければ購入出来そうに無い家が建ち並ぶ。 助手席には、サヤが座っている。 ”指導”で遅くなってしまった教え子を、車で送ったのだ。 「着いたよ。サヤちゃん。」 「・・・・・・・。」 サヤはマコトに応えず、黙ってドアを開け、車を降りた。 今迄していた行為や、これから両親に嘘を吐かねばならない罪悪感を 考えれば、彼女の反応は当然であろう。 静かに頭を下げると、家の一軒の門をくぐった。 「・・・・・・・。」 ふ、っと笑うと、マコトは車を発進させた。 車内のデジタル時計は10時を示していた。 制限速度をきちんと守って走らせるマコト。 十分ほど夜の街を疾駆した後、マコトは不意に一人の車内で口を開く。 「・・・・何か、御用ですか?」 「おやおや。気付かれてしまったね。」 無人の筈の後部座席から、声が響く。 それと同時に人の姿が一瞬にして現れた。 普通の人間ならば驚きに目を見張るであろうが、マコトはいささかも 動揺の気配は無い。 その人物は、少年だった。 年齢にふさわしからぬ大人びた表情。 黒のスラックスに、白のシャツ。 足を組んで、悠然と後部座席に腰掛けていた。 「お久しぶりです。渚さん。」 「ほんとに、久しぶりだね。最後に会ったのは、いつの事だったかな?」 渚カヲルの、天使の美貌が微笑んだ。 「・・・いつから、見ていたんですか?」 「安心してくれ。少なくとも情事の現場を覗くほど無粋ではないよ。」 「・・・・・・。」 「仕事を、頼む。」 「すいませんね。今の職場はなかなか気に入っていまして。 引き抜きとかの話はお受けしない事にしてるんです。」 「しばらく見ない内に、随分冗談がうまくなったね。」 「それは、どうも。」 「で、どうかな?」 「お断りします。」 「何故?」 「・・・・もう、嫌なんですよ。人を、殺すのは。」 「僕だって、出来る事なら誰一人傷付けたくないし、殺したくない。 しかしね。正義を行うには、時として手を汚す人間が必要なものなんだよ。 大きな正義の前に、小さな正義をこだわるのは意味のない事だ。」 「・・・・・・。」 マコトの、ハンドルを持つ手が、震えた。 押し殺してはいるが、その表情は怒りに支配されている。 「たしかに、そうかも、しれませんね!しかし僕はもう嫌です! 僕はもう耐えられない!僕は殺し過ぎました!」 「しかし、君が手を汚したからこそ、今日本の平和は保たれているとも言える。 君がいなければ日本の市場は欧米に食い尽くされていたろうし、 現在の平和な内閣も設立出来なかったかもしれない。」 「やっていい事と、悪い事があります! 確かに僕も、以前はそれが正義と信じていました! しかし本当の平和とは、そんな事をしなければ作り出せない ものでしょうか!?」 「その通りだよ。」 カヲルはあっけらかんと答えた。 あまりにあっさり答えられ、マコトは言葉に詰まった。 「・・・ともかく・・・・仕事は、受けませんよ。」 「君が受けなくても、誰かがやる事になるよ。 それなら君自身の手でやった方が、男らしい、と言えるのではないか?」 「その手は、食いませんよ。」 「弱ったな。」 少しも弱った表情を見せず、カヲルは頭を掻いた。 「・・・・つまらない駆け引きは時間の無駄でしょう。 あなたも忙しい、忙しいと言ってる割には、実は暇なんじゃないですか?」 「失礼な。」 「いいかげん、とっとと切り札を出してしまったらどうです?」 「何故、切り札があると分かる?」 「あなたは勝ち目のない喧嘩はしませんからね。」 「お見通しかね。」 カヲルは苦笑する。 「・・・君のお袋さん、随分重い病気にかかっているそうだね。」 ぴくり。 ハンドルを持つ手が、震えた。 「治る見込みは、どうなのかな?」 「主治医の話では、絶望的、だそうで・・・・・・。」 「なるほどねえ。これはお気の毒に。」 「『お気の毒に』と言う時には”お気の毒そうな顔”をするものですよ。」 「でも、その絶望的、という言葉も、あくまで現代の医療技術において、 だろう。治癒魔術を用いれば、十分治癒可能なんじゃないかな?」 「・・・・・・・。」 「おっと失礼。勝手に魔術を用いる事は犯罪だったっけね。 僕とした事が。こりゃ失敬、失敬。」 「・・・・・・・。」 「でも、僕なら君のお袋さんに、治癒魔術を施す許可を出す事も無理な 話じゃないなあ。あくまで、僕がその気になれば、の話だがね。」 「・・・・・分かりましたよ。やればいいんでしょう。」 「そう来なくてはね。君も今迄さんざん親不孝してきたんだ。 ここらで親孝行しておくのも大切な事だよ。」 「・・・・・で、誰を殺せばいいんですか?」 カヲルは、黙って一枚の封筒を差し出した。 B5版の茶封筒である。 文房具店に行けば誰でも買える代物だ。 「機密書類を、随分ずさんに扱いますね。」 マコトは手を伸ばして受け取った。 そして封筒から白い書類を数枚取り出す。 「おいおいマコト君。ハンドルから手を放さないでくれよ。」 「細かい事を言わないで下さい。」 マコトは厳しい顔つきで書類を一枚、一枚眺めて行く。 不思議な事に、車はマコトがそちらの作業に没頭している間も、 順調に走り続け、時には追い越しさえ行った。 無論マコトはハンドルに手も触れていない。 「・・・・はあ。」 マコトは、重苦しい溜め息を吐いた。 「・・・何も、こんな子供を殺さなくても。」 「引き受ける、と言ったね?」 「分かってます。やりますよ。データは、これで全部ですか?」 「ああ。分かってる限り、それだけだ。」 「”教えられる限り”、でしょう?日本語は正しく使って下さい。」 「まあ、楽な仕事だろう?護衛もついてないしね。」 「・・・この娘、魔術師なんですねえ。ひょっとして、護衛を”つけない”んじゃ なくて、”つける必要がない”んじゃないですか?」 「今夜は、星が奇麗だねえ。」 「そうですね。曇り空ですけど。」 「つっこみが厳しいよ。」 「・・・・どうやら、半端じゃない実力者の様ですね。 あなたと、どちらが強いですか?」 「さあ?分からないよ。どうでもいい事だしね。」 「へえ?渚さんはそういう事にこそ価値を見出す人だと思ってましたけど。」 「どちらが強いか、なんて事に意味はないさ。 重要なのは、勝てるか、どうか、という事だよ。 ボクサーだって、調整次第で強くも弱くもなるし、 銃を持てば子供がプロレスラーより強くなる事だって有り得る。 ましてや強い者が弱い物に負ける事だってよくある事さ。 だから、”相手より強くなる”、よりも”相手に勝てる様になる”、のが 僕のやり方さ。」 「なるほど。重みのある格言、ありがとうございます。」 マコトは、書類の内の一枚をもう一度眺めた。 そこには顔写真が一枚貼り付けられている。 珍しい、水色の髪をした少女の写真が。 「綾波、レイ・・・・ですか。まだ、子供なのに・・・・・。」 「しかし、美形だろう。殺し方は、自由だ。 つまり、殺す前に”何をしても”いいという事だよ。」 「・・・・・。」 「お、おいおい。本気で睨まないでくれよ。ただの冗談だ。」 「言っていい冗談と悪い冗談がありますよ。」 「そりゃ、すまない。」 「期限は、いつまでです?」 「指定はしない。まあ、出来るだけ早く、といった所かな。 しかしやるなら確実にやれ。」 「分かってます。」 「・・・よし。じゃあ、僕はこれで失礼しようかな。どこかで車を停めてくれ。」 「何故です?」 「おいおい。時速80キロで走ってる車から飛び降りろ、と言うのかい?」 「まともな台詞を言うのは止めて下さい。調子が狂いますから。 勝手に出て行って結構ですよ。」 「しかしね。長い事まともじゃない生活を送ってると、時々はまともな 人間らしい行動を取りたくなるものさ。」 マコトは溜め息を一つ吐き、ウインカーを左に出す。 適当な場所はすぐ見つかり、車を脇に寄せて停めた。 「これで、いいですか?」 「ああ、ありがとう。」 カヲルは車からスッと降りる。 ただそれだけの動作が、妙に美しい。 この男が行えば、どんな動作も一つの芸術になってしまうだろう。 マコトは運転席の窓ガラスを開けた。 「・・・・渚さん。」 「なんだい?マコト君?」 「僕の母の病気の事ですが・・・。」 「うん。」 「まさか、母の病気、あなたの仕業じゃないでしょうね?」 「おいおい。そこまで僕は信用のない人間だったのかい?」 「・・・・・・。いえ、言ってみただけです。申し訳ありません。」 マコトは一礼すると、車を発進させた。 カヲルは、小さくなって行く白いボディを見送る。 やがてそれが見えなくなってしまうと。 「・・・ふん・・・・・。 子供相手でなければ、満足出来ない男か・・・・・。変態が・・・・・。」 カヲルは吐き捨てた。 「しかし・・・腕は、申し分ない・・・・・・。 さて、これが吉と出るか、凶と出るか・・・・・・。 神ならぬ身には、分からないのが、辛い所だな・・・・。 ま、だからこそ面白いとも言えるが・・・・・。」 渚はしばらく空を見上げ、やがて歩き出した。 背後から次々と車が走り、彼を追い抜いて行く。 正面からカヲルを見ると、丁度車のヘッドライトの逆光になる。 カヲルの表情は、見えなかった。
河井さんの『僕のために、泣いてくれますか』第18話、公開です。
日向マコトが・・・暗殺者?!
これは新鮮な設定ですね(^^)
その上・・・ロリー
”真面目”・”誠実”で売ってきた彼が、
実にインパク知な役柄だ!
:「別に売っていない」とか
:「古いボキャブラネタを使うな」とかのツッコミはご遠慮します(^^;
副題を見るに、
ミサトさんとも絡んでくるようですし・・・
いやぁ楽しみだぞ!!
さあ、訪問者の皆さん。
驚かせてくれたの河井さんに感想メールを送りましょう!