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YUI-IKARI
1977−2001

そう彫り込まれた飾り気の全くないプレートが網膜に映る。
その文字の意味するところは誰にでも理解出来るものだろう。
ここは、墓地だった。
何百という数の西洋風の墓が整然と並んでいる。
風が青々とした草をそよがせ、近くの林の木々の間をかすめる。
日の光はさんさんと降り注ぎ、墓地という暗い印象を打ち消していた。
そしてその墓のうちの一つの前に立ち、僕は俯いて呟く。
「母さん・・・・・・・・・。」

僕の名前は、碇シンジ。
第三新東京市第壱中学校の二年生。
14歳。
僕はぱっと見に、ごくごく平凡な容姿をしている。
身贔屓して見れば、繊細な顔立ち、と言えない事もないけれど、到底美少年
という言葉からは遠かった。
僕の母親、碇ユイは、僕を産むと同時に死んだ。
元々あまり身体も丈夫というわけではなく、初産だった事もあり、難産に身体が
耐えられなかったらしい。
そのために僕は、母というものを知らない。
僕が知っているのは、写真の中の彼女だけ。
優しそうな人。
それが母さんのイメージだった。
ある日部屋の掃除をしている最中に、偶然母さんの写真を見つけた。
久しぶりに見た母さんの印象は、前と変わらず優しい人だった。
そして僕は、今母さんの墓の前にいる。
ここへは数えるほどにしか来ていない。
一度も言葉を交わす事のなかった母親と、どう会話すればいいのか
分からなかったのだ。
そして今日、彼女の墓の前に立っても、僕は語るべき言葉を持たなかった。
「・・・・・・・・・・・・。」
僕はやがて墓に背を向けた。
墓場の出口に向かって、草を踏みしめて歩き出す。
その時だった。
「・・・・・・・ちょっと、君。」
突然、聞き覚えのない声に呼び止められ、僕は少し驚いた。
声の方へ振り向いた僕に、一人の男の姿が見えた。
その人は、一つの墓の前に立っていた。
歳の頃なら三十前後。
グレーのスーツに身を包んでおり、長髪を後ろで大雑把に束ねていた。
そのミスマッチが不思議と良く似合う。
その顎には無精ひげが見てとれた。
僕が墓地に入る前からずっとそこに佇んでいた人で、もちろんその存在には
気付いていたものの、まさか声をかけられるとは思ってもみなかった。
「なんですか?」
僕は訝しく尋ねる。何か落とし物でも見つけてくれたのだろうか。
彼はゆっくりと僕に近づいて来る。
僕の目の前に立つと、彼はこう言った。
「ちょっと、頼み事があるんだけど、聞いてくれるかな?」
「え・・・・・・・・。」
「なに、別に大した事じゃないんだよ。ちょっとね・・・・・・。」
彼はそう言うと、背広のポケットを探った。
やがて目当ての物を見つけたのか、彼の手は引き出された。
その指は、小さな、光輝く物をつまんでいた。
それは、指輪だった。
銀製の、地味な指輪。
しかしけして安い物ではないらしい事を僕は見てとった。
どう反応すればいいのか分からない僕に、彼はこう言った。
「この、指輪を・・・・・・・貰ってくれないかい・・・・・・・・・。」  

   


僕のために、泣いてくれますか

 

(第八話)


 

 


 

「は?」
僕は我ながら間抜けな声を出してしまった。
それはそうだろう。
突然見も知らぬ人に高価そうな指輪を見せられ、それを貰ってくれなどと
言われても、はい分かりましたと受け取れる訳がない。
「な、何を言ってるんですか?」
「いや、別に変な事じゃないんだよ。ただ貰ってくれればいい。
その後こいつをどうしようが君の勝手だ。持ってるのが嫌ならそこら辺に
捨ててもらっても構わない。」
「そ、そんなわけにはいきませんよ。なんだってまたそんな事・・・・・・。」
一所懸命拒む僕を見て、彼はふっと苦笑した。
「・・・・・・・そうだよな。いきなりこんな事言われても訳が分からないよな。
すまなかった。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
沈黙が落ちる。
僕はすぐにでもこの場から立ち去りたかったのだけど、なんとなくその
タイミングを掴めずにいた。
「なあ。」
突然彼が沈黙を破って話し掛けた。
「な、何ですか?」
「ちょっと、そこに座って、話でもしないか?」
彼はそう言って近くのベンチを指差す。
「え・・・・・・・・・。」
「忙しいなら別に構わないけどね。もしそうでないんなら、ちょっと暇つぶしに
付き合ってくれないかい?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・はい。」
僕はしばらく逡巡した挙げ句、それを了承した。
悪い人ではないようだし、なによりもその寂しそうな瞳が気にかかった。
「・・・・・・君、名前は?」
「・・・・・・・・碇。碇、シンジです。」
「シンジ君か。いい名だ。・・・・・・・君は、優しいな。」
彼はそう言うと、染みとおるような男臭い笑みを浮かべた。

彼は、加持リョウジと名乗った。
なんていうか、とても”男らしい”雰囲気を持った人だった。
体つきも逞しく、声は深く、渋いもの。
なにより余裕を持った大人の落ち着きが僕に憧憬を抱かせる。
「・・・・・・そうか。シンジ君は壱中か。私にはもう随分昔の話だな。
中学校生活なんて。・・・・・・・学校は、楽しいかい?」
「は、はい。・・・・・・ちょっと前までは、ほんとに毎日学校へ行くの、
つまらなかったんですけど、最近はとても楽しいです。友達がいて、
それで・・・・・・・。」
「彼女がいて?」
「い、いや、そんな、彼女だなんてそんな・・・・・・・。」
僕は真っ赤になってしまった。
僕の脳裏に浮かんでるのはもちろん惣流の姿だ。
そんな僕を加持さんは微笑みながら見る。
「若いってのはいいなあ。若い内にそんな風に恋するのはいい事だよ。
大人しそうな顔してなかなかやるじゃないか。」
「だ、だから、そんなんじゃないですって・・・・・・・・。」
「はは、からかいがいがあるな。」
話し始めて五分程で、僕はすっかりこの人を好きになっていた。
”大人らしさ”と”男らしさ”。
僕が欲して止まないこの二つを兼ね備えた彼は、僕の理想の男性像と言えた。
「・・・・・・加持さんて、お仕事何なさってるんですか?」
僕は疑問に思っていた事を聞いた。
「私かい?うーん。M's FACTORYって会社は知ってるかな。
そこの営業部長をやってる。」
「え・・・・・・そこって確か、家具とかを扱ってる会社ですよね。
一部上場の・・・・・・・・。」
「ほお。よく知ってるね。」
「この間テレビで見かけたような気がしたんで・・・・・・。
加持さんの年齢でそこの部長職なんて、すごいスピード出世なんじゃない
ですか?」
「まあ、そうかもね。なにしろまだ歴史の浅い会社だからね。実力本位って
やつかな。おかげでこんな格好でも文句を言われない。」
彼はそう言って自分の長髪を指差す。
僕はくすり、と笑った。
僕達はこんな感じでしばらく雑談を交わした。
加持さんは本当に話題の豊富な人で、僕は何度も笑いをこらえるのに必死に
なったり、感心の声をあげるはめになった。
気が付けば西へ傾き始めていた陽は、すでに没しつつあった。
「・・・・・・加持さん。」
「ん?」
「あの・・・・・・。加持さん、僕に話し掛ける前、ずっとお墓の前にいましたよね。
誰か、身内の方のお墓参りだったんですか?」
「・・・・・・・・・・・・。」
「あ・・・・・・・・・・・・・・。」
突然、黙ってしまった加持さんを見て、僕は後悔した。
僕はやっぱり、全然他人との距離の置き方というものをわかってない。
ずけずけと他人の心の中へノックもしないで入ってしまう。
「あ、あの、すいません。」
僕は頭を下げる。
謝った後、どう言葉をつなげればいいか分からなかった。
「・・・・・・・いや、別に謝る事はないさ。そんな深い訳なんてないしね。
・・・・・・・・あの墓は、妻のものだよ。」
「・・・・・・奥さんの・・・・・・・・・。」
そのまま僕達は、しばらく無言のままだった。
重い沈黙。
その沈黙に耐え切れず、何でもいいから何か話そうと僕が口を開きかけると。
「シンジ君。」
「は、はい?」
加持さんに先手を打たれた形になった。
「随分話し込んでしまったな。そろそろ帰ろうか。
君も家族が心配するだろうし。」
「あ・・・・・・はい。」
僕は惣流とミサトさんを思い出した。夕飯の支度をしないと。
僕達はベンチから立ち上がった。
加持さんは僕に右手を差し出した。
「ありがとう、シンジ君。付き合ってくれて。縁があってまた会ったら、その時は
一緒に酒でも飲もう。」
僕は加持さんと握手を交わした。
「はい。僕の方こそ、加持さんと知り合えてよかったです。」
加持さんの手は、思った通り大きく、温かかった。  

 

「シンジ、醤油取って。」
「うん、はい、惣流。」
「ちょっとアスカ、あなたからの方が近いでしょう。そんなにシンちゃん
こきつかっちゃ可哀相よ。」
「いいのよ、こいつは。あたしの下僕なんだから。こうやってこきつかわれてる
事に喜びを感じてんのよ。ねえ、シンジ。」
「う、うーん。」
「シンちゃんは違うって言ってるわよ。」
「こらバカシンジ!曖昧な返事するとミサトが調子付くでしょ!
はっきり嬉しいって言いなさい!」
「う、嬉しい・・・・・・・です・・・・・・・・・。」
「ほら聞いた?ミサト。」
「フォークちらつかせて脅されたらシンちゃんだってそうとしか答えらんない
でしょうが・・・・・・・・・。」
僕の部屋の食卓。
いつもの、心温まる(?)三人の団欒が展開されていた。
三人で毎日夕食を共にするようになってから、どれくらいたつだろう。
最初の内は、ミサトさんと惣流が並んで座って、向かいに僕が座る、という形
だったのだけど、いつの間にか僕と惣流が並んで、ミサトさんがその向かい、
という形になっていた。
もちろん僕としては嬉しさの極みなのだけど、どうも食べてる最中惣流と肘を
触れ合わせたりする事が多くて、その度にどぎまぎしてしまう。
彼女は口の中に食べ物を一杯に詰め込んで頬を膨らませていてさえ、
可愛らしい。
・・・・・・こんなに可愛いなんて、反則だよ・・・・・・・・・。
僕の切実な叫びだ。
すぐ隣にこんな可愛い娘が居たら、落ち着いて御飯も食べれやしない。
「ねえシンちゃん。」
「はい?」
「お母さんのお墓参り、どうだった?」
ミサトさんは食べる手を止めて尋ねて来た。
惣流もポテトを突き刺したフォークをそのままにして、僕を見つめる。
「ええ・・・・・・まあ、いつも通りというか・・・・・・。今日行けば、何か話が
出来そうな気がしてたんですけど・・・・・・やっぱり、駄目でした。」
「・・・・・・・そう。」
「もーらいっ!」
暗くなりかけた雰囲気を壊すように、惣流が出てきた。
僕の皿の上の唐揚げをあっという間にかっさらうと、すかさず口に入れて
しまう。
「ああっ!ひどいよ、惣流!せっかくそれは最後の楽しみに
とっておいたのに!」
「へっへーん。知らないわよ。この世は弱肉強食なんだからね。
油断する方が悪いのよ。」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ僕ら。
ミサトさんは呆れたように見ている。
「まーったくもう。二人ともいちゃいちゃしちゃってえ。見せ付けてくれるわね。
仲のいいご夫婦ですこと。」
「な、なによそれは!変な事言わないでよミサト。
ちょ、ちょっとシンジなに赤くなってんのよ。」
「ふ、夫婦・・・・・・・・・。」
僕はその言葉のインパクトに頭が真っ白になってしまった。
惣流との甘い蜜月の日々の想像が駆け巡る。
や、やっぱり結婚しちゃったりなんかしちゃったりしたら、惣流、じゃなくて
アスカ、と呼ばなきゃ駄目なんだろうか。
「ああらあ。シンちゃんはまんざらでもないみたいねえ。どおお?アスカ?」
「どおお?じゃないわよ!バカシンジなんかと結婚するなんて言語道断!
この地球上の誰と結婚する事になろうと、こいつとだけは絶対イ・ヤ!」
そこまで言わなくたっていいじゃないか。
トリップ状態から戻った僕は彼女の言い草にちょっと腹を立てる。
「そ、そうですよミサトさん!僕だって惣流と結婚するなんてとっても
耐えられませんよ!」
「なんですってえ!」
「なあにめくじら立ててんのよ、アスカ?」
すでに食卓は収集がつかない混乱に陥っている。
惣流と言い合いながら、僕はふと夫婦、という言葉から今日墓地で出会った男の人の事を思い出していた。
加持さんは奥さんを亡くされたんだな。
”あの墓は、妻のものだよ。”
そう言った時の加持さんの表情を思い出した。
好きな人を失うって、どんな気持ちですか?加持さん・・・・・・・。
僕は自分を怒鳴りつけている惣流を見ながら、そんな風に思った。  

 

墓参りの日から、一週間がたった。
PM10:00。
僕は近くのコンビニへ足を運んでいた。
『バニラアイスが食べたい!』
唐突なお嬢様のわがままのせいだ。
もちろんそのわがままに対してめんどくさい、という気持ちもあったけど、
それ以上に惣流が僕にわがままを言ってくれる事が嬉しい。
僕は徐々に彼女に飼い慣らされているんだろうか?
「・・・・・・・・・・・・?」
ふと、道路の脇に見つけたものが僕の気を引いた。
それは、人だった。
電柱の傍で、その人は身体を丸めて寝ているのだ。
酔っ払いかな。
背広を着ているところから見るにサラリーマンだろうか。
近寄って介抱してあげようか、それとも無視して行こうか。
立ち止まってさんざん迷った挙げ句、僕は助ける事にした。
こんな所にいたら風邪をひいてしまう。
「あの・・・・・・もしもし?大丈夫ですか?
・・・・・・・・・・・・・・・・!」
近寄って声をかけた僕は、目を丸くする羽目になった。
その人に見覚えがあったからだ。
「か・・・・・・・・・・加持さん?」
そう。
一週間前出会ったあの人が今目の前にいた。
そして僕の予想通り、彼はまぎれもなく酔っていた。
ぷん、と僕の苦手なアルコールの匂いが鼻をつく。
「ん、んんー。」
加持さんが反応する。
「だ、大丈夫ですか?どうしたんです加持さん?こんなとこで?」
「んん。うーん。」
はかばかしくない返事。
僕はどうしようか途方に暮れた。
「・・・・・・・・・・・・・ミエ・・・・・・・・・・・・・。」
加持さんの口から、小さく言葉が漏れる。
僕は加持さんがここまで酔っている理由が分かったような気がした。
「・・・・・・・・・・あれ?・・・・・・・君は?」
「あ、大丈夫ですか加持さん?」
やっと少しは意識の戻って来たらしい彼を見て、僕は安心した。
「・・・・・・シンジ君?・・・・・・何で君がこんな所に?」
彼の言葉はまだ明瞭ではない。
「たまたま通りがかったんです。そんな事より、歩けます?近くに公園が
 

ありますから、そっちで休みましょう。水道もありますから。」
「ん・・・・・・・・・・。いや、すまないけどしばらくこのままにさせてくれ。」
「そ、そうですか・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
二人共、無言のまま。
加持さんはぼおっと夜空を見上げ、僕はどうしようか迷ったけど、彼の横に
腰を下ろした。ブロック塀に背中をもたせかける。
人通りの少ない道なのだけど、それでも五分に一人は通行人がある。
通る人通る人にじろじろ見られ、何となく恥ずかしい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・やがて。
加持さんが、唐突に口を開いた。
「昔ね、ある男がいたんだ。」
「え?」
「その男はある大学の経済学部の学生だったんだけど、彼はある日同じ
学部の中で一人の女性と出会った。」
戸惑う僕だったけど、彼が自分の事を話しているのだと理解して、黙って
話を聞いた。
「その時男は、初めてこの世に、運命的な出会いというものが存在する事を
知った。男は一目で恋に落ち、女もまた同じだった。」
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
「二人は恋人と呼ばれる間柄となった。
時を経るごとに二人の絆は固くなり、やがて周囲の反対を押し切って
学生結婚へ至るまでに、さほど時間はいらなかった。
・・・・・・女はよくココアを作った。男は甘い物は苦手だったが、
女の微笑みに負けていつも飲まされる羽目になった。」
夜空に、飛行船のものらしい、小さく瞬く赤い光が見える。
「二人は大学を卒業し、男は勤め人に、女は専業主婦へとその肩書きを
変えた。」
加持さんの目がす、と細くなる。
「男は働いた。
がむしゃらに、と言っていい。
全て愛する妻のため。
妻に少しでも楽な生活をさせるため。
二人の間には子供はなかなか授からなかったが、二人の愛情は変わらず
続いた。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「男の仕事は、やがて職場で認められていった。
上司に期待され、異例の出世を遂げ、仕事はさらに増え、やりがいのある
ものへと変わっていった。
収入も安定し、住んでいたアパートはマンションに代わり、家具はより良い
物に買い替えられた。」
汚れた加持さんの背広。
それを見ながら僕は黙って動かない。
「しかしその頃から少しずつ歯車は噛み違えていった。
男の仕事は残業が続き、共に夕食を食べる事がなくなった。
休日を返上して出社し、妻と出かける約束はキャンセルが続いた。
男は働き続けた。
妻との生活を豊かにするためにしていた仕事が、いつのまにか妻との生活
を壊していた。
それでも男はその事に気付かずただ働き続けた。」
「加持さん・・・・・・・・・。」
「二人の生活から、会話らしい会話は失われた。
妻が用意した結婚記念日のケーキは無駄になり、妻が用意した誕生日
プレゼントにも、男は無反応だった。
それのみか、男は同僚の美しい女性と交際を始めた。
美しい肉体に心を奪われ、妻の事はさらに頭から離れていった。
妻は夫の浮気を薄々知りつつも、ただ黙って耐えていた。」
「加持さん・・・・・・・・・・。」
僕は再び彼の名を呼んだ。
もういい、と思った。
これ以上古傷を思い出さなくていい、と思った。
しかし彼は続けた。
「妻はやがてノイローゼになった。それでも男はそれに気付かない。
男がいつものように出社している時、悲劇は現実のものとなった。
ノイローゼの妻は、いつものスーパーへの買い物へ出かける途中、
横断歩道の赤信号に気付かなかった。
・・・・・・・・・・あっけなかった。
ほんのちょっと打ち所が悪かっただけで、妻はまるで眠るように男の手の
届かない世界へと旅立った。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
沈黙が落ちた。
しばらくして加持さんは再び言葉を続けた。
「しかし男は泣かなかった。
あれだけ愛していたはずの妻の死は、彼に何の悲しみも与えなかった。
男はすぐに仕事に復帰した。
男を必要としている仕事が会社に山積みになっていた。
家に帰って出迎えてくれる者が居なくても彼は寂しさを感じなかった。」
僕達の座っている周囲は、住宅地だった。近くの家の窓からは、暖かな光が
漏れている。
「そして妻が死んで一年近くが過ぎ去ろうとしていた時、男はふと、なにを
思ったかココアを飲もうと思い立った。
戸棚を漁って箱を見つけ、自分で作って飲んでみた。
・・・・・・・・相変わらず、男にとってはココアは甘すぎる飲み物だった。
そして、ココアを飲みながら、男はいつのまにか数年ぶりの涙を流していた。」
加持さんは一息いれて続けた。
「それ以来、男は仕事が手につかなくなった。
目を閉じれば瞼の裏に浮かぶのは生前の妻の笑顔ばかり。
そして、ある日男は一年ぶりに妻の墓の前に立ってみた。
そうすれば妻に別れを告げられると思ったから。
妻の事を忘れられると思ったから・・・・・・・・・。」
一週間前の事だ。僕は思った。
「しかし駄目だった。
何時間彼女の前に立っていても・・・・・・・・・・・・・。
別れは告げられなかった・・・・・・・・・・・・・・。」
加持さんはうなだれた。
そうか。
僕は納得した。
あの時、初めて出会った時、加持さんが僕に譲ろうとした指輪。
あれは、エンゲージリングだったんだ。
それを捨ててしまう事で、彼は彼女の事を忘れようとしていたんだ。
「加持さん・・・・・・・・・・・。」
僕はそっと呼びかける。
あれだけ逞しく見えた彼の身体が、めっきり痩せているように見えた。
「加持さん・・・・・・・そんなに、自分を・・・・・・責めないで、下さい・・・・・・・・。
奥さんだって、・・・・・加持さんがそんな風に悩むのを喜んでいないと
思います・・・・・・・・・・・。」
加持さんは僕の言葉を聞いて、ふん、と鼻で笑った。
「・・・・・全く・・・・・・・中学生の子供に慰められるようになっちゃ、
お終いだな・・・・・・・・。」
「そんな・・・・・・・・・・・・。僕・・・・・・・・・・・。」
「子供に何が分かる!」
突然加持さんは語気荒く叫び、僕はびくりと身を震わせた。
「・・・・・・・・・子供は、とっとと帰って寝ろ。」
そう言うと、彼は少しふらつく足で立ち上がった。
僕も慌てて合わせて立つ。
「・・・・・・・・大丈夫ですか?加持さん・・・・・・・・・。」
「子供が大人の心配をするな。」
加持さんは肩を貸そうとする僕を乱暴に追いやった。
「いいか。子供が聞いた様な口を叩くんじゃない。
そして二度と俺の前に現れるな。」
彼はゆっくりと歩き去って行く。
そして、僕はその後ろ姿をただ見つめつづけた。
僕は、加持さんに語るべき言葉を持たなかった。
どんなに強大な魔力を持っていても、人一人の心を支える事も出来ないのだ。
その現実が僕の心に突き刺さり、そして僕はただ見つめつづけた。

「遅い!たかがアイス買うのに何十分かかってんのよ!」
マンションに戻った僕を出迎えたのは、惣流の怒鳴り声だった。
しかし僕はそれに対してほとんど反応を示さなかった。
「うん・・・・・・・ごめん。」
「ごめんじゃないでしょ!あたしがどんだけ・・・・・・・・・・・!」
惣流は言いかけて途中で口をつぐんだ。
「シンジ君。アスカ、あなたが帰って来ないって、随分心配してたのよ。」
「な、何言ってんのよミサト!誰がこんな奴の心配するってのよ!」
「・・・・・・・・ごめん。二人とも、心配かけて・・・・・・。」
再び謝罪の言葉を呟く。
二人はさらに訝しげな表情になった。
「・・・・・・なんか、あったの?」
「・・・・・・・・ううん。なんでもないんだ。ごめん。僕、もう寝むよ。」
「・・・・・・・・・・。」
二人はなおも納得のいかない顔をしていたけど、やがて黙って部屋から
出て行った。
寝室へ入り、ベッドの上に横たわると、否応無しにさっきのシーンが蘇る。
『子供に何がわかる!』
僕に怒鳴った加持さん。
人は他人の事を完全には理解出来ない、という様な事を何かの本で
読んだ事があった。
まさしくその通りだ、と僕は思った。
僕はあの時、加持さんの心の痛みを少しでも感じる事が出来ていたろうか?
考えても考えても僕の心は苦しみを訴えるばかりだった。
眠ってしまいたい。
僕は痛切に願った。
眠って、全て忘れてしまいたい。
しかし、僕の肉体はそれを許さない。
僕はその日一晩中、苦しみを抱えつつ、様々な思いに身を馳せ続けた。
朝の光が部屋に差し込むまで・・・・・・・・・。  

 

ざわ、ざわ。
教室の中は喧騒に包まれていた。
今日の授業は全て終わり、めいめい部活動の準備をしたり、友人達とこれから
どこへ遊びに行くか相談したりしている。
アスカはヒカリとお喋りをしながら、帰り支度を進めていた。
今日は学院の授業もないし、シンジを付き合わせてウインドウショッピングでも
しよう。
街をあちこち歩き回る事を考えて、アスカは顔がほころぶのを感じた。
シ、シンジを誘うからって、別にデートってわけじゃないのよ。
今日はヒカリが付き合えないから、しょうがないあいつを誘ってやるんだから。
アスカはそう自分に言い訳する。
「おうシンジ。今日ケンスケんちに寄ってかんか?レースの勝負しようや。」
トウジがシンジに誘い掛けた。
アスカはすかさず聞きつけると、すごい勢いで二人の所へ行く。
「ちょっと待ちなさい鈴原!シンジは今日はあたしと用事があるの!
あんたは遠慮しなさい!」
「なんやて!何勝手な事ゆうとんのや。どうせあちこち引き摺りまわしてシンジを
疲れさせるだけなんやろが。」
「あたしが、あたしの下僕をどうしようがあたしの勝手でしょうが!」
「なにが下僕や。シンジはシンジや。惣流の私物やあらへん。」
「鈴原。あんた喧嘩売ってんの?」
「やっと分かったんかこのじゃじゃ馬。」
「こおの!」
「あの・・・・・・・・二人共。」
戦争状態に突入しそうになる二人を、ゆっくりとしたシンジの言葉が止めた。
「なによ。シンジ。」
気を殺がれたアスカは、憮然とシンジに言う。
「二人共、悪いんだけど・・・・・・・今日は、ちょっと用事があるから・・・・・・。」 「なんやまたかいな。シンジ、お前最近付き合い悪いんとちゃうか?」
「くおらバカシンジ!あたしのお誘いより大事な用事なんて
あるわけないでしょ!」
「・・・・・・・ごめん。でも、ほんとに駄目なんだ。そのうち埋め合わせはするから。
二人共勘弁して。・・・・・・・・じゃあ、先、帰るから。」
シンジはそそくさと鞄を持って教室を出て行ってしまった。
「な・・・・・・何よ。シンジの馬鹿・・・・・・・・・。ここんとこいっつも一人でさっさと
帰っちゃって・・・・・・・。」
「ううん。これは何かあるな。」
突然ケンスケの声が響く。ふと見るとケンスケはその眼鏡を怪しく
輝かせている。
「何よ相田。何かあるって、何がよ?」
「分からないか?最近、付き合いの悪いクラスメート。
学校が終わるとそそくさと荷物をまとめて一人で下校してしまう。
その意味する所は一つ!」
「な、何よ。」
思わずつりこまれてしまうアスカ。
「・・・・・・・・逢い引きだよ。」
にやり、と笑うケンスケ。
「なんやてえ!」
早速反応したのはトウジだった。
「わ、わい、センセがそないなうらぎりもんだったとは思わんかった!」
トウジはときどきシンジの事をセンセ、と呼ぶ。
次に反応したのが、しばらく呆けたような表情をしていたアスカだった。
「な、な、な、何言ってんのよ!
あのバカシンジにそんな甲斐性あるわけないでしょうが!」
「いやあ分からんぜ。
最近なんかシンジの奴、時々ふ、っと大人びた表情する事があるからなあ。
そう考えてみればあれも恋する男の顔と見れなくもない。」
「な・・・・・・・・・・・。」
確かにそれはアスカも感じていた事だった。
あの大喧嘩の一件以来、妙にシンジは大人びた所が出てきた。
普段はただの気の弱い少年としか見えず、勉強も、スポーツも相変わらず
駄目な奴だったが、ふと目を離している隙に、どこか遠くを見つめるような
表情をしている。
そんなシンジを見る度に、アスカはなんとなく心が締め付けられるのだが、
ここ十日間ほど、シンジがその表情を見せる事が多くなってきた。
あの日からだわ。
アスカは思う。
コンビニへおつかいにやって、しばらく帰って来なかったあの日。
どうもあの時様子がおかしいと思ってたけど・・・・・・・・・。
「バ、バカシンジのくせに生意気よ!
これはどうあっても真実を究明する必要があるわね!」
ドン、と拳で机を叩く。
「お、惣流もそう思うか?じゃあこれから早速シンジの奴を尾行しようぜ。
トウジも行くだろ?」
「おお!わいも、シンジの親友としては、相手の女をきちんと見届けんと
あかん!」
「あ・・・・・・・あの、アスカ。
シンジ君の事気になるのは分かるけど、ほどほどにね・・・・・・・・・。」
三人のテンションに付いていけなかったヒカリが恐る恐る口を挟む。
クラス委員長の任を自分からすすんでやるような、生真面目な性格の彼女と
しては、他人を尾行するという行為に対して一応注意をうながして
置かなければならなかった。
しかしアスカは親友の言にも全く耳を貸していない。
「じゃあ行くわよ!鈴原!相田!」
「ふふ、尾行か。腕が鳴るぜ。この俺のテクニックを存分に見せてやろう。」
ケンスケはニヤリと笑った。  

 

「・・・・・・・ただいまあ。」
七時ごろになって僕は家に帰り着いた。
頭の使いすぎでなんだかくらくらする。
「お早いお帰りで。バカシンジ。」
そんな僕を、惣流が何だか恐怖を感じさせる笑みを浮かべながら出迎えた。
惣流には部屋の合鍵(カード)を渡してある。
この間のように魔術を使って入る様な事があったら危ない。
「ねーえ。シンジ?今迄どこに行ってたのかなあ?」
「い、いやちょっと、図書館へね。読みたい本があったもんだから。」
「ふうーん?」
ちょっと白々しかったろうか。
僕はもちろん三人が尾行している事にすぐ気付いた。
僕が何をしているのか知られる訳にはいかない。
それでちょちょいっと撒いてしまったのだ。
ともかく彼女は尾行が失敗に終わったのでご機嫌斜めのようだ。
・・・・・・ひょっとして、ほんとに僕が逢い引きしてると思って、
し、嫉妬してるとか・・・・・・・・・・。
都合のいい想像に走る。
「そう言えばアスカ、ミサトさんは?まだかな?」
「今日は学院の仕事で遅くなるって。ほらとっとと御飯作んなさい。」
「う、うん。」
僕は惣流に隠し事をしている事に少し罪悪感を覚える。
・・・・・もうちょっとだ。
僕は自分に言い聞かせる。
・・・・・・もうちょっとで、終わるから・・・・・・・。
そうしたら、ゆっくり皆と遊べるから・・・・・・・・・。  

 

「加持部長。」
突然呼びかけられ、加持ははっと書類から顔をあげた。
いつもの職場。
整然と並べられた机に、部下達は残っていない。
PM9:00。
加持は片付けきれなかった仕事を抱え、一人残って残業していたのだ。
そのうちにまた死んだ妻の事を思い出して意識が飛んでしまったらしい。
いつのまに部屋に入って来たのか、信頼すべき部下の一人が加持を
心配そうに見つめていた。
うっすらとひかれたルージュが目をひく。
「やあ。高橋君。・・・・・・まだ、残っていたのかい。」
「加持部長・・・・・・・お痩せになったんじゃありません?」
彼女は加持の質問に答えなかった。
「大丈夫さ。ちょっと、疲れてるだけだ。
・・・・・すぐに、いつもの調子を取り戻す。」
「・・・・・・・・・・・。」
彼女は軽く唇を噛み、悲しそうな目で加持を見つめる。
加持はその目を直視できずに、目をそらして再び書類の確認を始める。
「・・・・・・・・・加持部長。」
彼女が再び呼びかける。
今度は加持は答えなかった。
返事を待たず彼女は続けた。
「・・・・・・今・・・・・・・私がお力になれる事があれば・・・・・・・・・。」
「すまん。」
加持は即座に言う。
彼女の言いたい事は分かる。
「すまないが・・・・・・・一人にしておいてくれ・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・。」
彼女はしばらく黙っていたが、やがて一礼するとヒールの音を響かせて
出て行った。
再び独りになった加持は、俯いて呟く。
「・・・・・・・・すまない・・・・・・・・高橋君・・・・・・・・・・。」

加持は会社を出た。
結局、仕事はこなしきれなかった。
鞄の中には書類の束が詰まっている。
残りは家でやるしかないな。
そう考えるが、果たして家でも仕事が手に付くかどうか怪しかった。
・・・・・痩せた、か・・・・・・・そうかもしれん・・・・・・・・・。
加持は自分の腕を見つめ、溜め息をつく。
思い出さなければ良かった。
思い出さなければ、こんなに苦しむ事はなかったのに。
寂しい、などという感情を持たずに済んだのに。
再び溜め息をつき、駅への道を辿ろうとする。
その彼の前に、一人の人物が姿を現した。
「・・・・・・・こんばんは。加持さん・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・シンジ君・・・・・・・・・?」
その人物は、少年だった。
自分の事を、悲しげに見つめている少年。
酔ったはずみに、胸中を吐露してしまった少年。
同情の視線にいらつき、突き放してしまった少年。
「・・・・・・何故、こんな所にいる・・・・・・・。
二度と、私の前に現れるなと言ったはずだ・・・・・・・・・。」
そんな言葉が、口をつく。
その言葉を聞いて、少年はさらにその表情に悲しみの色を漂わせた。
最低な男だな。
加持は自嘲する。
妻を死に追いやり、悲劇を気取って、おまけに子供に八つ当たりしている。
最低だ。
「加持さん・・・・・・・・。加持さんに、付き合って欲しい所があるんです・・・・・。」
「・・・・・・何の事だ?」
「ともかく・・・・・・・ちょっとだけ、お時間を頂けますか・・・・・・・。」
少年は以前と変わらず、優しい目をしていた。
あれだけひどい言葉を投げつけたというのに。
こんな、最低な男なのに。
「・・・・・・悪いが、子供に付き合ってる暇はない。
それに、子供が出歩いている時間じゃないぞ。」
「・・・・・・・お願いします。ちょっとだけ・・・・・・・・。」
少年はさらに頼んで来る。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
加持は、無言。
シンジは、そんな彼をただじっと見つめている。
「・・・・・・・・・・わかった。少しだけなら付き合う。」
加持は折れた。
「あ・・・・・・・ありがとうございます・・・・・・・。
じゃあ・・・・・・・、こっちへ、ついてきてもらえますか・・・・・・・・?」
少年は、歩き出した。
加持は訝しく思いながらも、黙って後をついていった。
この少年は、私をどこへ連れて行こうと言うのか?

「な・・・・・・なんだ?ここは・・・・・・・・・・・?」
加持さんは、呆然と辺りを見回した。
無理もない。
僕も、初めてここへ来た時には、同じ様な反応をしていた事だろう。
そこは、見渡す限りの廃虚の都市。
「・・・・・・旧東京、ですよ。ここは。」
僕は加持さんの疑問に答えた。
彼は愕然と僕の方を振り向く。
「きゅ、旧東京って・・・・・・・馬鹿な・・・・・・・・・・。
何故そんな所に・・・・・・・・。君は、一体・・・・・・・・・・?」
「・・・・・・僕はね、魔法使いなんですよ。加持さん。
周りの人たちには秘密にしてますけどね・・・・・・・。」
「魔法使い・・・・・・・・・君が・・・・・・・・・。」
「僕はここで、ある魔術の準備をすすめていたんです。
ここなら、人に気付かれる心配もありませんからね。
で、今日、これからその魔術を行おうと考えているんです。
それに加持さんに立ち会ってもらおうと思います。
そのために”門”を開いて、この旧東京へお連れしました。」
「・・・・・・・・・・・・。」
加持さんは信じ難い、という顔で僕を見つめる。
一気に与えられた常識外の情報の整理に、戸惑っているらしい。
僕は黙って見つめた。
十分も、過ぎたろうか。
やがて落ち着いてきたらしい加持さんは、かすれた声で言った。
「・・・・・・・で?・・・・・・・・・その魔術、というのは何なんだい?
何故私がそれに立ち会わなければいけない・・・・・・・・・?」
「それは、これから行う魔術が、加持さんのためのものだからです。」
「私の、ため・・・・・・・・・・?」
加持さんは眉をひそめた。
「そうです。・・・・・・・僕はこれからここで・・・・・・・・。」
ひょお、と風が吹き抜けた。
「加持さんの、奥さんを、蘇らせようと思います・・・・・・・・・・・。」
「なんだって!]
叫ぶ加持さん。
僕は対照的に、落ち着いて続けた。
「蘇らせる、と言っても、生き返らせる、という事とは違います。
死者を完全に生き返らせる法は、まだ存在しないんです。
というよりも、死者を生き返らせる事は、魔術師達の数多い禁忌の内の一つ
なんです。
ですから、僕がこれから行う術は、あくまで、一時的に、人の魂をこの現世に
呼び出し、会話をさせるだけというものなんです。」
「・・・・・・・・・で、私の妻を、妻の、魂を、ここへ呼び出そうと言うのか・・・・・・?」
「そうです。」
「し、しかし・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「しかし、そんな事をしても・・・・・・・私には、彼女と語る資格などない・・・・・・。」
「・・・・・資格があるかどうかは、奥さんが決める事ですよ。加持さん。」
「・・・・・・・・・・・・。」
再び落ちる沈黙。
加持さんが葛藤している事が分かる。
僕は、彼の肩を押す事にした。
「お願いします、加持さん・・・・・・・・。
奥さんと、お話して下さい・・・・・・・・。
そして、今度こそ、別れを告げて下さい・・・・・・。」
「シンジ君・・・・・・・・・・・。」
加持さんは、僕をじっと見つめた。
「何故・・・・・・・・・・・・?」
「え?」
「何故・・・・・・・ここまでしてくれる?
私と君とは、ほとんど関係がないじゃないか。
ただ1、2回、話をしただけで、しかも一度は君に対してあんな事を
言って・・・・・・・・。」
「・・・・・・・僕は・・・・・・・僕は、加持さんの事が、好きですから・・・・・。
加持さんと、またお話が出来るようになりたいから・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
三度、落ちる沈黙。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
やがて加持さんは、俯いたまま、言った。
「・・・・・・・・・・ありがとう・・・・・・・・・シンジ君・・・・・・・・・・・。」

僕は、足元の地面を見つめた。
半径30メートルほどの地面は、瓦礫もアスファルトも完全に取り除かれ、
むき出しの地肌が顔をのぞかせていた。
その地面には、半径10メートルほどの魔法陣が描かれている。
僕が、自らの血でもって描いたものだ。
高度な魔術を行う際には、こうして魔法陣を描く事によって飛躍的に
魔術の精度を高める事が出来る。
魔法陣を描くには、チョークでもいいし、木の枝で地面を掘るのでもいい。
しかし描くのに適したもの、というものがあって、生き物の血液が最適とされる。
特に魔術師自身の血液は、それ自体魔力を帯びているため、重用される。
この死者の魂を呼び出す術を学ぶのに、十日間もかかってしまった。
時間の合間をぬって魔道書を読み漁り、おかげで惣流達には妙な疑いまで
かけられてしまった。
それから、加持さんの奥さんに関しても色々と調べた。
魂を呼び出すのだから、呼び出す対象の事を知らなければどうにもならない。
姓名、生年月日、容姿、亡くなられた日、ありとあらゆる事を調べた。
また、あまり感心しない事だけど、墓暴きもしてしまった。
この魔術は対象の遺骨を触媒にすると間違いがない。
手元には、白い、小さな欠片が握られている。
・・・・・・お許し下さい。
僕は存在するかしないか分からない神へ懺悔した。
ちなみに、周囲一キロほどに、強力な結界を張ってあるため、
悪魔達に邪魔をされる心配はない。
「・・・・・・・・・始めますよ。」
僕は魔法陣の外で待っている加持さんに呼びかけた。
加持さんは緊張の面持ちで肯く。
・・・・・そして、僕は。
術を、開始した。

「あ・・・・・・・・・・・・。」
加持は、驚きと共にそれを見た。
「・・・・・・・・・あなた・・・・・・・・・・。」
それが、自分に呼びかける。
「ミ・・・・・・・・・・・・ミエ・・・・・・・・・・・・!?」
加持は、妻の名を呼んだ。
加持の目の前には、生前の妻の変わらぬ姿があった。
魔法陣の中央に立ち、布一枚まとわない全裸の姿で、加持に微笑みを
見せていた。
シンジが、かりそめの肉体を魂に与えたのだ。
肩の辺りで整えられた髪が風に揺れ、
長い睫毛がそっと伏せられ、
白い裸身が輝いた。
いつのまにかシンジはその姿を消していた。
それにも気付かず、加持は妻をじっと凝視していた。
その名を呼んだものの、言葉を続ける事が出来ない。
彼女は、くすり、と笑った。
「どうなすったんです?あなた・・・・・・・・?」
「ミエ・・・・・・・・・・・・・。」
加持は、一歩近づいた。
「ミエ・・・・・・・・・・・・・。」
また、一歩。
「ミエ・・・・・・・・・・・・・!」
気が付けば、すでに彼女の目の前に立っていた。
夢中で妻の手を取る。
「ほ・・・・・・本当に・・・・・・・・お前なのか・・・・・・・・・?」
「そうですよ・・・・・・・・・・。」
優しい、何もかもを包み込むような、慈愛の、微笑み。
それを見て、加持は妻が蘇った事を確信した。
「ミ・・・・・・・・ミエ・・・・・・・・・私は、・・・・・・私は、お前に謝らなければ・・・・・・。」
「・・・・・・・どうして?」
「何故って・・・・・・・・私は・・・・・・・お前の事を忘れ、仕事に没頭して・・・・・・
おまけに違う女性に心を奪われ・・・・・・・・・・・・。」
彼女は、加持を正面から見つめる。
そして、言った。
「そんな事・・・・・・・・ありません・・・・・・・・・。
私は・・・・・・・・幸せでした・・・・・・・・。
あなたと出会えて、あなたと暮らせて・・・・・・・・・・。
私は、ひとときもあなたと一緒になった事を後悔した事はありません・・・・・。
ひとときもあなたの事を怨んだ事はありません・・・・・・・・。」
「ミエ・・・・・・・・・・・・・。」
「愛してます・・・・・・・・・いつまでも・・・・・・・・・。
だから・・・・・・、もう、苦しまないで下さい・・・・・・・・・。
生きて、そして・・・・・・・・・。
新しい幸せを・・・・・・・・・・・
見つけて下さい・・・・・・・・・・・。」
「ミエ・・・・・・・・・・・。」
加持は、泣いていた。
自責と、悲しみと、喜びに泣いた。
枯れ果てたと思った涙は、後から後から頬を伝った。
妻の身体を抱きしめ、
彼はいつまでも、
泣き続けた・・・・・・・・・・・・。  

 


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ver.-1.00 1997-09/13公開
ご意見・感想・誤字情報などは kawai@mtf.biglobe.ne.jp まで。

 河井さんの『僕のために、泣いてくれますか』第八話、公開です。
 

 強大な魔力を持ってしても、
 分からないのは人の心。
 癒せないのは心の傷・・。

 本来ならばそうなのですが、
 シンジの思いやりは加持の心を埋める手助けをしましたね。
 

 過去を振り切るきっかけになったでしょうか。
 

 アスカがいつの間にかラブラブ?
 

 さあ、訪問者の皆さん、
 感想・意見を河井さんに送りましょうね!


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