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朧月



 蒼い月が空に浮かぶ夜。碇シンジは音を立てないようにそっと窓を開き、椅子に座って愛用のチェロを構える。
 ゆっくりと引かれる弓に弦が歌い始めた。
 部屋中に響き渡った音が、開け放たれた窓から外へと飛び出していく。
 優しく響く音色は隣人の耳に届き、そして隣人は優しく微笑み、あるいは窓を開け放って夜空を見上げる。
 最後の一音を細心の注意を払って弾き出すシンジ。その時、微かに吹いた風がカーテンの裾を揺らした。
 それに気付いたシンジは顔を上げる。
 そこには窓を背にして立つ人影があった。
 銀色の髪。月光を結晶化させたような白い肌。そして印象的な深紅の瞳の少女がシンジを見下ろしている。
「…いらっしゃい」
 にこりと笑って迎えるシンジ。月光を背に、その影を床に落とす彼女を前にしてもシンジはうろたえてはいなかった。
「…お邪魔します」
 窓枠にゆっくりと腰掛け、そうひっそりと答える少女はその氷のような美貌に微かな笑みを浮かべる。
 シンジは彼女が窓枠に腰掛けたのを確認すると、気を取り直したかのように再び弓を弦に当てた。部屋にはもう一度優しい調べが満ちる。
 目を閉じてじっと聞き入っていた少女のくちびるが微かに開き、そこからハミングがもれだす。その音色はシンジのチェロと響き会うように重なり合う。
 シンジの手から余計な力が抜け、調べが変わった。
 今度は静かな夜想曲が流れた。

 月が隠れ始める頃、少女は現われた時と同じように風と共に消え去った。シンジは揺れるカーテンをじっと見つめ、そして窓を閉める。
 それから丁寧にチェロを片付け、床に就くのだった。


「………!……!!」
 遠くで誰かが叫んでいる。そう思いながらシンジはそれを確かめようとはしなかった。
「……って……ってる……でしょうが!!」
 シンジはその声が段々近付いてきている事を理解していた。だが、それでも彼はそれを無視していた。
「…とっとと!起きなさいって!!言ってるでしょうが!!!バカシンジぃ!!!!」
 突如耳元で怒鳴り声が爆発し、バサッという音と共に布団が剥ぎ取られる。この段階に至ってシンジはようやく目を覚ました。
「…………あすかぁ…………?」
「あすかぁ…じゃないでしょうが!!遅刻するわよ!!!」
 そう怒鳴っているのはシンジの家のお隣さんの娘、惣流・アスカ・ラングレーである。碇家の隣りに住むこのクォーター(1/4)の少女は、シンジの幼なじみとして生まれた時から一緒に育ってきた。
 元々家にいる事の少ない惣流家の両親のため、アスカは碇家で育ったといっても過言ではなかった。姉弟のように育った二人だが、アスカは持ち前の美貌に日々磨きがかかり、今や学校のアイドルと言った状態である。それに比べるとシンジはそのおとなしい性格の為に目立たない生徒となっていた。
 しかし、アスカが事ある毎にシンジを連れ回すので、別な意味では目立っているのだが。
 今のアスカの日課は幼なじみの遅刻阻止である。
「…遅刻って…今何時?」
 ぼやーっとした顔で尋ねるシンジに、アスカは自分の腕に巻かれた腕時計を黙って見せた。
 しばらくぼんやりと針を読み取っていたシンジ。だが、その針の指し示す時刻を認識した時、彼は大声で叫んでしまった。
「8時って…何だよ!!もう遅刻寸前じゃないか!!」
「誰のせいよ!!」
 二人の怒鳴り声は彼の部屋から、碇家のダイニングまで筒抜けだった。
「あらあら、ま〜た始めちゃった」
 そう言って微笑んだのは碇ユイ。シンジの母親である。基本的に若造りなのか、見た目と実年齢にはギャップを感じる女性である。
「毎朝毎朝、よく飽きん」
 ぼそりとそう呟いたのは碇ゲンドウ。シンジの父親である。今は新聞で表情を隠しているが、実際はユイのように二人のじゃれあいを楽しんでいるようだ。
「あれがあの子達なりのスキンシップなんでしょうけどねぇ」
 くすくすと笑いながら手際良く、弁当箱におかずを詰めていく。
 どたどたと足音がしたかと思うとダイニングのドアが開いた。
 そこには制服に着替えたシンジと、その後ろでやれやれと言った表情をしているアスカがいる。
「それじゃ行ってきます」
「あらあら、ちょっと待って。これを忘れちゃ駄目よ」
 急いで弁当箱を包んでシンジに手渡す。
「あ…忘れてた」
 そう言って弁当箱を二つ、自分の鞄の中に押し込むシンジ。それを横目にアスカがユいに頭を下げる。
「いっつも済みません。おばさま」
「いいのよ。毎朝シンジを起こしてくれてるんだし、それにアスカちゃんはうちの子みたいな物だしね」
 ころころと笑ってユイはそう言った。
「じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい」
 二人はその言葉に、現在の時刻を思い出した。
「いっけない。もう時間無いんだった!」
「ほら、行くわよ、シンジ!!」
 どたどたと走り出す二人をユイはにこやかに、ゲンドウは…新聞で最後まで表情は見えなかったが、見送った。


 一階へと降りるエレベーターの中でアスカはシンジに宣言した。
「ここから走って行くわよ。シンジ」
「え〜?ここから?大分距離があるよ?」
 歩いて20分といったところか。確かに走り続けて行くには、少し距離がありすぎる。
「遅刻…したいの?」
 冷ややかな視線をシンジに向けるアスカ。
「私だけなら、余裕で登校できたのに。誰のせいだと思ってるの?」
 言外に「シンジの所為だ」と言っている。それを理解し、「なら自分だけでも行けばいいじゃないか」とシンジは考える。だが、それを口にはしない。もし口にしたならば、アスカの罵詈雑言のマシンガンが火を噴くのは目に見えているからだ。彼はこの美しい幼なじみの裏側も良く知っていた。
「…じゃあさ、せめてもう少し距離が縮まってからにしようよ」
 彼にしては最良の選択だったはずだ。だが、わがままお姫様はそれすら許さなかった。
「それじゃ間に合わないって言ってんでしょうが!!バカシンジ!!」
 アスカの怒声と同時にエレベーターのドアが開いた。
「ほら、行くわよ!!」
 ぐっとシンジの腕を掴んで走り出す。シンジもやれやれと言った感じで走りだそうとした。
 その時、シンジは風を感じた。
 いつもなら夜に彼の部屋に吹き込む風を。
 その風の吹いてきた方向へと視線を向けたのは、ほとんど無意識の内だった。
 そこでシンジは『彼女』を見た。月明かりの下で、幻想的な雰囲気を漂わせて現れる少女の姿を。
 陽光の下で見る彼女は、いつも以上に不確かな存在感をシンジに抱かせる。
 春の日差しが優しく照らす街並、街路樹の下に彼女は立っていた。蜃気楼のように、陽炎のように頼りない幻のような姿。
「ほらぁ!行くわよ!!」
 アスカがシンジの腕を引っ張る。シンジは諦めて走りだそうとした。が、最後にもう一度だけ振り返る。
 だが、そこには誰もいなかった。


「ア、アス…カ…やっぱ…無理が…あったって…」
 全速でゲートチェックをくぐり抜けると、シンジとアスカはそろってその場にへたりこんでしまっていた。
「うっさい…わね…間に…合ったんだから…いいじゃないのよ!」
 運動も万能のアスカだが、いかんせん持久走にセンスは必要ない。呼吸は元に戻らず、全身で呼吸しているようだ。
 いつもの怒鳴り声も出せず、切れ切れに言い返す。
 空は綺麗な青だった。涼しげな風がシンジ達の火照った肌を冷やす。
「……はあ。ほら、さっさと教室入るわよ」
 数分で回復したアスカはさっさと玄関に入っていく。シンジは何とか立ちあがったものの、まだ呼吸も回復していなかった。
「タフだよなぁ…アスカって」
 彼女に聞こえないように呟くシンジだった。

「おー、今日も仲良う二人揃って登校かいな」
 アスカとシンジが連れ立って教室に入ると同時に、明るい関西弁が投げかけられた。
「うっさいわね!バカ鈴原!!あんたこそ、そのだっさいジャージ!なんとかしなさいよ!!」
 即座に反撃を返すアスカ。その言葉に少年は一瞬鼻白み、そして声を荒げた。
「おんどれ、わいのポリシーを馬鹿にするんかい!!?」
「なぁーにが、『ぽりしー』よ!」
 鈴原トウジ。シンジ達のクラスメートで、年中ジャージを愛用している少年である。大阪弁を操る、クラスのムードメーカーとでも言うべき存在だ。
 非常にくだらない事で口喧嘩しているが、実際のところアスカはトウジをそんなに嫌いではない、と言う事をシンジは知っていた。
 母親とは死別。父親と祖父は仕事でよく家を空けている。そんな中、妹の面倒をよく見る、面倒見の良い兄である事をシンジもアスカも知っていた。
「おー、センセも何とか言うてくれや。あのアホ女、わしのポリシーも理解できへんねん」
 話にならんとばかりに、シンジの方をむいて助けを求める。
「…いや、でも本当にどうしてジャージばっかなの?」
「せやから、それがわしのポリシーやねんて、さっきから言うとったやないか」
 肩を落としてトウジが泣きまねをする。
「ほ〜ら、あんたのポリシーなんて、そんなもんなのよ」
 後ろでアスカがせせら笑っている。
「ほらほら、アスカも鈴原も馬鹿やってないで!先生が来るわよ!」
 委員長である洞木ヒカリがトウジ達に声をかける。その声にトウジと、相田ケンスケが反応した。
 眼鏡をかけた少年、相田ケンスケはいそいそと鞄からハンディビデオを取り出し、扉に向けてセットする。
 トウジはこれまた似合わない事に、いそいそと席につき、それどころか授業の準備なんかを始めちゃったりする。
 そんな二人を見て、アスカとヒカリの二人が声を揃えてこう言うのだ。
「バッカみたい!」

「は〜い!喜べぇ、男子諸君!!なんと今日は転校生がいんのよ!!
さ、入って!」
 担任である葛城ミサトは教壇に立つと、いつものハイテンションでそうまくしたてた。
 おおお〜、と言う男子生徒のどよめきが起こる。ミサトの言い方からして、転校生は女子であるという事だろうからだ。
 がらり、と扉が開く。そしてゆっくりと教室に入ってきた少女。
 どよめきはより大きくなる。
 そして、シンジはクラスメート達とはまったく別種の驚きに包まれていた。
 そこには『彼女』がいた。
 ショートカットにそろえられた銀色の髪。白い、透き通るような白磁のような肌。そして、見るものを引き付ける印象深い深紅の瞳。
 月夜の晩にシンジの部屋を訪問する彼女。月夜の晩だけに現れる彼女が今、シンジの目の前に立っていた。
「…綾波レイです。よろしくお願いします」
 黒板に自分の名を書き、それだけを語るとレイは再び沈黙する。
「綾波さんの席はね…あの席よ」
 ミサトの指差す席を確認すると、レイは無言のまま歩き出す。その方向はシンジの座る席だった。
 レイはシンジの横に立つと、無言でシンジを見つめる。シンジもレイを見つめていた。普段のシンジは人を見つめることは殆ど無い。だが、今のシンジは何かを確かめるように、レイを見つめていた。
「…あなた……いかり…しんじ君…?」
 沈黙を破ったのはレイが最初だった。レイはシンジの名を確かめるようにそう呟く。
「あやなみ…れい?君が…?」
 シンジも夢見るような口調でレイの名を呼ぶ。
 教室がどよめいた。
 転校生であり、一面識も無いはずの二人が互いの名を呼び合っているのだ。
 シンジがレイの名を知っているのは、まあ、今自己紹介をしたばかりだから分かる。しかし、レイがシンジの名を知っている理由が見当たらない。
 二人の関係は一体!?と考えるのは当然のことだろう。
「あ…はじめまして…かな?」
 シンジがにこりと笑って挨拶する。
「……そうね」
 シンジにはふっ、とレイの口元が緩んだように見えた。だが、すぐに元の無表情に戻る。
 レイはそのままシンジの横の空席に座った。そこがミサトの指示した席だったのだ。
 そんな彼らに強烈な視線を浴びせる女生徒が一人。その視線は殺気と言っても過言ではない、とはシンジの後ろに座る生徒の言葉である。
「……はーい、そんじゃ授業始めるわよー!」
 二人のやり取りを興味深そうに見ていたミサトは、気を取り直したように声を張り上げた。



 どうして…彼女が?
 僕はさっきからずっとそれだけを考えていた。
 いつも月の出る夜にだけ僕の部屋に現れる彼女。
 それがどうして今、僕の横に座っているのだろう。
 それとも、彼女は僕の知っている『彼女』ではないのだろうか。
 …でも、彼女は僕の名を知っていた…
 じゃあ、彼女はやっぱり……?
 ちらり、と横に座る彼女を盗み見る。
 月光が結晶化したような精緻な美貌。硝子細工の職人が一生をかけて創り上げたような美貌。
 背筋をぴん、と伸ばして座る彼女。こちらを見ようともしない、『彼女』。
 ………
 本当に、彼女は誰なんだろう。


 さっきからあの女をちらちらと見てばっかり。
 バッカじゃないの!?あんな女がシンジのことを知っているはず無いじゃないの。
 でも…あの時、あの女はシンジの名を呼んだ。知っているはずの無い、シンジの名前を。
 それがあたしの心に棘となって突き刺さっている。
 でも、あたしはあんな女の事なんか知らない。あたしが知らないんだから、シンジが知っているはずが無い。
 シンジが知っている人間はあたしも知っている。あたしが知らない人間はシンジも知らない。
 そう、今まではずっとそうだったんだから。
 あたしはシンジと一緒にずうっと育ってきたんだから…。
 でも…どうしてあたしが知らないあの女をシンジは知っているの?
 どうして……どうして?



 キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン。
「んじゃー、今日はこれまでね」
 古風な音を鳴らす鐘が鳴ると、ミサトはそう言って授業を終えた。
「あ、綾波さん。放課後荷物受け取るための書類渡すから、後で職員室に来てねー」
「…はい」
 最後にそう言い置いて、ミサトは教室を出ていった。
 レイはその後に続くように教室を出ようとする。そこに声をかけたのはヒカリだった。
「あ、綾波さん。どこ行くの?」
 レイはその声に振り向く。その何を考えているか分からない、紅の瞳にヒカリは一瞬たじろぐ。しかし、それでも彼女は持ち前の面倒見のよさでレイに声をかけるのだった。
「学校の中なら案内するわよ」
 そんなヒカリの人懐っこい表情をじっと見つめ、レイは口を開いた。
「購買部って、どこ?」
「購買部?」
「教科書とか、色々揃えなくちゃいけないから」
 レイの言葉にヒカリがうなずく。
「ああ、そうか。でも、それ放課後にしたほうが良いわよ」
 なぜ?というレイの問いに、
「だって、去年転入してきた人がいたんだけどね。その人、こーんな大荷物抱える羽目になっちゃったのよ」
 こーんな、と具体的なサイズを手で表現する。
 レイはそれをじっと見つめ、
「…やめておいたほうがいいわね」
 と呟いた。
「ありがとう」
「え?どういたしまして」
 レイはそのまま教室に戻ろうとした。が、突然入り口で立ち止まる。
「ねえ、委員長さん?」
「洞木ヒカリ、ヒカリでいいわよ。なに?」
「あそこで私を睨んでいるのは誰?」
「睨む?」
 レイの視線の先を追ってみる。
「誰も睨んでなんか…」
 いた。普段の彼女よりもかなり目付きの悪い女生徒が。
「あ、あの子ね。惣流・アスカ・ラングレーって言うの」
「…ハーフなの?」
「ううん。クォーター(1/4)だって。お母さんが日系の二世なんだって」
 そう言って、今度はレイの顔を見る。
「綾波さんの隣の碇君。彼のお隣に住んでる幼なじみの子よ」
 そう言って、レイの反応をうかがう。が、レイは表情を動かす事もなく、
「そう」
 と、答えたきりだった。

 その頃シンジは。
「い〜か〜り〜!」
「白状せえ!」
 トウジ、ケンスケの尋問の真っ最中だった。
「白状しろって言われても…」
「何や!」
「べ、別に…何も…」
「関係あらへん訳無いやろ!なんで転校生がおどれの名前、知ってるんや!」
「し、知らないよ!!」
 ぎりぎりと首を絞めながら脅迫するトウジに、シンジが必死に抗弁する。
 実際は多少は思い当たるのだが、言ったところで信用されるとは思えないシンジである。
 その時、首を絞めていたトウジの腕がゆるんだ。と、思った瞬間、今度は両肩に手が置かれる。
「シンジ…わしの目ぇ見て、ホントの事言うてみい」
「だーかーらー、何も知らないってばぁ!!」
「信用できるか!!」
 ケンスケとトウジが見事にハモりながら怒鳴る。
「本当なんだって!!」
「……わかった」
「へ?」
 突如トウジとケンスケがシンジから離れた。
「わかって…くれたの?」
「惣流にもそう言うてみい」
 シンジはその言葉に急いで振り返った。
 そこには、わがままお姫様が微笑みながら立っていた。だが、シンジはその笑顔がアスカのキレる寸前の印である事を知っていた。
「……な、なに?アスカ」
 口の端を引きつらせながらシンジがアスカに用件を尋ねる。
「説明。してもらおうかしら」
「せ、説明?」
「あの女との関係よ」
「あの女って?……綾波さんの事?」
「ほかに誰がいるのよ」
 アスカの言葉はまるで絶対零度のごとき冷たさを持っていた。
「べ…別に、関係なんか……ない…よ」
「じゃあ、どうしてあんたの名前を知ってたのよ!!」
「し、知らないよ!そんなの!!」
 抑え込んでいた声が段々と大きくなるのを両者とも自覚していた。が、アスカはその激情のため、シンジはアスカにつられて大きくなっていく。
「へーぇ。幼なじみのあたしにも秘密の関係なの!ふーん、そーお!!」
 最後にアスカはそう言って、思いっきりシンジの足を踏みつけた。
「い……ってーーーーーーーーーーーー!!何するんだよ!!アスカ!!!」
「知らない!!」
 憤然と歩み去るアスカを、シンジは何が何やら分からないまま見送った。
「な、なんなんだよー!」
 シンジの声にアスカは振り返らなかった。


 本日最後の授業が終わる。シンジはちらりと後ろの席を覗き見た。
 アスカはあれ以来シンジの事を無視し続けていた。今も視線が合うと、露骨に顔を背けるのだ。
 教科担当の教師が教室を出ていく。
 入れ替わりにミサトが入ってきた。
「はーい。本日はこれと言って連絡事項はなし。掃除当番は担当区域を清掃後、放課になります。以上!」
 言う事を言うとミサトはとっとと職員室に戻っていく。
 ミサトの言葉通り、掃除当番は担当の場所に、それ以外の生徒は帰る者もいれば学校に残って誰かを待つ者や部活に行く者もいた。
「あ、綾波さん。職員室行くの?」
 教室を出ようとするレイを目ざとく見つけ、ヒカリが声をかける。
「ええ」
「じゃあ荷物持ち、必要かな」
「ありがとう。でもいいわ。何とかなると思うし」
「そう?」
「ええ。ありがとう」
 レイはそう言って歩き出す。ヒカリはその後ろ姿を見送った。
「なんやって?」
「ほら、荷物の受け取り」
「ふーん。でも綾波一人で大丈夫なのか?」
「大丈夫だって言ってたけど…そう言えば、アスカは?」
 ヒカリの問いにケンスケがドアを親指で指差す。
「速攻で帰ったよ」
「シンジもか?」
「いや?シンジは見なかったなぁ」
「碇君、今日は音楽室の掃除だもの」
「いっつもなら、何やかや言いながら待っとるのになぁ」
「やっぱ、アレだろうな」
「アレやろうな」
 トウジとケンスケが顔を見合わせてうなずき合う。
「アスカも強情やからなぁ」
「あれだけ露骨なくせに、シンジの奴はちっとも気が付かないしな」
「綾波さんとどういう関係かは知らないけど…アスカもこれで少しは素直になれば良いのに……」
 ヒカリも結構ひどい事を言っている。
 その時、電子チャイムが鳴った。
 『二年A組の碇シンジ君。二Aの碇シンジ君。職員室の葛城先生まで来てください』
「なんやろ」
「さぁ?」
「……ねえ、ところで鈴原?」
「何や?イインチョー」
「鈴原、今日掃除当番じゃ無かったっけ」
 今思い付いたようにヒカリが尋ねる。
「………………………」
 トウジはしばらく考えた末に、ツイっと顔を背けた。
「また、サボったのね?」
 にこっと笑うヒカリだが、トウジは直感的に恐怖した。


「失礼しまーす」
 シンジはそう言いながら職員室のドアを開く。
 職員室の隅にあるミサトの机を見ると、机に向かって何か書き物をしているミサトと、それを見守っているレイの姿があった。
「ミサト先生」
「あら、来たわね。シンジ君」
 そう言いながら椅子を回転させシンジのほうを向く。彼女はほとんどの生徒を名前で呼ぶ。それがまた姉貴のようであり、友達のようで彼女の人気の秘密になるのだが。
「あの、なんなんでしょう」
 横に立つレイを気にしながら、シンジはミサトに呼び出しの理由を尋ねた。
「んーと、ね。綾波さんの荷物なんだけど」
「はあ」
「それが…ちょっと予想外に大量にあるらしいのよ」
「……はあ」
「で、誰かに運ぶの手伝ってもらえないかなー?、って」
 にこにことを笑いながらミサトがそう言った。
「なんで僕に!!?」
「だって、席隣りでしょう?」
「まさか…それだけで?」
「その、ま・さ・か」
「……………わかりました」
 ウインクするミサトを見て、シンジは全ての抵抗を諦めた。

「で…これですか?」
 ミサトに先導されて、シンジとレイは学校の倉庫の中に立っていた。
 シンジは目の前に置かれた巨大なダンボール箱を指差し、後ろに立つミサトに尋ねる。すこしジト目だ。
「あ、あははははは。ちょっち大きいでしょ?」
 乾いた笑い声を上げるミサト。
「女の子には無理よねぇ」
 男にだって無理があるんじゃないか。そう考えるが何とか黙っていた。
「でね、さすがにこれ持っていくのは辛いだろうから、こんなの準備してみたの」
 そう言って倉庫の奥からミサトが引き出してきたのは、荷台が大きめの自転車だった。
「………」
「…これは?」
 レイは沈黙を守り、シンジは顔を引きつらせながらも何とか口をきく。
「倉庫の奥にあったのよ。誰かが忘れていったのかしらねぇ」
 忘れられてから何年経っているんだ。そう考えるほど『それ』は古びていた。
「んじゃ、後は頼んだわねー」
 ひらひらと手を振って立ち去っていくミサトを恨みがましげに見送り、シンジは気を取り直した。
「…じゃあ、行こうか?」
 だが、レイは首を横に振った。
「かばん」
「え?」
「鞄、私も碇君も教室に置きっぱなし」
「あ!」
 シンジもすっかり忘れていた。
「あー、じゃあ取って来なくちゃ」
 そう言って歩き出そうとするのをレイが押し止めた。
「私が取ってくるから。碇君は校門の所で待っていて」
「え?でも」
「大丈夫だから」
「…あ、ああ。わかったよ。ありがと」
「じゃ、校門で」
 レイがそう言って階段を昇っていく。シンジはその後ろ姿を見送った。それから荷台に荷物をくくりつけ、ゆっくりと校門へと自転車を押し歩き出した。


 心地よい涼風が吹いていた。その中で僕は何をするでなく、ただボーッと立っていた。
 もちろん、綾波さんを待っているんだけど…正直困っていた。
 綾波さん、綾波レイが本当に『彼女』なのか。僕にはそれが分からない。
 彼女が僕の名前を知っていた。それが『彼女』である理由になるだろうか。
 目の前を舞う木の葉を目で追い、そして視界の端に人影を見つけた。
「綾波…さん」
 そこには小走りで来たんだろうか。少し息を切らせた彼女が僕と彼女の鞄を持って立っていた。
「ごめんなさい。急いできたんだけど……」
「あ、いや。急がなくても大丈夫だったのに」
「でも荷物を運んでもらおうって言うのに」
「いいってば。それじゃあ、行こうか?」
 僕は荷台に二人分の鞄をくくりつけて自転車ごと歩き出した。
「碇君」
 その時、綾波さんが控えめに声をかけてきた。
「なに?」
「あの…私の家……こっちなんだけど…」
 僕の進もうとした方向とは正反対の道を指差して、すまなそうに言う。僕はつい習慣で家に帰るルートを歩こうとしていたのだ。
「あ、あははははは。ごめん。それじゃあ、行こうか」
 自分がかなり間抜けに見えた。


 シンジがレイと並んで歩いている。まあ、片や黙々と歩いている美少女。片や荷台に大荷物を積載した古ぼけた自転車を押している少年。
 結構お間抜けな絵であるのは確かだ。
「綾波さんの家って、どこにあるの?」
 キイキイ軋む車輪の音を気にしながら、シンジが長い沈黙を破って話しかけた。
「ごめんなさい。もうすぐだから」
 レイは謝りながら道の周りを見回している。
「そろそろ目印が…あった。あの角を曲がれば、すぐそこだから」
 レイの指差した角。あと一〇〇mもない。シンジはもう一踏ん張りとばかりに足に力をこめた。

「ここ?」
 目の前には巨大なマンションが建っていた。
「ええ」
 そう言うとレイは素早く中に入っていく。シンジは荷台にくくりつけらていた荷物を抱えて中に入っていった。
 ホールになっているエレベーター前にレイは立っていた。
 チン。
 エレベーターの扉が開く。この為にレイは一足早く中に入っていったようだ。
 五階で止まる。
 レイが先導し、シンジは荷物を抱えたままでついていく。
 一つの扉の前でレイは立ち止まった。
「ここが綾波さんの家?」
 そう尋ねるシンジに、こくん、とうなずくとレイは鍵をポケットから取り出した。
 ガチャっと音がしてドアが開く。
「あ、じゃあ僕はこれで…」
 荷物を玄関の中に置くとシンジは立ち去ろうとした。その背中に声がかけられる。
「待って」
 え?とシンジが振り向いた。
「お茶ぐらい、飲んでいって」
「え?でも…いいの?」
 逡巡するシンジの問いに、微笑を浮かべてレイはうなずいた。


 ワンルームのマンション。そこに彼女は住んでいた。綾波レイの部屋は必要最小限の家具しか置いていなかった。白を基調としたカラーリングの家具。パイプベッドと小さなタンスがあるだけの、殺風景とも言える部屋。
 だけどそこには、一つだけ異質な物があった。
 ヴァイオリン。
 きちんとケースに入れられて壁に立てかけてある。
「待ってて。今お茶を煎れるから」
 そう言ってキッチンに向かう綾波さんを横目に、僕はそのヴァイオリンのケースに近づいていった。
「綾波さんも…楽器を弾くの?」
「え?」
 ガスの火をつけていた彼女には僕の言葉が聞こえなかったようだ。
「綾波さんも楽器を弾くんだね」
 そう言ってケースを指差す。
「あ…それ?」
 沸いたお湯をポットに入れながら、必然的に彼女はこちらを向いてはいない。
「うん」
「それね…私十二歳まで習っていたから」
 少し照れくさそうに答える彼女。
「碇君も……弾くんでしょ?チェロを」
 その言葉に僕は衝撃を受けた。
 僕がチェロを弾くのは学校ではアスカしか知らない。他に知っている人は僕の両親やチェロ教室の人だけだ。それなのに、彼女は知っていた。知っているはずは無いのに。
「どうして…知っているの」
 僕はゆっくりと彼女に尋ねた。
「…私はあなたと逢っていたから。………わからない?」
 事も無げに答えた彼女。その瞳は…『彼女』の物だった。
 月夜の晩に現れ、僕の弾くチェロをじっと聴いている彼女の、優しく、そして謎めいた紅の瞳。
「綾波……さん」
 唾を飲み込んでしまう。多分緊張のせいだろう。
「そう、ずっと逢いたかった。毎夜夢に見たわ。あなたの事を」
 微笑みを浮かべながら彼女はそう言った。
「ずっと夢だと思っていたの。今朝まで」
 そこで彼女は一つ深呼吸する。
「あなたに学校で逢うまでは」
 じっと僕の目を見る、彼女の深紅の瞳。夢幻的なまでの雰囲気に僕はようやく声を出せた。
「…僕も…そう思っていた。君が幻だって知っていたけど……」
 ごくん、と唾を飲み込む。
「君に、ずっと逢いたかった」
 そして笑う。
「……ありがとう」
 彼女、綾波はそう呟いた。それから神妙な顔つきになって。
「じゃあ、改めて」
「これから、よろしく」
 僕はそう言って握手する。
「…………………っぷ」
 まじめな顔を維持できなくなる。お互いに顔を見合わせて吹き出してしまった。
 彼女の屈託の無い笑顔は綺麗だった。本当に。

 コチコチコチコチ。
 時計の秒針が時を刻む音だけが、レイの部屋に響いていた。
 二人は何を話すでもなく、ただお茶を手に、はた目にはボーッとしているように見える。
「綾波」
「え?」
 ふっと思いついたようにシンジがレイの名を呼んだ。
「なに?」
「ヴァイオリン…弾いてみてくれないかな」
「私…もう一年も弾いてないのよ」
「でも、聴いてみたいんだ」
 シンジの言葉にレイはため息をついた。それからケースを手に取り開く。
「じゃあ、ちょっとだけ。下手でも文句は無しよ」
 頬を微かに朱に染めながら、レイはヴァイオリンを顎に当てた。
 そして弓を引く。
 弦から引き出される音色が夕日に染まった部屋を満たす。
 シンジは目を閉じて部屋を満たした音色に身を任せていた。
 すこし開かれた口からハミングが漏れ始める。いつもレイがやっていた事を、今度はシンジが行っていた。
 二人の音色は調和し、柔らかい音色が部屋中に広がった。



「ただいまー」
 結局シンジが自宅に帰りついたのは、さらに一時間後だった。
 レイのヴァイオリンに惚れ込んだシンジが、レイに熱烈なアンコールを要求したためなのだが。
「あら、おかえりなさい」
 エプロンを身に着けたユイがキッチンから顔を出してシンジを迎える。
「あ、ただいま」
「遅かったわねぇ。どうかしたの?」
「あ、うん。先生の用事でちょっと遅くなっちゃったんだ」
「そうなの……あ、アスカちゃんが来てるわよ」
「え?」
「シンジの部屋に通しておいたからね」
「あ……うん」
 言葉を濁すシンジを見て、ユイはにっこりと笑った。
「なぁに?またアスカちゃんと喧嘩したの?」
「あ…喧嘩って訳じゃないんだけど…」
 喋りにくそうにシンジが語尾を小さくする。
「でもシンジは、アスカちゃんと会いにくいんでしょう?」
「う、うん…」
「じゃあ、今回の喧嘩はシンジが悪いの?」
「それが…わからないんだ」
「は?」
「今日、女の子の転校生が来て、その子が僕の名前知ってて」
 突然始まった話にユイは、戸惑いながらも聞いていた。
「うん」
「で、アスカが突然怒り出して、何がなんだか分からないんだ」
 シンジの憮然とした声を聞きながらユイは内心呆れていた。
(まさか、ここまで露骨に嫉妬されてるのに、それに気がつかないなんてねぇ…育て方、間違ったかしら)
「ねえ、シンジ。シンジはその転校生の子が好きなの?」
「えっ!?」
 ユイの言葉にシンジは顔を真っ赤にしてうろたえた。
「いや、その……わかんないよ」
「じゃあ、アスカちゃんは?嫌い?」
「嫌い……じゃ、無い…と思う」
 ここがユイの腕だった。好きか?と聞けばシンジはうろたえるだろう。下手をすれば本音とは反対の事を言うかも知れない。事実、転校生の事を聞いたときシンジは動揺した。
 だが、嫌いか?と聞けばシンジはちゃんと答えるだろう。
「だったら。アスカちゃんときちんと仲直りしてきなさい。このままじゃ嫌なんでしょ?」
「……うん」
「はい。んじゃ、行ってらっしゃい」
 息子の背中を押し出すとユイは優しく微笑んだ。
「ま、がんばんなさい」
 その笑顔は、息子の苦境を優しく見守る母の笑顔だった。

「…アスカ?」
 ドアの前で逡巡したシンジは深呼吸するとそう声をかけてドアを開けた。
「アスカ?」
「………シンジ?」
 シンジの机の上に乗っている写真立てをじっと見ていたアスカは、シンジの声に振り向いた。
「あ、ただ…いま」
「おかえり。遅かったのね」
 アスカの言葉にはいつものキレが無かった。だが、今のシンジにはそれに気づくだけの余力はなかった。
「あ、あの。ミサト先生の言い付けで、綾波の荷物を運ぶのを手伝ってたんだ。だから…その」
「………そう」
 アスカはシンジの言い訳を聞いていないかのように、ぼそりと答えた。
「……アスカ?」
 事ここに至って、シンジはアスカの様子が変だと言う事に気づいた。
「アスカ、熱でもあるの?」
 そう言ってアスカの額に手を当てる。
「…熱は…無いみたいだけど」
「熱なんか無いわよ」
 そう言ってシンジの手を払うアスカの手にも力は込められてはいなかった。
「その……あんたに謝ろうと…思って」
「あやまる?」
 きょとんとした表情でシンジが繰り返す。
「………うん」
 俯いたまま言葉を継ぐ。
「その…今日は…言い過ぎたと思って」
 途切れ途切れに言葉を続けるアスカを見て、シンジは微笑んだ。
「なんだ、そんな事か」
「そんな事って…?」
「僕は別に、気にしてないよ」
「…ホントに?」
「うん」
 少しずつ、アスカの表情に生気が戻ってくる。
「なぁーんだ。じゃあ謝って損しちゃったかな」
 そう笑うアスカにシンジが苦笑する。
「アスカ。ひどいよ、それは」
「嘘だって。ホントにごめん」
「うん」
「で?」
「え?」
 突如アスカが聞き返してきた。
「あの転校生の家に行ってきたって、そんなに遠かったの?」
「いや、そのあとお茶飲んでたから…」
 その瞬間、部屋の気温が下がったような気がしたのはシンジの気のせいだろうか。
「あの女の家にいたの?今まで?」
「う、うん」
「ほほーう。このあたしがあんたに謝ろうかどうか延々と悩んでいた時に、あんたはあの女の家でのんびりとお茶なんか飲んでいたわけね」
「いや、だから…」
「ヘンな事、してないでしょうね」
「ヘンな事ってなんだよ!?」
 アスカの言葉にシンジが真っ赤になって言い返す。
「ヘンな事は…ヘンな事よ!」
 アスカも真っ赤になって怒鳴り返す。
「何もしてないよ!!」
「じゃあ何してたのよ!!」
「その…ヴァイオリン弾いてもらってたんだ」
「ヴァイオリン?」
「うん!」
 シンジの表情が途端に輝いた。
「綾波、すっごく上手いんだ!」
「へ、へえ」
 楽器を弾けないアスカにとっては、この話題はついていきかねる。引き気味のアスカを前にシンジは、レイの演奏がどれほど上手だったかを延々と話し続けていた。
「ま、まあ、わかったわ。要するにあんたと話が合うような、変なタイプなのね。あの女は」
 シンジの言葉を遮ってアスカがそうまとめる。
「綾波、そんな変な子じゃないよ。美人だし、すぐにクラスにも馴染むよ」
 ピキッ。
 最後の最後で失言した事をシンジは気づいた。
 アスカが肩をふるふると震わせている。
「どうせ………」
「え?」
「どーせ、あたしは美人じゃないですよ!!!!」
 げしぃっ!!
 アスカの蹴りがシンジの腹部に命中した。その威力でシンジはベッドの上に倒れ込む。
「そ、そんな、アスカも美人だよ!!!!」
 必死になってそう叫ぶシンジ。その叫びにアスカの動きが停止した。
「それ、本気で言った?」
「え?」
「あたしが美人だって」
「う、うん」
 必死にシンジはうなずいている。何がなんだか分からないが、シンジにとって見ればアスカの機嫌が直るなら何でもいい、という事だろう。
「………そりゃ、確かにあたしは美人だけどぉ。ま、たしかにあの転校生も、あたし程じゃあ無いけど、それなりに美人よねー。ま、あたしには負けるけどぉ」
 くねくねと体が動いている。
(そ、そこまでは言ってないんだけどなー)
 だが、今ここでそれを口に出す事は、死刑執行にサインする事だとシンジは知っていた。
 彼は伊達に彼女の幼なじみをやってはいなかったのだ。
「ま、いいわ。んじゃ、また明日ね」
 来たときとは大違い。上機嫌で自宅に帰るアスカをシンジは呆然と見送った。
「な、なんだったんだ……」
 後にはベッドに倒れたままのシンジだけが残された。



 時計の針は二時を指していた。
 月は雲に隠れて見る事はできない。
 シンジはゆっくりと窓を開け放った。
「今夜は……来ないかな」
 そう呟いて弦に弓を当てる。
 弦が震え、胴が鳴る。
 ゆっくりとした音色が響き渡った。

 その頃、アスカはベッドで横になりながら、じっと考え事をしていた。
 いつもなら、もうとっくに眠りに就いている。が、今夜は考える事がたくさんあった。
「…可愛くないの…」
 ごろりと寝返りを打ち、彼女はそう呟いた。



 あたし……せっかくシンジが気にしてないよって言ってくれたのに……。
 馬鹿みたい。
 大体シンジが悪いのよ。せっかく謝ろうと思ったのに、あんな女のところでお茶なんか飲んで、とっとと帰ってこないから。


 その時、アスカの耳に微かな音色が届いた。


 これ…シンジのチェロの音?
 …すっごい久しぶりな気がするな。シンジのチェロ聴くのって。
 シンジだってチェロ上手いじゃない。あんな女、シンジの足元にも及ばないわよ。
 でも、シンジの奴。どうしてこんな夜中に弾いてるんだろう。
 もしかして、いつもこんな時間に弾いているのかしら。だから朝寝坊しそうになるのよ。
 今度、ちゃんと言ってやんないと………。



 それがアスカの最後の思考だった。シンジのチェロの音色は子守り歌のように優しくアスカを眠りの国へと誘う。アスカの瞳はゆっくりと閉じられた。

 月が雲から顔を出した。
 月光が部屋の中まで入ってくる。黒々とした影が部屋の中まで伸びてきた。
 風がカーテンを揺らす。
 シンジは弓を持つ手を休ませた。
 その時、窓際にうっすらと人影が映る。
 そこに『彼女』がいた。
「…いらっしゃい」
「……お邪魔します」
 にこりと微笑んで少女を迎えるシンジ。
 少女は微笑んで窓枠に腰をかける。
 そして、シンジは再び弦に弓を当てた。
 伸びやかに引き出される音色。少女のハミングが加わり、部屋には優しい響きが満たされる。
 銀色の月光の下で、二人の合奏は続いた。
 それは月が沈むまで続くのだった。


 翌朝。シンジがまた寝坊しかかったのは当然の事である。だが、その朝のアスカの起こし方はいたって優しい方法だった。


「朧月」Fin



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ver.-1.00 1997-09/03公開
ご意見・ご感想は tk-ken@pop17.odn.ne.jp まで!!

 めぞんの住人も70人。

 ページ開始当初は
 「部屋を作りすぎた・・・スカスカで格好悪い」
 と思っていたのですが、
 今では4棟がほぼ満室。

 ありがたくってありがたくって。
 

 キリのいい70人目のご入居者、Keiさんいっらしょいませ(^^)/

 第1作、『朧月』公開です!
 

 幻想的・夢現的。
 この入りから、学園へと舞台を変え、
 夢の中の少女と出会う・・・・

 物語に、
 舞台に、
 心に、
 それを表す文章に。

 ハマりましたね(^^)

 新規入居凍結を9/2まで粘って良かったと感じています(^^)
 

 でも・・・
 1つ気がかりが・・・・

 それは、「Fin」の文字。

 続いて欲しいな・・・
 

 さあ、訪問者の皆さん。
 貴方の感想をメールに乗せて、Keiさんの元へ届けましょう。
 

 708号室のKEIさんと似た名前でややこしいぞ(^^;
 「小文字の入ったKeiさん」と呼ぼうかな・・・


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