静かな夜に月を見上げる。 それは彼女にとって、既に習慣と化した行為であった。 藍色の空に浮かぶ、銀色の円盤。輝きは銀色の線となって地上へと降る。 銀光を受け、青白く照り返す地上を見下ろし、少女はただじっと膝を抱える。 ゆれる瞳。 深紅の瞳は、ただその中に月を浮かべ、白い肌は光を受けて薄らと輝く。 闇の中に浮かぶ、もう一つの宝石が深い藍色の空の下で輝いていた。 『皓月』
-朧月 6th Impression- From "EVANGELION" (C)GAINAX/TV TOKYO Presented by Kei Takahashi 今朝もまた、碇家では惣流家の長女の怒鳴り声が響き渡っていた。 「いーかげんにっ、起きなさ〜いっ!!」 怒っているのか、喜んでいるのか。心持ち喜びの方が多めに感じる声と共に、何か重いものが落ちるような鈍い音がする。 既に聞き慣れてしまった音を聞き流しながら、いつものように台所に立つ碇ユイ。そして同じように、いつもの習慣にそって新聞を広げたままの碇ゲンドウ。 碇家の朝の風景は、相も変わらずのようである。 「………今日も元気だな」 ぼそりと、ゲンドウが呟く。ユイはゲンドウに背を向けたまま、それでも楽しそうに答える。 「そうですね。やっぱり、この声を聞かないと朝って気がしないですね」 その答えには多少思う所もあるゲンドウであるが、何も言わない。ただ無言で眉をひそめながら、新聞をめくるだけである。 そしてようやくシンジが寝ぼけた顔で台所に顔を出す。 「おふぁよ…」 ここ最近、ずっと寝不足のような顔をしているシンジが、洗面所へと向かう。 その後ろから、惣流家の長女であるアスカが顔を出す。 「おはようございます。おば様、おじ様」 「おはよう」 「…おはよう」 シンジに向ける表情とはまるで違う、良家の子女ともいえる程の声。 二人はそれに対して、自分なりの答え方をする。 「毎日ありがとうね。アスカちゃん」 紅茶を注いだカップを手渡し、ユイが笑いかける。それを見て、アスカはにっこりと笑い返す。 「そんな事ないですよ〜」 アスカにとって、『家族』というもの。特に『母親』という物をイメージさせるならば、間違いなくそれはユイに直結するだろう。 自分の両親が嫌いな訳ではない。 むしろ、愛している。そして両親が不仲という訳でもない。むしろ、いい加減に落ち着いても良いだろうと思う程である。 ただお互いの仕事の忙しさが、アスカへ接する時間を減らしてしまった。そしてそれが、アスカが碇家で半ば育ったような環境を作り出してしまっていた。 だがアスカはそれを恨むつもりは無い。 そんな環境だったからこそ彼女は、誰よりもシンジの事を知る事が出来たのだから。 テーブルに座って、ユイおば様から貰ったお茶を飲んでいると、おば様はいつも楽しそうにシンクに向かっている。そしておじ様はいつも新聞を読んでいるような気がする。 こういうのが、普通の家族、って奴なんだろうなぁ。 ま、おじ様みたく、全然喋らないってのも、そうそう無いんだろうけれど…。 「……おはよう」 そんな事を考えていたら、洗面所から出てきたシンジが、まだ寝ぼけたような声を出しながら椅子に座った。そして目の前のパンをモソモソと食べはじめる。 なんて言うか、せっかくの朝ご飯も、そんな食べ方じゃあ可哀相に見えるじゃないの。 ここ最近、シンジはずっと寝不足みたい。 ウィーンから帰ってきてから、ずっと。 夜中まで、一体何してるんだか。そう思ったけど、その疑問はすぐに解けた。 夜半過ぎに窓の向こうから聞こえてきた、チェロの音。 優しい、シンジの音色。 それが聞こえてきた時、あたしはそのまま眠りに落ちちゃったけど、でも答えはわかった。 ただ、どうしてシンジがあんな夜中にチェロを弾いているのか。それはわからない。 音楽家として、何かあるのかも知れないし、それはあたしには分からない。 だから、聞かない。 「…時間は大丈夫なの?」 そんな事を考えていたら、急におば様の声がした。 「え? ……あーーーーーーっ!!」 時計の針。もうあんな時間になってるっ!? 「シンジ!! 早く行かないと遅刻しちゃうわよっ!!」 「…え!?」 コーヒーを啜り、ようやく目がさめたらしいシンジが、同じように時計へ目を走らせ、そして驚いたように声をあげる。 「もうこんな時間!?」 「ほら、早く行くわよ!!」 「ちょ、ちょっと待って!!」 どたどたと、あたし達はカバンを手にとって玄関を走り出る。 いつもは、ゆったりとしていて良い、と思うエレベータの遅さに苛つきながら、あたし達は走り出した。 綾波レイという少女がいる。 蒼銀の髪と、透き通るような白い肌。そして何よりも人に印象を焼き付ける、深紅の瞳の少女である。 そして彼女は今、通学路の途中で立ち止まったまま、じっと人の流れから外れていた。 今現在、彼女が着ているのと同じデザインの制服に身を包んだ学生や、背広姿の大人たち。そんな流れから一人、彼女は離れて立っていた。 けれども、周囲の人々の視線は彼女へと注がれる。 だが彼女は、そんな半ば無遠慮な視線に頓着する事なく、ただ瞑目したまま立っているのだ。 誰かを待っているかのように、時折閉じた目を開いて、周囲に視線を向ける事がある。だが相手がいなかったのか、少しだけ眉をひそめて、そしてまた人の流れから心を離す。 それを繰り返していた。 いい加減、人の流れが収まり始めた頃、レイはふわりと顔をあげると歩き出す。 数歩進んだ頃、彼女の背後からは大きな怒鳴り声が聞こえ始めていた。 「ほら!! 急がないと遅刻するじゃないのっ!!」 「も、もう駄目……走れ…ないよっ」 息せきった、けれど妙に元気の良い少女の声と、もう息も絶え絶えとばかりに弱々しい少年の声。 「だらしない事言ってないで! ほら、走る走る!!」 「だ、駄目だって………」 表情を変えず、ただ黙々と歩くレイ。 だがほんの心持ち、彼女の歩みが遅くなった。 そして。 「あ、綾波! おはよう」 そんな声が、背後からかかる。 そこで初めて足を止め、レイは振り向いた。 ゼエゼエと荒い息をつきながらも笑いかける少年と、その一歩後ろで不機嫌そうに自分を見ている少女が、そこにいた。 「…おはよう。碇君」 微かに唇の端を上げながら、そう応えるレイ。 そして再び歩き出す。 「綾波がここにいるなら、もう大丈夫だね」 「ここからなら、普通に歩いても間に合うから」 安堵したようにそう口にするシンジに、レイは呟くように答える。 そしてその一歩後ろから、アスカが無言でついて来る。 「……また寝坊……したの?」 ふと、思いついたように尋ねるレイ。 その視線に、少々落ち着きを失いながら、シンジは頭を掻いた。 「…う、うん……」 その答えに、レイが一瞬シンジから視線を外す。 伏せた睫毛に、シンジが慌てたように手を振った。 「あ、い、いや! 今日はちょっと、朝ゆっくりし過ぎただけなんだけどさ」 その声にレイがふっと視線を上げる。 「うん。ちょっと、ゆっくり朝ご飯食べてて……」 「そう…」 「……うん」 どんどん言葉が少なくなるシンジ。そして、それ以上に言葉少ないレイ。 知らぬ者が見れば、レイとシンジの仲が悪いのかとすら思える程のぎこちなさであろう。 だがその後ろをついて歩くアスカは知っている。 レイが、未だもってクラスの中でまっとうに会話するのは、シンジだけである事を。 そしてシンジと話しているレイは、クラスにいる時の彼女とはまるで違っている事を。 微かに口元を彩るのは、多分、微笑み。 そんな彼女を、アスカはただじっと見つめるだけであった。 「おっはよーさん!」 教室のドアをがらりと開け、開口一番、大声を張り上げるたのは鈴原トウジである。 「おはよう。トウジ」 相も変わらず、いつものようにカメラを片手に挨拶を返す相田ケンスケ。 そして。 「すーずーはーらーっ!!」 むんずとトウジの耳たぶを掴んだ少女。 「い、い、い、いいんちょー!?」 黒髪をおさげにし、頬には消えかかったソバカスの少女が、憤然とした表情でトウジの耳を引っ張っているのだ。 「な、なんやねん。イインチョー」 怯えたような口調で、少女に尋ねかけるトウジ。だが少女は憤然としたままの表情で、ただ黒板を指さした。 日直:鈴原トウジ 洞木ヒカリ 緑地に白のチョークで書かれた文字を読み、そしてトウジは悟った。 なぜ、眼前の少女がここまで憤然とした表情をしているのかを。 「す、すまんっ!! わ、忘れてたんやー」 両手をあわせて、拝むようにして謝るトウジ。 それを見て、ため息をつく少女。ヒカリ。 「鈴原、いっつも忘れるけど……あたしと日直やるのが、嫌なの…?」 ぼそりとそう呟くヒカリ。多分、答えを聞きたい問いかけでは無かったろう。トウジに聞こえるか、聞こえないかという程小さな声だったから。 そして普段ならば、驚くほどの天然の彼が、その時に限ってそれを聞き逃さなかった。 「い、いや、そないな事ないて。ワシ、委員長の事嫌うてなんか、おれへん」 「へっ!?」 まさか聞かれているとも思わなかったヒカリは、トウジのその答えにボッと首筋まで真っ赤になる。 「だ、だから…」 その反応を、まだ彼女が怒っているのだと勘違いしたトウジは、なおも言葉を続けようとする。だがヒカリは、別に怒っているわけでは無いのだ。 ただ、それが別に『友達としての好き嫌い』だとしても、トウジが言った言葉は彼女には結構なショックだったのである。 「青春だねぇ」 ぼそり、と背後から聞こえてきた声に、ヒカリは慌てて振り向いた。 そこにはカメラのレンズをこちらに向けたままの、ケンスケの姿があった。 「あ、相田くん!?」 「あー、こっちには構わずに。続けて続けて」 ぷらぷらと手を振って、そう促すケンスケ。だが、そう言われて「はい、そうですか」などと言える筈も無い。 「ちょっと、なに撮っているのよっ!!」 「いや、二人の愛の記録を」 しれっと言い返され、真っ赤になったままヒカリは言葉に詰まってしまう。 「おはよー。…あら、どうしたのよ、ヒカリ」 「あ、アスカっ。お、おはよっ」 不意に背後からかけられた声に、慌てて振り返るヒカリ。そこにいたのは、級友であり、親しい友達でもある惣流・アスカ・ラングレーだった。 うろたえた声で返事をする彼女を不審げに見つめ、そしてアスカはさらにその後ろにいたケンスケに視線を向ける。 「よ、おはよーさん、惣流。シンジに、綾波さんも」 何事も無かったかのように、挨拶をしてくるケンスケ。ヒカリもまた、それ以上なにも言おうとしない。 「どしたの。ケンスケ」 「ん? ああ、何でも無い。な、委員長」 「え? え、ええ。そう。何でも無いの。あはは…」 「そ、そう…?」 シンジの問いに、調子を合わせて答える二人。それを見て、シンジもまた不審そうな表情を浮かべた。 そしてレイはと言えば。 自分の席に座り、鞄を横のフックにかけて、後は頬杖をついて外を眺める。 いつも通りの、姿だった。 いつものように、シンジもレイの隣にある、自分の席へと座る。 そして担任である葛城ミサトが勢いよく教室へと入ってきて、いつものようにハイテンションな出欠をとる。 「じゃ、みんな忘れていないだろうけれど、来月には卒業式と、プロムがあるかんね! まだパートナーを誘っていない男子は、さっさと誘っておくように!!」 そう言ってにんまりと笑うミサト。 プロム。アメリカの高校などでは習慣化している、卒業式の後のパーティーである。 男性の生徒は、パートナーの女性を誘い、会場までエスコートしてくるのだ。勿論、盛装でである。 第三新東京市は、学術都市の一面を持っている。世界各国の人間が流入して在住しているため、そういった風習も根付いているのだった。 ただ、これは普通、ハイスクール。即ち、高校の風習の筈なのだが、お祭り好きのミサトの提言でこの中学でも取り入れられているのだった。 「そーは言っても…誰を誘えと」 ぼそりと呟くのは相田ケンスケであった。 うんうんと頷いているのは、その後ろに座る鈴原トウジである。 だが、彼は気づいていなかった。 ケンスケが一瞬、殺意すら秘めた視線で彼をにらんだ事を。 (委員長も大変だよな…。こいつ、多分、自分からじゃ誰も誘わないんじゃないかぁ?) 心の中で嘆息するケンスケ。 彼は、おそらくこの教室の男子の中で、一番そういう事に気の回る男子なのだろう。 問題は、それに気づく女子が一人もいない、という事実なのだが。 そして彼は視線を、もう一人の親友に移す。 その少年は、なぜか既に机に突っ伏していた。 (…お前はお前で大変だよな…。でも、同情はしないぞ) 彼の隣に座る綾波レイは、ずっと視線を外に向けたまま。 彼の斜め後ろに座る惣流・アスカ・ラングレーは、シンジをじっと睨み付けたまま。 (…同情はしない。けど……哀れんではやろう) 心の中で、そう訂正するとケンスケは再び教壇の上のミサトへと視線を戻すのだった。 チェロの音色が響く。 それに重なるように、バイオリンの音色も。 防音、吸音処理がされた部屋の中で、弦楽器を弾く少年と少女の姿があった。 二人の音色は、完璧な調和を成していた。 そして、ゆっくりと音が収束する。 「…休憩しようか」 少年がそう提案し、少女も頷いて見せる。 シンジとレイ。二人は、いつものようにシンジの師匠の店で練習を続けていたのだった。 「碇君。プロムって…なに?」 店の主人である老人から受け取った紅茶のカップを手にしながら、レイがふと思いついたように尋ねる。 「へ? あ、ああ……なんて言えばいいのかな」 カップを手に、ソファへと座るシンジ。そして、視線を宙にさまよわせながら、考えをまとめる。 「ま、一言で言えばダンスパーティーかな」 「ダンスパーティー?」 「そう。本当は、アメリカの高校の卒業式にやる物らしいんだけどね。ミサト先生が面白がって取り入れて、そのまま根付いちゃったんだ」 とは言え、タバコ、アルコール類は厳禁である。未成年。しかも中学生では当然の処置であるのだが。 「…ふぅん」 頷きながら、レイが視線をシンジに合わせる。 「碇君は……もう誰か、誘ったの?」 「え? あ、まだ……」 「去年は?」 レイにしては珍しい程、問いが重なる。 「去年? あー、去年ね……」 一瞬、シンジが顔をしかめたのを、レイは見逃してはいなかった。 小首を傾げて、シンジの言葉の続きを待つ。 「アスカに連れられていったよ……」 心底、疲れたような声を上げるシンジ。 アスカにしてみれば、欧米式のプロム。しかも普段、まったく縁のないドレスが着られるとあっては、盛り上がらないはずが無い。 参加するつもりの無かった幼なじみの少年を無理矢理連れ出し、アスカはその日、卒業生達よりも目立つ存在になっていたのだった。 「……あんまり、良い思い出じゃ無いね」 そう締めくくると、カップに口をつけるシンジ。 レイはそんな彼を見つめながら、何か思案するようにカップへと口を付けるのだった。 ふと少年は、開け放ったままの窓の外へと視線を移した。 カーテンの裾が風に揺られ、白い月の光が色濃く陰影を生み出している。 2月の夜風は、冷え切っていた。 「……寒」 窓の外へと上半身を乗り出し、空を見上げる。 濃紺の夜空。 藍色に輝く雲が流れ、星が瞬いている。 そして、昼とはまた違う光を照らし出す、月。 「………どうしたんだろう」 どこか不安そうに、少年は呟く。 窓枠に肘をつき、腕に顔を埋めるようにして外を眺める。 この高層建築のマンションは、周囲にそれ以上高い建築物が無いために、見晴らしが良いのが売りの一つであった。 そしてこの時間。もはや街の明かりも、街灯の明かりばかりで、家の窓の明かりは既に灯ってはいない。 ぽつぽつと見える光を見下ろしながら、少年はため息をつく。 「……どうしよう」 そして不意に吹く一陣の風。 部屋の壁に映し出された少年の影の隣に、少女の華奢な影が現れる。 「…どうしたの?」 柔らかく、そして小さく。 そんな少女の声が問いかける。 「…来月のね。プロムの事なんだけどさ」 室内に、自分以外の誰かが不意に現れた事にも驚きを見せず、少年は問いに答える。 「………誰を、誘うの?」 声にはかすかな揺らぎ。 けれど、少年は気づかない。 「…そもそも、参加するつもりも、あんまり無いんだけどね」 苦々しい物を口元に浮かべながら、そう呟く。 「…どうして?」 「僕が盛装して踊っている姿って、似合っていると思う?」 柔らかく、そう訊き返す。 「盛装は、前にやったわ」 問いには答えず、そう呟く。 「馬子にも衣装って格言があるじゃない」 少年も、ぼやくように呟く。 「どうしようかなぁ……」 「……どうしたいの?」 回り回って、結局は同じ問いに戻る。 「困ってるんだ」 答えにもならない答えを返し、少年は苦笑いを浮かべる。そして隣に立っている少女へと視線を向けた。 銀光に照らされ、彼女の白い肌は淡く輝いているようにも見える。その蒼銀色の髪もまた、同じように。 そしてその双眸に宿る深紅の瞳が、少女の非現実性を高めていた。 「どうしたら、良いと思う?」 そう訊ねる少年。 少女は俯くと、口を開く。 「私の希望しか……答えられないから」 それが答えない理由。 だが少年には、それが分からない。 「よく分かんないよ…」 そう呟くと、彼はチェロを手にした。そして、弓を構える。 一拍の呼吸をおいて、柔らかい音色が引き出された。 そして少女はその傍らに立つ。 細い、白魚のような繊手が少年の肩に添えられ、柔らかいソプラノが音色に重なった。 そして、夜は続く。 歌と、音色とともに。 結果。 碇シンジは翌朝も寝坊をした。 そして、例によって幼なじみの少女に暖かいベッドから蹴り落とされ、三分で着替えと洗顔歯磨きを強要され、現在通学路を疾走中なのである。 「なんでっ! 寝坊すると分かっててっ! さっさと寝ないのよっ!!!」 アスカの怒声を聞き流しながら、シンジは無言で疾走していた。と、言うよりも、彼には既に口答えするだけの体力が残っていないだけなのだが。 「シンジっ!!」 「…あ、アスカ……よく、しゃべれるね……」 どうにか、それだけを返す。 その切れ切れの答えに、アスカもようやくシンジが答えない理由を理解した様子で、無言になって走り続ける。 そしてそんな彼らの視界の先には、いつものようにゆったりと歩いている銀髪の少女の後ろ姿が見えた。 「あ、綾波……」 心の中でそう呟くと、シンジの足が少しばかり緩む。 彼女があそこにいるという事は、もうデッドラインを越えた、という事なのだろう。 「おはよう、綾波」 そう呼びかけながら、歩調を落とす。 「……おはよう。碇君」 振り向きながら、そう答えるレイ。 その視線は一瞬アスカの上を通過し、そして再びシンジへと戻る。 「今日も…寝坊?」 「……う」 その問いかけとレイの視線に、思わず答えに詰まるシンジ。 珍しく、レイの視線には悪戯な光が宿っていたから。 「……う、うん……」 他に答えようもなく、頷くだけのシンジである。 いつものように会話する二人。そしてその後ろを付いてくるアスカ。 変わらない風景だった。 そのはずだった。 だが。 「…あら、やっぱり。シンジ君じゃないの」 不意にかけられた声に、シンジは立ち止まる。 かけられた声は、横に停車していた車の中からだった。 半端に開いていた窓が全開にされ、中から一人の女性が顔を出す。 その女性は、長く艶やかな黒髪を背中まで伸ばし、切れ長の瞳の美女だった。 形のよいくちびるを、微笑みの形して、こちらを見ている。 そんな彼女を見て、アスカの表情がピクリと動く。 だがシンジはそんなアスカの変化に気づかず、ただ驚いた声をあげた。 「…シヲリさん!?」 「おはよう。朝から両手に花ね」 にっこりと、しかもさりげなく爆弾を落としてくれたのは、遠山シヲリ。以前、スタンウィッツ・コンクールでシンジと決勝を争った四人の内の一人だった。 「な、なに言ってるんですかっ!?」 思わず声を張り上げてしまうシンジであるが、シヲリはそんな彼の反応を楽しそうに見ているだけである。 「あら、私は客観的事実を口にしているだけよ」 にこりと微笑まれ、シンジは顔を真っ赤にしてそれ以上何も言えなくなってしまう。 その言葉の真意がどこにあるのかは不明だが、彼女のその弄うような言葉はコンクールで散々からかわれた経験からも、知っている事なのだ。 「…誰? シンジ」 後ろで静観していたアスカが、耐えかねたように口を挟んでくる。 アスカにしてみれば、一面識もない女性が不意に現れたも同然なのだから、当然である。 レイは、無言でシヲリを見つめるだけだった。 「あ、ああ。…ええと、前のコンクールで一緒だった、遠山シヲリさん。あ、こっちは僕の幼なじみで惣流・アスカ・ラングレー。で、こちらがクラスメートの綾波レイさん」 「はじめまして」 にっこりと、艶然と微笑まれてアスカもレイもただ会釈を返すだけである。 彼女には人の毒気を抜く気質があるのだろうか。 「どうして、こんな所に」 だがシンジはそんな事には気づかず、ただ疑問を口にする。 「ちょっとね。この先の第一中学に用事があって…」 「うちの学校に?」 「…ああ、そうか。シンジ君の学校って第一だったわね。そういえば」 ようやく思い出したように、口元に指先を当ててそう訊ねるシヲリ。 「え、ええ」 「そう。そろそろ遅刻しそうなんじゃないの?」 「え、ええ。まあ……」 「寝坊?」 「………ええ」 にこやかな声だが、追求の手は甘くないようである。シヲリの言葉に、どんどん言葉少なくなるシンジ。 そしてシヲリは最後にこう加えた。 「良かったら、乗っていく? どうせ行き先は一緒なんだし」 「…良いんですか?」 その声に、シンジはようやく安堵の笑みを浮かべるのだった。 さらに結果。 三人は遅刻の憂き目からは救われた。 ただし、衆人環視の中、シヲリという遠目からも目立つ美女と、アスカとレイという美少女に囲まれて登校という形になってしまったシンジは、非常に居心地の悪い朝となってしまってもいたのだった。 おまけにシヲリが去り際にシンジの頬にキスをする、というおまけまで置いていったのである。硬直したままのシンジと、無言で拳を握りしめる幼なじみと、無言で見つめる深紅の瞳を残して、シヲリはそのまま校長室へと歩み去っていったのである。 そして。 「…シーンジーィーッ」 「誰やあんの美人わっ!!」 案の定、ケンスケとトウジに羽交い締めにされている彼であるが、正直な所、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか、彼にはとても不思議であった。 別にシヲリとは顔見知りというだけであり、それ以上の関係という訳では無いのだ。 さすがに最後のキスには驚いたが、彼女がそういう茶目っ気のある人間でもある事は知っている。事実、コンクールの時にはひどくからかわれた覚えもあるのだ。 アスカは気が付いたら、常にそばにいたという幼なじみ典型の関係である訳なのだからして、そもそもなぜ自分とアスカがそういう関係であるなどと、皆が思っているのかが分からない。。 …では、レイはどうなのだろう。 あの、深紅の瞳の少女は。 あの月の輝きを結晶させたような、あの美しい少女は。 ふと、そこで考えが止まる。 抵抗を唐突に止めたシンジに、むしろケンスケとトウジの方が戸惑ってしまった。 「お、おい? シンジ?」 「どないしたんや。センセ」 「…へ?」 そんな二人の声に思考を中断され、シンジは顔を上げた。 「どないしたんや。急に真剣な顔したりして」 「…あ、ああ。いや、なんでもないよ」 取り繕うような笑み。 だがトウジもケンスケも、とりあえずは保留にする事にしたようである。 「さー、吐けっ!」 ギリギリギリ。 「だ、だーかーらーっ、別に何でもないんだってばぁああああああああ」 トウジのヘッドロックに、シンジはそう叫ぶのだった。 そしてこちらでも、同じように一悶着があるのだった。 「ちょっと。あんた」 トウジとケンスケに詰問されるシンジの声を聞いているのか、聞いていないのか。レイがいつものように外を眺めていると、不意にそう呼びかける声がかかる。 彼女にしては珍しい程に、素早く視線が声の主へと向かう。 そこには金髪の少女が仁王立ちのようにして、立っているのが見えた。 「……」 無言のまま、視線を少女へと向ける。 惣流・アスカ・ラングレー。 碇シンジの幼なじみであり、学校一の才媛でもある美少女。だが、今の彼女はどう見ても夜叉か何かの類であった。 なまじ綺麗であるが故に、その表情は凄みを増しているのだろうか。 自分を見つめ返す少女、綾波レイをこの時アスカはじっと観察もしていた。 白人種とのクォーターである自分よりも、白く透き通った肌。そして銀色の髪。 深紅の瞳は鮮血のような輝きを宿している。 「…あの女が誰か、知ってるの?」 いつまでも無言のままのレイに痺れを切らせたのか、アスカが問いを重ねる。 そしてその問いに、レイは無言のまま頷いて見せた。 そして、付け加える。 「…あの人は、チェロ奏者よ。…………あなたも、見たことあるでしょう?」 普段聞き慣れぬ、レイの声。囁くような小さな声が、耳に届く。 その声に一瞬驚きながら、同時にレイの指摘に合わせて考えを走らせた。 あのコンクールの日。シンジの直前に演奏をした女性。 ユイがべた褒めした女性チェリスト。 遠山シヲリ。 長い黒髪をなびかせて、黒のドレスのスカートを翻して、華のような笑みを浮かべてステージに立っていた女性。 「……あの人…?」 「チェロの世界では、有名な人よ」 あくまでも学生としては、であるが。だが将来をもっとも嘱望されている事は確かだろう。そう付け加えると、それ以上の興味を失ったようにレイはアスカから視線を窓の外へと移した。 もはやアスカも、それ以上レイに訊ねる事など無いのだろう。ふらふらと己の席へと戻っていく。 そしてレイは。 窓の外を眺めるようで、ガラスに映っているシンジの姿を横目に見ていた。 「だからっ、なんでも無いんだってぇ」 鈴原トウジと相田ケンスケの尋問に対して、そう答えているシンジ。 あの女性。 まるで、どこかで会ったことがあるような、あの自然な雰囲気。 自分に対して、物怖じしない、そして興味本位の視線を向けてこない人間。 自然に接するあの態度。 「………だれ?」 ふと、呟く。 冬の風が、葉が落ちた枝を揺らす。 陽射しはまだ寒々しい季節だった。 卒業式が近づくと、どうしても学校の中はざわざわとした、どこか落ち着かない雰囲気に支配される。 部活も引退し、受験という苦難もクリアした三年生は、残り少ない『中学生』という時間を名残惜しそうに過ごしている。 高校という新しい環境への憧れと、若干の恐怖。 そして去らねばならない中学という環境への惜別。 まるで終わらない祭りの中にいようとするかのように、放課後になってもいつまでも帰ろうとせずに、級友と他愛もないお喋りを続けるように。 そして永遠の別れという訳でも無いだろうに、告白のラッシュが起こるのも、卒業シーズンならではだろう。 今日もまた、廊下の端で、昇降口の影で、校舎の裏で、下級生からの告白を受ける三年生がいるのだろう。 「……ま、ある種のお祭りよね。これって」 そんな事とは無縁のアスカにとっては、それはそう表現する以外には無かった。 頬を赤らめて駆け寄る少女の姿を遠目に、アスカは頬杖をつく。 「…アスカ」 「ね、ヒカリも出るんでしょ?」 「え?」 「卒業式のプロム」 当然のように問われ、ヒカリは言葉に詰まる。 確かに出たい。ドレスを着て、音楽に合わせて踊り、皆と終わらない夜を楽しみたい。 けれども。 「……分かんない……」 パートナーがいない。 いや、誘ってほしい人はいる。 けれど、彼が自分を誘ってくれるだろうか。そもそも、そんな事を考えているのだろうか。誰かを誘って、プロムに出ようなどと。 「……鈴原だもんねぇ……」 アスカも、まずい事を聞いた、とばかりに苦虫を噛み潰したような顔になる。 それを見てヒカリは逆に訊ね返してみた。 「アスカは? 今年も出るの?」 「もちろんじゃない」 「パートナーは……やっぱり、碇君?」 「………うん」 去年は、無理矢理に一緒に出た。 なぜか彼も持っていた一張羅を着せて、一緒に会場に入ったのだ。 だが、彼はあまり楽しそうでは無かった。 人の集まる場所が苦手だと、そう知っていた。けれど、一緒に踊りたかった。 ドレス姿の自分を見せて、綺麗だね、と言ってほしかった。 「…………やっぱり、シンジにそういうのを期待するのは、間違いなのかなぁ」 ため息混じりの声。 去年のシンジは結局、アスカの怒りの視線に負けるように、その言葉を口にしたのだ。 「……でもアスカはまだ良いよ…」 ヒカリが苦笑いを浮かべたまま、そう口にする。 「…そっかなぁ」 アスカの言葉に、ヒカリの笑顔が答える。 「そうだよ」 それでも、一緒に踊れたんだから。 口にしない、けれど、心からこぼれ落ちる声。 ヒカリの視線はそのまま、窓の外へと向かっていた。 冷たい風が吹き付ける。 眼下に見下ろした街並みは、夕日に照らされて赤く染まり炎に包まれているかのようにも見える。 葉の落ちた木々は寒々しく枝を張り、空は紫色に染まった雲に覆われている。 そこに彼女は、いた。 街並みを眺める事ができる展望台には他に人影は無く、じっと何かを考えるように立ちつくしている少女だけが、そこにいた。 銀色の髪を風に遊ばせながら、その深紅の瞳は静かに見つめている。 「……遅い」 ぼそり、と形の良い唇から、呟きが漏れる。 と、その声に合わせたかのように、背後から抗議の声が湧く。 「ひどいな。そもそも、何も言わずに僕を呼び出そうなんて、君のほうが間違っているとは思わないのかい?」 それまで、そこには誰もいなかったはずだった。少女の他には。 だが今、少女の背後には少年の姿があった。ベンチに足を組んで腰掛け、にこにこと笑っている。 少女と同じような銀色の髪に深紅の瞳。異なるのは、少年の口元に浮かんだ皮肉げな微笑みだけだろう。 「僕にだって、用事があったりするんだけどね。もし都合が悪かったら、どうするつもりだったんだい?」 「……昼のあなたなら、そんな事関係ないでしょう……?」 少年の訴えに、そう答える少女。 そして振り返る。 「…『夜の私』と同じように、『昼のあなた』には時間も場所も意味を持たない……。違う?」 「………そりゃ言い過ぎだよ」 皮肉な、だが柔らかい笑みを浮かべて、少年は肩をすくめて見せる。 少女はそれを、無言で見つめる。 「…で? 一体、何の用だったんだい?」 先ほどまでの雰囲気を断ち切り、そう訊ねる。 少女は無言で視線を戻し、街並みを見下ろす。 「……よく、飽きないものだね」 「…不思議な人がいるわ」 「……へえ」 「……あなたの管轄じゃないの?」 「どうして、そう思うんだい?」 小首を傾げ、そう訊ねる少年。少女はそれに答えずに、言葉を続けた。 「その人が、女性だったからよ」 「…君ね」 今度こそ心の底からの苦笑を口元に貼り付かせ、少年は口をゆがませた。 「で? 本当の理由は?」 「………分からない………」 首を振り、そして振り向く。 「分からない。けれど、気になるのよ」 その深紅の瞳が、同じ深紅の瞳を見る。 「……だとしても、僕には関係の無い事だとは思わないのかい?」 その問いには答えず、少女は視線を移す。 陽は落ちようとしている。 それを見て、少年は呟く。 「時間だ。僕は戻るよ」 その声に、少女は呟く。 「…………不便な物ね」 「君と同じさ」 そう答え、少年の姿は消えた。 まるで春の陽射しに溶けていく淡雪のように。 つい先ほどまで座っていたベンチの上には、雪が積もったままで、人がいたようには見えないままに。 そして少女の姿も消える。 まるで、風にさらわれるように。 残ったのは、誰もいない展望台の寒々しい景色だけだった。 「問題はヒカリと鈴原よ」 アスカがそう告げたのは、プロムまであと二週間とまで時間が迫ったある放課後だった。彼女の前には碇シンジ、相田ケンスケの二人がいる。 「…あの。何が問題なの?」 恐る恐るといった呈で、シンジが訊ねる。 その声にアスカが呆れたような声を上げる。 「再来週のプロムの事に決まってんじゃないの」 「……は?」 「…つまりだな。トウジは放っておくと、間違いなく誰も誘わない。そもそもプロムには参加しないだろう」 「うん。そうだろうね」 普段から『ダンスなんて、男のワシができるかい』などと口にしている彼だ。そもそも、参加すらするつもりも無いだろう。 だが。 「なんで、問題なの?」 まったく分かっていないシンジに、アスカの眉間のしわが深まる。 ケンスケはケンスケで、呆れ返ったように宙を仰いでみせる。 「なんだよ。分かんないよ」 「つまりだなっ! トウジと委員長の事だよ!!」 「委員長? どうして?」 「……お前、本っ当に、分かっていないのか!?」 ケンスケの声に、シンジがキョトンとした顔で頷いてみせる。 その様に、アスカとケンスケは一緒になってため息をついた。 「…何だよぉ」 ブツブツと不平を口にするシンジである。だが正面切ってアスカに文句を言わないのは、彼の身に染みついた防衛本能のなせる業なのだろう。 「つまり、ヒカリと、あたしには今ひとつその趣味が信じられないけれど、バカ鈴原をパートナーにしてプロムに出させたい訳よ!」 アスカがそう言うと、ようやくシンジも合点がいったらしい。 「…もしかして、委員長って……」 うんうん、と頷いて見せるケンスケとアスカに、シンジは驚嘆してしまう。 「そ、そうなの!?」 「見て分かんないのか?」 「分からないよっ!!?」 「…このバカシンジは…」 だがともかく理解はしたらしい。そう納得してアスカは話を進める事にした。 「で、よ。今回のプロムには何はともあれ、鈴原の方から誘わせるようにしたいの」 「…何で?」 「あんたバカァ!? ヒカリの方から誘えると思ってんの!?」 「…別に駄目じゃないだろ?」 「……ヒカリの性格を考えてもみなさいよ。あの子、男の子から誘われるっていうシチュエーションに憧れてんのよ!?」 「…ああ、そういう事」 納得いったように手を打つシンジ。 「でも…トウジから誘わせるなんて、無理だよ」 「そこを何とかするのよっ!!」 「だって、そんな事言ったって…トウジなんだよっ!?」 端から聞けばひどい言いぐさである。 ましてや彼が言う台詞でも無いだろう。五十歩百歩の鈍さの持ち主の彼の台詞では。 「…お前が言うなっての」 ぼそりと、ケンスケが思わず呟く。 だがそれはシンジには聞こえなかったらしい。 アスカも聞かなかった事にしたらしく、そのまま話を進める。 「だからよ。だからこそ、何か手を打たなきゃ駄目なのよ」 「そんな事言ったって……」 確かにトウジから誘わせるなんて、正攻法からせめても難しいだろう。 かといって、だまして言わせた所で、ヒカリが喜ぶ筈も無い。 「…アスカには、何か策でもあるの?」 「あるわよ」 ふふん、と鼻を鳴らして得意そうに言い切るアスカ。 「どんな?」 「騙して言わせるのよ」 ずるり、と肘を滑らせるシンジ。 「そ、それは委員長がかわいそうなんじゃないかなぁ」 「既成事実を作らせるのが、何よりも重要よ。特に鈴原みたいな鈍感にはね」 冷静に考えれば、かなり怖い事を口にしているアスカである。 「そ、そんな事したって、委員長は喜ばないよ」 「トウジも大人しく従わないだろうな」 シンジとケンスケの反論に、アスカがムスッとした顔で口を尖らせる。 「じゃあ、何か案があるの?」 「……僕には……無いけど……」 「あるぜ」 あっさりと、ケンスケが口にした。 「…へ?」 「あるって言ったんだよ」 にやり、と笑うケンスケ。 眼鏡のレンズが太陽光を反射して、キラリと輝く。 「……どんな案よ」 アスカが促し、ケンスケは自分のプランの説明を始めるのだった。 「委員長の弁当をダシにする」 「まるっきりの正攻法じゃないの」 「トウジみたいなのには、遠回しよりもこういう直線的な方法が効果的さ」 にやっと笑うケンスケ。 「まあ、俺に任せといてくれよ」 ふふ、ふふ、ふふふ、と怪しい笑いをするケンスケに、思わずアスカもシンジも引いてしまうのだった。 彼、相田ケンスケがどのような手段を用いたのかは、ここでは記さないでおこう。 分かっている事は、彼が自分の持っていた情報ソースのすべてを利用し、鈴原トウジから委員長、洞木ヒカリをプロムに誘うという確約を得てきた事だけである。 鈴原トウジ(当時十四歳)は後に述懐する。 「ケンスケだけは、敵に回したらあかん」 その言葉には、本心からの恐れが感じられたという。 そしてプロム前日。 つまりそれは卒業式前日でもある。 「……なんで、こないな日にまで授業があるんやろうな」 「一、二年には関係ないからでしょ」 冷たく言い切り、アスカが机の上のプリントを片づけていく。 彼らの正面にある黒板には、白いチョークで大きく『自習』と書かれていた。 「こないな事やったら、体育かなんかにしてくれればええのに」 「体育館は卒業式の準備で埋まっているよ。さらには、卒業式が終われば今度はプロムの会場造りが待っているんだから」 「……プロム……かい」 今度こそ、疲れ切ったような弱り切ったような顔で沈没するトウジ。 先週、ケンスケの術中にはまって、思わず言い切ってしまった言葉。 「ワシも男じゃ! ワシが委員長を誘うわいっ!!」 そしてその日の内に、ケンスケ、アスカ、シンジの前でヒカリを誘うなどという、真似までさせられた彼である。 心中では、かなり複雑な思いが飛び交っている事だろう。 「……惣流は、どうするんだ?」 「どうするもこうするも…」 つまらなさそうに、目の前のプリントを終わらせて、伸びをするアスカ。 彼女の斜め前の席には誰も座っていなかった。 その隣に座っている、銀髪の少女はいつも通り窓の外へ視線を向けている。 「…あいつがまさか、実行委員になるとは思わなかったわ」 碇シンジは、プロムの実行委員として駆り出されていた。 彼が率先して参加した訳では無いが、それでもなった以上はやるのが彼である。 「……てゆーか、何なのよ。あの女は……」 実行委員のさらに上に、一人の女性がいた。 顔が広いらしく、リース会社や貸衣装屋とも話を通してくれている。そういう意味で、彼女がいなければ今年のプロムは実行できなかったかも知れないだろう。 数年前の卒業生だったらしい彼女の名を、遠山シヲリという。 そして碇シンジは、シヲリの指名によって無理矢理、文字通り借り出されてしまったのだった。 「はい。それはそっちに搬入しておいてね。シンジ君、それはこっち」 テキパキと指示を出している女性がいた。 彼女の指示で、実行委員の生徒とリース会社の人間とが、実に効率的に作業を進めているのだ。 「あ、それはもっと丁寧に扱って。壊れ物よ」 そう言ってシヲリも手を貸す時もある。 彼女の指示は的確であり、また無駄の無い物だった。 それゆえに、誰もがスムーズに作業を進める事になり、不平が出る暇も無くなっている。 「はい、ご苦労さま」 にっこりと笑って、そう告げる彼女。 実行委員とリース会社の人間は、その笑顔に思わず見とれ、疲れを忘れるような気持ちになるのだった。 第8回第三新東京市立第一中学校卒業式。 そう書かれた横断幕。 そして紅白の花で彩られた校舎。 この日ばかりは父兄の姿が、あちらこちらで散見される。 そして、三年生は胸に卒業生の印の造花をつけ、どこか落ち着かない雰囲気のまま教室で雑談をしている。 式の開始を告げるアナウンスが始まり、在校生が会場入りする。 そしてさらに卒業生入場が告げられ、三年生達が整然と会場入りする。 卒業式というイベントは、式次にそってつつがなく進められた。 卒業生達が、少々羽目を外すという珍事もあったものの、それも例年の事と言えば言えなくも無い。 葛城ミサト教諭など、むしろそれを煽ったとすら言えるだろう。 卒業式が終わると、卒業生も在校生も一旦帰宅し、プロム参加者は夕刻、再び今度はパートナーと連れだって会場に現れるという事になっていた。 「シーンジ君。パートナーの子、誘ってくるなら一度戻っても良いわよ?」 職員室でお茶をすすりながらそう言ってくれるシヲリに、苦笑いを浮かべながら着替えのタキシードを見せるシンジ。 それを見て、シヲリも微笑みを浮かべる。 「……ねえ、ママ。どう?」 「もう少し、ウェスト絞った方が格好いいわよ?」 「そっかな。…よっと。これでどう?」 「うん。似合ってる」 惣流家では、アスカが新調した赤いドレスに身を包んでいた。 唇にはいつもはしないピンクの口紅をつけて。 「……んー」 鏡の前で、着慣れないドレスシャツのボタンを一番上まで留める。 息苦しさにすぐにでも脱いでしまいたい欲求に駆られる。 けれども。 約束してしまったのだ。 約束した以上は、果たさねば男では無い。 「…そうじゃろ。…トウジ」 鏡の中のまだ躊躇っている自分に言い聞かせ、彼は上着に袖を通した。 「ねえ、コダマお姉ちゃん。これ、どうかな」 「似合ってるわよー」 「ちゃんと見てる〜?」 「見てます見てます」 気のない返事を返す姉の言葉に膨れながら、ヒカリはドレスに着替えていた。 普段のお下げ髪をほどいて、アップにまとめている。 「……ヒカリが舞踏会ねぇ〜」 「何よぉ」 「いーえぇ。何でもぉ」 「もお」 からかい混じりの姉の声。だが、浮かれている今の彼女には、そんな事はどうでも良いことであったのだが。 音のしない室内で、サラリと衣擦れの音がする。 するり、と足下に落ちたスカートを手に取り、レイはショーツ姿のままでハンガーにかけて置いた薄いブルーのドレスを手に取った。 袖を通し、鏡に向けて整える。 ふと思いついたように、机の引き出しをあける。 そこには数は少ないものの、細々としたアクセサリーや化粧品が入っていた。 「………」 少しばかり躊躇った後、レイの細い指は一本のルージュへと伸びる。 薄いピンクのルージュが唇を包み、そして鏡の中の自分は少しだけ雰囲気が変わったように見えた。 『そこ』は、つい先程までの紅白の横断幕で覆われた卒業式会場と同じ場所だったとは思えない場所だった。 天井の中央には、一体どこから持ち込んだのか分からないシャンデリアがつるされ、壁面は幾重にも重なった布地のドレーブができあがっている。 そして中央にあつらえられたダンスフロア。 それを囲むように、立食形式の食事が用意されている。 ステージ上には、スピーカーと音源機材が鎮座し、スピーカーからは既に低音量で、BGMが流れ始めている。 「…去年よりも、凄いわね…」 惣流・アスカ・ラングレーは会場入りして、すぐにそう呟いていた。 去年のプロムは、表現を悪くすれば貧相だった。 別段それが悪いという訳では無いが、それにしても今年の会場は例年に無い気合いの入りようである。 これで予算が去年と一緒というのは、ある種詐欺にも等しいのでは無いだろうか。 そんな事を考えながら、彼女は視線を周囲に走らせる。 「……ヒカリ……は、と。いた!」 彼女の視線の先には、二人の少年少女が即席紳士と淑女になって立っていた。 カチコチに固まったままの鈴原トウジが、着慣れないタキシードを着て立っている。そしてその隣には、上気した表情で会場の中を見回している洞木ヒカリの姿があった。 「鈴原。もうちょっと、自然にいなさいよね」 そう呟きながらも、ヒカリのうれしそうな表情を見て、自分もうれしくなる。 これでこそ、苦労した甲斐があったという物である。 「…苦労したのは、主に俺なんだけどな」 ぼそり、と後ろから呟く声。 「…相田っ!?」 慌てて振り返ったアスカの前にいたのは、相田ケンスケだった。 体中に一眼レフやデジタルカメラにデジタルビデオを搭載している。 さらには。 「何、それ…」 「今回の映像を撮っておいてくれって、実行委員会から頼まれているんだ」 本格的なビデオカメラまで彼の背後には見えるのだ。 「うおおお、相田ケンスケ!! 一世一代の見せ場だぜっ!!!」 燃える気迫に包まれた彼を見ながら、アスカはこの男にだけは近づくまい、と思うのだった。 「ようこそ、アスカ」 不意にかけられた声に、アスカは振り向いた。 その声は聞き慣れた物だった。 間違う筈も無い。 彼女がおそらく自分の次に聞き慣れた声だろうから。 「シン………ジ?」 だがそこにいたのは、タキシードに身を包んだ少しばかり背の低い紳士だった。 髪もきちんとセットされ、細身の身体は礼服でうまくフォローされている。 「…アスカ、そのドレス綺麗だね」 にこりと微笑みながら言われ、思わず詰まる彼女。 「そ、そ、そう? ありがと…」 シンジにしては珍しい。 そう思わざるを得なかった。 そもそも、彼がこんなにめかし込んでいるとは思わなかった。 「シンジこそ、決まってるじゃない」 「そう? シヲリさんが、セットしてくれたんだけどね」 苦笑いを浮かべて、そう答える。 遠山シヲリ。 あの美女が、シンジに触れた。 そう考えただけで、アスカは少しばかり雰囲気を変えた。 「そう。そりゃ良かったわね」 「……こんなに、するつもりは無かったのに……」 だがシンジの心底疲れたような声が、けして彼がそれを喜んでいた訳ではないと理解させる。 「……何言ってんのよ。あんた、それくらいやんなきゃ、会場で浮くわよ」 「そうかなぁ」 「そうでしょ」 いつもの二人の雰囲気に戻りながら、アスカは笑っていた。 こんなお祭りの夜くらい、怒らないでいてあげよう。 そう考えながら。 アスカと別れ、シンジは会場の最終チェックに歩いていた。 と、その時、会場の入り口からざわめきがわき上がる。 「……なに?」 ひょい、と人の隙間からのぞき込むと、そこには一人の少女が立っていた。 銀色の髪をセットし、白い肌にピンクのルージュ。 深紅の瞳の少女。 「…綾……波…」 綾波レイ。 彼女もまた、一人で会場までやって来たのようだった。 レイの視線が一瞬宙をさまよい、そしてシンジを見つけた。 スタスタと人の間をすり抜け、シンジの前に立つ。 「…こんばんわ。碇君」 「あ……こん…ばんわ。綾波」 いつもの彼女とは、少し違う雰囲気。 それが薄化粧のせいだと分かっていても、戸惑う感情は抑える事は出来ない。 「……一人で、来たの?」 「ええ…」 軽く小首を傾げ、そして訊ねる。 「いけない?」 「いや、そんな事は無いけど」 やはり誰も誘わなかったんだろうか。 そんな事を考えていた。 開会の挨拶を実行委員長が行い、そして音楽が流れ始める。 人々は自分のパートナーと語らい、友人と語らい、そして見知らぬ誰かと談笑する。 この夜だけの時間だからと、皆が楽しもうとしていた。 だが彼らは気づかなかった。 ステージの上にあるライトの一つが、ボルトがはずれかけていた事に。 そしてそれが、ライト自体の発熱によって歪みはじめ、ゆっくりとずれ始めていた事に。 既に電源コードだけが、ライトの重みを支えていた。 損傷していたとはいえ、もう暫くは持つ筈だったろう。 だが今夜はライトアップのために、ライトのすべてが稼働していた。 シヲリが音源の調整のためにステージの上に上がった時、それはちょうど限界に達したのだった。 ガシャン!! 大きな音がステージから鳴り響く。 思わず歓談していた参加者達が、驚いて沈黙してしまう程に。 そして彼らは見る。 ステージ上に置いてあった音響機材が、上から落下したライトによって無惨にも潰されてしまっている様を。 「大丈夫ですかっ!?」 慌てたようなシンジの声。そしてシヲリが顔をしかめて立っていた。 「ええ、私はね………でも、スピーカーと、音源が……ね」 彼女の目の前では、落ちたライトによってぐしゃぐしゃに、見るも無惨につぶれた機材があった。 足下には、飛び散ったガラスとネジが転がっている。 「……これじゃあ、続けられないわ」 シヲリの呟き。 シンジはそんな彼女と、潰れさった機材を交互に見る。 「そんな……。みんな、せっかく楽しんでいるのに…」 「でも、これじゃあ……」 シヲリの言いたい事も、シンジの言いたいことも、互いに理解できた。 出来ることなら、どうにかしたかった。 けれど、今。彼女達には打てる手段が無かった。 「……どうしたら……」 眉間にしわを寄せて、悔しそうに呟く。 ざわざわと、参加者がこちらを見ながら、小声で会話している。 その中には不安そうな顔をした洞木ヒカリの姿もあった。その傍らには、ようやく堅さが抜け始めた鈴原トウジの姿も見える。 それを見、そしてシヲリを見るシンジ。 一瞬逡巡し、そして彼はレイの元へと駆け寄った。 「綾波。頼みがあるんだ……」 そして彼女に顔を寄せて何かを耳打ちする。 レイはシンジに頷いて見せ、そして会場からするりと抜け出ていく。 それを見送り、彼もまたシヲリの元へと駆け戻る。 「シヲリさん……!」 そして彼女の耳元で、同じように何事かを囁いた。 一瞬シヲリは驚いたように、目を見張ってシンジを見つめ返した。 そしてしばらく逡巡した後に、頷いてみせる。 「分かったわ。……でも、良いの?」 「このままお開きになるよりは、良いですから」 そして頷いてみせる。 その表情にシヲリは少しばかり、まぶしそうに目を細めて見せた。 「…じゃあ、お願いするわね。……みなさん!」 そう言ってシヲリはステージ上から、会場内の人間の注目を集める。 「破損した機材の代わりを調達してきます。もうしばらく、このままでお願いしますね」 そして微笑んでみせる。 それだけで、会場内のどこか緊迫していた雰囲気が和らいだ。 その間に、シンジの姿も消える。 だがそれに気づいた人間は、会場内では一人だけだった。 惣流・アスカ・ラングレー。 彼女はシヲリの傍らに立っていた自分の幼なじみが、何やら覚悟したような堅い表情でステージ袖に消えていくのを、ただじっと見つめる事しかできないでいた。 そしてシンジが先ほど、レイに向かって何事かを囁いていたのも、見ていた。 どうして、この不安な状況下で、自分には何も言ってくれないのか。 なぜ自分を見てくれないのか。 そんな事を考えながら、じっと立ちつくしている。 新調した赤いドレス。 それすらも、今の彼女にはどこか空々しい物に思えていた。 そして再びステージ上で人の動きがあった。 実行委員会の人々が、椅子を三脚持ち込んで並べていく。 そのまま実行委員達はステージを降りていく。 彼らもまた、参加者の一人でもあるから。 「……何?」 アスカはステージ上に並べられた椅子に、思わずそう呟いてしまう。 『破損した機材の代わり』、とあの女性は言った。 なのに、そこに置かれたのは何の変哲もない、普通のパイプ椅子が三つだけ。 「………何、するつもりなの?」 ざわざわと、周囲の人々も同じように呟いている。 すると、ステージ袖から人影が現れた。 ドレス姿のままのシヲリが、片手に何かを持ったままで歩いてくる。 そして中央に立つと、ゆっくりと、優雅に一礼してみせた。その後ろから、二人の少年少女の姿も続いて現れる。 「……シン……ジ?」 それは彼女の幼なじみの少年だった。 シヲリと同じように、片手にはチェロを持っている。 多少緊張した面もちで、ステージ上から会場を見回していた。 「それに…………綾波…レイ…」 その傍らには、あの少女がいた。 銀色の髪と白皙の美貌を際だたせるように、薄いブルーのドレス姿の少女。 片手には、バイオリンを持っている。 二人もシヲリと同じように一礼し、椅子に座った。 そして三人が構える。 シンジとレイが、何のタイミング合わせもせずに、同時に弾き出す。 生まれたのは、柔らかな輪舞曲だった。 その曲名は知らない。 けれど優しい曲だった。 楽しい曲だった。 シンジが弾いていた。 いつも、自分が引っ張ってあげないと駄目だとばかり思っていた彼が、自分の目の前で、自分の知らない顔で、自分の知らない曲を弾いていた。 どこか寂しく、けれど、どこか誇らしく。 自分の胸の裡に湧く想い。 それにアスカは、微笑みすら浮かべていた。 シヲリは弾き出そうとタイミング合わせを行おうとして、唐突に始まった音色に驚いていた。 シンジとレイ。彼らが何のタイミング合わせも必要とせずに、このような真似をしているのだとしたら、それは驚くべき事だろう。 だが彼らは、本当に何の打ち合わせも行ってはいなかった。 なのに。 彼女も彼も、そんな事は当然だとばかりに、至極普通に弾き出したのだ。 目を閉じて、身体をリズムに任せて、心を楽器に移して。 そして彼女は知る。 この音色が、あのコンクールの時の音色である事を。 ウィーンでは、一度たりとも生まれなかったあの音色が、今ここで再び生まれていた。 まるで当然のように。 「…シンジ…くん?」 彼にとって、おそらくは最高であろう演奏を。 その音色はシヲリの音色ですらも包み込み、そして同化させていた。 だがそれは強制的な音では無く、むしろどこか懐かしい音色ですらあった。 「…はぁ〜。シンジの奴、あないな特技があったんか」 感心したように呟いたのは、鈴原トウジだった。 着慣れないタキシードは、どこか息苦しく、また端から見てもどこかしら『服に着られている』という印象は拭いきれないだろう。 だがそれは構わない。 ここにいる人々は皆、どこかしら『着慣れない』人々ばかりなのだから。 「……すごい……」 彼の傍らにいた洞木ヒカリも、同じように呟いていた。 そして視線はシンジと、レイへと向いている。 いつも教室では無言の彼女。 窓の外を見、まるで世界には自分一人しかいない、とでも言わんばかりの態度でいる彼女。 いつまでたっても、人と触れ合おうともしない彼女。 そんなイメージだった。 ヒカリにとっても、『綾波レイ』という少女は。 ただヒカリの性格は、たとえそうであったとしても、相手を嫌いになるという事は無い。 けれどやはり、どこかに苦手意識は存在していた。 だが今、彼女の目の前で壇上にあがるレイの姿は、掛け値なしに美しかった。 そこにいる事が、とても自然に見えた。 「……ね、鈴原」 「んぁ?」 「踊ろっか」 「…は?」 きゅ、とトウジの手を握りしめ、ヒカリは目の前のスペースへと彼を引っぱり出す。 「ちょ、ちょ……、委員長!?」 「今夜は名前で呼ぶって、約束したでしょ。……トウジ?」 真っ赤になりながら、けれど楽しそうにそう口するヒカリ。 そしてそんな彼女を見て、一瞬呆然としたようになるトウジ。 「ほらっ! 踊ろうよ。せっかく碇君達が弾いてくれているんだからっ!!」 にこやかに、そう急かす彼女。 それを見てトウジは真っ赤になる。 「…せ、せやけど、ワシ踊れへんで」 「大丈夫よ。あたしがリードしたげるからっ」 「委……ヒカリは踊れるんか?」 「アスカに習ったの!」 そしてぎこちなくも、ワルツの型に則って踊り始める彼女と彼。 そんな彼らを見て、ようやく人々も動き始めた。 卒業生も在校生も、自分のパートナーの手を取って、お互いに頷き合ってスペースへと歩み出てくる。 三人の音色をBGMに、思い思いのダンスの輪が生まれる。 そんな人々を横目に、アスカは一人壁際に立っていた。 楽しそうに踊るヒカリを見て、目を細める彼女。 それでなければ、あんな苦労をした意味が無くなってしまうから。 「…良かったわね…ヒカリ」 そう呟く。 けれど自分はどうだろう。 結局、シンジはあそこにいるまま。 ステージの上。 けして、踊る事の出来ない場所。 けして、踊る事の出来ない相手。 そこに彼はいた。 「……バカ」 普段なら、そう呟くだろう彼女。 けれど、今夜は。 今夜だけは。 「……ありがと。バカシンジ」 そう、呟いていた。 微笑みすら浮かべて。 綾波がいる。 ここに、綾波が。 それだけで、音色が変わっていくのが分かる。 誰かのため。 彼女のため。 そんな音色こそが、僕の願う音色。 想いが音となって、消えていく。 この場所を満たすのを、僕は感じていた。 ちらりと横目で見れば、そこには彼女がいる。 じっと目を閉じて、音色を弾き出す事に集中している彼女。 ふ、と彼女の目が開く。 そしてこちらを、ちら、と見たのが分かった。 ドキン、と胸の中で鼓動が一つ強く打つ。 彼女は少しばかり慌てたように、目を閉じた。 どうかもう暫く、このままで。 そう願いながら僕は、手を休ませずに弾き続けた。 彼がいた。 碇君が、今、私の傍らに。 私の音色が彼の音色と重なって、そしてあの音色になる。 私と、彼の。 二人だけの音色。 たとえ彼女でも、今のこの音色を壊す事は出来ない。 彼女が音楽家ならば、なおさらに。 うっすらと目を開き、彼を見る。 すると、そこでは彼が私を見ていた。 それが分かった途端、急に胸の鼓動が一つ、大きく鳴り響くのが分かった。 慌てて目を伏せて、私はバイオリンを弾く手に集中する。 そして願う。 どうかもう暫く、このままで。 その想いを音色に乗せて、私は弾き続ける。 「…アスカちゃん」 不意にアスカに声をかけた少年がいた。 その声に振り返り、アスカは少しばかり驚いたような表情を浮かべる。 「…何、あんた。誰とも踊っていなかったの?」 そこにいたのは、銀髪に深紅の瞳の少年。渚カヲルの姿。 その容姿にはファンも多く、また彼自身も己の容姿がどれほど人目を惹くかを熟知しているかのように振る舞っている。 それゆえに、このプロムでは間違いなく高倍率のパートナーであったろう事は想像に難くないのだ。 なのに今、彼は一人でアスカの前に立っていた。 「パートナーにあぶれてしまってね。良ければ、僕と踊ってもらえないかな?」 手を差し出して、そう訊ねるカヲル。 口元には、いつもの謎めいた微笑み。 深紅の瞳は、レイとは違ってまるで何か楽しい物を見るように、いつも光を宿らせて。 「………良いわよ」 そしてアスカは沈黙の果てに、そう答えていた。 普段の彼女ならば、断っていただろう。 だが何故だか今夜は、この誘いを断る気になれなかった。 まるでアスカが頷いてくれる事を確信しているかのような、カヲルの瞳を見たからだろうか。 それとも。 アスカが断れば、おそらく彼が、今夜は誰とも踊らないであろう事を、直感的に感じたからだろうか。 「光栄です。姫様」 仰々しく、まるで芝居かなにかのように大げさな礼をして、カヲルが彼女の手を取る。 アスカもツンと澄ました顔で、どこかの令嬢よろしくしずしずと歩きだす。 二人の少年少女は、ゆっくりとダンスフロアの中心へと歩み出して行く。 ステージ上から届く曲の切れ目を待つように、暫く二人で向かい合い、そしてどちらからとも無くステップが始まった。 それは間違い無く、最高のダンスだったろう。 周囲で踊る、他のどの組と比べても、間違いなく彼らが最高のダンスを披露していた事は確かだったろう。 「…あんた、上手じゃない」 「さすが、君も上手だね」 踊りながら、そう囁き合う。 「ねえ、どうして誰とも踊らなかったの?」 「君がいたからね」 まるで当然と言わんばかりに、カヲルがそう答える。 それが彼のいつもの『かわし』だったのか。 それとも『本心』なのか。 それはアスカには分からなかった。 けれど、悪い気はしない。 「ふぅん。…じゃあ、あたしがこれ以上踊らないって言ったら、あんた踊らないの?」 「そうなるね」 にこやかに、そう答える。 意地悪な事を口にした筈のアスカの方が、思わず拍子抜けするほどあっさりと。 「…そう言ってほしい?」 「言うつもりなのかい?」 彼女の心を読んでいるかのように、カヲルは楽しそうに訊ね返す。 まるで『そんな事、言うつもりは無いくせに』と暗に匂わせるように。 「言うかもよ」 「できれば勘弁してほしいな。僕はまだ踊り足りない」 「…あたしもよ」 そして二人は踊り続ける。 この夜が終わるまで。 誰もいなくなった会場で、シンジとレイは並んで座っていた。 残っているのは、実行委員である彼らぐらいであろう。 参加者の生徒達は、既に自宅へと帰っている頃だ。 「……ご苦労さま。綾波。それとゴメン。せっかくのパーティーだったのに、踊れなかったよね…」 シンジがそう言って、すまなそうに頭を下げる。 その言葉に、レイは軽く首を振って見せた。 「…楽しかったから」 そう呟くように答える。 口元には珍しく微笑み。 そして瞳は、シンジをまっすぐに見つめている。 「…碇君と演奏できて、楽しかったから」 もう一度、確かめるように繰り返す。 「そ、そう?」 少しばかり慌てたようなシンジに、微笑んだまま頷いてみせるレイ。 少女はそのまま、椅子の背に身を預けた。 普段の凛とした、どこか一本線の通ったような彼女を見慣れていたシンジには、そんな風なレイを見るのは、新鮮な驚きでもあった。 「……なに?」 じっと自分を見るシンジに、レイが戸惑ったような照れたような表情で訊ねる。 「え、あ、い、いや……」 慌てて視線を外すシンジ。 だがその仕草が、むしろレイにとっては興味を引く行動であったらしい。 「…何か、あったの?」 彼女にしては珍しく、追求の手が伸びる。 「い、いや、綾波がそんな風にしているの、初めて見たから…さ」 その答えに、レイがクスと笑った。 「そんな事、無いわ」 「そうかな」 「……ええ」 普段の彼女とは違う、どこか柔らかい印象。 それは、シンジにとっては、少しばかりくすぐったい感触でもあった。 「……そろそろ帰ろうか」 「…そうね」 シンジが立ち上がって、そう呼びかける。レイは少しばかり名残惜しそうに、呟く。 「送るよ。遅くなっちゃったし」 「……ありがとう」 自然にシンジの手が伸びる。 レイはその手を取って、椅子から立ち上がる。 ゆっくりと、だが風に乗るように。 二人の距離が近づく。 「……行こうか」 「………ええ」 手をつないだまま、二人は出口へと向かう。 そして、会場には誰もいなくなった。 ポツンと置かれたままの、二脚の椅子だけが、先ほどまでの二人の名残のように残されていた。 チェロの音色が響いていた。 誰もいない公園。 誰もいない湖の側で。 一人の少年が、そこで弾き続けている。 そして月が頭上へと昇る頃、鏡のようだった湖面に、波紋が広がる。 そして波紋の中心に立つのは、少女。 月の輝きを集めて結晶にしたような少女。 銀の髪に、深紅の瞳。 少女は、すい、と湖面の上を滑るように進み、少年の傍らに立つ。 銀色の髪が、月光に透けて輝いていた。 「……どうしたの? 綾波」 いつもと違う彼女の雰囲気に、そう訊ねる少年。 少女はその目に憂いを浮かべていた。 「…いいえ」 ふるふると首を振って、湖面に戻ろうとする。 だがシンジの手が、それを止めた。 「………碇…くん?」 「踊ろうか」 口元に微笑みを浮かべて、そう口にするシンジ。 自分の腕を掴んでいる少年を、少しだけ驚いたように見つめ、そしてゆっくりと微笑むレイ。 「………どうして?」 悪戯っぽく、そう訊ねる。 「…踊れなかったからね」 残念そうに、そう答える。 そして、恭しく手を差し出した。 「どうか私と踊ってくださいませんか?」 一礼をして、そう口にするシンジ。 そしてレイは。 ゆっくりと頷いて、彼の手を取った。 微笑みながら。 fin お久しぶりな方には、お久しぶりです。初めての方には初めまして。 駄文書きKeiです。 皓月。読みは「こうげつ」です。 ORIGINAL 2000.1.25 THIS FILE 2001.2.6 Kei Takahashi |