そっと目を閉じたままで、少女が椅子に座っていた。 薄闇を閉じ込めた世界は蒼い月光に染められ、少女の銀色の髪と白い肌は淡く輝いているように見える。 窓辺に置かれた椅子と、それに座る少女。 まるで彫像のように、微動だにせずに。 ただ静かに、少女は瞳を閉じている。 薄く開いた唇から、ただ音だけが零れ落ちる。 それだけが、少女の生み出すもの。 その『歌』だけが、少女が生きている事の証のように。 月光に染められた部屋に、それは細く響いていた。 『ユエ』
- 朧月 Intermission - 中天の月を見る。 毎夜のように見ている筈のそれは、夜毎、異なった顔を見せた。 ずっと昔、それは同じように見えていたはずなのに。 ある時を境に、彼はその表情を見分けられるようになったのだ。 ある夜は冷厳に。 ある夜は優しく包み込むように。 ある夜は寂しさを紛らわせるように。 うつろい変わる光を、いつしか彼は楽しみにしていた。 そして、風が吹く。 眼前に延びる影は、銀の光照らされて薄く床を染める。 揺れたカーテンの傍に、人影。 銀光を受け、淡く輝く白い肌と蒼銀色の髪。 深紅の瞳。 「……………こんばんわ」 細く、小さい囁き声。 華奢な体つきの少女が、そこにいた。 彼はそんな少女を見て、微笑む。 「いらっしゃい」 ゆっくりと、迎え入れるように。 彼は、そう呟いた。 藍色の夜空は、薄い雲が流れていた。 月光を受け、紫に輝く雲。 そしてその雲に時折隠される銀盤。 だが、室内の彼と彼女は、そんな空の様相など気にする風も無く、瞳を閉じていた。 少年の手にはチェロ。 少女は窓に腰かけたまま、チェロに重ねるように歌。 音色は広がり、そしてゆっくりと彼らを包む。 ただ、今だけのために。 それだけのための音色。 それだけの歌。 そして、彼はゆっくりと目を開いた。 目の前には、少女が座り、じっと彼を見つめていた。 深紅の瞳が、優しげに彼を見つめている。 「……綾波」 かけられた声に、小首を傾げて応える少女。 「……一緒のクラスになれたら…いいね」 薄く朱に染まった頬を隠すように、少年の視線が少女の横にそらされる。 そんな彼を見て、少女はうっすらと微笑む。 「…ええ」 そして、そう答えた。 それだけで、十分だった。 From "Evangelion" (C)GAINAX/TV Tokyo Presented By Kei Takahashi 春休みというのは、中学生にとっては、嬉しい物である。 宿題は無い。 特に1、2年生にしてみれば、受験の事を考えなければ遊びほうける事ができる、唯一の長期休暇なのだ。 そして何よりも。 朝早く起きる必要が無い。 その特典を享受する少年がここにいた。 今も布団にくるまり、深い眠りの中にいる少年。 碇シンジ。 来学期からは、中学三年生になろうという少年である。 そして、学生としては有数のチェロ奏者として、名前を知られ始めてもいた。 だが今の彼は、どう見てもただの惰眠を貪るネボスケであった。 「いいかげんに……おきなさーいっ!!」 だがそんな彼の幸せをうち砕こうとする者がいた。 彼女は彼の寝床の横に立ち、しばし彼の寝顔を堪能した上で、彼の耳元で大声を上げたのだった。 「ほら、起きる起きろ起きなさい! いつまでも惰眠を貪ってると、ただでさえ馬鹿なのにさらに馬鹿になるわよっ!!」 彼の身体を優しく包んでいた暖かい布団は彼女にあっさりとはぎ取られ、彼は程良く冷えた外気に、身震いをしながら目を覚ます。 「………んん。あす…かぁ」 「そうよ! ほら、さっさと起きて顔を洗う! 春休みだからって、だらけてて良いって法は無いんだからねっ!」 長い赤みがかった金色の髪が朝陽に透けて輝く。 白人独特の白い肌が、陽光を跳ね返している。 聞き馴染んだ澄んだ声が、部屋に満ちる。 「……おふぁよ……」 見慣れた碧い瞳に、彼はゆっくりと欠伸を噛み殺しながらそう挨拶した。 惣流・アスカ・ラングレー。 彼、碇シンジにとっては、今までの人生のほとんどを共有してきたとも言える、幼なじみの少女である。 異国の血をその身に受け継いだ彼女の思考は、やはりどこか日本人ばなれしている。 「こーんな天気のいい日には、外に出る出る!」 「……ん。僕は縁側で昼寝してたい……」 「何か言った?」 にっこりと笑いながら、シンジに聞き返すアスカ。 だがその眉間に、微かながら皺が寄っているのを、彼は見逃してはいない。 すかさず何事も無かったかのように、にっこりと笑い返す。 「う、ううん。何でも。確かにいい天気だよね」 にっこりと笑い返し、窓の外へと視線を走らせる。 春の陽気が、窓ガラスの向こうから伝わってくるのを感じ、彼は深呼吸を一つする。 「……うん。いい天気だね」 「でしょ? こんな日はお布団を干して、あたし達は外に遊びに行くものなの!」 ガラ、と窓を開け放ち、外の空気を室内に導きながら、アスカが軽やかに笑う。 穏やかな、柔らかい空気が室内に風ともに流れ込んでくるのを感じながら、シンジはベッドの上でもう一度微笑んだ。 「やっぱ、コネリーは良いわぁ〜」 リバイバルで流された古い映画を連れだって観に来たアスカは、パンフレットを手にうっとりと言い切った。 「……僕はブラッドピットの方が好きだけどなぁ」 現在も活躍中の壮年の俳優の名を、シンジが口にする。 だがアスカはそんな彼に向かって、チッチッチと指を振って見せた。 「まだまだね。あの渋さを前には、ブラッドピットも敵じゃないわ」 フフフン、と鼻で笑うアスカ。 だがシンジは知っている。彼女の部屋には、ブラッドピットのポスターも貼ってある事を。 「……で、どうするの? アスカ」 人の流れから少し離れ、シンジはアスカに振り返る。 アスカは軽く周りを見回し、何事かを決めたようだった。 「よっし。じゃあ、まずお昼にしましょ!」 そしてぐい、とシンジの腕に自分の腕を絡ませる。 「あ、あすか…?」 「きちんとエスコートくらいしなさい。まったく」 いつもの彼女。 そして、少しだけ違う彼女。 そんなギャップに、シンジは戸惑った表情を一瞬だけ見せた。 「どしたの? さっさと行きましょうよ」 「…あ、う、うん」 だが次に見せた表情に、シンジは安堵する。 自分の良く知る少女がそこにいたから。 「でも何処に行くの?」 「どっか、良いところ知らないの?」 「……知らない」 「…はぁ。まったく」 呆れたようにアスカがため息をつく。そんな彼女に、シンジが口を尖らせる。 「なんだよう」 「なんでも無いわよ。じゃ、あそこに行きましょうか」 「あそこ?」 「そ。あそこ」 それだけで、シンジも理解したようだった。 そのまま二人は歩き出す。 場所を改めて確認する事もない。 共有した時間の長さが、二人には口に出さずとも伝わる何かを与えていた。 すれ違う人々。 別段、これから先の人生にも、決して重なる事の無いだろう人々。 けれども、そんな人々の流れの中にも、不意に自身の人生という糸と折り重なる人と出会う事がある。 少女の視界に、二人の少年と少女がいた。 「…アスカ?」 少女の視線の先では、少年と少女が楽しそうに歩いていた。 少女の手が、少年の服の裾を軽く掴んでいる。 満面の笑みが、少女の心を浮き彫りにしている。 楽しそうに。 嬉しそうに。 そして、幸せそうに。 そんな『彼女』の笑顔を見つけ、少女はしばし見とれてしまう。 と、少年がこちらを見たような気がした。 そして、隣に立つ少女に何事かを話しかける。 少女が周囲を見回し、そして自分を見つけたように、大きく手を振った。 「ヒカリぃ!」 ぱたぱたと駆け寄ってくる彼女を、ヒカリは少しだけ羨ましそうに見つめた。 長い金色の髪と細い肩。 綺麗な瞳と、整った顔立ち。 そこらのアイドルなど歯牙にもかけない美貌が、輝いている。 「アスカ」 そして、この明るい性格。 彼女のその全てを、羨ましいと思う。 「ひさしぶりね。元気してた?」 「昨日、電話したじゃない」 クスクスと笑いあいながら、手を取り合う。 「デート?」 「違うわよ」 耳元で囁いた声に、アスカが少し赤くなって否定するのを、ヒカリは微笑んで見つめる。 素直じゃないな。 そんな事を思いながらも、それでも彼を離さないようにしている彼女を、愛らしいと思う。 あとは、手を出すのをやめるようにすれば良いのに、とも。 「ヒカリは? 一人なの?」 「う、うん……。ちょっと春物の服を見ようと思って」 「そうなんだ。……ねえ、あたし達も一緒に行ってもいい?」 「へ?」 不意に訊かれた言葉に、ヒカリが戸惑ったように声をあげた。 「で、でも…悪いよ」 「良いってバ。あたしも春物の服を見たいし」 そしてシンジに振り返り、アスカが声をかける。 「良いよね? シンジ」 「…うん。僕は別に構わないけど?」 キョトンとした顔のシンジを前に、ヒカリは「本当にいいの?」と視線だけでアスカに訊ねた。 「じゃ、行こっか」 にっこりと笑い、アスカが二人を置いて歩き出す。 「あ、う、うん」 ぱたぱたとその歩調についていくように、ヒカリが歩き出す。 シンジも、そんな二人の後ろをゆっくりとついて歩き出した。 第三新東京市は、商業区画と居住区画が明確に分かれている。 都市設計段階から綿密に計画されたそれは、確かに便利ではあった。 当然のように、大規模な企業誘致が行われ、いくつものデパートが建ち並んでいる。 アスカ達が入っていったのは、そんな中でも若者、特に財布に余裕のあまりない中高生に人気のテナントが入っているビルだった。 「あー、コレ可愛いー」 「これ新作だって」 新作のワンピースを手に、アスカとヒカリが品定めを開始する。 そんな二人を遠目に、シンジは缶ジュースを口にしていた。 さすがに、あの色とりどりの布に森の中に入っていくだけの勇気は、彼には無い。 不意に、彼の視線が一点に向けられた。 遠くからこちらを見ている少女がいるのだ。 見慣れない顔。 だが、どこかで見たような顔をしている。 「……誰だっけ」 呟いた時、その少女がこちらへ向けて歩み寄ってきた。 少女からは、なにがしかのオーラのような物が立ち昇っているようにも見える。その険しい表情に、シンジは思わず座っていた腰を浮かせ、逃げ出す準備をしてしまう。 「……久しぶりね」 だが逃げ出す間もなく、少女はシンジの真正面に立ちはだかったのだった。 整った顔立ち。 大人びた容貌は、少女が自分よりも年上である事を示している。 突き刺すような訝しげな視線が、戸惑った表情を浮かべているであろう自分を見下ろしている。 「……もしかして、あたしの事を憶えていないのかしら?」 絶対零度に限りなく近付いている声に、シンジは記憶を総ざらいして少女の顔を探した。 そして。 「…………鳴島…さん」 ようやく思い出した名前を、シンジは口にした。 鳴島ナオ。 スタンウィッツ・コンクールで競った人の一人。 「…思い出したようね」 軽くため息。 そして再び、射抜くような視線。 「どうして、ここに?」 「あたしだってこの街の住人よ。居ておかしい?」 険のある声。 彼女は、あのコンクールの間も、こんな風だった。 「それよりも、あたしの方が知りたいわね。こんな店に男が一体なんの用?」 「…あ、ああ。僕はその、付き添いで」 「付き添い?」 「俺みたいなもんだろ?」 不意に頭上にかけられた声に、シンジは上を見上げた。 にやにやと笑いながら、彼を見下ろす背の高い男がいた。 「よ。碇シンジ君」 軽薄そうな表情と声。けれど、その視線は真剣な色を浮かべている。 「…山崎…さん?」 「久しぶりだね」 にんまりと笑う彼を、シンジは戸惑ったように見ていた。 山崎コウジ。彼女、鳴島ナオと同じようにコンクールに参加した男性である。そして何よりも。 「え、えと、あの……え?」 鳴島ナオが常につっかかっていた、犬猿の仲の筈の男性が、当然のようにしてナオの隣に立っていたのだ。 「え、あの、…へ?」 「…ああ。そうか。君は知らないんだったなぁ」 「え?」 「俺ら、付き合ってるんだよ」 「へ?」 「あのコンクールの前から、『こ・い・び・と』って奴なのさ」 「え!?」 にやにやと笑いながら、ナオの隣いる彼の言葉に、シンジは凍り付いていた。 「つまり、演技だったんですか…?」 「そういうこと。同じコンクールに付き合ってる二人が参加なんて、色々と言われるだろ? そんな真似はしなくっても、余計な事を言われるからな。内緒にしてたんだ」 「…で、どうしてバらすのよ」 呆れたようにナオがコウジに軽く肘鉄を入れる。 「いやぁ。やっぱさぁ、ナオが本当は可愛いんだってことを万人に知ってもらいたいっていうかさぁ」 「ばっ、馬鹿! 何言って…」 真っ赤になって声を荒げるナオを横目に、コウジがにやにやと笑っている。それを見て、シンジはようやく声を出す事ができた。 「……すっかり騙されてました」 「はっはっは。ま、中坊程度にバれるような嘘は、大人はつかんのよ」 山崎が笑う。 「へぇ〜」 「で、碇君の付き添いの相手ってのは、どの娘なんだ?」 「え? あ、あの子ですけど」 「ふぅん………綺麗な彼女だな」 「か、彼女って……アスカはただの幼なじみですよ」 真っ赤になって否定するシンジを、コウジは面白い物を見るように見つめる。 「そっか。ま、俺には関係ないしな」 ひょい、と立ち上がると、コウジはシンジに視線を向ける。 口元の笑みを消し、真剣な表情で、見つめる。 「次に会った時は、負けないぜ」 「………覚悟、しておきます」 差し出された手を握ると、コウジはナオと一緒に歩き去っていった。 その背中を見送り、シンジはため息をつく。 「……はぁ」 「何よ。どしたの?」 「…あ、アスカ。終わったの?」 「ええ。とりあえずだけど。……ちょっと、どうしたのよ」 座り込もうとするシンジに、アスカが慌てたように話しかける。 「…ん。ちょっと、ね」 シンジはぼんやりと幼なじみの少女を見上げた。 自分の顔よりも、多分見慣れた顔だった。 綺麗な少女だと思う。 けれど、彼女がただ綺麗なだけの少女では無い事も、知っている。 二人の『歴史』が、それを教えてくれる。 「…な、なによ」 「……ん。なんでも無い」 『恋人』と『友達』の差とは、一体なんなのか。 その答えは、もう暫くは、出そうにはなかった。 老人の店では、少女が一人、バイオリンを弾いていた。 ゆったりとしたリズムに、音色を乗せる。 目を閉じて弾き続ける少女を、老人は薄く微笑みながら見守っていた。 ゆっくりと少女の手が止まる。その手に引かれるように、音色もまた。 「どうかね」 「……ありがとうございます」 心持ち微笑んでいるような表情で、少女は老人に頭を下げた。 「ふむ。それにしても、そいつがこんなに早くに調整せんとならんとはな…」 ちら、と銀色の髪の少女を見る老人。 「それだけ、君が練習している、という事か」 少女、綾波レイは手に持ったバイオリンを大事そうにケースにしまっていた。 「……シンジの事、かね」 一瞬、レイの手が止まる。 そしてゆっくりと、頷く。 「………まあ、あれも大概に鈍い子だからな」 振り返らないレイ。 老人もそれ以上、彼女を見ようとはしない。 だから、誰にも気づかれなかった。 レイの頬が、微かに朱に染まっている事は。 ふ、とシンジの足が止まった。 じっと見つめる瞳。 ついてこない少年に、訝しげに振り返る少女達。 「どうしたの、シンジ」 「……うん」 上の空で返事をし、それでも視線は外さない。 シンジの見ているのは、音楽店のウィンドウのようだった。 「…なによ。何か新譜でも出てるの?」 近付いてきた少女の声が、耳元で弾ける。 「…Yuu Kujo……?」 ポスターの中で、一人の青年が艶然と微笑んでいた。 そして、何よりもその容貌。 銀の髪に、深紅の瞳。 何もかも、包み込むような微笑みを浮かべた青年。 「………知ってるの? シンジ」 「…………」 だがシンジは答えない。 スピーカーから聞こえてくる音色に耳を澄まそうとしているのだと、アスカはようやく気づいた。 「シンジ?」 「ごめん、アスカ。ちょっと待ってて」 突然にそう言うと、シンジは店内に駆け込んでいった。 唖然としたままのアスカとヒカリを置き去りにして。 「………碇君、どうしたの…?」 「わかんない……」 そんな彼女達の視線の先で、青年は微笑んでいた。 「そうだな。君には、こいつを聴かせた方が良いだろうな」 老人がそう言って机から取り出したのは、一枚のCDだった。 プレーヤーにセットすると、彼はレイを手招きする。 「そこの椅子に座って。そう。それじゃあ、かけるとするか」 センターポジションに座ったレイを確認して、老人が再生ボタンを押す。 周囲のスピーカーから、音色が流れ始める。 その音に、レイはゆっくりと目を閉じた。 力強い運指。 バイオリンが叫ぶように、その音色を響かせていた。 そして何よりも、この音色は。 「………この人は……?」 レイの声に、老人はCDケースを手渡す。 「……新進のバイオリニストらしいがな。詳しい事は知らないんだが、音を聞いてな」 「……九條……ユウ…?」 そのジャケットでは、青年が微笑んでいた。 だがレイの興味を引いたのは、その微笑みでは無かった。 銀色の髪に深紅の瞳。 己と同じ容姿の青年が、そこにいた。 「……親戚か何かかね?」 ふるふると首を振って老人に答え、レイはゆっくりと椅子から立ち上がった。 「…………そろそろ、帰ります」 「そうか。気をつけてな」 「……はい」 バイオリンケースを手に取り、レイが軽くお辞儀をして店を出ていく。 老人はゆっくりと椅子に背をもたれかけ、再び再生ボタンを押した。 バイオリンが泣いていた。 想い人がいない事を悲しむように。 逢いたいと。 抱きしめたいと。 それを奏でていたのは、一人の青年だった。 銀の髪の青年。 「………久しぶり。ユウ」 女性の声が、彼のバイオリンに重なった。 ちら、と開いた瞳。 深紅の瞳が、そこにいた彼女を見つけた。 長く艶のある黒髪。 整った顔立ちに、濡れた黒曜石のような、優しげな瞳。 不意に、音が変わる。 歓喜。 温もり。 包み込むような、優しさ。 女性は椅子に座ると、瞳を閉じてうっとりとしたように音色に身を任せる。 細い指先が、指揮者のように緩やかに、時に激しく動く。 そして音色が静かに消えると、青年はバイオリンを静かに置いた。 「……シヲリ。いつ帰ったんだ?」 「ついさっきよ」 静かに、けれど違えようも無い愛しさを声に込めて、青年は女性を抱きしめた。 「言ってくれれば、迎えにも行ったのに」 「新進気鋭のバイオリニストに? そりゃ嬉しいけど、私にも色々と都合があるわよ」 クスクスと笑いを隠さずに、女性は青年の腕の中にいた。 「デビュー、おめでとう」 「ありがとう。……シヲリには、一番に聴いて欲しかったんだけどな」 「あら、聴いたじゃない」 「?」 「レコーディングの時、いたじゃないの」 少しばかり拗ねた表情を浮かべる青年に、女性、遠山シヲリは再び破顔する。 「しょうがないでしょう? 先生にお呼ばれしたんだから」 「…分かっては、いるけれど……」 それでも、感情的には納得できない。 そんな風に、彼は呟く。 「それに、今週は一緒にいられるわよ」 「…本当に?」 「ええ。ホントウに」 ゆっくりと青年の背に腕を回し、シヲリは彼を抱きしめる。 青年、九條ユウはそんな彼女の髪に顔を埋めるように、体温を確かめるように、彼女の身体をさらに抱きしめた。 ふ、と振り返る。 何か戸惑いを憶えたように。 誰かに呼ばれたように。 少しだけ、待つ。 鼓動。 誰か、知っている人。 そして、きっと逢いたい人。 そんな予感。 「…………碇…くん」 視線の先に、少年がいた。 少女の後ろを、ゆっくりとした歩調でついて歩いている。 両手には、持ちきれない程の荷物。 けれど、視線には優しい光。 「…」 何も言わず、少女は路地を曲がった。 逢いたかった。 けれど、逢えなかった。 彼らに逢いたくなかった。 『彼女』といる『彼』を、見たくなかった。 ただゆっくりとした歩調を変えず、少女はそのまま少しだけ遠回りをして帰り道を歩く。 その視線は、少しだけ揺らいでいた。 「…アスカぁ。半分くらい持ってよぉ」 「だーめよ。女の子に荷物持たせる気なの?」 情けない声をあげた少年に、先を歩く少女が軽やかに返す。 それを聴いて、少年は不満そうに頬を膨らませ、反論する。 「そんな事言ったって、これ全部アスカの荷物じゃないか」 「文句言わない。あたしだって、シンジの荷物持ってあげてるじゃないの」 右手を振ってみせる。 彼女の細い指が持っているのは、小さなビニール袋。楽器店のロゴが入ったそれを見て、少年はさらに不満そうに言い募る。 「CD一枚と、両手に持ちきれない紙袋を同列に扱うなよぉ」 「なによー。荷物持ってくれるって言ったのは、そっちでしょ?」 「だからって、全部持つなんて言ってない」 ぽんぽんと言い合う二人。 半ば、意識的に交わしているのでは無いのか、とすら思える。 それくらい、二人の表情は喧嘩しているとは程遠い顔をしていた。 「男がそれくらいで情けない事言わないの!」 「なんだよ…それ…」 結局は、そんなよく分からない精神論で終結させられてしまう。 ブツブツと不満げな少年。それを後ろに、少女は機嫌よく歩いていた。 夜の公園はまだ寒かった。 日中は暖かい陽射しが出る事もあるが、夜になればまだまだ冷え込むのだ。 良く晴れた空を見上げ、少年はゆっくりとした足取りでいつもの道を歩いていた。 さらさらと風が流れる。 ざぁっと背の高い草が音を立ててそよぐ。 視線はただまっすぐ前を。 恐怖など無かった。 月の光が、真昼のように明るく周囲を照らし出していた。 ただ、青白い光だけが浮かび上がる。 不意に、少年の足が止まる。 小さな湖があった。 風に揺れた水面。 そしてその前で、じっと空を見上げている少女の姿。 それを、少年の瞳はとらえていた。 ゆっくりとした足取りが、意識せず早まる。 透けるような光の下で、少女の深紅の瞳が美しい宝石のように輝く。 その瞳が、彼をとらえた。 「………こんばんわ」 少年の言葉に、少女がゆっくりと歩み寄ってくる。 彼の傍で、少女が静かに手を伸ばす。 そっと頬に触れた白い指。 少年は戸惑ったように、眼前の少女を見る。 「…綾波?」 すい、と首を振って、レイは少しだけ離れる。 いつもの彼女のようにも見える。 けれど、少しだけ、いつもと違うようにも見えた。 「………どうしたの?」 ほんの少しだけの、間。 「…なんでも…ない」 静かに、それだけを答える彼女を、シンジは戸惑ったように見ていた。 互いに手に取ったのは、互いの楽器だった。 バイオリンとチェロ。 そのまま、演奏が始まる。 互いの音色。 互いの心。 そんな物が混じり合うのを感じるのだ。 不意に重ねる視線。 互いに示し合わせた訳でも無いのに、重なる。 それでも、それは互いの絆なのだ。 言葉にはしない。 できない。 けれど、それは間違い無く、本当の心の言葉。 音に託した、心の願い。 不意に音が止む。 微かに残る響きを耳にしながら、少年は戸惑ったように少女を見上げていた。 少女はバイオリンを構えたまま、少年を見つめていた。 その瞳が、不意に揺れる。 「……綾波?」 訊ねる声。 けれど少女はその声に答える事は無い。 ただ唐突に、その音色が生まれる。 即興の曲なのだろう。 聴いたことの無い音色。 旋律。 けれど、少年にはそれはとても自然な旋律に聞こえた。 ただ目を閉じて、一心に音色を生み出す少女の姿を、少年は半ば惚けたように見つめる。 普段の水晶のような美貌が、今だけは微かに紅潮して見えた。 『生』を、感じられた。 決して乱れることの無い、鏡のような水面。 そんな彼女が、今だけは律動を感じる事が出来た。 「………綾波……」 月の光に照らされて、薄く輝く。 白い肌も、銀の髪も。 白い繊手に導かれ、旋律が跳ねる。 彼女の願いも、心も。 いつの間にか、シンジは静かに目を閉じ、旋律の流れを感じていた。 そして音色を重ねる。 即興の旋律に、何の意志疎通も無しに音色を重ねる事など、本来なら不可能の筈なのに。 彼らには、それが可能だった。 長い関係が生み出した、無言の意志疎通でも無く。 ディスカッションによる、意志疎通でも無く。 ただ、心が重なるがゆえの、二重奏。 ふわり、と少女の目が開いた。 深紅の瞳が少年をとらえる。 刹那、少年の瞳も少女の瞳をとらえていた。 微かに微笑んだように見えた。 互いに。 旋律は東の空が白むまで、途絶える事は無かった。 静かな瞳だった。 夜の彼女では無かった。 あれは、あの彼女は『昼』の彼女だった。 今までずっと、夜は『夜』の彼女だったのに。 今夜に限って、それは違っていた。 何故なのだろう。 そう思う。 同時に、大した差では無いとも思う。 『昼』も『夜』も、結局は同じ彼女なのだから。 少なくとも、彼にとっては。 欠伸を噛み殺し、少年はベッドに潜り込む。 朝になれば再び、幼なじみの少女の襲来を受けるのだろう。 それまで、少しでも眠っておかねばならないのだから。 ゆっくりと、月の沈む峰を見る。 うっすらと白んだ東の空を見、少女はゆっくりとカーテンを引いた。 白い陽の光を遮り、薄暗くなった部屋の中で、少女はゆっくりとベッドの中に潜り込む。 その瞳が閉じる瞬間、微かに動いた唇。 「…おやすみなさい」 久しぶりの言葉。 そして、想い。 小鳥のさえずりを聞きながら、彼女は眠りの森へと引き込まれていった。 fin お久しぶりな方には、お久しぶりです。初めての方には初めまして。 駄文書きKeiです。 ”ユエ”とは中国語で『月』の事です。 既にタイトルでは四苦八苦してます。 ORIGINAL 2000.6.11 THIS FILE 2001.2.7 Kei Takahashi |