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 考えてみれば、ここに来るのも久しぶりだな…。
 碇シンジはぼんやりと景色を見ながらそう考えた。
 彼の眼下には、彼が住む街が広がっていた。
 ここは住宅街の外れにある、小高い山の途中にある展望台だった。あまり手入れが入っていないのか、荒れ放題になっているが、ここから見る景色がもっとも綺麗だろう、とシンジは思っている。
 木の部分が腐りかけたベンチには腰掛けず、シンジはぼんやりと下を眺めていた。
 ここは秘密の場所だった。
 幼い頃の。
 ここを知っているのは、この秘密を共有していたアスカだけだろう。
 あの幼い日に、ここで遊んだ少女の事を思い出す。
 その容姿はあまり思い出せないが、多分アスカなのだろう。
 そう、漠然とシンジは思っていた。
 あの頃、親しく遊べた女の子と言えばアスカだけだったから。
 記憶はぼやけ、今ではどのような事をして遊んでいたのかすら思い出せない。
 どのような事を話していたのかも。
 追憶の彼方で、ただ紅のイメージだけが残っている。
 そして今、シンジの中で紅といえばアスカぐらいしかイメージと直結はしない。
 だから、多分、アスカ。


「またここで逢おうね」


 再会の約束。
 交わした事を憶えている。
 だが、それが一体いつを指しているのか。
 分からない。










『逢月』
-朧月 Fifth Impression-
From "EVANGELION" (C)GAINAX/TV TOKYO
Presented by Kei Takahashi









 きっと、誰もいないのだろう。
 少年はそう思った。
 そこは、それ程までに人気の無い場所だったから。
 ただただ、空に浮かんでいるような、そんな錯覚を感じる。そこは忘れ去られた展望台。
 ほんの少し、怯えを押し隠して足を進める。
 だが、そんな怯えも街を見下ろす景色の前に消し飛んでしまう。
 微かに開いた口から、感嘆の息が漏れ出す。
 そして、不意に振り向いた。
 そこに一人の少女の姿を見出し、首を傾げる。
 先ほどまで、そこにそんな少女がいただろうか。
 自分の後から来たのか。
 だが、ここに来るにはあの茂みを突き抜けなければならない。それは即ち、微かでも音を立てねばならない。
 だがそんな事は、どうでも良い事でもあった。
 少女の寂しそうな目が、今は一番の気懸かりになったから。
「……あの」
 怯えるように、そして、なにかを期待しているようなその目。
「一緒に、見ない?」
 そう聞いてみた。
 少女の表情が少しずつ動き出し、そして笑みに変わる。
「…うん」
 そう頷いた。






 チェロの音が響く。
 少年は一人、椅子に腰掛けチェロを一心不乱に弾いていた。
 目を閉じ、ただひたすら一心に。
 そして不意にその音が止んだ。
「……はぁ」
 閉じていた目を開き、吐息を吐き出す。
 小さく、本当に小さく少年は首を横に振った。
「……こんな風になるなら、コンクールに出なきゃ良かった……」
 少年はそう呟き、窓を開く。
 冷えた夜気が部屋の中に流れ込み、軽く身震いをする。
「寒…」
 吐息が白くなる。
「…………もう、夜なんだ…」
 国が違えば、見える空も違うのだろうか。
 不意に、そんな事を思った。
 夜空に広がる星の瞬きも、まるで違う物に見える。
「……あの月も、違う風に見えるのかな……」
 今の彼女達は、ちょうど学校だろうか。
 ふと、そう思うとおかしくなる。
 今、自分を包んでいる夜が、まだ彼女達を包んでいない事を思うと。
 空気の匂いも、夜の匂いも、街の匂いも、なにもかもが違う。
「音楽の都…か」
 歴史ある音楽堂を遠くに望むホテルの窓から、シンジはそう呟いた。



「………ねー、アスカ。今日の帰り、どっかに寄って行かない?」
 洞木ヒカリの誘いに、惣流・アスカ・ラングレーは首を横に振って断った。
「ごめん、ヒカリ。あたし、今日はまっすぐ帰るわ」
 手早く荷物をカバンに詰めると、アスカは立ちあがった。
「ゴメンね」
 そう言って教室を出て行く。
 何かを言おうするヒカリ。だが、結局彼女の口から出た言葉は彼女の想いとは別の物になった。
「また明日ね。アスカ」
「また明日、ヒカリ」
 明るい笑みを浮かべて立ち去る少女を見送る。
 その笑みは、変わらないように見える。
 けれど、ヒカリには分かる。
 分かってしまう。
 『偽り』だと。
「シンジの奴がウィーンに行っちまって、もう2週間だもんなぁ」
 相田ケンスケがそう言うとカバンを持った。
「惣流も、元気のうて張り合い無いわ。ホンマ」
 鈴原トウジが詰まらなそうにそう答える。
「……退屈やのう」
「……退屈だねえ」
 窓の外では、青空が広がっていた。



 スタスタと歩く足が、不意に止まった。
 一瞬、考え込むように足が左右を向き、そして決めたのだろう。
 足の向く先が先ほどとは違う道になる。
 暫く、普段は通らない道を歩いた先に長い階段があった。
「……ここに来るのも、久しぶりよね」
 ゆっくりとした歩調で登る階段。
 あちこちの石が欠けているのを見る度に、昔を思い出して行く。
 あの頃から、あの石は欠けていたような気がする。
 一番上までは登らずに、途中で横道に入る。
 長い藪を抜けると、その先に目的地はあった。
 吹き抜ける風が、自分の金色の髪をなぶる。しばらく風にまかせていたが、その内邪魔になったのだろう。
 手で押さえて歩き出す。
 少女の眼前には、少女の住む街が見渡せる光景が広がっていた。
 いつもとは違う視点から見下ろす街は、少女にいつもとは異なった感慨を抱かせる。
「………寂しい訳じゃ、無いんだからね………」
 小さく、少女は呟いた。
 目の前の街に、あの少年はいない。
 それだけの事なのに、何故か街が寂しく見えた。



 夕焼けの迫る頃、アスカは展望台を後にした。
 来た時とは違い、ゆっくりと降りる石段の下に、アスカは一人の少女の姿を見止めた。
 蒼い銀の髪と、深紅の瞳を持つ少女。
 その手には、小さなバイオリンケースが一つ。
 ゆっくりと登ってくる少女と、自分との距離はどんどん縮まっていく。
 何か、言うべきなのだろうか。
 不意にそんな考えがアスカの脳裏に湧き上がった。
 だが同時に、何を言えば良いのだろう。
 そんな考えも湧き上がる。
 結局、何も言う事無く、二人は同じ石段の上に立った。
「…………何処、行くの」
 アスカの口が、そう動いた。
 少女の深紅の瞳が、アスカを見る。
 良く出来たイミテーションの宝石に見えた。
 何も、何の感動も感慨も、感情も無い、ただの硝子玉。
「…………あなたも、あそこにいたのね」
 静かな少女の声。質問の答えではなく、また問いかけでも無い。そんな声。
 そして少女は再び石段を登り始めた。
 そんな少女を見上げ、そしてアスカは再び石段を降り始めた。



 ガサリ、と藪が音を立てる。
 暫しの間の無言の格闘の後に、一人の少女が藪の間から抜け出てきた。
 その髪にくっついた葉を払い落とし、ゆっくりと深呼吸をする。
 眼前には、もう陽が落ちかけている夕焼けの景色が広がっていた。
 静かに、少女は暮れなずむ街を見やる。
 その瞳は、今まさに眼前で落ちようとする夕陽のごとく、深紅をたたえている。
 無言で手にもったケースからヴァイオリンを取り出し、少女はそれを構えた。
 軽く全身でリズムを取り、そしてゆっくりと弾き出す音は、静かな小夜曲だった。
 ただひたすらに弾き出される音色は風に乗る。
 ゆったりとしたリズムで奏でられる小夜曲は、街を包み込んでいた。

 月光が自分を照らす頃、ようやく少女はヴァイオリンを弾く手を止めた。
 蒼い銀光に照らされたまま、少女はぼんやりと街の光を見下ろしている。
 じっと、無言で見つめていた視線をふと外し、少女は空を見上げる。
 月。
 どんな場所から見上げても、変わらない、慈愛の女神。
「………貴方も……見ているの?………」
 変わらない物を。
 永遠のものを。
 永遠の誓い。
「………ねえ」
 それは問いかけ。
 そして少女は静かにその場を退場する。



 風が夜の香りを運んでくる。
 昼はその力を失い、夜の闇が大地を覆う。
 ただそれが、何の温かみも無い闇なのかと言えば、そういう訳でもない。
 月と、星の光が昼の陽射しとは違う温かみと安らぎを与える。
「………夜とは、心に与えられた安息の世界……」
 少年が一人、誰もいない展望台で街を見下ろしていた。
 風になぶるに任せている銀色の髪が、月の光で淡く輝いている。
 深い色合いの紅玉が、銀光に照らされて艶やかに濡れていた。
「………昼とは、肉体に与えられた安息の世界……」
 人の営みを示す家々の灯かりが、暗い闇の海に浮かぶ星明かりのように眼下に広がっている。
「………狭間にたゆたいしは………」
 言葉は風にかき消された。
 そして少年の姿も、また。



 碇シンジの昼間すべき事。それは、この音楽の都で最大限のレッスンを受ける事だった。
 他にも数人いる同輩達と肩を並べ、老先生の教えを受ける。
 ただやはり、シンジがこの中でも最も弱輩である事は変わらなかった。ただここに居る人間達は、年齢を問題視するような人間ではなかった。彼の演奏は到着した日に即全員に披露され、そして彼はここに迎え入れられた。
 今日もまた、チェロを繰り返し繰り返し弾き続けている。
 それはある意味、苦痛を伴なう作業でもあった。
 彼にとってチェロは、好きな時に弾く物だったから。
 それがいつの間にか、彼の生活時間の殆どを奪ってしまっている。
 それが当たり前だという人間が大半の中で、シンジは確かに異質だった。

「…シンジってさ、不思議な奴だよな」
「え?」
「そうそう。別にこの道で食っていくっていう気迫が無いよな」
「有名になりたいとか、そんなの無いのか?」
 昼食の席で、シンジは隣に座っていた青年、グリシスからそう訊かれた。
「有名…っていうのは、別に無いかな……」
 さらに話題に入りこんできた周囲の人間に、シンジはそう答える。
 その答えを聞くと、全員が呆れた表情を浮かべるのだ。
「え? なに?」
「お前、変な奴だな」
 グリシスの言葉が、恐らく全員の内心の代弁だったのだろう。皆が頷く。
「へ、変かな。そんなに」
「変だな」
 俯いて、頭をかくシンジを、全員が不思議な微笑みでもって見つめていた。
 競争という中で互いを認識していた彼らにとって、確かにシンジという存在は異質であり、そして安らぎであった。
 唯一人、それを競争の手段としない少年の存在が。
「そうね。シンジは、やっぱり変な子かもね」
 そう言って笑う少女、アリエッタはそんな仲間達の中で、最もシンジに近いのかも知れない。
 金色の髪と、白い肌は少年の幼なじみを思い出させる。
 年の頃も比較的近い。それは彼女が老先生の孫であるからだが、明確に違うのは、少女が滅多に声を荒げない事である。
 いや、少なくともここに来てからの2週間というもの、彼女が声を荒げたところを見たことは一度も無い。
「……みんな、アスカみたいじゃないんだな」
 ぼそりと呟く言葉は、グリシスの耳にしか届かなかったようである。
 妙な顔をして、グリシスはシンジを見下ろしていた。



「ただいまー…って、どうせ居ないか」
 玄関のドアを開け、アスカは単身赴任の成人男子のような事を口にしながら家へと上がろうとした。
 と、ガチャと音がした。
「あ、アスカちゃん。お帰りなさい」
「あ、おば様。ただいま帰りました」
 自分の母よりも母親のような隣家の女性。碇ユイである。アスカも彼女には丁寧に頭を下げる。
「丁度良かったわ。アスカちゃん?」
「え? なんですか?」
「これ、なんだと思う?」
 悪戯っぽく笑い、ユイが自分の眼前にかざしたのは、白い封筒だった。いや、見慣れない飾りが縁についている。
「…エアメイルですか?」
「ええ。シンジからの手紙よ」
「シンジから!!?」
 アスカの表情が一転して明るくなるのを、嬉しそうに見るユイ。にっこりと笑って封筒を一つ、アスカの手に乗せた。
「…これは?」
「同封されてた手紙。アスカちゃん宛てよ」
「あたし宛て?」
 あて名を見てみると、確かに『アスカへ』と書いてある。差し出し人には『碇シンジ』。
 見慣れたシンジの筆跡で、そう書いてある。
「あ、ありがとうございます!」
「ポストに入れておこうかとも思ったんだけど、丁度良かったわ。きちんと、渡したわよ?」
「は、はい!」
 ゆるむ頬を押さえながら、アスカは軽く頭を下げる。
「ありがとうございました。おば様」
「良いのよ。別に」
 にっこりと笑うと、ユイはまた家の中に戻っていく。それを見送り、そしてアスカも急いで自宅のドアを開いた。
 靴を脱ぐ時間も惜しいかのように、アスカは急いで靴を脱ぎ、そして鞄を自室へと放りこむ。
 ベッドに腰掛け、封筒を開こうとする。
 そこで、ふと、手を止めた。
 すっと封筒を机の上に置き、ゆっくりと着替え始める。
 そしてキッチンへと向かい、お茶を煎れて来る。
「……よしっ」
 改めて封筒を手に取り、アスカはそれを開いた。
 白い便箋が2枚。
 すっと抜き出して、ひらり、と何かが封筒から落ちた。
「…写真?」
 見慣れたサイズの紙片に、アスカはそう思う。そしてそれを取り上げ、見てみる。
 そこには、シンジが微笑んでいた。
 いや、それは正確な表現では無かったろう。
 シンジと、見慣れぬ金髪の少女が一緒に微笑んで写っていた。
「………誰よ、こいつ!」
 ぎしっ、とアスカの雰囲気が変わる。
 それまでの終始、こぼれそうな笑みを押さえよう抑えようとしていたのが、急激に怒りへと変貌しているのだ。
 食い入るように手紙の文面に目を走らせる。
 そこには型どおりの挨拶から始まり、これまでの近況。そしてどんな事をしているのか、アスカがどんな事をしているのか? といった内容が続いていた。
「あの女について、1行も無いじゃないの…」
 読み終わり、アスカはそう呟く。
 なんだか、妙に親しそうだった。
「………シンジの奴〜、浮気なんてしてたら、ぜっっっったいに、許さないんだから!!!」
 思わずそう怒鳴ってしまうアスカだった。



 チェロの音が響く。
 屋内で、一人の少年が一心不乱に弾き続けている。
「………シーンジー。あんまり根詰めると、バテちゃうよ」
 じっと少年の演奏を聞いていた少女が、呆れたようにそう声をかける。
「…アリエッタ…」
 弾く手を止め、シンジは苦笑を浮かべる。
「そうは言っても、僕はこの為に来てるんだから…」
「たまには、気分転換も必要でしょ! ね?」
「あのね…」
「その辺にしておいてね、アリエッタ。シンジ君、まじめなんだから」
 不意に二人の会話に女性の声が入りこんだ。
 そして、それはシンジには聞き覚えのある声でもある。
「…シヲリ!」
 アリエッタが先んじて、声を上げた。
「…遠山さん…」
 そこに居たのは、コンクールで競った遠山シヲリの姿だった。


「お久しぶり。シンジ君」
 にこり、と微笑みかけられる。
「あ、…お久しぶりです」
「シンジ、シヲリと知り合いなの?」
 アリエッタが僕にそう問い掛ける。
「え? アリエッタも知り合いなの?」
「うん」
 にっこりと笑いかけられ、僕は遠山さんに視線を移す。
「私、前に老先生に教えていただいた事があるの。その時に、ね」
 軽くウィンクを返され、僕はまた頬が熱くなるのを感じた。
「彼がここに来る理由になったコンクールでね、一緒だったのよ」
 今度は遠山さんはアリエッタにそう説明している。
「へえ。じゃあシンジ、シヲリよりも上手なの?」
「そうねえ。上手だったわよ?」
 柔らかいトーンの声で、遠山さんがアリエッタと会話している。僕はそんな二人に視線を向けるだけで、会話に溶け込むことが出来ないでいた。
「ねえ、シヲリ。今日はどうしたの? 突然来て」
「ん? 所用でこっちに来たから、ついでに老先生にご挨拶に、ね。そしたらシンジ君がここで練習してるって聞いたから」
「じゃあ、遠山さんも暫くこっちに?」
「…ううん、私は1週間の予定よ」
 椅子に座り、シヲリは小さく笑う。肩口で揺れる黒髪がサラサラと音を立てているのを、アリエッタが羨ましそうに見つめている。
「…どうしたの? アリエッタ」
「いいなぁ」
 心底羨ましそうに、アリエッタが声を出した。シンジも、そしてシヲリもそんなアリエッタの言葉の次を待って、言葉を繋げようとはしない。
「シヲリ、綺麗な髪だよね。あたしも、シヲリみたいな髪が良かった…」
 自身の癖のある髪の先を軽くつまんで、そう呟くアリエッタにシヲリは小首を傾げた。
「あら、アリエッタの髪だって綺麗よ。私も羨ましいくらい」
 そっと指先が、アリエッタの金色の川の一房に触れる。
「ほら、まるでお日様のよう」
 ふ、と口元に浮かぶ微笑み。アリエッタも、そしてシンジも思わず見とれてしまう程の。
「…それとも、アリエッタは自分の髪が嫌いなの?」
「好きよ! それは好き…。でも、シヲリみたいな綺麗な黒髪も、好き!」
「あらあら」
 アリエッタの強い言葉に、シヲリは思わず苦笑を浮かべてしまう。
「アリエッタは欲張りさんね」
「むぅ〜」
 シンジはそんな二人の雰囲気に、何故かほっとしていた。
 無意識のうちに、彼は自身の傍に幼なじみの少女やあの紅の瞳の少女。それに両親がいない事がストレスとなっていたのだろう。
 だが、二人の会話を聞いている内にそのような雰囲気の中で、精神的に安らいでいたのだ。
 自身がいくら昼行灯な性格でも、やはり異国の地で一人という環境は彼に色々な意味でのプレッシャーを与え続けていたのだ。
「どうしたの? シンジ」
「え? あ、ああ。なんでも無いよ」
 ふ、と思いついたようにシンジはシヲリを見上げた。
「そうだ。遠山さん」
「何?」
「良ければ、合奏してくれませんか? アリエッタも」
「……あら、おもしろそうね」
「あたしも構わないわよ」
 そう言って二人は自分の楽器を取りに、一旦別室へと引き上げて行く。
 それを見ながら、シンジはゆっくりと弦の調律を取り始めた。


 夜の中で、一人の少年が窓の外を見上げている。
 一人、ただ静かに。
 いつもなら夜を彩る音色も、今日はまだケースの中にある。
「…元気かな」
 ふ、とそう呟く。
 今日、アリエッタやシヲリと演奏した事が、シンジの中にそんな想いを生み出したのだろう。
 アリエッタはヴァイオリンを、シヲリはチェロを。そしてシンジもチェロを。
 だがアリエッタと弾いていても、彼女とのような演奏は生まれない。
 あの、感情も、心も、何もかもが重なり、そして異なる音には。
「……………逢いたい……のかな。僕は」
 問いかけ。
 それは、消えない約束。



「どうしたね」
「……え?」
 不意に声をかけられ、少女はヴァイオリンを弾く手を止めた。
「……心ここに在らず、といった風じゃが」
 老人にそう尋ねられ、レイは何も言わずに俯いてしまう。
「…シンジ…かね?」
 そう尋ねられても、レイは何も言わずに俯くまま。だがその手が微かに震えているのを、老人は見逃してはいない。
「……3ヶ月の予定なのだから、そんなに心配する事も無かろう?」
 老人の言葉に小さく頷きながらも、レイの表情から憂いは消えなかった。それを見て老人は静かにため息をつく。
「今日は、もう止めておこう。これ以上は、無意味だよ」
 老人の突き放すような言葉に、レイは驚いたように老人の顔を見上げた。だが老人は静かに笑みを浮かべていた。
「……シンジに手紙でも書くといい。少しは、気も晴れるじゃろうて」
 そう言われ、レイは俯く事しか出来ない。
 逢えない。
 たったそれだけの事が、どうしてこんなに辛いのだろう。
 どうして、こんなに悲しいのだろう。
 あなたに逢いたい。
 それだけを望んでいるのに。
「……はい」
 頷くレイに、老人は微笑みながら頷いた。



 ぼんやりと眼下の町並みを眺めながら、レイはため息をつく。
 紅く染まった町並み。夕陽が街を紅く染め、そして空と雲を紫に染めていく。彼女の瞳のような紅玉が揺らいで山並みに消えて行こうとしている。
 それを眺めながら、レイはただぼんやりとしていた。
 不意に風を感じる。
 空気の流れ、命の流れ。
「……貴方は」
「やあ。どうしたんだい? なんだかめり込んでいるように見えるけど」
 振り向いた先には、一人の少年の姿があった。
 銀色の髪と深紅の瞳。
 レイと同じ特徴を持ちながら、その雰囲気はまるで別物の少年。
 渚、カヲル。
「…貴方には、関係の無い事だわ」
 ふい、と視線を元に戻して、レイはカヲルに背を向ける。
「ひどいな。…協力までしてあげた僕なのに」
「…その事には、感謝しているわ。でも…」
「逢いたい、んだろう?」
 ぴく、とレイの手が震える。
「彼に」
 カヲルが不可思議な笑みを浮かべて、そう続ける。
 まるでレイの反応を面白がっているかのように、瞳には笑みの波動が浮き上がっている。
「僕になら、できるんだよ?」
「…これ以上、あなたに借りを作りたくないの」
 静かなレイの声。だがその中に強い拒絶がある事にもカヲルは気付いていた。だがわざとそれに気付かないように、にこやかに口を緩ませる。
「借りだなんて。僕は友人としてだね」
「……あなたこそ、何が望みなの?」
 カヲルの言葉を遮るレイの声。
「…欲しいものがあるんだ」
 カヲルの笑み。その深紅の瞳が、夕陽の輝きを映す。
 レイはそれ以上何も言わず、ただじっと街並みを眺めていた。




「…………シンジ、今何してるのかしらね」
 呟いても、多分伝わらない。
 電話しようと思った。
 でも、なんだかそれじゃあ、あたしが寂しがってるみたいで嫌だった。
 だから、できない。
 シンジからかけてくるのを、ただじっと待ってる。
「…馬鹿みたい」
 自分が馬鹿みたいだ。
 寂しいのはあたしだ。
 そんな事、もうずっと前から分かってる。
 けど…。
「………あたしは…シンジの事………」
 好き。
 きっと、好き。
 あいつと居る事が、あたしがあたしらしくある事の理由だから。
「……馬鹿シンジの…バカ」
 シーツにくるまって、無理やり眠ろうとする。
 きっと無理だろうけど、でも、このままじゃ余計な事を次から次へと考えてしまいそう。
「寝るったら、寝るの!」
 バサッとシーツを頭まで被って、私は目を閉じた。



 その夜は、真円の月が出ていた。
 銀色の光が地上を照らす。
 薄雲によって霞みがかった柔らかな光になり、地上の輪郭はぼやけて応えている。
 微かな風が吹き、そして少女の姿がマンションの屋上へと生まれた。
 弱々しい月の光は影を生み出せるほど鮮明な光ではなく、少女の姿は朧な燐光を放っているようにも見える。
 少女の持つ銀色の髪と白い肌が、まるで月の光の結晶の化身のように見せているのだ。
 月の光を宿し、淡く輝く紅い瞳。
 無言でその瞳を空へと向け、そして足元へと向ける。
 何の応えも無い事を悲しむように、少女は視線を曇らせる。
 コンクリートの床に座り、そしてゆっくりと目を閉じる。
 微かに開かれた小さな唇から、淡い音が漏れ出す。
 どれ程の間、そうしていただろう。少女の目は不意に開き、そしてその口の端が和らいだ。
 その手が空を泳ぎ、そして足が宙を舞う。
 それは何処の国の物とも知れぬ舞。
 少女の瞳には歓喜と、そしてほんの少しだけの寂しさがある。
 月が翳るまで、その舞いは続く。
 そして月の消える頃、少女の姿は光が消えるように掻き消える。
 まるで、そこには初めから誰もいなかったかのように。




 碇シンジのチェロの音色が響いていた。
 いつもの通りのレッスンの中、不意に始まったセッション。
 だがシンジと共に演奏しようとする者は誰もいなかった。
 別に彼がこの集団の中で浮いている、という訳ではなかった。むしろ、これ以上ない程に彼は溶け込んでいる。
 では何故、彼と共に弾こうとする者がいないのか。
 それは彼の音色が独特であるからであった。
 まるで他者の音色を排するかの如く、いや、それは正確な表現ではないだろう。
 むしろ彼の音色は誰の音色とも同調した。だが最後には、他者の音色は全てシンジの弾き出す音色によって染められてしまうのだ。
 それは演奏家の卵たる他の人間達にとっては耐え難い苦痛となった。
 結果的に、シンジは一人で演奏する事になるのだ。
 そしてそれは、シンジにとっても望むところだった。
 彼の演奏は、恐らくは結局のところたった一人の為だけなのだから。
 無心に弾き出される音色。
 それはそれを聞く聴衆の心に染み出す。
 だがそれを聞いていたシヲリだけは、彼の音色の微妙な違いに気付いていた。

 ……違う。

 この音色は、あのコンクールの時に弾いた音色とは別の物だ。
 彼が違反をした、とかそういう事ではなく、同一人物による演奏でありながらまったく雰囲気が異なっているのだ。
 以前アリエッタと共にセッションをした時にも、感じた。
 微かな違和感。
 恐らくは、この音色は寂しさを謳う歌だ。
 ただひたすらに、求める人がいない事を悲しむ歌だ。
「…シンジ…君?」
 微かに呟く。
 彼の中には、自分も知らぬ何かがあるのだろうか。
 彼の人となりを知る時間はあった。だが全てを知っている訳でもない。
 ただそれでも、あのコンクールの音色と今の音色とのギャップは、シヲリには不可思議な物だった。


 そしてシンジ。
 彼自身も、音色の違いは気付いていた。
 元より彼からすれば、あのコンクールの音色はレイと共にあったからこその音色である事は分かっていたのだ。
 だからこそ、己一人で出せる音色の限度もわかっていたのだ。
 誰かの為に。
 彼の音楽の原点は、そこにあるのだから。



 音色は変わらず寂しさをたたえていた。
 柔らかく、そして優しい音色でありながら、同時に何かを求めている厳しさ。それを感じさせる。
 アリエッタにも、それは分かった。
 むしろ、彼女には必要以上に分かってしまった。

 ああ、シンジには誰か大切な人がいるんだ、と。

 自分ではなれない。そんな存在が、既に彼の中には棲み付いているのだろう。そしてその誰かがいない事が、こんなにも寂しい音を生み出している。
 悲しくなる。
 そして、羨ましくなる。
 こんなにも想われている、その『誰か』が。
 きっと、自分をこんなにも想ってくれる人はいないだろうから。



 月を想う。
 シンジはチェロを弾きながら、ただひたすらに想う。
 そう。
 この音色は本来誰に聞かせたかったのか。
 それだけを。
 最も近くにいて、そして伝えたい音色を。
 ただひたすらに。
 そしてそれは、空に広がる。

 逢いたいんだ。

 ただそれだけを、伝えたくて。
 ゆっくりと、曲は終わりへと近づく。
 そしてシンジの手が静かに引かれ、響きは終わった。






 レイは静かに空を見上げていた。
 今この時、彼はこの月を見る事は無い。
「………寂しいのね」
 そっと呟く。
 ガラスに映し出された自分の姿。そこには、寂しそうな、悲しそうな目をした自分が映っている。

 あなたは? 寂しくないの?

「私が? …幾千の夜も、私は一人で過ごしたわ」

 でも、今のあなたは傍に誰かがいる事の意味を知ってしまった…。

「………そうね」

 寂しくは、無いの?

「…………………寂しいわ。でも……」

 でも?

「信じていられるもの」

 レイの口元に微笑みが浮かぶ。
 ガラスの中のレイにも。
 ほんの微かに浮かんだ笑み。けれど、それはレイの心に柔らかい光を投げかける。
「……信じているから。だから、私はここにいるの」
 レイはそっとガラスに指先を触れさせる。
 そこに映る自分の瞳には、もう寂しさは無かった。






「行ってきまーすっ!!」
 ドアを乱暴に開けてアスカが廊下を走って行く。自分の腕時計を見ながら、ゆっくりとしか移動しないエレベーターに悪態をつく。
 今日は寝過ごした。
 その事を悔やみながら、アスカは舌打ちをする。



「……」
 いつものように、一人で歩く。
 同じ制服に身を包んだ少女達や、同い年くらいの少年達が集って歩いている中で、彼女はいつものように一人だ。
 レイの姿は朝露に輝く光の中で、一瞬この世の人ではないかのようにすら見えた。



 力強く弓が引かれ、弦が鳴る。
 朝の光の中で、街が活気を見せ始める時刻。
 少年は一人、高台の展望台で演奏を始める。
 閉じた瞳。
 少し気弱げな顔立ち。
 だが、演奏をしている時の少年には、どこか一本の芯があるようにも見える。
 柔らかな朝の光の中、少年の姿は天使のオブジェにすら見えた。
 その背に、まるで羽根でも生えているかのように、音色の翼が広がる。
 眼下の街を、包み込む。
 演奏が終わり、ゆっくりと息をつく少年。
 不意に、拍手が沸いた。
「え?」
 慌てて振り返ると、そこには一人の少年の姿があった。
 にこやかな笑みを浮かべて、拍手をしている。
「…素晴らしい演奏だったよ。シンジ君」
「……カヲル…君」
 銀色の髪に深紅の瞳の少年は、その瞳に太陽の輝きを映して微笑んだ。


「…話じゃ3ヶ月って訊いてたんだけれど、早かったね?」
「あ…うん。予定を繰り上げてきたんだ」
 腐りかけたベンチではなく、坂になっている地面に直接座って会話を続ける二人の姿があった。
 カヲルは面白そうにシンジの横顔を見つめていた。
「あ…なに…かな」
「ん?」
「さっきから、僕のほうを見てるから…」
「ああ。ふふっ。……久しぶりに会えたからね」
「…そうかな」
「ま、君にしてみれば、僕の事は二の次になるんだろうけれど」
 カヲルがゆっくりと伸びをして、そう笑う。シンジもその言葉に一瞬言葉を詰まらせる。
「い、いやっ、別にそういう訳じゃあ…」
「帰ってきた理由は……彼女達の事だろう?」
「………う…」
 カヲルの口調は既にいつもの、どこか人をくった物言いではなかった。優しげで、思慮深い、年老いた賢人のような瞳。
「君にとっては、まだ彼女達の方が大切な事…か」
「僕だけの、演奏じゃなかったんだ…」
 不意にシンジが呟く。
「……そうなのかい?」
「彼女がいたから……できた事なんだ…」
「それでも、君の力なんだよ」
 カヲルはそう言って立ちあがる。
 不思議そうに見上げるシンジ。太陽を背にしたカヲルは逆光でその表情は殆ど見えない。けれど。
「それは、君の力なんだ。碇シンジ君」
 その言葉は、奇妙に力強く、そして確信的だった。





 アスカの足はまた階段を登っていた。
 なぜだろう。
 ここ数日、毎日のようにここを登っている。
「寂しい訳じゃぁ……ないんだからね」
 言い訳のように、言葉を口にする。
 そしてゆっくりと草を掻き分けて歩いた先に、一人の少年の姿を認めた。
「…………嘘」
 ここに居る筈が無い。
 そんな訳がある筈が無い。
「……………あす…か?」
 振り向いた少年の、少しだけ驚いたような声。
 その瞳。その顔。
 その声。
「…しん…じ?」
「………ただいま、アスカ」
 少しだけ逡巡して、そして彼は微笑う。いつものように。
「シンジっ!!」
 アスカの身体はいつの間にか、少年の腕の中にあった。
「あ、あ、あ、アスカっ!?」
「どうしてっ! あんた、どうしてここにいんのよっ!!」
 口調はきつめ。けれどアスカの肩は震えていた。
 目の端には、微かに雫がたまっていた。
「……あ、あの…予定が繰り上がったんだ……、だから…」
「帰ってきてるんなら、さっさと家に帰ってきなさいよっ!」
 ぎゅっ、とシンジのシャツの胸元を握る手。
 そしてアスカは少しだけ離れる。
「この……バカシンジ!」
 いつもの怒声だ。
 けれど違うのは、ほんの少しだけ、アスカの声に震えがある事。
 そして怒鳴られているシンジが、優しく微笑んでいる事。
 風が夕刻の香りを運んできた。



 静かな夜。
 開け放たれた窓。
 そして。
 月を見る少年が一人。



 舞い降りる少女。
 月に照らされたその姿は、陽炎よりも朧に。
 開け放たれた窓に気付く。
 そして、そこから月を見る少年の姿に気付く。
 微かに少女の口が震える。



 風がカーテンを揺らす。
 ふっと見上げた少年の目の前に、一人の少女の姿があった。
「………綾波」
 微笑みを浮かべて、少女の名を呼ぶ少年。
「いらっしゃい」
 けれども、少女はそれに答えず、ゆっくりと震える指先で少年の顔を撫でる。
 まるで確かめるかのように。
「……どうして…」
「逢いたかったから」
 少年の声は、静かだった。けれども、力強かった。
「……逢いたかったんだ」
 少女の瞳から、一滴の宝石が零れ落ちる。
 そして少女の影が、少年の影と重なった。
 触れたのは頬。けれど、触れた物はとても柔らかかった。
「……………あや……あやなみ?」
 真っ赤になって驚く少年。そして、微かに頬を赤らめたまま、少女は窓に腰掛けた。
 いつもの定位置に。
 そしてそっと呟く。
「………………おかえりなさい」
 そして少年は頷く。
「…ただいま」
 夜半遅くまで、チェロの音色は途切れなかった。
 そして、月が翳る事も。
 いつまでも神々しく輝く月は、地上を照らす女神なのかもしれない。
 そう思わせる程に、美しかった。



 翌朝。
 碇家には久しぶりに、惣流家の長女の怒鳴り声が響いた。
 そして通学路では綾波レイが、じっと誰かを待っているようにして、立って
いたのだった。



fin









 お久しぶりな方には、お久しぶりです。初めての方には初めまして。
 駄文書きKeiです。

 月シリーズ、ひとまとめで投稿という暴挙に出たのには理由があります。
 まあ、自分のサイトを諸事情で閉めているのに伴い、月を一つの所にまとめよう、とようやく思いついただけなのですが。
 そのような訳で、神田さん、すいません。お手数おかけします。


ORIGINAL 1999.7.2
THIS FILE 2001.2.6 Kei Takahashi


ver.-1.00 2001!02/17めぞん公開
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