彼方に海が見える。
汗で濡れたシャツが背中に張りつく。フロントガラスから差し込む強烈な日光はクーラーの存在意義を消し去っていた。太陽に近いからこんなに暑いのか、青年はギアを握っていた手を流れ出る汗を拭うために額に移しながらそんな事を考えていた。青年は故郷へと向かう峠道を3年ローンで買った愛車で登り切ったところだった。かなり急な勾配だ。自動車がなかった時代だったらかなり大変だったろう。
青年は峠の頂上で車を停めた。そこは展望台と言っても良いほど眺望が良かった。青年は少し迷った後、車から降りた。車のドアを開けるとアスファルトの熱気と草いきれが青年を包み込んだ。かなり蒸し暑い。青年は遠くに見える海を見やる、10年前までの青年にとっての世界の果てだ。当時はあの向こうに陸地があるということが信じられなかった。もちろん、知識としては知っていた、ただそれが信じられなかっただけだ。青年は視線を海からもっと手前に移す。そこには谷にへばりつくようにして家屋が数10軒立ち並んでいた。それが青年の故郷の村だった。10年前までの青年の世界。青年にとって全てだった所。
青年が帰省するのは久しぶりのことだった。いや、それは正確ではない。村を出てから10年経つが青年が帰郷するのは初めてだった。なぜ青年は帰らなかったのか?理由は簡単だ、帰る理由がなかったから。では、なぜ青年は帰ってきたのか?それは帰る理由ができたからに他ならない。先日、電話があった、青年はそこで自分の祖母が死んだことを聞かされた。帰らないわけにはいかない。
祖母は気丈な人だった。16で嫁に来て、それから66年間家を守ることに生涯を費やした。家のこととなるとこれ以上無いと言うほど頑なだった。青年が東京に出ることを一番反対したのも祖母だ。祖母とはその件で一悶着あった。それも青年が10年間帰省しなかった事と関係しているのかもしれない。だが青年は思う、祖母はある意味幸せで、ある意味不幸な人だったと。
青年は車のドアを閉じた。そして、クーラーを最強にする。クーラーは人類の生み出した物の中でもっとも有益な物なのかもしれない、青年は人工的に冷やされた風を肌に感じながらそんな事を考えた。青年は引いていたサイドブレーキを元に戻し、ギアをニュートラルからローに入れた。青年は車をゆっくりと発進させた。故郷の村は峠を下ればじきに着く。
遠くの世界の果てが太陽の陽射しを反射してキラキラと輝いていた。
トゥインクル トゥインクル リトル スター
written by TITOKU
「久しぶりだな、ケンスケ。」
葬式が滞りなく済んだ後、少し袖の短い喪服を着た青年が声をかけた。
「ん?ああ、シンジか。」
「10年ぶりになるな、ケンスケが村から出て行って以来だから。どう、元気にやってる?」
シンジと呼ばれた青年は純朴そうな口調で訊ねた。
「まあまあかな。シンジの方はどうだ。嫁さんとは上手くいってるか?」
「もう8年も結婚生活送ってるからね。いいかげん飽きてくる頃だよ。」
「何言ってんだよ。村一番の器量良しをもらったくせに、そんな事を言ってるとバチがあたるぜ。」
あれはまさしく大恋愛だった。村人全員が何らかの血縁関係を持っているとは言え、さすがに従兄弟どうしの結婚は反対が多かった。と言うよりも賛成したのは当人たちだけだった。シンジは粘り強い態度で双方の両親を2年かけて説得した。まったくしつこい奴だ。まあそれがシンジの長所でもあるのだが。
「そんな事より残念だったね、おばあさん。」
「そうでもないさ。82年も生きれば大往生だよ。」
「それもそうだね。ところで今晩空いてるかな、レイがケンスケに会いたいと言ってるんだよ。」
「へえー。」
意外だった。そしてすこし嬉しかった。シンジは知らないがケンスケは村から逃げるように飛び出す前日の夜にレイに自分の恋心を告白した。もちろんシンジとレイが交際していた事は知っていたが、どうしても抑えられなかった。これが最後になるという思いもあったのだろう。
「喜んでお邪魔させてもらうよ。」
ケンスケはそう言いながらも少しばかり動揺していた。声が変になっていないかな、そんな事が気にかかる。しかしシンジはそんな事には気付かなかった。
「そうか、良かった。」
「何が良かったんだ?」
ケンスケは顔に疑問符を貼り付けて訊ねた。
「いや、ケンスケはこの村を嫌っているようだから、すぐ東京に帰ってしまうんじゃないかと思ったから。」
「まあ、仕事の関係で明後日までには帰らなければ行けないけど今日の夜は大丈夫だよ。」
「わかった。じゃあ今日の夜7時頃に家に来てくれないかな。」
「オッケー、今晩7時な。じゃあ俺はまだ後片付けがあるから、またな。」
「それじゃあ、待ってるよ、ケンスケ。」
シンジは帰って行った。その後ろ姿を見つめながらケンスケは先ほどのシンジの言葉にとらわれていた。レイが会いたがっている?俺に?期待してもいいのか?……止めよう、そんな事あるわけないじゃないか。10年前にきっちりと振られたじゃないか。期待するだけ無駄だ。レイにはシンジという旦那がいるんだし、こちらにも東京に恋人がいる。……やれやれ、何を考えてるんだ俺は。まったく未練がましい。
だがその晩、ケンスケの身の上にはある意味期待通りの、そしてある意味期待外れの出来事が起こった。
「まったく仕様がない奴だな。おい、こんなところで寝ると風邪ひくぞ。」
ケンスケは酔いつぶれて寝てしまったシンジを揺さぶった。しかし、シンジに起きる様子は見られない。幸せそうに眠っている。
「ケンスケに会えたのがよっぽど嬉しかったのよ。めったにお酒なんか飲まないのに、今日はこんなに飲んで。」
たしかに今晩は飲んだ。久しぶりに飲んだ地酒が美味かったせいもある。それにレイのつくったつまみも美味かった。
「レイは酒、強いんだ。」
ケンスケはほんのりと顔を赤らめているレイに話しかけた。10年ぶりにあったレイはあの頃のままに美しかった。いや、年齢を重ねた分だけさらに美しくなっているように思う。先ほど10年ぶりに顔を見たときに思わず見とれてしまった。
「そうかしら?私もめったにお酒を飲まないからわからないわ。」
「十分強いよ、俺なんかもうふらふらだよ。」
ケンスケはそう言って立ち上がった。確かに足元が覚束ない。俗に言う千鳥足というやつだ。
「な、そうだろ。レイも立ってみろよ。」
レイも立ち上がった。足どりはしっかりしている。だれも酔っているとは思わないだろう。
「まったく、これでシンジと従兄弟どうしなんて信じられないよ。」
「………」
しまった。まったくいつも一言多いな、自分という男は。
「…ごめん。」
「いいの、気にしないで。確かに世間的にはあまり歓迎されない結婚だったけど、私もシンジも望んでしたことだから。…ねえ、それよりも夜風にあたりに外へ出ない?」
「そうだな、酔い覚ましにはちょうど良いかもな。」
二人は連れ立ってカエルの声が鳴り響く屋外へ出て行った。
奇麗な星空が広がっていた。星光で周りの景色がぼおっと浮かびあがるように見えていた。東京ではこんな星空はプラネタリウムへでも行かない限り決して見る事はできないだろう。思わずケンスケは息を呑む。
「どうしたの?」
レイが呆けたような顔をして夜空を見上げているケンスケにたずねた。
「ん?ああ、いやあ、すごい星空だと思ってね。」
レイは不思議そうに小首をかしげた。
「そうかしら、私はこれが普通だと思うけど。」
「この村ではね。東京じゃあこんなすごい星空は望むべくもないよ。」
「そうなの?」
「人が眠らないからね、あの街では。」
「ケンスケも眠らないの?」
「俺?そうだな、俺も夜は眠らないかな。」
「寝ないで何してるの?」
「仕事だよ。企業のお偉いさんを接待して契約を取ってくるのが俺の仕事。しがない小さな広告会社の営業マンさ。そうだな、もし東京にいたら今の時間は銀座か六本木でお仕事かな。」
「楽しい?」
「わからないな、楽しいと思うときもあるし、苦しいと思うときもある。ただ……」
「ただ?」
「ただ、仕事で飲む酒は美味くないな。」
そう言ってケンスケは再び星空を見上げた。天の川の星の一つ一つまでがはっきり見える。レイもつられて空を見上げる。
しばしの静寂。
「…私ね、星を見ると思い出す事があるの。」
突然、レイが話し始めた。
「なにを?」
「昔、私に熱烈な愛の告白をした人がいたなあって。」
ケンスケは苦笑した。
「止めてくれよ、そんな10年も前の話は。」
東京へ出る前の晩の話だ。あの時もこんな星空が見えていたっけ。
「どうして?私、嬉しかったのよ。」
意外だった。レイがそんな風に感じていたとは。あんなにあっさりと振られたというのに。
「あの夜、ケンスケが私に言ってくれた事、憶えてる?」
「…忘れたよ。」
嘘だった。あの夜の出来事は全て脳裏に刻み込まれている。一世一代の賭けに出たんだ、忘れられるわけがない。
「私は憶えているわ。ケンスケ、確かこう言ったわね。『俺について来てくれないか』って。」
「そうだったかな。」
言葉とは裏腹にケンスケはそう言った時のレイの驚いたような表情をまざまざと思い出していた。
「そうだったわよ。」
「たとえそうだとしても俺はその時きっちりとレイに振られたよ。完膚なきまでね。東京に向かう夜行列車の中で俺はさめざめと泣いたよ。」
「…憶えてるじゃない。」
ケンスケはしまったという顔をした。
「………」
ケンスケは黙ってしまった。そんなケンスケを横目でちらりと眺めた後、レイは話を続けた。
「ごめんなさい、でもね私、今になって考える事があるの。あの時、ケンスケについて行けばよかったかなあって。」
レイのその言葉を聞くと、ケンスケは驚いてレイを見た。二人はしばし見つめあう。ケンスケはレイに手を伸ばそうとした。その手がレイに触れようとした時、レイはケンスケから視線を逸らした。レイのその様子を見てケンスケは我にかえった。
「それはどういう……いや、止めよう。レイにはシンジというれっきとした旦那様がいるじゃないか。」
レイは再びケンスケを見た。
「確かにシンジは私に優しくしてくれる。…でもね、シンジにはそれだけしかないの。それに私、時折不安になる。私はこのまま歳を取っていくのかなあって、子供を産んで育てて、毎日シンジが役場から帰ってくるのを夕飯を作って待って、家の事ばかり考えて、この狭い村の事しか知らないで。」
俺と同じだ、ケンスケはそう思った。レイはただもっと広い世界を見たいだけなんだ。ケンスケが世界の果ての向こうを知りたかったように。
「…そういうことか。」
ケンスケは嘆息した。期待した自分が恥ずかしかった。
「何が?」
レイは不思議そうに尋ねた。
「何でもないよ。…俺、帰るよ。」
ケンスケは10年前から自分が引きずってきた想いが断ち切れた事を感じていた。レイが求めているのは自分ではなく今より広い世界だという事がわかったから。
「待って。」
レイがケンスケを引き止めた。しかし、ケンスケは構わず帰ろうとした。
「待って!」
レイがケンスケの腕をつかんだ。ケンスケが振り返ると二人は自然と抱き合うかたちになった。二人の間に再び沈黙が訪れた。
「レイは、」
沈黙を破ったのはケンスケだった。
「もう遅すぎる。この村の引力は若くなければ断ち切る事はできない。30を目の前にしたレイにはもう無理だ。」
「そう…なの?」
ケンスケはゆっくりとレイから体を離した。
「そうだよ、それは変えようのない現実なんだ。今、レイに必要な事は現在の自分をしっかりと認識して、その上で自分ができる事を探す事だと思う。残酷なことかもしれないけどね。俺が言える事はこれだけだよ。…それじゃあ、また、いつか。」
ケンスケは自分の実家へと向かって歩き出した。レイは黙ってその姿を見送った。
星は10年前と変わらない光を放って輝いていた。
帰ってくる理由が一つなくなったな、ケンスケは家へ向かう道の途中でそんな事を考えていた。そして、村の引力がまた少し弱まった事も感じていた。その感覚をひとしきり味わった後、ケンスケの中に疑問が生まれた。村へ帰る理由、そして引力が無くなってしまったら、自分に帰る場所はあるのだろうか。…無いかもしれない。ケンスケはレイとは別の意味で不安に駆られる。
東京という都市とケンスケを結び付けているもの、それは仕事と恋人しかない。その事実がケンスケを愕然とさせる。その二つを失ったら自分に居場所は無くなってしまう、それはケンスケにとって恐ろしい事実だった。もちろん、現時点でそれは可能性でしかない。だがそれは可能性であるが故に現実に起こりうることだった。いてもたってもいられなくなってケンスケは電話を探す、あいにく携帯は車の中に置いてきている。公衆電話を探すためにケンスケは走りだす。
いくら走っても公衆電話は見つからなかった。この村には公衆電話さえないのか?ケンスケは悪態をつくと自分の携帯を求めて愛車に走った。その間もケンスケは不安に駆られていた。
幸い携帯はすぐに見つかった。ダッシュボードの上に置きっぱなしだった。ケンスケはそれを手に取るとメモリを検索して恋人に電話をかけた。ケンスケは携帯を耳に押しあてる。…通じなかった。液晶画面に目をやるとそれは圏外だという事を指し示していた。どこまでもついてない、ケンスケは車を走らせはじめた。どこでもいい、電波が通じるところまで。
ケンスケが着いた場所は峠の頂上だった。携帯の液晶画面には電波状態をあらわすアンテナがかろうじて一本だけ立っていた。メモリを検索して再び恋人に電話をかける。しばらくして呼びだし音が聞こえ出す。その音はわずかだがケンスケを安心させた。2回、3回、4回……呼び出し音だけがケンスケの耳に届く。
「…出てくれよ。」
ケンスケは焦れたように呟く。既に呼び出し音は10回を超えていた。
「頼むから出てくれよ。」
ケンスケの声を無視して呼び出し音は続く。30回はゆうに超えた。受話器が上がる気配はない。どうしようもなくなったケンスケは叫んだ。
「出ろよ!!アスカ!!」
その声は車内に空しく響いただけだった。
車の外では星々が冷たい光を放っていた。
世界の果てはその星々の光だけでは暗すぎて見えなかった。
<了>
後書き
ケンスケが主人公のSSをあまり見たことがなかったので一念発起して書いてみましたがいかがでしたでしょうか。すこしミスキャストの部分もあったかなあ、とも思ってますが、その辺りで違和感を感じた方はこれはこういう作品なんだと割り切ってくださると助かります。まあ、勘弁して下さい。さて、次回作ですがトウジものか『姉弟』の続編のどちらかを書こうかなと思っています。おそらく12月中になると思いますが、その時に再びこの部屋を訪れてくださると嬉しいなあ、なんて思っております。それでは。
1997.11. TITOKU
TITOKUさんの『トゥインクル トゥインクル リトル スター』、公開です。
珍しい、ケンスケ主役のSS。
凄く珍しい、ケンスケ主役のシリアスSS。
・・・
ケンスケといえば
[ギャグ要員]
[ラブラブの引き立て役]
でしたが、
シリアスストーリーにキメていましたね。
更に”ケンスケと言えば”にある、
[もてない]
がありますが・・・
アスカとレイと・・・!
レイの”思い”は違いますが、
それでも、やっぱり、惹かれる設定でした。
その魅力的な設定の上の物語り。
こちらも実に惹かれるのものでした(^^)
自分がそこにとどまる訳。
引力。
そうですよね・・・。
さあ、訪問者の皆さん。
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